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2017年4月19日水曜日

入試改革について思うこと

最近入試改革案がいろいろ出てきています。私自身、予備校で長く働いてきたため、共通一次試験の開始以来何度も入試改革に遭遇してきました。今回の入試改革の目玉は、従来のマークシート方式を減らして、記述式の試験を増やすのだそうです。「記述式」とは、多分受験用語なのだと思いますが、この言葉の反対語は「マーク式」です。つまり答案用紙に自ら回答を書くのか、マークシートにマークするのかということだと思いますが、この場合、記述式でも回答がすべて記号であっても「記述式」ということになるわけですから、もう少し表現方法を考える必要があります。ただ、文科省が言っている「記述式」とは、単語を直接書かせたり、文章を書かせたりする試験を想定しているようですが、もちろん解答を選択して記号を記述する問題も存在するでしょう。
 こうした形式の試験の場合、最大の問題は採点方法だろうと思います。文科省は、当面民間の業者に委託するというようなことを言っているようですが、民間の業者とは具体的にどういう業者なのでしょうか。新しく業者を組織するということでしょうか、それとも模擬試験を行っている予備校などのことなのでしょうか。もし後者であるとするなら、文科省は予備校での採点がどのように行われているのか、知っているのでしょうか。
私がいた予備校では、現役の先生や退職した先生などに採点を依頼します。こうした採点者たちが予備校に問題をとりにきて、家で採点して再び予備校に持ってきます。もしかすると家では、記号問題は奥さんが採点するなど家庭内分業が行われているかもしれません。もちろん複数の採点者が採点することはありませんので、ミスが発生する可能性は常にあります。ミスが発生したら、予備校はお客様に率直に謝罪します。一番恐ろしいのは、採点者が答案を紛失することです。私自身、電車の網棚に答案を忘れて慌てたことがあります。また、ある人はバイクの荷台に答案を縛り付けて走行していた時、紐が外れて答案をあちこちにばらまいたことがあります。もちろんこんなことが日常的に起きているわけではなく、予備校も厳重な管理を行っていますが(今は宅配郵送しているかもしれません)、それにしても国家的な規模で行われるテストが、こんなことで良いのでしょうか。なお、予備校では実行していませんが、共通テストでは複数の採点者が採点する必要があり、これを短期間で実施するには、かなり大規模な仕事となり、予備校にとってはビジネス・チャンスとなるかもしれません。
 また、記述式の問題では、多様な解答の可能性があり、予備校でも模擬試験のたびに、採点基準を巡ってかんかんがくがくの議論が行われ、さらに試験終了後、日本中から問い合わせがあります。これを国家的な規模で行うとしたら、想像するだけでも発狂しそうです。採点基準の作成に際しては、あらゆる可能性を考慮し、細心の注意を払って行われますが、それでも多くのクレームが届きます。全国共通の試験では、可能な限り客観性が求められ、そのためにはますます採点基準が詳細となります。その結果、採点者は手足をガチガチに縛られて採点することになり、「記述式」とはいえ、問題の本質は限りなくマーク式に似通ったものになっていきます。

 私が思うことは、記述式の試験では絶対的な客観性を求めず、ある程度採点者の裁量に委ねるしかない、ということです。その結果発生するであろう若干の不公平はやむを得ないことだと思います。絶対的な客観性を追求するマーク式の試験の弊害と、記述式での採点による不公平を天秤にかけた場合、なお記述式の方が優れていると思います。マーク式の場合、受験生は何が正しいかではなく、どれが答えかを追求しますので、学習態度が歪んでしまいます。記述式でも、ただ単語をかかせるだけとか、1020字程度の論述問題では、似たような弊害を生み出すでしょう。むしろ思い切った長文の論述を出題し、採点はある程度採点者(複数必要)の裁量に委ねるというのはどうでしょうか。この方法では、試験のたびに激論が起こることは明白ですが、こうした議論を通じて、より良い問題の作成と採点方式が生み出されていくのではないでしょうか。


庭のサクランボの木に花が咲きました。実がなるには、まだ2~3年かかりそうです。














2016年2月24日水曜日

歴史教育について思うこと

私たち歴史を教えるものは、生徒・学生の何気ない発言から、大きな影響を受けることがあります。ずっと以前のことになりますが、私は近代以降について、「先進的」とか「後進的」という表現を、当たり前のように使っていました。そして、ある生徒に「後進的」とはどういう意味かと質問されて、気づきました。「後進的」という言葉には、資本主義が未熟であるという意味以外には何もないことに。もちろんこの生徒は、大して深い意味で質問したわけではないと思いますが、重要なのは、私が古い概念から抜けられていないのに対して、この生徒にははじめからそんな概念はないということです。むしろ社会や文明を、ほとんど惰性で資本主義の発展という観点で捉えていたことを、恥ずかしく思いました。
 次は、比較的最近気づいたことです。私が大学にいた頃、同僚の先生が憤慨して私に話しました。今学生が驚いたような顔をして、「日本とアメリカが戦争したことがあるのですか」と言うのです。そんなことも知らないのかと、この先生は愕然とし、私も愕然としました。最近、このエピソードを話す機会があり、その後でふと考えてみたのです。もしかしたらこの学生は、太平洋戦争も、それが日米の戦争であることも、知識としては知っていたのではないか、ただしそれは試験のための知識であって、現実とは結びつかない仮想の知識ではないのか、ということです。だとしたら、この一つの事実は、このような歴史の教え方で良いのかという、歴史教育の根本に関わる問題を提示していると思います。
 文科省の入試改革は、知識偏重を改め、入試に記述式を導入すると言っていますが、中途半端な改革は止めた方がよいと思います。たとえば、歴史用語を直接書かせるという程度の改革ならば、生徒にとっては覚え方が少し変わって、負担が増えるだけです。予備校でも、記述模試が行われると、採点基準会議なるものが開かれ、あれも良いのではないか、これも良いのではないか、といった不毛の論争が延々と続けられます。それでも、完全な公平性と客観性を維持することは困難であり、結局は「受験上」正確な知識をもっている生徒が、高得点をとることになります。これでは、従来のマーク式試験と大して変りがないように思えます。もっとも、マーク式の場合、いい加減にやっても、ある程度の点が採れる可能性がありますので、これも完全な意味で公平とはいえないと思います。
 記述式を導入するということは、完全な公平性と客観性を捨てるということですから、どうせ捨てるならもっと大胆に捨てるべきです。つまり、長文の論述を書かせることです。これを実施するには、とてつもない困難が待ち受けており、さらに公平性と客観性を大幅に捨てることになります。予備校でも、論述の採点基準を作りますが、あまり詳細な採点基準を作ると、記述模試と同じことになってしまいます。つまり、正しい言葉さえ並んでいれば、高得点になるということです。
 これを避けるためには、大まかな採点基準をもとに採点者に判断を委ねるしかないのではないでしょうか。もちろん、複数の採点者による採点は不可欠です。もしこうした試験を実施したら、少なくとも当初は大混乱に陥るでしょう。まず採点者の混乱、現場で教える教師の混乱、そして生徒の混乱は、目に見えるようです。しかし真剣に入試改革を考えるなら、その困難と混乱に立ち向かっていくしかないと思います。つまり信念をもって実行し、つねに改善していけば、やがて試験とはそうしたものだとして受け入れられていき、現場での歴史教育そのものが変化していくと、私は思います。
 歴史教育については、このブログの「予備校発「新学力」考」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/search?q=%E4%BA%88%E5%82%99%E6%A0%A1%E7%99%BA%E6%96%B0%E5%AD%A6%E5%8A%9B)を参照して下さい


  なお、「記述式」の概念が曖昧になっています。受験上、記述式とはマーク式に対する概念で、選択した番号を答案用紙に記述するのも記述式です。



福寿草 この文章とは何の関係もありません。庭の片隅にひっそりと咲いていました。












2014年7月20日日曜日

私が愛した春日野道

  私は、仕事の関係で神戸で4年間を過ごしました。私にとっては名古屋との間を行き来する苦しい日々でしたが、20113月に神戸を去るに当たって、この文章をブログに投稿し、まもなくブログを閉鎖しました。したがってこれが大学のブログでの最後の投稿となります。

私は、神戸に滞在している間ずっと、夕食を春日野道の商店街で食べてきました。神戸製鋼があった時代には、春日野道は映画館や風呂屋が何軒もある繁盛した町だったそうですが、今はすっかり寂れてしまいました。総じて、このあたりの商店に共通しているのは、経営者が高齢化して後継ぎがおらず、そのために商売にあまり欲がなく、商店街の中でお互いに店を訪問し合って成り立っている感があります。ということは、外からの新しい客が非常に少ないということです。私などは、この商店街では数少ない新顔の客ということになります。
 私が一番よく行く店は、この商店街のなかほどにある「大関」という居酒屋です。というのは、この店のママの両親が以前魚屋をやっていたため、魚が新鮮だということ、また注文に応じて何でも作ってくれるからです。一人暮らしをしていると、病気になった時に食べるものがなくて困るのですが、よくここでお粥や雑炊を作ってもらいました。いわばこの店は私のダイニングのようなところです。この店は、基本的にはママが一人で経営しているのですが、時々ご主人やママのお母さんが手伝いに来ます。このお母さんは肺癌で手術し、すでに80歳を越していますが、今も元気そのものです。
 この店の隣に、「足立時計店」があり、80歳を越した老夫婦が経営しています。この老夫婦に腕時計の電池交換をしてもらうのは心痛むものがありますが、本人は40年間時計屋をやっているので、どんな時計でも修理できるというのが自慢です。でも今時、時計を修理する人なんているんでしょうか。その隣に、名前は忘れましたが、タバコ・酒屋があります。こここのお爺さんは大変元気者で、息子さんが後を継いでいます。とは言っても、お爺さんが80歳を過ぎていますので、後継者も決して若いとは言えません。「大関」の向かいに「勉強堂」という古本屋があり、ここのおばあさんがタバコ屋のお爺さんの同級生だそうです。この「勉強堂」は息子さんが経営しており、私はかなり沢山の本を買ってもらいました。古本屋のホームページには、よく本を直接とりにいきます、と書いてあるのですが、実際には100冊や200冊の本では来てくれません。しかしここのご主は、私を車に乗せて気持ち良く学校まで本を取りに来てくれ、大変助かりました。
 「大関」の裏に「まねき寿司」という寿司屋があります。ここの大将は68歳で、あと2年で開業して50年になるので、その時に引退すると言っています。この店は午後6時に開店し午前3時まで営業しています。以前は、バーのホステスなどが仕事の帰りに寿司屋に立ち寄ることがよくあったのですが、最近はそういう客もずいぶん減っていると思います。でも大将は、昔からのやり方なので、このまま続けると言っています。この町の商店主は頑固な人が多く、昔からのやり方を決して変えようとはしません。また、この店は出前をやっているのですが、出前をやる以上一人では経営できないので、バイトを雇っています。ところがこの大将は口が悪く、バイトを口汚く叱り飛ばしますので、すぐバイトが辞めてしまいます。今年の正月には、「今年は怒らないと決めた」と言っていましたが、言っている先から怒っていました。現在バイトが一人、かろうじて続いていますが、はたしてこの店はあと2年続くのでしょうか。
「大関」から少し南へ下がったところに「中川」という洋食屋があります。ハンバーグ、カレー、シチューなどをおいている、昭和の初期の洋食屋を思わせるような店で、老夫婦が経営しています。ここは飲み屋ではないので、本来私がいくような店ではないのですが、一人暮らしをしていると、たまにこうした料理を食べたくなるのです。ボリュームが多く、たまに栄養をとるのに最適の店です。この店のマスターは無口で、あまり客の前に出てきません。なお、この店は日曜日が定休日で、こうした店は日曜日に家族連れが来るのではないかと言ったのですが、「昔からのやり方なので」と言って変更しようとしません。ここのマスターも頑固なおやじでした。
春日野道商店街の阪急駅に近いところに「東雲庵(しののめあん)」という蕎麦屋があります。私は蕎麦が好きなのですが、神戸には蕎麦屋がすくないため、よくここに食べにいっていました。ここの大将は変な人で、いろいろな仕事を転々としたのちに、30歳を過ぎてから蕎麦屋に弟子入りし、私が神戸に来る半年ほど前に春日野道で開店しましたそうです。それまで大将が修業していた店は元町にある「卓」という店で、経営者はここの大将より若い人で、なかなか腕のいい職人でした。どちらの大将も味には拘りがあるのですが、どうも神戸では蕎麦は好まれないようで、客の入りが今一なのが残念です。
「東雲庵」の向かいに「みくみ」というスナック風の飲み屋があります。ここのママは以前三宮でスナックを経営していたようで、客あしらいがうまく、私もストレスがたまった時には、しばしばこの店で飲んでいました。この店は三宮以来のなじみ客が多く、いつ行ってもなじみのお客さんがいます。お互いに名前を知らないのですが、結構お客さん同士で話が盛りあがっています。なお、私は今回引っ越しに当たって、この店のママに紹介してもらった業者にお願いしましたが、大変安い金額で引き受けてくれ、大変助かりました。
春日野道商店街の阪神駅に近いところに、「よろこんで」という寿司屋があります。若い夫婦(春日野道の他の店と比べて)で経営している寿司屋で、中に入ると大将が大きな声で「いらっしゃいませ」というので、まず驚かされます。そして注文すると「よろこんで」と答えます。ここはネタもシャリもやたらに大きく、私などは6貫も食べるとお腹がふくれてしまいます。また赤出汁はほとんど丼ぶりのような器に入っており、とても全部は飲めないので、いつも半分の量にしてもらっています。
 「大関」の近くにジパングという喫茶店があり、私はよくここでモーニングを食べます。この店も若い夫婦が経営しており、年中無休で朝7時から店を開いています。私は、職業柄なのか、若い人が頑張っているのを見ると応援したくなります。それだけではなく、私は新聞をとっていないので、毎朝喫茶店で新聞を読むのですが、ここは色々な新聞を置いているので好都合です。また、焼きたての卵焼きを挟んだサンドウィッチが、私のお気に入りです。
 私のマンションの近くに中央鍼灸院という治療院があります。ここは保険が使用できて、20360円という格安なので、以前よく行っていました。ところが、共済組合から病気でもないのに整体治療に保険を使うことはできないという通達があったため、あまり行かなくなりました。この治療院の先生はよく喋る人で、治療している間中喋り続けています。春日野道の噂話について色々教えてもらいましたが、もしかするとこの先生を通じて私の噂が春日野道中に広がっているのかもしれません。

 

2014年7月8日火曜日

その後の「動物園」

以前私は、大学のホームページでの自己紹介で、「私の出会い」というタイトルの文章を書きました。

掘立小屋が並んでいるだけの動物園















動物とは自由に触れ合うことができます















かなり汚い動物園です


















犬と猿が共存しています
















 「旅には色々な出会いがあります。私は紀伊半島の旅が好きで、よく42号線を車で走りました。この道路の途中の紀伊長島の近くに、「動物園」という名前の不思議な動物園があります。当時(今から10年以上前)60歳を過ぎた「オジサン」が一人で経営している動物園で、入場料はわずか200円、客も少なく、どうやって経営しているのか不思議に思っていました。でも、私はこの動物園が何となく好きで、42号線を走る際には、必ず立ち寄り、何も語らず立ち去っていました。
ところが、あるときこの「オジサン」が、突然私に身の上話を始めたのです。自分は小学校のときに遠足で伊勢神宮に行き、そこで大きなガマガエルを見た。このガマガエルを自分で飼ってみたいと思ったのだが、伊勢神宮までは遠かったので、まず新聞配達をしてお金をため、自転車を買って伊勢神宮に行き、ガマガエルを捕まえた。これをきっかけに色々な動物を飼い始めるようになった、というのです。
この話を聞いて私は、私がこの動物園に不思議な魅力を感じていた理由を理解しました。この「オジサン」は動物園を経営しているのではなく、単に本人が色々な動物を飼いたくて、それが結果として動物園になっているだけだということ、したがって、この動物園は実は動物園ではなく、「オジサン」と動物が一緒に生活する「場」だったのです。だから私は、この動物園に不思議な魅力を感じていたのです。
この「オジサン」が、突然、私に身の上話を始めた理由は分かりません。さらに10年近くこの動物園には行っていませんので、現在この動物園がどうなっているのかも分かりません。この機会に、この動物園を再建するプロジェクトを立ち上げたいとも思うのですが、この「オジサン」は相当偏屈な人なので、私の言うことなど聞いてくれないでしょう。」

整然とした綺麗な動物園になりましたが、動物の気配がしません
















 実は2年前(2009)3月に、久しぶりにこの動物園を訪問しました。ところがこの「オジサン」は、前の年の12月、つまり4か月前に亡くなっていました。その後、「オジサン」のただ一人の協力者だった奥さんは、一人では動物園を経営できないので、実家のある鳥羽に帰ったそうです。そこで地元の人たちが話し合った結果、ボランティアによって動物園を維持することが決まり、また出資する人がいて、動物園はきれいに改築され、若いボランティアの人たちがせっせと働いていました。
 私はボランティアの女性に、「オジサン」は面白い人でしたね、と言ったら、「無茶苦茶な人でした」という答えが返ってきました。この動物園は、「オジサン」のいい加減な動物管理のため、しばしば動物が逃げ出して、近所の人たちに迷惑をかけていたようです。確かに動物が逃げ出すのは問題ですが、動物園がきれいになり、動物の管理がしっかり行われるようになった結果、この動物園の魅力が失われてしまいました。結局この動物園は、オジサンの、オジサンによる、オジサンのための動物園だったのです。

















2014年7月2日水曜日

ある便り

今年(2007)9月に、突然私の下に郵便が届きました。そこには一冊の写真集と手紙が入っていました。この郵便を送ってきたのは、20年以上前に私が教えた女子学生で、この子(現在では多分40歳代と思われる)については、よく覚えていました。何しろ、毎日のように私の所へやってきて、私に哲学的な議論ふっかけてきたため、20年以上前とはいえ、さすがに印象に残っていました。この手紙を受け取った後、何度か彼女とメールのやりとりをしたのですが、この手紙と、やり取りしたメールの内容を、本人に了解の上で、ここに公開したいと思います(当時大学のブログで公開しました)
 なぜ私がこれらのメールを公開する気になったのかといえば、それが「自分とは何者なのか」という問題を扱っており、若い人の心に訴えるものがあると思うからです。


送られてきた本の表紙です。写真の人物はラマナ・マハルシというインドの思想家で、この本は彼と彼の生きた場所の風景を写した写真と、彼が述べた言葉からなっています。


大塚先生、今日は~
お元気でお過ごしでしょうか。
突然のお便りとこの本を見て、いったい何ごとだ?といぶかしく思っていることでしょうね。
お送りした本は、親しい友人が監修したものです。この本ができあがって、私の手元に届いたとき、ずっと忘れていた先生のことを思い出したんですよ。ですので、いかにも唐突かと思いましたが、河合塾でまだ教えてらっしゃることが分かってそちらにお送りすることにしたという次第です。
思い返せば、私が先生のお世話になったのは、もうかれこれ25年以上前のことです。当時の年齢以上の時がすぎてしまったと思うと、本当にびっくりします。時の経つのはなんと早いことでしょうか。そんな大昔のことですので、先生はたぶん私のことはよく覚えてらっしゃらないと思います。
生きることの意味の根本を知るすべは哲学しかないと思い詰めてしまっていた私に、あの時先生はラーマクリシュナ(1)の本を下さって、西洋哲学をやっても自殺するだけだって話をしてくださったんです(2)。当時の私はものすごく深刻で大変な状態で、先生のお話の意味するところはよく分らなかったのですが、あらためて振り返ってみると、あんな状況で、あんなアドバイスをくださるなんて、なんて不思議なことか……じつにありがたい巡り合わせだと思わざるを得ません。
言葉と思考を超えた世界を指し示してくださったこと、今では本当に感謝しています。こうした無数の導きのおかげで、今こうしてありがたく生きていられると感じています。人生というのはじつに不思議なドラマですね~。
おかげさまで、今は毎日笑って、楽しく暮らしています。
本当にありがとうございました。
お送りした本、とってもすばらしい本です。
先生の興味が変わっていなければ、きっと喜んでいただけるのではないかと思います。
先生もどうぞお元気で、お幸せにお過ごしくださいね-。
                         愛と感謝をこめて~

(1) ラーマクリシュナは、19世紀後半のインドの神秘思想家で、ヒンドゥー教の復興に大きな役割を果たすとともに、ヨーロッパの思想にも影響を与えました。ラマナ・マハルシもそうした思想家の一人です。なお、私が彼女に贈った本は、ロマンロランの「ラーマクリシュナの生涯」です。
(2) 私は、「西洋哲学をやっても自殺するだけだ」と言った記憶はありませんし、その様に考えたこともありません。ただ、もし私が言ったとすれば、当時の彼女が西洋哲学の言葉の中に埋もれて抜け出せなかったと、感じたからだと思います。


大塚です。本とお手紙を送って頂き、有り難う御座いました。あまりに突然だったので、大変驚きましたが、貴女のことはよく覚えています。当時私が貴女に話したことについては、あまり覚えていませんし、当時の貴女の悩みの本質をあまり理解していたとは言えませんが、当時貴女が破滅的な方向に向かっているような予感がしたため、ラーマクリシュナの本を差し上げたのだと思います。貴女が大学を中退した後、貴女が編集した本を私に贈ってくれました。その内容はよく理解できませんでしたが、貴女がカルトの世界に傾斜しつつあるような危惧を感じていました。
さて、私は現在でも、インド思想に強い関心を持ち続けていますが(憧れといった方がよいかもしれません)、残念ながらほとんどそれについて勉強することはありませんでした。おそらく、この世界に入り込むことが怖くて、意図的に目をそらせていたのでしょう。先週貴女から贈られた本を読みましたが、残念ながら写真も文章の意味も、十分理解できませんでした。でも、何か気になり続け、何度も繰り返し読むうちに、なぜか心が激しく動揺し始めました。それでも、やはり写真と言葉の意味は理解できません。
私が僅かに知っているインド思想は、おそらく欧米人の解釈を通して得られたものであり、欧米思想のフィルターを通して学んだものだと思います。解説する欧米人が、いかに論理を超えた世界として解説しても、そのことが欧米人の論理で説明されています。しかしラマナ・マハルシの言葉は互いに矛盾しているように思われ、彼の一つ一つの言葉を全体の中で捉えることは、私にはできません。今度は、貴女が私の師となって下さい。
 これからも愉快な毎日が過ごせるように祈っています。


2007年10月
メール、ありがとうございました~。
先生の感想は意外でもあり、また理解できるものでもありました。
当時私の身に起こったことは、誰でも一度は感じたことがあるであろう実存的な疑問、私は誰で、ここでいったい何をしているのか、このすべてはいったい何なのか?
というものでした。そうした問いが突然、雷に打たれたようにやってきたため、私自身の目から見ても、自分が破滅していくような気がしたものでした。
今ではそれは祝福だったと感じられますが、当時はそれどころではありませんでしたね。
ともあれ、教授が慈悲深い人だったせいもあって、大学はめでたく中退せずに卒業することができたんですよ。ありがたいことです。
しかし人生とは不思議なものですね。今になって、先生のなかにある魂の憧れが、私を呼び戻したんでしょうか・・・。 
先生が感じる恐怖というものは、とても分かる気がします。自分の思考、名前や形という、慣れ親しんだアイデンティティを後にするわけですから。海のひとつの波、空のひとつの雲が自分だと思っていたのに、実は海そのもの、空そのものだと気づくことになるわけですから。
以前の私は死んで、今こうしてありがたく存在している、ということからすれば、破滅も悪くないですよ(笑)。とはいえ、こういったすべては全部内面的なことで、外面的には、毎日の生活をごくごく普通にありがたく、しかも楽しく送っていますが。
ご自分の魂の憧れに忠実にしたがっていけば、必要なことは起こっていくと信頼して大丈夫ですよ。
とりあえず、先生が読んでみたかったら、お勧めできる本がいくつかあります。
「不滅の意識」ラマナ・マハリシ ナチュラル・スピリット (お送りした写真集より文が多いので、理解しやすいかも)
「エンライトメント」OSHO 市民出版社 (私の直接の師はOSHOです。直接会う機会はありませんでしたが、計り知れない恩恵を受けました。これはすばらしい本ですよ~)
「悟りを得れば、人生はシンプルで楽になる」エックハルト・トール 徳間書店 (これは原題はthe Power of Nowという本で、もし英語が読めるんでしたらそちらをお勧めしま
す。いわゆるインド哲学ではありませんが、お勧めです)
OSHOは言っています。真理は言葉にはできない、月をさす指に噛みつこうとしないで、月を見るように、と。
また何かありましたら、いつでもメールくださいね。
それでは~。幸運をお祈りしています。愛をこめて



2008年2月

早速ですが、貴女に一つお願いがあります。
現在私は神戸の大学で教師をしています。週45日を神戸で過ごし、週末には名古屋に帰ってきます。河合塾には週1日行っています。この大学のホームページの私のブログで、貴女と交わしたメールを公開したいと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん貴女の名前は決して出しません。
 なぜかというと、今の学生たちを見ていると、心に傷を負った子供たちがあまりに多いと感じているからです。貴女とのメールが直接彼らの抱える問題を解決できるとは思いませんが、直接言葉で語るより往復書簡という間接的(あるいは第三者的)な形で示せば、何かを訴えることができるように感じています。もし、承諾頂けるなら、返事を下さい。
ところで、前のメールで、当時の貴女を十分理解できなかったと書きました。誰もが、若い頃に「自分は何者なのか」と問い続けますが、貴女のようにとことん突き詰めて考える人は稀だと思います。私が貴女について理解できなかったのは、その点にあるのだろうと思います。多くの人は、答えが見つからないまま日々を過ごし、そのまま人生を終えて死んで行きます。そして私もそうした人々の一人だろうと思っています。
私は相変わらず悩み多い日々を過ごしていますが、それでも、歳をとったせいか、肩肘を張らずに、自分のあるがままの姿を晒して生きています。ところが、大変不思議なのですが、悩み苦しんでいる自分を面白そうに見つめている、「もう一人の自分」が存在しています。言い換えれば、「もう一人の自分」が「悩み苦しむ自分」を面白がって見つめているのです。どちらが本当の自分なのかは分かりませんが、この「もう一人の自分」のおかげで、私は心の均衡を保てているのではないか、と考えています。したがって私自身の心は比較的平穏です。
 ラマナ・マハルシの本を読んで動揺したのは、どちらの自分だったのかも、よく分かりません。ただ、今は、この本を読んで心が動揺することはありません。むしろこの本を読むと心が落ち着くため、いつも手元に置いています(相変わらず、あまり意味が分かっていませんが)
 結局私は、無理にインド思想の世界に入り込むのを止めました。「在るがままの自分」を維持し、時にはマハルシのような魂の世界にも入り込んでみたいと思います。また、何冊かの本を紹介してくれましたが、今は読むのを止めておきます。これ以上の言葉や文字は、かえって私を混乱させるように思われるからです。ただ、一つの言葉だけが、私の心に張り付いて離れません。「私は私であるものである」です(この言葉自体は知っていたのですが、今まで深く考えたことがありませんでした)。一瞬分かりそうになったことが何度もありましたが、その度に答えが遠のいていきます。おそらく、「言葉」に拘っているために、答えにたどり着かないのでしょう。もう少し、自分で考えてみようと思っています。
追伸
 ふと思い出したのですが、貴女のアドレスのアジータというのは、仏典に出てくる名前ではなかったでしょうか?

こんにちは、お久しぶりです。
メール、ありがとうございました。
本をお送りして、その後、どうしていらっしゃるかなーとときどき思っていました。
もう一人の自分のお話、とても興味深く拝見しました。インド哲学だろうとなんだろうと、実際生きることのなかで、人は真実を知っていくのだと思います。特定の何かが大切なのではなく、おっしゃるとおり、求める気持ち、実際に生きて学ぶことが肝心なんでしょうね。
また、最近は、あの本を見ると落ち着くとのこと、よかったなーと思っています。
さて、交換メールの公開についてですが、若い人の心に何か触れれば、そして何か私の言葉が助けになれば、とってもうれしいことですね。とりあえず、始めてみましょうか?
私はたまたま今インドに来ていまして、2月末には帰国します。
またそのころメールいただければと思います。
それと、アジータという名前ですが、はい、仏典にもでてきますし、インドでもらった名前でもありまして、今は仕事もこの名前でしています。
HPもありますので、興味がありましたら、お暇な折りにでものぞいてください。


こんにちは、先生。
 いただいたメールにインドからお返事をしたまま、半年以上なしのつぶてなので、どうなさっているかなあと思ってメールしてみました。
 お元気でお過ごしですか?
おっしゃるとおり、交換メールを公開したとしても、心に傷を負っている若い人のために、何か役に立てるかどうかはわかりませんが、何かしら社会的な働きかけをすることができるのは、とっても素晴らしいことだと思っていましたが・・・
 ただ、パタリとメールが来なくなったのは、先生が私のプロフィールをごらんになって、OSHOの弟子になったというところに引っかかっているのかもしれないなあー、と漠然と思っています。まあ、これは私の推測にすぎないのですが。
 OSHOは若い頃、バグワンという名で知られていた人で、世代的にも先生の世代は日本人の弟子も現れ始めたころと思いますので、たぶんご存じなのでしょう。
 過激な言動も多く、政治家や宗教指導者などを遠慮なく批判したこともあって、マスコミからはセックス・グル等々、社会的にひどい報道をされ、さらにその弟子たちも実際、無礼な人が多かったりしますので(笑)、伊藤さんも、なんのことはない、悪い新興宗教に捕まってたのか・・・とかなんとか、と思われたのかもしれませんね。
 そういった誤解は、一度ちゃんと彼の講話なりの書物をじっくり読んでくだされば、根も葉もないことだとわかると思いますが。
 まあ、わかる時にはわかってくださることでしょう。
 先生のおっしゃっていた「もう一人の自分」という記述は、とても興味深いものでした。
 その、あらゆることをただ見てる、ただ気づいている意識(それはいつも静かで、変わらず穏やかで、無言です)こそが、私たちの真我にとても近いものです。
 偉大な師(インド哲学であれ、禅の導師であれ、だれであれ)が共通して言っていることは、私たちはみな、悟って生まれてくる、けれども、成長の過程でそれを見失ってしまい、夢を夢と知ることなく夢遊病者のように生きているということです。 それでは確かに苦しい人生にならざるをえないでしょう。
 まあ、私自身は、目覚めたり、夢に戻ったりの繰り返しですが・・・昔の苦しさは、昔のものとなりました。ありがたいことです。
 2月にお返事したまま、その後連絡がないので、残暑お見舞いも兼ねて、一度メールしてみました。
 おひまがあれば、またいつでもメールいただければうれしいです。
 それでは、秋の気配の感じられる中、どうぞお元気でお過ごしくださいね。


2008年9月
大塚です。長い間連絡をせず、余計な心配をさせて申し訳ありません。連絡できなかったのは、貴女の問題ではなく、私自身の問題によるものです。
貴女の手紙は、大学のホームページ内の私のブログ「つぶやき」で公開されています。
このブログを通じて、学生の反応を探っていたのですが、ほとんど反応がなく、それ以上先に進めなくなってしまいました。その後、ブログを通じて色々な形で反応を探っているのですが、なかなか反応がありません。またこの間に、母が死亡し、神戸と名古屋の間を往復する生活を続けていることもあって、精神的にも肉体的にも疲労しきってしまい、ブログを更新することもできない状態でした。ようやく、少し余裕ができましたので、今後どうするかを考えてみたいと思っています。
実は、昨日、最近退学したある学生からメールが届き、退学の理由や現在の心境が述べられており、私は、先ほど返信メールを送りました。内容について触れることは出来ませんが、私はこの学生に適切なアドバイスをすることができませんでした。言葉で何を語っても、すべて空しいように思われたからです。人の心に触れることは、容易ではないことを痛感しています。
ところで、現在私はヒンドゥー教にのめりこんでいます。何冊かの本を読み、ベーダやウパニシャッドの抜粋を読んだのですが、すでにインドでは3千年も前に、「思考」あるいは「知」の極致に到達していたことに驚愕しています。またヒンドゥー教の多様性と豊かさにも驚愕しています。また、最近(といっても半年以上前ですが)、インド映画を何本か観ました。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」「ラジュー」「ザ・テロリスト」「ディル・セ」です。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」については、ブログで感想を書いています。私は最近沢山の映画を観ていますが、それには理由があります。その理由については、また別の機会に話したいと思います。

こんにちは。
 お久しぶりです。
 そうですか・・・ハードな日々を送られていたんですね。
その後、お元気になられましたか?
 インド映画は数は見てませんが、「ムトゥ」に代表される、あの底抜けに明るい感じが大好きです。映画館で見ている人たちが、みんな一緒に踊るんですよ。
この現象界は「リーラ」つまり遊びというか戯れであって、カルマに応じて生まれ変わっていき、結局はみんな救われる(救われている)っていうような感覚がどっかにあるんではないでしょうか。
 私もいろんな師との出会いから、真実は深刻ではないということを知るに至りました。
深刻になりがちのは思考(つまり解釈)であり、過剰な思考は病的に破滅的になりがちですよね。(その辺のことを、私は予備校で先生から教わった気がするんですが・・・)
言葉はむなしいっていうのも、ある意味真実だと思いますが、私の場合は、先生の言葉にものすごく影響を受けたし、とってもありがたいと思っている気持は昔も今も変わりません。
 ブログも、先生が自分の楽しみのためにされれば、その楽しい感じが学生にも伝わるんじゃないでしょうか。
自分が楽しまないで、人のことを何とかしようと思っても、そりゃー無理じゃないかしらと思いますが・・・
 ヒンドゥ教にのめりこんでいるというお話ですが、その情熱や喜びが一番ダイレクトに人のハートに響くと思います。
 ではでは~。
機会がありましたら、またお便りさせていただきますね。
 どうぞお元気で。
秋の美しい景色を楽しみましょう~

2009年10月
大変ご無沙汰しています。貴女のダイレクトメールを見て、久しぶりにホームページを見てみました。相変わらず、いろいろ活躍しているようで、安心しました。とはいっても、私は貴女のことを忘れていたわけではありません。実は、この秋に、私のゼミに貴女に来て頂くことを真剣に考えていました。今回のゼミでは、宗教をテーマに取り上げ、仏教、キリスト教、イスラーム教などを対象として授業をしています。その過程で、貴女にインドでの体験などを話して頂きたいと思っていたのですが、いろいろな事情が重なって、貴女に連絡する前に実施が困難となり、大変残念に思っています。また、この様な機会がありましたら、お願いすることがあるかと思いますので、その際はよろしくお願いします。
ところで、ホームページを拝見していたところ、インド体験旅行の企画が消えていました。私も人生の終わりに近づいてきたため、一度立ち止まって見たいと思い、それにはインド旅行などもいいかなと思ったりもしていました。結局行かないような気がしますが、あまりにも長く走り続けてきたため、一度何も考えない空白の期間をつくって見たいという思いが日々強くなっています。
今後の一層のご活躍をお祈りしています。


メールいただいてから、ずいぶん経ってしまいました。
このところ、大変忙しい日々が続いていまして、お返事もしないままで失礼しました。
ともあれ、メール、大変うれしく拝見しておりました。
 宗教体験というものは個人的なものですので、私の話がお役に立つかわかりませんが、そうした機会がありましたら、喜んでお伺いしたいと思います。
 ところで、私はインド体験旅行の企画をしたことはないので、別の方の案内と混同しているのではないでしょうか。
どちらにしても、インドであれ、どこであれ、空白の時を持つのはとても素晴らしいことですよね。
 私などは自然の中や温泉などで、ぼんやり無心の時を持つのが至上の楽しみです・・・^_^
 それでは、また。
 寒くなってきましたが、どうぞお元気で~。
 with Love
アジータ





2014年6月25日水曜日

世界史をどのように捉えるか

この論文は、20053月に河合文化研究所の主催で、北京大学の教授たちを招いて行われた日中討論会で発表されたものです。この討論会は、京都大学名誉教授である故谷川道夫先生の主導で行われ、大変活発な意見交換が行われました。その後、20066月に河合文化研究所「研究論集」第2集でこの論文が掲載されました。なお、この論文の内容は、このブログの「グローバル・ヒストリー 第3章 グローバル・ヒストリーとは何か」に反映されています。
今読み返してと、あまりに抽象的で分かりにくい文章です。私自身がまだ内容を消化できていないような文章でした。

1.「世界史」は成立するか
 高等学校に「世界史」という教科があるが、そのような教科は成立するのだろうか。さらに「世界史」というのは学問として成立するのだろうか。高等学校で教えられている「世界史」は、5千年に及ぶ全人類の歴史についての断片的な知識の集積に過ぎないかのように思われる。それでは、「世界史」を体系的に語る方法はないのだろうか。

2.マルクス主義と文明史観
 19世紀以来歴史は各国別に研究される傾向が強く、世界史はそれら各国史の寄せ集めでしかなく、せいぜいそれらの国の相互関係が論じられる程度だった。これに対して、全人類の歴史を共通の基準で体系化する方法が模索されてきた。かつて世界史の教科書は、かなり曖昧ではあるが二つの観点で体系化されていたように思う。一つはマルクス主義であり、一つは文明史観である。
マルクスは、人類の歴史を生産様式の変化に基づいて、古代=奴隷制社会、中世=農奴制社会、近代=ブルジョワ社会ととらえた。彼の思想は日本にも大きな影響を与え、戦後マルクスのテーゼを日本の歴史に適用するため、一時不毛な論争が展開された。すなわち日本における古代・中世・近代はいつなのか、さらにアジアにおける古代・中世・近代はいつなのか、という論争である。そしてヨーロッパの近代化を典型的なモデルとして、アジア的な停滞とヨーロッパ的な進歩が常に対比されることになる。たしかにマルクスの理論が適合するなら、このような捕らえ方も世界史を共通の基準で体系化する一つの方法ではあるが、もともとヨーロッパの歴史を基盤に考え出されたマルクスの理論を、他の地域に適用するのは無理だった。したがってこの論争はしだいに下火となり消えていったが、今日でも世界史の教科書にはその影響が強く認められる。
文明史観は、国家の枠を超えて世界をいくつかの文明圏に分け、近代以前にはそれぞれの文明圏が独自の発展を遂げていき、その過程でそれぞれの文明圏の間にさまざまな交渉・交流が行われたとするもので、基本的には今日までの世界史の教科書の大きな枠組みは、この史観を基盤としている。具体的には四大文明の発生と、それに続くオリエント文明・地中海文明・インド文明・東アジア文明・西欧文明などである。このような文明史観は、すでに19世紀の哲学者ヘーゲルに見られ、20世紀にはシュペングラーやトインビーによって発展された。しかし文明史観も、見方によっては各国別歴史の枠を拡大しただけといえなくもない。これをもって、真の世界史といってよいであろうか。

3.近代世界システム
 最近の「世界史」では、近代世界システムという考え方を大幅に導入されている。この考え方は、アメリカの社会学者・歴史家ウォーラーステインの『近代世界システム』(1974)に依存している。
 ウォーラーステインは、特異な研究経歴をもった人物である。もともと社会学者として出発し、現代アフリカの研究を行っていたが、アフリカを研究するためには資本主義についての分析が不可欠と考えて経済学の研究に向かった。ところが資本主義を理解するためには、その起源を研究することが必要と考えて歴史家に転じたのである。まず最初に、「近代への序曲」の冒頭の部分を、多少長くなるが引用することにする。
 
 15世紀末から16世紀初頭にかけて、ここにいう「ヨーロッパ世界経済」が出現した。それは、帝国ではないが、大帝国と同じくらいの規模を有し、大帝国と共通の特質をいくつかもっていた。ただし、帝国とは別の、新たな何かなのである。それは一種の社会システムであり、この世界が従来まったく知らなかったものである。また、これこそは、近代世界システムの顕著な特質をなすものである。ここにいう「世界経済」とは、あくまで経済上の統一体であって、帝国や都市国家、国民国家などのような政治的統一体ではない。実際、この「世界経済」はその域内  その領域を確定するのは容易ではないが  に、まさにいくつもの帝国や都市国家、さらに成立の途上にある「国民国家」などを包含しているのである。それは、文字通りの「世界」システムなのである。もっとも、それが全世界を包含しているからというのではなくて、地上のいかなる法的に規定された政治単位をも凌駕しているという意味で、世界的なのである。それはまた、すぐれて「世界経済」である。というのは、このシステムを構成する各部分の基本的なつながりが経済的なものだからである。むろんそれは、文化的な紐帯によって多少は補完されてもいるし、後述するよう、窮極的には政治的な連帯や、ときには同盟関係によってさえ補完されてはいるのだが。(I.ウォーラーステイン「近代世界システム」川北稔訳、1981年岩波書店)
 
ウォーラーステインがこの文章で述べていることは、要するに次のようなことである。
近代以前にも多くの世界システムが存在した。歴史上世界システムには二つの形態が存在した。すなわち「世界帝国」と「世界経済」である。古くは、一つの地域あるいは一つの民族が国を形成し、そこに孤立的な地域経済=国民経済が形成されたが、やがて特定の国によって統一され、「世界帝国」が形成される。世界帝国は内部にさまざまな文化をもった国・地域が含まれるが、それらが政治的に統一され、その政治的に統一された範囲と経済的一体性をもつ範囲とがほぼ一致する。このような世界帝国としては、たとえば中国やエジプト・ローマなどの帝国が典型的な例である。このような世界帝国は政治的支配をともなうため、巨大な官僚機構を必要とし、そのためにコストが大きくなりすぎるため長続きしない。それに対して「世界経済」は、経済的一体性を保ちつつ、政治権力の統合がなされなかったことに大きな特色がある。ここでは、政治的支配の必要がないため、そのためのコストを世界経済の発展にまわすことができる。事実世界帝国は、近代になってすべて世界経済に飲み込まれていったのに対し、世界経済はやがて地球全体を覆い、今日に至るまで発展を続けている。ここでいう「世界経済」とは、もちろん「ヨーロッパ世界経済」のことであり、それはウォーラーステインのいう「近代世界システム」のことであり、それはまた資本主義的世界経済のことでもある。要するに彼は、この「近代世界システム」という概念を、すべての上にくる概念として用いることによって、特に行き詰まっていたマルクス主義の理論的な問題を解決しようとしたのである。
彼によれば、「近代世界システム」は、「長期の16世紀(1450-1640年)」に成立した。それは、ヨーロッパ各国で発達した国民経済がやがて世界化して形成されるのではなく、はじめから世界経済の形をとって「ヨーロッパ世界経済の成立とともに誕生する」のである。そこで資本主義の定義が問題となる。従来の見解では、自由な労働力を基礎とする資本・賃金労働者の関係が資本主義的生産様式の基盤であり、これを前提に、たとえば植民地時代の中南米は賃金労働を基礎にしていないから封建社会であるとか、合衆国南部の奴隷制は非資本主義的経営である、といった議論が展開され、日本を含めたアジア・アフリカの社会についても同様の議論が展開された。このような議論の背景には、マルクスと同様に国民経済を前提にした理論を普遍化させようとする意図があるのだが、ウォーラーステインはこのような考え方を拒否した。
彼によれば自立的なシステムは世界システムのみであって、国民経済はそれに従属するシステムでしかなく、したがって時代区分も従来のような国民経済を前提とした区分ではなく、世界システムを前提としたものでなければならない。たとえば合衆国南部の奴隷制プランテーションは、ヨーロッパ世界経済の一部として機能しているのだから、資本主義的なものであるはずである。つまり彼が主張する資本主義的な世界経済とは、「市場向け生産のために成立した世界的分業体制」なのである。そこにおいては、生産様式が奴隷制であろと農奴制であろうと賃金労働者であろうと、また農業が中心であろうと工業が中心であろうと、そんなこととは関係なく、その生産が世界的な分業体制に組み込まれていれば、それは資本主義の枠内にあるということである。
そして近代世界システムにあっては、世界は3つの構成要素からなる。つまり中核・半辺境・辺境であり、世界経済は中核が半辺境・辺境を従属させる壮大な分業体制である。もちろんこのような分業体制が全世界を覆うようになるのは、19世紀をまたねばならず、16世紀にはまだヨーロッパとその一部で形成していたにすぎない。
以上のようなウォーラーステインの主張については、賛否両論を含めてさまざまな反響を呼んだ。中でも彼の議論がヨーロッパ中心的であるという批判が多かったが、この批判の一つとして注目すべきは、アメリカの社会学者・歴史家であるアブー・ルゴドの『ヨーロッパ覇権以前―もうひとつの世界システム』(1988年、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹訳、2001年、岩波書店)である。

4. ヨーロッパ覇権以前-もう一つの世界システム
 問題の出発点は、16世紀に「近代世界システム」が成立したとするなら、そのルーツを検証せねばならないということだ。その際、検証の対象となるのは、時代的には1250年から1350年頃にかけての時代で、この時代に国際的な商業経済は著しい発展を遂げ、北西ヨーロッパから中国に至るルートが張り巡らされ、世界システムが成立したのである。そして、このシステムが崩壊した後に「近代世界システム」が成立するのだが、13世紀のシステムが西洋に受け継がれる歴史的必然性はない、というのが彼女の主張である。
 従来、ヨーロッパの内的な優位性がヨーロッパの勝利をもたらしたと主張されてきたが、13世紀の段階で多く点でヨーロッパはアジアと比べて遅れており、特にヨーロッパ人の優位の証とされる自由放任についても、アジアでも一定の自由があり、逆にヨーロッパでもそれ程自由ではなかった。しかし、16世紀以降ヨーロッパが東洋を追い越していったことは事実であるが、その理由はヨーロッパの優越性にあるのではなく、東洋が時として算を乱したことがあるからだ。第一に、13世紀にチンギス・ハンによって統一された大陸貿易ルートは、まもなく後継者たちによって分断され、一方アラブ人治下のアジアはティムールによる掠奪から立ち直ることができなかった。第二に、14世紀半ばに流行した黒死病は、世界交易の海上ルート上にあるほとんどの都市を殺戮し、その結果世界中に流動的な状況が生まれた。そして、それは急激な変化を生み出し、それがヨーロッパにチャンスを与えることになったのである。
 東洋の没落が西洋の勃興に先行したことは決定的に重要である。ヨーロッパの征服を容易にしたのは、先行するこのシステムの退化にあった。したがって西洋の勃興を、ヨーロッパ社会の内的特質に求めることは誤りであり、矛盾する二つの力が働いていたのである。第一に、13世紀までに発達した通商路は、ヨーロッパによって制され、ヨーロッパはシステムを新たに構築する必要はなかった。基礎となる土台は、ヨーロッパがまだ周縁だった13世紀には、すでに存在していたからだ。この意味で、西欧の勃興は先行の世界経済を再構成することによって促進されたといってよい。
 16世紀に発生した近代世界システムには、これと全く異なる特徴を備えた13世紀システムが存在したように、13世紀システムも同じく先駆者をもっていた。およそ2000年前にごく初期の世界システムが存在し、それは13世紀世界システムに参加するほとんどの地域を含んでいた。地理的にはそれは13世紀のそれとよく似ていたが、政治的には帝国的な構造を持ち、経済的には各部分がうまく統合されているとはいえなかった。西方のローマ帝国と東方の漢帝国が絶頂期に達し、またインド経済が発展期を迎えたとき、東南アジアを通り中国に至る国際交易ルートがいくつかの結節点を経由して機能していた。13世紀に再び完成する回路を再構成するには、これに当時機能していた中央アジア経由のシルクロードを付け加えればよかった。
 しかし初期のシステムについては、異なった構造に注意せねばならない。つまりシステムの両端には帝国が存在し、相互の関係は著しく制限され、また間接的であった。しかも一度大帝国が衰えれば、複数の断片的な地域はこのシステムを維持することができなかった。ローマ帝国が滅亡し、漢の統一が失われると、このシステムも崩壊し、それが再構成されるのはイスラム世界の興隆と東方への拡張後のことである。13世紀世界システムに結実するのは、この再組織化なのである。
 以上のように、アブー・ルゴドは、ウォーラーステインの近代世界システムを承認した上で、その前提となる13世紀世界システムを提唱した。それはヨーロッパを中心としたウォーラーステイン説への反論であり、近代以前の世界システムを提示したという点では、大変興味深いが、ウォーラーステインの近代世界システムとは基本的に論点が異なっているように思われる。ウォーラーステインの主張の中心は労働管理の方法と世界的分業体制にあるが、アブー・ルゴドの主張する「世界システム」は通商上の一体化あるように思われる。しかし、この彼女の主張によって、ウォーラーステインが提示した「近代世界システム」の考え方が、近代以前にも適用しうる道を開いたように思われる。

5.「近世」について
 こうした研究動向を背景に様々な議論が展開され、近年「海のネットワーク」やそれと関連した「東南アジア史」の研究が盛んに行われるようになった。そうした研究の中で大変注目されたのが、オーストラリアの歴史家アンソニー・リードの『大航海時代の東南アジア』(1989年、平野秀秋・田中優子訳、2002年、法政大学出版局)である。リードはウォーラーステインの強い影響を受けて東南アジアの研究を行い、15世紀から17世紀末までを「交易の時代」と呼んで、この時代の東南アジアの全体像を描き出した。彼の研究は、東南アジアという範囲を越えて、この時代の世界全体の動向に共通する特色を見出し、この時代全体を「近世」という言葉で説明しようとする動向が生まれた。そうした研究の中で私が大変注目したのは、山下範久『世界システム論で読む日本』(2003年、講談社)と岸本美緒『東アジアの「近世」』(1998、山川出版)である。
 山下は日本史を専門としつつ、アメリカに留学して直接ウォーラーステインに師事したという異色の人物で、彼の著作は実証性には欠けるものの、大胆な構想を打ち出している。すなわち、「近代世界システムに空間的外部が存在したのは、15世紀後半から19世紀初めで、いわゆる近世である。これまで近世という概念は、地域別に個々の基準で、中世と近代の過渡期と位置づけられるのみで、自立的な性格を与えられてこなかった。しかし、近代世界システムの空間的外部に注目するなら、むしろグローバルな文脈の中で一つの時代としての近世という考え方が浮上する」ということである。
 そして彼は具体的に次のように説明する。同じ16世紀後半に一つのヨーロッパ帝国の構想は潰えたが、同じ時期にヨーロッパの外では、その後も生命を保つ諸帝国の支配が固まりつつあった。北ユーラシアではイヴァン4世(雷帝)が全ロシアの皇帝を称した。西アジアではスレイマン1世の統治が完成した。南アジアではムガル帝国にアクバルが現われた。東アジアでは、明清交替期にあたっており、北虜南倭を含む動乱の時代で、その意味でヨーロッパ同様世界=帝国の構築は不確かだった。朝鮮、ヴェトナム、琉球、日本も含めた中国周辺の諸王朝が、明清交替に際して、王朝の不連続にもかかわらず、中華的な地域秩序自体の変更を求めず、その結果清帝国はその秩序の持続性の重心としての役割を果たした。したがって、16世紀後半の時代は、大勢としては世界=帝国の確立期である。この時代にはヨーロッパも含めた五つの近世帝国のパラレルな形成期であったと、見ることもできる。
そして、このような近世帝国が生まれた背景を次のように説明する。長期の16世紀後半の特徴は、リスクに対する態度の変化である。急成長する経済社会の背景に、様々な可能性を試行錯誤するような交通の拡大の時代は終わり、交通の回路の制度化が進んだ。それはリスクの高いルートと低いルートの選択であり、またそれを通じての権力による増収圧力の強化だった。例えば近世ヨーロッパの重商主義政策も、清が再度実施した海禁政策も、日本の鎖国政策も、基本的には交通・交易の権力による管理の強化という点で一致しており、この転換の同時性には構造的な意味がある。そしてこのような管理の強化は、一つの重大な帰結をもたらした。それは、地域の求心性の形成である。交通の管理化によって空間的創造力の固定化が生じ、地域的な規模での中心に投影された普遍性を分有する範囲で「世界」が完結してしまったのである。
岸本もまた、「近世」について次のように説明する。「今日、「近世」とは、日本史やヨーロッパ史でいわれる近世とほぼ重なる16世紀から18世紀までの間を指すものとして用いられるが、それはヨーロッパとの類似性によってではなく、さまざまな個性をもつ諸地域が相互に影響を与え合いながら、16世紀から18世紀というこの時代の経済変動のリズムを共有していたという認識に基づいている。この時代の東アジアの歴史を巨視的な観点から眺めてみると、16世紀の急速な商品経済の活発化、社会の流動化の中で、従来の秩序が崩れていく混乱状況の中から新しい国家が生まれ、17世紀から18世紀にかけて新しい秩序が作り上げられていく、一サイクルの動きが認められる。17世紀初頭に成立した日本の徳川政権や中国清朝政権は、そうした中で同時代的に生まれてきたものであり、またより広い観点で見るなら、ヨーロッパの絶対王政も、同じリズムの中で捉えることができるだろう。」
ここに至って、ウォーラーステインの「近代世界システム」は大幅に相対化されることになった。19世紀にヨーロッパが世界を制覇したということは間違いないことであろうが、少なくともそれ以前にはいくつかの「帝国」の一つでしかなかったし、この段階でもなおヨーロッパが世界を制覇する保障はなかったのである。

6.最後に
 「世界史」をどのように捉えるかについて、いくつかの議論を検証してきたが、なお「世界史」の全体像を捉えるには程遠い。しかし、ウォーラーステインの「近代世界システム」から始まって、最近の「近世帝国」についての研究などを通じて、方向性だけは次第に明らかになりつつあるように思われる。また、最近ではヨーロッパ史の研究でも、従来近代の象徴とされてきた産業革命や市民革命の位置づけが相対化される傾向があり、ヨーロッパ史像も大きく変わりつつあるように思われる。
さらに最近「帝国」につていの研究が盛んに行われ、「世界史」を捉えるキーワードの一つと目されている。すなわち、政治的単位としての「帝国」から、19世紀末の帝国主義の「帝国」に至るまで幅広く「帝国」を検証し、それを通じて「世界史」を再構築しようという試みである。こうした研究によって新しい世界史像が再構築されるには、なお相当の時間が必要であり、その過程でまったく新しい視点が生まれてくるかもしれない。いずれにしても、新しい「世界史」の構築は、ようやくスタートラインに立ったばかりである。