2014年1月10日金曜日

第7章 南アジアと海域世界

 



1.インドの統一

2.サータヴァーハナ朝とクシャーナ朝

3.海域世界の形成










1.インドの統一


 インドには、農業生産上三つのインドが存在します。インダス川流域の麦生産地域、ガンジス川流域の稲作地域、デカン高原=南部の綿花栽培地域で、やがてこれら三つの地域が政治的にも経済的にも統合されていくことになります。アーリヤ人がインダス川流域からガンジス川流域に進出し、各地に都市国家を形成するようになり、遠隔地の交易も活発に行われ、織物、金銀・象牙細工、宝石などの高級特産品や、鉄製品などが商われました。また、西インド産の馬が、ガンジス川流域の諸国に運ばれて売られまし。これら大商人以外にも、多くの行商人たちが、荷を背負ったり、驢馬に乗せたりして、村や町を渡り歩きました。主な街道には所々に関所が設けられており、商人から通行税などが徴収されていました。遠洋航海の技術もかなり発達し、こうした交易路を通じて、インドは西方に鉄製品・綿織物・宝石など輸出しました。

 




これら多くの都市国家の中で、前5世紀頃マガダ国のナンダ朝が台頭しますが、この国はガンジス川に三つの川が合流する交通の要衝に位置して交易で繁栄し、やがてガンジス川の全流域を支配下におさめます。ちょうどその頃、西北インドにアレクサンドロスの大軍が侵入し、これを機にマガダ国の辺境で兵をあげたチャンドラグプタがナンダ朝を倒してウルヤ朝を建国しました。さらに、彼はアレクサンドロス軍の侵入で混乱していたインダス川流域も併合した。前3世紀半ば、アショーカ王の時代には、帝国の領域はインド南部にまで達し、アケメネス朝ペルシアをモデルとした中央集権体制が樹立されました。もちろん、中央集権体制とはいっても地方勢力を容認した上での体制ではありましたが、この点ではペルシアを含めて古代の帝国は大なり小なり同じです。





 
















アショーカ王が各地に建てた石柱碑の紋章は、現在のインドの国旗に用いられています。




















インドの国旗
マウリヤ朝時代には、水路のみならず道路の整備も行われたため、インド史上はじめて東西南北の交流が活発に行われるようになりました。とくに南部と北部はヴィンディヤー山脈により隔てれ、酷暑という自然環境、多様な人種や言語の存在のため、南北の交流は容易ではありませんでしたが、マウリヤ朝以降両者の交流が活発となりました。当時の北部と南部を比較すると、軍事的・経済的・文化的に圧倒的に北部が優位にありましが、1世紀におよぶマウルヤ朝による統一の間に、先進地域から後進地域へと物資・技術・文化が流出しました。後進地域における資源の開発や商工業の発展が進み、南北の格差は急速に縮小していきました。これがインド史においてマウリヤ朝が果たした役割であり、マウリヤ帝国崩壊後、各地に独自性をもった文化が形成されることになります。

2.サータヴァーハナ朝とクシャーナ朝

 紀元前後から2世紀にかけての時代には、西のローマ帝国、東の漢帝国という二つの古代帝国が繁栄しており、間接的ではありますが、シルクロードを通じた交易が活発に行われていました。ところが、ローマ帝国の東方に隣接するパルティアがシルクロードの要衝を支配していたため、ローマ帝国は繰り返しパルティアと戦いましたが、これを滅ぼすことができず、東方との交易路を支配することができませんでした。そこでローマ帝国は、紅海からインド洋に出てインドに向かう交易路を開拓しました。その結果、インド南部のサータヴァーハナ朝と西北部のクシャーナ朝という二つの国家が、中継貿易で繁栄するようになまります。

 前1世紀頃に生まれたと推定されるサータヴァーハナ朝は、北から積極的にバラモンを招いてアーリヤ文化を導入し、社会・政治秩序の整備に努めました。この国はマラバール海岸でアラビア海に接し、コロマンデル海岸でベンガル湾に接しているため、西方ではローマ帝国と、東方では東南アジアとの交易で栄えました。また、インド洋につきだしたインド南端部にはチョーラ朝が、前3世紀頃から長期にわたって存続し、綿織物貿易を中心に海上交易の中継地として繁栄しました。チョーラ朝はローマ帝国との交易だけでなく、自ら海軍を擁してガンジス川河口から、ミャンマー・マレー半島沿岸にまで達して、東南アジアの交易に刺激を与えただけでなく、東南アジアにインド文化を伝えるうえでも大きな役割を果たしました。

一方、クシャーナ朝は、2世紀のカニシカ王の時代には、中央アジアから西北インド、さらにガンジス川流域に至るまでを支配し、シルクロードの要衝をおさえて繁栄しました。当時、ローマとパルティアが対立していたため、シルクロードで運ばれる東方からの商品は、一部はパルティアからローマに流れますが、同時に一部は海岸部まで運ばれ、海路でローマに運ばれました。そして、インド内部でもマウリヤ朝時代に整備された水路・道路を通じて縦横に商人が往来し、その結果クシャーナ朝は交易ネットワークの中心の一つとして繁栄するようになったのです。

クシャーナ朝の金貨

 ローマ帝国が繁栄した1~2世紀は、一部の富裕な人々の生活が奢侈に流れた時代で、東方や南方の物産への需要が増大しました。インドからローマ帝国への輸出品は、香辛料、宝石、真珠、象牙細工、綿布、剣などの鉄製品、愛玩動物、さらにシルクロードから運ばれた絹などであり、インドからの商品はローマ帝国では原価の100倍で売られたといいます。ローマ帝国からはブドウ酒、オリーブ油、ガラス器、などが輸出されました。この貿易収支のバランスは、圧倒的にインドからの輸出超過であり、ローマ帝国は不足分を金貨で埋め合わせねばならなりませんでした。南インドではローマの金貨がそのまま使用され、クシャーナ朝では独自の金貨に改鋳され、今日どちらの金貨も多数発掘されている。

 

 ローマ帝国からの大量の金貨の流出は、長期的に見るとローマ帝国衰退の原因の一つとなりまた。3世紀になると、西のローマ帝国は衰退期に向かい、東の漢帝国は滅亡しました。それと時を同じくして、サータヴァーハナ朝もクシャーナ朝も滅亡します。相互の因果関係ははっきりしませんが、それとは別にユーラシア大陸全体が激動期を迎え、長い混乱の時代が訪れようとしていたのです。

3.海域世界の形成

 「海」は、きわめて危険かつ多様ですが、人々はきわめて古い時代から船を用いて海に乗り出していました。おそらく最初は漁業のためであったでしょうが、人々はしだいに大胆となり、長い年月をかけて大洋に乗り出していきました。しかし、「板子一枚下は地獄」という船乗りの口癖があるように、造船技術・航海技術や海洋についての知識なしには、海を航行することは困難であす。最初は海岸沿いに航行し、しばしば上陸して食糧を供給したり、風向きや天候が回復するのを待たねばなりませんでした。それでも、地中海のように冬季以外は穏やかで、しかも目印となる島や岬が多数ある海では、比較的航行が容易でしたが、西方から船でインドまで航行する場合は、容易ではありませんでした。


ペルシア湾は比較的穏やかな海で、風向きも一定しているため航海しやすく、すでにシュメール文明の時代にかなり海上貿易が発達していました。インドからアラビア海の岸沿いにペルシア湾に入り、ホルムズ海峡を通過して北上し、ティグリス・ユーフラテス川を遡ればクテシフォン・バビロン・バグダードなどの内陸交通の要衝まで船で行くことができ、これらの場所から内陸各地に物資を運ぶことができます。とくに、メソポタミア地方は木材資源が不足しているため、この航路を用いて多くの木材をインドから輸入していました。





 これに対して紅海は、かなり厄介な海です。まず、アラビア半島の南岸を通過して紅海の入り口に至りますが、湾の入り口にあるアデンで一旦停泊し、風向きの変化を待たねばならなりません。紅海に入ると珊瑚礁が多いため座礁する危険性があり、また岸壁が多いため良港が少なく、しかも途中から一年中北風が吹いているため風に逆らって航行せねばならなりません。したがって、エジプトから紅海へ入る場合、ナイル川を遡って、途中から隊商を組んで紅海まで進む経路も発達していました。また、隊商を組んでアラビア半島の西岸を北上する経路も発達していました。









アデン旧市街
アデンは、火成岩の岩山によって周りを取り囲まれているため、アラビアからの熱風がさえぎられています。





  
 



 乳香を採取する木と乳香
 樹皮に傷をつけて採取される樹脂を乾燥させたものです。この木は栽培して増やすことが困難であるため、自生地の特産品となっています。香料として、また漢方薬にも使用されます。



 






















没薬 
これも樹脂から生産されます。殺菌作用があり、エジプトのミイラの腐敗選挙区処理に大量にしようされました。また鎮静薬、鎮痛薬としても使用されました。東洋では線香や抹香に使用され、現在ではエッセンシャルオイルにも使用されています。
 紅海は、このように厄介な海ではありますが、それでも古くから重要な航路として発展しました。古代エジプトの女王ハトシェプストがイエメンにまで船団を派遣したし、フェニキア人も紅海からアフリカ沿岸にまで向かいました。こうした中で、紅海の出入り口にあるアデン(現在のイエメン)は、交通の要衝として発達しました。イエメンとその対岸のソマリアは高級な香料として珍重された乳香や没薬(もつやく)の産地として知られ、これを求めてインド・ペルシア・メソポタミア・エジプトなどから多くの商人がアデンに集まり、様々な商品が取引されて繁栄しました。アデンは紀元前10世紀にこの地方の支配者だったシバの女王が、ヘブライ王国のソロモンに多くの貢ぎ物を献上したことが、旧約聖書に記載されています。

モンスーン―夏














モンスーン―冬

従来、アデンを出帆した後、海岸沿いにインドに向かっていましたが、前1世紀にギリシアのヒッパロスが、インド洋で毎年規則的に風向きが変わる(季節風)を発見したとされます。実際には、すでに以前からこの地方の人々は、ある程度この風の知識をもっていたと思われますが、ヒッパロスがそれを広く世に伝えたのです。この風を利用してインド洋を横断する航法が発見されたことで、アラビア半島南部とインド西岸を結ぶ直行航路が拓かれることとなりまた。インド洋では夏にアフリカ方向から強い季節風が吹き、冬にはアジア大陸から幾分弱い北東の季節風が吹きます。したがって、夏には紅海方面から追い風に乗ってインドに向かい、冬には北東の風が吹くのを待って紅海に戻ることが可能となりました。このモンスーンは「ヒッパロスの風」と呼ばれ、これを利用すれば、40日でインドに到達することができたといわれています。















 同じ頃、インド洋の東にもう一つの海域世界が形成されつつありました。すなわち、「アジアの多島海」といわれる東南アジアの海域世界です。インドの商人はベンガル湾の海岸沿いにマレー半島に向かいましたが、この時代にマラッカ海峡を船で通過することは容易ではありませんでした。約800キロあるマラッカ海峡は、海路が狭く浅瀬が多いうえ、潮の満干による潮流が航行を妨げ、たびたび突風にも見舞われ、しかも途中で風向きが逆になります。そのため、当時はマレー半島の根元で下船し、陸路でタイ湾に出る経路が一般に用いられ、その結果現在のカンボジアにあるプナム(扶南)が中継港として繁栄しました。さらにプナムから海岸沿いに中国に向かうと、今日のヴェトナム中南部にチャンパーとよばれる国が発展するようになります。


 こうして、東西間を結ぶ海域世界が、まだ断片的ではあるが、徐々に形成されていきました。しかし、海域世界が東西間の交易の主流となるまでには、なお1千年以上の時を必要とするのである。


 ≪映画≫


ソロモンとシバの女王

1959年のアメリカの映画で、ソロモン王時代のヘブライ人の繁栄と没落の物語です。ソロモン王は神から知恵を授けられたといわれ、理想的な統治が行われたため、人々は豊かで平和な生活を送っていました。しかしソロモン王はシバの国の女王に恋をし、神を裏切ったため、神によって厳しく罰せられます。やがて信仰を取り戻したソロモンは、神の助けによって危機にあったヘブライ人の国を守ります。

 この映画には興味深い点が2つあります。まず一つは「シバ」という国です。この国はアラビア半島の西南端にあり、現在のイエメンにあたります。その中心都市アデンは、インド洋と紅海・エジプト・メソポタミアを結ぶ海上交易の要衝であり、東方の高価な物産の集積地でした。したがって、シバの国はエジプトやヘブライ人の国と深い関係をもっていたのです。

もう一つは、ソロモン王の裁判に関するエピソードです。二人の女性が一人の子供の母親を名乗って対立していたため、ソロモンが仲裁を行います。ソロモン王が部下に子供を殺させようとした時、一方の女性が子供を殺されるくらいなら母親であることを諦めると言いました。そこで、ソロモン王はその女性こそ本当の母親である裁定します。おそらくこのエピソードは、古くからメソポタミアで語られていた話でしょう。そしてよく似たエピソードが中国にもあり、さらに日本の大岡政談にもあります。大岡政談には中国の故事の引用が多く、私の勝手な想像ですが、この中国の故事もソロモンの故事の影響を受けたのではないでしょうか。ソロモン王のエピソードは、2700年以上の歳月を経て、日本の故事に影響を与えたと思われます。

話が飛躍しますが、紀元前3世紀ころのインドで生まれた「ラーマーヤナ」という叙事詩も、日本に影響を与えています。「ラーマーヤナ」とは、ラーマ王子が猿や熊の軍隊に助けられて悪魔を退治するという物語ですが、この物語は日本の民話「桃太郎」に影響を与えたとされています。文明の伝播の痕跡は、意外なところに残っているものです。




























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