アフリカに関する映画を何本か観ました。その中で特に印象に残った映画を紹介したいと思います。ただし、アフリカに関する映画とはいっても、ほとんどは欧米で制作された映画であり、したがって欧米的な視点で観たアフリカに関する映画です。
「レッド・ダスト」
2004年制作の、イギリスと南アフリカの合作映画です。この映画鑑賞記の最初に紹介した「ツォツィ」という映画は、黒人政権成立後の南アフリカの社会矛盾を描いた映画でしたが、「レッド・ダスト」も南アフリカが抱える問題を、別の角度から捉えた映画です。
南アフリカでは、長い間アパルトヘイト政策が実施され、人口の80パーセント以上を占める黒人は人間以下の扱いをうけてきましたが、1991年にアパルトヘイト法が廃止され、1994年に全人種が参加する大統領選挙の結果、黒人であるネルソン・マンデラが大統領に選ばれました。マンデラ大統領が最も重視したのは、黒人による白人への報復を避け、全民族の和解を進めることでした。その一環として設置されたのが民族和解委員会で、アパルトヘイト時代に白人が黒人に対して行った残虐行為をすべて自白すれば、恩赦が与えられるというものです。
映画は、かつて反アパルトヘイトの闘士で、秘密警察の警官から拷問を受け、今は国民的な英雄として有力な政治家となっているアレックスという人物が、この警官を訴えたことから始まります。そしてこの警官は民族和解委員会で供述することになったのですが、恩赦を受けるためにはすべてを自白する必要があります。しかしこの警官は、かつて秘密警察の黒幕だった人種主義者を守るため、すべてを語っていませんでした。アレックスは警官にすべてを語るよう求めるのですが、その過程で意外な事実が判明します。アレックスは、拷問されて意識が朦朧としていたとはいえ、仲間を裏切ってしまっていたのです。しかし、アレックスは自分の名声と政治生命を捨てる覚悟で仲間を裏切ったことを公表し、真実を追求することを決意します。「レッド・ダスト」という映画のタイトルは、拷問されて血まみれになり、塵のように捨てられた黒人の姿を表現したものと思われ、黒人に対する当時の迫害がいかに凄まじいものだったかを示しています。
一方、この映画にはサラという白人の女性弁護士が登場します。彼女は子供の時から黒人と仲良くしていたため人々から非難され、アメリカに移住して弁護士となった女性です。アパルトヘイト法の下では、黒人に対する迫害だけではなく、黒人に同情する白人に対しても厳しい迫害が行われたのです。彼女は、アレックスの弁護士として警官を追求し、アレックスとともに真実を暴いていきます。
この映画は、南アフリカの困難さをよく描いています。映画では、アパルトヘイトの残酷さと、それによって人々の心に残った傷の深さが描き出され、民族融和が掲げられているとはいえ、それほど簡単に人種的対立が解消されない現実が描き出されています。しかし2010年にはサッカーのワールドカップが南アフリカで開催されるなど、少しずつではありますが、問題の解決に向かっているように思われます。
「マンデラの名もなき看守」
2007年、ドイツ・フランス・南アフリカなどにより制作された映画です。
ネルソン・マンデラは、1918年に生まれ、弁護士の資格をとった後、反アパルトヘイト運動に打ち込むようになります。しかし1962年に逮捕されて終身刑となり、1990年に釈放され、1994年に大統領になります。この間、実に28年間も獄中で暮らすことになります。
この映画は、たまたまマンデラが投獄されている刑務所に赴任したグレゴリーという看守が、後に刑務所でのマンデラについて記した手記を映画化したものです。グレゴリーは南アフリカのほとんどの白人と同様に、アパルトヘイトに何の疑問ももたず、黒人を人間以下と考えていました。ところが、彼は刑務所でのマンデラの毅然とした態度に感銘を受け、黒人への偏見やアパルトヘイト政策に疑問を抱くようになります。マンデラに好意的な態度をとるグレゴリーは、他の白人から嫌がらせを受け、退職することも考えました。しかし、反アパルトヘイト運動でのマンデラの名声が高まると、彼はマンデラとのパイプ役としてマンデラ専属の看守となり、やがてマンデラの釈放に立ち会います。
それにしても、28年間もの獄中生活に耐え続け、反アパルトヘイト運動の象徴であり続けたマンデラの精神力には驚嘆します。それに対して、グレゴリーはまさに名もなき一介の下級役人にすぎません。しかし、マンデラは大統領就任の祝賀パーティーにグレゴリーを招待しました。人間の価値は一つの基準だけで評価されるものではありません。グレゴリーの価値は、マンデラに出会って真実に目覚め、戸惑いながらも真実から目を背けることなく行動した彼の良心にあるのだと思います。
「ルムンバの叫び」
2000年、フランス、ドイツ、ベルギー、ハイチにより制作されました。
この映画は、コンゴ独立運動の指導者ルムンバが1961年に暗殺されるまでの数か月を描いたものです。コンゴは19世紀末以来ベルギーの植民地となり、そのもとで過酷な搾取と迫害が行われてきました。しかしルムンバらを指導者とする独立運動が高まり、1960年に独立を達成し、ルムンバが初代首相となります。ところが、ベルギーは鉱物資源の豊富なコンゴからの撤退を拒否し、部族紛争に介入してコンゴに居座り続けました。こうした混乱の中でルムンバは暗殺されますが、誰がルムンバを暗殺したのかは分かりません。ルムンバの反対勢力による暗殺、ベルギー人の傭兵による暗殺など色々な説があります。この映画ではアメリカが暗殺を指示したということになっています。もちろんアメリカは否定していますが、結局アメリカに支持されたモブツが権力を握り、1997年に失脚するまで32年間も独裁政権を維持することになります。
ルムンバは欧米諸国の利害の犠牲となりましたが、コンゴには250を超える民族集団と700を超える地方言語が存在するため、これを一つの国とするのには無理がありました。結局、モブツの死後コンゴは内乱状態に陥り、この間に多くの人々が虐殺され、それは現在も続いています。そして、このような現象は他の多くのアフリカ諸国にも見られる現象です。それは、19世紀のヨーロッパで発明された国民国家という概念をアフリカに適用しようとした結果起こった悲劇というべきだと思います。
「ルワンダの涙」
この映画は、2005年にイギリスで制作され、ルワンダでの虐殺を描いたものです。原題はShooting Dogsです。
ルワンダは、コンゴに隣接する小国で、ドイツ・ベルギーの植民地支配を経て、1962年に独立しました。ルワンダでは、植民地時代以来、多数派のフツ族と少数派のツチ族の対立があり、この対立はコンゴも巻き込んで現在まで続いています。植民地時代にドイツやベルギーは少数派のツチ族と結んで多数派のフツ族を支配していましたが、独立後フツ族はフランスの支援を受けてフツ族の独裁政権を樹立し、ツチ族を迫害するようになります。これに対してツチ族はイギリスの援助を受けてフツ族政権に対抗したため、両者の対立が激しくなり、1990年頃から内戦状態となります。それはちょうど南アフリカでマンデラが釈放された頃です。こうした中で1994年、突如フツ族政権によるツチ族に対する大量虐殺が始まります。人口700万人余りのルワンダで、100日余りの間に80万人以上の人々が虐殺されたといわれています。
この映画は、この虐殺の実態を描いており、多くの人々がナタで切り殺される場面も登場します。そして運良く虐殺から逃れてイギリスに亡命した人たちが、この映画の作成に関わりました。したがってこの映画では、フツ族=悪、ツチ族=善といったイメージで描かれる傾向があるのですが、実際にはそれ程単純ではありません。もし立場が変われば、ツチ族の方が虐殺者になっていたかもしれません。映画では、善良なフツ族の青年が突如悪魔のような虐殺者に変貌していく姿が描かれていますが、このことはツチ族についてもいえると思います。
20世紀に入ってから、ジェノサイド(人種絶滅)と呼ばれる大量虐殺が各地で繰り返されるようになりました。代表的なジェノサイドとしては、ナチスによるユダヤ人の虐殺が最も有名です。このことの背景には、一つの民族による一つの国家という国民国家の概念が普及したことがあります。現実には一つの民族による国家などあり得ないので、異質なものを排除するという考えが生まれてきます。これがジェノサイドです。一つの人種を抹殺してしまうという発想には想像を絶するものがありますが、かつて日本は朝鮮支配において、大量虐殺こそ行わなかったものの、朝鮮文化を抹殺し朝鮮人を日本人化する皇民化政策を実行しましたが、これも広い意味ではジェノサイドと言えるかもかもしれません。
ルワンダでの虐殺は、紛れもなくジェノサイドでした。しかもこれが起きた背景には、コンゴの場合と同じように、欧米の利害が深く関わっていたのです。一方、当時バルカン半島でボスニア紛争が起きており、1995年には8千人以上もの人々が虐殺されるジェノサイドが行われました。欧米諸国からすれば、アフリカ奥地での事件よりボスニアでの事件の方がはるかに重要でしたから、国連軍が出動して調停に乗り出しました。そして同じころ、ルアンダに駐屯していた国連軍は、事態の収拾を断念して撤退しました。
結局ルワンダでは、虐殺の勃発に対抗してツチ族の武装勢力が全土を制圧し、ツチ族の政権が成立することになります。この政権は、民族の区分を行政から排除するなど比較的安定した政権となっていますが、同時に200万人を超えるフツ族がコンゴなどの周辺諸国に流出し、これらの国の不安定要因となっています。コンゴのモブツ大統領が失脚したのは、ルワンダ紛争によって誘発された国内での民族紛争が原因となっているのです。
「約束の旅路」
2007年にフランスで制作された映画で、エチオピアのユダヤ人の少年がイスラエルに移住し、やがて自己のアイデンティティを見出していくという物語です。この物語には複雑な歴史的な背景があり、どこから説明してよいのか見当もつきません。第一、エチオピアにユダヤ人がいるということ自体、一般の人々には想像もつかないことです。
伝説によれば、紀元前1千年ころ現在のイエメンにあったシバの国の女王が、ヘブライ王国のソロモン王を訪れた際、ソロモン王との間に子供をもうけ、ユダヤ教に改宗して帰国したとのことです。そしてその子孫がエチオピアに渡り、その結果エチオピア北部にユダヤ教の集落が生まれ、それが現在まで残ったというのです。この話の真偽はともかく、イエメン方面には多数のユダヤ教徒がいたのは事実であり、イエメンとエチオピアとは古くから紅海を渡って交流が行われたのも事実です。そしてエチオピアの北部に10万人を超えるユダヤ人が住んでいたのも事実です。
ここで、ユダヤ人とは何かという問題が発生します。ユダヤ教を生み出したヘブライ人は、もともとアラビア半島出身のセム系民族です。ところが、1世紀から2世紀ころに彼らの国がローマ帝国によって滅ぼされると、彼らは世界中に離散し、世界各地に居住するようになります。そして居住地域での混血を通じて、彼らはその地域の人種と同化していきます。例えばヨーロッパのユダヤ人には白人が多いし、エチオピアのユダヤ人は黒人です。つまりユダヤ人とは特定の人種を指しているのではなく、ユダヤ教を信じ自らをユダヤ人であると考えている人々がユダヤ人なのです。
もう一つの背景は、1947年におけるイスラエル国の建国です。ナチス・ドイツによって迫害されたヨーロッパのユダヤ人は、自らの国をもつことを希望し、パレスチナにイスラエル国を建設しました。しかし彼らが建国した場所は無人の場所ではなく、古くからアラブ人が住んでいた場所であり、その結果アラブ人との戦争が勃発し、4次に及ぶ中東戦争が起きることになります。こうした中で、イスラエルは建国当初ユダヤ人が80万人程度しかいなかったため、世界各地に散らばっているユダヤ人の移住を進めました。例えば、1949年にイスラエルの秘密警察は、イエメンのユダヤ人をイスラエルに移住させます。この作戦は「魔法の絨毯作戦」と呼ばれ、この結果イエメンのユダヤ人のすべてがイスラエルに移住することになりました。
ここでようやく本題に入ることができます。エチオピアでは、1970年代から内乱状態になり、独裁政権の下で多数の人々が虐殺されたため、大量の難民がスーダン南部などに流れ込みました。その中にユダヤ人も含まれていたため、イスラエルはエチオピアのユダヤ人をイスラエルに移住させることを決定します。1984年の「モーセ作戦」と1991年の「ソロモン作戦」により、10万人以上のユダヤ人がイスラエルに移送されました。その中に、この映画の主人公の少年が含まれていました。しかし、彼らエチオピアのユダヤ人たちは、黒人であったために人々から差別されます。かつてヨーロッパでユダヤ人として差別されてきた人々は、今イスラエルで黒人を差別していたのです。
ところが、この少年にはもう一つの隠された真実がありました。実は彼はユダヤ人ではなかったのです。彼の母親は難民として逃げ惑う過程で、ユダヤ人なら救出されるという事実を知ります。そこで彼女は息子の命だけは助けたいと考え、息子の名をソロモンというユダヤ風の名に変え、息子に決してユダヤ人ではないことを言ってはならないと言い含め、息子一人を送り出したのです。これが主人公の少年で、彼は黒人であることによる差別と、ユダヤ人ではないという事実に苦しみながら成長していきます。やがて彼はフランスに留学して医師となり、「国境なき医師団」のメンバーとしてエチオピアの難民キャンプを訪れ、そこで彼はアフリカ人としての自らのアイデンティティを見出すことになります。そしてこの難民キャンプに母が生きていました。この映画は、息子を発見した母の絶叫とともに終わります。
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