2020年1月29日水曜日

古代史の謎は「鉄」で解ける

長野正孝著 2015PHP新書
 著者は、国土交通省で港湾技術研研究をしていた人で、同時に海洋史や土木史などを研究してきました。経歴が独特であるため、歴史への切り口も独特かつ大胆で、日本史の専門家からは色々異論が出そうですが、世界史を専攻とする私には、大変興味深い内容でした。私は決して荒唐無稽な憶測を好むものではありませんが、海域世界のような大きな論点で論じることは、多少根拠が希薄でも、大変強い関心をもちます。
 「鉄」の歴史については、このブログではしばしば論じてきました。この鉄が、ようやく前3世紀ころから製品として日本にもたらされるようになります。日本では、例えば刀として輸入された鉄を、小刀や鍬などに作り替えていたようで、こうしたことを通して鋳鉄技術が蓄積されていったのだろうと思われます。
この鉄の輸入に大きく関わったのが倭人でした。倭人については、いろいろな解釈がありますが、ここでは東アジア世界で活躍する海洋民族と呼んでおくべきでしょう。こうした解釈にあたっては、日本人とか朝鮮人とか、現在の国境を想起させるようなものと関連付けることは、大きな誤解を生むように思われます。
 また2世頃起こった倭国大乱について、私はあまりよく分かりませんが、高句麗という強大な勢力の台頭と関連しているようです。漢が衰退し、高句麗という大勢力が台頭するなかで、鉄の道も変化し、やがて日本で製鉄が行われるようになったようです。

2020年1月25日土曜日

映画「スポットライト」を観て

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2015年にアメリカで制作された映画で、カトリックの神父による児童虐待の問題を扱っています。
カトリック教会は聖職者の結婚を禁じているため、神父の性欲が異常な方向に向かい、信者の児童に対する虐待が恒常化しています。今までにもこうした事件は何度か発覚してきましたが、いずれも単発的な事件として取り上げられていました。しかし2001年にボストンの日刊紙グローブ紙は、この問題がもっと構造的な問題を抱えていると考え、本格的な調査に乗り出すことを決定しました。それを扱ったのが、特集記事を扱うスポットライトという部署で、4人の記者と編集長が調査に当たります。
取材の過程で一番の問題は、カトリック教会を敵に回す危険があったことです。第一、ボストン・グローブ紙の定期購読者の50パーセント以上がカトリックでしたので、彼らの反発を買う可能性がありました。また、当然のことながら、加害者も被害者も口が重く、その上9.11同時多発テロが勃発して、取材を中断せざるをえませんでした。それでも地道に調査を続け、やがて驚くべき事実が明らかになります。
当時の調査で、ボストンだけで過去何十年の間に何十人もの神父が児童虐待を行ってきたことが明らかとなりました。しかもボストンを統括する枢機卿は、事実を知りながらもみ消し、問題となった神父は他の管区に移動されるだけで、その管区で虐待が再生産されていたのです。これはもはや個々の神父の問題ではなく、カトリック教会の構造的問題です。問題となった枢機卿は辞職しますが、ローマ教会に栄転します。つまりローマ教会もこの問題に真剣に取り組む意志はなかったのです。
このニュースが報道されると、全米で同様のケースが多数公表され、ボストンのケースは氷山の一角でしかないことが判明しました。さらに同様のケースは世界中で報告され、アメリカのケースでさえ氷山の一角でしかありませんでした。児童虐待については中南米でも多発していると考えられていますが、中南米ではカトリック教会が絶対的な力をもっているため、真相を十分解明できていません。

 ジャーリズムは、時にはくだらないゴシップも報道しますが、同時に社会の不正を正す重大な報道を行うことがあります。こブログの「映画でアメリカを観る(7) 大統領の陰謀」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/02/7.html) では、二人の若い記者がウォーターゲート事件の真相を暴きました。カトリック教会の虐待を暴いたスポットライトの記者たちは、カトリック教徒からの嫌がらせを予想していましたが、思ったほどひどい嫌がらせはなかったようです。どうやら、多くの人々が虐待について薄々感じていたようです。トランプ大統領のような人々は、自分に不都合なニュースをすべてフェイクニュースとして切り捨ててしまいますが、一方で真実を見抜き、それを報道し、それを受け入れる勇気ある人々もいます。そうすることが、社会の発展に不可欠だからです。2003年にスポットライトは、栄えあるピューリッツァー賞を受賞しました。

2020年1月22日水曜日

「朝日文左衛門と歩く名古屋まち」を読んで


大下武著 2016年 ゆいぼおと
 本書は、元禄時代に生きた朝日文左衛門(重章)の日記をもとに、当時の名古屋や時世について、エッセイ風に描いています。江戸時代に武士が書き残した日記については、その外にも多数知られ、映画になったものもありますが、私が本書を選んだのは、尾張藩の武士が書いたからです。なお、名古屋については、「「名古屋を古地図で歩く本」を読んで」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2019/03/blog-post_27.html)を参照して下さい。
 テレビで「鬼平犯科帳」を観ていると、私でも知っている地名がよく出ており、最近では江戸時代の大坂を舞台としたドラマもまれにあるようですが、名古屋を舞台としたドラマは観たことがありません。元禄時代に江戸は人口100万に達し、大坂も40万でしたが、名古屋もすでに人口10万人を抱える巨大都市でしたので、名古屋を舞台とするドラマなどがもっとあってもよいように思うのですが、なかなか見つかりません。かつて石原裕次郎が「白い町 名古屋」というような歌をうたったため、名古屋はコンクリートの塊というイメージが定着してしまいました。
 朝日家の家禄は100石で、その知行地の一部が烏森ありましたが、烏森は私が高校時代に通った場所です。彼の妻は瀬戸の郷士の娘だそうですが、瀬戸は私の町の隣町です。朝日文左衛門は元禄4年(旧暦、1691年)年頃から日記を書き始め、享保2年(旧暦、1718年)に絶筆となり、その年に死亡します。この間、彼は37冊に及ぶ日記を描き残し、中級武士の日々の生活や、当時起こった出来事などを描き残しています。「鸚鵡籠中記」というタイトルは、籠の中にいる鸚鵡(オウム)のように口真似をしているつもりで、日常見聞きした事柄を書き綴った日記、というような意味でないかとされています。その点で、世界史というフィールドで脈絡もなく逍遥する私のブログに似ています。

2020年1月18日土曜日

映画「ワーテルロー」を観て

「ワーテルロー」(Waterloo)は、1970年のイタリア・ソ連合作映画で、1815年にナポレオンがワーテルローの戦いで最終的に敗北する姿を、イギリスの名称ウェリントンと重ね合わせながら描いています。ワーテルローの戦いについては、ヴィクトル・ユーゴーが「レミゼラブル」の中で詳細に描いており、またロシアのトルストイが「戦争と平和」でナポレオン戦争の悲惨さを描き出しています。またナポレオンとウェリントンについては、間接的ではありますが、「映画「ナポレオンに勝ち続けた男」を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/05/blog-post_13.html)を参照して下さい。ロシア軍は、ワーテルローの戦いにはいませんでしたが、それ以前に何度もナポレオン軍と戦っており、ソ連=ロシアにとってナポレオン戦争には強い拘りがあるのだろうと思われます。



 ナポレオンは、ライプチヒの戦いに敗北した後、エルバ島に配流されますが、ヨーロッパの混沌とした情勢を観て、1815226日に千人の兵とともにエルバ島を脱出し、パリに向かいました。パリでは新たに即位したブルボン朝のルイ18世がナポレオンを制圧するために軍隊を派遣しましますが、これがナポレオン側に寝返ってしまい、その後ナポレオン軍は膨張を続け、320日はパリに入城します。要するにルイ18世は民衆に不人気で、ナポレオンは相変わらず民衆の英雄だったということです。
 そして、622日にワーテルローの戦いが始まります。ナポレオン率いるフランス軍72,000とウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍68,000[2]と、ほぼ互角の勢力同士が対峙しました。戦争巧者のナポレオンは敵の弱点を果敢に攻め、敵陣を崩壊させていくのに対し、ウェリントンは守備線を守り、その内側に敵軍を誘い込むことを得意としていました。ウェリントンはやがて劣勢となり、敗北直前まで追い詰められますが、その直前にプロイセン軍が駆け付け、ナポレオンは敗退します。この戦いでウェリントンの英蘭軍は戦死傷約17,000人・行方不明10,000人、プロイセン軍のそれは約7,000人、フランス軍は約40,000人でした。戦場は惨憺たる状態で、勝者にも敗者にも耐えがたい状況でした。

 この映画のソ連版は240分あり、私が観たのは130分でした。そのため内容が切れ切れで繋がりにくかったのですが、だからといって240分版を観たいとは思いません。ソ連が2万人の兵士をエキストラとして投入したとのことで、確かに戦場における頭数は相当のものであり、戦術的には史実に基づいて制作されているのだと思いますが、私にはあまり関心がありませんでした。

2020年1月15日水曜日

「古代エジプト 知られざる大英博物館」を読んで

 2012年にNHKスペシャルで放映れた大英博物館の古代エジプトに関する遺物を紹介したものです。大英博物館は、19世紀に設立されてから、世界中から歴史遺物を集め、保存し、研究しています。ヨーロッパの帝国主義のために、世界中にヨーロッパが進出していく中で、世界中で破壊され続けている歴史遺物を保護しようと、集めまくったわけです。世界の歴史遺産を守るために、すべてを大英博物館に保管すべきだとまでいったそうですが、イギリスは歴史遺物の破壊にもずいぶん加担していると思います。大英博物館には、世界史の至宝といえるような遺物が多数集められていますが、それは所有国の許可なく持ち出されたものが多く、各国から返還要求がきていますが、大英博物館は応じていません。大英博物館は、さながら盗人市場のようです。
 大英博物館における古代エジプトに関する所蔵品は15万点におよぶそうですが、その内展示されているのは35千点だそうで、それ以外のものはまだ整理中か、手つかずの状態にあると思われます。フランスのルーブル美術館やロシアのエルミタージュ美術館でも、手つかずのまま倉庫に放り込まれている美術品が多いと聞いています。

 本書は、パピルスの記録などから、庶民の生活を再現しています。彼らがどのような家に住み、子供にどのような教育を与え、さらにラブレターまで紹介されています。昔のハリウッド映画によく見られた、鞭打って働かされる奴隷の姿は、どこにも見られませんでした。

2020年1月11日土曜日

映画「黄金のアデーレ 名画の帰還」を観て















2015年制作のイギリス・アメリカ合作の映画で、一人のユダヤ系アメリカ人女性が、かつてナチスに奪われた名画「黄金のアデーレ」を取り返すという話です。ナチスは、ドイツでも占領地でもユダヤ人を迫害し、ユダヤ人の財産を奪い、命を奪いました。その時に奪われた金品の多くは、未だに返還されておらず、映画は略奪品の返還とナチスの非道を訴えています。
世紀末のウィーンを代表する画家の一人クリムトは、多くの肖像画を描き残しました。その一つが1907年の「黄金のアデーレ」で、富裕なユダヤ人の婦人アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像画です。彼は正方形のキャンバスを好み、金箔や銀箔を多用します。この138センチ四方の絵が室内に飾られると、まるで部屋が黄金に包まれたかのようになります。アデーレ自身は1925年に43歳で死亡しますが、彼女の姪で、この映画の主人公であるマリア・アルトマンは、毎日この絵を観て成長しました。しかし1938年、オーストリア政府はナチス・ドイツ軍のウィーン占領を受け入れ、その結果ユダヤ人は迫害され、「黄金のアデーレ」も奪われます。
その直後に、彼女は夫ともにウィーンを脱出し、アメリカに亡命します。それは賢明な判断でしたが、両親をオーストリアに残してきたことは、彼女にとって辛い思い出でした。彼女は両親を殺し、自分の生活を破壊したオーストリアを憎みましたが、過去の記憶を封印して小さな洋品店を経営して生きていました。当時「黄金のアデーレ」はオーストリアの美術館に展示され、今や「オーストリアのモナリザ」とか「オーストリアの宝」と言われていました。しかしこの絵がナチスにより強奪された日のことを生々しく覚えているマリアには、自分たちに何の許しも得ず、ずうずうしくも勝手に「黄金のアデーレ」を展示しているオーストリアを許すことが出来ませんでした。
1998年、マリアは弁護士になったばかりの甥に叔母の肖像画の返還協力を依頼します。マリアはすでに82歳になっていました。若い弁護士がオーストリア政府を相手に戦うことは容易ではありませんでしたが、いろいろあって、結局2006年ウィーンの調停にてマリアへの返還判定を勝ち取りました。マリアはこの絵を156億円で売却し、今日この絵はニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されています。マリアが90歳の時で、201127日アメリカ・カリフォルニアで94歳で永眠しました。

マリアが「黄金のアデーレ」を取り戻そうとしたのは、あの時代に行われた不正を正したかったからだと思います。そしてそれは、ホロコーストを生き延びた多くのユダヤ人の心なのだと思います。

2020年1月8日水曜日

「イギリス 繁栄のあとさき」を読んで

川北稔著 2014年 講談社学術文庫
 本書の著者川北氏は、ウォーラーステイン「近代世界システム」の翻訳者で、かつて私も「近代世界システム」を熟読し、このブログの冒頭で紹介した「グローバル・ヒストリー」を書き、それを大学での教材として用いました。ただ、私自身の中では、この教材を書き上げた直後に、「グローバル・ヒストリー」は終わっていました。というよりも、すでに始める前から、このようなシステム論的な歴史の捉え方には疑念を抱いていたのですが、一度は通過せねばならないテーマとして、数年間かけて勉強し、ブログに掲載した「グローバル・ヒストリー」を書き上げたわけです。それ以後、私は私の目の前に現れるさまざまなテーマに触れ、私自身の内部で消化しており、それがこのブログの内容なのです。
 川北氏は、本来近代イギリス史の専門家で、ユニークな著書を多数執筆されており、私もかなりの著書を読みました。今回、久々に川北氏の著書を読むことになったのですが、本書は何度か雑誌に掲載された論文をまとめたもののようで、初版は1995年です。内容的には、私が熟知していることが多いのですが、エッセー風に書かれ、読みやすい本となっており、自由な発想で書かれています。

本書は冒頭で、産業革命は本当にあったのか、という疑問を投げかけています。産業革命は、近代・現代世界のすべての出発点のように考えられていますが、私自身はこうした考えに否定的です。というより私は、いかなる前提条件もなしに、歴史の中に入っていきたいと思うからです。それが不可能だと分かっていても……。

2020年1月4日土曜日

映画「皇帝ペンギン」を観て

2005年にフランスで制作された映画で、コウテイペンギンの1年間の生活を描いたドキュメンタリー映画です。
 ペンギンは、主に南極大陸に生息する鳥の一種で、飛ぶことはできませんが、海中をまるでイルカのように巧みに泳いで餌をとります。コウテイペンギンは、地球の最も南部に生息し、ペンギンの中では体が最も大きく、体長は100-130cm、体重は20-45kgに達するそうです。このペンギンは、産卵し、ヒナを育てるため、何百キロも移動して厳寒の氷の上で何カ月も何も食べずに子育てに励みます。なぜこんな厄介なことをするのかは知りませんが、-60度の酷寒の地では、天敵に襲われる心配がないからでしょう。

 映画は、子孫を残すためのコウテイペンギンの1年間の戦いを描いています。映画でのコウテイペンギンは、ナレーションで擬人化されているため、変な言い方ですがヒューマニズムに溢れており、大変面白く観ることができました。地球上のあらゆる生命や自然は大変神秘的であり、感動的です。コウテイペンギンのあの姿や行動は、生存していくための進化の結果であろうと思います。とはいえ、この種の映画を観ていつも最後に思うのは、やはり一番不思議なのは人間です。デカルト風に言うならば、こういうことに不思議だと思っている自分が不思議です。他の動物は、決して不思議だとは思わないでしょう。

2020年1月1日水曜日

「渡来の古代史」を読んで

上田正明著 平成25年 角川選書
 「帰化人」とか「渡来人」という言葉を、私は大した区別もせず、何となく使用していましたが、この言葉には長い論争の歴史がありました。帰化とは、本来中華思想にもとづくもので、文明の低い地域の人が中華の文明に帰順し、その国の法と秩序を受けている人だそうです。だとするなら、当時日本よりはるかに高い文明をもつ中国や朝鮮の人々が移り住むことを「帰化」と呼ぶことはできないし、第一当時の日本には帰化できるような国家も法秩序も存在しませんでした。「帰化」という言葉をさかんに使ったのは「日本書紀」だそうで、日本第一主義というイデオロギーを掲げようとしていたようです。
 第二次世界大戦後、戦前の皇国史観への反省もあって、本書の著者などを中心に「帰化人」という表現を避けるようになりました。こうした意見について、日本を貶めるものとの批判もありましたが、こうした批判は逆に日本を貶めているように思います。先進的な文明を積極的に受け入れつつ、独自の文明を生み出していった日本の古代の人々を讃えるべきだと思います。当時最先端の中国の文明でさえ、何千年もかけて様々な文明を融合して形成されていったものなのです。
 本書を含め最近では「渡来人」という表現が用いられており、本書では渡来人が日本の古代国家の形成にいかに大きな役割を果たしたかを述べています。私は知りませんでしたが、本書の著者は渡来人についての研究の第一人者だそうです。