破戒
1962年に、島崎藤村原作の「破戒」を映画化したものです。この作品は部落問題と言う社会問題を扱っており、島崎がロマン派の詩人から自然主義の小説家に転じた最初の作品(1913年、大正2年)で、その構成はドストエフスキーの「罪と罰」に似ているとされます。
日本には、古くから穢多(えた)と呼ばれる最下層の身分の人々がいました。彼らは、部落に集まって住んでいたことから、部落民とも呼ばれます。このような人々が生み出された理由については多くの説があり、ここでは触れません。ただ彼らは、単に身分が低いというだけでなく、彼らの身分が穢(けが)れ・不浄という概念と結びついており、その身分は親から子に引き継がれます。こうした身分はインドの不可触民と呼ばれるアウト・カーストに似ており、江戸時代には士農工商の身分の外に置かれています。非人も士農工商の外に置かれていますが、彼らは「穢れ」とは結びついていません。
明治4年に身分解放令が出され、穢多や非人の身分が廃止されました。これ自体は画期的なことでしたが、逆に問題が発生していました。穢多は家畜の屠殺(とさつ)や革のなめしなど、一般に嫌われる職業を独占して生活は比較的安定していたとされ、また部落内部にいる限り、直接的な迫害を受けることにあまりなかったと思われます。しかし、解放令によって仕事を失い、仕事を部落のそとに求めれば、彼らは直接迫害に晒されることになります。さらに四民平等により、農民たちが穢多と同等とされたため、強い不満を持つようになり、それが差別を一層強めたと思われます。
映画の舞台は明治37年(1904年)の信州です。主人公の瀬川丑松(うしまつ)は部落民の子でしたが、彼の父は丑松の出自を隠し続け、息子に高い教育を受けさせます。その結果丑松は小学校教員となり、父は丑松に死の直前まで決して自分の出自を言ってはならないと言い続けます。つまり身分を「隠せ」というのが、父が丑松に与えた「戒め」でした。しかし丑松は、猪子蓮太郎という人物が自ら穢多であることを公表し、部落解放のために戦っている姿を見て、出自を隠すことに疑問を感じるようになります。また、どこから出たのか分かりませんが、彼が部落民であるという噂が流れ、校長から辞職を促されるようになります。
そうした中で彼は、小学校の生徒の前で自分が部落民であることを告白し、そしてそれを黙っていたことを、土下座して謝罪します。この土下座の意味が、今一つ分かりません。土下座というのは、あまりに卑屈ではないか、という印象を受けます。父に与えられた「戒め」を破ったことに対してか、生徒に嘘をついていたことに対してか、または愛する女性に自分の出自を隠していたことに対してか。おそらくそのすべてであろうと思われます。それは同時に、程度の差に違いはあるにしても、すべての人が経験する青春時代の苦悩でもあったと思います。また、ドストエフスキーの「罪と罰」は、善行のためなら罪を犯しても許されるとして、罪を犯した主人公が、結局良心の呵責から自首するという話しで、「破戒」も、差別されないために出自を隠す主人公が、結局すべてを話すことになります。それは、人間性に対する根源的な問いかけのように思われます。
この映画は、大変美しく、よくできていると思います。原作では、主人公はテキサスに亡命しますが、映画では主人公は部落解放運動を行うことを決意します。現在から見れば、映画の方が説得力があるように思います。
話しはそれますが、「穢れ」とは何かについて、私にはよく分かりません。福島第一原子力発電所事故の後に、福島県などからの避難民や物資に対する感情的差別が問題となりましたが、それは「穢れ」の思想が根底にあるとも言われています。私がかつて神戸で勤務していた時に、新型ウィルスが流行して大騒ぎとなりました。当時、新幹線に乗っていると、神戸に近づくとマスクをし、神戸を離れるとマスクを外す人が何人もいました。それを目撃した私は、差別とはこのようにして生まれるのかと、実感したものです。
宮沢賢治 その愛
1996年に、宮沢賢治の生誕100周年を記念して制作された映画で、37歳で没した宮沢賢治の苦悩の半生を描いています。生前に出版された宮沢賢治の著書は2冊しかなく、生前は無名でしたが、死後多数の原稿が発見されて出版され、一躍有名となりました。
宮沢賢治は岩手の内陸部花巻で生まれ育ちます。当時東北地方では、地震・津波・冷害・干ばつが相次ぎ、農民は娘を売ったり、土地を手放したりして、悲惨な状態が続いていました。彼の父は質・古着商を営み、かなり豊かでした。そして自分の家と農民の間の経済的な落差が、繊細な賢治を傷つけます。彼は登山や石集めが好きで、青春時代を楽しく過ごしますが、妹の友人が売られていったり、知り合いの百姓が貴重なものを質に入れたりするのを見るにつけ、しだいに心が暗くなっていきます。仏教にのめり込んだり、キリスト教に改宗してみたり、分けの分からない結社に加入したり、家出をしたりします。
やがて彼は農民を助けたいと思うようになり、農業指導をしたり、自ら畑を耕したりしますが、どれもうまくいきません。どんなに努力しても、自分が農民の助けにならないことを思い詰め、心身ともに消耗していきます。その間に彼は、多くの詩や童話を書き続けます。映画で観る限り、彼の創作活動は、出版が目的というよりは、内部から湧き上がってくるものを書きとめている、という感じでした。ただ、彼は何度も自分の作品に手を入れていますが、それも自分のために作品の完成度を高めるためだったように思われます。
映画では、苦しみでのた打ち回る賢治の姿が描かれています。彼はひたすら故郷を愛し、彼の周りにある人や木や虫に至るまで愛した人物だったように思います。
蟹工船
1953年に制作された映画で、小林多喜二の原作を映画化したものです。小林多喜二は、1920年代から30年代前半のプロレタリア文学の代表的作家で、1933年に特高の拷問により、29歳の若さで死亡しました。なお、「蟹工船」については、2009年にも映画化されています。
戦前にカムチャッカ半島の沖合で、たらば蟹を漁獲し、それを加工施設を備えた大型船(蟹工船)で缶詰に加工するという漁業が盛んに行われており、ここで製造された缶詰は高級品として輸出されていました。船主は、飢饉に苦しむ東北地方から労働者を集め、低賃金で過酷な労働を強いたとされますが、一方、労働は過酷だったが、賃金はよかったという証言もあるそうです。
労働者の中には14~15歳の少年も多く含まれていましたが、何度も乗船したことのあるベテランもたくさんいました。また、蟹缶詰は外貨を稼ぐ重要な輸出品だったので、海軍の艦船が近辺で警護しており、蟹漁は国家的な事業でした。さらにソ連の領海にまで入って密漁していました。そして甲板には、次のような貼紙がありました。
組をなして怠けた者は賃金棒引き
函館に帰ったら警察に引き渡す
反抗する者は銃殺されると思うべし
映画の舞台は船の中だけなので、密室劇といえるかもしれません。また、主人公がいないので、群集劇といえるでしょう。監督が厳しい人物で、船員が海に落ちても救出しようとせず、病人も働かせ、怠慢や犯行に対しては厳しい懲罰を課しました。ただ、私が原作を読んだのははるか昔なので、あまり覚えていませんが、もっと厳しかったような気がします。それより興味深かったのは、労働者たちの会話で、それを通して彼らの生活の一部が見えてきます。飢饉で妻が自殺した者、鉄鉱山が廃れて船に乗った者、浮気者の女に引きずられて各地を転々としている船医、母親が恋しくて泣く少年、小説家になることを目指している青年などです。ここでは登場しませんが、かつて網走刑務所を3度も脱獄した人物も、この船に乗ったことがあるそうです。狭い船の中は、さまざまな人間模様の縮図で、船よりもむしろ丘での生活の方が悲惨に思えました。
いずれにしても、労働者たちはあまりの非人間的な扱いに反乱を起こしますが、翌日には海軍が出動して、反乱は鎮圧されてしまいます。アメリカでも、19世紀末にはストライキの鎮圧のために警官隊が投入され、警官隊と労働者が銃撃戦を展開するなどということがしばしば起き、1920年代のイタリアではムッソリーニが率いるファシスタ党が銃をもって工場に突入し、ストライキを鎮圧するということがありました。資本家と労働者が決定的に対立していた時代であり、この対立を逸らすためにも、ファシズムとか侵略政策がとられていくことになります。日本でも、まもなく満州事変が始まります。
放浪記
1962年に林芙美子の同名の自伝を映画化したものです。「放浪記」は何度も映画化され、テレビで放映され、そして何よりも森光子主演の舞台が2000回以上上演されています。彼女が著名になったのは、1928年(昭和3年、25歳)から連載を始めた放浪記で、これにより彼女は一躍人気作家となり、早くも1935年には映画化されています。
映画で観る林芙美子は、楽天的で、男好きで、貧困に苦しんでいながら、惨めさはほとんど感じられません。この間にも、世の中は、治安維持法、小林多喜二の拷問死、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続きますが、彼女にはあまり関係がなかったようです。彼女は、公演の依頼で日本各地を旅し、さらに中国、パリ、ロンドに旅し、新聞社の特派員として日中戦争を取材し、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在しました。
少し節操がないように思えますが、これについては彼女自身の言葉をあげておきます。「文壇に登場したころは「貧乏を売り物にする素人小説家」、その次は「たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家」、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」(ウイキペディア)。
1951年、彼女は心臓麻痺で急逝します。47歳でした。告別式で葬儀委員長の川端康成は、「故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います」と弔辞の中で述べたとされます(ウイキペディア)]。
「放浪記」は、彼女が売れっ子になる以前の生活を描いており、映画は、最後に晩年の彼女を描いて終わっています。
雪国
1965年に制作された川端康成の同名の小説を映画化したもので、1957年にも映画化され、その他テレビでも何度も取り上げられています。「雪国」といえば、「古都」などともに、ノーベル文学賞の対象作品となった作品などで、多くの評論・研究が存在し、私が新たに付け加えることなど、何もありません。
私が原作を読んだのは、はるか昔で、ぼんやりとしか覚えていません。私は、歴史を本格的に勉強するようになってから、小説というものをまったく読まなくなってしまい、そのため私の文学についての知識は断片的なものとなってしまいました。今回、ウイキペディアの川端康成の項を読んだのですが、相当の分量で、まるで昭和文学史を読んでいるようでした。それ程川端は昭和文学において大きな存在であり、昭和文学をリードした人物だったのでしょう。しかし、昭和の前半は戦争の時代であり、文学者にとって暮らしにくい時代だったでしょう。そうした中で、川端は小さな世界の中に日本の美しさを見出していったのではないでしようか。戦争が終わった時、川端は、「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌うまい」と述べたそうです。
なお、小説の舞台となった湯沢温泉は、1931年に上越線が開通し、翌年温泉が発見されますので、川端が行っていたころの湯沢温泉は、まだ誕生して間もない頃でした。また、本文に汽車とあり、映画でも煙を吐いた蒸気機関車が「長いトンネル」に入り、出て来る場面が描かれていますが、清水トンネルは極めて長く、煙を排出する場所がなかったため、この区間だけ電気機関車が牽引していたそうです。しかし、これはどうでもよいことです。
炎上
三島由紀夫原作の「金閣寺」を基に、1958年に制作された映画で、1950年に実際に起きた金閣寺放火事件を題材としています。
金閣寺は、14世紀に足利義満が創建した寺院で、北山文化の代表的な建造物とされますが、1950年に放火により焼失します。犯人は京都府舞鶴市出身の21歳の青年で、同寺の見習い僧で大谷大学の学生でした。犯人は、犯行後睡眠薬を飲み切腹しましたが、救助されました。犯行の理由については、はっきりとは分かりませんが、重度の吃音で内向的となり、さまざまな不満が重なって厭世的となり、犯行に及んだとされます。ただ、逮捕後統合失調症の症状が発症したことから、統合失調症による妄想が犯行の原因だったかもしれません。結局、彼は7年の実刑判決を受けますが、1956年に結核のため獄中で死亡します。
三島は、この事件を題材として「金閣寺」を著しますが、内容は三島自身の創作であって、事実とは直接関係がありません。主人公は、金閣寺で修行した父親から金閣寺が最も美しいと教えられ続け、そして自らが金閣寺で修行するようになります。しかし彼は、自らの屈折した心と、絶対的な美である金閣寺との葛藤に苦しみ、結局金閣寺に放火するに及びます。この小説の主人公の葛藤は、「仮面の告白」と同様、三島自身の葛藤でもありました。この小説を通して三島自身も葛藤を克服し、文学に新しい道を切り開き、この小説は近代文学の最高傑作の一つと称賛されるまでになります。そしてこの頃から、病弱だった三島はボディービルディングによる肉体改造に取り組むようになります。
映画は、原作の完成度があまりに高いため、そのままでは映画化が困難で、本人の名前も寺の名前も架空のものとし、タイトルも「炎上」と変更されました。私が原作を読んだのははるか昔でしたが、それでも記憶がかなり鮮明に残っています。それに対して、映画では内容がかなり薄められているような印象を受けました。それでも、時代劇俳優だった市川雷蔵が、「炎上」と、前に述べた「破戒」という大変難しい映画の主人公を、よく演じていたと思います。
なお、金閣寺は1955年に再建されました。幸運にも、明治時代に大改修が行われ、詳細な設計図が残っていたとのことです。ただ、焼失以前の金閣寺は、金箔がほとんど剥げ落ち、それ程美しいものではなかったとのことです。
三島は国際的な知名度も高く、ノーベル賞受賞間違いなしと言われていました。1968年に川端が受賞した時、自分が受賞できたのは、三島君が若すぎたからだ、と言ったそうです。そして2年後の1970年に、三島は自衛隊の決起を呼びかけて割腹自殺しました。三島を理解することは、容易ではないようです。
ピカレスク 太宰治伝
2002年に猪瀬直樹著「ピカレスク-太宰治伝」に基づいて制作された映画で、太宰治の半生を描いた映画です。
太宰は、津軽の大地主の家に生まれ、潤沢な仕送りを受けて東京帝国大学に入学しますが、作家を志望するようになり、大学を中退してしまいます。その後彼は、自殺未遂や心中未遂を何度も繰り返していますが、彼の心情については、彼の著作をまったく読んでいないので、よく分かりません。ただし、彼の著作を読んでいないのは、たまたま読む前に、歴史の勉強に向かってしまい、読む機会を失したというだけのことです。
映画は、破滅的で死を追い求める太宰の従来のイメージに対して、親からの仕送りを続けてもらうためや、作家としての名声を求めて、汲々としている太宰が描かれています。私には、どちらの太宰が本物なのか分かりませんが、その苦しみのた打ち回る姿は、タイプが全くことなりますが、宮沢賢治に似ているように思えました。また、三島由紀夫は太宰を嫌っており、これも全くタイプが異なりますが、死によって自分の芸術を完成させようとしたという点で、三島と太宰は似ているような気がします。
なお、ピカレスクとは、16―17世紀にスペインで流行した小説の形態で、悪党であるが同情すべき点がある人物を主人公とし、ユーモアに溢れた内容の小説で、セルバンテスの「ドン・キホーテ」などにも影響を与えたと思われます。つまり、原作者や映画は、太宰を「道化」として描こうとしているように思いますが、「人間失格」で「恥の多い生涯を送って来ました」と語る太宰の心は、もっと深刻なもののように思えます。