これは、2004年に中国で公開された映画で、最近話題となっているチベットの自然保護に関する、事実に基づいた映画です。舞台となったのは、海抜4700メートルの山肌で、チベット・カモシカの生息地です。「ココシリ」とは、モンゴル語で「美しい少女」、チベット語で「青い山々」という意味だそうです。
チベット・カモシカの毛は、最高のカシミアとして欧米人に愛好されていたため、密猟が絶えず、チベット・カモシカは絶滅の危機に瀕していました。しかし、政府は密猟対策にはあまり積極的でなかったため、民間人が私設警察隊を組織し、ほとんど無償で集まった人々とともに、日々命がけで密猟の取り締まりにあたっていました。集まった人々は、元軍人や学生・タクシー運転手など多彩であり、彼らが活動する場所は氷点下20度、空気の薄さは平地の3分の1という過酷なところです。隊員たちは、この美しい自然を守りたいという一心で、この地に集まったのです。
ある時、隊長が殺害され、このことがマスコミで報道されて、世界の人々は初めてこの問題の重要性に気づきました。その結果、欧米諸国はチベット・カモシカの毛の輸入を禁止し、ようやくチベット・カモシカの保護が行われるようになりました。ほんの僅かな人々の命を賭けた行動が、世界の世論を動かしたのです。
この映画は、色々な問題を我々に提起しています。まず、誰が一番悪いのか、ということです。もちろん、直接的には密猟者が悪いのですが、彼らはみな貧しく、密猟しなければ食べていけない人々です。彼らが命がけで手に入れた毛は、僅かな金額で仲介業者に買い取られ、欧米で高値で取り引きされます。そして密猟者は、どんなに厳しく取り締まられても、生きていくために密猟を続けざるをえません。話が飛躍しますが、麻薬の栽培についても同じで、農民は麻薬を栽培しなければ生けていけないから栽培するのです。密猟者も麻薬栽培者も、グローバル化した近代世界システムの中で生きている以上、現金収入なしには生きていけません。したがって、彼らに密猟や麻薬栽培を止めさせるには、それに代わる仕事を与えることが不可欠なのです。
毛を買い取る仲介業者にも問題はありますが、こうした人々は、どこにでも、どんな時代にも存在し、彼らは利益のためならどんなことでもするでしょう。最も悪いのは、より良質の毛を手に入れようとする欧米人かもしれません。かつて欧米人は、ラッコやクジラなどを絶滅の危機に追いやり、自然を破壊し、さらに大量の化石燃料を使用して、富と文明を築きました(この点では日本も同様です)。そして今日、低開発諸国が近代化を進めようとする時、すでに近代化を果たした我々は環境破壊の危機に警鐘を鳴らします。しかし、警鐘を鳴らすだけで問題が解決するのでしょうか。もし本当に我々が危機を感じているとするなら、我々自身が大きな犠牲を払わなければいけないのではないでしょうか。そして、グローバリゼーションという現実を前にして、人間が自然と共生できる新しい秩序を生み出す努力をする必要があるのではないでしょうか。
日本も欧米諸国と同様に、さかんに環境保護を訴え、この分野で主導権を握りたいと考えています。しかし日本の政府は、環境保護に必ずしも積極的とはいえないように思われます。日本を含めた先進諸国が環境保護の主導権をめぐって競争している背景には、低開発国に環境保護技術を輸出するという目的が見え隠れします。環境保護は、今や大きなビジネス・チャンスを提供しつつあるのです。これがグローバリゼーションにおける自由競争であり、先進国による環境保全のアピールの実態なのです(必ずしも、それだけとは言いませんが)。こうした発想そのものを転換しない限り、本当の意味での自然との共生は不可能なのではないかと思います。「ココシリ」は、このことを我々に示唆しているように思われます。
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