ジャムはちょっとした宇宙のようだ。そこにはまるで生と死の境目がたっぷりと詰まっている気がする。
食卓にはいつもイチゴジャムが、居る。そこはかとなく、でも堂々としたたたずまいで、居る。私は一度としてパンにぬったりクラッカーに添えたりヨーグルトに落としたりしたことはない。まして口に含むなんてことも。イチゴジャムは、ただ、そこにある。依然として正体不明なくせに、蝕んでいくようにただそこにあるのだ。例えていうなら、生、のように。
私はジャムをためつすがめつ眺めたり、ビンを手に取り匂いを嗅ぐ振りをし、鼻腔をくすぐる甘い匂いをジャムの味わいを想像してみたり、ビンのひんやりとした感触を楽しみながら食事をする。ジャムはちょっとした小宇宙のようだ。私にとっては、ジャムは食べるものではなく、食べられるもの。あるいは、両方で、どちらでもない。
無駄のない美しいあきらめでもって人生を一刀両断したい、という私の切なる願望は日常というまやかしに押しつぶされていくのだ。
現実という名の切っ先で、引き裂いても引き裂いても、零れ出るのは、
血の色の悦びしかり。
真っ黒な幸福しかり。
自分があまりに空疎なので、とりあえず何か食べたりどこかに行ってみたり誰かと会ってみたりした。すると体だけでもなんとか充溢させることが出来た気がする。では、心の充溢とは何でしょう。満ち足りていると言えば満ち足りている。
あまりの空疎で。
あいかわらず食卓にはイチゴジャムが、居る。もちろん未開封。それに加えてジャムを店で選び購入するという行為が好きで、食べられることのない不憫なジャムはどんどん増えていくのだ。私はどうしたらいいのだろうか。食べたいでもなく、食べたくないのでもなく。
ある時、店員さんがイチゴジャムを紹介してくれた。
それは密度も糖度も最高で、色合いもぎゅっしり-ぎゅっとしてどっしり-した深い苺色をしていた。果肉もたっぷりで甘さとさっぱりの融合が素晴らしいのだそうだ。何かの契機になればいいな、と私は二つ返事で購入を決めた。私はいつでもどこでも、きっかけを探していた。
なるほど。そのジャムはいままでのとは全然違っていた。まず、とても雰囲気が麗しいこと。超然たる存在感を放ち、魔力を秘めたように私を惹きつける。決定的に他のジャムと違うところは、彼が会話できると言うことだった。
「食べてよ」
ぞんざいなしゃべり方。甘くさっぱりと聞こえるのは彼の性質のせいもあるかもしれない。私は躊躇をしめし、けれど抗いがたになにかによって彼を手にとる。
彼はそれまでのどのジャムよりも魅力的だった。
それでも舌にのせることを思うと、咽がカラカラに渇いてしまう。それは徹底的な拒絶であるとともに深い渇望でもあるのだった。口にしてしまえば二度と引き返せないという予感。すべて崩れてしまうんじゃないかという不安。いっさ、壊れ去ってしまえばいいような。何もかも滅んでしまえばいいような。暗い希望のような。
破滅への欲望。
「あんたは生きていたいのか死にたいのか、どっちなんだ」
彼はひそやかにおごそかに、言った。
「私」という存在者は、世界の零したしずくのようなものかもしれない。気まぐれに零れた、ただのひとしずく。その滴り、あまりに不確かで、あまりに清らかで。
どうしたらいいのか。
昨日までの私と、一瞬前の私と、現在の私。
何も変わってないようで、何もかも変わってしまったように思われる。
本当は、何度も何度も死んでいるのではないか?
忘却は貪欲である。
過去になってしまった想いの亡骸を慈しんであげられるほど、私は優しくない。
私は創られながら、散らばっていく。
一瞬にして永遠にして。
暗く穢らわしいものと、光り輝くものの極み。赤。それはどこにでも属するが、どこにも属することのない。ただ、赤、というだけのものだ。
私にとってジャムは、赤、なのだ。たとえそれがブルーベリーでも、マーマレードでも、リンゴでも、そんなことは問題じゃない。
私は意を決し、食べることにした。
まず、ビンをあける。甘々しい-音で言ったら騒々しい-鮮烈な匂いがするような赤色にスプーンを沈ませる。つかみどころのない感触にくじけそうになりながらひきあげると、内臓のような赤が絡みつく。果肉だ。
果肉。
この表現はなんだか適当に思われる。
質量というものがほとんど感じられないのに、在るのか無いのか判然としないのに、確実にあるということに慄然とする。色彩も香りも感覚も、無限の赤に凍りついていく。
不明瞭な赤の侵略に冷たい汗が流れる。私は呼吸が苦しくなるのを感じ、スプーンを放りなげた。その時、何かに鈍くぶつかる感じがした。気がついたときにはすでにビンが倒れ、ジャムが私の体に降り注いでいた。べったりとまつわりつく粘着質。艶々と輝く透明な赤。ひんやりとした官能性。その圧倒的な刺激に、香りに、感触に脳髄がシビれる。私は手に絡みつくジャムを口元へと近づけた。ほとんど無意識に。そして、舌で触れた。
口に含んだとたん、眼の前がはじけた。
零れ出る神の秘を盗み、悪魔的な全能さで、無数のイチゴの惑星を噛み砕き散らかした。光とともに暗黒が無尽蔵に開ける。私は、宇宙の創造に立ち会っているのだ。今この瞬間に! 今!
どんなに希っても知ることができないものの不可能さに、その豊かさに、めまいがする。例えて言うなら、死、のように。
私は全てのイチゴジャムのビンを開け、床に机に壁に自分自身に-髪に、顔に、体中のありとあらゆる場所に—ぶちまけ、飢えを癒す獣のように夢中で舐めた。饒舌な爬虫類のようなしぐさで。密やかな、かつ情熱的な、けれど静謐な自慰とも言うべきしぐさで。私はジャムを食べているのか、ジャムが私を食べているのか、私が私を食べているのか。
清廉な毒々しさでもって侵食する。赤。それは穢れそのもののような、純粋さで。ジャムは細胞のひとつひとつに浸透し、私をジャムに変えるのだ。あの完璧で繊細な赤に。
私は赤そのものに還元されていく。一瞬にして永遠にして。
純粋なる婚儀。愛すべき、世界。
もはや私は輪郭さえも溶けて流れ出し、ちりぢりに霧散していくのだ。
一切を包括する赤。もう赤でさえもない。
ただ赤であった。赤。赤。赤。
*ジャムを食べる行為を通して、生きることの意味を追求しているように思われます。
*「プシュケー」は古代ギリシア語で、「生きる」「「心・魂」を意味します。
(この写真は、この文章の内容とは関係ありません。)
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