カティンの森
2007年にポーランドで制作された映画で、カティンの森事件と呼ばれる大量虐殺事件を描いています。なお、かつてポーランドなどは東欧と呼ばれていましたが、東欧という呼称は、かつてソ連の衛星国だった国々に用いられた表現であるため、今日ではポーランド、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどは、中欧と呼ばれています。ただし、中欧の範囲は、明確ではありませんし、中東欧という言い方もあるようです。
6世紀頃から、現在のポーランドのあたりの広大な平原地帯に、スラヴ人が住むようになります。ポーランドの国名の「ポルスカ」は、野原を意味する「ポーレ」に由来するとされています。10世紀に彼らは国家を形成するようになり、それ以後、西のドイツ(ドイツ騎士団・プロイセン)とロシアに攻め込まれたり攻め込んだりを繰り返し、その領土は膨張したり縮小したりを繰り返します。そして18世紀の後半に、ポーランドはロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリアにより分割され、地上から消滅してしまいます。19世紀に入って、ナポレオン戦争後ポーランドは復活しますが、事実上ロシアの支配下に置かれていました。
1918年に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約で民族自決に基づいてポーランドの独立が承認され、1920年には対ソ干渉戦争の名目でポーランド軍はソ連領に侵入し、ソ連領の一部をポーランドに併合します。しかし、1930年代にドイツでナチス政権が成立すると、ドイツはポーランド侵略への野心を強め、これに脅威を感じたポーランドはイギリスやフランスと同盟を結びました。東側のソ連とは、ポーランドは国境問題で対立していましたが、ドイツとソ連が対立していましたので、ポーランドは緩衝地帯となっていました。ところが、1939年8月に突如独ソ不可侵条約が締結され、その秘密協定でドイツとソ連によるポーランド分割が約束されていました。かくして、9が1日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、17日にはソ連軍がポーランドに侵攻します。
映画はここから始まります。ドイツ軍に追われた人々が東に向かい、ソ連軍に追われた人々が西に向かい、両者が途中で遭遇して大混乱に陥ります。ソ連軍が占領した地域は、第一次世界大戦後にポーランドが占領した地域であり、スターリンはあの時の屈辱を決して忘れませんでした。そしてソ連軍は、占領地域にいたポーランド人の将校や知識人たちを捕虜としてソ連に連行し、1万数千人を殺害したとされます。殺害は複数の場所で行われ、通称カティンの森と呼ばれる地域は、その一つでした。映画は、殺害される人々や、その家族の苦しみを描いています。
一体何故、ソ連はこうした捕虜を殺害したのでしょうか。ソ連は、ポーランドのこの地域を恒久的に支配するつもりでしたから、反ロシアの指導者になる可能性のある人々を、予め排除しようとしたとのことです。またこの時期に多くのポーランド人がシベリアに強制移住させられますが、同じ頃、ソ連極東に住む高麗人(朝鮮人)を中央アジアに強制移住させますが、スターリンは民族意識というものに極度に警戒していたようです。そして同じ頃、ポーランドのドイツ占領地域では、ユダヤ人に対する徹底的な虐殺が行われました。当時ポーランドには300万人のユダヤ人が住んでいたとされますが、現在では数千二しか残っていないそうです。その多くが虐殺されたか、アメリカやイスラエルに亡命したようです。
いわゆるカティンの森事件が起きたのは1940年ですが、翌年にドイツが突然ソ連に侵入して、独ソ戦争が始まります。やがてドイツ軍はカティンの森で大量の死体が埋められているのを発見し、ドイツはこれをソ連の残虐行為として大々的に宣伝し、ソ連はこの虐殺をドイツの行為として反論します。さまざまな証拠から、この虐殺行為がソ連によるものであることは明らかでしたが、連合国の首脳たちは、重要な同盟国であるソ連と対立するわけにはいかず、ソ連の主張を受け入れました。第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の衛星国となりますので、ポーランド政府はソ連の主張を受け入れるしかありませんでした。ソ連が事実を公表したのは、冷戦終結後の1990年のことでした。
一方、第二次世界大戦においてソ連は戦勝国でしたので、ソ連が1939年に占領した土地はポーランドに返還されず、代わりに西方でドイツの領土を削ってポーランドに与えられました。つまり、ポーランドの領土は西方へ大きく平行移動した分けです。そしてその後もポーランドでは、ソ連の衛星国としての苦難の時代が続くことになります。
ワレサ 連帯の男
2013年にポーランドで制作された映画で、ポーランドの民主化に大きな役割を果たしたワレサの半生を描いています。監督はワイダで、彼は1980年に「鉄の男」というタイトルでワレサを描いており、前の「カティンの森」の監督でもあります。この映画「ワレサ」が制作された頃には、彼は90歳近くになっていました。
第二次世界大戦後、ポーランドはソ連軍の占領下で社会主義国家となっていきます。ポーランドの多くの人々は、長い間ロシアの支配を受けて来たし、1939年のソ連軍の侵入とカティンの森事件などで、ソ連による支配に強い抵抗があったと思いますが、圧倒的なソ連の軍事力の前にどうすることもできませんでした。また西側諸国も、ソ連のやり方に不満をもっていましたが、現実にポーランドを軍事支配しているのはソ連軍でしたので、どうすることもできませんでした。
ソ連の統制下にあるポーランドの政府は、共産主義の独裁とソ連型の計画経済を導入しますが、やがて経済は破綻し、特に食糧価格が高騰すると、各地で暴動が発生しますが、武力によって鎮圧されます。1970年に政府が食糧価格を大幅に値上げすると、各地で反対運動が激発し、グダニスクの造船所でもストライキが始まります。ここでワレサが登場します。彼はグダニスク造船所の電気工で、当時まだ27歳くらいでしたが、胆の据わった人物で、当時ストライキ委員として人々から信頼されていました。
映画は、1980年にワレサが独立自主管理労働組合「連帯」を創設した後に、イタリアの高名な女性ジャーナリストであるオリアナ・ファラチが、ワレサの自宅を訪問してインタビューをするところから映画は始まります。彼には6人の子供がおり、狭いアパートに住んでいました。今やワレサは世界的な有名人となっていましたが、それは多分にジャーナリズムによって生み出されたものでした。かつて、ソ連に反抗するユーゴスラヴィアのチトーが西側の英雄だったように、ワレサは反社会主義のシンボルのように報道されました。しかし、チトーの実像が独裁者であったのに対し、ワレサは電気工であり、夫であり、6人の子の父でした。
1981年に政府は戒厳令をしき、反政府勢力は弾圧され、自由は極度に制限され、ワレサも一時軟禁されました。1983年にノーベル平和賞を受賞しますが、本人は受賞式に出席できず、妻が代理で出席します。1985年にソ連でゴルバチョフが書記長となり、東欧の自由化を容認し、その結果1989年に議会選挙で「連帯」が勝利します。そして映画はここで終わります。映画は、ポーランドの政治の動きとワレサの家庭や行動を淡々と描いています。彼は高邁な思想や理念をもった英雄としてではなく、自分の意志を守り通した普通の人間として描かれます。彼の妻も大変でした。時々逮捕され、時々失業する夫を支えるため自ら働き、6人もの子供を育て、狭いアパートに押し寄せる人々にうんざりしていますが、それでも最後までワレサを支えました。
1990年にワレサは大統領に当選しますが、その後は政治から離れ、電気工に戻ったり、いろいろな組織と関わったりして過ごしているそうです。彼はまだ73歳で、私とあまり年齢が変わりませんが、私と同じように、悠々自適の生活を送ってもらいたいものです。