2018年2月28日水曜日

「中国史の目撃者 毛沢東から鄧小平まで

ジョン・ロドリック著 1993年 山田耕介訳 TBSブリタニカ 1994
著者はアメリカのジャーナリストで、1941年にイギリスのチャーチルとアメリカのF.ローズヴェルトとの大西洋会談に立ち会いましたが、当時彼はまだ駆け出しでした。その後、アメリカのCIAの前身である戦略事務局(OSS)でスパイの訓練を受け、中国に派遣されました。このOSSについては、このブログ「映画でアメリカを観る(7) グッドシェパード」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/02/7.html)を参照して下さい。第二次世界大戦が終わると、著者はジャーナリストに戻り、そのまま中国に残って取材を続けます。
 中国では、以前から多くの欧米人が取材し、多くの名著が書き残されており、ここでも何冊かを紹介しました。
モリソン「「ゴッドと上帝」を読んで」
ジョンストン「「紫禁城の黄昏」を読んで」
エドガー・スノー「中国の赤い星」
スメドレー「「偉大なる道 上下」を読んで」
パール・バック映画「大地」を観て」
ニム・ウェールズ「中国に賭けた青春」を読んで
 これらはすべて戦前に取材されたものですが、本書は戦後の1945年からの取材によるものです。当時、重慶に拠点があった蒋介石、延安を拠点にする毛沢東が、将来の中国について話し合っていました。著者は延安で、毛沢東、周恩来、朱徳などと親しく交わります。本書は毛沢東について、次のように述べています。「古い中国のロマンスと冒険譚に胸躍らせた農民の子、土臭い大読書家。教師あがりの実践的革命家、朱徳と並ぶ紅軍創設者。古典派詩人にして京劇愛好家。革命の方向と手段をめぐる説教本シリーズの作家。取り巻きに親友らしい親友を持たない孤独な男。権力に餓え、猜疑心強く、お世辞を鋭く嗅ぎ分けながら、抗し切れなかった男。それが毛だった。」こうした評価が正しいかどうかは分かりませんが、この時代には、個性と能力に溢れた人々が、能力の限りをつくして闘った時代、まさに英雄たちの時代だったと思います。中国の何千年もの歴史の過程で、王朝が交替する度に、同じ様なドラマが繰り返されてきたのだろうと思います。
 その後中米関係が悪化すると、アメリカのジャーナリストは中国から追放され、そのため著者は、日本に住んで中国ウォッチャーを続けました。エドガー・スノーやスメドレーの作品は革命の真っただ中で書かれましたので、大変迫力があります。それに対して本書は文化大革命も天安門事件も目撃した上で書かれていますので客観性があり、今日の視線で中国革命を見直すことができます。

2018年2月24日土曜日

映画「シビル・ガン 楽園をください」を観て

1999年にアメリカで制作された映画で、ミズーリ州での南北戦争を扱っています。私が知らないだけかもしれませんが、アメリカ独立戦争や南北戦争を扱った映画は少なく、南北戦争に関しては、このブログでは 「映画でアメリカ史を観る(3)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/01/3.html)「風と共に去りぬ」「グローリー」「ロード・トゥ・ヘブン」「ダンス・ウィズ・ウルブズ」について書いていますが、この内南北戦争そのものを扱っているのは「グローリー」だけです。この映画はミズーリ州の南北戦争という、日本人には非常に珍しいテーマを扱っていますが、ただ、邦題の「シビル・ガン 楽園をください」は全然意味が分かりません。原題は「Ride with the Devil」です。
ミズーリ州の南北戦争については、「映画でアメリカを観る(4)  ジェシー・ジェームズの暗殺」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/02/blog-post_7.html)を参照して下さい。ミズーリ州は、奴隷州ではありましたが、一人の農場主が所有する奴隷は5人以下という場合が多く、奴隷制が経済の根幹を形成していた分けではありませんでしたので、南北戦争に際して、北軍につくか南軍につくかで意見が分かれ、結局州としては北軍を支持しすることになりました。それに対して、南軍を支持する人たちはゲリラとなって北軍と戦いますが、その中にジェシー・ジェームズもいました。彼は、186416歳の時に兄とともにゲリラに参加し、戦争が終わった後にも、彼は兄とともに銀行強盗、列車強盗を繰り返し、民衆の間では憎い北部を苦しめる義賊として、大変人気がありました。
話が逸れましたが、南北戦争ではそれぞれの側が大義を掲げ、お互いに見知らぬ兵士同士が戦場で激突しましたが、ミズーリ州での戦いは憎しみと復讐によるものでした。隣同士、顔見知り同士が殺しあったのです。ドイツ系移民のジェイクは、親友のジャックの父親が北軍に殺され、復讐のため南部側ゲリラに参加します。多くの人々が、さまざまな動機から北軍への憎しみと復讐心を抱いて、ゲリラに参加して戦います。相手は軍隊だけでなく、民間人も殺害され、憎しみと報復の連鎖が拡大していきます。そうした中で、人々はローレンスの虐殺へと向かっていきます。
ローレンスは、ミズーリ州の西隣にあるカンザス州の町です。カンザス州は、南北戦争が始まる前から、奴隷州になるか自由州になるかで激しく対立してきた町です。そうした中で、ローレンスには奴隷制反対論者が集まり、カンザス州や隣のミズーリ州のプランテーションを襲ったりしていたため、南軍派の憎しみの対象となっていました。そしてこの憎しみを増幅させる事件が起きました。北軍は、南軍ゲリラを援助し便宜を図った者なら誰でも逮捕することを命じており、このことは主にゲリラの親戚である女性や少女を対象にしていましたが、彼女たちが収容されていた女子刑務所が老朽化していたため、建物が崩壊して何人かの少女が死亡したのです。これをきっかけにゲリラたちが集結し、ローレンスを襲って復讐することを決定します。
ゲリラたちは24時間一睡もせず馬でローレンスに向かい、そのまま一斉にローレンスに雪崩込みました。まさに彼らは「悪魔とともに馬に乗り」、虐殺、放火、略奪を繰り返します。戦いが終わった後、ジェイクのように個人的な憎しみからゲリラに参加した人々は、その結果の凄まじさに唖然とし、新しい人生を求めて去っていきます。また一方で、殺人と略奪に魅せられて、無法の道に転落していく人々もいました。ジェシー・ジェームズのような人です。
南北戦争は、教科書的には奴隷制を支持する南部=悪と、奴隷解放を支持する北部=善との戦いとして捉えられますが、戦争の現場ではそれ程単純ではありませんでした。特にカンザス州やミズーリ州のような中間的な地域では、問題は一層複雑でした。この映画は、南北戦争のこうした複雑な様相を描いており、大変興味深い内容でした。


2018年2月21日水曜日

「メンデルスゾーン家の人びと」を読んで


ハーバート・クッファーヘバーグ著、1972年、横溝亮一訳、東京創元社、1985
 メンデルスゾーンは、19世紀のドイツで活躍したロマン派の音楽家で、本書もこの音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの生涯について述べていますが、本書のテーマは、この大音楽家を生んだユダヤ人の家系、メンデルスゾーン家の人々です。
 メンデルゾーン家の初代、つまりフェリックスの祖父モーゼスは、1743年に14歳の時、一人でプロイセン王国の首都ベルリンにやってきます。彼は独学で哲学や宗教学を研究し、ユダヤ教の宗教的慣習を近代化し、今日の改革派ユダヤ教成立の糸口をつくりました。彼は商業でも成功し、ベルリンでも名の知られた名士となります。そのため姓をメンデルスゾーンとし、ここにメンデルスゾーン家が成立することになります。彼は成功したユダヤ人ではありましたが、子供たちに十分財産を残せるほど豊かではありませんでした。しかし息子のアブラハムは銀行家として成功し、ロスチャイルド銀行と並ぶほどの資産家となります。
 こうした中で生まれたのがフェリックスですので、彼は上流社会で何不自由なく自らの才能を発揮することができました。若いころから人々に認められ、栄光の内に生涯を終えることができました。そうしたメンデルゾーンでしたが、やはりユダヤ人としての影が付きまといます。特に、彼の死後ではありますが、ワーグナーのメンデルスゾーン批判は、
「ユダヤ人はすべて真の芸術の敵である」という、きわめて非芸術的な根拠による批判でした。しかしこの見解は広くドイツ人に受け入れられ、ヒトラー時代を頂点に、1世紀にわたってメンデルスゾーンの音楽は抹殺されることになります。
 本書は、1819世紀におけるユダヤ人の生き方を描いています。メンデルゾーン家の多くはすでにキリスト教に改宗していましたが、それでも周囲から見れば彼らはユダヤ人でした。また、メンデルスゾーン家は、成功したユダヤ人の家系であり、上流階級に属する人々でしたが、それでも色々な差別を受けましたので、下層階級のユダヤ人への差別はもっと露骨だっただろうと思われます。我々日本人には、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題というのは、非常に理解しにくい現象だと思います。

2018年2月17日土曜日

映画「アレキサンダー大王」を観て

1980年にギリシアで制作された映画で、監督はテオ・アンゲロプロスという高名な監督で、この作品も名作とされています。この映画は208分という長編で、私にとっては「映画「ルートヴィヒ」を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/02/blog-post_27.html
以来の退屈な映画で、意味もよく分かりませんでした。
 映画の時代は1900年で、いよいよ20世紀になったということになっています。厳密にいえば20世紀は1901年から始まるのですが、この際それはどうでもよいことです。ギリシアには古代ギリシアの栄光の時代がありましたが、その後さまざまな民族の支配を受け、16世紀以降はオスマン帝国の支配下にありました。1830年、実に1900年ぶりにギリシアは王国として独立し、19世紀末から20世紀初頭にはトルコと争って領土を広げます。この時代のギリシアの社会について私は何も知りませんが、おそらく多くの矛盾を抱えたいたものと思われます。そして、はっきり言えることは、この時代のギリシアはかつての栄光の古典ギリシアとは何の関係もない別物ということです。
 舞台となったのはギリシア北部の山間の寒村です。この村出身の20数人の盗賊(義賊)が監獄から脱獄し、その指導者が自称アレキサンダー大王です。不思議なことに、脱獄すると、彼のために鎧兜や白馬が用意されていました。一体誰が用意したのでしょうか。また、途中彼らはイギリスの貴族を何人も人質にして、政府に彼らの恩赦と身代金を要求します。そして彼らは故郷の村に帰ります。ところが村では「先生」(インテリ)と称する人物が「共産村」を築いており、土地も羊も村の共同所有、労働は広場の時計に従って規律正しく行われます。これでは大王たちの居場所はありません。
 村は政府の軍隊によって包囲され、大王と先生が対立し、村人も厳格な規律の下に置かれた共産村にうんざりしていました。こうした行き詰った状況の中で、大王は人質全員を殺し、独裁を強め、軍隊と戦い、結局大王は村人によって殺されます。この間先生も殺されて共産村は崩壊します。最後に村のアレキサンダーという名の少年が一人で村を出て行き、「こうしてアレキサンダーは町へ入って行った」という字幕が出て、映画は終わります。ギリシアは近代へと向かっていった、というような意味なのでしょうか。
 映画は、抽象的な演劇の舞台を観ているようで、印象的な場面が何度も映し出されますが、それが何を意味しているのか、よく分かりません。結局時代錯誤的なアレキサンダーは政府に操られて脱獄し、共産村を破壊するように仕向けられ、それを果たして死んでいったということでしょうか。どうも「巨匠」と呼ばれる人の「大作」と呼ばれるような作品は、私には向いていないようです。

 なお、第一次世界大戦後のギリシアは、共和制になったり王制になったりして政情不安定で、第二次世界大戦ではドイツ・イタリアなどに占領され、戦後は共産主義と右派との内戦となり、米ソ冷戦の先駆けとなりました。その後しばらく安定した時代が続きますが、1967年に軍部がクーデタを起こし軍事独裁体制が成立しますが、1970年代に経済が低迷すると国民の不満が高まり、1974年に軍事独裁体制は崩壊し、さらに国民投票により王制を廃止し、共和制に移行します。この映画には、監督自身が生きたこの時代の混迷が反映させているのかもしれません。

2018年2月14日水曜日

「シベリウスの生涯」を読んで

ハンヌ=イラリ・ランピラ著、1984年、稲垣美晴訳、館野泉監修、筑摩書房、1986
ジャン・シベリウスは、フィンランドが生んだ偉大な作曲家です。1865年に生まれ、1957年に92歳で死没するまで、フィンランド音楽を世界の音楽のレベルまで高めていきました。20世紀になるまで、フィンランドは独立国家を形成したことがなく、フィンランド人としてのアイデンティティも文化も存在しませんでした。フィンランドについては、「映画「四月の涙」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/10/blog-post.html)を参照して下さい。それでも19世紀になると、フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」が編纂されて民族的自覚が形成され、フィンランド語が普及していきます。こうした時代に、シベリウスは生まれました。
「作曲家ジャン・シベリウスの誕生は、神秘的な謎のようだ。民族の文化がまだ芽生えたばかりの、人口の少ない僻遠の地フィンランド大公国へ、シベリウスは最適の時に生まれ出ずることができたのである。まさに、国の文化が存在感を確認するために、偉大な芸術家たちを必要としていた。民族的自覚に目覚め、民族独自のアイデンティティーや独立への希望を確認する助けとなるような、力強い芸術的シンボルを待ち望んでいたのである。ロシア化時代、シベリウスの音楽は、未来を信じ続けるフィンランドの自由幻想と自由闘争の暗喩となった。
この文章に見られるように、著者はこの上もなくシベリウスを崇敬し、彼の生涯を叙情的に描いています。ただ、予備知識がないと、少し読み辛いかもしれません。


2018年2月10日土曜日

映画「コン・ティキ」を観て

2012年にノルウェーで制作された映画で、実在したノルウェーの人類学者ヘイエルダールの冒険物語です。













まず、この映画の舞台となったポリネシアについて触れておきたいと思います。ポリネシアは、ハワイ、ニュージーランド、イースター島の三点を結ぶ三角形の海域で、その中にタヒチを含む多くの島々があります。「ポリ」とは「多い」という意味で、分子量が大きい高分子からなる物質をポリマーといい、合成高分子としてはポリエチレンなどがあります。またネシアは島々という意味で、インドネシアはインドの島々で、したがってポリネシアは多くの島々という意味です。ポリネシアに住む人々はモンゴロイド系の人々で、台湾に定住していた人々が、紀元前2500年ころから新たに進出してくる人々に押されるように海上に進出し、太平洋の島々に定住するようになりました。長い年月をかけたとはいえ、これ程広い海を移動するには、相当の航海技術があったと思われます。

 ノルウェーの若い人類学者ヘイエルダールは、ポリネシアに滞在中にポリネシアの文化が南米のインカ文明に類似していることに注目し、ポリネシアの人々はアメリカ大陸から移住してきたのではないかと考えるようになります。考えてみれば、はるか昔にベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸にやってきた人々も、モンゴロイド系の人々でした。しかし、ポリネシアの人々がアジアからやってきたという学説は確立していること、さらに何千年も前の人々に何千キロもの航海は不可能であるといったことから、彼の主張は学界では受け入れられませんでした。








そこで彼は、16世紀のスペイン人がインカ帝国で使用されていた船を再現し、ペルーからポリネシアまで航海することになりました。現地の材料のみで制作された筏はコン・ティキと名付けられ、それはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名だそうです。1947428日、ヘイエルダールと5人の乗組員がペルーの港を出港しました。ほとんど素人ばかりでした。船は筏であるため、方向を自由に操ることはできませんので、まずフンボルト海流で北上し、途中で赤道海流に乗り換えてポリネシアに入ります。筏には無線機が積み込まれており、彼らの行動は全世界に伝えられていました。そして出発してから101日目、87日に筏はポリネシアに到達します。
 筏には撮影機も持ち込まれており、これを編集したドキュメンタリー映画は、アカデミー賞を受賞しました。ヘイエルダールの書いた「コン・ティキ号漂流記」は、何と5000万冊も売れました。実は私も買って読んだのですが、書棚を探しても見つかりませんでした。文庫本なので、どこかに紛れ込んでいるのでしょう。その後学界では、ポリネシア人のルーツを巡って大論争が展開されましたが、結局ポリネシア人のアジア・ルーツ説は覆らず、南米とポリネシアとの間に一定の交流があったことは否定できない、ということになりました。
 ただ、ヘイエルダールの功績は、二つのことを我々に教えてくれます。一つは、古代人や現在の未開人の場合でも、現在の我々の技術を基準にして考えると不可能と思われるようなことを、やってのけるということです。我々は、まさかあんな時代にそんなことができるはずがない、という偏見を捨てなければならないということです。もう一つは、古代人にとって海は障壁ではなく道である、ということです。シルクロードの砂漠地帯を徒歩で渡ることも、船で海を渡ることも、同じくらい危険なのです。

 その後ヘイエルダールは古代エジプト文明とアステカ文明の類似性に着目し、エジプトの葦で造った船「ラー号」でカリブ海に到達し、さらに葦で造った「チグリス号」でインド洋を公開するなどしました。まったく懲りない人ですね。彼は人類学者というよりは、冒険家というべきかもしれません。

2018年2月7日水曜日

南京大虐殺を読んで

 私の書棚にあった南京大虐殺に関する本を3冊読みました。南京大虐殺に関する本は数えきれないほどあり、すでに私も読んだことがあるのですが、ここでもう一度智識を整理しようと思い、ウイキペディアの三つの項目「南京事件」「南京事件論争」「南京事件の証言」を読みました。この三つのテーマで、ほとんど本一冊部分の量があり、諸説入り乱れて、かえって分からなくなってしまいました。特に犠牲者の数に関する議論は「為にする議論」が多く、これでは犠牲者が浮かばれないだろうと感じました。
 19377月に北京郊外で起きた盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争が始まりました。さらに8月に上海事件が起き、11月に上海を制圧すると、休む間もなく中華民国の首都南京の制圧に乗り出したのです。そのため補給路が十分確保できず、食糧は現地調達ということになったのですが、それはつまり略奪です。村々が略奪され、ついでに婦女暴行と虐殺が行われました。虐殺はすでに始まっていたのであり、この時の数を南京大虐殺にいれるかどうかで、総数が異なってきます。いずれにせよ、1210日に南京攻撃が開始され、13日に陥落、それからおよそ2カ月にわたって、南京とその周辺で虐殺、略奪、暴行が繰り広げられます。
 南京大虐殺については、当時日本ではほとんど知られておらず、戦後の東京裁判でその事実が知らされ、国民に大きな衝撃を与えました。その後南京大虐殺についてあまり関心がもたれませんでしたが、1980年代に再び注目されるようになります。1982年に文部省が日本史の教科書に関して、日本の中国への「侵略」を「進出」と書き直させたという報道がなされました。この報道は誤報だとも言われていますが、真相は私には分かりません。いずれにしても、これをきっかけに中国が日本の教科書における南京大虐殺に関する記述に不満を表明し、南京大虐殺について関心が高まりました。ここで紹介した本は、すべて1980年代に出版されたものです。

 なお、南京大虐殺は無かったとする人々がいますが、一般的にはこうした主張は支持されていません。こうした人々は、アウシュヴィッツでのユダヤ人抹殺はデマであるとか、アンネ・フランクは実在しないなどと主張する人々と同じだと思います。


中国/南京市文史資料研究会編、1983年、加々美光行・姫田光義訳、青木書店(1984)
 本書の目的は、著者が「あとがき」で述べているように、「日本軍による南京大虐殺の歴史資料を比較的系統的に保存することのほか、真実の歴史的事実を用いて人民に愛国的教育を行い、もって祖国を守り、平和を守るための認識と信念を高めることに着眼点をおくものである。……わたしたち中国政府と人民は、いずれも中日の友好を主張するものである。」
 本書は南京虐殺の生き残りの証言や慈善団体の埋葬記録などに基づいて、40万人が虐殺されたとしています。中国政府の発表は30万人以上ですので、日中関係の現状を配慮して、本書は当初内部発行扱いとなりました。なお、この年に南京で南京大虐殺記念館が創設されますが、本書との関係については知りません。
 虐殺された人々の数についての議論は止めておきますが、いずれにしても、こうした知りうる事実を積み重ねていくことが大切なのだと思います。

曽根一夫著、1984年、彩流社
 タイトルに「続」とありますから、当然本編があるわけですが、たまたま私の書棚にあったのが、この本だったということであり、私は本編を読んでいません。
 本書は、著者自身が一兵士として南京攻略に参戦し、著者自身が見聞し体験したこと、南京に向かう際の兵士の心情、食糧を強奪し、女性を犯し、村人を殺害し、村を焼く時の心情が描かれています。そして著者自身もこれらに参加したことを告白しており、二十歳を超えたばかりの若い兵士が戦塵にまみれて急速に変貌していく姿を描いています。もし、私自身が一兵士としてその場にいたら、私も筆者と同じように振舞ったでしょう。そして、一生この件については口を閉ざし続けただろうと思います。筆者自身が言うように、虐殺された中国の人々の怒りは当然ですが、加害者もまた、ある意味では被害者なのだとおもいます。
 本書は、本編も含めて、出版直後から多くの批判を受け、書かれていることは嘘だと主張する人たちがいました。もちろん部分的な誤りはあるかもしれませんが、全体としてここで述べられていることが間違っているようには思えません。むしろ、こうした記録を書き残した勇気を讃えたいと思います。


郁彦(はた いくひこ)著、1986年、中公新書
 著者は日本近代の軍事史の専門家だそうで、部隊の配置や動きなどを通して、南京で起きたことを説明しようとしています。その際、タイトルを「南京大虐殺」ではなく南京事件とし、そこで起こったこともアトローシティ、つまり戦争においての残虐・残忍行為とします。南京事件で起きたことは、虐殺だけではない、ということです。
 虐殺された人々の数については、利用しうる資料の範囲内で3万人と推測しており、中国側の発表とはずいぶん違いがありますが、筆者は、新しい資料が出れば追加すると述べています。被害者の数については、一つ一つ事実を積み重ねていくしかないと思います。もちろん、3万人でも十分大虐殺です。
 南京事件の原因について色々語られていますが、どれもこれ程の惨事に至るには不十分のように思われます。筆者があげている原因の一つは、「昭和の日本軍は近代国家における近代的軍隊の資質を欠いていた」ということです。「他者への配慮と自立能力の不足、いいかえれば国際感覚の欠如と「下剋上」の現象であった。日清・日露戦争時代の日本軍は、神経質と思われるほど国際関係に注意を払い、とくに国際法規を守ることに熱心だった。それによって早く欧米先進諸国へ仲間入りする資格を獲得し、国民的悲願だった条約改正を実現したいという実利上の配慮もあった。しかし国際連盟脱退を転機として「世界の孤児」となった日本は、国際関係に配慮する精神的余裕を失ってしまったかに見える。しかも孤立への反動として狭量な日本主義、国粋主義の風潮が台頭し、青年将校たちの心をとしらえた。それに満州事変と派閥抗争の所産である「下克上」が結びつけば、不軌暴走は避けられれない。」


2018年2月3日土曜日

映画「ヴェロニカ・ゲリン」を観て

2003年にアメリカで制作された映画で、アイルランドで麻薬犯罪に取り組んでいたヴェロニカ・ゲリンというジャーナリストが、1994年殺害されるという実際に起きた事件を題材としています。この映画には、いわゆるアイルランド問題は直接関係がないため、ここではアイルランドの歴史を語るのは止めておきます。














ヴェロニカは、当時のアイルランドに蔓延していた麻薬の密売の実態を暴くために、取材を行っていました。当時麻薬は子供たちにまで蔓延しており、その原因はよく分かりませんが、当時アメリカ資本の流入によって経済が急成長し、社会的な格差が拡大したためかもしれません。映画はそうしたことには触れず、ヴェロニカが麻薬の密売組織に直接取材し、さらに猪突猛進的に黒幕の家にまで押しかけて、その結果彼女は殺害されるまでを描きます。彼女の殺害をきっかけに、民衆の麻薬撲滅運動が起き、さらに政府も憲法を改正して麻薬撲滅に力を注ぐようになります。
 しかしこの映画が述べたいのは、それだけではないように思われます。映画は、1996626日のダブリンの裁判所にヴェロニカが呼び出されたところから始まります。彼女は、1200回の駐車違反と170キロ前後のスピード違反2回で、免許の取り消しは確実でした。しかし彼女は、裁判所に顔の利く人物を通して頼み込み、結局僅かな罰金の支払いで終わりました。そしてここには二つの問題があるように思います。一つは、当時のアイルランドにおける法律の不備と執行のルーズさで、犯人が誰か分かっていても捕らえられず、捕えてもすぐ釈放されてしまいます。これが犯罪の横行を招くことになります。そしてもう一つは、彼女自身のルーズさです。法を破りまくっている彼女が、法を破る犯罪者を新聞で告発するということの矛盾です。
 話は2年前に遡ります。すでに彼女は暴露記事で有名になっていましたが、今度は麻薬犯罪組織の暴露記事を書くことを目指していました。映画で描かれた彼女は猪突猛進型でしたが、同時に二つの問題を抱えていました。一つは、ジャーナリストとして真実を追求したいというより、名声を得たいという欲望の方が勝っていました。もう一つは、あまりに世間知らずで、無謀すぎました。誰もが口にするのも恐れる犯罪組織の大物ジョン・ギリガンの名を知るや、彼女は彼の屋敷に忍び込み、本人に直接インタビューしたのです。怒ったギリガンは部下に彼女の殺害を命じ、1996626日例の裁判が終わった後、車で帰る途中、彼女は射殺されました。裁判長は、彼女のために車の運転免許証を取り上げておくべきでした。

事件後ヴェロニカは英雄となり、麻薬撲滅対策がとられ、ギリガンも逮捕されました。しかしギリガンは12年後の2013年に出所しました。写真は出所したときのギリガンのようです。そして彼は相変わらず豊かな生活を送っています。今日のアイルランドでの麻薬の売買は、以前ほどではありませんが、EU加盟国の中では4番目に多いそうです。
 映画は最後に字幕で、「ヴェロニカの死後6年の間に、世界中で196人以上の記者が殉職した」と述べています。ジャーナリストは、時には命の危険に晒されることもあります。したがって、ジャーナリストは常に慎重に行動し、まず自分の命を守ることが大切だ、と言っているのではないでしょうか。