2019年4月27日土曜日

中国映画「西洋鏡」を観て

2000年に制作された中国・アメリカの合作映画で、中国系アメリカ人の女性監督によって制作されました。この映画は、中国で最初の映画(西洋鏡・活動写真・Shadow Magic)がどのように制作されたかを語っています。
1891年にアメリカのエジソンが映写機を発明して以来、映画は急速に発展し、早くも1896年には日本にもたらされ、1898年には最初の映画が撮影されました。中国でも、1896年に初めて映画が上映され、1905年に北京の写真館で京劇が撮影され、これが中国最初の映画とされます。この映画は「1905年に北京の写真館で京劇が撮影され」という事実をもとに、中国における映画の誕生を語っています。
 この映画の主人公は、豊泰写真館で働くリウ()で、彼は腕のいい写真技師で、また京劇の役者の娘に恋をしていました。そして1902年、この写真館にレイモンドというイギリス人が訪れ、西洋鏡なるものを紹介します。レイモンドは、映画に熱中して借金を重ね、妻子に逃げられたため、一旗あげるために中国にきていました。レイモンドから西洋鏡を見せられたリウは、映画に熱中し、北京でも映画が大評判となりますが、それはリウにとって恩のある写真館の主人を裏切ることであり、恋人の父である京劇役者のライバルとなることでもありました。
 リウは苦しみながらも、レイモンドとともに映画の撮影と上映に熱中します。そして二人で万里の長城の撮影に行ったとき、レイモンドはリウに言いました。「中国に今必要なのは、中国のすばらしさを世界に伝えることだ。変貌する前の姿を記録にとどめ、世界中に見せることだ」と。その後レイモンドは、ある事件をきっかけに中国から追放されますが、リウはレイモンドの仕事を引き継いで、映像を撮り続けます。彼が撮ったのは、北京に住む普通の人々の日常生活であり、また中国の美しい風景でした。彼の映画は大評判となり、結局北京の写真館が、1905年に京劇を撮影し、これが中国最初の映画となります。

 すでにこの時代に京劇は衰退しつつあり、映画の普及は京劇の衰退を決定的なものとしましたが、その映画という新しい技術が、伝統的な芸術を後世に残す役割を果たしたわけです。この映画の監督は、映画の主人公と同様に、多分中国の伝統と映画をこの上なく愛していたのだと思います。映画は全体にコミカルなタッチで描かれていますが、感動的で良くできた映画だと思います。

2019年4月24日水曜日

「アンティキテラ 古代ギリシアのコンピュータ」を読んで


ジョ-・マーチャント著 2008年、木村博江訳 文藝春秋 2009













 アンティキテラとは、ギリシアのペロポネソス半島とクレタ島の間にある小島で、その沖合で1901年に沈没船が発見され、この沈没船の中で奇妙な「機械」が発見されました。本書は、この機械の発見からほぼ全容が解明するまでの、ほぼ100年の歴史を述べています。

 本書は潜水技術の発展の歴史やサルベージ技術の発展などが、いかにこの「機械」の発見に貢献したか、というところから述べます。その後、この機械らしきものについて多くの人が魅せられ、多くの研究者が機械の謎の解明に挑み、挫折していきました。研究が挫折した最大の理由は、機械の腐食が激しかったこと、さらにいつもの偏見、つまり古い時代にこんなものが作れるはずがない、という偏見が邪魔をしました。
 しかしたゆまぬ努力と技術の進歩で、少しずつ機械の正体が解明されていきます。まず放射性炭素年代測定法の開発により、沈没船が紀元前2~3世紀頃のものであることが判明します。その後長い空白の時代を経た後、高解像度X線断層撮影が行われて、内部構造がかなり明らかになります。その結果、この機械が惑星の運動を計算するものであることが判明し、今日アテネの博物館に展示されています。
 この機械を観た多くの人々は、2千年以上も前に制作されたこの機械を観て、あまりに現代の機械に似ているため、身近に感じたそうです。多くの人々が、この知識が継承されていたなら、産業革命は千年以上早まったはずだと考えました。しかし著者がこの機械を観て感じたのは、「私たちと古代人の距離の近さではなく、遠さ」でした。
 本書の訳者は最後に次のように述べています。「現代の人々は古代人には想像もしえなかった宇宙旅行を実現し、人類史上かつてないほど宇宙について詳細に調べ上げ、知識を得た。だが知識や技術が進歩すればするほど、人の視点は広大なものより微小なものへと向かい始める。正確無比な実用性よりも、天界の美しさに感じ入り、それを表現することを追い求めた古代のギリシア人。現代の私たちが失ったものは何かという著者の最後の問いかけは、読む者の心に深く刻まれるに違いない。」
 歴史を学ぶ魅力の一つは、現在との共通点より、相違点を知ることに感動を覚えることだと、私は思います。

2019年4月20日土曜日

映画「孔子の教え」を観て


2009年に中国で制作された映画で、孔子の生涯を描いています。孔子については、2015年にテレビドラマとして制作された、全35回の孔子伝があり、このブログでも、このドラマを通じて儒教と孔子について述べていますので、参照して下さい。「映画で中国の思想家を観て 恕の人―孔子伝」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/08/blog-post_23.html)
 中国の近代は外国による侵略の歴史であり、それに伴って、2000年にわたって中国の人々の価値観に影響を与えてきた儒教にたいする批判が高まりました。20世紀の初頭から、文学革命という形で、激しい儒教批判が行われ、それは近代中国が一度は通過せねばならないことだった思います。しかし、その後の長い混乱の中で、中国は共通の価値観を見出すことができず、さらに一人っ子政策により個人中心的な価値観が横行するようになりました。また、外国旅行での中国人のマナーの悪さが、問題視されるようにもなりました。こうしたことを背景にこの映画は、中国には儒教という優れた道徳が存在することを、人々に思い起こさせようとしているように思います。
 映画の前半は、孔子の祖国である魯の国での活躍が語られますが、結局彼は魯の国で挫折し、君主に「戦に負ければ仁など関係なくなる」といわれて、魯の国を去り、15年間に及ぶ放浪の旅に出ます。彼は各地の君主に迎えられ、厚遇されますが、彼が採用されることはありませんでした。戦国時代へと向かおうとしていた時代に、どの国の君主も本音は「戦に負ければ仁など関係なくなる」ということでした。彼の思想が広くうけいれられるようになるのは、これより何世紀も後のことです。

2019年4月18日木曜日

「古代蝦夷の英雄時代」を読んで


工藤雅樹著 2005年 平凡社
 本書は、蝦夷(えみし)についての研究書です。えみし・えぞ・アイヌについてこのブログで何度も触れてきした。これについては、「「アイヌ民族の歴史」を読んで」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2018/09/blog-post_19.html)「映画で奥州を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_1.html)、「「北方から来た交易民」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/01/blog-post_11.html)を参照して下さい。
 本書は、蝦夷について長い間議論されてきたことを、体系的に整理します。まずそもそも日本人とは何者なのか。日本人は外来人なのか、それとも蝦夷(えみし)の子孫なのか。逆に蝦夷(えみし)が日本人の子孫なのか。蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)との関係はどうなのか。一般に蝦夷についての研究は、推論が先にあって、事実がそれを後追いする傾向があるようで、前提となる推論を巡って激しく論争が行われてきたようです。一般に古代史の研究に関しては、知られている知識の絶対的な不足ということもあって、こうした論争がしばしば行われるようです。しかし、ここで一旦立ち止まって、確実に事実を積み重ねることが必要である、ということが著者の主張のようです。
 蝦夷については意外に分からないことが多く、和人との長い接触の歴史があっただけに、さまざまな偏見によって蝦夷のイメージが歪められていますが、蝦夷をあまり固定的な概念で捉えるのにではなく、歴史の流れの中で見る必要があるようです。「アイヌ民族の成立とは、北海道縄文人の子孫がたどってきたあゆみの中で考えられるもので、超歴史的にアイヌ民族が存在するのではない。……日本民族もまた歴史的な歩みの中で成立したものであって、太古にさかのぼって超歴史的に存在したものではない。このような観点からすれば、古代の蝦夷はアイヌ民族の成立と日本民族の成立の谷間の存在であり、歴史の歯車がわずかにちがった形で噛み合っていたならば、その子孫はアイヌ民族の一員にもなりえた存在であったが、実際には最後に日本民族の一員になった人々ということになるであろう。」


2019年4月13日土曜日

映画「ウルフ・ホール」を観て

2015年にイギリスのBBCにより制作された、全6回のテレビ・ドラマで、日本語版は4回に編集されています。主人公は、ヘンリ8世に仕えた能吏トマス・クロムウェルで、彼はイギリスの宗教改革や行政改革に大きな役割を果たし、また、アン・ブーリンの結婚と処刑にも深く関わりました。この映画では、とくにアン・ブーリンの問題が主に扱われますが、この問題については、このブログの「三人の女性の物語 エリザベス」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/blog-post_1222.html)を参照して下さい。また、クロムウェルと 激しく対立し処刑されたトマス・モアについては、「映画で宗教改革を観て わが命つきるとも」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/09/blog-post_26.html)を参照して下さい。
クロムウェルが登場する前にヘンリ8世をささえていたのは、大法官に任命されたウルジー枢機卿で、ウルジーの父は肉屋、クロムウェルの父は鍛冶屋で、どちらも低い身分の出身でした。絶対王政においては、君主は貴族に対抗して自らの権力を強めていきますが、その際君主は低い身分の者を側近として登用し、彼らを貴族と対立させて、両者の均衡を維持しようとします。したがってクロムウェルらは、貴族と対抗する君主の先兵であり、そのため当然クロムウェルらは貴族の憎しみをかいます。それこそが、クロムウェルとトマス・モアの対立の原因の一つであり、彼らは後世、冷酷な野心家としてのイメージを与えられることになります。先にあげた「わが命つきるとも」も、クロムウェルをこのような視点から描いています。
映画は、クロムウェルがウルジーの下で働き始めたところから始まります。ウルジーは国王に強い忠誠心を持ち、ヘンリ8世の信頼を得て、1515年から大法官としてヘンリ8世の治世を支え、この頃からクロムウェルがウルジーの下で働くようになります。ウルジーはヘンリ8世のもとで絶大な権力をもつようになりますが、やがてヘンリ8世の離婚問題で躓きます。ヘンリ8世は1509年にキャサリンと結婚し、20年近くたっても男子が生まれませんでした。テューダー朝の王権はまだ正統性が確立しておらず、女性が君主になった場合、王位継承を巡って内紛が起きる可能性があったため、ヘンリ8世はどうしても男子の継承者が欲しかったようです。
ヘンリ8世は、キャサリンの離婚とアン・ブーリンとの結婚を望みますが、カトリック教会は離婚を認めません。そこでヘンリ8世は、ウルジーにローマ教皇に離婚の許可を求めるよう、命じますが、これがなかなかうまくいきません。その結果ウルジーは失脚し、クロムウェルがヘンリ8世の信頼を勝ち取ることになります。クロムウェルは、この離婚問題を、ローマ教皇からの認可という形ではなく、イギリス教会をローマ教会からから離脱させるという方法で解決します。それは、主権国家が形成されつつある中で、普遍的・超国家的なローマ教会の否定であり、当時の時代の趨勢に適応するものでした。そしてアン王妃の離婚と処刑が行われます。その後クロムウェルは修道院の解散など一連の改革を行いますが、それは、ヘンリ8世の治世の最も重要な時期と重なります。
映画では、こうした政策実行の具体的な様子は述べられず、その過程におけるクロムウェルの日常生活、貴族やアン王妃の動向が語られます。クロムウェルは寡黙で、全体に重厚な内容の映画ですが、ときどき意味の分からない話が出てきます。一番分からなかったのは、この映画のタイトルである「ウルフ・ホール」です。ウルフ・ホールとはシーモア家の邸宅のことで、シーモア家といえば、ヘンリ8世の3番目の妻となるジェーン・シーモアがいます。
ジェーンは、キャサリンとアンの侍女を務め、決して美人ではありませんが、控えめで物静かな女性で、ヘンリに対して言い返したことがないとされます。映画では、ジェーンは数えるほどしか登場しませんが、後で考えると、ジェーンはクロムウェルをシーモア家に誘導しているように思われます。実際、後にクロムウェルの息子はジェーンの妹と結婚することになります。そしてジェーンは、ついに待望の男子を生みました。こうして見ると、すべてがジェーンとシーモア家の壮大な陰謀だったように思われます。クロムウェルはそれを承知の上でシーモア家に接近し、アンの処刑を実行したと思われます。そしてすべての出発点は、シーモア家の邸宅ウルフ・ホールにあったのではないかと思います。

なお、17世紀にピューリタン革命を指導したオリヴァー・クロムウェルは、トマス・クロムウェルの姉の玄孫だそうです。なお、オリヴァー・クロムウェルについては、このブログの「映画で17世紀のイギリスを観て クロムウェル〜英国王への挑戦〜」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/10/17.html)を参照して下さい。

2019年4月10日水曜日

「おだまり、ローズ 子爵夫人付きメイドの回想」を読んで

ロジーナ・ハリソン著、1975年、新井潤美監修、新井雅代訳、白水社、2014
 19世紀のヨーロッパ、特にイギリスでは中流階級が急成長しました。そして中流階級は、一人以上の使用人を雇うものとされていました。さらに大金持ちや貴族は、ロンドンの邸宅と領地の邸宅で多くの使用人を使っており、したがって使用人の総数は相当の数にのぼっていたと思われます。CSBSで放映されている「ダウントン・アビー」は、私は観ていませんが、20世紀前半のイギリスの貴族の邸宅での使用人の生活を描いたもののようで、それはちょうど、この本の著者ロジーナがメイドを始めたころのことです。
 使用人は使用人としてのさまざまな能力を高め、なかでも執事や夫人つきのメイドは名誉ある職でした。ロジーナは、1928年にアスター子爵家のメイドとなり、まもなく子爵夫人お付のメイドとなります。しかしこの夫人は気難しく気まぐれで、メイドを気遣う気持ちはまるでなく、サディスティックで辛辣でした。そのため彼女は消耗し、病気で倒れるか辞職するしかない状況に追い込まれていきました。しかし、彼女が言うところによれば、ある日彼女はトランス状態に陥り、夢を見ているような状態の中で、奥様との問題など些細なことのように思われたそうです。

 それ以来、彼女は奥様の気まぐれには毅然として反論し、間違っていることは受け入れなくなくなりました。これに対して奥様はますます口汚く彼女を罵りますが、しだいにこの関係が日常的な関係として定着していくようになり、結局ロジーナは子爵夫人の信頼と尊敬を勝ち取り、35年間子爵夫人に仕えることになります。子爵夫人は交際範囲の広い人でしたので、ロジーナも多くの高名な人と知己を得、さらに夫人について世界中を旅行し、彼女は豊かな人生を送ることができました。その意味において、彼女の生き方は「メイド道」を全うしたと言えるかもしれません。

2019年4月6日土曜日

映画「四川のうた」を観て















 2008年の中国・日本による合作映画で、同じ監督が2006年に「長江哀歌」を制作しています。「長江哀歌」は、長江中流における山峡ダムの建設(1993年着工、2009年完成)により、水没する町や住民たちの姿を描いています。「四川のうた」も、成都での国営工場の廃止にともなう人々の思いを描いており、どちらの映画も、近代化により翻弄される人々の姿を描いています。なお、長江については、「變臉 この櫂に手をそえて」


映画の舞台となった四川省は、長江上流に位置し、その州都である成都は古い歴史をもった都市で、独自の文化をはぐくんできました。成都は、明末清初期の混乱期に人口の9割が殺戮されたそうですが、その後100年かけて各地からの移民を受け入れ、復興しました。中華人民共和国が樹立されたころ、軍需工場の多くはかつて日本が支配していた東北地方にありました。ところが朝鮮戦争が勃発すると、朝鮮半島に隣接する東北地方に軍需工場を置いておくことは危険なため、1950年代の後半に内陸部に軍需工場を移設することになりました。
 こうして成都に労働者3万人が働く大工場が建設され、成都の発展と中国経済の発展を牽引しました。これ程の規模の工場では、労働者の買い物、娯楽、教育など、日常生活に関わるほとんどすべてが会社内部で完結しており、人々は会社の外に出ることなく、生活することができました。しかも軍需工場は安全保障上重要でしたので、中国の他の地域が飢饉であっても、この工場には食料が十分に支給されました。つまり、この工場の労働者とその家族たちは、激動する中国にあって比較的平穏に過ごすことができたのです。
 しかし改革開放が進み、民間企業が成長すると、国営工場の非効率性が批判されるようになり、こうした中で2007年に工場が閉鎖されることになりました。その結果、3万人の労働者が解雇され、その家族を含めて10万人の人々が故郷を去ることになります。映画は、そうした人々の内の何人かを取り上げ、インタビューという形式で、彼と工場との関りをドキュメンタリー風に述べます。初期の労働者の多くは東北地方の出身であり、末期の労働者の多くは成都で生まれ育ちました。これらの人々が、様々な思いで工場で暮らし、そして去っていきます。これらの人々の思い出は、それぞれの時代に流行した歌と結びついていました。その歌の中に、山口百恵主演の人気テレビドラマ「赤い疑惑」の主題歌があり、その歌は一人の労働者の苦い恋の思い出と結びついていました。
これらを通して、50年におよぶ成都の国営会社の歴史が語られます。それは、時代遅れとなった国営会社の物語りではなく、多くの人々が人生を紡いだ場所でもありました。また仕事は味気ない流れ作業ではなく、優れた熟練工の世界でした。しかしそのような世界は、今や時代遅れとなりつつありました。中国の近代化を、こうした視点で見るのも、大変興味深いことです。

なお、今日の成都は、2000年に始まった西部大開発の拠点都市として、人口1500万人を超える大都市に発展しています。

2019年4月3日水曜日

「歴史物語ミャンマー」を読んで














山口洋一著、2011年、カナリア書房
著者は外交官の出身で、駐ミャンマー特命大使などを歴任しており、その縁で本書が著されたのだと思います。本書は、いわばミャンマーの王朝史で、紀元前2世紀以来のチベット・ビルマ族の南下に始まり、11世紀に成立したパガン朝以来のミャンマーの王朝史をかなり具体的に書いています。上下巻あわせて600ページを超える大著で、東南アジア史に関して、これほど体系的に王朝史を扱った本を、私は他に知りません。ただ、前に観た「タイ映画「ザ・キング」を観て」で王朝史の片鱗を観た程度ですが、この映画も私にとっては非常に新鮮な映画でした。なお、本書ではできれば社会・経済的な側面や民衆の生活を、もう少し多く語ってもらいたかったと思います。
本書の目的は、サブタイトルにもあるように、ミャンマーは「独立自尊の意気盛んな自由で平等の国」現在の惨めなミャンマーの姿は、真の姿ではなく、ミャンマーは東南アジアでは特異な国家だと主張することです。ただ、隣国タイでも、「タイ」とは「自由人」を意味するという俗説があるくらいで、一定の文明を築いた国ならどこの国でも、自由や平等が根幹にあるのではないでしょうか。オリエント的な専制とヨーロッパ的な自由と民主主義というステレオタイプの俗説がありますが、本書はこの俗説を前提として、ミャンマーは他とは異なると主張しているように思います。
そもそも、オリエント的専制の代表格ともされるアケメネス朝ペルシアでさえ、建国当初君主制にすべきか民主制にすべきかという議論がなされたとのことです。アケメネス朝ペルシアと古代アテネとの間に本質的な違いがあったのでしょうか。さらに、紀元前5世紀の中国の聚落と、同じ時期のアテネとの間に本質的な違いがあったのでしょうか。アテネのほうがより民主的だったといえるのでしょうか。
話がそれてしまいましたが、要するに、自由と平等の概念はヨーロッパの専売特許ではなく、ミャンマーにもあったということが再確認できました。