2015年1月31日土曜日

映画でアメリカを観る(3)

風と共に去りぬ

 1939年にアメリカで制作された映画で、当時としては画期的なカラー技術による映画であり、世界的なヒット作となりました。原作はマーガレット・ミッチェルで、彼女の著書は本作のみで、続編を書くよう要請されましたが、本作は完結されているとして、続編を書きませんでした。















舞台となったのは、1860年代のジョージア州で、ミッチェルが生まれ育った場所です。ジョージア州は、1732年にイギリスの13植民地の最後の植民地として設立され、当時の国王ジョージ2世に因んでジョージアと名付けられました。19世紀に入ると奴隷制綿花プランテーションが発展し、ジョージアでは人口の半分以上が黒人で、そのほとんどが奴隷という異常な状態でした。そして、イギリスの産業革命にともなう綿織物工業の発展により、ジョージアを含む南部は空前の活況を呈しました。地主たちは、18世紀のフランス貴族風の生活を模倣し、パーティーに明け暮れ、無為で、虚飾に満ちた生活をしていました。南部では、こうした繁栄が半世紀ほど続いたのですが、それは南北戦争によって、まさに風と共に去っていった分けです。

また、この映画とは直接関係ありませんが、ジョージア州ではもう一つの大きな問題が存在しました。ジョージア州には、チェロキーなど農耕民のインディアンが住んでおり、かなり文明化していました。しかし土地開拓を望む白人たちによる圧迫が、しだいに強まっていきます。さらに1829年に金鉱が発見されると、白人はチェロキーの土地に殺到します。そして、ここでジャクソンが登場します。彼は、貴族生まれでない最初の大統領としてアメリカ民主主義の象徴のように言われますが、彼はチェロキーなどインディアンの大量虐殺を行って土地を奪った人物で、南部では英雄とされています。そのジャクソンは、1830年にインディアン移住法を制定し、1835年に数万人のインディアンを西部へ強制移住させます。そして彼らが去った後に、広大な綿花畑が作られることになります。1835年といえば、アミスタッド事件の4年前であり、これもまたアメリカのもう一つの側面なのです。

南北戦争の原因については、ここでは深入りしません。もちろん奴隷制の問題が南北の対立の大きな要因ではありましたが、北部と南部とでは経済構造が違いすぎ、しかも南部は時代から取り残されてしまっていました。奴隷労働によって蓄えられた富は、時代錯誤的な貴族生活に浪費され、経済的に北部に差を付けられてしまいました。しかも南部の人々は、これまた時代錯誤的な騎士道精神を掲げて、北部の近代的な兵器に立ち向かったのです。したがって、この戦いの勝敗は最初からついていたのです。
この映画については、あまりにもよく知られているので、ここでは簡単にしか触れません。前半はジョージア州の大農場経営者の娘スカーレット・オハラの恋愛と南北戦争の勃発、後半は戦争の敗北と再建時代の苦難を描いています。一言で言えば、それは旧き良き南部への郷愁であり、黒人奴隷に対する同情はまったく認められません。それどころか原作では、人種問題や奴隷制の描写について問題になる部分が多くあったため、映画ではそのような箇所は省かれ、登場人物についても何人かの黒人奴隷が省略されています。それでも映画で描かれた黒人は、善良で、少し間抜けで、少しずる賢く、白人の下で働いていることが幸せであるかのように描かています。実際にミッチェルの著書やこの映画には、「奴隷制度を正当化し、白人農園主を美化している」傾向があり、これ対しては、強い批判があります。

ジョージア州では、南北戦争後も黒人に対する強い差別が残ります。そして1960年代にキング牧師が登場し、このジョージアから、黒人差別を撤廃する公民権法の制定を求める運動を開始することになります。

グローリー

1989年にアメリカで制作された映画で、アメリカ南北戦争において実在したアメリカ合衆国初の黒人部隊を描いています。
 南北戦争は、南部11州が合衆国から離脱して、アメリカ連合国を樹立したことから始まりました。戦争は、工業力や人口の差から考えても、初めから北部が有利でしたが、それでも北部は苦戦しました。というのは、南部はこの戦いに勝つ必要がなかったからです。南部は、南部を中心に合衆国を統一しようとしている分けではなく、単に合衆国から離脱しようとしているだけでしたから、北から攻めてくる北軍を撃退すればよかったのですが、北部は北部を中心に合衆国の統一を目指していましたので、南部を軍事的に制圧する必要がありました。しかし北部には、南部を制圧するための大義がありませんでした。そうした中で、合衆国の政権内部に奴隷解放という人道的な目的を大義に掲げようとする動きが形成されてきました。こうした政策の一環として、黒人部隊が創設される分けです。
 主人公のロバート・グルード・ショーは、マサチューセッツ州ボストンの大金持ちの家に生まれ、父は著名な奴隷解放論者でした。ロバートは、ハバード大学を中退後、1861年に第7ニューヨーク歩兵連隊に入隊し、186124歳の時南北戦争が勃発し、ワシントン攻防戦で従軍します。彼は士官学校を出たわけではなく、この30日間の攻防戦が唯一の実戦経験でした。その後父より、1862年に全黒人連隊「第54マサチューセッツ歩兵連隊」の指揮官になるように求められます。志願した黒人の多くは北部の自由黒人でしたが、南部からの逃亡奴隷も含まれており、彼らを訓練するには困難を極めました。
 18631月にリンカーン大統領は奴隷解放宣言を発布します。本来奴隷解放は州の問題であり、大統領に権限がありませんが、リンカーンは合衆国憲法がねじ曲がってしまう程憲法を拡大解釈しました。しかし、この宣言で解放された奴隷は、当面一人もいませんでした。北部には奴隷はいないし、南部はこのような宣言を無視するし、奴隷州のうち北部に加わっていた州には、この宣言は適用されませんでした。ただ、イギリスなど奴隷制に反対していた国々が、アメリカに好意を寄せるようになるという、外交的な効果は大きかったようです。そして18637月にゲティスバーグの戦いで北軍が勝利し、戦局は北軍に有利に傾いていきます。
 一方、黒人部隊は肉体労働ばかり課せられ、戦闘に参加させてもらえません。さらに、白人兵士より黒人兵士の方が給料が安いことが判明し、怒ったロバートは給与受取書を破棄して抗議します。また白人兵士からも、色々嫌がらせを受けました。しかしついに、サウスカロライナ州の難攻不落のワグナー砦の攻撃を命じられました。すでに、白人部隊が何度も試みて多大の犠牲を出している場所です。この戦いで黒人部隊はよく戦いましたが、結局要塞を落とすことはできず、兵士の半分以上が死に、ロバートも戦死しました。彼の体には7発の銃弾が貫通していたとのことです。26歳でした。
 南軍の兵士は、ロバートを侮辱するため、彼の遺体を黒人兵の遺体と一緒に埋葬しました。それを聞いたロバートの父は、そのような埋葬の仕方は、ロバートにとって名誉である、と述べたと言われています。そしてこの戦いでの黒人兵の活躍は、他の黒人に影響を与え、18万の黒人が兵士として志願し、北軍の勝利に大きく貢献しました。

 映画では、ロバートと黒人兵との対立や心の触れ合いが描かれ、大変感動的でした。もちろんこれで黒人問題が解決したわけではありません。南部では、黒人に対してテロ行為が行われたり、黒人に参政権を与えるのを拒否したり、さらに白人用の学校や黒人用の学校などを区別するなど、アパルトヘイトが行われます。北部にも人種差別は根強く残っていきます。1964年に公民権法が制定され、人種差別が禁止されますが、それでもなお差別は残り、特に経済格差が拡大しています。しかし、オバマ大統領が、アフリカ系アメリカ人として大統領になったということは、差別の解消に少しは貢献することになるでしょう。

 なお、ここでは、「黒人」という表現を使っています。本来なら「アフリカ系アメリカ人」という表現を使うべきですが、当時の時代背景を考えて、あえて「黒人」という表現を使いました。

ロード・トゥ・ヘブン

1997年にアメリカで制作されたテレビ用の映画で、南北戦争前後における二人の女性の生き方を描いた映画です。この映画は、本来3時間の長編ですが、日本語版は2時間に短縮されているため、時々話の繋がりが分からなくなります。また、日本語版のタイトルは「ロード・トゥ・ヘブン」と英語風に書いていますが、実際のタイトルは「True Women」です。どこから「ロード・トゥ・ヘブン」というタイトルが出てくるのか、全然分かりません。

映画は、ジョージア州に住む仲の良い二人の少女フィミとジョージアの友情から始まります。しかしフィミは父が死んだため、姉夫婦のいるテキサスへ送られます。一方、ジョージアは奴隷を多く抱える富裕な農場主の娘でしたが、祖母がインディアンで、4分の1の混血でした。そしてこの頃、ジョージア州に白人が殺到し、インディアンは迫害され、1835年にオクラホマに強制移住されたことについては、前に触れました。実は、オクラホマに送られたのはジョージア州のインディアンだけでなく、北米のすべてのインディアンが組織的に送り込まれたのです。こうした風潮の中で、ジョージアは肩身の狭い思いをしながらも、強く成長していきます。

一方、フィミが送られたテキサスは、動乱の時代でした。テキサスやカリフォルニアはもともとスペインの領土でしたが、1821年にメキシコが独立すると、メキシコ領となります。メキシコは、テキサスやカリフォルニアでのアメリカ人による入植を認めていましたが、やがてメキシコはアメリカ人の入植が増えすぎたことを危惧するようになり、一方アメリカ人の入植者たちはメキシコが奴隷制を禁止していることに不満をもっていました。こうした中で両者の対立は決定的となり、1836年にテキサス軍がアラモの砦に立て籠もると、これをメキシコの大軍が包囲し、アラモの砦が陥落します。
しかしその後もテキサスとメキシコとの争いは続き、結局メキシコは同年にテキサスの独立を認めたため、ここにテキサス共和国が成立することになります。ところが1845年にアメリカがテキサスを併合したため、アメリカ・メキシコ戦争が勃発し、結局メキシコは1848年にテキサスやカリフォルニアをアメリカに割譲し、これによってメキシコは領土の半分を失うことになります。結局は、テキサスもカリフォルニアも、アメリカがメキシコから強奪した分けです。そして、この1848年にカリフォルニアでゴールドラッシュが始まり、これがアメリカの西部開拓と経済の発展に大きく貢献したことは、言うまでもありません。
この間に、テキサスはインディアンとの戦いに明け暮れていました。テキサスはコマンチ族の領土でしたが、そこへ白人の移民が殺到したため、コマンチ族が白人を襲うようになった分けです。フィミたちはインディアンを心底憎んでいましたが、彼女には自分たちに責任があることが分かっておらず、インディアンを冷酷な野蛮人としか思っていませんでした。そこへ、医師と結婚したジョージアがテキサスに移住し、奴隷制に基づく綿花農場を開きます。フィミは奴隷制に反対しており、またジョージアがインディアンとの混血であるという拘りもあったのでしょう、あれ程仲のよかったジョージアと対立するようになります。しかしフィミには分かっていませんでした。たとえ自分の奴隷を解放しても、奴隷たちはまた売られるだけであり、むしろ当時の状況では自分が所有する奴隷たちを人道的に扱うことが精一杯であるということを。
そうした中で、1861年に南北戦争が勃発し、二人の夫たちは出征します。このようにテキサスは、メキシコとの戦い、インディアンとの戦い、南北戦争など、戦争に次ぐ戦争でした。そうした中でフィミは女性が政治に発言権を持つべきだと考え、婦人参政権運動を行うようになり、ジョージアを運動に誘います。フィミもジョージアの立場を理解するようになったのです。こうして二人は仲直りしますが、やがてジョージアは病死します。そして臨終の床で、彼女はインディアンの子孫であることに誇りをもって死んでいきます。


この映画は、短縮されているため話が繋がらず、焦点がどこにあるのかよく分かりませんでした。それでも、南部における白人・黒人・インディアンの関係が、それぞれの立場で描かれており、大変興味深い映画でした。特にジョージアは、白人・インディアン・黒人の接点にある女性であり、当時の南部の複雑さを象徴する女性として描かれているように思われました。

ダンス・ウィズ・ウルブズ

1990年にアメリカで制作された映画で、白人兵士とインディアンとの交流を描いたものです。インディアンという言葉はインド人という意味であり、コロンブスの誤解から生まれた表現で、中南米の先住民はスペイン語でインディオと呼びます。本来これらは、アメリカ先住民とか、ネイティブ・アメリカンと呼ぶべきかもしれませんが、ここでは北米の先住民一般を、とりあえずインディアンと呼ぶことにします。「とりあえず」と言ったのは、北米だけでも極めて多くの部族があり、インディアンからすれば白人もこれらの部族の一つでしかなく、本来は個別の部族名で呼ぶべきですが、便宜上インディアンと総称して呼ぶということです。
かつて西部劇と呼ばれる映画が、大変流行した時代がありました。こうした映画は、主に1860年代から90年代の西部開拓時代を描いた映画で、開拓者魂を持つ白人のヒーローが悪者である白人の無法者や先住民と対決するという勧善懲悪のアクション映画です。そこでは、インディアンは常に悪者で、事実とかけ離れた出鱈目なインディアン像が描かれていました。これに対して、この映画はスー族の風習を比較的正確に再現し、スー族の方言の一つダコタ語を用い、白人が自然を荒らすのに対し、スー族が自然と調和して生きる高潔な人々として描き出しています。
この映画の原作は、白人を批判しているため販売を拒否されていましたが、俳優のケビン・コスナーが、彼自身インディアン(チェロキー)の血を4分の1引いていたこともあって原作に共感し、映画化に踏み切ります。彼は映画の製作に私財の大部分を投じ、自ら監督と主役を引き受けました。結果は大好評で、ゴールデングラブ賞やアカデミー賞を受賞するなど、ケビン・コスナーの監督としての手腕も評価されることになりました。


この映画は南北戦争末期の1865年から始まり、場所は南北戦争の激戦地となったテネシー州です。北軍のダンバー中尉は、自分が生きている社会に馴染めず、ほとんど自殺的な囮作戦を実行しますが、皮肉にも成功して自軍を勝利に導きます。その褒美として好きな任地を選ぶことが許されたため、彼は誰も行きたがらないフロンティアに転任することを求めます。彼が向かったのは、サウスダコタ州にある最前線の砦です。
















サウスダコタ州は中西部にある州で、グレートプレーンズ(大平原)にあり、「ダコタ」という名前はインディアンのスー族の一つダコタ族の言葉「ダコタ(仲間)」に由来します。グレイトブレーンズとは、ノースダコタ州からテキサス州にかけて縦に貫く大草原で、ロッキー山脈から流れる河川によって肥沃な土地を形成しています。この地域の西の端はロッキー山脈なので、東から移動してくる人々にとっては、この地域が開拓の最前線ということになります。そしてサウスダタは、このグレイトブレーンズの一部を形成します。
この地域は、フランスの植民地ルイジアナの一部でしたが、1803年にアメリカが購入し、アメリカ領となります。この頃スー族がこの地域に進出し、バッファロー狩りを生活の基盤としていました。彼らは騎馬民族でしたが、もともとアメリカ大陸に馬はいません。スペインがメキシコに連れてきた馬が逃亡して野生化し、グレートプレーンズで増殖し、それを先住民が捕獲したものです。この地域はスー族の領域でしたが、しだいに入植者が増え、1855年にはアメリカ軍の砦が建設され、1858年にはスー族との条約によって東部の大半がアメリカに割譲されました。これが、ダンバーが訪れた頃のサウスダコタの状況です。
荒野の真っ只中に小屋のような最前線の砦があり、ダンバーは愛馬シスコとともに、たたった一人で暮らし始めました。また周りをうろつく一匹の狼とも仲良くなり、じゃれあっていました。時々インディアンが様子を見に来ますが、インディアンも、たたった一人で暮らす変な白人をどうすべきか、困っていました。そこで、彼の方からインディアンに会いに行くことにしました。言葉はなかなか通じませんでしたが、かれは次第にインディアンの生活に真の人間らしさを見出していきます。さらに、彼はインディアンのバッファロー狩りに参加し、その勇壮な狩りに魅せられます。インディアンにとって、それは決して虐殺ではなく、生活の糧を得るための神聖な行為でした。
部族の中に一人の白人女性がいました。彼女は5歳の時に他のインディアンに襲われて家族全員を殺され、一人で泣いているところをスー族に救われ育てられました。彼女は英語をほとんど覚えていませんでしたが、片言の英語でデンバーとの通訳をしていました。やがて二人は愛し合うようになって結婚し、彼もスー族とともに暮らすようになります。スー族は、それぞれの特徴を示す名前をつけます。例えば「蹴る鳥」「風になびく髪」などで、白人女性は「拳を握って立つ女」です。村の意地悪な女を、拳で殴ったことからこの名がつけられたそうです。そしてダンバーは「狼と踊る男(ダンス・ウィズ・ウルブズ)」と名付けられました。こうして彼は、初めて心安らかに生きることのできる場を見出したのです。
彼はスー族にアメリカ軍が攻めてくることを伝え、村人とともに冬の陣地に籠ることになりましたが、その前に砦にスー族のことが書かれた日記を取りに戻りました。ところが陣地には軍隊が来ており、彼は裏切り者として処刑されることになります。彼はインディアンによって救出されますが、自分が一緒にいればインディアンが襲われると考え、妻とともに村を去って行きます。
 
映画はここで終わりますが、その後のスー族の運命は悲惨でした。1874年にスー族の領域で金鉱が発見されると、白人が殺到し、軍隊はスー族を虐殺します。さらに、アメリカはスー族の組織的な壊滅を図ります。スー族は狩猟民族で、草原に野生するバッファローを狩って生計を立てていましたが、アメリカ人はこのバッファローを皆殺しにしてしまいます。こうして生活の基盤を失ったスー族は、居留地に閉じ込められて衰退していきます。
 なお、この映画ではスー族の風習をできる限り正確に再現しようとしていますが、限界があったようです。映画に出演しているインディアンさえダコタ語を知らないため、ダコタ語を理解する人物によって特訓をうけます。ところが、ダコタ語は日本語と同様、男性語と女性語があり、ダコタ語の指導員が女性だったため、出演者たちは女性語で演技を行ったわけです。後で、ダコタ語の分かるスー族たちがこの映画を見た時、スー族の族長たちが女性語を話していたので、大笑いしたというエピソードが残っています。



2015年1月28日水曜日

「パナマ地峡秘史」を読む



ディヴィド・ハワード著(1966)、塩野崎宏訳、リブロポート出版(1994) 
著者のディヴィド・ハワードは、もともとイギリスのテレビジョン開発の技師でしたが、第二次大戦中に従軍記者として活躍し、そのご著述業に転向したそうです。著者がどのようしてパナマ運河に関心を抱いたかは分かりませんが、どちらかというと冒険好きな性格だったことから、ただ掘り進むだけの退屈なスエズ運河の歴史より、波乱に満ちたパナマ運河の歴史に関心をもったようです。なお、著者には、その他にも多方面にわたる多くの著書があるそうです。
本書には「夢と残虐の四百年」という副題がついており、ヨーロッパ人が到来してから現代に至るまでのパナマ地峡の歴史を扱っています。古くはコロンブスがアジアへの道を求めて地峡の沿岸部を探索し、1513年にはバルボアが地峡を横断しました。すでにこの段階で、バルボアは地峡に運河を建設する必要性を考えていたそうです。確かに、アメリカ大陸が南北13千キロもあるのに対し、真ん中での幅が65キロしかないことを考えれば、誰でもここに運河を作りたくなるのは当然です。
この地域は、メキシコとペルーとカリブ海を結ぶ要衝であったため、多くの人々がこの地域に関わりました。その過程で先住民は密林の奥に避難し、そこで孤立したまま、ほぼ現在に至るまで存続しているとのことです。そして19世紀末期にパナマ運河の建設が始まります。これを指揮したのが、スエズ運河を建設したレセップスですが、彼は海面式の運河にこだわったため挫折し、破産し、詐欺罪で有罪となります。やがてアメリカが運河会社を買収し、着工するわけですが、本書ではこのあたりの事情が生き生きと描き出されています。
運河の建設は1881年に始まり、一時中断がありましたが、1914年に終了します。その工事は、技術的な問題というより、マラリアと黄熱病との戦いでした。この過程で、この二つの病気の原因の研究と治療法が大いに進展したそうです。そして19148月に開通しますが、その1か月前に第一次世界大戦が始まっていたため、祝賀行事は行われませんでした。
いずれにしても、本書は、全体に大変面白く、面白すぎて本当だろうかと疑ってしまう程です。

 なお、ニカラグアにパナマ運河の規模をはるかに上回る規模の運河建設の計画が進められています。問題は、この計画を香港の企業が請け負ったということです。中国政府は一切関わっていないと主張していますが、それはあり得ないことだと思います。近年、中国の首脳が頻繁に中南米諸国を訪問し、中南米での中国の影響力が増大しつつある中で、もしこの運河が完成したら、アメリカは喉元と裏庭=カリブ海を中国に抑えられることになります。最近オバマ大統領がキューバとの国交回復を実現しようとしていますが、その背景には、もはやキューバと争っている場合ではないという、切迫した事情があるのだと思います。


私の書棚に、中南米に関するまだ読んでいない本が30冊近くあり、それを片っ端から読み、その都度関心を抱いたものを、このブログで紹介しました。これですべてを読み終わり、多分今後中南米に関する本を読むことはないと思います。


2015年1月23日金曜日

映画でアメリカを観る(2)

アメイジング・グレイス

2007年にイギリスで、奴隷貿易廃止200周年記念して制作された映画で、18世紀末から19世紀初頭にかけて、奴隷制度廃止に生涯をかけたウィルバーフォースの半生を描いた映画です。映画のタイトルの「アメイジング・グレイス(すばらしき恩寵)」とは讃美歌のタイトルで、奴隷船の船長だったジョン・ニュートンがその非道さに目覚め、やがて牧師となり、この讃美歌を作詞しました。自分のような非道な人間でも、神は許してくださった、ということです。
すばらしき神の慈しみよ 
なんと美しい響きか
こんな悪人までも救って下さった
道をはずれた私を見つけてくださった
見えなかった目も、今は開かれた
 奴隷制度は、世界の多く場所で、あらゆる時代に行われてきました。奴隷制度や奴隷貿易については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第21章 大西洋三角貿易」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html)を参照して下さい。特に、18世紀を中心におよそ300年間にわたって行われた奴隷貿易は、人類の歴史上まれに見る非道な行為でした。この間にヨーロッパ人は、アフリカ大陸から1千万人前後とされるアフリカ人を強制的に連れ出したのです。これ程の非道な行為は、単に資本主義的な利潤の追求ということだけでは、説明し切れないものがあるように思います。
 ウィルバーフォースは富裕な商人の家に生まれ、1771年にケンブリッジ大学に入学して、ここでウィリアム・ピットと出会います。ピットは名門政治家の家に生まれ、14歳でケンブリッジ大学に入学し、1783年に24歳で首相となるという記録破りの秀才でした。誰もが、ピット首相は半年もたないと思っていましたが、実に17年間彼は首相の地位を守りました。一方、ウィルバーフォースはすでに21歳の時に国会議員になっており、学友であるピットに側近になるよう求められたのですが、この頃ウィルバーフォースは信仰に目覚め、聖職者になることを望んでいました。しかし、ジョン・ニュートンらが政治の世界に留まって奴隷貿易廃止に尽力するよう説得したため、以後彼は奴隷貿易廃止のために生涯を捧げることになります。ジョン・ニュートンは言います。
 名前を思い出したい、私といる2万人の亡霊の
全員名があった、美しいアフリカの名前が
だが我々は彼らを名前でなど呼ばなかった
我々が猿で、彼らが人間だった
 1790年に彼は奴隷貿易廃止の法案を提出し、あっさり否決されますが、以後彼は毎年法案を提出し続けます。そして方案を通過させるために、あらゆる手段を用います。例えば、奴隷貿易の実態を証明してその非人道性を訴え、議員たちの中にはそれに共感する人々も増えてきました。しかしここで民主主義の欠点が露呈されます。個々の議員個人としては、奴隷制を廃止すべきだと思っても、彼らを選んだ有権者の多くは奴隷貿易で利益を得ていたため、賛成票を投じることができないということです。つまり衆愚政治です。
 しかし社会が少しずつ変化しつつありました。第一に奴隷需要の増加のため奴隷価格が高騰し、逆に奴隷労働による農業生産量の増大のため、産物価格が低下し、奴隷制度はしだいに利益が減少していきました。それと同時に、当時イギリスで始まっていた産業革命は自由な労働力を基盤とするものであり、奴隷制とは相容れませんでした。この間、フランス革命やナポレオン戦争、そしてハイチでの黒人国家の成立などがあり、さらに1806年にピットが二度目の首相在任中に病死します。そして1807年、奴隷貿易廃止法案は圧倒的多数で可決されます。最初にこの法案が提出されてから、17年ぶりのことです。
 ドラマはここで終わりますが、その後もウィルバーフォースは奴隷制の廃止のために活動を続け、1824年からは病床につきますが、1833年に奴隷制廃止法案が成立し、その3日後に彼は死亡します。これで、イギリスに関しては奴隷制問題はなくなりますが、皮肉にもちょうどこの頃、アメリカ南部では奴隷制の綿花プランテーションが最盛期を迎えていました。

 アメリカ合衆国の独立後、北部の州では奴隷解放が進められましたが、奴隷主は解放前に南部の地主に奴隷を売却したため、南部に多くの奴隷が移送させられます。また19世紀の初めにアメリカでも奴隷貿易の禁止が行われましたが、抜け穴が多く、相変わらず奴隷の輸入が続いていました。ただ全体としては、奴隷を内部で再生産する方向に向かいます。そして奴隷労働によって生産された綿花はイギリスに輸出され、その綿花を原料として機械で大量の綿布を生産したイギリスは、世界の工場と呼ばれるまでに繁栄します。結局、イギリスでの奴隷制の廃止は、奴隷制をアメリカに遷しただけに終わり、相変わらずイギリス経済は、場所は異なるとはいえ、奴隷制を基盤としていたわけです。
 とはいえ、ウィルバーフォースによる奴隷制廃止の叫びには真摯なものであり、長い目で見れば、19世紀の半ば頃には世界的に奴隷制が廃止されていくことになります。



コブラ・ヴェルデ―緑の蛇

1987年に西ドイツで制作された映画で、前に述べた映画「アギーレ」(「映画で古代アメリカを観る」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/09/1963-1000-10-3000-3000-900-900-400-400-a.html)と、監督も主役も同じでした。どちらも、何を言おうとしているのかよく分からない映画でしたが、どちらも画面から目を離せない強烈さがありました。

 19世紀の初めに、ブラジルに「コブラ・ヴェルデ(緑の蛇)」と名乗る山賊がおり、彼は人々から恐れられていました。やがて彼は農園の奴隷の管理のために雇われますが、農園主の3人の娘と関係をもって妊娠させたため、アフリカでの奴隷購入を口実としてアフリカに追放されてしまいます。彼が送られたのはアフリカの西海岸で、かつて奴隷海岸と呼ばれた地域で、当時そこにはダホメ王国が栄えていました。ここは、現在のベナン共和国にあたります。





ダホメ王国は17世紀に成立し、奴隷貿易で繁栄しました。王は軍隊を率いて周辺を征服して住民を拉致し、それを奴隷としてポルトガル商人に売り、代わりに銃などの火器を手に入れ、それを用いてさらに征服を行います。一般に、白人が内陸部に入って現地人を拉致するというイメージがありますが、白人は海岸の港で待っているだけで、現地人が連れてくる奴隷を購入するだけです。このことを理由に、白人には責任がないと主張する人がいますが、買い手がいなければ奴隷狩りなどしませんので、白人の罪が軽減されることは全くありません。内陸部における奴隷の取引は古くから行われており、一般的には奴隷はそれ程悲惨な生活を強いられる分けではありませんが、白人に売却されると悲惨な結果になるわけです。
 ところで、ハイチに連れて行かれた奴隷は、この地方の出身者が多く、ハイチ独立運動の指導者トゥサン・ルヴェルチュールの祖父はダホメ王国の首長で、その子が奴隷としてハイチに連れてこれら、その結果トゥサンがハイチで生まれたわけです。トゥサンについては、このブログの「カリブ海を読む ブラック・ジャコバン」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/10/blog-post_21.html)を参照して下さい。ダホメ王国出身の奴隷を通じて、今でもベナンで信仰されているヴォドゥンという信仰がハイチに伝えられ、これがカトリックなどと習合して、ブードゥー教が生まれました。ブードゥー教はハイチから世界各地に伝わり、今日では、日本でもマスコットとしてブードゥー人形が広く知られています。
 話しを元に戻しますが、1818年にダホメ王国で政変がありました。ゲソという王子がクーデタを起こし、兄(あるいは叔父)である王を倒して自ら王となります。これは史実であり、はっきりしませんが、この映画は、この時のダホメ王国を舞台にしているようです。映画では、王子がコブラ・ヴェルデに支援を求めます。結局クーデタは成功し、コブラ・ヴェルデは副王に任じられ、多くの奴隷も提供されます。まさにブラジルの山賊が、副王にまでのし上がったのです。しかし、各国で奴隷貿易が廃止されるようになると、彼のような奴隷貿易商人は目障りとなり、さらにダホメ王国にとっても彼は無用の長物となります。その結果、彼は海岸から小舟で脱出しようとしますが果たせず、砂浜に倒れて映画は終わります。
 ところで、この時代にダホメ王国は、4千人の女性軍団を擁していました。なぜ女性軍団なのかよく分かりませんが、これは事実です。映画では、半裸の多数の女性が戦闘訓練を受けている場面が映し出されますが、それが何を意味しているのか分かりません。ただ、映像には卑猥なイメージはなく、むしろバイタリティーに溢れていました。さらに、最後に何人かの女戦士が微笑みながらリズミカルに歌を歌いますが、私には彼女たちの微笑みに、ぞっとするような侮蔑感が秘められているように思われました。しかも、猿のような異様な姿をしたアフリカ人障害者(多分先天的な奇形)が、浜辺に倒れるコブラ・ヴェルデを、哀れそうに見つめています。ところが、それが妙に美しい。この映画は、一体何なんでしょうか。この映画の監督ヘルツォークは、神話的で土俗的な生命力を追求してきた人だそうで、その意味ではある程度納得できる映画ではありました。この映画の最後の場面で、「奴隷たちは主人を売り払い翼を手に入れる」という字幕がでますが、奴隷貿易の終末を暗示しているようです。


 この映画はアメリカとは直接関係ありませんでしたが、かつて繁盛を極めた奴隷商人という「生物」が、どの様なものなのかを知ることができました。「アメイジング・グレイス」のジョン・ニュートンのように心から懺悔する人や、コブラ・ヴェルデのように破滅していく人は、まだましだと思います。むしろ、何の疑いももたずに奴隷貿易を行い、それによって富を蓄積し、まったく良心の痛みを感じることなく豊かな生活を続ける人の方が、恐ろしいと思います。


マンディンゴ

 1975年にアメリカで制作された映画で、奴隷の再生産を行っている農場での物語です。時代は19世紀前半、南北戦争が始まる20年前で、場所はルイジアナです。






































 ルイジアナは、もともとミシシッピー川流域にあるフランスの植民地で、北米のほぼ中央にあります。その名称は、フランスの国王ルイ14世に因んでつけられたものです。このルイジアナの存在は、アメリカ人が西へ進む際の大きな障害となっていましたが、19世紀の初めにナポレオンがこの植民地をアメリカに売却したわけです。ただし、今日のルイジアナ州はミシシッピー川の河口地帯にある州のことです。
 一方、18世紀の末頃から、アメリカ南部で奴隷を用いた大規模な綿花プランテーションが発展します。ところが、綿花を同じ土地で長く栽培すると地味が枯渇してしまうそうで、そのため新しい土地を求めて西へ西へと移動していきます。そうしたなかで、ルイジアナでも綿花のプランテーションが発展することになります。ところが、この頃イギリスが奴隷貿易を廃止し、アメリカも奴隷貿易を規制するようになったため、奴隷が高価になってきました。18世紀に栄えたカリブ海の砂糖農場では、奴隷は使い捨てで、徹底的に酷使されて23年で死ぬのが普通でした。奴隷を大事に使って長生きさせるより、死ねば新しい奴隷を買う方が効率的だったのです。しかし19世紀に入って奴隷が高価になると、奴隷を内部で再生産するようになります。主人が女奴隷を犯し、子供が生まれることはごく普通にあることですが、生まれた子供は奴隷となります。また組織的に奴隷に子供を産ませて奴隷を再生産し、売買することもあったようです。
 映画では、農場の若い跡取りが、没落した名家の娘と結婚しますが、彼は美しい黒人女性に魅かれ妊娠させます。怒った妻は、妊娠した奴隷を階段から突き落として流産させ、さらに腹いせに黒人と関係をもって黒人の子供を出産します。怒った夫は、妻を毒殺するとともに、妻と関係をもった奴隷を沸騰する釜に放り込んで殺してしまいます。
 ところで、タイトルのマンディンゴというのは、西アフリカのニジェール川流域にすむ種族で、13世紀から15世紀頃まで高度な文明を築いたマリ帝国の子孫だそうで、彼らは体格が立派で壮健なのだそうで、いわば奴隷を再生産するための「種馬」として珍重されていました。そして妻を妊娠させた奴隷が、このマンディンゴ人だったのです。また、妻の殺害に使った毒薬は、年老いて役に立たなくなった奴隷を殺すための毒薬だそうです。農場では、種付けの話や毒殺の話、奴隷の売り買いの話が日常的に交わされます。中には、24人もの子供を生み、子供たちは全て奴隷として売られた女性もいました。
 人間を交配させて、奴隷を再生産するなどということは、想像するだけでもおぞましいことです。しかも白人が黒人女性に生ませた子供を、奴隷として売却するなど、「神をも恐れぬ」行為です。こうした中で生きていれば、人間の心が荒廃していくのは、当然だろうと思います。実は、主人公の妻は、少女時代に実の兄に犯され、そのトラウマを背負っていました。すべてが狂っていたのです。


この映画はあまり評判がよくなく、確かに多少低俗な感じがしないでもありませんが、アメリカ人はアメリカの恥部ともいうべきこうした醜悪な映画を見たくなかったのだと思います。この映画の少し後に、連続テレビドラマとして「ルーツ」が放映され、大変な反響を呼びお越しましたが、この映画に比べたら「ルーツ」は生ぬるい感じがします。もちろん奴隷主によっては、やさしい人物もおり、比較的幸福に一生を送ることができた奴隷もいたでしょう。また、当時のアメリカの奴隷の生活は、同じ時代にイギリスで長時間労働を強いられていた子供たちよりましだったという人もいます。しかし問題はそういうことではなく、19世半にアメリカ南部で行われていた奴隷制度のシステムが、「悪魔的」だったという点にあるのではないかと思います。


AMISTAD(アミスタッド)

1997年にアメリカで制作された映画で、監督は前に述べた「シンドラーのリスト」(「映画でヒトラーを観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)のスピルバーグで、史実に基づいています。

 主人公のシンケは、西アフリカの現在のシェラレオネに住んでおり、村ではライオンを倒した男として英雄と言われていました。ところが、1839年に突然拉致され、鎖に繋がれ、奴隷船に乗せられました。そしてキューバで「アミスタッド」に乗り換えますが、皮肉にもこの船の名が「友情」という意味でした。



























 映画では、航海中に食糧が不足していることが判明し、100人程いた黒人が錘を付けて海に沈められるという場面もあります。船がスペインの植民地であるキューバ沖を航行中、シンケは鎖を外すことに成功し、仲間の鎖も外して反乱を起こし、船を操縦させるために二人の船員を残して他の船員を殺し、故郷に返すように命じます。ところが二人の船員は、黒人たちをだまして北上し、ニューヨーク沖合まで航行し、ここでアメリカ船に拿捕されます。こうして、世に言う「アミスタッド号事件」が始まります。
 問題は黒人たちをどうするかということですが、国際問題もからんで非常に複雑でした。アメリカはすでに奴隷貿易を禁止していますが、奴隷制は維持されており、南部では奴隷制の綿花プランテーションが繁栄しています。つまりアメリカの奴隷はアメリカ生まれでなければならないのです。もしシンケたちが直接アフリカから連れてこられたのなら、奴隷貿易禁止に違反するため、アフリカに帰さなければなりません。ところが、生き残った二人の船員は、キューバの奴隷が船を襲って乗っ取ったのだから、船も奴隷も自分たちの所有物だと主張し、さらにスペインの女王(当時9)は大統領に手紙を書き、船も奴隷もスペインの所有物だからスペインに引き渡せと要求します。一方南部の人たちにとって、奴隷をアフリカに帰すということは奴隷制の根幹を揺るがすため猛反対し、内戦も辞さない覚悟でした。そして当時のアメリカでは大統領選挙戦の真っ最中で、再選を目指す当時の大統領は、南部の支持を得たいことと、スペインとの外交問題もあって、シンケたちをアフリカに帰すことに反対していました。
 こうした中で、奴隷制に反対する人々は、ボールドウィンという若い弁護士を雇い、法廷闘争に持ち込みます。問題の焦点は、彼らが直接アフリカから連れてこられたかどうかなのですが、シンケたちの言語がまったく分からないため、意思の疎通ができません。そこでボールドウィンは言語学者に頼んで、シンケたちから1から10までの言葉を聞き出し、その言葉を黒人が多く集まる場所で大声で叫んで歩き、この言葉が分かる人物を探し回ります。そしてついにその人物が見つかりました。ボールドウィンは、彼を通訳としてシンケたちがアフリカ生まれであることを証明し、裁判所はこれを認め、シンケたちをアメリカの費用でアフリカに帰すことを決定します。
 ところが、南部の反発を恐れた大統領が、最高裁に上訴します。最高裁の判事の多くは奴隷の所有者であり、シンケたちをアフリカに帰すことを認めるはずがありません。万事休すです。そして、ここでアダムズが弁護士として登場します。彼は元大統領であり、彼の父は第2代大統領です。大統領としてのアダムズはさしたる業績を上げていませんが、ワシントンやジェファソン以来の建国の精神を引き継いでいました。そして彼は、最高裁の法廷で最高の弁論を展開します。
 今までの論争では、シンケたちが誰の所有物かということが問題の焦点であり、シンケたちは「物」として扱われていました。しかしアダムズは、彼らを「人間」として扱います。アダムズは、突然拉致された彼らが自由を得るために鎖を解き、乗組員を殺したのは、建国の祖たちが自由を得るためにイギリスと戦ったのと同じではないか、と主張します。法廷にはワシントンを初めとする建国の祖たちの胸像が飾られており、アダムズは裁判官たちに、「自由のために」という建国の祖たちの精神を忘れるな、と主張します。結局、最高裁はシンケたちの解放を決定します。
 この事件が起きたのは、前に述べた「マンディンゴ」と同じ時代です。アメリカという国には、「マンディンゴ」で見たようなおぞましいアメリカが存在すると同時に、つねに良心のアメリカも存在しているようです。人々はすぐに建国の精神を忘れ、信じられないような非道を平気で行いますが、いつも土壇場で良心に目覚め、建国の精神を思いだし、歪んだ軌道を修正するようです。そしてこの事件は、奴隷解放への出発点となるとともに、南北戦争への出発点ともなっていきます。
 シンケたちは故郷に帰りましたが、村はなくなっていました。おそらく、皆奴隷に売られたのだと思われます。その後のシンケの消息については、まったく分かりません。シンケは奴隷商人になったという噂も流れましたが、真偽は不明です。

なお、事件の経過が非常に複雑であるため、主人公であるシンケについて触れることができませんでした。映画では、シンケは非常に聡明で、指導力のある人物として描かれています。

2015年1月17日土曜日

映画でアメリカを観る(1)

1492 コロンブス

1992年、コロンブスの大西洋横断500周年を記念して、スペインで制作されました。1492年は、アメリカ大陸というヨーロッパ人にとっての未知の世界を手に入れたという意味で運命の年であり、同時にヨーロッパ人の侵略を受けた先住人にとっても運命の年でした。もちろん、コロンブスの大西洋横断は、アメリカ合衆国の建国とは直接関係がありませんが、しかしコロンブスがいなければ、合衆国の建国もありえないことです。なお、コロンブスの航海の背景については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第16章 「交易の時代」()(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/16.html)を参照して下さい。

かつてはコロンブスの業績については、「新大陸発見」という表現が用いられました。しかしアメリカ大陸は「新大陸」ではなく、はるか昔から存在しており、そこには「発見」されるはるか前から先住民が住んでおり、彼らは高度な国家や文明をもっていました。先住民は、我々がヨーロッパ人を「発見」したのだと言っています。したがって「新大陸発見」という言葉は、あまりにもヨーロッパ中心的な発想ということになります。これに対して「大西洋横断」という言葉が使われましたが、すでに10世紀にはヴァイキングがアメリカ北東部に植民していた証拠があります。したがって、「初めて」という意味ではコロンブスの「大西洋横断」は使用できません。こうしてコロンブスの権利はしだいに剥奪され、近年では「大西洋航路の開拓」という言葉も用いられますが、「初めて」という意味をもたせなければ、彼が「大西洋横断」したことは事実ですから、ここではこの言葉を用います。
映画では、コロンブスが西回り航路の航海のため、教会や王室などの説得に奔走します。当時地球が球体であることは常識となりつつありましたので、西へ行けばアジアに到達することは明白でしたが、問題はその距離です。コロンブスが主張した距離は、古典的な学説の4分の1程度で、6週間でアジアに到達できるというものです。当時すでにポルトガルのバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達しており、インドへの到達は目前に迫っていました。しかしこの航路の場合、インドまで1年近くかかります。もしコロンブスの主張が正しければ、大変魅力的な提案ということになります。


映画では、最初にコロンブスが自己の主張を説明して回りますが、しかしコロンブスの主張は、完全に間違っていました。今日から見れば、ヨーロッパから大西洋を越えてアジアに至る距離は、途方もない距離で、当時の帆船で渡れる距離ではありません。しかし幸運にも、その間に未知の大陸であるアメリカ大陸が存在していた分けです。彼の主張では6週間でアジアに到達できるはずでしたが、実際にはその倍以上かかり、しかも到達したのはアジアではなく未知の大陸でした。アジアに到達するには、さらに広大な太平洋を越えなければなりませんでした。コロンブスは、古典的学説に固執する頑迷な学者たちを激しく非難しましたが、結果的には古典的学説の方が正しかったわけです。コロンブスは、「万人の同意が人類の進歩を促したことはない。人より先に目覚めた者は、それがために苦難の道を歩む」と書き残しているそうですが、今日から見れば少し陳腐な感じがします。
 しかし、彼が結果的とはいえアメリカ大陸に到達したことの意義は、計り知れないほど大きなものです。まづ第一に、先住民にとっては破滅的な意味をもちました。コロンブスがサン・サルヴァドル島に到達した1012日は、アメリカ合衆国の記念祝日である「コロンブス・デー」ですが、それはインディアンにとっては「白人による侵略開始の日」に他ならなりません。1992年の「コロンブス500年祭」に、「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」とまで言われました。
 とはいえ、彼の航海がアメリカ大陸をユーラシア大陸やアフリカ大陸を結びつけ、世界の一体化を促す決定的な一歩であったことは、間違いありません。その過程は悲惨極まりないものであり、その後遺症は今日も深くアメリカ大陸やアフリカ大陸に刻まれていますが、コロンブスのほとんど蛮勇ともいえる冒険により、善きにつけ悪しきにつけ、グローバリゼーションは決定的に第一歩を踏み出すことになりました。

コロンブスは、スペインのパロマ港を出港し、まずカナリア諸島を経由して、バハマ諸
島のサン・サルヴァドル島に到達します。大西洋は極端に島の少ない海で、途中立ち寄れる場所がまったくありませんでした。その後コロンブスは、イスパニョーラ島(ドミニカ島)に拠点を置き、1493年に一旦帰国し、同年に第2回の遠征を行いす。第1回は3隻の船に100人程度でしたが、第2回は17隻の船に1500人を伴って出発します。第1回の遠征では、期待した黄金が手に入らなかったため、第2回の遠征では黄金探しに狂奔します。コロンブスは、先住民すべてに金をもってくるように強要し、金が少ない者に対しては手首を切り落とさせます。これに対して先住民は激しく反抗しますが、コロンブスは徹底的な虐殺と弾圧を行い、多くの先住民が虐殺と飢えとヨーロッパ人がもたらした疫病により死んでいきました。
 映画でもこうした場面が描かれていますが、あくまでもコロンブスの知らない所で、部下が勝手にやったことになっており、少しコロンブスを美化しすぎているように思います。また、ヨーロッパ人は、先住民の言語を決して覚えようとはせず、先住民の何人かに自分たちの言葉を覚えさせ、通訳としました。つまり初めから先住民と溶け込んで、ともに暮らすつもりはまったくなく、ただ征服を目指していただけでした。次に見る「ニュー・ワールド」でも、白人はポカホンタスに英語を学ばせ、通訳としました。日本や中国に来たヨーロッパ人たちは、決してそのようなことはなく、日本や中国の言語や習慣に適応しようとしました。この違いは、どこから生まれるのかよく分かりません。
映画では、最後にコロンブスが「新世界」を築くことを夢見ていたことになっていますが、すでにアメリゴ・ヴェスプッチが大陸であることを確認していたにも関わらず、コロンブスは最後までそれがアジアだと信じ続けていましたので、コロンブスに「新世界」の形成などという夢があったとは思えません。

過去にコロンブスについての本を何冊か読みましたが、彼についてよくかいている本はあまりなかったように思います。もちろんそこには、コロンブスに対する過去の過剰な賞賛を修正する意図があったと思いますが、この映画ではコロンブスを美化しすぎているように思われました。500周年の記念映画なので、当然のことではありますが。

ニュー・ワールド

2005年のイギリス・アメリカの合作映画で、アメリカ合衆国の建国神話のようなものです。

アメリカ大陸全体は、理屈の上ではブラジル以外はスペインの植民地ということになりますが、スペインも北米までは手が回らず、その隙を突いてフランス・イギリス・オランダなどが進出しようとしていました。例えば、カナダはフランスの植民地となるし、ニューヨークはオランダの植民地となります。そしてイギリスは、オランダと同様に北米の東海岸に進出していきます。その出発点となったのが、この映画の舞台となったバージニア州でした。










 すでに16世紀末にイギリス人は北米中部の東海岸に植民を試みましたが、失敗に終わります。彼らが植民を試みた地域は、当時のエリザベス女王が未婚だったことに因んでバージニアと名付けられました。1607年に104名の植民者がジェームズ川より50キロ程遡った所に植民地を築きました。この土地は、当時の国王の名に因んでジェームズ・タウンと名付けられました。これが北米におけるイギリスの最初の植民地です。すでに、コロンブスが大西洋を横断してから、115年経っています。そして、この植民地の指導者がジョン・スミスという人物で、彼は相当なしたたか者でした。彼は16歳で家出し、一時はフランスの傭兵としてスペインと戦い、さらにハンガリーの傭兵としてオスマン帝国と戦うという、いわば戦争屋でした。その後各地を転々としたのち、なぜか北米の植民地開拓の指導者として登場します。この時スミスは27歳でしたから、そうとうしたたかな人生を歩んできたと言えます。
 イギリス人が入植した当時のバージニアには、ポウハタン族を中心に30部族、約8千人の先住民が住んでいたとされます。ポウハタンの意味はよく分かりませんが、ニューヨークにあるマンハッタンのハタンと共通の意味があるようです。いずれにせよ、当初先住民はイギリス人に友好を示し、食糧などを援助しましたが、それでも食糧不足とマラリアのため半年後に入植者は38人にまで減ってしまいました。そのためスミスは、船で先住民の村を襲い、食糧を掠奪してまわります。こうして、イギリス人と先住民との長い戦いが始まりますが、その過程でスミスは負傷して1609年にイギリスに帰ります。結局スミスは、先住民を襲い、土地を掠奪して入植地を拡大するという、その後のアメリカの「発展」のモデルを創り出したわけです。
 映画では、スミスが先住民に捕らえられ処刑されそうになった時、酋長の娘ポカホンタスが命乞いをし、やがて二人は愛し合うようになります。ただし、この話は15年も後にスミスが著書に書いたことで、事実としてはありえません。当時ポカホンタスは10歳そこそこでした。その後も戦いは続き、1612年にイギリス人はポカホンタスを拉致して人質とし、先住民に食糧を要求します。そしてイギリス人はポカホンタスに英語を学ばせ、キリスト教の洗礼をうけさせ、さらに1614年にタバコ栽培で成功したジョン・ロルフと結婚させられ、子供を産みます。映画では、こうしたことをポカホンタスが自主的に行ったことになっています。

 1616年に彼女は夫ともにイギリスに連れて行かれ、国王に謁見させられます。彼女の訪問は、「インディアンの王女様」「イギリスと先住民の架け橋」「イギリス人を助けた良いインディアン」などとして、センセーションを巻き起こします。しかしこれは仕掛けられたセレモニーでした。バージニア植民地の経営が芳しくなく、入植者も少なかったため、このセレモニーで入植者の増加を図ったのです。その思惑は成功しましたが、ポカホンタスは帰国直前の1617年に病気で死去します。23歳でした。

その後ポカホンタスの物語は、アメリカの建国神話となり、さまざまな話が創作され、ロマンチックな物語へと変貌していきます。彼女の肖像画が沢山描かれましたが、上の絵が彼女がイギリスに来た時に制作された銅版画で、下の絵は19世紀に描かれたものです。下の絵は、肌も白く、髪の毛も茶色で、どう見ても白人です。この絵の変遷が、ポカホンタスに対する白人の気持ちをよく表しているとおもいます。野蛮で残虐なインディアンの中で、彼女は「よいインディアン」であり、「白人文明の理解者」ということになり、インディアンを殺戮し、彼らの土地を掠奪した白人たちの行為を覆い隠す神話となっていったのです。要するに事実なのは、ロルフと結婚し、子を産み、国王に謁見したということだけです。










  実は、ポカホンタスの子はロルフの子ではなく、彼の上司の子だったようです。その辺の事情について具体的なことは分かりませんが、いずれにしてもロルフはポカホンタスの死後幼児を残してバージニアに帰ってしまいます。そしてタバコ・プランテーションの経営に成功し、後の奴隷制プランテーションのモデルを生み出します。一方、ポカホンタスの子孫は、アメリカの建国にまで遡る随一の名家となり、この血筋に繋がることは名誉なこととなりました。ブッシュ前大統領も、この血筋を引いているとのことです。
 その後バージニアは、黒人奴隷によるタバコ・プランテーションで繁栄し、独立戦争では中心的な役割を果たします。そしてワシントンやジェファソンなど合衆国建国当初の多くの偉人たちが、このバージニアから排出されることになります。

 このブログの「グローバル・ヒストリー 第20章 イギリスの形成」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/20.html)で、この映画に触れており、そこで私は「この物語は実話である」と述べていますが、半分間違っていました。あの文章を書いた段階で、私はこの映画が実話に基づいていると思っていました。事実を知ってしまうと、幾分腹立たしい映画ではありますが、建国神話として観れば、それなりに美しい映画ではありました。


緋文字

1972年に制作された西ドイツ・スペイン合作で、映画で話されている言葉はドイツ語です。
 17世紀前半のイギリスでは、国教会は腐敗していたため、宗教を浄化しようとする清教徒=ピューリタンの運動が高まりますが、彼らは厳しい弾圧を受けていました。そして、ピューリタンの中でも最も過激な人々、つまり聖書に書かれていること以外は何も信じない人々は、アメリカに聖書に基づく楽園を建設することを夢見、イギリスからアメリカに渡ります。彼らが植民した場所は、彼らが出発したイギリスの港プリマスに因んで、ニュープリマスと名付けられます。彼らはピルグリム・ファーザーズ=巡礼始祖と呼ばれる人々で、バージニアとは別の意味でアメリカの建国神話となった人々です。







 この地域は、前に述べたジョン・スミスが、バージニアを去った後に探検した場所であり、彼はこの地域全体をニューイングランドと名付けていました。バージニアに入植した人々は一獲千金を夢見る人々で、地道に農業を行うことを嫌い、金を捜したり、プランテーションの経営を行いましたが、ニューイングランドに移住した人々は、地上に神の国を再現することを夢見た人々でしたので、禁欲的で勤勉でした。この地域に住んでいたインディアンも友好的で、作物の作り方を教えてくれました。しかし、ここでも白人の人口が増えてくると、インディアンとの対立が激化していきます。
 この映画は、19世紀のアメリカの作家ホーソーンの「緋文字」を映画化したものです。場所はボストンに近いセイラムで、時代は17世紀後半です。セイラムは現在のダンバースで、現在でも人口25千人程度の町ですから、当時は人口数百人程度の町だったと思われます。この町に、胸に「A」という緋文字(スカーレットレター)をつけた女性がいました。「A」とは姦通(adultery)を意味します。彼女の名はヘスター・プリンで、7年前に姦通により女の子を生んだため、胸にこの文字をつけてさらし者にされているのです。ところが彼女に卑屈さはなく、また父親の名前を決して言おうとしません。
 実は父親はこの町の牧師であり、彼女に緋文字をつけた本人でした。彼は良心の呵責に苦しめられ、何度も町の人々に事実を打ち明けて贖罪しようとするのですが、どうしてもできません。プリンは彼に町を出ようと説得し、いよいよ町を出ることになったのですが、当日彼は町の人々の前で自白し、そのまま倒れてしまい、結局彼女は娘と二人で町を去ります。
 私は、原作を読んでいないので、この映画が何を言おうとしているのか、よく分かりませんでした。それにアメリカ人原作の本を、まだ分裂時代のドイツとフランコ独裁政権下のスペインが制作するというのも、奇妙な組み合わせに思われます。そのせいか、内容に統一性がないように思われ、映画としては駄作の部類に入るのではないでしょうか。「緋文字」については、1995年アメリカ制作でデミ・ムーア主演の映画があり、こちらの方を見たかったとおもいます。
この映画の舞台となった時代は、最初の移民が来てからまだ450年しか経っておらず、移民の第一世代の人々がまだ生きていると思われ、信仰に満ちた理想の世界を作ろうと、ひたすら努力していた時代でした。それは聖書にのみ生きる基準を求めるというもので、当時に人々の心を抑圧するものでした。この映画は、当時のそうしたニューイングランドを描いたものと思われます。

 こうした抑圧された社会において、17世紀の末に、このセイラムで重大事件が起きます。それはセイラム魔女裁判事件と呼ばれるものです。町の何人かの娘たちが、突然狂乱状態となり、町に魔女がいることを告発し、これをきっかけに次々と魔女として訴えられた人々が逮捕・拷問されました。その結果、200名近い人々が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に死亡、5名が獄死するという異常事態となります。しかしまもなく娘たちの証言を疑問視する人々が現れ、事態を知った州知事が裁判の停止を命令し、収監者を釈放して事件は収束しました。1996年のアメリカ映画「グルーシブル(るつぼ)」は、これをテーマとした映画で、私はこれをテレビで放映されたものを観ました。
こうした事件が起きた背景は、ピューリタン社会独特の抑圧による集団ヒステリーがきっかけではないかと思われますが、この映画もこの様な事件が起こりうるような当時の社会を描き出しています。実はホーソーンも、このセイラムの出身で、彼の祖先はこの裁判に関わった人物だったそうです。彼は本書を通じて、聖書の言葉の形式的な実行に対する批判、罪悪とは何か、神の赦しはあるのか、そういったことを問いかけているのだと思います。
 
 南部のバージニアと北部のニューイングランドとでは、あまりに大きな違いがあります。しかしやがて、成り立も性格も経済も全く異なるこれらの地域が、アメリカ合衆国として一つの国を造っていくことになります。

パトリオット
2000年制作のアメリカ映画で、アメリカ独立戦争を背景とするドラマです。アメリカ独立戦争に関する映画は以外にも少なく、日本で公開されているのは、この映画だけではないかと思います。

















舞台となったのは、サウスカロライナで、時代は独立戦争が始まった1776年です。サウスカロライナの植民がはじまったのは17世紀後半で、ここにはスペインも進出してきていたため、正式に植民地となったのは18世紀に入ってからです。「カロライナ」というのは、当時の国王チャールズ2世のラテン名「カルロス」からきているそうです。サウスカロライナでは、早くから奴隷を用いた農場経営が行われ、独立戦争勃発時には黒人奴隷の人口が白人人口を上回っていました。したがって独立戦争では、低地で大規模な農場経営を行っている人々は独立に反対で、イギリス軍に加わったのに対し、奥地で小規模の農場経営を行う人々は独立に賛成で、彼らはパトリオット(愛国者)と呼ばれ、この映画の主人公マーティンもこうした人々の一人でした。
アメリカの独立戦争の背景については、このブログのくー「グローバル・ヒストリー 第21章 大西洋三角貿易(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html) 」「グローバル・ヒストリー 第22章 イギリス-覇権国家への道(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/22.html)」を参照して下さい。独立戦争はマサチュセッツ州のボストン近郊で始まり、翌年には独立宣言が発布されます。当時、北米の東海岸には13のイギリス植民地があり、植民地によってそれぞれ対応の仕方が異なります。サウスカロライナでは、低地の富裕層がイギリスに味方し、植民者と争っていたインディアンや解放も求める黒人奴隷もイギリス側に立ちました。それに対して、奥地の農民たちは独立を求めて戦いますが、敗北を重ねていました。そうした中で、マーティンが登場します。
マーティンは、フランスとの戦いで英雄になった人物で、植民地の独立を支持していましたが、同時に二度と戦わないという決意をしていました。しかし長男が父の意志に反して独立軍に入り、さらにイギリス軍が農園にも侵入し、次男が殺され、家も焼かれます。こうした中で、マーティンは戦うことを決意し、民兵を集めてイギリス軍に対してゲリラ戦を展開します。しかし、戦争の過程で長男が死に、長男の妻とその家族も殺されます。これに対してマーティンは、イギリスの正規軍に対して阿修羅のごとく戦って勝利し、アメリカ合衆国が成立することになります。
この映画は、全体に偽善的で、歴史的にはあまり学ぶべきものがありませんでした。そもそもこの映画は、日本人が出資し、ドイツ人が監督を務め、オーストラリア人(メル・ギブソン)が主役という、奇妙な組み合わせで生まれた映画でした。そして、イギリス軍が悪、植民地軍が善という、勧善懲悪がはっきりした映画で、最後にアメリカの独立と自由の獲得という栄光で終わります。しかし、インディアンを殺戮して土地を奪い、黒人を奴隷として働かせておきながら、「独立と自由」などということが言えるのでしょうか。しかも、インディアンの殺戮と黒人奴隷制は、その後も一層盛んに行われます。
また、イギリス人が民間人を殺害し、家を焼き、民間人を教会に閉じ込めて焼き殺すといった場面も描かれ、マーティンは激しい怒りを感じますが、これはかつてアメリカがベトナムで行ったことと同じではないでしょうか。さらに奴隷制度に関しては、戦争中にワシントン司令官が、独立軍で戦った奴隷を解放すると宣言します。そして戦後、若干奴隷解放への動きが見られますが、結局アメリカでは、19世紀に史上最悪の奴隷制度が行われることになります。こうしたことを考えると、この映画は素直に観ることができない映画でした。
ただ、この映画は、アクション映画として観るならば、それなりに面白い映画ではあります。ネル・ギブソンは、これより前にスコットランド独立の英雄を描いた「ブレイブ・ハート」という映画に出演しており、これは見応えのある映画でした。「パトリオット」も、「ブレイブ・ハート」とよく似たタイプの映画でした。それにしても、独立戦争に関する映画が、こんなに少ないのは何故なのでしょうか。