ベートーヴェンに関する映画を二本観ました。ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770年- 1827年)は、ドイツの作曲家で、幼い時から類まれな才能を見せ、4歳の時から父によって虐待に近い音楽の訓練を受けました。その豊かな才能により、彼の将来は順風満帆であるかのように思われましたが、不幸にも彼は耳が聞こえなくなりました。20歳代後半から難聴となり、40歳ころには全聾となったようです。原因については諸説あって不明ですが、音を聞けない音楽家というものを、私は想像することができません。溢れるほどの才能がありながら、何という悲惨な運命なのでしょうか。しかし彼はこれを克服し、運命を歓喜へと変えていきます。
私は音楽についてはまったく分かりませんので、歴史的な側面だけを述べたいと思います。彼が音楽の道に進んだ頃は、ハイドンやモーツァルトのような様式美を追求する古典派が活躍していましたが、ベートーヴェンはこの古典派音楽を完成させるとともに、これに劇場性を加えて、ロマン派音楽への道を開きます。劇場性を最もよく示しているのは交響曲で、彼は交響曲に新しい道を開きました。
当時の芸術家は、絵画でも音楽でも、基本的にはスポンサーによって依頼されて作品を造ります。ミケランジェロの作品など、スポンサーなしに制作することは不可能です。音楽でも、交響曲はさまざまな楽器を奏でる多くの演奏者を必要とし、このようなオーケストラを所有し維持できるのは、王侯貴族だけです。そして王侯貴族をスポンサーとする以上、彼らの要求を受け入れなければなりません。そうした時代に、スポンサーなしで作曲し、演奏するには多くの困難が伴います。第一、演奏者が足りません。例えば「第九」では多くの演奏者と合唱者が必要で、実際には素人が多かったようで、演奏は必ずしも満足のいくものではなかったようです。ベートーヴェンの耳が悪かったのは、幸いだったかもしれません。また、あまり高額な入場料はとれないため、演奏の回数を増やして稼がないと、赤字になってしいまいます。いずれにしても、こうした苦労を重ね、耳が聞こえない状態で、生涯に9つの交響曲を創作したわけですから、まさに驚異的です。
2006年にアメリカ・ハンガリーにより制作された映画で、ベートーヴェンによる「第九」の創作過程が描かれています。厳密にいえば、この「第九」の楽譜の写譜を題材としており、原題は「写譜 ベートーヴェン」です。
作曲家が書く楽譜は読みづらいため、これを読みやすく写譜する必要があります。特に交響曲の楽譜は膨大であり、その写しを演奏者たちに渡す必要があります。したがって、写譜師という専門的な職業が存在し、いわば彼らは職人です。もちろん音楽家も職人で、映画でベートーヴェンはマエストロ(イタリア語)で呼ばれていましたが、これは英語でマスター、ドイツ語でマイスター、つまり職人の親方のことです。そして、中世以来こうした親方に女性がなることは、滅多にありませんでした。ところがベートーヴェンの写譜師が病気になったため、代わりの写譜師として送られてきたのが、アンナ・ホルツという23歳の女性でした。結局彼女が、晩年のベートーヴェンの世話をし、彼の最期を看取るという話です。
アンナ・ホルツというのは、架空の人物です。実は、ベートーヴェンの晩年には、アントン・シンドラーという秘書がベートーヴェンの世話をします。彼は、「第九」が作曲される前年の1823年ころから27年の死に至るまで、ベートーヴェンの私生活の面倒を見ました。ただ、この人物は、色々と問題の多い人物でした。彼は1840年に「ベートーヴェンの生涯」を出版し、その後のベートーヴェンの伝記作者に多大の影響を与えました。とこがシンドラーはかなり事実をねつ造しているようで、このねつ造を隠すために、数百冊あったと思われるベートーヴェンの筆談記録のかなりの部分を破棄してしまったそうです。今日では、シンドラーの著書に依拠したベートーヴェンの伝記は信用できないとまで言われています。したがって、ベートーヴェンを苦悩の人として描いたロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」も信用できないということです。
話が逸れましたが、要するにこの映画に登場するアンナ・ホルツは実在せず、またこの映画はアントン・シンドラーの存在を抹殺しています。映画はまず、音楽学校の生徒アンナ・ホルツがベートーヴェンの写譜師のもとを訪れます。彼は高齢で、かつ病に犯されており、もはや写譜することは無理でした。しかし4日後に初演が迫っており、曲もまだ完成していません。ベートーヴェンも女性の写譜師には難色を示しましたが、もうそんなことは言っていられません。ベートーヴェンも彼女の能力を認め、仕事は順調に進みます。ここで描かれるベートーヴェンは、アンナ・ホルツという若い女性の眼から見たベートーヴェンです。それは、苦悩の楽聖というより、愉快な変人というべきものでした。
1824年5月7日、いよいよ初演の日で、今や音楽に革命が起きようとしていました。ところが、ベートーヴェンは指揮ができないとメソメソし始めました。そこでアンナ・ホルツが、ベートーヴェンから見える位置に立って拍子をとることになりました。映画では、十数分にわたって演奏場面が再現され、相当迫力がある場面でした。演奏終了後、演奏が失敗だったと思っていたベートーヴェンは客席を振り返りませんでした。ところが客席では観客が総立ちになって拍手しており、ベートーヴェンにはそれが聞こえなかったのです。それを見かねた歌手の一人が、彼の手をとって観客席に向かせるという有名のエピソードがありますが、この映画ではこの役をアンナが行います。つまり架空の人物であるアンナ・ホルツは、アントン・シンドラーとベートーヴェンンの手を取った歌手の二人の役割を担ったようです。なお、初演でベートーヴェンは指揮をしておらず、傍で拍子をとっていたとのことです。
ベートーヴェンの「第九」を最も愛好するのは、日本人かもしれません。「第九」の演奏には独奏者と多くの合唱者が必要なため、欧米ではそれほど頻繁には演奏されないようです。しかし、日本では大みそかに「第九」が各地で演奏され、素人が合唱者に加わったりしますので、国民的な人気曲となっています。
1994年にアメリカ・イギリスで制作された映画で、ベートーヴェンの遺書にある「不滅の恋人」とは誰かを追跡する、ミテリー・タッチの映画です。不滅の恋人候補の三人の女性の回想を通じて、ベートーヴェンの生涯が語られます。
この映画の主役は、前に述べたアントン・シンドラーです。彼はベートーヴェンに関する事実をねつ造した人物として知られていますが、ここでは、ベートーヴェンの意志を継ぐ人物として登場します。ベートーヴェンの死後、「すべての財産を我が不滅の恋人に譲る」という遺書が発見されました。問題は「不滅の恋人」とは誰か、ということです。彼は恋多き人で、それが芸術に大きな影響を与えるのですが、この映画で観ていると、彼はまるで女たらしです。
シンドラーがつきとめた不滅の恋人は、ベートーヴェンの弟の妻ヨハンナでした。ベートーヴェンは結婚前からヨハンナに目をつけており、弟がヨハンナと結婚したことが許せず、二人に嫌がらせを繰り返し、弟の死後はヨハンナから子供のカールを取り上げて、自ら養育します。それは不滅の恋というより、映画で観る限り、偏執病的な愛のように見えました。そして実はカールの実の父は、ベートーヴェンだったというありふれた結論に終わりました。安物のミステリー・ドラマのようです。前の「親愛なるベートーヴェン」では、ベートーヴェンは愉快な変人でしたが、ここでは不愉快な変人でした。ベートーヴェンという天才は、人との普通の関係を持続することが困難で、それと苦闘することによって、彼の芸術が生まれたのかもしれません。
また映画でのベートーヴェンは、自分の音楽には壮大な理念は必要なく、日常の行為や音が音楽と結びつくと言っています。例えば少年時代に彼は父による厳しいレッスンから逃れるために、家か脱走し、森を駆け、泉で開放感を味わい、その時の記憶が「第九」の歓喜の旋律につながったと言っています。たしかにそういった側面はあるかもしれませんが、ベートーヴェンの音楽はそれ程単純なものではないように思います。
そもそもこの映画の主人公をシンドラーにしたことが、間違いであるように思います。彼が何故ベートーヴェンに関する事実をねつ造し、何故資料を破棄したのかは知りませんが、貴重な資料を保管する者の義務は、まずそれをあるがままに保存することであり、解釈は後ですればよいのだと思います。もしかするとシンドラーは、ベートーヴェンの醜い側面を隠したかったのかも知れず、映画はシンドラーを通して、ほとんど神格化されたベートーヴェンの実像を描こうとしたのかもしれません。