2017年5月31日水曜日

お知らせ

 アクセス回数が116000回を超え、投稿数も328件に達しました。外国からのアクセスとしては、アメリカからが一番多いのですが、ロシアやウクライナなど、私とは何の縁もない国から数百回ものアクセスが続いたりして、驚いています。今日はその他に韓国、フランス、オランダ、ポルトガル、ルーマニア、チリからのアクセスがあります。
2回という僅かな投稿ですが、コンスタントに続けていると、息切れがしてきます、また少し体調も悪いので、この当たりで少し休息したいと思います。もっとも私の年齢の場合、休んだら次には死んでいる可能性がありますが。

来月は収穫の月で、農作業で忙しくなりそうです。すでにナスは食べられるサイズとなり、インゲンも沢山出来ています。またトマトも鈴なりです。





































































2017年5月27日土曜日

映画「嵐が丘」を観て

1992年にイギリスで制作された映画で、19世紀中頃に書かれた同名の小説を映画化したものです。原作は、イングランド北部のヨークシャーのわびしく厳しい荒野における、激しい愛と憎しみを描いたもので、世界十大小説の一つとさえ言われています。私は、はるか昔に原作を読んだはずなのですが、あまり印象に残っていません。多分、小説の構成が複雑すぎて、途中で挫折したのだと思います。
 著者のエミリー・ブロンテは、1818年にヨークシャーの牧師の家に生まれ、人生の大半を姉のシャーロットやアンとともに、故郷の牧師館で過ごし、1848年に30歳で結核で死亡しました。一見何の変哲もない人生ですが、その彼女が世界最高の文学作品の一つとされる「嵐が丘」を生み出したのです。死の前年に「嵐が丘」が出版されますが、その複雑な構成のため評判が悪く、同じ年に出版されたシャーロットの「ジェーン・エア」は高い評価を得ました。「嵐が丘」が高く評価されるようになるのは、20世紀に入る頃からです。なお、妹のアンは1849年に死亡し、シャーロットは1855年に死亡し、結局ブロンテ家は子孫を残すことができませんでした。
 物語の舞台となったヨークシャーのハワースは「わびしく厳しい荒野」で、小説ではこの荒々しい荒野を背景に荒々しいドラマが展開されます。物語は、この地方のアーンショウ家とリントン家を中心に展開されます。アーンショウ家にはキャサリンという娘とヒンドリーという息子がおり、ある時当主がヒースクリフという孤児を連れてきて息子同然に育てるようになります。しかし当主が死ぬと、ヒンドリーはヒースクリフを下男にしてしまいますが、ヒースクリフとキャサリンは深く愛し合うようになります。ところがキャサリンは、リントン家の洗練された生活に憧れ、その当主エドガーと結婚し、それは知ったヒースクリフはアーンショー家を出ていきます。やがて金持ちになって戻ったヒースクリフはアーンショーとリントン家に対する陰湿な復讐を開始し、両家の財産を奪い、両家の人々を破滅させていきます。その後いろいろあって、ヒースクリフは発狂して死に、結局ヒントリーの息子とキャサリンの娘が結婚して、嵐が丘に再び平和な日々が到来します。 
ストーリーは、古株の家政婦が回顧する形で進められ、かなり複雑な構成になっています。そして、ヒースクリフの両家への憎しみには、階級的な差別が根底にあるとも考えられますが、何よりも、キャサリン自身か述べているように、「岩のように固い愛」が根底にあるように思われます。この「愛」が、復讐する人も復讐される人も苦しめることになったのだと思います。

 「嵐が丘」は、過去に何度も映画化されており、2011年にも映画化されているそうです。他の映画については、私は何も知りませんが、私が観た映画は原作に比較的忠実だそうで、構成はかなり複雑でした。それにしても、大して文学の訓練を受けたこともない若い女性に、これ程の傑作を書くことができるし、驚きを禁じえません。


2017年5月24日水曜日

「ゴッドと上帝」を読んで

柳父章著、1986年、筑波書房
 本書は、19世紀前半に中国で活躍したイギリス人宣教師モリソンを中心に、「翻訳」というものの困難さと影響の大きさについて論じています。なお、著者は翻訳論を専門としているそうです。
 モリソンは、180725歳の時に中国の広州に宣教師として赴任し、その地で27年間を過ごし、没します。宣教師とはいっても、清はキリスト教の宣教を禁じていますので、彼が滞在中に洗礼したのは10人程度だということですが、その間に彼は東インド会社の通訳や翻訳の仕事をするとともに、聖書の翻訳と華英字典の編纂という偉業を成し遂げます。歴史的・文化的な背景をまったく異にする言語を翻訳することは非常に困難な仕事で、モリソン自身が華英字典の序文で次のように述べています。
 「読者は、翻訳に際して使える正確な言葉を、この字典に期待してはならない。ここで提供できるのは、しかるべき文句を取り出す手がかりとなるような言葉の意味なのである。また、中国語の詩的な意味が正確にここで得られると期待してはならない。言葉の移り変わる意味のすべてとか、よく使われる漢文古典の比喩の意味などもここに求めてはならない。そういうものは、これまでヨーロッパ人が中国語を学んできたのよりもずっと多くの、さまざまな才能の人たちの努力にまたなければならないのだ。」
 聖書の翻訳にあたって特に問題となったのは、「ゴッド」をどのように訳すかということでした。モリソンは「神(シン)」と訳しましたが、中国における神は森や神社など至る所にいる身近な存在であり、モリソンは精神的な意味を込めて親しみのある神という文字を使ったわけです。これに対して、「上帝」という言葉を主張する人々がおり、この言葉は威圧的なイメージを与えます。本書は、こうした議論を中心に、「翻訳」ということの問題点を論じており、大変興味深い内容でした。 

 なお、モリソンの弟子であったアメリカ人宣教師が、日本で「ゴッド」を「神」と翻訳し、日本ではこの言葉が定着していくことになります。


市古宙三著、1989年、汲古書院 
 モリソンが翻訳した聖書の一部を、彼の弟子たちが手直しして小冊子として配布しました。特に彼らは、知識人が集まる科挙の試験場の入り口で配布したのですが、これがたまたま受験のために来ていた洪秀全の手に渡ります。当初、彼はこの冊子をほとんど読まずに放置していたのですが、ある時キリスト教についての不思議な夢を見て、その夢について語る過程で、太平天国の乱を起こします。
 洪秀全の義理の弟に洪仁玕(こう じんかん)という人物がおり、彼は香港に滞在している時に、ハンバーグというスウェーデン出身の宣教師に洪秀全について語りました。ハンバーグはこの話をもとに、「洪秀全の幻想」という本を書き、これをもとにして本書が書かれました。したがって、ここで書かれた内容は太平天国の側から書かれたものであり、どこまでが真実かは分かりませんが、幻想的なイメージで書かれており、大変興味深い内容でした。


2017年5月20日土曜日

映画「赤と黒」を観て


1954年のフランス・イタリア合作映画で、スタンダールの同名の長編小説が映画化されました。映画は184分という長編ですが、私が観たのは短縮版で、150分です。なお、スタンダールについては、このブログの「映画「パルムの僧院」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/01/blog-post.html)を参照して下さい。
小説の時代は、ナポレオン後の王政復古の時代で、貴族制が復活し、人々は貪欲に金を求める腐敗した社会が存在しました。このような体制に対する不満はますます増大し、結局復古王政は1830年の七月革命で崩壊することになります。主人公のジュリアン・ソレルは貧しい大工の息子でしたが、女性のように美しい顔立ちで、当時二十歳前後の青年でした。彼は非常に頭がよく、野心が強く、ラテン語を勉強して聖職者になることを望んでいました。彼は神を信じていませんでしたが、当時、聖職者になることは貧しい家に生まれても出世できる唯一の道だったのです。彼はまた、「パルムの僧院」のファブリスと同様にナポレオンを崇拝し、当時の不平等な体制を激しく憎んでもいました。
 ジュリアンはある金持の家に家庭教師として住み込みますが、その家のレナアル夫人と恋をし、やがてそれが噂となったため、家を出ます。次はパリのモオル侯爵の秘書となりますが、侯爵家の令嬢マティルドと恋をし、マティルドは妊娠します。当然公爵は二人の結婚に反対しますが、もはや二人を引き離すことは困難です。そこで公爵はジュリアンの身元を調べるため、彼が以前務めていたレナアル家に問い合わせますが、レナアル夫人からジュリアンを激しく誹謗する手紙が届きます。それは知ったジュリアンは、夫人に銃を発射し負傷させてしまいます。そしてジュリアンは捕らえられ、処刑されます。
 一体なぜレナアル夫人がジュリアンを誹謗する手紙を書いたのかよくわかりませんが、もしかしたら彼女はジュリアンをまだ愛しており、マティルドと結婚するジュリアンに嫉妬したのかもしれません。ではジュリアンはなぜ夫人を撃ったのか、すこし逆説的ですが、彼は心のそこでレナアル夫人を愛しており、夫人の裏切りを許せなかったのかも知れません。彼には、裕福で地位のある女性を征服したいという願望があったかも知れませんが、一旦愛すると心底愛するようになります。彼は、女性を踏み台にして出世しようとしていたかのように思われがちですが、彼はその都度純真に女性を愛しており、それが彼の命取りになりました。そして、真に愛していたのはレナアル夫人であったことに気づきます。
 マティルドとレナアル夫人は、ジュリアンの恩赦を求めて奔走しますが、ジュリアンは恩赦を拒否します。彼には、レナアル夫人との愛が確認できたことで、十分だったのです。そして裁判では、ジュリアンは、自分を裁く陪審員たちを激しく非難します。特権階級であるあなたたちに、自分を裁く権利はない、あなたたちは滅びていくのだ、と。当時七月革命が始まっており、世の中は騒然としていました。結局かれは処刑されますが、その三日後にレナアル夫人も静かに息を引き取ります。
 野心溢れる青年が、結局不平等な社会の中で挫折し死んでいくという物語で、胸を引き裂かれそうなストーリーであり、さすがに世界の「名著」と呼ばれるだけのことはあります。タイトルの「赤と黒」というのは、著者がとくに説明していないので分かりません。「ルーレットの回転盤の色を表し、一か八かの出世に賭けようとするジュリアンの人生をギャンブルにたとえているという説」(ウイキペディア)もあります。

2017年5月18日木曜日

野菜の花

 この時期は、いろいろな野菜が一斉に成長する時期です。現在食べている野菜は法蓮草とレタスで、最近は毎日法蓮草とレタスばかり食べています。また、他にも花を咲かせている野菜がいくつもあり、もうすぐ食べられるようになるでしょう。

ジャガイモの花です。あと一か月くらいで収穫できるでしょう。
















カボチャの花です。カボチャの花には雄と雌があり、人口受粉が必要です。蜂や蝶々がたくさん飛んでいれば人口受粉の必要はありませんが、最近は昆虫がめっきり減ったため、人口受粉が必要です。この花は雄で、雌の花がまだないため、受粉できません。食べるには、まだ二カ月以上かかるでしょう。










ナスは紫の美しい花を咲かせます。ナスは連作障害があり、失敗することが多いのですが、今のところ順調に育っています。八本植えてあるので、うまくいけば、今年はたくさん食べることができそうです。













トマトは、品種が異なっても同じような小さな黄色い花を咲かせます。我が家では、八本、六種類のトマトを栽培しており、すでに実がつき始めています。最近では、家庭菜園でのトマト栽培が人気なようで、栽培しやすくおいしいトマトの苗が色々売っています。我が家では、6月から8月ころまでほとんどトマトを買う必要がありません。








里芋の小さな芽が出てきました。中国産の種イモが安かったので買ったのですが、大丈夫かな。昨年は追肥を十分しなかったため、芋が十分育ちませんでした。里芋が収穫できるのは11月から12月になるため、その間に何度か追肥をする必要があります。採りたての芋をゆでて食べると、おいしいですよ。









ミカンの花です。毎年5~6個なりますが、顔が歪むほど酸っぱいです。















* 写真が全体にピンボケ気味です。私は、ティスプレーを見ながら焦点を合わせるのが 苦手で、特に望遠で接写していますので、ピントが合っているかどうか、よく分からないままシャッターを押しています。やはり昔ながらのカメラがいいですね。





2017年5月17日水曜日

「スパイスの歴史 薬味から香辛料へ」を読んで

山田憲太郎著、1979(1995年新装版)、法政大学出版会
 本書は、近世の歴史に大きな影響を与えたスパイス=香辛料の歴史を述べたものです。サブタイトルとして「薬味から香辛料へ」とありますが、中国ではスパイスは主として薬用として用いられており、それが西方では調味料などとして大規模に用いられるようになったため、スパイスが歴史に大きな役割を果たすようになりました。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第15章 「交易の時代」(1)  付録.香辛料について」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/151.html)を参照して下さい。
 本書は、主として中国側の資料を駆使して、香辛料の歴史を論じています。香辛料は、中国にも西方にも非常に古くから輸入されていますが、中国の胡椒はインド産の胡椒がイラン人によってシルクロードを通じて入ってきたようです。そもそも「胡」とは、中国から見て西方の蛮人を指しますので、中国にとっては胡椒とは西方の産物でした。しかし、やがてモルッカ諸島のクローブやナツメグが知られるようになり、14世紀にはモルッカ諸島についての報告も記録されますが、中国にとってスパイスはあくまでも薬味であり、ヨーロッパのように嗜好品としては扱われませんでした。そして同じ頃に、ヨーロッパでクローブやナツメグの需要が急激に増加していきます。
 クローブの産地であるモルッカ諸島、さらにその南のナツメグの産地バンダ諸島については、近代以前に関してはよく分かっていないようです。「この島の住民は、古代から19世紀まで極めて低級(原始的)な生活を続け、外来の民族が二つのスパイスを求めにやってくるから、自然に生育しているスパイスを提供し、外来の民族が与える物資の恩恵に浴し、それで満足していたのである。文字もなく、計算も知らなかったから、彼ら原住民の記録がある筈もなく、ほそぼそと彼らの間に語り継がれていた極めて漠然とした伝承だけである。」 

 著者自身が認めているように、本書に欠けているのは、西方世界におけるスパイスの記録ですが、西方世界については他にも多数の書物があり、本書が興味深いのは、中国の視点で書かれていることだと思います。



2017年5月13日土曜日

映画「ナポレオンに勝ち続けた男」を観て

2012年に、ポルトガルとフランスの合作で制作された映画で、ナポレオン軍のポルトガル侵入を題材とした映画です。日本語タイトルの「ナポレオンに勝ち続けた男」というのはイギリスの将軍ウェリントンのことで、サブタイトルの「皇帝と公爵」とは皇帝ナポレオンとウェリントン公爵のことですが、実は、映画には二人ともほとんど登場ません。原題は「ウェリントンの防御線」というような意味です。
 1807年、フランス軍はイベリア半島に侵攻し、1か月後には首都リスボンが陥落します。その結果、王室は6千人もの人々とともに植民地のブラジルに亡命し、首都をリオデジャネイロに移します。ナポレオンはポルトガルを支配してブラジルを手に入れることを期待していたのですが、結局その期待は裏切られ、後は貧しいポルトガルで泥沼の戦いに引きずり込まれることなります。一方、イギリスは海ではフランスに連勝していましたが、陸では負け続けだったため、ポルトガルにウェリントン率いる援軍を派遣し、対フランスの陸での拠点を築きます。
 ウェリントンは、数の上ではフランス軍が圧倒的に優勢だったため、リスボンの近郊に、1年半かけて長大な防御線を構築しました。これが、「ウェリントンの防御線」で、トレス・ベドラス線と呼ばれます。そして1811年、ウェリントンはスペインに侵攻してフランス軍を破った後、リスボンに撤退し、それを追ってリスボンに迫ったフランス軍が「防御線」の罠にはまったわけです。フランス軍はここで壊滅的な打撃を受け、さらに翌年ナポレオンによるロシア遠征が失敗したため、ナポレオンは急速に没落に向かっていきます。
 映画は、イギリス・ポルトガル軍のリスボンへの撤退の過程(多分1カ月くらい)を描いています。イギリス・ポルトガルの兵士、フランス軍から逃れた農民・市民・僧侶など、彼らは撤退の理由を知らされていませんでしたので、惨めな敗残兵のようでした。追撃するフランス兵も惨めでした。貧しいポルトガルでは食糧を確保できず、掠奪や暴行を繰り返し、さらに兵士の脱走が相次ぎました。映画では戦闘場面はほとんどなく、こうした人々を淡々と描き出す群像劇となっています。どちら側が悪いとか、悲惨さとか、暴力的とか、惨めさとか、そういったことではなく、戦争とはこういったものだ、ということが描かれているように思います。
 1811年にフランス軍はポルトガルから撤退しますが、イギリス軍がそのままポルトガルを支配し、国土は荒廃し、ブラジルに逃れた国王は一向に帰る気配もなく、やがて国内は内乱状態に陥ります。ポルトガルについては、このブログの「「波乱万丈のポルトガル史」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/blog-post_29.html)を参照して下さい。

 その後ウェリントンはワーテルローの戦いでナポレオンを倒し、栄光の頂点に立ちます。戦後、彼は政治家に転身し、政界に大きな影響力を持つようになるとともに、軍の最高指揮権は、1852年に彼が死ぬまで手放しませんでした。彼は保守的な人物だったため、この間軍の改革はほとんど行われず、その結果、1853年に始まるクリミア戦争で軍の保守性が露呈されることになります。この問題については、このブログの「映画「遥かなる戦場」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/01/blog-post_9.html)を参照して下さい。


2017年5月10日水曜日

「海の秘宝物語」を読んで

三杉隆敏著 1990年 新潮選書
 本書の著者は海中考古学者で、専門は海のシルクロードにおける海中考古学を専攻しており、世界各地の海中探査に精通しています。地上の遺跡は何千年もの間に盗掘が繰り返され、また盗品の売人は発見場所を秘密にしますので、今日では考古学的遺物を発見することは容易ではありません。ところが海中に沈没した船については、素潜りでは容易に遺品を持ち出すことができませんので、多くの沈没船が多くの荷物を積載したまま、沈没しているわけです。そうした沈没船が発見されるケースとしては、たまたま海岸近くで沈没し、遺物が海岸に流れついた場合、また圧倒的に多いケースは、猟師の漁網に引っかかったりした場合ですが、この場合猟師にとって沈没船は漁業の邪魔者以外の何ものでもありませんから、報告されることは滅多にありません。
 しかし歴史資料には、船舶の遭難についての記事が多数残されており、こうした記事を頼りに多くの人々が、沈没船からの宝探し行ってきました。それは文字通り宝探しであり、考古学的研究ではありませんでしたが、こうした海中の宝探しを通じて、沈没船の探索の考古学的な意味が認識されるようになり、海中考古学なる分野が誕生してきます。特に第二次世界大戦後、潜水技術やサルベージ技術が大幅に向上すると、海中考古学の重要性が一気に注目されるようになります。
 特に注目される海域は、ギリシア・ローマ文化を背景とした地中海海域、新大陸の財宝を運ぶ途中で沈没船の多いカリブ海からメキシコ湾岸域、そして近年はマレー半島周辺やマラッカ海峡の海域、そして朝鮮半島南西部の多島海域などだそうです。本書は、こうした地域での沈没船の探索の歴史と事例を、具体的に述べており、大変興味深い内容でした。


2017年5月6日土曜日

映画「マスター・アンド・コマンダー」を観て

2003年にアメリカで制作された映画で、ナポレオン戦争時代に、南太平洋で行われた小さな海戦を描いています。タイトルの「マスター・アンド・コマンダー」というのは、イギリス海軍の階級で、「艦長」というような意味です。舞台となっているのは、「サプライズ号」というフリゲート艦です。フリゲート艦とは、小型・高速の軍艦のことで、偵察などに用いられます。
ナポレオンは、フランス革命中にイタリア遠征を行い、さらに1798年にはエジプトに遠征しますが、ナイルの戦いでネルソン率いるイギリス海軍に敗北します。1802年アミアン和約で一時平和が回復しますが、1804年にナポレオンが帝政を開始すると、再び英仏関係が悪化し、ナポレオンは1805年にイギリスへの上陸を企てます。この映画は、こうした緊迫した情勢を背景として起こった、ナポレオン戦争の一コマを描いています。

サプライズ号の艦長ジャック・オーブリーは、かつてナイルの戦いでネルソンのもとで戦っており、彼はネルソンを深く尊敬していました。彼は、フランス海軍のアケロン号を拿捕するよう命じられ、カリブ海に向かい、アケロン号を追って南米大陸の南端を回り、さらに北上してガラパゴス諸島の近くでアケロン号を拿捕することに成功します。映画のストーリーはこれだけですが、その過程で船長と乗組員たちとのさまざまな葛藤が描かれます。 
狭い船に多くの乗組員が乗り込み、長い航海をします。航海は常に死と隣り合わせであり、乗組員たちにストレスがたまります。船長の大きな役割は、こうした乗組員たちをいかにコントロールするかということです。船上では厳格な規律が守られる必要がありますが、あまり厳しすぎると、水兵が反乱を起こす可能性があります。前に観た「戦艦バウンティ号の反乱」(「グローバル・ヒストリー 第21章 大西洋三角貿易 http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html)は、こうした例です。サプライズ号のマスター・アンド・コマンダーであるジャックは極めて有能な船長で、水兵たちからも尊敬され、彼らを巧みに統制して、長い航海の果てに目的を達成します。したがって、この映画は戦争映画というよりも、閉鎖された戦艦の中での群像劇として描かれたものだと思います。
 舞台はほとんど船の中だけであり、女性は一人も登場しません。10代前半の少年が数人乗組員として乗っていますが、これは当時よくあることでした。船員の子供やジェントリの次男や三男が船乗りになることを望んで、見習いとして乗り組んでいるのです。多くの船員は、このように幼い頃から船に乗り、やがて一人前の船乗りになっていきます。こうした人々が、大英帝国の海上発展を支える人々となっていきます。また、この戦艦には船長の親友である博物学者が乗船しており、彼がガラパゴス諸島に上陸して、さまざまな標本を採取する場面があり、後のダーウィンを連想させて、大変興味深い場面でした。
 結局、この戦いの数カ月後に、ネルソンが率いるイギリス艦隊がトラファルガーの海戦でフランス艦隊を破ります。これ以後ナポレオンは大陸制覇に向かい、イギリスはなお10年近くナポレオンとの戦いに苦しみますが、トラファルガーの海戦によってイギリスはとりあえず、フランス軍の上陸を阻止することができました。この映画での戦いも、そうした戦いの一環でした。

2017年5月5日金曜日

藤の花

家の前の森に、藤の花がたくさん咲いています。
今年は、鶯が2~3回しか鳴きませんでしたが、今はセキレイが美しい声で鳴いています。










2017年5月4日木曜日

ジャガイモ

奥の3列がジャガイモです。昨年の秋に里芋を栽培した場所ですが、連作障害を避けるために、今年はジャガイモを栽培することになりました。狭い土地で、作物を栽培する場所を毎年変えるのは大変です。種イモに千円ほどかかりましたが、300個くらいは収穫でき、しかもジャガイモは年2回収穫できるため、我が家では1年中ジャガイモを買う必要がありません。
我が家では、その他に、インゲン、ナス、カボチャ、メロン、キューリ、トマト、パプリカなどを栽培しています。後は、サツマイモを植えれば、夏野菜は完了です。今までは、グリーンピースも栽培していたのですが、グリーピースは冬を越させる必要があり、また蔓のためのネットが必要で面倒なので、今年は止めました。

土地を耕す際には、有機肥料と連作障害防止剤(効果は不明)と石灰を混ぜて耕します。さらに、庭木の剪定で出た枝や雑草は細かく切って、土に混ぜてしまいます。そして種を蒔いてから、何度か鶏糞を使って成長を促します。

2017年5月3日水曜日

狼と西洋文明

C.C.&G.ラガッシュ著、1981年、高橋正男訳、八坂書房、1989
 本書の邦題である「狼と西洋文明」というは幾分大袈裟で、原題は「フランスの狼」です。
 人間と狼との関係の歴史は非常に古く、先史時代には、人間と狼は共通の獲物を狙うライバルではありましたが、狼が人間を襲うことはほとんどなかったようです。しかし牧羊文明が始まり、人間による開拓が進んで狼の猟場が減少すると、狼は盛んに羊を襲うようになり、しばしば羊飼いの少年が狼の犠牲になることがありました。このことは、イソップ物語での「羊飼いの少年」で有名です。こうして人間と狼とのし烈な戦いが行われる分けです。日本にも狼がいますが、日本では人の入らない山岳地帯が多く、そこには十分なエサがあり、また日本では牧畜があまり行われませんでしたので、人間と狼との戦いはあまり問題にならなかったようです。
 また、人間同士の戦争で多くの死体が戦場にうち捨てられると、これが狼のエサとなり、狼は人肉の味を覚え、ここに人食い狼が登場することになります。人が狼に喰われるという話は「赤ずきんちゃん」でも有名です。さらに狂犬病に感染した狼に噛みつかれると、ほとんどの人は助かりません。しかし、19世紀末にパスツールが狂犬病のワクチンを開発して、狂犬病の脅威が減少するとともに、この頃には狼そのものが減少し続けていました。それは、政府が賞金を出して狼を殺したり、さらに人間による開発のため狼の生息域が減少してきたからで、今日のヨーロッパでは野生の狼はほぼ絶滅したようで、むしろ狼の種の保存が問題となっているほどです。

 本書では、フランスを中心に人間と狼との長い戦いの歴史が述べられるとともに、その過程で生まれたさまざまな伝説・神話・寓話などが具体的に述べられ、大変興味深い内容でしたが、それが西洋文明に大きな影響を与えるというようなものでは、ありませんでした。

2017年5月2日火曜日

リンゴの花

リンゴの木に花が咲きましたが、リンゴは自家不稔性であり、受粉の相性がよい2品種以上を混植する必要があります。ところがもう一本のリンゴの木は枯れてしまったため、我が家のリンゴは花が咲いても、実が成る可能性はありません。









2017年5月1日月曜日

法蓮草

法蓮草。種をまいて1カ月足らずで、大分成長しました。種の値段は100円程度で、年に2回収穫できます。毎日食べていると、便から法蓮草がそのままでてきます。汚い話しで、すみません。