2014年1月22日水曜日

「……の世界地図」について


 文春新書(文芸春秋)から「……の世界地図」というシリーズが出版されています(21世紀研究会編纂)。「民族の世界地図」(平成12) 「地名の世界地図」(平成12) 、「人名の世界地図」(平成13) 、「常識の世界地図」(平成13) 「色彩の世界地図」(平成15) です。このシリーズは、世界を色々な側面からとらえており、世界のさまざまな地域の特色を考える上で、大変参考になる本でした。以下、それぞれのシリーズの中で興味深いと思った部分を一部掲載します。

―「民族の世界地図」-

 「韓国人に「日本がまた侵略してくると思うか」と質問すると、大半の人が「そう思う」と答える。日本人にとっては「そんなことはできっこない」と思うことでも、彼らの日本に対する猜疑心はなかなか消えない。」

 「日本に生まれて日本語を母語とし、学校でも日本語を国語として習う。公的な言語はもちろん、日本語だけ。日本に住む大多数にとってはごく当たり前のことだが、たくさんの民族が共生する国ではそうではない。」「国語というものを特に定めていない国は圧倒的多数だし、国語があっても、スイスのように公用語と完全に重ならない国はめずらしくない。とくにインドやアフリカ諸国など、一つの国に多数の民族とそれぞれの言語があり、しかも植民地としての歴史が長く、旧宗主国の言葉も定着している国々では、当然、言語状況は複雑をきわめる。インドの場合、公用語のヒンディー語、準公用語の英語の他、アッサム語、ベンガル語、タミル語など、計17の憲法公認語があり、その多くが地方公用語となっている。もちろん、それ以外の少数言語も数え切れないほどあり、国民すべてが理解する共通言語は存在しない。」

「家族に固有の名をつけるという風習は、どの民族にも共通するものではない。中国では紀元前から庶民も姓を使用していたが、日本人に庶民の姓の使用が義務づけられたのは1871(明治4)のことだ。それ以前、人々は、家ごとの呼び名や通り名である屋号と合わせて、個人を呼んでいた。たとえば弥六(先祖の名による屋号)の権太郎とか、沢口(地形による屋号)のトメ、といった具合である。屋号は姓と似ているが、出自系統を示す姓とはまったく性質が違う。ヨーロッパでも、庶民が姓を用いるようになったのは、18世紀後半から19世紀にかけてのことだから、それほど古くからの習慣ではない。英語圏で分かりやすいのは、カーペンター(大工)とかスミス(鍛冶屋)とか、生業がそのまま姓になったものだ。ほかに地名やあだ名に由来するものも多いが、ひときわ特徴的なのは、最後にsonのつく姓である。Sonは息子、つまりロビンソンはロビンの、ニコルソンはニコルの息子というのがもとの意味である。」

―「地名の世界地図」―

「ウラジオストックと名づけられたこの都市名の意味するところは、「東方を征服せよ」なのである。」

「フランスの首都パリparisも、セーヌ川のシテ島に根拠をおいていたケルト系パリシィ族の名に由来している。シテ島のシテciteは「市」、パリシイは「乱暴者、田舎者」という意味だから、現在のイメージとはかなりかけ離れたものだったのである。」

 「ハワイHawaiiはポリネシア語で「神のおわす所」を意味するが、クックは発見当時の海軍大臣の名にちなんでサンドウィッチ諸島と名づけた。この大臣とは、食事の間も惜しんでカードに熱中したあげく、パンに具をはさんだファースト・フードを考案したといわれるサンドウィッチ伯爵である。」

 「アイヌ語の地名は、自然な状態が簡潔に表現されていたにもかかわらず、文字表記がなかったために、日本人が勝手に漢字をあてて複雑にしてしまった。……よく見られる「内 (ナイ)や「別(ベツ)」……などは地名をあらわすアイヌ語だが、ナイとベツは「川」……を意味する。有名なところでは稚内(ヤム・ワッカ・ナイ「冷たい水の川」のヤムの省略されたもの)、……登別(ヌプル・ペツ「濃厚な川、濁った川」)……などである。」

 「エジプトのナイル川の語源は、古代エジプト語にある。国土を流れる川がたった一本、それも下流のデルタ地帯にいたるまで、ただの一本も枝分かれすることがなかったため、川を呼び分ける必要がなく、ナイルはイル()に、ナという冠詞がついただけ、つまり「川」なのである。インダス文明をもたらしたインダス川も、サンスクリット語で「川」を意味するヒンドゥー語がそのまま川の名となったもので、これもただ「川」である。……ガンジス川もヒンドゥー語のガンガ()あるいは「川の女神ガンガ」を意味するが、いずれにせよ、これもただ「川」である。」

―「人名の世界地図」―

 「ヨーロッパでは、同じ起源の名前が各国で使われている。たとえばピーターという英語名は、新約聖書のペトロに由来する名前だ。ペトロは、イエス・キリストの使徒のなかでも傑出した立場にあるとされている。……そもそもシモンという名前だった彼がペトロという名前を与えられるとき、イエスは彼に「汝の名はペトロ()なり、その岩の上にわが教会を建てよう」と言ったという。そのため、殉教したペトロ()の上に建てられた教会を、サン・ピエトロ教会という。……キリスト教世界では、ペトロは長寿をもたらす者、天国の扉の番人として信仰されている。彼の名は、ドイツではペーター、またはペトリ、ペトリス、フランスではピエール、イタリアではピエトロ、スペインやポルトガルではペドロ、ロシアではピョートルとなる。」「こうした名前は各言語に適応した形で用いられるだけでなく、ひとたび伝統名として定着した名前は何世紀にもわたって使われ続ける。これも日本の命名習慣とは大きく異なる点だろう。そうした名前が、言語や世代を超えて使われてきたのは、キリスト教文化圏に共通した命名習慣による。それは直接には、個人名に聖人の名前が与えられる習わしによる。このように聖人、もしくは英雄、有名人の名にあやかって命名するという発想は、西洋文化に広く見られる記念物主義のあらわれかもしれない。つまりキリスト教社会の人名とは、社会で共有される記憶やイメージの結晶であって、親が願いをこめて創ってしまうようなものとは考えられていないのだ。」

 「欧米人は、中世以来このかた、数に限りのある名前のリストの中からどれかを選ぶという方法で命名してきたのである。……名前は原則として決められた人名リストのなかから選び、それ以外の名前をつけたいときは、申請して、承認を待つといった手続きが必要な国もいまだにあるのだ。」

 「現在中国の姓はおよそ6千といわれる。……その中でもよく使われるものは、2百くらいとされる。……多い姓のトップスリーは王、李、張で、……これを含む20の姓だけで、人口の半分を占めるという。」

 「1985年の調査では、大韓民国には225の姓しかない。……1988年の調査によると、一番多い姓は「金」で、……全人口の22パーセントにものぼる。二番目は「李」で、……こちらは全人口の約15パーセントだ。三番目の「朴」は、約9パーセント。この三氏を合わせただけでも、全人口の46パーセントを占める。」

―「常識の世界地図」―

 「日本人にとっては何気ないしぐさの一つなのだが、外国人にひどく嫌がられるものに、「指差し」がある。これは海外では、身分や立場に関係なく、決してしてはいけないとされているしぐさだ。」「ヨーロッパ人には、かつて、人差し指には毒があるので、傷薬などを塗るときに使ってはいけない、という俗信があった。また一般人に人差し指を突きつけるのは威嚇の身ぶりだとか、伸ばした人差し指は武器の象徴であり、戦うことも辞さないぞという宣告だとも考えられていたために、人差し指での指差しがとくに嫌われたのかもしれない。」「そもそも、指一本で行うしぐさが避けられる地域もある。インドなどでは、方向を示すのにあごを使うし、フィリピンでは唇をとがらせて方向を示す。アメリカ人がよくやるような、親指やあごによる指示は、私たちには、人差し指よりよほど横柄で無作法に見えるのだが、世界的には、人差し指で指示されることを侮辱や挑発ととらえる社会の方が圧倒的に多い。」

 「欧米人が食べたがらない食材をあげてみよう。まず、イヌ、ネコのような身近な動物を食べることへのためらいがある。このあたりは日本人の感覚とあまり変わりはない。イヌ料理は、韓国や中国、ベトナムなどが有名だが、……」「ネズミは、昔から、ペストとの関連で忌み嫌われて、不浄、不衛生だからネズミは食べないという民族はかなり多い。」「ウマは、ヨーロッパ人にとって、はるか昔からイヌに次いで親しい動物だった。ウマは賢く、訓練しだいでさまざまな仕事をこなす。有用なウシをヒンドゥー教徒が食べないのと同じ理由で、あるいは、そこにペット食へのタブーに近い感覚が加わって、彼らは食べなくなったのかもしれない。しかし、モンゴル人など、アジアの騎馬民族は、ウマに依存する生活を送りながらも、それを当然のように食用とする。」

 「外国人の目には、日本人の時間の正確さは、ときには異常に映るらしい。私たちには何でもないことなのだが、列車、バス、飛行機などが時間通りに出発することに驚く人も多い。時間にルーズな国から来た人には、心が休まらない正確さだというのだ。イギリスなども、個人的には時間に正確だが、電車、バスなどの発着はかなりいいかげんだ。」

―「色彩の世界地図」―

 「「色」。この漢字は、うずくまる女性に男性がおおいかぶさる形をあらわしたものだ。つまり男女和合のようすをあらわしており、そのまま性的なことを意味するときにもちいられている。やがて「色」ということばの範囲は広がり、「色に出る」というように、人の内面が顔に出た状態や、目に入ると心を動かされるさまざまな彩りも、そのなかに含まれるようになった。色には、よくも悪くも人の気持ちを揺さぶる力がある、ということだろう。

 「英語のカラァーcolorについてもみてみよう。こちらの語源となっているラテン語の意味は「おおい隠すもの」である。何かの外側を塗ることによって何かを隠す顔料などを指していた言葉だったことが想像できる。

 「現在では素材の岩石がむき出しになっている古代エジプトの遺跡も、木に塗られた絵具が褪せてしまった日本の古寺も、当時はある一定のきまりにもとづいて彩色されていた。石や木を特定の色でおおうことによって、それは、ただの石の塊や木材を超えるものになったのだ。人もまた、色を塗ることによって別のものに化ける。それは「化粧」という言葉にあらわれている。」「色には呪術的な力があり、その視覚的効果から、何かを象徴するものに利用されてきたのである。さまざまに染められた衣服を身につけるだけでも、その人に特別な性質が加わると考えられてきた。身分の高さをあらわす色もあれば、差別する色もある。」

 「人の生も、さまざまに彩られている。「赤子」「緑児」「青年」「青二才」は普通に使われている言葉だ。」

 「異なる文化においても、人間の本能的・心理的な面で、赤が血に結びつき、危険を予知させる色であることや、黒が暗闇につながり、死や恐怖など負のイメージをもつことは、ほぼ共通している。しかし、赤が危険を象徴するといっても、中国では慶事に欠かせない色であるし、日本でも神社の鳥居は赤い。」

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