2016年2月13日土曜日

映画で戦国時代を観て

はじめに
 NHKの大河ドラマには、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将を扱ったドラマが数えきれない程あり、今年も真田幸村が主人公となっているようです。しかしここでは、こうしたメジャーな話ではなく、農民や職人を扱った映画を紹介したいと思います。

笛吹川
1960年に制作された映画で、笛吹川の畔に住む貧しい農民の、6代にわたる生き様を描いた映画で、それは丁度甲斐の武田の興隆と滅亡の時期に当たります。


















笛吹橋の側にある一軒の貧しい農家に、じいと婿の半平、孫のタケ、ヒサ、半蔵が住んでおり、半蔵は戦にいっていました。当時の甲斐は、周辺勢力の侵入や内紛により争いが絶えませんでしたが、1521年に武田信虎が飯田河原の合戦で今川軍の侵入を撃退し、その後武田による甲斐の統一が進みます。そしてこの年、信玄が誕生します。その後も戦争が続き、若い男たちは褒美や出世を求めて戦に出ていき、次々と死んでいきます。婿の半平のみが、家に残って、ひっそりと家を守っています。半平が死ぬと、春信(信玄)と同じ日に生まれた定平(さだへい)が跡を継ぎます。1541年に春信が父の信虎を追放して、甲斐を掌握します。信玄は、領国拡大政策を推し進めたため、戦争が相次ぎます。信玄が勢いに乗っていた時代なので、人々は、毎年のように洪水を起こす暴れ川で百姓を続けるより、戦にいって褒美をもらう方が良いと考える人たちが増えてきました。定平の子供たちも戦争に参加します。

 しかし、1573年三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利した後、信玄が病死し、さらに1575年に武田軍が長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗すると、武田は急速に衰退に向かいます。そして織田信長の甲州征伐により、1582年に武田家は滅亡します。この間に、定平の息子たちも皆死んでしまい、息子たちを帰らせようとして戦場に向かった定平の妻も、戦火に巻き込まれて死にます。今や生き残ったのは、定平だけであり、定平は笛吹川に武田の旗差物が流れていくのを見つけて、映画は終わります。

(映画の笛吹橋)











(現在の笛吹橋)











 映画の舞台は、ほとんど笛吹橋の側の小さな小屋であり、そこで60年の間に多くの人が生まれ、死んで生きました。その時期は武田の盛衰の時期であり、この一家はこうした歴史の流れに翻弄されました。こうした場面は、甲斐に限らず、戦国時代のどこででも見られた光景だろうと思います。映像は非常に美しく、映画の最期で、母が必死に子供たちを連れて帰ろうとして、戦場にまでついていく場面は、なかなか感動的でした。

火天の城
2009年に山本兼一原作の小説を映画化したもので、宮大工(番匠)である岡部又右衛門による安土城の建設を、職人という視点から描いた映画です。映画が制作された2009年は、20年に及ぶ安土城跡の発掘調査が終わった年で、このことがこの映画の制作に関係があるのかもしれません。
岡部又右衛門は実在の人物で、熱田の宮大工であり、今日、彼の屋敷跡には史跡表札が立てられています。彼は、突然織田信長により安土城に五層の城を築くよう命じられます。信長の構想は桁外れで、安土山全体を城にしてしまうということです。安土は、当時の交通の要衝で、しかも琵琶湖に接しているため、水運にも適しています。しかも、その天守に信長自身が住むというのです。一般に、天守は戦の際に籠城することを目的としており、居住のための邸宅は別に造るのが普通ですが、安土城は信長の居住のための城でもありました。つまり、信長はここに巨大な城を築き、そこから天下を見下ろそうという構想です。
映画には、三つの見せ場がありました。第一は指図(図面)争い、第二は木曽檜の入手、第三は通し柱の修正です。
第一について、当初信長は、築城を岡部に任せていたのですが、その後気が変わり、複数の職人が設計図と模型を信長に見せて、最終的が決定することにしました。そのため、岡部の他に、金閣寺を建立した京の池上家、奈良の大仏殿を造った中井一門が図面争いに参加し、いずれも見事な模型を造ってきました。信長は、五層で四層まで吹き抜けにするように命じていたのですが、岡部は吹き抜けを造ることを拒否し、実際に三つの模型に火を付けました。その結果、他の二つの模型は瞬く間に天守まで燃えてしまいました。信長が寝起きする城に、吹き抜けという「火の道」を造ることは許されないということで、信長も納得し、岡部に総棟梁を任せます。こうして、1676年に、前代未聞の築城工事が始まります。
第二について、これ程巨大な木造建築を造るには、支柱となる巨大な木材()が必要で、それを求めて岡部は木曽へ行きます。しかし木曽は武田の領地であり、織田の築城のための木材など渡すはずがありません。ところが、1573年に信玄が死亡し、領域内でも武田からの離反の動きが生まれ、木曽義昌も離反を考えていました。そのため、彼は岡部が木材を捜すことを黙認します。その際、大庄屋陣兵衛という杣人(そまびと)が岡部を助けます。杣というのは、天皇・貴族・寺社などが木材を伐採するための土地で、杣人とは必要な木材を伐採する人で、平たく言えば木こりです。ただ彼らは、「木」を知り尽くしており、陣兵衛は岡部と意気投合します。こうして岡部は、巨大な支柱を手に入れることに成功しました。
映画には、さまざまな職人が登場しますが、その中に穴太衆(あのうしゅう)という石工の集団がいました。彼らの石積みは野面積み(のづらづみ)といわれ、自然石をそのまま積み上げる方法です。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないため、間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、排水性に優れており、頑丈でした。今日、野面積みはコンクリート・ブロックより強度が高いことが実証されています。安土城の建設で、穴太衆の高い技術が実証され、その後全国各地の築城に携わりました。
築城が完成に近づきつつあった頃、重大な問題が発生しました。信長の指示で壁などを厚くした結果、周辺を支える柱の基礎が若干沈み、その結果中央の支柱が突き出る形になってしまいました。その結果、城全体が一瞬で崩れる危険性が出てきました。そこで、岡部は支柱の下を切り取って短くするという決断をしますが、そのためには支柱を一旦持ち上げる必要があります。そして岡部一門が総力をあげてこの作業に取り組み、成功させます。このような事実があったのかどうかについては知りませんが、この場面はなかなか見ごたえがありました。
こうして安土城は1579年に完成されましたが、1582年の本能寺の変の後出火し、焼失します。安土城は、わずか3年で焼失したために、幻の城と言われており、分からないことが沢山あります。そもそも、安土城がなぜ出火したのかも、よく分かりません。かつては、明智軍による放火によるものと言われたこともありましたが、今日では否定されています。いずれにしても、この城はその後の築城に大きな影響を与えたことは間違いありません。
この映画は、職人たちの世界を描いています。大工は木の声を聴き、石工は石の声を聴きます。こうした職人魂は、世界中のどの時代の職人でも同じだと思います。近世になると、優れた職人の名前が後世に残るようになり、彼らの中には芸術家として称えられる人もいます。古い時代には、彼らは卑しい職人でしかなく、制作を依頼した人物の名は残っても、職人の名が残ることはほとんどありません。しかし、今日世界に残る多くの歴史建造物や芸術品は、名もない職人の驚異的な技術により造られたものです。

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