2016年2月24日水曜日

歴史教育について思うこと

私たち歴史を教えるものは、生徒・学生の何気ない発言から、大きな影響を受けることがあります。ずっと以前のことになりますが、私は近代以降について、「先進的」とか「後進的」という表現を、当たり前のように使っていました。そして、ある生徒に「後進的」とはどういう意味かと質問されて、気づきました。「後進的」という言葉には、資本主義が未熟であるという意味以外には何もないことに。もちろんこの生徒は、大して深い意味で質問したわけではないと思いますが、重要なのは、私が古い概念から抜けられていないのに対して、この生徒にははじめからそんな概念はないということです。むしろ社会や文明を、ほとんど惰性で資本主義の発展という観点で捉えていたことを、恥ずかしく思いました。
 次は、比較的最近気づいたことです。私が大学にいた頃、同僚の先生が憤慨して私に話しました。今学生が驚いたような顔をして、「日本とアメリカが戦争したことがあるのですか」と言うのです。そんなことも知らないのかと、この先生は愕然とし、私も愕然としました。最近、このエピソードを話す機会があり、その後でふと考えてみたのです。もしかしたらこの学生は、太平洋戦争も、それが日米の戦争であることも、知識としては知っていたのではないか、ただしそれは試験のための知識であって、現実とは結びつかない仮想の知識ではないのか、ということです。だとしたら、この一つの事実は、このような歴史の教え方で良いのかという、歴史教育の根本に関わる問題を提示していると思います。
 文科省の入試改革は、知識偏重を改め、入試に記述式を導入すると言っていますが、中途半端な改革は止めた方がよいと思います。たとえば、歴史用語を直接書かせるという程度の改革ならば、生徒にとっては覚え方が少し変わって、負担が増えるだけです。予備校でも、記述模試が行われると、採点基準会議なるものが開かれ、あれも良いのではないか、これも良いのではないか、といった不毛の論争が延々と続けられます。それでも、完全な公平性と客観性を維持することは困難であり、結局は「受験上」正確な知識をもっている生徒が、高得点をとることになります。これでは、従来のマーク式試験と大して変りがないように思えます。もっとも、マーク式の場合、いい加減にやっても、ある程度の点が採れる可能性がありますので、これも完全な意味で公平とはいえないと思います。
 記述式を導入するということは、完全な公平性と客観性を捨てるということですから、どうせ捨てるならもっと大胆に捨てるべきです。つまり、長文の論述を書かせることです。これを実施するには、とてつもない困難が待ち受けており、さらに公平性と客観性を大幅に捨てることになります。予備校でも、論述の採点基準を作りますが、あまり詳細な採点基準を作ると、記述模試と同じことになってしまいます。つまり、正しい言葉さえ並んでいれば、高得点になるということです。
 これを避けるためには、大まかな採点基準をもとに採点者に判断を委ねるしかないのではないでしょうか。もちろん、複数の採点者による採点は不可欠です。もしこうした試験を実施したら、少なくとも当初は大混乱に陥るでしょう。まず採点者の混乱、現場で教える教師の混乱、そして生徒の混乱は、目に見えるようです。しかし真剣に入試改革を考えるなら、その困難と混乱に立ち向かっていくしかないと思います。つまり信念をもって実行し、つねに改善していけば、やがて試験とはそうしたものだとして受け入れられていき、現場での歴史教育そのものが変化していくと、私は思います。
 歴史教育については、このブログの「予備校発「新学力」考」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/search?q=%E4%BA%88%E5%82%99%E6%A0%A1%E7%99%BA%E6%96%B0%E5%AD%A6%E5%8A%9B)を参照して下さい


  なお、「記述式」の概念が曖昧になっています。受験上、記述式とはマーク式に対する概念で、選択した番号を答案用紙に記述するのも記述式です。



福寿草 この文章とは何の関係もありません。庭の片隅にひっそりと咲いていました。












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