五味川純平の小説を原作として制作され、1959年から61年までの間に6部に分けて上演され、上映時間は9時間31分に及ぶ超大作です。舞台は1943年(昭和18年)の満州で、主人公の梶は南満州鉄道(以下満鉄)の調査部に所属していました。
満鉄とは、日露戦争によって1906年にロシアから獲得した長春と大連を結ぶ鉄道で、半官半民の企業で、以後日本による満州経営の中核となっていきます。満鉄の初代総督は後藤新平で、彼は若手の優秀な人材を集め、単に鉄道経営だけでなく、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、満州の総合的な開発を目指します。その過程で調査部が設置されます。調査部の仕事は、政治、経済、地誌など広範囲に及び、また多数の調査スタッフを必要としたことから、日本国内で活動の場を失っていた自由主義者、マルクス主義者なども採用され、日本最初のシンクタンクとさえ言われています。しかし満州事変以降、関東軍や政府の介入が強まり、1942~43年にかけて調査部は事実上解体されます。
第1部と第2部では、1943年に梶が北満州の鉱山に左遷され、鉱山で妻とともに暮らすことになります。当時戦争は劣勢にあり、鉄鉱石の増産が求められていました。鉱山では、中国人労働者(工人)が低賃金で過酷な労働を強いられていましたが、梶には労働条件を改善すれば、労働効率が高まり、生産力が増大するという理想がありました。しかし鉱山では、労働者の食費や賃金がピンハネされ、食糧など会社の物資が横流しされ、拷問や殺人も行われていました。さらに軍から捕虜も労働力として押し付けられます。捕虜といっても、日本軍が抗日地域と呼んでいる地域の住民を強制連行した人々です。
梶のやり方は同僚たちから疎まれ、さらに彼が助けようとしている中国人労働者にも憎まれていました。彼には根本的な矛盾がありました。強制的に連行され、強制的に働かされている人々を、待遇改善により労働者として扱うこと自体が偽善的なのです。だから、中国人労働者をどれほどかばっても信用してもらえないのです。そして決定的な決断の時が訪れます。7人の脱走囚が翌日処刑されることになりましたが、囚人たちの長老が彼に言います。「小さな過失や誤謬は訂正すれば許される。しかし決定的な瞬間に犯される誤謬は、決して許されない犯罪になる。あなたは職業と自分自身の矛盾に引き裂かれた。この瞬間が、人道主義の仮面を被った殺人狂の仲間になるか、人間という美しい名に値するかの分かれ道だ。あなたは人間をあまり信用していないようだが、人間には人間の仲間が、いつでも必ずどこかにいるものだ。」この言葉は、梶に決定的な影響を与えました。
処刑の当日、死刑囚を守ったため、憲兵に殺されそうになりましたが、捕虜たちが梶を守ったのです。しかし梶は憲兵に捕らえられ、激しい拷問の末釈放されますが、同時に招集令状を渡されます。この時から、軍隊での苦しい生活が始まることになります。
なお、映画に登場する中国人のほとんどは日本人の俳優が演じていましたが、彼らも彼らと話す日本人も中国語を話しており、相当きめ細かく制作された映画でした。
第3部と第4部では、軍隊生活と敗戦が語られます。梶は関東軍に配属され、極寒の北満州にいました。軍隊では上官や古兵による意味もないしごきと虐めが続き、それは前近代的で非合理的な世界でした。私は、当時の軍隊内のことについては何も知りませんが、この映画が制作された時期は、まだ戦後15年足らずのことですので、多くの人たちが生々しい記憶をもっていたはずですから、ある程度事実に即して描かれていると思います。
やがてソ連軍が満州に侵入にしてきます。ソ連はドイツとの戦いに勝利し、近代的な兵力を極東に移動させており、これに対して日本軍はなすすべもなく、泣く子も黙ると言われた関東軍は、たちまち崩壊してしまいます。そして、ほとんど全滅に近い戦場で、梶はからくも生き残ります。
第5部と第6部は、妻のいる南満州への逃避行です。様々な人々との出会いと別れ、そして悲惨な出来事の連続ですが、サバイバル・ゲームのようで、さすがに見ていてうんざりしてきました。もちろん、敗戦後の残留兵士の苦難、満州から引き揚げてくる人々の苦難は、想像を絶するものであったと思いますが、それにしても救いがなさすぎます。梶は、強靭な体力と意志で次々と降りかかる危機を切り抜けていきますが、最後に精神が破綻し、路上で野垂れ死にします。
要するに、日本による侵略戦争の悲惨な結末だったということです。
戦争と人間
1970年から1973年にかけて公開された3部作の映画で、これも五味川純平の小説を映画化したもので、9時間23分もの長編です。1928年、関東軍による張作霖爆殺事件に始まり、満州事変、日中戦争の勃発を経て、1939年のノモンハン事件に至るまでの歴史を、新興財閥の野心を中心に、多くの人々が関わる壮大な歴史映画です。
映画では、多くの歴史的事件が再現され、大規模な戦闘場面もあり、当時の日活には、まだこれほどの大作を制作する実力があったわけです。しかし、もともとこの映画は4部作として構想され、第二次世界大戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で終わる予定だったのですが、予算が不足して第3部で終わってしまい、全体に中途半端な終わり方をしています。この頃から映画産業は斜陽化し、日活はロマン・ポルノ路線へとシフトしていくことになります。
第3部の中心となるノモンハン事件は、モンゴル人民共和国と満州国との国境を巡る争いでした。1921年に外モンゴルが中華民国から独立し、やがてソ連の影響を受けてモンゴル人民共和国として社会主義化します。一方、1932年に事実上日本が支配する満州国が建国されると、満州国とモンゴル人民共和国との間に国境紛争が多発するようになります。満州国の軍隊は事実上日本軍であり、モンゴル人民共和国はソ連軍の支援を受けますので、ここに日本軍とソ連軍が直接戦うノモンハン事件が勃発するわけです。
日本は、1937年にドイツ・イタリアと防共協定を締結しており、ドイツと対立するソ連が極東に軍事力を集中できないと考えていました。ところが、水面下でドイツとソ連の間で交渉が行われていました。ノモンハン事件が勃発したのが1939年5月であり、8月に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発、そして9月に日本はノモンハン事件で敗北することになります。
当時日本には、北進してソ連領に領土を拡大するべきか、南進して東南アジアに進出するべきかで、意見が対立していましたが、この事件をきっかけに南進論が優勢となり、それは必然的にアメリカとの対立を引き起こすことになり、こうして日本は太平洋戦争に向かっていくことになります。
映画は、個々の事件をかなり詳細に再現しており、大変参考になり、面白いのですが、いかにも長すぎて、うんざりしてきました。
蟻の兵隊
2006年に制作されたドキュメンタリー映画で、中国山西省日本軍残留問題を、奥村和一(わいち)という残留日本兵を通して描いています。1945年に日本が敗戦し、日本兵が次々と帰国していく中で、山西省にいた日本兵の内、2600人が国民党軍に編入され、共産党軍と戦い、やがて共産党軍に敗北し、捕虜となった後に帰国しました。奥村は2600人の兵の一人でしたが、一体なぜ奥村たちは中国に残ったのか、奥村自身がその理由を知りませんでした。映画は、その理由を探し求める奥村の姿を追っています。
日中戦争において、日本軍は山西省の抗日ゲリラに苦しめられます。一般にゲリラは、突然現れて正規軍の不意を打ち、追われれば村や森に逃れて姿を消します。正規軍はこうたゲリラによる攻撃に消耗し、やがて村ごと、あるいは町ごと掃討する作戦を採るようになります。ヴェトナム戦争において、アメリカが枯葉剤を使用したり、ソンミ村の虐殺を行ったのは、こうしたことを背景としています。そして日本も、山西省において相当残虐な掃討作戦を行ったようです。当時、新兵として山西省に配属されていた奥村も、この虐殺に加わったことを告白しています。彼は長い間このことについて沈黙していましたが、映画で少しずつ語り始めました。多分、同じような経験をした多くの兵士が、彼と同じように一生沈黙し続けたのではないかと思います。
この時代の山西省では、閻 錫山(えん しゃくざん)という軍閥が支配しており、一応国民党に属してはいましたが、事実上彼が山西省の独裁者でした。彼は、在地の日本軍とは停戦協定を締結し、共産党の討伐を日本軍に委ねていましたが、日中戦争が終わった後日本軍が撤退する際に、山西省における日本軍の司令官だった澄田𧶛四郎(すみた らいしろう)との密約で、2600人の日本兵を自らの軍隊に編入させたのです。閻にとっては、共産軍と戦うために日本軍の援助が必要であり、澄田にとっては戦犯としての追及を逃れるためと、再起のために日本軍を残しておきたかったためだとされます。いずれにしても、残留させられた日本兵たちは、その後、意味も分からずに、国民党が敗北する1949年まで共産軍と戦うことになり、さらにその後共産軍の捕虜として抑留されることになります。
奥村が帰国したのは、1954年でした。ところが、帰国すると、自分たちが自主的に国民党軍に志願し、現地除隊つまり脱走兵の扱いとなっており、軍人恩給の対象にならないことを知ります。そこで奥村たちは、自分たちは軍つまり国家の命令で残留させられたのだとして、恩給の支給を求めて裁判闘争を行いますが、2005年に最高裁によって彼らの要求は却下されます。この映画は、この裁判闘争の過程で制作されました。当時すでに80歳になっていた奥村は、なぜ自分たちは残留させられたのか、そして60年前の山西省で何が起きたのかを問うため、中国へ旅立ちます。
中国で彼は、残留の命令書を直接目にし、激しい怒りにおそわれます。それと同時に、虐殺を目撃した人々の話を聞き、虐殺の現場に行き、人を刺し殺した瞬間の感触を思い出します。こうしたことは、大変勇気のいる行為でありますが、人生を締めくくるためにも、彼とっては必要なことだったのかも知れません。それにしても、日本軍とくに関東軍は、張作霖爆殺事件以来、道徳基準が狂ってしまったようです。事実、この残留には、張作霖爆殺の首謀者と目される河本大作が深く関わっていました。何しろ、張作霖爆殺に対して、犯人たちは処罰されるどころか、出世したのですから、道徳基準が狂うのも当然のことです。
ビルマの竪琴
この映画は、児童向け雑誌「あかとんぼ」に、1947年から48年まで竹山道雄が執筆した小説を、1956年に市川崑監督が映画化したものです。竹山は、当時東京大学の教授で、戦争で死んでいった多くの学生たちを悼み、本書を執筆しました。本書は、竹山が著した唯一の児童書で、市川が映画化して空前のヒットとなり、彼は85年にももう一度映画化しています。市川にとっても、思い入れの深い映画だったのでしょう。
「ビルマの竪琴」の舞台は、第二次世界大戦末期に日本軍がビルマ(ミャンマー)で行ったインパール作戦です。日中戦争で日本軍は、蔣介石の率いる国民政府と戦ったのですが、国民政府は内陸の重慶に拠点を置いて抵抗したため、日本はなかなか戦局を打開することができませんでした。重慶政府を支えていたのは米英による援助でしたが、その援助は最初は香港から、次いで仏領インドシナから、さらに英領ビルマから雲南を経て、行われました。そこで日本は、この援蒋ルートを断ち切るためにビルマを征服したのですが、今度はインド東部のインパールを拠点にヒマラヤを越えて物資が運ばれるようになったため、今度は日本軍はインパールを攻めようとしました。これがインパール作戦です。
しかし、インパールに行くには大河と2000メートル級の山脈を越えねばならず、補給路を確保することが困難で、反対が強かったのですが、牟田口司令官が独断で決定してしまいます。それでも日本軍は何とかインパール付近まで到達しますが、砲弾など物資の補給がなく、これ以上戦うことは困難で、撤退を余儀なくされますが、この撤退の過程は悲惨でした。イギリス軍による攻撃、餓死、マラリアなどによる病死で、10万近くいた兵は1万余まで減ってしまいます。日本兵の死体は打ち捨てられ、彼らが通った道は「白骨街道」とさえ言われました。この悪名高いインパール作戦を指揮した牟田口は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件にも関わった人物で、前に述べた澄田𧶛四郎と同様、個人的な野心のために、多くの人々に犠牲を強いることになりました。
映画では、1945年7月、ビルマからの撤退の過程が描かれます。終戦まで、あと1カ月です。ある小隊の隊長は、音楽学校の出身だったため、いつも部下たちと合唱し、苦しい行軍を耐え抜いてきました。その中に、水島上等兵という天性の音楽的才能をもった青年がおり、隊長の指導によってその才能が目覚め、ビルマの竪琴を使って巧みに編曲するまでになっていました。ある村で彼らが休息していた時、イギリス軍に包囲されてしまいます。そこで部下たちを鼓舞するために、一緒に「埴生の宿」を合唱します。「埴生の宿」とは、「粗末だけれども楽しい我が家」という意味で、日本の小学唱歌になっていました。実はこの歌はイングランドの民謡で、「楽しきわが家」という広く知られた歌でした。兵隊たちが歌を歌い終わると、今度はイギリス兵たちが英語でこの歌を歌い始めました。彼らもまた、戦場にあって望郷の念にかられたのです。そして、日本兵たちはイギリス兵を通して、すでに3日前に戦争が終わっていたことを知ります。
その後、彼らは捕虜収容所で暮らしますが、ある時、まだ山に立て籠もって玉砕を叫んでいる日本兵たちがいることを知ります。そこで隊長は、彼らに投降するよう説得するために、水島を派遣します。結局、水島は説得に失敗し、彼自身も怪我をしますが、帰りに多くの日本兵の死体が転がっているのを目撃します。死体を葬ろうと奮闘しますが、全然追いつきません。そうした中で、彼は、このままでは自分は日本に帰れないと思い詰めるようになり、ビルマで僧となって、死んだ人々の霊を弔おうと決意します。収容所の仲間たちは、一緒に日本に帰ろうと訴えますが、彼の決意を翻すことはできませんでした。こうして仲間たちは日本に帰り、水島は竪琴をもって一人でビルマの大地を歩いていきます。
この映画は、戦争に散々痛めつけられ、ひたすら平和を願った当時の日本人の心を捉えたのだと思います。原作者は、戦場で敵と味方が歌で通じ合うような物語がつくりたい、という所から始まって、中国では共通の歌がない、ビルマならイギリス人がおり、「埴生の宿」がある、ということからビルマを舞台にしたのだそうです。原作者自身が、ビルマについて何も知らないと言っており、舞台がビルマであったのは、たまたま創作上の都合でしかなかったようです。しかしこの映画は、ビルマについての日本人のイメージの形成に大きな役割を果たしました。ビルマといえば「ビルマの竪琴」というくらいで、それは、かつて欧米の人が、日本といえば「ゲイシャ」「フジヤマ」を連想するのと同じです。
話が逸れますが、「王様と私(アンナとシャム王)」というミュージカルがあります。これは、19世紀の後半のタイの王宮で、アンナ・レオノーウェンズというイギリス人女性が王子の家庭教師として招かれ、保守的で頑迷な王様(ラーマ4世・モンクット王)と対立しますが、やがて二人の間に愛が芽生えたという話です。アンナは実在の女性で、やがて彼女は手記を執筆し、後にそれをもとに小説が書かれ、それがミュージカルとなり、映画となったわけです。それは、知的で美しいヨーロッパの女性と、アジアの野蛮な王様との物語で、まさに欧米人好みの物語です。
しかし、問題があります。彼女の手記には噓と誇張が多いということです。第一、ラーマ4世は決して野蛮な王ではなく、4つの言語を理解する知性豊かで英邁な君主でした。こうした誤解は、19世紀のヨーロッパで形成されたステレオタイプのイメージ、つまり野蛮なアジアと文明の発達したヨーロッパというイメージと結びつき、広く欧米の人々に浸透していきます。「ビルマの竪琴」にも誤解があり、ビルマでは僧侶が楽器を奏でることは禁じられているそうですが、これはあまり悪意のない誤解のように思います。しかし「王様と私」には、幾分悪意を感じます。ラーマ4世は実在した君主であり、彼の王家は今でもタイの王家として続いています。タイでは、この映画の上映は禁止されているそうですが、当然のことだと思います。
話が逸れましたが、「ビルマの竪琴」は、幾分誤解があるとしても、大変美しく、感動的な映画でした。私は原作を読んでいませんが、この映画は原作を超えているのかもしれません。
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