2016年2月27日土曜日

映画「ルートヴィヒ」を観て

 1972年にイタリア・西ドイツ・フランスによって制作された映画で、240分という長編です。この映画には、イタリア語版とドイツ語版がありますが、日本ではイタリア語版しか公開されていません。映画の舞台はドイツであり、イタリア語とドイツ語では、かなり発音が異なるため、少し違和感がありました。ルートヴィヒは、19世紀後半のバイエルン国王だった人物で、映画は彼の半生を描いています。













 舞台となったバイエルン王国は、今日のバイエルン州の領域とほぼ一致しています。バイエルンには、すでに10世紀にバイエルン大公国が存在し、12世紀以降ヴィッテルスバッハ家がこの地域を継承し、この家門は実に20世紀初頭まで続きますので、まさに名門中の名門です。そしてルートヴィヒは、1864年にバイエルン国王となり、事実上彼がバイエルン王国の最期の君主となります。彼は、長身でハンサムでしたが、男色で、生涯結婚しませんでした。ただ、同じヴィッテルスバッハ家出身のオーストリア皇后エリーザベトには特別な感情を抱いていたようですが、それがどの様な感情なのかは、よく分かりません。
 エリーザベトは、ヨーロッパ第一の美女と言われましたが、堅苦しい宮廷生活を嫌い、自由奔放に生き、思い切り散財しますが、唯一の嫡子が自殺し、彼女自身、1898年にスイス旅行中に暗殺されます。彼女の夫であるオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、1848年に18歳で即位し、1916年まで68年間在位します。この間にオーストリア・ハプスブルク帝国は、ゆっくりと衰退の道を歩み、1918年に滅亡します。そしてバイエルン王国も、ルートヴィヒの時代に衰退していきます。この間、北のプロイセン王国が破竹の勢いでドイツ統一に向かい、バイエルンもそれに飲み込まれていきます。
 ルートヴィヒは政治には関心がなく、まずワーグナーに熱中します。ワーグナーは浪費癖の激しい人物でしたが、ルートヴィヒはワーグナーの言いなりに金をつぎ込み、さらに「『ニーベルンゲンの指輪』を演奏するためにバイロイト祝祭劇場まで建設します。ワーグナーについては、このブログの「映画で西欧中世を観て(2) はじめに」を参照して下さい(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/2.html)。周囲の反対から、一時ワーグナーを追放しますが、今度はルートヴィヒは築城にのめり込み、ノイシュヴァンシュタイン城をはじめとする三つの城を築きます。国費の浪費、政治への無関心、さらに城に洞窟を造って、若い男優たちを集めて一晩中過ごすといった状態です。
 こうした中で、大臣たちはルートヴィヒの退位を画策するのですが、ルートヴィヒは意外にも国民に人気がありました。それは、ルートヴィヒがバイエルンを心から愛していたからだろうと思われます。そこで大臣たちは、彼を精神科医に診断させ、彼がパラノイア (偏執病・妄想症)という精神病であるとして、彼を退位させて監禁しますが、翌日彼は自殺しました。188641歳でした。彼を精神病とした診断書が残っていないため、暗殺という説もあるそうですが、真偽は不明です。
 彼が何を求めていたのかについては、映画を観てもよく分かりませんでした。現実の世界から逃避し、ひたすら幻想の世界に生きているように思えましたが、しかし彼は、バイエルン王国の滅亡という現実を誰よりも認識していたのかもしれません。むしろ、バイエルン王国の存続を願う人々こそが、幻想の世界に生きていたのかもしれません。事実、第一次世界大戦後のドイツ革命により、バイエルン王国は滅亡します。しかし、バイエルンは、10世紀における神聖ローマ帝国の成立以前から、半独立的な勢力を形成しており、今日でもバイエルンには強い自立志向があるそうです。

 そしてルートヴィヒは、このバイエルンに大きな遺産を遺しました。彼が建設したノイシュヴァンシュタイン城などはドイツの観光名所となっており、さらに、バイロイト祝祭劇場は、多くの音楽家の憧れです。また、毎年夏に1ヵ月間バイロイト音楽祭が開催され、ワーグナーの作品が上演され、多くのファンを引きつけています。つまりルートヴィヒの浪費は、バイエルンを文化の地に変えました。そしてこれがルートヴィヒの願いだったのかもしれません。

2016年2月24日水曜日

歴史教育について思うこと

私たち歴史を教えるものは、生徒・学生の何気ない発言から、大きな影響を受けることがあります。ずっと以前のことになりますが、私は近代以降について、「先進的」とか「後進的」という表現を、当たり前のように使っていました。そして、ある生徒に「後進的」とはどういう意味かと質問されて、気づきました。「後進的」という言葉には、資本主義が未熟であるという意味以外には何もないことに。もちろんこの生徒は、大して深い意味で質問したわけではないと思いますが、重要なのは、私が古い概念から抜けられていないのに対して、この生徒にははじめからそんな概念はないということです。むしろ社会や文明を、ほとんど惰性で資本主義の発展という観点で捉えていたことを、恥ずかしく思いました。
 次は、比較的最近気づいたことです。私が大学にいた頃、同僚の先生が憤慨して私に話しました。今学生が驚いたような顔をして、「日本とアメリカが戦争したことがあるのですか」と言うのです。そんなことも知らないのかと、この先生は愕然とし、私も愕然としました。最近、このエピソードを話す機会があり、その後でふと考えてみたのです。もしかしたらこの学生は、太平洋戦争も、それが日米の戦争であることも、知識としては知っていたのではないか、ただしそれは試験のための知識であって、現実とは結びつかない仮想の知識ではないのか、ということです。だとしたら、この一つの事実は、このような歴史の教え方で良いのかという、歴史教育の根本に関わる問題を提示していると思います。
 文科省の入試改革は、知識偏重を改め、入試に記述式を導入すると言っていますが、中途半端な改革は止めた方がよいと思います。たとえば、歴史用語を直接書かせるという程度の改革ならば、生徒にとっては覚え方が少し変わって、負担が増えるだけです。予備校でも、記述模試が行われると、採点基準会議なるものが開かれ、あれも良いのではないか、これも良いのではないか、といった不毛の論争が延々と続けられます。それでも、完全な公平性と客観性を維持することは困難であり、結局は「受験上」正確な知識をもっている生徒が、高得点をとることになります。これでは、従来のマーク式試験と大して変りがないように思えます。もっとも、マーク式の場合、いい加減にやっても、ある程度の点が採れる可能性がありますので、これも完全な意味で公平とはいえないと思います。
 記述式を導入するということは、完全な公平性と客観性を捨てるということですから、どうせ捨てるならもっと大胆に捨てるべきです。つまり、長文の論述を書かせることです。これを実施するには、とてつもない困難が待ち受けており、さらに公平性と客観性を大幅に捨てることになります。予備校でも、論述の採点基準を作りますが、あまり詳細な採点基準を作ると、記述模試と同じことになってしまいます。つまり、正しい言葉さえ並んでいれば、高得点になるということです。
 これを避けるためには、大まかな採点基準をもとに採点者に判断を委ねるしかないのではないでしょうか。もちろん、複数の採点者による採点は不可欠です。もしこうした試験を実施したら、少なくとも当初は大混乱に陥るでしょう。まず採点者の混乱、現場で教える教師の混乱、そして生徒の混乱は、目に見えるようです。しかし真剣に入試改革を考えるなら、その困難と混乱に立ち向かっていくしかないと思います。つまり信念をもって実行し、つねに改善していけば、やがて試験とはそうしたものだとして受け入れられていき、現場での歴史教育そのものが変化していくと、私は思います。
 歴史教育については、このブログの「予備校発「新学力」考」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/search?q=%E4%BA%88%E5%82%99%E6%A0%A1%E7%99%BA%E6%96%B0%E5%AD%A6%E5%8A%9B)を参照して下さい


  なお、「記述式」の概念が曖昧になっています。受験上、記述式とはマーク式に対する概念で、選択した番号を答案用紙に記述するのも記述式です。



福寿草 この文章とは何の関係もありません。庭の片隅にひっそりと咲いていました。












2016年2月20日土曜日

映画でウェールズを観て

わが谷は緑なりき

1941年にアメリカで制作された映画で、19世紀末のウェールズの炭鉱労働者の生活を描いています。その意味では、このブログの「映画でゾラを観て ジェルミナール」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/01/blog-post_30.html)と背景が似ていますが、趣はかなり異なっており、労働者の悲惨な生活よりは、正直に生きる人々の生活を描いています。













映画の舞台となったウェールズは、ブリテン島の南西部にあり、三方を海に囲まれ、地域の大半が山岳地帯で土地は痩せていたため、古来主要な生業は牧羊と漁業でした。民族的には、ケルト系のブリトン人で、今日でもウェールズでは、ケルト系のウェールズ語と英語が公用語となっています。歴史的には、アングロ・サクソン人の進出には頑強に抵抗しましたが、統一的な政権がほとんど成立せず、13世紀にはイングランドに臣従し、16世紀にはイングランドに併合されました。スコットランドやアイルランドはイングランドとの同君連合という形をとっていますが、ウェールズはイングランドの一部ということになっています。
 18世紀半ばから産業革命が始まると、石炭をはじめとする鉱物資源が豊富なウェールズでは、重工業や鉱工業が発展します。とくに19世紀後半から20世紀前半にかけて、ウェールズは世界最大の石炭輸出地として発展します。これが「わが谷は緑なりき」の背景です。しかしエネルギーが石油に切り替えられると、鉱工業は衰退し、今日では軽工業やサービス業に転換されています。特に、この地方の景観が美しいことから、観光業が発展しています。
映画では、谷あいのある村のモーガン一家を中心に語られ、この家の末っ子で10歳のヒューが語り部となっています。モーガン家では、父親を中心とした家父長的な規律が守られており、5人の兄たちは皆炭鉱で働いており、仕事から帰ってくると、母親が入り口で皆の賃金を受け取り、家のことを一切取り仕切っていました。肝っ玉母さんです。そして姉が母を手伝っていました。けっして豊かではありませんでしたが、堅実で幸せな生活を送っていました。また、村にはまだ共同体の連帯意識が残っており、山にはまだ緑が残っていました。 
しかし、会社が賃金の引き下げを提示すると、ストライキが始まり、ストライキの賛成派と反対派が対立して、村人たちの間に亀裂が入ります。そうした中で、3人の兄が海外に移住し、1人の兄は炭鉱の事故で死にます。姉は一度嫁ぎますが離婚し、ヒューは秀才で学校に通いますが、結局炭鉱で働くことになりました。教会に新しく赴任してきた神父は、新しい考えの持ち主で、古い伝統を維持している村人と対立します。そして最後に、落盤事故で父が死んでしまいます。ヒューは、その後も炭鉱で働き続けますが、老年を迎えた頃、村を去って行きます。
映画には、とくにストーリーらいしものはなく、ヒューが昔を回顧するという形で、モーガン家が幸せだった時代、そしてそれが壊れていく様を描いており、ゾラの「ジェルミナール」と比べると物足りない感じがしますが、この映画は、炭鉱労働の厳しさではなく、ウェールズの美しい谷の村における、実直な人々の生き方を描いているのだと思います。


ウェールズの山


1995年にイギリスで制作された映画で、原題は「丘に登って山から下りてきたイングランド人」という、とんでもなく長いタイトルです。この映画は、ウェールズ南部の国境近くにあるフュノン・ガルウとい山が、「山」なのか「丘」なのかという「深刻」かつ「どうでもいい」問題を扱っています。そもそも、我々日本人には、ウェールズとイングランドとの「国境」という言い方自体に違和感を覚えますが、ウェールズ人は「国境」と呼んでいます。なお今日でも、サッカーではイギリス代表という言い方はせず、イングランド代表、スコットランド代表、ウェールズ代表に分かれています。
 ウェールズがイングランドの一部となってから、すでに何百年もたちますが、それでもウェールズ人は、ウェールズ人としての意識を非常に強くもっており、イングランドから入植した人もウェールズ化してしまうそうです。また、ウェールズの子供が英語を習うのは、小学校に入ってからだそうですので、日常生活ではウェールズ語が広く使われているようです。このウェールズ人としての強いアイデンティティが、映画「ウェールズの山」の背景にあります。
 第一次世界大戦中の1917年に、イングランドからガラードとアンソンとい二人の測量技師が、地図製作のため山の高さをはかるために、フュノン・ガルウという山のふもとの村にやってきました。この山は、ウェールズに入って最初の山であり、この山が侵略者たちからウェールズを守ってきたというのが、この村の人々の誇りでした。ところが、ここで問題が発生しました。標高305メートル以上が「山」として地図に記載され、それ以下は「丘」であって、地図に記載されないのだそうです。そのため、村中で「山」か「丘」かで大論争が始まりました。
 測量の結果、299メートルであることが分かり、フュノン・ガルウは「山」ではなく、「丘」ということになり、地図にも載せられないことが判明しました。そのため村中が大騒ぎになり、それなら下から土を運んで6メートルだけ高くしょうということになりました。しかし、測量技師たちは翌朝帰ることになっていましたので、色々策を練ります。まず車を故障させ、パンクさせ、列車の駅では駅員が切符を売るのを拒否してしまいます。さらに村一番の美女に接待までさせます。二人は、もう一日留まるしかなく、その間に村中の人々が、バケツや荷車を総動員して土を運びました。これで4メートルまで積み上げ、その後3日間雨が降り、日曜日は列車が動かないため、再び日曜日に土盛りを行いました。
 一体、何故村人たちは、これ程までに「山」に拘ったのでしようか。もちろん長い間イングランドに支配されてきたという恨み、この山に対する誇りなどがありますが、同時に第一次世界大戦で若い男たちが戦争に徴収され、さらに他の男たちは炭鉱で働き、その石炭はイングランドの発展のために使われます。村人たちは、イングランドはわれわれから山まで奪うのか、という思いがあったのです。こうした中で、測量士のアンソンも村人に共感し、土盛りを手伝い、出発間際に測量をしなおします。そして、305メートルを少しだけ上回り、フュノン・ガルウは「山」として登録されることになりました。
 映画は、ウェールズの人々の気持ちを、コミカルに、巧みに描き出しており、大変心温まる物語でした。グローバリゼーションが叫ばれる時代にあって、むしろこうしたミクロの世界の重要性を考えさせる物語でした。

2016年2月17日水曜日

「ルイ14世と悲恋の女たち」を読んで

戸張規子著 1987年 人文書院
 本書は、ルイ14世と関わった三人の女性を、女性の視点で、物語風に述べています。
 マリー・アンチーニは、宰相マザランの姪で、決して美人ではありませんでしたが、教養があり、ルイに文化の大切さを教えた人物だとされます。彼女は、ルイにとって初恋の相手だとされますが、国王にとっては愛より政略結婚が大切であり、スペインの王女と結婚するために、マリーはイタリアへ嫁がされることになりました。そしてルイとスペイン王女との結婚は、ブルボン家がスペインを継承するという結果を生み、今もスペインの王家はブルボン家です。
 ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールは、イギリスから王弟フィリップに嫁いだヘンリエッタ・アン王女の女官でしたが、やがてルイの目にとまり、ルイとの間に6人の子を設けます。彼女は控えめな女性で、富や地位を求めませんでしたが、ルイは彼女に公爵の地位と領地を与えます。やがて王の愛が別の女性に移ると、彼女は修道院に入って余生をひっそりと過ごしました。
モンテスパン侯爵夫人は、大変な美貌の持ち主であると同時に、権勢欲の強い女性でもありました。ルイーズを追い落とし、夫と離婚し、ルイの寵愛を独占し、7人の子を産み、事実上宮廷の女王となります。しかし、彼女がライバルを追い落とすために黒ミサに関わったことが発覚し、事実上宮廷から追放されます。
ルイ14世に関わった女性は他にも沢山おり、著者が特にこの三人を選んだ理由は分かりませんが、こうした女性の視点でヴェルサイユ宮殿を見るのも興味深いものがあります。

2016年2月13日土曜日

映画で戦国時代を観て

はじめに
 NHKの大河ドラマには、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など戦国武将を扱ったドラマが数えきれない程あり、今年も真田幸村が主人公となっているようです。しかしここでは、こうしたメジャーな話ではなく、農民や職人を扱った映画を紹介したいと思います。

笛吹川
1960年に制作された映画で、笛吹川の畔に住む貧しい農民の、6代にわたる生き様を描いた映画で、それは丁度甲斐の武田の興隆と滅亡の時期に当たります。


















笛吹橋の側にある一軒の貧しい農家に、じいと婿の半平、孫のタケ、ヒサ、半蔵が住んでおり、半蔵は戦にいっていました。当時の甲斐は、周辺勢力の侵入や内紛により争いが絶えませんでしたが、1521年に武田信虎が飯田河原の合戦で今川軍の侵入を撃退し、その後武田による甲斐の統一が進みます。そしてこの年、信玄が誕生します。その後も戦争が続き、若い男たちは褒美や出世を求めて戦に出ていき、次々と死んでいきます。婿の半平のみが、家に残って、ひっそりと家を守っています。半平が死ぬと、春信(信玄)と同じ日に生まれた定平(さだへい)が跡を継ぎます。1541年に春信が父の信虎を追放して、甲斐を掌握します。信玄は、領国拡大政策を推し進めたため、戦争が相次ぎます。信玄が勢いに乗っていた時代なので、人々は、毎年のように洪水を起こす暴れ川で百姓を続けるより、戦にいって褒美をもらう方が良いと考える人たちが増えてきました。定平の子供たちも戦争に参加します。

 しかし、1573年三方ヶ原の戦いで徳川軍に勝利した後、信玄が病死し、さらに1575年に武田軍が長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍に大敗すると、武田は急速に衰退に向かいます。そして織田信長の甲州征伐により、1582年に武田家は滅亡します。この間に、定平の息子たちも皆死んでしまい、息子たちを帰らせようとして戦場に向かった定平の妻も、戦火に巻き込まれて死にます。今や生き残ったのは、定平だけであり、定平は笛吹川に武田の旗差物が流れていくのを見つけて、映画は終わります。

(映画の笛吹橋)











(現在の笛吹橋)











 映画の舞台は、ほとんど笛吹橋の側の小さな小屋であり、そこで60年の間に多くの人が生まれ、死んで生きました。その時期は武田の盛衰の時期であり、この一家はこうした歴史の流れに翻弄されました。こうした場面は、甲斐に限らず、戦国時代のどこででも見られた光景だろうと思います。映像は非常に美しく、映画の最期で、母が必死に子供たちを連れて帰ろうとして、戦場にまでついていく場面は、なかなか感動的でした。

火天の城
2009年に山本兼一原作の小説を映画化したもので、宮大工(番匠)である岡部又右衛門による安土城の建設を、職人という視点から描いた映画です。映画が制作された2009年は、20年に及ぶ安土城跡の発掘調査が終わった年で、このことがこの映画の制作に関係があるのかもしれません。
岡部又右衛門は実在の人物で、熱田の宮大工であり、今日、彼の屋敷跡には史跡表札が立てられています。彼は、突然織田信長により安土城に五層の城を築くよう命じられます。信長の構想は桁外れで、安土山全体を城にしてしまうということです。安土は、当時の交通の要衝で、しかも琵琶湖に接しているため、水運にも適しています。しかも、その天守に信長自身が住むというのです。一般に、天守は戦の際に籠城することを目的としており、居住のための邸宅は別に造るのが普通ですが、安土城は信長の居住のための城でもありました。つまり、信長はここに巨大な城を築き、そこから天下を見下ろそうという構想です。
映画には、三つの見せ場がありました。第一は指図(図面)争い、第二は木曽檜の入手、第三は通し柱の修正です。
第一について、当初信長は、築城を岡部に任せていたのですが、その後気が変わり、複数の職人が設計図と模型を信長に見せて、最終的が決定することにしました。そのため、岡部の他に、金閣寺を建立した京の池上家、奈良の大仏殿を造った中井一門が図面争いに参加し、いずれも見事な模型を造ってきました。信長は、五層で四層まで吹き抜けにするように命じていたのですが、岡部は吹き抜けを造ることを拒否し、実際に三つの模型に火を付けました。その結果、他の二つの模型は瞬く間に天守まで燃えてしまいました。信長が寝起きする城に、吹き抜けという「火の道」を造ることは許されないということで、信長も納得し、岡部に総棟梁を任せます。こうして、1676年に、前代未聞の築城工事が始まります。
第二について、これ程巨大な木造建築を造るには、支柱となる巨大な木材()が必要で、それを求めて岡部は木曽へ行きます。しかし木曽は武田の領地であり、織田の築城のための木材など渡すはずがありません。ところが、1573年に信玄が死亡し、領域内でも武田からの離反の動きが生まれ、木曽義昌も離反を考えていました。そのため、彼は岡部が木材を捜すことを黙認します。その際、大庄屋陣兵衛という杣人(そまびと)が岡部を助けます。杣というのは、天皇・貴族・寺社などが木材を伐採するための土地で、杣人とは必要な木材を伐採する人で、平たく言えば木こりです。ただ彼らは、「木」を知り尽くしており、陣兵衛は岡部と意気投合します。こうして岡部は、巨大な支柱を手に入れることに成功しました。
映画には、さまざまな職人が登場しますが、その中に穴太衆(あのうしゅう)という石工の集団がいました。彼らの石積みは野面積み(のづらづみ)といわれ、自然石をそのまま積み上げる方法です。加工せずに積み上げただけなので石の形に統一性がなく、石同士がかみ合っていないため、間や出っ張りができ、敵に登られやすいという欠点がありましたが、排水性に優れており、頑丈でした。今日、野面積みはコンクリート・ブロックより強度が高いことが実証されています。安土城の建設で、穴太衆の高い技術が実証され、その後全国各地の築城に携わりました。
築城が完成に近づきつつあった頃、重大な問題が発生しました。信長の指示で壁などを厚くした結果、周辺を支える柱の基礎が若干沈み、その結果中央の支柱が突き出る形になってしまいました。その結果、城全体が一瞬で崩れる危険性が出てきました。そこで、岡部は支柱の下を切り取って短くするという決断をしますが、そのためには支柱を一旦持ち上げる必要があります。そして岡部一門が総力をあげてこの作業に取り組み、成功させます。このような事実があったのかどうかについては知りませんが、この場面はなかなか見ごたえがありました。
こうして安土城は1579年に完成されましたが、1582年の本能寺の変の後出火し、焼失します。安土城は、わずか3年で焼失したために、幻の城と言われており、分からないことが沢山あります。そもそも、安土城がなぜ出火したのかも、よく分かりません。かつては、明智軍による放火によるものと言われたこともありましたが、今日では否定されています。いずれにしても、この城はその後の築城に大きな影響を与えたことは間違いありません。
この映画は、職人たちの世界を描いています。大工は木の声を聴き、石工は石の声を聴きます。こうした職人魂は、世界中のどの時代の職人でも同じだと思います。近世になると、優れた職人の名前が後世に残るようになり、彼らの中には芸術家として称えられる人もいます。古い時代には、彼らは卑しい職人でしかなく、制作を依頼した人物の名は残っても、職人の名が残ることはほとんどありません。しかし、今日世界に残る多くの歴史建造物や芸術品は、名もない職人の驚異的な技術により造られたものです。

2016年2月10日水曜日

「大英帝国の人種・階級・性」を読んで


デイヴィッド・ダビディーン著(1987)、松村高夫・市橋秀夫訳 同文館(1992)
本書は、「W.ホガースにみる黒人の図像学」というサブタイトルの通り、18世紀のイギリスの画家であるホガースの絵画を通じて、18世紀のイギリス社会の歪みを描きだそうとするものです。ホガースは、貧しい家に生まれたため、幼い頃から銀細工師の徒弟として版画家の修行を積み、やがて油彩画を書くようになりますが、その絵を銅版画として労働者にも買える金額で売るようになり、これによって彼は成功します。17世紀までのイギリスは絵画不毛地帯といわれ、絵画の独自の発展がほとんど見られませんでしたが、ホガースによって初めて、イギリス風絵画が発展するようになったとされています。
 ホガースは、「当世風の結婚」シリーズが著名で、このほか「娼婦一代」、「放蕩息子一代」など連作物の版画を多数の残しており、本書では、100枚近いホガースの絵が掲載され、著者はこれを通して当時の社会を徹底的に風刺しています。「芸術における彼の洞察力は、商業主義によって損なわれた社会、すなわち金銭的取引だけの関係が人間の諸関係にとって代わっている社会にむけている。」また、しばしば絵には白人の引き立て役として黒人が書き込まれ、文明と野蛮が強調されますが、実は野蛮なのは黒人なのか白人なのかを問いかけています。虚飾に満ちた文明化された白人と、文明化されていない黒人との対比です。
 「黒人は、ホガースの作品では周辺的人物でありながらも、意味深長な細部描写である。……黒人は、上流階級の生活における性や文化や経済のあさましさについてのホガースによる暴露とつながりをもつ細部描写である。「残酷な光景」では、イングランド社会の残忍さが、アフリカ人やインディアンの「野蛮な」諸行為にてらして測られている。こうした習慣の中でホガースは、性の慣習、原始主義、類人猿祖先説といった黒人にまつわる当時の神話や常套句を意識的に用いて、イングランド貴族階級の道徳を論評した。黒人は論評のものさしとして用いられているが、同時にそのものさしは白人を打つ一本のスティックである。」そして著者は、大英帝国の持つ構造的矛盾生で言及します。

 私がこれら絵を観て、直ちに「なるほど」と理解することは困難ですが、本書の解説を読むと「なるほど」と納得できる内容でした。

2016年2月6日土曜日

映画ファウストを観て

1926年にドイツで制作された映画で、無声映画ですが、意外にも面白く観ることができました。ファウストを題材とした映画は数多くありますが、たまたま私が観たのが、この映画だったというだけです。「ファウスト」というとゲーテの作品を思い浮かべますが、「ファウスト」には多数のヴァージョンがあり、この映画の原作がゲーテという分けではありません。
ファウストは、16世紀前半のドイツの錬金術師・占星術師がモデルとなったと推測されています。彼は各地を旅し、最後は錬金術の実験中に爆死したとのことです。そして16世紀後半に、「実伝ファウスト博士」という民衆本が書かれ、それを基に演劇や人形劇で盛かんに演じられて、民衆に広く愛される伝承となっていきました。それによれば、ファウストは、学問を究めますがそれに限界を感じ、悪魔メフィストフェレスと契約を交わして、死後自分の魂を悪魔に与える代わりに、現世でのあらゆる欲望を追求することになり、地獄へ落ちていきます。 
映画では、ファウストはグレートヘンという純真で美しい女性に恋をし、メフィストフェレスに頼んで彼女を手に入れます。しかし二人の恋に反対した彼女の母と兄は、ファウストとメティストフェレスに殺され、ファウストの子を産んだグレートヘンとは一人で子供を育てられず、結局子供を死に至らせてしまいます。その結果彼女は子殺しの罪で火炙りの刑と定められ、まさに彼女の人生は無茶苦茶になってしまいます。それを知ったファウストは、彼女のもとに駆けつけ、彼女とともに火の中に入って死に、ともに天国へ行くことになります。罪を犯した二人が天国に行けた理由は「愛」であるという、いささか陳腐な結論となりますが、何しろ今から100年近く前に制作された映画ですので、仕方がないと思います。この映画は、コミカルなタッチで描かれるとともに、革新的なトリックが随所で使用されているようで、後の映画技術に大きな影響を与えたそうです。
ゲーテの「ファウスト」の結末は、少し違います。ここまでの話は、ゲーテの「ファウスト」の第一部で、ファウストは天国でのグレートヘントの取り成しと、彼自身が積み重ねてきた努力の故に罪が許され、第二部に入ります。ゲーテは、若い頃から「ファウスト」についての構想を育み、180859歳の時に第一部を発表し、1832年に83歳で死亡しますが、翌年に第二部が発表されます。実に60年間も温めてきたテーマであり、まさに「ファウスト」はゲーテのライフワークでした。第二部では、ファウストは悪魔の力を借りて、古代ギリシアの女神ヘレネを妻とし、さらに皇帝に仕えて理想国家の建設を目指し、海を埋め立てて「自由の土地」を造ろうとしたりします。このように悪魔の力を借りて現世で行おうとしたことも、結局彼に満足を与えることができず、虚しさの中で死んでいきます。そこで悪魔は、契約に従ってファウストの魂を受け取ろうとしますが、神はファウストを天国に受け入れます。それを可能にしたのは、グレートヘンの祈りによるものだということです。

私は、ゲーテの「ファウスト」を読んでいませんので、ゲーテが何を言おうとしているのか、よく分かりません。完全に勉強不足です。第二部は、ゲーテ自身の魂の格闘の物語なのかもしれません。

2016年2月3日水曜日

「キャプテン・クック」を読んで

ジョン・ハロウ編(1860)、荒正人・植松みどり訳、原書房(1992) 増田義郎監修
大航海者の世界Ⅳ サブタイトル:科学的太平洋探検
 クックは、18世紀後半に活躍した、イギリスの軍人・航海者・探検家です。彼は水兵から出発して、異例の速さで艦長にまで出世し、3度探検航海を行っています。第1回航海(1768 - 1771年)、第2回航海(1772 - 1775年)、第3回航海(1776 - 1780年)で、合わせて10年、太平洋をくまなく探検し、測量や科学的調査を行います。この時代は、イギリスがフランスと争いながら、本格的に海外に進出していった時代であり、彼の調査はイギリスの海外進出に大いに役立ったことは間違いありません。ただ彼の航海日誌はすぐに出版されて公にされましたので、太平洋についての知識が広く伝えられることになりました。彼の航海は、2千年ほど前の張騫の西域旅行や鄭和の南海遠征のようで、地理的な知識が一挙に拡大することになります。
 本書は、クックの航海日誌と日々の出来事を記した航海記をもとに、クックの航海を時系列で淡々と記しています。したがって、ストーリー的に面白い内容ではありませんが、広大な太平洋に数多く点在する島々に住む、人々の風俗や植物・動物などが詳しく記されており、大変興味深い内容です。第3回目の航海については、クックがハワイで原住民との争いで死亡したため、部下がそれ以降の内容を補充して出版されました。
 なお、スペースシャトルのエンデバー号は、クックが第1回航海で乗船した船の名称に因んだものです。