2018年9月30日日曜日

小説(7) 青い桜


私、は、どこから、はじまる、の、でしょう、か?

 コーヒーのような黒き熱い液体に、バニラを落としてみた。コーヒーとオレンジは意外なほど親密なのに、麦茶とバニラの絡み得ない具合はどうしたものか。これについて考えていたら日が暮れてしまった。意味なき理。理から零れ射す光のような不条理。どんな曇りなき春も春は春であると言えるその瞬間。春は、あたしのいったいどこに着床し、芽吹いてゆくのか。

欲情はあらゆる箇所に飛散し這いずり回り一転して、収斂する。その一連の騒ぎは、吐き気の促しのようなもので、奔流のようにだだもれる感覚、繰り返す吐き気。嘔吐、嘔吐、嘔吐、嘔吐。そのなかで、意味の網にかけられたものだけが、死骸のように、ただただ、美しい。
 昆虫採集と物語を綴ることは似ている、かもしれない。
 言葉のかけらがはらはら舞うから、あたしはそれを捕まえるためにほとんど必死になるのだけれど。本当の言葉は、絶対に捕まえられない。捉えどころのない完璧さでいつの日もあたしの手のうちをするするりと逃れ出てゆく。あたしは遺された抜け殼のような言葉の断片を大事に丁寧に拾い上げ、文字の中に閉じ込める。本はさながら標本のようだ。
 死んで生まれ出る、磔にされた昆虫の美しさ。
 美しき死骸から立ち上がる、生。
 体も心も死に絶え、生まれる。違う顏で、違う立場で、違う場所で、眠りに覚める。この私に。この生に。何度でも。

 言葉の切っ先で疵口を抉り出すのは、およそ快楽とはかけ離れた所作である。快楽とも苦痛とも言えない領域で、あたしはためらいもなく勢うがまま、傷つけた。あらゆる角度と時間と場所で。
 あたしは本当に傷つきたいのだ。ズタズタに引き裂かれてしまいたいのだ。うしろを振り返ればもう後はないぞと追い詰められていたいのだ。地面と虚空との境界線ギリギリにいることを、どこかで愉しんでいる自分がいる。ちらと眼下を覗いてみれば、深淵がこちらを覗き込んでくる。恐怖に、皮膚の内側が撫であげられたのは、それが、自身を映す鏡であると気がついたからだ。
 ああ、通りすがりのそこのあなた。どうかあたしの願いを聞き入れてくれないか。ナニ簡単だ。そのくちびるで、その指先で、なにより優しいしぐさで、しかしどんな慈悲も込めずに、突き堕としてくれればいい。
 自壊してゆく意識の中で、射抜くように光る闇が、
 その吸引力と、消耗美で、強烈に自我を溶かしながら、溶かされながら、自身を省みることもできず、太陽の如き不動さにトロトロと欺かれ流れ出す、色彩の乱舞。その内実は穢れた涙の結晶。宇宙の混沌に果て、北白の無垢さで舞い戻り、幾度も幾度も癒えぬ疵をあたえ、気がつく暇もあたえられることなく、死にきれるはずもなく。永劫に彷徨うのだ。絶望にも似た清らかさで。

 これまでのあたしや人生を否定したくない、と少しでも思った自分を殺してやりたい。その程度のつまらない妄信のためなら特に「私」でなくても良いからだ。否定も肯定もいらない。間違えるな。
 間断なく囁きかけられる、絶対零度の旋律。
 ―私のために善き死者になれ。
 
才能とは、ある種の、決定的な、欠落である。

 永遠の楽園。あたしはその下で眠る骨と土である。
 あたしを形作ってゆく秘儀。
 全ての無彩色。
 そして散らばってゆく空を埋める蝶々の縺れ合い絡み合いの流れをいくつも見送ってゆくの。
 極彩色の虚構。
 モノクロの祝祭。
 
幾度も押し寄せてくる、宿るというにはいささか立派すぎる。
 通り過ぎるというには、あまりに不親切であるがゆえに、適当かな。
 この言葉の襲来から、神の気配から、意味の氾濫から、
 囚われたいのか、逃れたいのか、どちらであるべきなのか、わからない。わ
からない。わからない。
 それでも絡みつく魅惑の糸があたしを惹きつける、無償の愛にほだされる。愛? 間違えた。無償の呪い、ね。そういうのが強すぎるなら、こう言ってもいいわ。私、私、私、言葉でないものの支配。種。この肉体とともに植えつけられた、自由と言う名の、桎梏。
 引きちぎれそう。なのに、引きちぎれない。
 あたしの一切を掌握するアレにどうして気がついてくれないの? 知らぬ間に近付いてくる、ひどく親切なしぐさであたしの細胞のすみずみまで行き、渡り、脳神経を懐柔し意識と記憶の錯綜の渦に連れ去る、そしてある日、忽然と姿を消すの。
 残された惨劇を余すことなく映し出すための瞳だけを残して。
 また、ガラスの割れるような悲鳴が共鳴する。心に張り巡らされた鏡面に乱反射して、絶え間なく、響き渡る。内側だけで。永遠に。
 そうしてもがき苦しむあたしは、さぞ華やかでしょう。散らかした花びらをかき集めて、美しい狂気の蜜を吸った言葉を透過する、その機械だものネ。
 あたしの心と肉体は凹凸レンズのようなもので、そう呼ぶには大胆すぎるし熟考の跡もないけれど、似たようなものな気がする。あれもこれもそれも、供物。あたしの愛しい血で穢れた物語を、捧げるわ。いっさいがっさい持っていきなさい。臓物を散らかし骨の髄まで吸い尽くしぞんぶんに欲望を満たしたのちに、残ったものは捨て置くといい。そしたら醜さで綺麗に光るから、透明さで輝く本然のあたしになるから。
 そのための生ならば、跪いてあなたの足先にくちづける。それが決断できたとき、ようやくあたしは、あたしへと果ててゆける。
理想は優雅に花開くのに、
掴むには遠すぎて、
だけど、瞳に映すには、近すぎて。
茫然自失のその刹那。
これが、あたしの本質と、悟る。
これからどうするべきか、とかじゃ全然、ない。
これが全部。
これが、ぜんぶ。

くるくる様変わり巡る万華鏡。
覗いていたのはあたしじゃなかった。
燦然ときらめく極彩色の痛み。
覗いていたのは、あたしだった。

 あたしは春の花の切れ端を、さらりと撫で上げ、感触ソレのみに襲われながら、あわよくば、残された破片を眺め、分析に、顕微にかけてやりたい、しかしそれは、極めて文学的な所作で、破片にどこまでも溶け込む意識と同調し、分裂と識閾を彷徨い、そして戻ってきた明朝。あたしの本番。本当のあたしだったのか何一つ立証する余地もないと証明される。理念も、思想も、慰みも、過去も、未来も、粉々に遥か彼方へ舞い散った。けれど。
 あの春の宵の如き、言葉なく映える香りには、今はまだ、遠きかな。この体が朽ち果てたとき、手折った桜の贖罪を与えられるのであれば、知りたい、あなたの内に外に散らかしながら包括する、そのなんであるかを。あたしの胸のうちをすくう、色彩と無とのはざまのゆらぎ、について。
 どうか。
極めて音楽的な、絵画的な優秀さで、言葉でありたい。
賞賛なんて欲しくない。そんなもの無害な善人にでもくれてやればいい。
手に入れたいのは、宇宙大の僥倖。
無体は承知。でも。
それ以外に、存在する理由など、ない
少なくとも「私」においては。

 あたしの胸には深々と剣が刺さっている。
 引き抜けば、それはそれは美しい赤が景色を彩るでしょう。それを本当は見たいくせに。望んでいるくせに。躊躇っている理由は何? 自己愛? 人間欲?両方? どちらでもない? それとも単に勇気がないだけ?
 あたしは死ぬ。完璧に。そして生まれ出る何かがある。滅するそこに花が咲く。例えそれがどんな姿であっても。染み付いた血液の味わいで、狂おしく咲けばいい。

全力であがけ。

 それでもときおり、生を、死を、希ってしまう瞬間がある。あたしはいったい何に対して何を希っていることになるのか。わからぬまま。
 この深すぎる孤独を、静寂を、優しく大事に抱いて、途方にくれているのだ。悲しいでもなく、切ないでもなく、あるいは、両方で。
 できることなら、詩を詠むように、歌をうたうように、舞い踊るように、何もかも全てを笑い飛ばしてしまいたい。
 それならいっそのこと
 宝石のごとく
 際限なく
 きらめきをまき散らしながら

*ひたすら何かを探し求めているようです。

















(この写真は、この文章の内容とは関係ありません。)

2018年9月29日土曜日

小説(6) プシュケーのしずく(麻実)


 ジャムはちょっとした宇宙のようだ。そこにはまるで生と死の境目がたっぷりと詰まっている気がする。

 食卓にはいつもイチゴジャムが、居る。そこはかとなく、でも堂々としたたたずまいで、居る。私は一度としてパンにぬったりクラッカーに添えたりヨーグルトに落としたりしたことはない。まして口に含むなんてことも。イチゴジャムは、ただ、そこにある。依然として正体不明なくせに、蝕んでいくようにただそこにあるのだ。例えていうなら、生、のように。
 私はジャムをためつすがめつ眺めたり、ビンを手に取り匂いを嗅ぐ振りをし、鼻腔をくすぐる甘い匂いをジャムの味わいを想像してみたり、ビンのひんやりとした感触を楽しみながら食事をする。ジャムはちょっとした小宇宙のようだ。私にとっては、ジャムは食べるものではなく、食べられるもの。あるいは、両方で、どちらでもない。

 無駄のない美しいあきらめでもって人生を一刀両断したい、という私の切なる願望は日常というまやかしに押しつぶされていくのだ。
 現実という名の切っ先で、引き裂いても引き裂いても、零れ出るのは、
 血の色の悦びしかり。
 真っ黒な幸福しかり。

 自分があまりに空疎なので、とりあえず何か食べたりどこかに行ってみたり誰かと会ってみたりした。すると体だけでもなんとか充溢させることが出来た気がする。では、心の充溢とは何でしょう。満ち足りていると言えば満ち足りている。
 あまりの空疎で。

 あいかわらず食卓にはイチゴジャムが、居る。もちろん未開封。それに加えてジャムを店で選び購入するという行為が好きで、食べられることのない不憫なジャムはどんどん増えていくのだ。私はどうしたらいいのだろうか。食べたいでもなく、食べたくないのでもなく。
 ある時、店員さんがイチゴジャムを紹介してくれた。
 それは密度も糖度も最高で、色合いもぎゅっしり-ぎゅっとしてどっしり-した深い苺色をしていた。果肉もたっぷりで甘さとさっぱりの融合が素晴らしいのだそうだ。何かの契機になればいいな、と私は二つ返事で購入を決めた。私はいつでもどこでも、きっかけを探していた。
 なるほど。そのジャムはいままでのとは全然違っていた。まず、とても雰囲気が麗しいこと。超然たる存在感を放ち、魔力を秘めたように私を惹きつける。決定的に他のジャムと違うところは、彼が会話できると言うことだった。
 「食べてよ」
 ぞんざいなしゃべり方。甘くさっぱりと聞こえるのは彼の性質のせいもあるかもしれない。私は躊躇をしめし、けれど抗いがたになにかによって彼を手にとる。
 彼はそれまでのどのジャムよりも魅力的だった。
 それでも舌にのせることを思うと、咽がカラカラに渇いてしまう。それは徹底的な拒絶であるとともに深い渇望でもあるのだった。口にしてしまえば二度と引き返せないという予感。すべて崩れてしまうんじゃないかという不安。いっさ、壊れ去ってしまえばいいような。何もかも滅んでしまえばいいような。暗い希望のような。
 破滅への欲望。
「あんたは生きていたいのか死にたいのか、どっちなんだ」
 彼はひそやかにおごそかに、言った。

 「私」という存在者(そんざいしゃ)は、世界の零したしずくのようなものかもしれない。気まぐれに零れた、ただのひとしずく。その滴り、あまりに不確かで、あまりに清らかで。
 どうしたらいいのか。

 昨日までの私と、一瞬前の私と、現在の私。
 何も変わってないようで、何もかも変わってしまったように思われる。
 本当は、何度も何度も死んでいるのではないか?
 忘却は貪欲である。
 過去になってしまった想いの亡骸を慈しんであげられるほど、私は優しくない。
 私は創られながら、散らばっていく。
 一瞬にして永遠にして。

 暗く穢らわしいものと、光り輝くものの極み。赤。それはどこにでも属するが、どこにも属することのない。ただ、赤、というだけのものだ。
 私にとってジャムは、赤、なのだ。たとえそれがブルーベリーでも、マーマレードでも、リンゴでも、そんなことは問題じゃない。
 私は意を決し、食べることにした。
 まず、ビンをあける。甘々しい-音で言ったら騒々しい-鮮烈な匂いがするような赤色にスプーンを沈ませる。つかみどころのない感触にくじけそうになりながらひきあげると、内臓のような赤が絡みつく。果肉だ。
 果肉。
 この表現はなんだか適当に思われる。
 質量というものがほとんど感じられないのに、在るのか無いのか判然としないのに、確実にあるということに慄然とする。色彩も香りも感覚も、無限の赤に凍りついていく。
 不明瞭な赤の侵略に冷たい汗が流れる。私は呼吸が苦しくなるのを感じ、スプーンを放りなげた。その時、何かに鈍くぶつかる感じがした。気がついたときにはすでにビンが倒れ、ジャムが私の体に降り注いでいた。べったりとまつわりつく粘着質。艶々と輝く透明な赤。ひんやりとした官能性。その圧倒的な刺激に、香りに、感触に脳髄がシビれる。私は手に絡みつくジャムを口元へと近づけた。ほとんど無意識に。そして、舌で触れた。
口に含んだとたん、眼の前がはじけた。
 零れ出る神の秘を盗み、悪魔的な全能さで、無数のイチゴの惑星を噛み砕き散らかした。光とともに暗黒が無尽蔵に開ける。私は、宇宙の創造に立ち会っているのだ。今この瞬間に! 今!
 どんなに希っても知ることができないものの不可能さに、その豊かさに、めまいがする。例えて言うなら、死、のように。
 私は全てのイチゴジャムのビンを開け、床に机に壁に自分自身に-髪に、顔に、体中のありとあらゆる場所にぶちまけ、飢えを癒す獣のように夢中で舐めた。饒舌な爬虫類のようなしぐさで。密やかな、かつ情熱的な、けれど静謐な自慰とも言うべきしぐさで。私はジャムを食べているのか、ジャムが私を食べているのか、私が私を食べているのか。
 清廉な毒々しさでもって侵食する。赤。それは穢れそのもののような、純粋さで。ジャムは細胞のひとつひとつに浸透し、私をジャムに変えるのだ。あの完璧で繊細な赤に。
 私は赤そのものに還元されていく。一瞬にして永遠にして。
 純粋なる婚儀。愛すべき、世界。
 もはや私は輪郭さえも溶けて流れ出し、ちりぢりに霧散していくのだ。
 一切を包括する赤。もう赤でさえもない。
 ただ赤であった。赤。赤。赤。

*ジャムを食べる行為を通して、生きることの意味を追求しているように思われます。
*「プシュケー」は古代ギリシア語で、「生きる」「「心・魂」を意味します。

(この写真は、この文章の内容とは関係ありません。)

2018年9月28日金曜日

小説(5) ウタゲパーク(麻実)


 窓を開けたら、いつものように焦げる匂いがした。花が焼かれて、空が折れる音もした。ああ、また、今日だ。僕が覚えている限りでは、今日がブレたことは一度としてないし、明日という日は魔法でも使うみたいに舌のうえを転がせたことくらいしかない。僕はまだ明日に出会ったことがない。
 そんな僕にも楽しみができたのは赤い雨が降り止んだ甘ったるい風邪が流行り終わったある日のことだ。

 花びらのステーキとヒキガエルの目玉ソテー。そして、迷彩の沼から救いとられる水銀。これが、朝、夕、くりかえし行われる食事の一般的なプラン。もちろん、花の種類は選べるし、カエルの種類も何万とあるので飽きることはめったにない。けれど。ときどき、軋むように、強烈な衝動のように水銀を体に流し込む作業は苦痛でもあり快楽でもあり、それはどちらも選べないものの象徴のようで、僕は少しだけ、沼の味が、好きじゃない。

リビィ。それが僕の唯一の友達の名前。
 彼女はくるくるした茶色のほどよい長さの髪を指先で遊ぶのが癖なのだ。しっとりとした肌は触れたこともないのに、潤やかな血流にのって、美しく循環しているのがよく分かる。瞳の色は、赤。赤。僕がもっとも好きな色。朝、夜にとってかわって来るのはいつも赤く燃える恒星―双子座―は、枯れてゆくのに夢中で、そのきらめきが、なんだか、安心するから。

 カメドリ(カメのようにゆったりとしていながら、実にしなやかに水中を飛ぶ鳥)を釣るのが僕とリビィの最近の楽しみ。どっちが大きくて奇麗なのが釣れるか競い合うけれど、カメドリは窒素の中では生きていけないから、大きなカプセル型の水槽に入れて、飼う。カメドリはカプセルに入れるとたちまち縮小して自在に飛び回るからたまに行方しれずになってしまうこともある。餌はカプセルの中にオートで設定されてるから、さながら、テレビで野鳥を観察してるみたいだ。

 ウタゲパークの住人は背中に大きなネジがはめこまれている。大人になると背中に生えてきて、ぐるぐる廻りはじめ、ある日突然、ネジとともにその人も止まってしまう。でも、これまたある日突然、彼らは戻って来るときがある。何もなかったような顔で。
ほとんど大人なのだけれど、子供は僕が知ってるかぎり僕とリビィしかいない。

彼は音楽が好きで、ときどき、演奏会をする。でかい音譜を抱いて、色々な風を吹かせてくれる。紺色に包まれて夜を守るシェルターのように虹色で当たりを埋め尽くす。音譜の種類は様々で、僕はいつか音楽家なりたいなぁと思う。(2010319)










(麻実が描いた不思議な絵です。この絵と本文とは、関係ありません。)

小説(4) 12月20日(麻実)


静寂。とても心地良い。誰にも干渉されず誰も干渉しない。この感じがとてもしっくりきます。社会という概念からの徹底した排斥。安定感は抜群です。

ここ最近の私の奇怪と思われる言動に干渉しないでくださってとても感謝しています。そのことに対して私ができる精一杯の表現です。口頭では説明できないので、文章にしました。
まず、ファッション誌の件は私の自己分析が甘かったと思います。普通の感覚ではありえないと思いますが、私は書物に関しては過敏で、自分の読んでるものを他人に読まれると、思考がもれている、考えてることを操作させられてしまう、というありえない妄想が止められないのですが、それが妄想だと言うことも通常の感覚ではないことも自覚しているので、なんとか思い直して出来るだけ「普通」の対応をしようと思いました。ですが、やはり無理だったようです。私も一応人間の女性なので、それらしく見えるように振る舞っていたのですが、破綻してしまったみたいです。話が逸れますが近ごろカウンセリングも受けていたのですが、大人数が苦手なことや自分の内部事情を分析すると(はっきり診断されたこともあるので)私はスキゾタイパルです、ということをカウンセラーに申告したのですが、潜在意識に働きかけると称するセミナーに誘われものすごく不愉快な思いをしました。私にとっては、大人数、客観性に欠けた解釈の陶酔、感情論の連続、やたら五月蠅い、いちいち集団行動で苦痛以外の何ものでもなかったので理解して頂けてない感じがして不信感が募ってしまい、本来ならもっと話し合って折り合いをつけるべきなのだということは分かっているのですが、嫌悪感でとても無理だったのです。そのうえ分裂している人格を統合したほうがいいと言われて驚異を感じてしまい、全力で逃げ出してきました。私は自分を分裂させることで自己を保っているのです。統合することは恐怖です。(ちなみにこれを書かせているのは牧野という人です)関係念慮がひどくて(被害妄想ではないです。時空を超えたリンクですから)その内容としては上記のセミナーや先生とのやりとりの直後に面談の話、長谷川さんが(この人はタイパルの理解が少ない感じがする。なんで担当になるかなぁ。あんまり考え込まずにね♪と軽く言いますが、頭の中に根拠不明な映像、文字、音がものすごいスピードで長時間降ってくるのをどうやって止めればいいのでしょう?正解を知っている風な物言いでしたのでぜひ答えて頂きたいですね)担当になったことが、私の中の知らない誰かがなんらかの目的で意図的な操作をしようとしている、私しか知らないはずのことがみんなに知られてしまっているような感じがしてしまい、統合されてしまうのではないかという恐怖(分からない何かに飲みこまれるような感じ!)がいっせいに蘇ってきて外界から刺激をこれ以上受けると崩壊するような危惧を感じました。冷静に考えるとありえない妄想もいいとこです。その少しあとに軽いパニックになってしまい(どうして自分がここにいて何でそれをしているのか何がなんだか分からない感じ、自分の考えが見られてる感じ、監視されてる感じ、全ての視線がこちらに向いてる、人間に限らず物や音や気配の認知欠落、殺されるんじゃないかと思うほどの恐怖、過剰な思考等が一同に集結した感じです)記憶の欠落(買った覚えのないものが車の中にあったり、動かした記憶がないのに鞄のなかに入っていたり)もあり外界との接触を減らすようにしてました。だからと言って何もしないでいては何もならないのでどうにかしようと思って、毎日ハンコだけを押して帰るということを継続するということを自分に課してるのです。ただ私は少し変わってるみたいで、(個人的にも健全な行為とは思わないけれど常軌を逸してるとは思わない程度という意味で)自分の体を使って実験するのが好きという性質で、継続をすることで社会に対する自己を形成していくということの立証と継続そのものに苦痛を感じる自分を分析したかった。自分の感情、感覚の働きを試してみたかった、観察してみたかったという動機があります。非常に自己完結した決断です。これがなかなか楽しいです。この感じを上手く説明できないし、頭おかしいと思われたらどうしようと思って(でも行動がすでにおかしい)躊躇しましたが、何もかも拒絶してるような態度は失礼すぎるし申し訳ないのでこういう形で表現させて頂きました。なんというか何度読み返しても意味不明な文章ですね。これでも最小限にまとめたつもりなんです。解読不能なレベルだったらごめんなさい。(20111220)

*この文章は、1220日に本人が経験したことに基づいて、書かれているようです。










2018年9月27日木曜日

小説(3)コルト(麻実)



装飾の美しいコルトを手にとった。
金属的な輝き。冷たい感触に快感が突き上げる。
どんな感情もはねつける、その無慈悲さ。たまらない。
俺という人間を殺してくれるのは、こういう無機質な物質だと思う。殺されるなら、コイツがいい。
俺は銃口を頭蓋に突き付けた。鈍い感触に、俺の細胞の全部が、歓喜に打ち震える。甘い疼きが内側で広がる。
さあ、早く俺を殺してみせてくれ。そして、じっくりと感触を確かめるように、しかし躊躇なく、引き金を引いた。
一瞬ののちもなく、空まわったような音がした。
静寂。
当然か、装填されてない。弾倉は空だ。
一瞬の、しかし永遠的な、醒めてゆく感覚に襲われる。今なら、どんな残酷非道なこともできそうな気がするほどの、冷徹な引き潮。俺は、それを、押しやるように引き出しの奥深くに、コルトをしまった。

空。空はいい。なにしろ、果てしなく広くて、どんな主張もない。俺は空になりたい。なぜこんなところでこの人間をやっているのか理解できない。俺は何かでありたくないのに。なんにもいらないのに。全てに存在し、何者でもない、空がいい。

俺が学校の屋根から飛び降りようとしていた、という騒ぎがおきた。正確には、屋上でフェンスを乗り越え、空を眺めていたら、うっかり足を滑らせて落ちかけただけだ。
……どうして自殺しようと思ったの?
 やけに顔面がふくらんだような湿気で編み込まれたような、でかい目鼻口で。背景にがちがちに埋め込まれたたくさんの呪文みたいな規律がかかれた模様がべっとりと染みついていた。分厚い空気を発散させながら、なだめるようなおこったな怯えたような声で聞いてきた。俺はゆっくりと答えた。
……自殺願望なんて、ない
自殺願望、というと、何か違う。その言葉は様々な人間の感情で濡れている気がする。俺の死に対する欲望は、もっとまっさらな、純粋な、なにか。そう、たとえば宇宙空間を覗き込んだときのような、深く、暗く、神聖な情動だ。
それよりもなにより俺のこの特に生きていたいと思わない、という体質をどう説明するのだろうか。生に対する無関心さを、どう解釈するのだろう。
……心の病? 家庭環境? 遺伝子? 思春期特有の悩み?
 様々な色合いの推論が場を滑るように行き交ったけれど、どれもしっくりこない。そんな生やさといものじゃない。そんなもの、単なる後付けにしかならないじゃないか。俺を突き動かす情勢の一切をひとことで言い表すならこうだ。
 死にたい。
 この理解できない欲求、絶対矛盾。
 人生論なんて興味ない。感情論なんて、欲しくない。

 心の痛みを止めるために鎮痛剤を飲んでみた。効果は抜群。ゆったりと眠くなって充溢した宇宙に溶け出すときの甘い官能。それと真っ暗な、無。あるいは無が満ち溢れた闇色の光。それが楽しくてもう病みつき。ほとんど中毒者のように睡眠を貪る。このまま眼が覚めなければどんなにいいか。ああ、本当に何もしたくない。起きて何かをすることに特別な意味があるなんてどうしても思えない。
 大人になるということは、大人が作り上げた価値観に迎合してゆくことを言うのかな。それは大変だ。別に世の中が嫌になったわけじゃない。嫌になるほど興味もない。どうでもいい。大人になりたいとも、子供でいたいとも思わない。何かでなければならない俺なら、いらない。

 無。
 これより甘美に満ちた言葉を他に知らない。
 もっとも、舌の上を転がせるどころか、思考の内を泳がせることも叶わない。
 だからこそ、それが何か知りたい。手に入れたい。どうしてもそれが欲しい!
 俺の全存在をかけた、一世一代の無いものねだりだ。
 俺は、たぶん、死ねない。ほとんど悦びに似た悲しみである。
 永久に、神の秘に焦がされるのだ。
 瞬間、体が真っ二つに引き裂かれたような熱いものに貫かれる。畏怖というには優しすぎる。まるで精神と肉体が根底からズレていくような、そんな感触。俺は、と言おうとして、絶句する。言葉が、意味を滑り落ちる。声が霧散してゆく。息ができない。
 ただ映るのは、極彩色の虚無。
 深淵がまた俺を見つめてくる。恍惚とした表情で。
 俺は艶然と笑いかえしてみせる。
 まだ、気丈なふりをするくらいの余裕ならある。
 
内側から外側から蔓延する奇態な電波音を無防備にえんえんと聞かされたかのような、無内容なやりとりに、ほとんど吐き気がする。気持つ悪い。
他の人は平気なのだろうか。くだらない内容を言葉に乗せて、くだらない人間だと自分で公言して回るなんて。そんなことをするくらいなら、死んだほうがマシじゃないか。言葉は、その人のすべてを余すことなく映し出す鏡のようだ。言葉は嘘をつかない。なぜなら本当のことを語らないからだ。口にした瞬間に、心の気配が俺という背景を持ち、言葉の魔力に捕まってしまう。言った言葉は、全部本当で、全部嘘。そしてどちらでもない。俺なんて、いない。俺という人間は、いない。どこにも。
俺はどうしても、この神経が発狂したような現実(ものがたり)が受け入れられないのだ。中途半端なウソで繕うなら、上質なウソに弄ばれるほうがいい。俺は部屋にこもり、空想にふける。俺の最愛の友は、静寂と、ひたすらに無情のコルトと、本物の言葉。

思考するという行為は、自殺するのと似ている。その鋭い切っ先で躊躇なく切り刻んで無感情を遊ぶ。その刹那、こちらも一緒に切り付けられたのではないかと、ひやりとする。あるいは、流れ落ちたしずくは、汗なのではなくて、赤い滴りかもしれない。傷口が深ければ深いほど、痛みは失われていく。

自分の意志とは無関係に、訪れる青い夜に突き落とす、魅惑的な傷跡。空気抵抗とも言うべき壮絶な氾濫は、独自の人格を持ち、はっきりとした閃光を描いて純粋にまっすぐに射抜いて行こうとする。言葉の刃に彩れて。焦がれるように狂おしく。魂が溶けるほどの悦楽にひれ伏す。俺を置き去りにして。そして、眠ることも食べることも話すことも何もできなくなる。それは閉じていると同時に凍てついたままどこまでも開ききり、方向がちりぢり、底の知れない漂白にさらされて、醒めた眼差しに射抜かれて、見つめられて、動けない。無防備さを打ち抜けるあらゆる激情。その舞台と化した俺の中身、からっぽという名の満花。全開というのはこういうことなのかとぼんやり思う。あるいは、全壊。言葉である幸福を感じるのと同時に、言葉の檻から逃れたくてたまらないのだ。そんなときは、睡眠薬を使って強制終了するか、もうひとつの方法をとる。それは、夜の公園へ行くこと。

誰もいない、言葉とは無縁な場所。静かな夜の優しさに、言葉なき者たちの饒舌さに救われる。
遠くで鳴く虫の声。鉱物と植物のささやき。生き物の気配。月光に濡れた夜露の足音。宇宙の息づかい。そのすべてが俺とどう違うのか、分からない。この心地よい混沌。あらゆるものが俺の中で呼吸する。あらゆるものの中に俺が鼓動する。時空をこえて彼らと混ざり合う。幾何学模様を描いて、織り上げる風のにおい。宇宙の心臓の奥底で夢をみる。あれ、俺はどれだったけな。周波数のように頼りない、屈強な、輪郭。密で編み込まれた、氷結した時間に。在るとも無いともどちらでもない一切を透過する意識の細さ、無彩色のほとりで誘惑する、全感覚に引きずりこまれそうになる。肉体と精神の奏でる神々しい不協和音。ああ、還りたい。すべてがきらきらと砕けていく。奇麗。パチパチと火花のように弾ける感受性。ああ、体が、邪魔だ。
溶け出した意識の底で問いが反響する。本当は俺は何を望んでいるのだろう。本当に? 俺? 望んでいる? その疑問符も優しく無限の彼方に吸い込まれていく。俺は無意識と意識のはざまでゆらゆら蠢く幽霊みたい。
部屋へもどり、コルトを装填させた。お前だけが俺の味方だ。どんな感情も宿さない、優しく冷たいコルト。その鋭利な眼差しで優しく俺を殺して。銃口をこめかみに置いた。
一切の悲性を拒絶する、死への未知数な歓喜。
いざ。

 ところで、眠っている俺は、さて生きているのか死んでいるのか、どちらでしょう。時々、眠っている間は死んでいることと同じだから、起きて何事かをするほうが人生が得だと言う人がいる。人生を損得だと思っていることは差し引いても、意識が活動していないイコール死んでいる、という発想が持てるということは、人は無意識に生死が肉体だけに訪れるとは限らないと、暗に感じているのだ。生死は、目で見えて手で触れるものではないと、その口が行っている。この場所にたって本当に問うことができるのだと。生きて死ぬとは何か?




(写真と文章の内容とは、直接関係がありません)

小説(2)無題(麻実)


心が死にたいと願うとは、いったい何事か? 心はそもそも生きているのか? 死ねるのか? 心の死とはもはやその者でさえもなくなるということじゃないのか。だとしたら、その者においての死は、どこに、ある? おそらく人は死ぬことで無といいたいのだ。何も無くなるとしたら、死んだ私がどうやって自分の死を知り得よう!
 何も無い、なんて、笑い出したくなる瞬間だ。
 それこそ思考の万歳である。

 死にたい、という気持ちのなんと孤独なことか。死はおそらくあらゆる存在の手によって棺の中に葬られ、地中深く埋められているのに違いない。それの何であるかを知るためには、掘り起こし、ただ棺を開ければよい。しかし、棺を開けるためには鍵がいる。その鍵は知りたいと願う全ての者が持ち合わせている。脈々と蠢いている、心臓の内側に。
棺から、囁き声がした。ひどく淫靡な、耳朶にひんやりと響く音階。さあ、それを私に寄越しなさい。知りたいんでしょう? 死が。

 まるで透明さの中で、どろどろとへばりつく青さにつかまって手も足も舌も目もうまくいかない。それでもかろうじて、呼吸だけはしている。呼吸という他者によって助けられまだなんとか生きているのだ。それが、それ自身の性質において全開に咲いている。それ以上でもそれ以下でもない。十全な命。そしてこの私も、そのはず、なのだが。言葉なきもの達の饒舌さにしてやられる。

精髄を這い上がる、悦楽。それは極めて純度の高い、悪意。どんな澱みもない、悪。それは魅力的に見えるほど、冷徹な熱を帯びている。だからこそ、始末がわるい。俺の血中に潜んで、そしらぬフリをしているが、フリはしょせんフリなのだ。いずれ、この自我を押しのけてヤツは自身を現そうとする。醒め続けている眼となり、自らの疵口を暴き、血で汚れてもなお、徹底的に滅亡へと向かおうとする。無感覚でい続けるそれは、静かに静かに、暴れまわる。その好機を、ひっそりと、嗤いながら待っているのだ。

「何を見ているの?」
「何も」
紡いだ言葉に、意味を取り落としそうになった。な、に、も。そこには、何もない、という根拠に満ちた理由じゃなく、俺を見つめているものの、名称、が、なんでもない、ということ。

命を粗末にするな、と軽々しく言う。それなら、その命がなにか、答えてみろ。死ぬことが命を粗末にするというのなら、精神を下落させ、汚れた価値で生きることが命を大切にしているということになるのか? ただ生きることが価値でありえるなら、死ぬことだって価値じゃないか。

なれあうのは嫌いだ。冗談じゃない。くだらないことをしゃべり散らして、自分は無内容でくだらない人間なのだと言って歩き回るのか? そんなことをするくらいなら、死んだほうがましだ。

自殺願望というと、何か違う。その言葉は様々な人間の感情で濡れている気がする。俺の死に対する欲望、もっとまっさらな、純粋な、なにかだ。どんな色にも染まっていない。渇いても濡れてもいない。それが何か決して言い当てることのできない、なにか。そう、例えば宇宙空間を形成するダークタマーみたいな。深く、暗く、神聖な、情動だ。

―なんだ、これは。
 畏怖というには、優しすぎる。体が真っ二つに引き裂かれたような熱いものに貫かれる。まるで、精神と肉体が、根底からズレていくような、そんな、感触。俺は、と言おうとして、絶句する。言葉が、意味を滑り落ちる。声が、霧消してゆく。息が、できない。
ただ、映るのは、極彩色の虚無。

本当に、生きていることが素晴らしいというのなら、
俺のこの死への情熱をどう説明する?
生に対する無関心さをどう解釈する?
心の傷? 家庭環境? 遺伝子? ぬるい。ぬるすぎる。そんな生易しいものじゃない。そんなもの単なる後付にしかならないじゃないか。俺を突き動かす、一切の初原動力。
それこそ、死、だ。
この絶対矛盾を抱えていくのは、結構キツいものがある。

無理やり積み上げられたガラクタの上に生きている。
あれもこれも、うそ。本当の俺なんてどこにもいない。俺なんて人間はどこにもいない。それでもどうにかこうにか繕いながら、この世に留まっている。学校へ行き友人と何食わぬ顔で談笑し、女の子と恋愛ごっこ。家では親子をきちんと演じる。俺は自由自在。なんにでも、なれる。形而下のあれこれが、なにがしかの安全弁になっているようで、俺はまだ正気でいられている気がする。いや、俺は最初から正気なのだが、というよりも、たぶん、正気すぎるのだ。

俺は、ひとりでひっそりと、朽ちてゆきたいのだ。
この世界を、終わらせたい。この自分なんて、失われてしまえばいい。
だけど。
仮に、死んだところで、俺が俺でなくなるわけが、ない。固有の某としての俺が死んだからと言って、本当に何もかも、終わるのか? 終わる? 終わるって何だ? 

絶望がまた俺を見つめてくる。恍惚とした表情で。
俺は、艶然と笑いかえしてみせる。
まだ、気丈なふりをするくらいの余裕ならある。

無。
これより甘美に満ち足りた言葉を他に知らない。
この意味を口にすることはおろか、考えることさえ出来ない。
だけど、俺はどうしてもそれが欲しい!
俺の全存在をかけた無いものねだりである。
俺は、おそらく、死ねない。ほとんど悲しみに似た悦びである。
どうか、安らかに俺の死を悼んでくれ。一切の非性を拒絶する、死への未知数な歓喜。
いざ。

問題なのは、この俺がなぜ、この俺なのか、ということだ。
自意識過剰と言われようが、疑いようのない実感なのだ。この、完全な断絶感に加えて、決定的な、ズレ。この俺の特別さはどういうことだろうか。それ以上に、俺の感じているものが、周りにまるで通じないというのは、何かの冗談なのだろうか。それとも俺がおかしいのか。絶対に、変だ。着ているものが同じものなのに、話す言語は同じなのに、何かが完璧に違う。

大人になりたいとも、子供でいたいとも思わない。
どちらかでなければならない俺なら、いらない。
俺は何者にもなりたくない。何かでありたくない。そうだ。空がいい。場所もなくすべてに存在し、ただそれだけであれる、何者でもない、空に。
 (2009529)













(写真と文章の内容とは、直接関係がありません。神社がとても好きな子でした。その荘厳さが好きだったようです。)

2018年9月26日水曜日

小説(1)ある老女が言いました(麻実)


ある老女が言いました。
願いが叶うことが素晴らしいなら、叶わないことを願うことも、素晴らしいことなんだよって。だけど、ボクはそうは思わない。叶わないことなら最初から願わないし、願うことなら叶って欲しいと思うからだ。そんなふうに思うのは、至極一般論を受け止めがちなボクの性格のせいでもあるし、今のところボクの願いごとが成就していないせいもある。
 ところでボクの名前はイズミ。十六歳。絶賛恋愛中。相手は軽音楽部に所属している先輩で、整頓された楽譜の上に散らばるおたまじゃくしを綺麗な音にしてなぞるのが得意な人だ。ボクはその音色に惹かれ、それを奏でる人を好きになった。好きになった理由はいやになるくらい簡単。ボクに優しくしてくれるからだ。ボクは名前も容姿も態度も女みたいだってよくからかわれたりしてるけれど、その人は一度もボクに向かって嫌なふうに笑ったりしない。わけ隔てなく他のみんなにするのと同じようにボクを見て、話してくれる。みんなと同じ。ネックであり最大の喜びである。それからもうひとつ最上級の課題がある。それは誰にも言ってない。老女以外には。
 かがやかしい朝日の中で、濃紺の夜を纏ったあの老女のもとへ行くのはボクの日課だ。彼女は少ない音階で助言をくれボクを励ましてくれる唯一の友人だ。幾度となく繰り返し吐き出してきたような、生まれて初めて搾り出したような声でそっとボクを抱きしめる。彼女はボクのことがたまらなく好きだと言った。ボクもそれに応えたいけれど、彼女の好きとボクの好きは違うことはお互い分かっていた。そして彼女は決まってこう言う。どうしても超えられない何かがあっても、そこを踏ん張って頑張って乗り越えろなんて言う大人は決して信用してはいけませんって。

絶望が口を大きくあけてボクを待ち受けているというのに、ボクは知らん顔をしている。知らないフリが出来てしまうということが、すでに絶望的だ。
先輩の奏でるギターが一番よく聞こえる教室で目を閉じて耳を澄ませた。女の子の囀るような声も混じってる。ボクにはない、先輩にだってない、女の子特有の色とりどりの声で、棘だらけの柔らかさで、先輩の彼女になるために牽制しあってるんだ。
先輩は男の人だ。ボクと同じ。
どうしてこうなった。ボクだって最初から男の人が好きだったわけじゃない。たまたま好きになった人が先輩だっただけだ。それだけ。ねぇ、ボクはどうしたらいいのかな。どうしたって先輩の隣には座れない。望んだところで永久に手に入らないのに。どうしようもないのに。叶わないのに。絶対に叶わないなら願わないのが賢明だって言ってたじゃないか。超えられないものを超えるなんて不可能じゃないか。そんなの分かってる。分かってるけど、ボクは先輩が好きだ。どうしようもなく好きだ。先輩がボクの名前を呼んで振り向いて目を見て話しかけてくれることが、たまらなく苦しい。苦しくて嬉しくてどうにかなりそうだ。
彼女はボクを好きだと言った。どうしようもないって。彼女も同じ気持ちなんでしょう? こんな気持ちが素晴らしいなんて、どうしたら思える。分からないんだ。分かりたい。けど。分かりたくない。分からない。分かりたくない。
ふいにギターの音が止んだ。開け放たれた窓から先輩がボクに気付いて手を振ってくれていた。ボクが戸惑っていると先輩は気にする様子もなく微笑んだ。この世の全ての糖分をかき集めても足りないくらいの、極上の甘さで。ボクはほとんど泣きそうになったけど、精一杯笑顔で隠した。
少しだけ、ほんの少しだけぬるい希望のようなものがボクを満たした。それは宇宙創造の秘密に似た、不条理と摂理の彼岸のような救い。
絶対享受。
きらめく朝日の光を孕んだ夜のような彼女のことが思い浮かんだ。胸の奥底で、彼女がくれた言葉たちが、ボクの中で増殖の機会を待ってるような気がした。
(20081016)
ある老女が言いました。
願いが叶うことが素晴らしいなら、叶わないことを願うことも、素晴らしいことなんだよって。だけど、ボクはそうは思わない。叶わないことなら最初から願わないし、願うことなら叶って欲しいと思うからだ。そんなふうに思うのは、至極一般論を受け止めがちなボクの性格のせいでもあるし、今のところボクの願いごとが成就していないせいもある。
 ところでボクの名前はイズミ。十六歳。絶賛恋愛中。相手は軽音楽部に所属している先輩で、整頓された楽譜の上に散らばるおたまじゃくしを綺麗な音にしてなぞるのが得意な人だ。ボクはその音色に惹かれ、それを奏でる人を好きになった。好きになった理由はいやになるくらい簡単。ボクに優しくしてくれるからだ。ボクは名前も容姿も態度も女みたいだってよくからかわれたりしてるけれど、その人は一度もボクに向かって嫌なふうに笑ったりしない。わけ隔てなく他のみんなにするのと同じようにボクを見て、話してくれる。みんなと同じ。ネックであり最大の喜びである。それからもうひとつ最上級の課題がある。それは誰にも言ってない。老女以外には。
 かがやかしい朝日の中で、濃紺の夜を纏ったあの老女のもとへ行くのはボクの日課だ。彼女は少ない音階で助言をくれボクを励ましてくれる唯一の友人だ。幾度となく繰り返し吐き出してきたような、生まれて初めて搾り出したような声でそっとボクを抱きしめる。彼女はボクのことがたまらなく好きだと言った。ボクもそれに応えたいけれど、彼女の好きとボクの好きは違うことはお互い分かっていた。そして彼女は決まってこう言う。どうしても超えられない何かがあっても、そこを踏ん張って頑張って乗り越えろなんて言う大人は決して信用してはいけませんって。

絶望が口を大きくあけてボクを待ち受けているというのに、ボクは知らん顔をしている。知らないフリが出来てしまうということが、すでに絶望的だ。
先輩の奏でるギターが一番よく聞こえる教室で目を閉じて耳を澄ませた。女の子の囀るような声も混じってる。ボクにはない、先輩にだってない、女の子特有の色とりどりの声で、棘だらけの柔らかさで、先輩の彼女になるために牽制しあってるんだ。
先輩は男の人だ。ボクと同じ。
どうしてこうなった。ボクだって最初から男の人が好きだったわけじゃない。たまたま好きになった人が先輩だっただけだ。それだけ。ねぇ、ボクはどうしたらいいのかな。どうしたって先輩の隣には座れない。望んだところで永久に手に入らないのに。どうしようもないのに。叶わないのに。絶対に叶わないなら願わないのが賢明だって言ってたじゃないか。超えられないものを超えるなんて不可能じゃないか。そんなの分かってる。分かってるけど、ボクは先輩が好きだ。どうしようもなく好きだ。先輩がボクの名前を呼んで振り向いて目を見て話しかけてくれることが、たまらなく苦しい。苦しくて嬉しくてどうにかなりそうだ。
彼女はボクを好きだと言った。どうしようもないって。彼女も同じ気持ちなんでしょう? こんな気持ちが素晴らしいなんて、どうしたら思える。分からないんだ。分かりたい。けど。分かりたくない。分からない。分かりたくない。
ふいにギターの音が止んだ。開け放たれた窓から先輩がボクに気付いて手を振ってくれていた。ボクが戸惑っていると先輩は気にする様子もなく微笑んだ。この世の全ての糖分をかき集めても足りないくらいの、極上の甘さで。ボクはほとんど泣きそうになったけど、精一杯笑顔で隠した。
少しだけ、ほんの少しだけぬるい希望のようなものがボクを満たした。それは宇宙創造の秘密に似た、不条理と摂理の彼岸のような救い。
絶対享受。
きらめく朝日の光を孕んだ夜のような彼女のことが思い浮かんだ。胸の奥底で、彼女がくれた言葉たちが、ボクの中で増殖の機会を待ってるような気がした。
(20081016)











(恋の水神社。写真と文章の内容とは、直接関係がありません)



わが娘に捧げる


 2018714日に、私の娘である大塚麻実が死亡しました。36歳でした。彼女は、先天性の心臓病だったため、いつかこうした日が来ることを覚悟していました。特に去年から心臓の状態が悪化し、713日に救急車で病院に運ばれ、翌日帰らぬ人となりました。予想していた事態ではありましたが、私の悲しみは深く、立ち直るには時間がかかりそうです。
 彼女が生まれた後、私は、娘の人生がおそらく短いものになるであろうことを予想して、いろいろなところへ連れて行き、少しでも有意義で楽しい人生を送れるよう心がけていました。しかし彼女はしだいに精神的に不安定になり、何かを追い求めるようにさまざまなことに手をだします。この時彼女の心の中で何が起きていたのか分かりませんが、一方で猛烈に読書をし、何かを創作したいという強烈な意識が芽生えていたようです。
 彼女は二度、小説教室に通い、二度ともその教室での価値観と折り合えなかったようです。また読書会にも参加しますが、ここでも価値観を共有できなかったようです。その間に彼女はしばしば、私に哲学的かつ心理学的な疑問をぶつけ、私なりに真剣に対応してきたつもりでした。この頃から、彼女は小説を書き始めたようですが、それを発表したいとか、小説家になりたいというような気持ちはなかったようで、本人によると「上から文章が降りてくる」のだそうです。その割には、文章を書いているときは精神的に不安定になり、私にはのたうち回っているように見えました。
 このブログに、すでに故人となった娘の写真を公開し、本人に公開する意思がなかった文章を公開することには躊躇いがありますが、それでも敢えて公開するのは、かつて大塚麻実という女性が存在したことを、少しでも多くの人に知って欲しいという親心です。ただ、彼女の文章はパソコンに入っており、このパソコンは故障していたため、業者に復元を依頼しましたが、失敗しました。そのため、ここに掲載するのは、プリントされ、部屋中に散らばっていた文章の断片を集めて復元したもので、復元するために相当時間を要しまし。その他にも、手書きの無数の文章の断片がありますが、これを整理することは困難でした。
 麻実に小説家としての才能があったかどうかは、私には分かりません。ただ、彼女の文章には、自らの思いを表現したいという強い意志が感じられます。そのため、あえて彼女の文章を、何回かに分けて、ここに公開します。ただ公開した文章は、数カ月以内に削除しようと思っています。

 なお、麻実は長編「ラビリンスドール」の完成後、小説をまったく書かなくなり、ゲームの実録に没頭していました。このことが何を意味するのか、私にはまったく分かりませんが、実録はユーチューブで大量に公開されています。



 最後に公開された「サイコブレイク~悪夢は終わらない…チャプター6☆」は、201879日付けとなっていますので、彼女の死の5日前です。