2014年1月22日水曜日

「……の世界地図」について


 文春新書(文芸春秋)から「……の世界地図」というシリーズが出版されています(21世紀研究会編纂)。「民族の世界地図」(平成12) 「地名の世界地図」(平成12) 、「人名の世界地図」(平成13) 、「常識の世界地図」(平成13) 「色彩の世界地図」(平成15) です。このシリーズは、世界を色々な側面からとらえており、世界のさまざまな地域の特色を考える上で、大変参考になる本でした。以下、それぞれのシリーズの中で興味深いと思った部分を一部掲載します。

―「民族の世界地図」-

 「韓国人に「日本がまた侵略してくると思うか」と質問すると、大半の人が「そう思う」と答える。日本人にとっては「そんなことはできっこない」と思うことでも、彼らの日本に対する猜疑心はなかなか消えない。」

 「日本に生まれて日本語を母語とし、学校でも日本語を国語として習う。公的な言語はもちろん、日本語だけ。日本に住む大多数にとってはごく当たり前のことだが、たくさんの民族が共生する国ではそうではない。」「国語というものを特に定めていない国は圧倒的多数だし、国語があっても、スイスのように公用語と完全に重ならない国はめずらしくない。とくにインドやアフリカ諸国など、一つの国に多数の民族とそれぞれの言語があり、しかも植民地としての歴史が長く、旧宗主国の言葉も定着している国々では、当然、言語状況は複雑をきわめる。インドの場合、公用語のヒンディー語、準公用語の英語の他、アッサム語、ベンガル語、タミル語など、計17の憲法公認語があり、その多くが地方公用語となっている。もちろん、それ以外の少数言語も数え切れないほどあり、国民すべてが理解する共通言語は存在しない。」

「家族に固有の名をつけるという風習は、どの民族にも共通するものではない。中国では紀元前から庶民も姓を使用していたが、日本人に庶民の姓の使用が義務づけられたのは1871(明治4)のことだ。それ以前、人々は、家ごとの呼び名や通り名である屋号と合わせて、個人を呼んでいた。たとえば弥六(先祖の名による屋号)の権太郎とか、沢口(地形による屋号)のトメ、といった具合である。屋号は姓と似ているが、出自系統を示す姓とはまったく性質が違う。ヨーロッパでも、庶民が姓を用いるようになったのは、18世紀後半から19世紀にかけてのことだから、それほど古くからの習慣ではない。英語圏で分かりやすいのは、カーペンター(大工)とかスミス(鍛冶屋)とか、生業がそのまま姓になったものだ。ほかに地名やあだ名に由来するものも多いが、ひときわ特徴的なのは、最後にsonのつく姓である。Sonは息子、つまりロビンソンはロビンの、ニコルソンはニコルの息子というのがもとの意味である。」

―「地名の世界地図」―

「ウラジオストックと名づけられたこの都市名の意味するところは、「東方を征服せよ」なのである。」

「フランスの首都パリparisも、セーヌ川のシテ島に根拠をおいていたケルト系パリシィ族の名に由来している。シテ島のシテciteは「市」、パリシイは「乱暴者、田舎者」という意味だから、現在のイメージとはかなりかけ離れたものだったのである。」

 「ハワイHawaiiはポリネシア語で「神のおわす所」を意味するが、クックは発見当時の海軍大臣の名にちなんでサンドウィッチ諸島と名づけた。この大臣とは、食事の間も惜しんでカードに熱中したあげく、パンに具をはさんだファースト・フードを考案したといわれるサンドウィッチ伯爵である。」

 「アイヌ語の地名は、自然な状態が簡潔に表現されていたにもかかわらず、文字表記がなかったために、日本人が勝手に漢字をあてて複雑にしてしまった。……よく見られる「内 (ナイ)や「別(ベツ)」……などは地名をあらわすアイヌ語だが、ナイとベツは「川」……を意味する。有名なところでは稚内(ヤム・ワッカ・ナイ「冷たい水の川」のヤムの省略されたもの)、……登別(ヌプル・ペツ「濃厚な川、濁った川」)……などである。」

 「エジプトのナイル川の語源は、古代エジプト語にある。国土を流れる川がたった一本、それも下流のデルタ地帯にいたるまで、ただの一本も枝分かれすることがなかったため、川を呼び分ける必要がなく、ナイルはイル()に、ナという冠詞がついただけ、つまり「川」なのである。インダス文明をもたらしたインダス川も、サンスクリット語で「川」を意味するヒンドゥー語がそのまま川の名となったもので、これもただ「川」である。……ガンジス川もヒンドゥー語のガンガ()あるいは「川の女神ガンガ」を意味するが、いずれにせよ、これもただ「川」である。」

―「人名の世界地図」―

 「ヨーロッパでは、同じ起源の名前が各国で使われている。たとえばピーターという英語名は、新約聖書のペトロに由来する名前だ。ペトロは、イエス・キリストの使徒のなかでも傑出した立場にあるとされている。……そもそもシモンという名前だった彼がペトロという名前を与えられるとき、イエスは彼に「汝の名はペトロ()なり、その岩の上にわが教会を建てよう」と言ったという。そのため、殉教したペトロ()の上に建てられた教会を、サン・ピエトロ教会という。……キリスト教世界では、ペトロは長寿をもたらす者、天国の扉の番人として信仰されている。彼の名は、ドイツではペーター、またはペトリ、ペトリス、フランスではピエール、イタリアではピエトロ、スペインやポルトガルではペドロ、ロシアではピョートルとなる。」「こうした名前は各言語に適応した形で用いられるだけでなく、ひとたび伝統名として定着した名前は何世紀にもわたって使われ続ける。これも日本の命名習慣とは大きく異なる点だろう。そうした名前が、言語や世代を超えて使われてきたのは、キリスト教文化圏に共通した命名習慣による。それは直接には、個人名に聖人の名前が与えられる習わしによる。このように聖人、もしくは英雄、有名人の名にあやかって命名するという発想は、西洋文化に広く見られる記念物主義のあらわれかもしれない。つまりキリスト教社会の人名とは、社会で共有される記憶やイメージの結晶であって、親が願いをこめて創ってしまうようなものとは考えられていないのだ。」

 「欧米人は、中世以来このかた、数に限りのある名前のリストの中からどれかを選ぶという方法で命名してきたのである。……名前は原則として決められた人名リストのなかから選び、それ以外の名前をつけたいときは、申請して、承認を待つといった手続きが必要な国もいまだにあるのだ。」

 「現在中国の姓はおよそ6千といわれる。……その中でもよく使われるものは、2百くらいとされる。……多い姓のトップスリーは王、李、張で、……これを含む20の姓だけで、人口の半分を占めるという。」

 「1985年の調査では、大韓民国には225の姓しかない。……1988年の調査によると、一番多い姓は「金」で、……全人口の22パーセントにものぼる。二番目は「李」で、……こちらは全人口の約15パーセントだ。三番目の「朴」は、約9パーセント。この三氏を合わせただけでも、全人口の46パーセントを占める。」

―「常識の世界地図」―

 「日本人にとっては何気ないしぐさの一つなのだが、外国人にひどく嫌がられるものに、「指差し」がある。これは海外では、身分や立場に関係なく、決してしてはいけないとされているしぐさだ。」「ヨーロッパ人には、かつて、人差し指には毒があるので、傷薬などを塗るときに使ってはいけない、という俗信があった。また一般人に人差し指を突きつけるのは威嚇の身ぶりだとか、伸ばした人差し指は武器の象徴であり、戦うことも辞さないぞという宣告だとも考えられていたために、人差し指での指差しがとくに嫌われたのかもしれない。」「そもそも、指一本で行うしぐさが避けられる地域もある。インドなどでは、方向を示すのにあごを使うし、フィリピンでは唇をとがらせて方向を示す。アメリカ人がよくやるような、親指やあごによる指示は、私たちには、人差し指よりよほど横柄で無作法に見えるのだが、世界的には、人差し指で指示されることを侮辱や挑発ととらえる社会の方が圧倒的に多い。」

 「欧米人が食べたがらない食材をあげてみよう。まず、イヌ、ネコのような身近な動物を食べることへのためらいがある。このあたりは日本人の感覚とあまり変わりはない。イヌ料理は、韓国や中国、ベトナムなどが有名だが、……」「ネズミは、昔から、ペストとの関連で忌み嫌われて、不浄、不衛生だからネズミは食べないという民族はかなり多い。」「ウマは、ヨーロッパ人にとって、はるか昔からイヌに次いで親しい動物だった。ウマは賢く、訓練しだいでさまざまな仕事をこなす。有用なウシをヒンドゥー教徒が食べないのと同じ理由で、あるいは、そこにペット食へのタブーに近い感覚が加わって、彼らは食べなくなったのかもしれない。しかし、モンゴル人など、アジアの騎馬民族は、ウマに依存する生活を送りながらも、それを当然のように食用とする。」

 「外国人の目には、日本人の時間の正確さは、ときには異常に映るらしい。私たちには何でもないことなのだが、列車、バス、飛行機などが時間通りに出発することに驚く人も多い。時間にルーズな国から来た人には、心が休まらない正確さだというのだ。イギリスなども、個人的には時間に正確だが、電車、バスなどの発着はかなりいいかげんだ。」

―「色彩の世界地図」―

 「「色」。この漢字は、うずくまる女性に男性がおおいかぶさる形をあらわしたものだ。つまり男女和合のようすをあらわしており、そのまま性的なことを意味するときにもちいられている。やがて「色」ということばの範囲は広がり、「色に出る」というように、人の内面が顔に出た状態や、目に入ると心を動かされるさまざまな彩りも、そのなかに含まれるようになった。色には、よくも悪くも人の気持ちを揺さぶる力がある、ということだろう。

 「英語のカラァーcolorについてもみてみよう。こちらの語源となっているラテン語の意味は「おおい隠すもの」である。何かの外側を塗ることによって何かを隠す顔料などを指していた言葉だったことが想像できる。

 「現在では素材の岩石がむき出しになっている古代エジプトの遺跡も、木に塗られた絵具が褪せてしまった日本の古寺も、当時はある一定のきまりにもとづいて彩色されていた。石や木を特定の色でおおうことによって、それは、ただの石の塊や木材を超えるものになったのだ。人もまた、色を塗ることによって別のものに化ける。それは「化粧」という言葉にあらわれている。」「色には呪術的な力があり、その視覚的効果から、何かを象徴するものに利用されてきたのである。さまざまに染められた衣服を身につけるだけでも、その人に特別な性質が加わると考えられてきた。身分の高さをあらわす色もあれば、差別する色もある。」

 「人の生も、さまざまに彩られている。「赤子」「緑児」「青年」「青二才」は普通に使われている言葉だ。」

 「異なる文化においても、人間の本能的・心理的な面で、赤が血に結びつき、危険を予知させる色であることや、黒が暗闇につながり、死や恐怖など負のイメージをもつことは、ほぼ共通している。しかし、赤が危険を象徴するといっても、中国では慶事に欠かせない色であるし、日本でも神社の鳥居は赤い。」

母親の社会史



この本は、フランスの歴史家イヴォンヌ・クニビレール/カトリーヌ・フーケの著書(中嶋公子・宮本由美ほか訳、1994年、筑摩書房)で、先に述べた「ハーメルンの笛吹き男」と「チーズとうじ虫」が発表されたのとほぼ同じ、1977年に発表されました。
 この本を買ったのはかなり前でしたが、読んだのは最近です。この本を読んで、私がまず感じたことは、かつてこの様な視点で歴史を考えたことがない、ということでした。私たちが学ぶ歴史は、大きな事件や特別な人々の歴史であり、それに対して社会史は普通の人々の歴史を扱おうとしているのですが、それでも男性を中心とした社会史でしかありません。もちろん歴史には女性も登場しますが、その場合も「男性に匹敵する働きをした女性」がほとんどです。また性差別=ジェンダーについての研究が多数ありますが、これも女性が男性との対比において捉えられています。しかし、考えてみれば、人間の半分は女性であり、その女性の多くが母親となります。この本を読んで、私は、人類の歴史の半分を忘れていたことに気づきました。
 「母親」とは何かという問いの答えは、当たり前のようで、それ程簡単ではありません。著者は次のように述べています。「母性の始まりと終わりはどこにあるのだろうか。初めて妊娠した若い女性はすでに母親なのだろうか。孫のために編み物をしている祖母は、まだ母親といえるだろうか。子どもをなくした母親は、母親ではなくなるのだろうか。母性に終わりはない。子捨て、子殺しをした母親は、「異常な母」、「罪深い母」とはいわれても、社会的には母親であり続ける。母親とは、いったいだれのことなのだろうか。子どもを産む女か、育てる女か。それとも子どもをかわいがり、どんなことがあっても変わらぬ愛情を持ち続けるのが、母親なのだろうか。言い換えれば、母性とは生物学的な機能なのか、社会的な機能なのか、あるいは心理的・感情的なものなのだろうか。」
 この本は、「母親」を、さまざまな側面から、多数の実例をあげつつ、歴史的にとらえています。ここでは、この本で示されたヨーロッパの母親像に関しての若干の例をあげておきます。
 ヨーロッパの女性像や母親像は、長い間、聖書の影響を受けてきました。旧約聖書によれば、神は最初の人間として男性のアダムを創造し、次いでアダムのあばら骨から女性のエヴァを造りました。つまりエヴァはアダムの一部から造られたのであり、すでにここに性差別が認められます。そしてエヴァは禁断の実を食べたことの罰として、出産の苦しみを課せられます。つまり、母となることは「罰」だったのです。またキリスト教においては、処女マリアがイエスを出産したことになっていますが、ここでは女性の性欲が否定的に捉えられています。こうした考え方が、ヨーロッパにおける女性や母親に対する考え方に大きな影響を与えてきたのです。
 19世紀のヨーロッパでは、母性本能ということが盛んに言われるようになりました。母性本能について最初に論じたのは、『社会契約論』などで有名なジャン・ジャック・ルソーです。母性本能とは、動物が誰からも教えられることなく子育てをしていることから、それが人間の母親にも適用された分けです。しかし、人間の母親を動物的な本能だけで捉えてしまってよいのでしょうか。結局、「母性本能」という考え方は、母親は家で子育てに専念すべきである、という考え方と結びつき、女性を家に閉じ込める結果となってしまいました。
 今日、少子化が進行し、これが重要な政治課題となっています。そのため出産援助金や育児援助金などについて検討されていますが、こうした政策は、人口が増えれば停止されてしまうわけで、結局人口統計上の数字を操作するための手段でしかなく、母親についての真剣な考察が欠けているように思われます。
 「母親」とは何か。私にも分かりませんが、この問題について真剣に考えてみる必要があることを、この本は私に教えてくれました。


チーズとうじ虫



この不思議なタイトルの本は(16世紀の一粉挽屋の世界像」というサブタイトルがついています)、イタリアのカルロ・ギンズブルグが著した専門的な歴史書です(1976年 杉山光信訳 みすず書房、1884)。先に紹介した安部氏の「ハーメルンの笛吹き男」とほぼ同じ頃に世に出た社会史に関する本ですが、それをさらに一歩進め、16世紀における一人の粉挽屋がどのようなものの考え方をしていたかを分析しています。この様な研究分野は心性史と呼ばれ、このころから非常に注目されてきた分野です。
 私たちが学ぶ歴史は、おもに文字資料に依存しています。ほとんどの人が読み書きできなかった時代に、書き残された資料は、ほとんど支配階級に属する人々によって書かれたものであり、たとえそうした資料に「普通の人々」についての記述があったとしても、「普通の人々の心」を伝えることは、まずありません。したがって、歴史上に無数に存在する「普通の人々の心」を探求するには、非常に困難が伴います。つまり、私たちが学んでいる歴史の多くは、特別な人々の歴史であり、歴史の本当の姿を伝えているとはいえないのです。
 
 
この本は、16世紀の終わり頃の、通称ピノッキオと呼ばれる粉挽屋の物語です。彼は読み書きができ、おそらく10冊余りの本を読んでいたため、本当の意味で「普通の人」とは言えないのですが、一人の民衆として民衆文化と深くつながりをもった人物でした。イタリア農村の粉挽屋だったピノッキオは、1583年に異端の疑いでローマ教皇庁に告訴され、その後色々あって、結局1598年に異端の罪で処刑されました。67歳でした。この15年に及ぶ異端審問の過程で、膨大な裁判記録が残され、それがピノッキオという一人の粉引屋の思想を浮き上がらせるのに役立ったのです。
 彼の主張は奇妙なものでした。キリスト教によれば、神が昼と夜、天と地、植物、太陽・月・星、生物、人間を創造したと、されています。ところが、ピノッキオは、この世のはじめには何も存在しなかったが、しだいにどろどろとした塊が生まれ、そこから人間が生まれる、というのです。一見奇妙に思われるこの考え方は、農民の日常的な経験から生まれてきたものです。
 ヨーロッパ農村の多くの家庭では、自分たちでチーズを作ります。とくにイタリアでは、どろどろとしたチーズの表面にカビが生えるカマンベール・チーズが多いそうです。このチーズは、牛乳がしだいに凝固して形成されるのですが、衛生管理が悪かった時代には、虫がチーズに卵を産み、それがうじ虫となってわいてくることが多かったようです。今日われわれは、虫が卵を産んで、それがうじ虫となることを知っていますが、それが知られていなかった時代には、明らかに生命とは異なるチーズから、うじ虫という生命が発生することは、不思議なことだったでしょう。このことは、ヨーロッパの農民のだれもが経験することです。そしてピノッキオは、この経験から、無から生命が発生すると考え、すべての「創造者」としての神を否定したのです。
 一見奇妙に思われるピノッキオの考え方は、古くから農民の間で語り伝えられていた普通の考え方だったようです。たまたまピノッキオは読み書きができ、こうした考え方を幾分理屈っぽく述べたため、教会の眼にとまってしまったのでしょう。彼が生きた時代は、宗教改革を経て宗教対立が激しくなっていた時代で、支配階級の間では難しい教義論争が展開されていました。われわれが歴史において学ぶのは、こうした表面に表れた教義論争ですが、当時の普通の人々が、そのような難しい教義論争を理解できるはずがありません。今日我々のほとんどが「素粒子論」をまったく理解できないのと同じ様に、当時の普通の人々にとって、難しい教義論争は別世界の出来事でした。
 我々は、ピノッキオの考え方を、馬鹿げたこととして切り捨ててしまうことは出来ません。彼の考え方こそ、当時の普通の人々の考え方であり、今生きている我々も「普通の人」だからです。その我々が歴史をつくっているのなら、ピノッキオのような普通の人の普通の考え方を理解することなしに、歴史を理解することはできないでしょう。歴史を学ぶということは、特別な人物や事件を学ぶだけでは十分ではなく、普通の人々についても学ばなくてはいけないのではないか、考えます。
 ギンズブルクのこの著書は、高度に専門的ではありますが、あたかも推理小説を読むように我々を問題の核心に引き込んでいきます。ちょうど名探偵シャールック・ホームズが、知りうる事実を積み重ね、犯人を割り出していくように、ピノッキオの思想を浮き上がらせていきます。これ程の歴史書を描くには、多くの努力と才能を必要とするように思われますが、このような歴史書がもっと盛んに出版されるようになれば、われわれの歴史認識も一層深まっていくと思います。
 ところで、最近、「チーズとうじ虫」というタイトルの映画があることを知りました。私はこの映画を観ていないのですが、監督が自分の母親の死に至る過程を撮った映画のようです。このタイトルと映画の関係についてはよく分かりませんが、自分の母親というミクロの世界を描くという意味で、このタイトルがつけられたのかも知れません。もちろん、この歴史書は単にミクロの世界を描いたというだけではなく、文字文化(支配者の文化)と口承文化(民衆の文化)の違いを示すとともに、この頃から文字文化が口承文化を征服していく過程が描かれている点で、真に歴史書となっています。ただ、この映画の監督が、自分の母親の死という個的な世界の中に普遍性を見たように、私もまた、ピノッキオという一人の普通の人間の中に、世界の歴史を見たように思います。

ハーメルンの笛吹き男


原作の表紙











 


ハーメルン市の位置



















笛吹男の祭り













 「ハーメルンの笛吹き男-伝説とその世界」(1974年 平凡社)は、すでに故人となられた安部謹也氏の著書で、日本における社会史の研究に大きな影響を与えた本です。
 「ハーメルンの笛吹き男」という童話は日本でも知られています。ハーメルンというドイツの小さな町でネズミが大発生し、人々は大変困っていました。そこへ奇妙な姿をした男が現れ、報酬を貰う約束で笛を吹いてネズミを退治しましたが、市民は約束の報酬を払いませんでした。怒った男は町を立ち去りましたが、再びやってきて笛を吹き、その笛につられてついてきた子供たちを誘拐した、という話です。
 この物語は、「約束を破ってはいけない」という教訓をともなった童話ですが、この話は史実に基づいています。ハーメルン市の古文書に、1284626日に130人の子供たちが行方不明になったという記録が残っているのです。この記録をもとに、安部氏は、子供たちが何故行方不明になり、何処へ行ったのか、またこの史実がどの様に変形されて民話となっていったのかを、詳しく述べています。
 近代以前においては、民衆は読み書きができないため文字資料を残しません。残っているのは、口から口に伝えられた伝承だけです。阿部氏は、こうしたあやふやな伝承や周囲の状況を詳しく分析し、この時代のハーメルンを取り巻くヨーロッパの社会のあり方を解明します。子供たちが何故、何処へ連れて行かれたかについて、明確な解答はありませんが(今日では、もはやこれを解明することは不可能でしょう)、この本を読み進めていくと、私たちは、13世紀のハーメルン、あるいはヨーロッパで暮らしているかのような錯覚に陥ります。この時代の混乱、狂気、生活の苦しみ、そういったものが目の前に描き出されていくのです。
 
 
 ハーメルンの人々は、その後長い間、何か事件が起きると、子供たちが消えてから何年目という具合に、常に「この時」を出発点としてとらえました。それ程、この事件はハーメルンの人々にとって衝撃的な事件だったのです。ところが、はじめはこの民話に「鼠捕り」の話しはなく、16世紀になって初めて「鼠捕り」の話と結び付けられます。童話では何らかの「教訓」が語られるのが常ですが、ハーメルンの人々にとって、この事件は、少なくともこの時代まで、「童話」ではなく厳然たる「事実」だったのです。しかし、人々はこの様な恐ろしい事件が何故起こったのかを考え続けてきました。そうした中で、「鼠捕りに約束を守らなかった」、その懲罰としてこの事件が起こった、と考えるようになっていったようです。そして「ハーメルンの笛吹き男」の物語は、童話として世界中に広がっていったのです。
 我々が学ぶ「歴史」は、特別な人物や大きな事件を中心とした歴史であり、それらを暗記することが、歴史学習の第一歩となります。そこには普通の人々の日常生活は一切登場しません。その背景には、文字資料を残さない普通の人々の生活を再現することが極めて困難であると同時に、普通の人々の歴史を学ぶことに意味が見出させない、という意識がありました。しかし、どんなに特別な人でも、どんなに大きな事件にも、その背景には圧倒的多数の普通の人々がおり、彼らなしに特別な人も事件もありえないと、考えられるようになってきました。
 また、私たち自身が普通の人間であり、普通の人間として日常生活を送っています。こうした私たち自身の歴史を学ばずして、歴史を学んだといえるでしょうか。むしろ、こうした歴史こそが、本当の歴史なのだと、私は思います。ただ、残念ながら、この本は相当に専門的で、素人が気楽に読める本ではありません。こうした内容の歴史書が誰でも気楽に読めるようになって初めて、歴史学の進歩があるのだと思います。









2014年1月11日土曜日

映画で観る中国の四人の女性

 中国史上の女性を扱った4本の映画を観ました。時代順に見ると「王昭君」「則天武后」「楊貴妃」「蒼穹の昴(西太后)」で、その内「王昭君」と「楊貴妃」は女として生き、「則天武后」と「蒼穹の昴(西太后)」は政治家として生きました。紀元前1世紀の王昭君から19世紀後半の西太后までの間に、2000年以上の隔たりがあり、また則天武后と楊貴妃はともに唐時代の女性です。

王昭君


  2007年制作の30回からなる連続テレビドラマです。王昭君は前1世紀、つまり前漢末期に匈奴との和平のために匈奴の呼韓邪(こかんや)単于に嫁いだ公主です。公主というのは皇帝の娘ですが、異民族に公主を嫁がせる場合、実際には側室を娘にしたてて公主として送る場合が多かったようです。王昭君もそうした女性でしたが、彼女が数多いる側室の中から匈奴に送るための公主に選ばれる際に、有名なエピソードが生まれました。


当時皇帝は宮廷の絵師に側室の似顔絵を描かせ、それを見て夜の相手をさせていたとされます。そこで、側室たちは皇帝に選ばれるため、絵師に賄賂を払ってより美しく描いてもらうというのが慣例となっていたとされます。しかし王昭君を絵師に賄賂を払いませんでした。理由はよく分かれませんが、ドラマでは王昭君の正義感によるものだとされています。王昭君は絶世の美女だったとされていますが、絵師は賄賂をくれなかった王昭君を美しく描きませんでした。そのため皇帝は、彼の書いた絵を見て、あまり美しくない王昭君を匈奴に送ることにしました。この点について、映画では、王昭君の美貌に嫉妬した皇后の策略として描いていますが、どちらが正しいのか分かりません。いずれにしても、この話自体が後の時代の創作だと考えられていますので、どちらでもよいことです。さて王昭君を選んだ皇帝は、はじめて王昭君に面談し、その美貌に惹かれて彼女を手放すのが惜しくなりましたが、今さら覆すことはできません。皇帝は噓の絵を描いた絵師を処刑し、王昭君は匈奴に嫁いでいきます。そしてそこで彼女は3人の子を設け、匈奴の地で天寿を全うします。


 ドラマは、少女時代からの王昭君と彼女を愛した3人の男たちの運命を描いています。王昭君について分かっている史実は非常に少ないため、これらの物語のほとんどは創作だと思われます。私が関心をもったのは、こうした男女の物語より、漢と匈奴との関係です。匈奴を含む遊牧騎馬民族は、空に浮かぶ雲のようなものです。あちこちに散らばっていた雲がしだいに集まって大きな塊となり、時には嵐を引き起こします。そして大きな雲は再び小さな雲に分かれ、大空を漂います。中国はこうした遊牧騎馬民族の動向に絶えず苦しみ続けます。軍事力で一時的に撃退しても、軍隊が引けばまた侵入してきます。絶え間のない戦争は民を苦しめ、財政難を引き起こし、国家体制の存続そのものを危機に陥れます。そうした中で、外交政策を駆使したり、贈物を贈ったりして彼らの懐柔に努めます。そうした政策の一環として、公主を嫁がせて彼らと血縁関係を結び、和平を結んだりします。当時匈奴は兄弟間の対立で分裂していたため、漢は一方の側を支援して匈奴との和平を進めました。王昭君の匈奴への降嫁は、そうした政策の一環だったのです。


ところで、中国では異国の「蛮族」に嫁いだ公主は王昭君以外にもたくさんいます。その中で特に王昭君の物語が語り伝えられた理由は、夫の死後夫の息子の妻となることを強要されたため、国のために犠牲となって異郷の地で死んだ不運な女性として人々の心に残ったからです。しかし、君主の妻が、君主の死後その後を継いだ弟あるいは息子の妻になるという風習は決して珍しいことではありません。こうした婚姻形態は民俗学ではレビラト婚と呼ばれ、日本の戦国時代にもしばしば行われました。ヨーロッパでも、16世紀にヘンリ8世が早逝した兄の妻キャサリンと結婚する等、しばしば見られます。こうした婚姻が行われた理由の一つは、婚姻関係で形成された親族間の結びつきを維持したいという思いがあります。ヘンリ8世が兄の妻キャサリンと結婚したのは、キャサリンが当時ヨーロッパ最強の勢力だったスペインの王女であり、ヘンリ8世がスペインとの関係を考慮したからだと思われます。王昭君が夫の子の妻となった理由もそこにあります。彼女が漢の皇帝に判断をあおいだとき、皇帝は匈奴との和平を維持することを期待して、彼女にそのまま匈奴に残ることを望んだといわれています。


また、遊牧民の場合レビラト婚が広く行われる理由は他にもあります。遊牧社会においては、女性が一人で生きていく道がありません。例えば兄が死んで弟が家督を継いだ場合、弟が兄の妻を引き取るのは自然なことでした。むしろ死んだ兄の妻を見捨てたとしたら、それは非道な行為だということになるでしょう。ところが儒学では、こうした婚姻を忌み嫌います。父の後妻も兄の妻も、弟とは血縁関係がありませんが、儒学ではこれを近親相姦とみなします。日本の江戸時代でも、儒学の影響でこのような婚姻は嫌われるようになります。そして王昭君の悲劇はここにありました。彼女が皇帝に匈奴に残るべきかどうかを尋ねたとき、皇帝は残ることを求めました。匈奴に残るということは、夫の息子と結婚するということであり、それ以外に彼女が匈奴で生きていく道はありません。儒学の模範たるべき中国の皇帝が、彼女に儒学でいう近親相姦を求めたのです。つまり、儒学の理念より政治的利害が優先されたわけです。


 いずれにしても、王昭君の存在は漢と匈奴との間に束の間の平和をもたらしました。彼女の晩年については何も知られていませんが、彼女の墓は中国の内モンゴル自治区フフホトに、2000年の歳月を越えて今も残っています。























則天武后

  1994年の全30回からなる連続テレビドラマです。則天武后は、637年頃唐王朝第2代皇帝太宗李世民の晩年に14歳で側室の一人として後宮に入いりました。一時太宗の寵愛を受けますが、その後皇帝から遠ざけられます。その理由として、唐三代皇帝の後に、「武」姓の女性が天下を乱すとの占いがあったとのことですが、真偽のほどは分かりません。なお、彼女は太宗から武媚(ぶび)という名を与えられますので、ここでは当面この名を使用します。その後彼女はたまたま第九皇子と知り合い不倫関係となりますが、皇太子たちが相次いで反乱を起こしたため、第九皇子に皇太子のお鉢がまわってきました。人生とは皮肉なもので、皇太子などになりうる序列にはない彼が偶然にも皇太子になり、皇帝になりたいと思ったこともない人物が皇帝になろうとしていたのです。そしてそのままいけば武媚は皇太子妃、さらに皇后になれるはずでしたが、そう簡単にはいきませんでした。


649年に太宗が死ぬと、彼の寵愛を受けた側室はすべて寺に送られ、そこで尼として生涯を送ることになっていたからです。則天武后も寺に送られましたが、彼女には信じられないような幸運が巡ってきます。皇帝となった高宗は淑妃という側室を寵愛してその部屋に入りびたり、皇后には合いにも来なかったので、皇后はかつて高宗が寵愛した武媚を寺から連れ戻し、高宗の側室への関心を逸らそうとしたのです。その結果武媚は後宮に返り咲き、皇帝は皇后の思惑通り淑妃への関心を失ってしまいます。しかし皇帝は淑妃の下に通わなくなっただけでなく、皇后からもさらに足が遠のきます。しかも武媚は皇帝の子を宿していました。


 そこで今度は皇后と淑妃が手を組み、武媚の抹殺を画策します。これに対抗して武媚が打った手は常軌を逸するものでした。生まれたばかりの娘を皇后が見舞いにきたのですが、その直前に武媚は娘を殺害し、皇后に罪をなすりつけ、やがて皇后と淑妃を残忍なやり方で処刑してしまいます。この話がどこまで事実なのかは分かりません。何分、則天武后の死後唐が復活すると、人々は則天武后を口を極めて非難し、「女禍」の典型として書き残したため、少なくとも事実より大げさに書かれていることは確実だと思われます。ただその後の彼女の冷酷さから考えて、彼女の行為がまったく事実無根ということはないと思われます。


 皇后が死ねば、いよいよ武媚が皇后となるわけですが、彼女は太宗の側室でもあり、従って近親相姦ということになるため、容易に重臣たちの同意を得られませんでした。そのため、皇帝は反対した重臣たちを左遷し、655年にようやく武媚を皇后とすることができました。その後は、皇帝が政治に無関心だったため彼女が政治の実権を握ります。683年高宗が死ぬと、子の李顕(中宗)が即位しますが、中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、中宗を廃位しその弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立します。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじる事を余儀なくされます。そしてついに690年、彼女は睿宗を廃位して自らが皇帝となり、周王朝を樹立したのです。


 則天武后は、評価することが大変難しい女性です。第一、その後の歴史家が彼女をことさら悪く書いたため、どこまでが真実なのかはっきりしません。確かに彼女は相当に残虐な女性で、中国三大悪女(前漢劉邦の皇后呂后・清末の西太后)の一人に挙げられています。しかし唐の太宗李世民は兄を殺して皇帝となっているし、明の朱元璋も密告政治によって多くの人々を殺しています。おそらく彼女がことさら悪く言われるのは、何よりも彼女が女性だったからからだろうと思われます。

儒学は、親子・君臣の秩序を重視し、巨大な中国社会に一定の秩序を与えていましたが、女性の役割を軽視していたため、則天武后のような政治的野心をもった女性が表舞台で活躍することを嫌いました。孔子の「女子と小人はやしないがたし」という有名な言葉の本来の意味がどこにあるのかはよくわかりませんが、少なくとも後世の人々は、これを言葉通りに女性蔑視という意味でとらえたことは間違いありません。

確かに男性を中心とした考えは、近代以前の多くの社会に共通し、今日女性蔑視の代表のように言われているイスラーム教などは、当時の時代にあっては女性をよく尊重した方です。男尊女卑の社会の正否についてはここでは論じません。ただ非常に長い期間、こうした考えに基づいて社会秩序が築かれてきたことも事実です。これに対して不満を持つ女性も多数いたでしょうが、多くはそれを表に出すことなく終わりました。しかし則天武后は違いました。なぜ男性が多くの女性と関わってよくて、女性はいけないのか、なぜ皇帝には男性しかなれないのか、こうした疑問を打ち破り、彼女は自ら皇帝となろうとしました。とはいえ、唐王朝は「李」姓の王朝であり、彼女は「武」姓でしたので、唐王朝の枠組みの中では皇帝になることができませんでした。そこで彼女は「周」という新しい王朝を創設したのです。それは「武」姓の王朝「武周」です。

則天武后はまれにみる政治的センスの持ち主でした。唐では科挙が実施され、その合格者が官僚に採用されるという能力主義が行われていましたが、実際には唐建国の功労者を中心とした貴族集団が力を持ち、科挙官僚は採用されてもほとんど出世することができず、不満を抱いていました。則天武后はこの科挙官僚を利用し、自分に快く思わない貴族たちと対抗させたのです。それは中国において、魏晋南北朝時代以来の貴族社会が崩壊していく時代と一致しており、まさに彼女はその時代的風潮を利用したのでした。これが男なら才覚によって出世した人物と称えられるのでしょうが、女であるが故に悪女と非難されることになります。

 則天武后の晩年は孤独でした。「武」姓の「周」を継ぐ後継者がいないため、結局「周」は彼女一代で終わることが明らかだったからです。彼女は、重臣たちの説得に応じて、かつて廃帝とした中宗に帝位を譲ることにしました。もちろん中宗は則天武后の息子であり、血統は引き継がれますが、中宗はあくまで唐の李姓であって、彼が継ぐということは唐の復活を意味します。王朝と「姓」は不可分の関係にあります。王朝とは、天がその王朝の創建者とその子孫が天下を支配することを命じたものであり、勝手に姓を変更することは許されません。やがてその王朝が衰退し、新しい姓による新しい王朝が生まれるのも天の意志です。したがって姓はその王朝に絶対的な正統性を与えるものなのです。

 705年中宗が即位してまもなく則天武后は死にます。その結果則天武后が生涯をかけた武周の革命は、唐王朝の中断として位置づけられて歴史から抹殺されます。つまり、則天武后は中国史上唯一の女帝と言われますが、正史の世界では彼女は帝位の簒奪者であって、女帝ではありません。その後中宗の皇后である韋后が近親者に権力を与えて政治を私物化し、さらに娘とともに中宗を毒殺するに及んで、中宗の弟睿宗の息子李隆基がクーデタを起こして韋后母娘を殺害し、父の睿宗を復位させます。この李隆基こそが、唐王朝の空前の繁栄の時代を現出することになる玄宗皇帝です。そしてこの玄宗皇帝の晩年に、楊貴妃が登場することになります。

 ドラマでは、武媚は、けっして諦めることをしない強烈な意志を持った女性として描かれます。多くの幸運に恵まれたとはいえ、彼女はあらゆる既成の概念を覆し、自らの意志を貫徹していきます。その彼女をもってしても、王朝と姓の問題、さらに女であることの不利を克服することはできませんでした。彼女が実際にそのような女性であったかどうかは、分かりません。彼女はこの程度の言葉では表現しきれないほど複雑な人物だったと思います。

 なお、日本との関係でいえば、この頃日本は朝鮮の百済と連合して唐と戦い、白村江の戦いで敗北します。正史の世界では、それは高宗の時代ということになりますが、この時代は事実上則天武后が実権を握っており、彼女が長安から唐軍を指揮していたのです。つまり日本は、則天武后との戦いに敗れて、朝鮮での足場を失ったのです。それは大化改新が始まってまもなくのことであり、この頃から日本は唐にならって急速に「近代化」を進めていくことになります。

   洛陽の郊外にある龍門の石窟 則天武后の寄進により建造されたとされる盧舎那仏で、17メートルを超える巨大な仏像です。その顔は則天武后に似せて造られたとされていますが、果たして似ているのでしょうか。日本の東大寺の盧舎那仏建造は、この仏像の影響だったとされています。










楊貴妃


   2005年に放映された、全30回からなる連続テレビドラマで、楊貴妃は玄宗皇帝の寵愛を受け、最後は処刑という非業の死とげた女性です。


玄宗は睿宗の第3子であり、睿宗の廃位後は幽閉も同然の状態にありました。70520歳になった時則天武后が退位しましたが、その後韋后が実権を握り、中宗を毒殺します。こうした中で玄宗は周到な計画を練り、710年自ら武器をとってクーデタを敢行し、韋后一族を殺害し、父睿宗を皇帝に復位させます。玄宗が25歳の時でした。彼は皇太子となりますが、この時から50年近く玄宗が実権を握り、唐の空前の繁栄の時代を現出します。しかし治世の半ばになると政治に倦()み、政治は側近に委ねるようになります。要するに倦怠期に入ったわけですですが、そうした中で、彼は楊貴妃に出会い、楊貴妃との愛にのめり込んでいったようです。


問題は楊貴妃が玄宗の息子の妃だったということです。この息子は十八番目に生まれた子供だったので十八皇子と呼ばれ、玄宗からとくに可愛がられていました。当初玄宗は息子の結婚を喜んでいたのですが、しだいに楊貴妃への思いを募らせ、ついには彼女を自らの側室にしてしまうわけです。玄宗は英明な君主であり、道徳心と自制心をもった君主であり、決して女性にだらしない人物ではありませんでした。しかし彼は30歳も年下の楊貴妃に心底恋をしてしまったようです。とはいえ、息子の嫁を父親が娶るということは近親相姦になります。そこで、740年、一旦楊貴妃に出家させ、道教の寺院(道観)に入れて女道士とすることで、夫との縁を断ち切らせ、その上で玄宗の側室とします。22歳の時でした。したがって楊貴妃は5年間道士の身分のまま過ごしますが、やがて正規に側室に迎えられ、後宮では最上位の貴妃の身分を与えられます。


妻を父に奪われた子、夫の父に嫁ぐことを強制された妻、それぞれどんな思いだったのか想像もできません。ドラマは、二人の苦悩、そして子の妻を奪う皇帝の苦悩を描いていますが、あくまでもそれは創作であり、実際にどのような思いであったかは、とうてい想像がつきません。妻を奪われた息子は、それでも生涯父に従い、楊貴妃は運命に身を委ねて皇帝の寵愛を受け続けます。


皇帝による楊貴妃への寵愛が世を乱し、楊貴妃の従兄楊国忠が権力を独占し、節度使の安祿山との対立から安史の乱が起き、これをきっかけに唐が衰退に向かっていくため、楊貴妃が諸悪の根源のように言われました。しかし楊貴妃自身は権力や政治にあまり関心がなく、政治に口出しすることもほとんどなく、また身内を引き立てたりすることもほとんどありませんでした。しかし皇帝の寵愛を受ければ、周りが放っておきません。例えば楊国忠は、直接楊貴妃に推薦を求めたりしませんでしたが、楊貴妃の従兄であるという事実を最大限に利用します。楊貴妃への皇帝の寵愛のおこぼれにあずかるべく、多くの人々が彼の周りに群がり、それを利用して彼は宰相にまで上り詰めます。楊国忠は切れ者で、有能な政治屋でしたが、もともと賭博師のようなことをしていた人物で、深い洞察力をもった政治家とはいえませんでした。彼は権力を操り、それがやがて節度使安祿山との対立を招き、安史の乱が勃発することになります。

安祿山は、大変興味深い人物です。彼はソグド人と突厥人との混血で、「雑胡」として蔑まれる人種でした。早くに父を失い、やがて商人として各地を移動します。彼は6か国語を操る国際人でした。その後武勇を認められて唐に軍人として採用され、多くの軍功をあげて地方の軍事支配者である節度使に任命されます。結果的に、彼は唐に対して反乱を起こしたため、史書は彼について「狡猾で残忍」などという悪口を並べ立てます。しかし、ドラマでの安祿山は、純朴で、自分を引き立ててくれた皇帝への絶対的忠誠心を持ち、楊貴妃を敬愛し、養子にしてもらいます。もっとも楊貴妃より10歳も年上の養子でしたが。やがて安祿山は宮廷の陰謀に巻き込まれ、755年、自らが倒される前に反乱を起こすことになります。なお、彼は200キロ近い巨体でしたが、弓馬に優れ、またコマのように舞うことができたとされます。もっとも200キロ近い巨体では、相当丈夫な馬でないと耐えられなかったでしょう。
  
  唐は100年もの間平和を享受してきたため、軍隊が弱体化しており、実戦で鍛えられた安祿山の軍隊には太刀打ちできませんでした。またたくまに、副都洛陽が陥落し、都長安の陥落も時間の問題でしたので、玄宗と楊貴妃は長安を脱出して西方に逃れます。その途上、兵士たちは反乱の原因をつくった楊国忠を殺害し、さらに皇帝に楊貴妃の処刑を求めます。兵士や民衆にとって、混乱の諸悪の根源は楊貴妃でした。玄宗は楊貴妃には何の罪もないことをよく知っていましたが、もはや兵士たちを抑えることができず、貴人を処刑する作法として絹の紐で絞め殺すことを許可します。楊貴妃が38歳の時でした。彼女が殺されたとされる場所に、現在墓が建てられています。一方玄宗は、楊貴妃の死の6年後、762年に長安で寂しく死んでいきます。

  楊貴妃のように、皇帝に寵愛され、そして非業の死をとげた女性はいくらでもいます。後世、彼女は中国四大美人とか世界三大美人とか言われ、大変な美貌の持ち主だったようですが、どのような容姿を美人と見るかは時代により、また人によって異なるでしょう。例えば、中国では一般にほっそりとした体形が好まれますが、唐代にはペルシアの踊り子の影響もあってか、豊満体形が好まれたといいます。そして楊貴妃は豊満体形であったとされています。つまり、彼女は唐の時代だったから美人と称されたのだともいえます。また彼女は音楽や舞踏に秀でていたとされますが、この点でも他にもっと優れた人はいたでしょう。

何よりも玄宗皇帝が寵愛したのは、彼女の人柄だったのではないかと思います。後宮には3000人もの女性がいたとされ、後宮内ではつねにライバルの追い落としを図って、凄まじい権力闘争が展開されます。則天武后がその典型でした。王昭君も、その闘争の犠牲となって匈奴に嫁ぐことになりました。ところが楊貴妃は、皇帝の寵愛をあれ程一身に集め、後宮3000人の頂点に立つ身分でありながら、彼女を妬んだり、陰謀によって彼女を追い落とそうとする者が一人もいなかったとされています。仮にそうした者が実際にいたとしても、少なくとも記録に残るような事件には至っていません。このことは、後宮という異常な環境の中にあっては、ほとんど奇跡に近いといえるでしょう。それは彼女の人柄がなせるわざではなかったかと思います。

楊貴妃は、非道にも夫から引き離され、夫の父の側室とされますが、彼女はそれを運命として受け入れ、玄宗の寵愛を受け入れます。だからといってただ何にでも従順だったわけではなく、玄宗とは二度ほど喧嘩をして後宮を出て行ったことがありますが、最後は楊貴妃が玄宗に謝罪して終わりました。皇帝が側室に謝罪することは許されないことを知っていたため、楊貴妃が玄宗に折れたのです。玄宗はこうした楊貴妃がよほど愛おしかったのでしょう。楊貴妃の血縁者に惜しげもなく高い地位を与えますが、楊貴妃自身が頼んだことはなかったとのことです。彼女は、ただ運命に身を委ね、権勢には関心がありませんでした。しかし、楊貴妃の周辺の人々が、彼女の知らないところで彼女を利用し、権勢を強めていき、それが彼女の命取りとなったのです。

楊貴妃の名声が後世に長く伝えられた理由の一つは、二人の偉大な詩人が彼女を詠ったからではないかと思います。一人は、楊貴妃と同時代の李白です。彼はドラマにも登場し、玄宗や楊貴妃にも合っています。四六時中酒を飲み、酔っ払って豪放な詩を詠う天才詩人でした。彼は、楊貴妃をぼたんの花にたとえ、さらに楊貴妃が愛した華清池の名を世に知らしめました。もう一人は白 居易(はくきょい、白楽天)で、彼は楊貴妃の死の50年ほど後に「長恨歌」を書き、玄宗と楊貴妃のロマンスと、その結果唐が衰退していった様を詠いました。この詩が、楊貴妃の名を普及のものにしたといってよいでしょう。日本の「源氏物語」がこの詩の影響を強く受けていたことは、よく知られていることです。

その後楊貴妃について、多くの伝説や作り話がうまれ、人々に語り伝えられました。楊貴妃というカクテルもあるそうです。また、実は楊貴妃は日本に亡命したとか、熱田神宮の守り神になったとか、途方もない話まで生み出されました。それ程、楊貴妃は人々の想像力を刺激することになりますが、多分その実像は、運命に身を委ねて淡々と生き、そして死んでいった女性ではなかったのでしょうか。



「蒼穹の昴」





 















実物の西太后

                          

     
                                   
                                               













                   


  田中裕子の西太后



















 
浅田次郎の小説をもとに、日中共同で制作され、2010年に放映されたテレビ・ドラマです。全25回で、西太后を田中裕子が演じています。実は、西太后はこのドラマの主人公ではないのですが、ドラマでの西太后のイメージは強烈であり、ここでは西太后を中心に述べたいと思います。田中裕子の西太后は、母のように優しい目と、冷酷な判断を下す時の目の相違が印象的でした。さすがに彼女は芸達者な女優です。また田中裕子は「おしん」を演じた女優であり、「おしん」は中国でも人気の高いテレビ・ドラマなので、田中裕子の西太后は中国でも話題になりました。特に、今まで西太后を演じた役者の中で、彼女が最も西太后に似ているとの評判です。でも、それは実際に似ているというより、彼女の演技力によるものではないかと思います。

西太后が生きた時代は、激動の時代でした。60年におよぶ乾隆帝の繁栄の時代の後、アヘン戦争やアロー戦争などで外国の侵略を受けるようになります。西太后が登場するのは、そうした時代でした。1852年、アヘン戦争後の社会が騒然とする中、その2年前に大規模な農民反乱である太平天国の乱が勃発している中、西太后は18歳で後宮に入ります。そして彼女の幸運は、1856年に咸豊帝の唯一の男子を生んだことであり、以後彼女はこれを基にして権力を握っていきます。奇しくもこの年、アロー戦争が勃発します。そしてアロー戦争が敗北に終わった翌年の1861年に咸豊帝は死去します。その結果、西太后の息子同治帝がわずか5歳で皇帝に即位し、当然西太后が実権に握ることになります。丁度この頃日本は欧米に開国を強要され、激しい内部対立を経ながら明治維新へと向かいつつありました。中国と日本との運命の分かれ目の時代だったといえるでしょう。

1875年同治帝が19歳で死去すると、西太后は自らの妹の息子光緒帝を皇帝に即位させます。光緒帝は当時まだ3歳であり、当然西太后が実権を握り続け、光緒帝が成人しても実権を渡しませんでした。ドラマは、この頃から始まります。この間中国は清仏戦争・日清戦争を経て、清朝の衰退は決定的となります。日清戦争の敗北は中国にとって決定的なダメージとなったはずですが、当時の宮廷は驚くほど平穏であり、むしろこのことに驚かされます。こうした中で、1898年光緒帝は急進的な官僚などを中心に急進的な改革を企て、急進派の一部が西太后を幽閉しようとします。これに対して西太后はクーデタを起こし、多数の急進派を処刑するとともに、光緒帝を幽閉します。以後光緒帝は、皇帝のままで、1908年の死去まで幽閉状態に置かれます。1908年に光緒帝が死ぬと、その翌日に西太后も死にます。72歳でした。この間西太后は当時まだ2歳だった宣統帝を皇帝に即位させますが、その3年後の1911年に辛亥革命が勃発し、清朝は滅亡することになります。そしてこの時から「ラスト・エンペラー」として有名な宣統帝=愛新覚羅溥儀の波乱に富んだ生涯が始まることになります。

ところで、光緒帝の死が毒殺であったことが、今日判明しています。西太后にとっては、自分の死後も光緒帝が生きていることは許されませんので、西太后による毒殺説が流布しました。しかし西太后の死の前日に光緒帝が死ぬというのは、あまりにタイミングがよすぎるし、他にも光緒帝を毒殺する可能性のある人物が何人もいるので、今日も真相ははっきりしません。

彼女は、則天武后と同様に中国三大悪女の一人に選ばれるという栄誉に浴していますが、これは彼女が女性であるが故の評価だと思います。確かに彼女は保守的な女性でしたが、同じ時代に朝鮮王朝で活躍した大院君も保守的な政治家であるにもかかわらず、名君と称されており、これは不公平です。

また、彼女は残虐な女性であったという評価があります。特に1984年に中国で制作された映画「西太后」では、彼女の残虐性が強調されていましたが、それはほとんど作り話であり、事実とは異なります。何よりも彼女の地位は、皇太子を生んだことにより比較的安定しており、則天武后のような凄まじい権力闘争を行う必要がありませんでした。ただ一つ、彼女が行った残虐行為として知られているのは、光緒帝の妃を井戸に投げ落として殺させたことです。光緒帝の妃は、光緒帝に西太后から自立して政治を行うべきだと進言しており、西太后はこのことを許すことができなかったようです。義和団の乱に対して欧米連合軍が北京を占領する直前に、西太后は北京を脱出しますが、その際に部下に妃の殺害を命じ、それは実行されました。彼女は必ずしも残虐な女性ではなかったようですが、権力と保身にはかなり強い執着をもっていたようです。もちろん後宮に生きる女性にとっては、この程度の行動は自分が生き延びるために必要不可欠なことではありました。後宮とはそれほど異常な世界であり、その異常な世界にあって西太后はましな方だった、と言えるのではないでしょうか。

ただ彼女の限界は、満州人による中国支配の維持がすべてである、ということにありました。彼女にとって、中華文明や国家の誇りということは二次的問題でしかなく、あくまでも国家=清朝=西太后であって、西太后を守ることが国家・清朝を守ることでした。この限りにおいて、彼女は有能だったといえるでしょう。彼女の時代は晩年を除けば比較的安定しており、彼女はうまく政権を運営したと言えるでしょう。したがって、彼女は清朝を多少長く生き延びさせることに成功したと言えるかもしれませんが、この時代にあっては、清朝の存続が長引くほど、その後の中国の苦しみはより大きくなることになります。中国は、彼女の治世の間に、完全に時代から取り残されてしまっていたのです。西太后は、権力を巧みに操る能力には長けていましたが、則天武后のような先見の明と破壊力に欠けていました。則天武后が既存の価値観を果敢に破壊しようとしたのに対し、西太后は既存の価値観を守ることによって自己の権力を守ろうとしたように思われます。

ドラマ全体に、紫禁城・科挙・宦官・京劇など、大変興味深い場面が観られました。また、西太后は、従来怪物のような悪女として描かれることが多かったのですが、人間としての西太后が描かれていました。それがどこまで実像に近いかは分かりませんが、あまり一面的に西太后をとらえてはいけないことを、このドラマは教えてくれました。

 また、私がこのドラマの中で一番興味をもったのは、伊藤博文との関わりです。光緒帝を中心とする改革派は、当時たまたま中国に来ていた伊藤博文に接触し、政府の顧問となってくれるよう依頼します。西太后は、これまで光緒帝の改革に口を出さずに見守っていたのですが、この話を聞いて烈火のごとく怒ります。彼女にとって、これは清朝の命運を外国人に委ねるといことであり、清朝の命運とは彼女の命運でもありました。彼女は、光緒帝を幽閉し、改革者を次々と処刑していきます。これが戊戌の政変と呼ばれる事件です。ただ、伊藤博文の動向が戊戌の政変のきっかけとなったという説には異論が多く、そのまま受け入れることはできません。しかし、混迷を続ける中国にあって、様々な所で様々な動きがあったのは事実で、伊藤博文の件もそういった動向の一つだったのだと思います。

  ところで、「蒼穹の昴」というタイトルは、どういう意味なのでしょうか。私は原作を読んでいないで、よく分かりません。ドラマを見ても、今一つはっきりしませんでした。まず、

「蒼穹」は青空とか大空を意味し、「昴」は中国では幸運の星座だそうです。昴は青白い光を放つ星団で、とくに七つの星がよくみえるようです。ヨーロッパではプレアデス星団と呼ばれ、ギリシア神話では七人姉妹を表しているそうです。このドラマでは、主人公の二人の兄弟と西太后がこの星の下に生まれ、強運をもっているとされます。事実一人は宦官として西太后に寵愛され、一人は科挙の首席合格者として皇帝の側近となり、西太后は権力を極めます。しかし、最後には、一人は志敗れて日本に亡命し、一人は故郷に帰り、西太后は清朝滅亡の直前に孤独の中で死んでいきます。したがって、結局昴の幸運はこの三人に幸運をもたらしませんでした。実は、そのような幸運など初めから存在しなかったということなのかもしれません。


[付録]「秋瑾」


この映画は、2011年香港で制作された、中国の女性革命家の生涯を描いたものです。この女性は、日本ではあまり知られていませんが、中国では女性解放と革命に大きな影響を与えた女性として知られています。また彼女は1年半ほどでしたが日本に留学しており、日本にもいろいろ足跡を残しています。

秋瑾は、1875年に生まれ、1907年に31歳で死にます。1875年といえば光緒帝が2歳で即位し、西太后が実権を握っていた時代であり、秋瑾が死んだ1907年の翌年に西太后が死にます。まさに秋瑾は西太后と同じ時代に生きた女性でした。彼女は、幼少の時から乗馬や剣舞を習うなど活発な女性でしたが、二十歳になる前に父の決めた男性と結婚し、二人の子をもうけます。しかし当時中国は、日清戦争の敗北、列強による分割、義和団事件など混迷を極めており、こうした中で秋瑾は安穏と生きていることに耐えられず、夫も子も捨てて日本への留学を決意します。1904年のことです。この年日露戦争が勃発します。

日本での秋瑾は女学校で学ぶとともに、読書・執筆にふけり、さらに射撃の練習にも励んだとされます。1905年、日本では日露戦争の勝利に沸いており、そうした中で孫文が東京で、中国の革命諸団体を結集して中国同盟会を結成します。この時秋瑾は孫文の講演を聞き、感動して孫文に直接会って話したとのことですが、話の内容は不明です。この年、日本の政府は中国の留学生の革命運動を弾圧しようとしますが、これに対して秋瑾は、留学生たちの前で短刀を演台に突き刺し、激烈な演説をします。留学生は今すぐ国に帰るべきだ、帰らない者は死刑にするとまでいったそうです。そしてこの年彼女は帰国します。

彼女のこの演説を、後の中国の大作家魯迅が聞いていました。彼は東北医科大学に留学しますが挫折し、何をなすべきか悶々と悩んでいた時代でした。そして秋瑾の演説で、彼は彼女に死刑を宣告された留学生の一人でした。今日では、魯迅は中国近代文学の開拓者として知られていますが、当時は無名の留学生でしかなかったので、秋瑾の眼中には入ることはなかったと思われます。しかし魯迅は彼女のことをよく覚えており、後に彼女についていろいろ書き残しています。

彼女は国に帰ると学校を設立し、革命を志す人々に軍事訓練を施します。そして1907年、仲間と武装蜂起の計画を立てますが、事前に察知されて逮捕されます。映画では、この時秋瑾が軍隊を相手に派手な立ち回りを演じますが、実際には短刀を抜く暇もなかったとのことです。そして逮捕の翌日、公衆の面前で斬首されました。真偽のほどは定かではありませんが、彼女は処刑を決めた役人たちに向かって、「やがて、お前たちの名前は、死せる猫、死せる犬の如く忘れ去られてしまうはずだったのだ。だがお前たちが、この秋瑾、この中国女性の生みだした女革命党員を殺すおかげで、お前たちの臭い臭い名も、私と一緒に長く長く歴史に残ることができるのだ」と言ったとされます。まさに彼女は、激動の時代を激しく生きた女性でした。日本滞在中に撮ったもので、和服姿で、短刀をもった秋瑾の写真が残っていますが、彼女の生き様を象徴しているように思えます。

彼女の処刑に対する民衆の反応は、想像をはるかに超えるものでした。国のために命をかけて闘う女性、反乱を企てたとはいえ未遂でしかない女性、こんな女性を裁判にもかけず、逮捕の翌日処刑するなどということが許されるのか。これをきっかけに、民衆の心は清朝から完全に離れてしまい、彼女の処刑の4年後に滅びます。そして西太后は、秋瑾の名など耳にすることもなく、彼女の処刑の翌年に死にました。なお、彼女の処刑に関わった人々は民衆に忌み嫌われ、自殺したり人目を避けていきたり、ろくな余生は送らなかったようです。

 なお、彼女は革命家であると同時に、中国における女性解放運動の先駆者でもありました。中国では、女性は家に閉じ込められ、教育を受けることも許されず、ただ夫に従うのみという状態にありました。こうした現状を抜け出すため、秋瑾は、比較的女性解放が進んでいたとされる日本への留学を決断したとされます。もちろん日本の明治時代末期に女性解放がそれほど進んでいたとは思えません。この時代の日本の女性も大多数が中国と似たような状況に置かれていました。それでも日本では、すでに樋口一葉や与謝野晶子のような女性文学者が誕生しており、さらに1900年には津田梅子が従来の良妻賢母育成の教育機関ではなく、学問教育を中心とする津田英語塾を設立していました。

もちろん、日本でも中国でも、男女平等を説くことは勇気のいることであり、むしろ女性の間でさえ、反発する者の方が多かったと思われます。そうした中で彼女は、「中国では女はいつも抑圧されている。まず外形から男になり、心まで男になりたい」と語ったと言われ、20歳代後半からは男装するようになります。そして帰国後は、男性の軍服を着て、男性たちに軍事訓練を指導したのですから、明らかに彼女は男以上の存在になっていたと言えるでしょう。
 とはいえ彼女も二人の子の母でした。すでに死を覚悟していたとはいえ、幼い子供たちを残して死ぬことは、耐え難い苦しみだったに違いありません。