1992年、コロンブスの大西洋横断500周年を記念して、スペインで制作されました。1492年は、アメリカ大陸というヨーロッパ人にとっての未知の世界を手に入れたという意味で運命の年であり、同時にヨーロッパ人の侵略を受けた先住人にとっても運命の年でした。もちろん、コロンブスの大西洋横断は、アメリカ合衆国の建国とは直接関係がありませんが、しかしコロンブスがいなければ、合衆国の建国もありえないことです。なお、コロンブスの航海の背景については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第16章 「交易の時代」(2)」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/16.html)を参照して下さい。
かつてはコロンブスの業績については、「新大陸発見」という表現が用いられました。しかしアメリカ大陸は「新大陸」ではなく、はるか昔から存在しており、そこには「発見」されるはるか前から先住民が住んでおり、彼らは高度な国家や文明をもっていました。先住民は、我々がヨーロッパ人を「発見」したのだと言っています。したがって「新大陸発見」という言葉は、あまりにもヨーロッパ中心的な発想ということになります。これに対して「大西洋横断」という言葉が使われましたが、すでに10世紀にはヴァイキングがアメリカ北東部に植民していた証拠があります。したがって、「初めて」という意味ではコロンブスの「大西洋横断」は使用できません。こうしてコロンブスの権利はしだいに剥奪され、近年では「大西洋航路の開拓」という言葉も用いられますが、「初めて」という意味をもたせなければ、彼が「大西洋横断」したことは事実ですから、ここではこの言葉を用います。
映画では、コロンブスが西回り航路の航海のため、教会や王室などの説得に奔走します。当時地球が球体であることは常識となりつつありましたので、西へ行けばアジアに到達することは明白でしたが、問題はその距離です。コロンブスが主張した距離は、古典的な学説の4分の1程度で、6週間でアジアに到達できるというものです。当時すでにポルトガルのバルトロメウ・ディアスがアフリカ最南端の喜望峰に到達しており、インドへの到達は目前に迫っていました。しかしこの航路の場合、インドまで1年近くかかります。もしコロンブスの主張が正しければ、大変魅力的な提案ということになります。
映画では、最初にコロンブスが自己の主張を説明して回りますが、しかしコロンブスの主張は、完全に間違っていました。今日から見れば、ヨーロッパから大西洋を越えてアジアに至る距離は、途方もない距離で、当時の帆船で渡れる距離ではありません。しかし幸運にも、その間に未知の大陸であるアメリカ大陸が存在していた分けです。彼の主張では6週間でアジアに到達できるはずでしたが、実際にはその倍以上かかり、しかも到達したのはアジアではなく未知の大陸でした。アジアに到達するには、さらに広大な太平洋を越えなければなりませんでした。コロンブスは、古典的学説に固執する頑迷な学者たちを激しく非難しましたが、結果的には古典的学説の方が正しかったわけです。コロンブスは、「万人の同意が人類の進歩を促したことはない。人より先に目覚めた者は、それがために苦難の道を歩む」と書き残しているそうですが、今日から見れば少し陳腐な感じがします。
しかし、彼が結果的とはいえアメリカ大陸に到達したことの意義は、計り知れないほど大きなものです。まづ第一に、先住民にとっては破滅的な意味をもちました。コロンブスがサン・サルヴァドル島に到達した10月12日は、アメリカ合衆国の記念祝日である「コロンブス・デー」ですが、それはインディアンにとっては「白人による侵略開始の日」に他ならなりません。1992年の「コロンブス500年祭」に、「コロンブスは大西洋を横断した世界初の奴隷商人だ。コロンブスの前では、アドルフ・ヒトラーはまるでただの不良少年だ」とまで言われました。
とはいえ、彼の航海がアメリカ大陸をユーラシア大陸やアフリカ大陸を結びつけ、世界の一体化を促す決定的な一歩であったことは、間違いありません。その過程は悲惨極まりないものであり、その後遺症は今日も深くアメリカ大陸やアフリカ大陸に刻まれていますが、コロンブスのほとんど蛮勇ともいえる冒険により、善きにつけ悪しきにつけ、グローバリゼーションは決定的に第一歩を踏み出すことになりました。
コロンブスは、スペインのパロマ港を出港し、まずカナリア諸島を経由して、バハマ諸
島のサン・サルヴァドル島に到達します。大西洋は極端に島の少ない海で、途中立ち寄れる場所がまったくありませんでした。その後コロンブスは、イスパニョーラ島(ドミニカ島)に拠点を置き、1493年に一旦帰国し、同年に第2回の遠征を行いす。第1回は3隻の船に100人程度でしたが、第2回は17隻の船に1500人を伴って出発します。第1回の遠征では、期待した黄金が手に入らなかったため、第2回の遠征では黄金探しに狂奔します。コロンブスは、先住民すべてに金をもってくるように強要し、金が少ない者に対しては手首を切り落とさせます。これに対して先住民は激しく反抗しますが、コロンブスは徹底的な虐殺と弾圧を行い、多くの先住民が虐殺と飢えとヨーロッパ人がもたらした疫病により死んでいきました。
映画でもこうした場面が描かれていますが、あくまでもコロンブスの知らない所で、部下が勝手にやったことになっており、少しコロンブスを美化しすぎているように思います。また、ヨーロッパ人は、先住民の言語を決して覚えようとはせず、先住民の何人かに自分たちの言葉を覚えさせ、通訳としました。つまり初めから先住民と溶け込んで、ともに暮らすつもりはまったくなく、ただ征服を目指していただけでした。次に見る「ニュー・ワールド」でも、白人はポカホンタスに英語を学ばせ、通訳としました。日本や中国に来たヨーロッパ人たちは、決してそのようなことはなく、日本や中国の言語や習慣に適応しようとしました。この違いは、どこから生まれるのかよく分かりません。
映画では、最後にコロンブスが「新世界」を築くことを夢見ていたことになっていますが、すでにアメリゴ・ヴェスプッチが大陸であることを確認していたにも関わらず、コロンブスは最後までそれがアジアだと信じ続けていましたので、コロンブスに「新世界」の形成などという夢があったとは思えません。
過去にコロンブスについての本を何冊か読みましたが、彼についてよくかいている本はあまりなかったように思います。もちろんそこには、コロンブスに対する過去の過剰な賞賛を修正する意図があったと思いますが、この映画ではコロンブスを美化しすぎているように思われました。500周年の記念映画なので、当然のことではありますが。
ニュー・ワールド
2005年のイギリス・アメリカの合作映画で、アメリカ合衆国の建国神話のようなものです。
アメリカ大陸全体は、理屈の上ではブラジル以外はスペインの植民地ということになりますが、スペインも北米までは手が回らず、その隙を突いてフランス・イギリス・オランダなどが進出しようとしていました。例えば、カナダはフランスの植民地となるし、ニューヨークはオランダの植民地となります。そしてイギリスは、オランダと同様に北米の東海岸に進出していきます。その出発点となったのが、この映画の舞台となったバージニア州でした。
すでに16世紀末にイギリス人は北米中部の東海岸に植民を試みましたが、失敗に終わります。彼らが植民を試みた地域は、当時のエリザベス女王が未婚だったことに因んでバージニアと名付けられました。1607年に104名の植民者がジェームズ川より50キロ程遡った所に植民地を築きました。この土地は、当時の国王の名に因んでジェームズ・タウンと名付けられました。これが北米におけるイギリスの最初の植民地です。すでに、コロンブスが大西洋を横断してから、115年経っています。そして、この植民地の指導者がジョン・スミスという人物で、彼は相当なしたたか者でした。彼は16歳で家出し、一時はフランスの傭兵としてスペインと戦い、さらにハンガリーの傭兵としてオスマン帝国と戦うという、いわば戦争屋でした。その後各地を転々としたのち、なぜか北米の植民地開拓の指導者として登場します。この時スミスは27歳でしたから、そうとうしたたかな人生を歩んできたと言えます。
イギリス人が入植した当時のバージニアには、ポウハタン族を中心に30部族、約8千人の先住民が住んでいたとされます。ポウハタンの意味はよく分かりませんが、ニューヨークにあるマンハッタンのハタンと共通の意味があるようです。いずれにせよ、当初先住民はイギリス人に友好を示し、食糧などを援助しましたが、それでも食糧不足とマラリアのため半年後に入植者は38人にまで減ってしまいました。そのためスミスは、船で先住民の村を襲い、食糧を掠奪してまわります。こうして、イギリス人と先住民との長い戦いが始まりますが、その過程でスミスは負傷して1609年にイギリスに帰ります。結局スミスは、先住民を襲い、土地を掠奪して入植地を拡大するという、その後のアメリカの「発展」のモデルを創り出したわけです。
映画では、スミスが先住民に捕らえられ処刑されそうになった時、酋長の娘ポカホンタスが命乞いをし、やがて二人は愛し合うようになります。ただし、この話は15年も後にスミスが著書に書いたことで、事実としてはありえません。当時ポカホンタスは10歳そこそこでした。その後も戦いは続き、1612年にイギリス人はポカホンタスを拉致して人質とし、先住民に食糧を要求します。そしてイギリス人はポカホンタスに英語を学ばせ、キリスト教の洗礼をうけさせ、さらに1614年にタバコ栽培で成功したジョン・ロルフと結婚させられ、子供を産みます。映画では、こうしたことをポカホンタスが自主的に行ったことになっています。
1616年に彼女は夫ともにイギリスに連れて行かれ、国王に謁見させられます。彼女の訪問は、「インディアンの王女様」「イギリスと先住民の架け橋」「イギリス人を助けた良いインディアン」などとして、センセーションを巻き起こします。しかしこれは仕掛けられたセレモニーでした。バージニア植民地の経営が芳しくなく、入植者も少なかったため、このセレモニーで入植者の増加を図ったのです。その思惑は成功しましたが、ポカホンタスは帰国直前の1617年に病気で死去します。23歳でした。
その後ポカホンタスの物語は、アメリカの建国神話となり、さまざまな話が創作され、ロマンチックな物語へと変貌していきます。彼女の肖像画が沢山描かれましたが、上の絵が彼女がイギリスに来た時に制作された銅版画で、下の絵は19世紀に描かれたものです。下の絵は、肌も白く、髪の毛も茶色で、どう見ても白人です。この絵の変遷が、ポカホンタスに対する白人の気持ちをよく表しているとおもいます。野蛮で残虐なインディアンの中で、彼女は「よいインディアン」であり、「白人文明の理解者」ということになり、インディアンを殺戮し、彼らの土地を掠奪した白人たちの行為を覆い隠す神話となっていったのです。要するに事実なのは、ロルフと結婚し、子を産み、国王に謁見したということだけです。
実は、ポカホンタスの子はロルフの子ではなく、彼の上司の子だったようです。その辺の事情について具体的なことは分かりませんが、いずれにしてもロルフはポカホンタスの死後幼児を残してバージニアに帰ってしまいます。そしてタバコ・プランテーションの経営に成功し、後の奴隷制プランテーションのモデルを生み出します。一方、ポカホンタスの子孫は、アメリカの建国にまで遡る随一の名家となり、この血筋に繋がることは名誉なこととなりました。ブッシュ前大統領も、この血筋を引いているとのことです。
その後バージニアは、黒人奴隷によるタバコ・プランテーションで繁栄し、独立戦争では中心的な役割を果たします。そしてワシントンやジェファソンなど合衆国建国当初の多くの偉人たちが、このバージニアから排出されることになります。
このブログの「グローバル・ヒストリー 第20章 イギリスの形成」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/20.html)で、この映画に触れており、そこで私は「この物語は実話である」と述べていますが、半分間違っていました。あの文章を書いた段階で、私はこの映画が実話に基づいていると思っていました。事実を知ってしまうと、幾分腹立たしい映画ではありますが、建国神話として観れば、それなりに美しい映画ではありました。
緋文字
1972年に制作された西ドイツ・スペイン合作で、映画で話されている言葉はドイツ語です。
17世紀前半のイギリスでは、国教会は腐敗していたため、宗教を浄化しようとする清教徒=ピューリタンの運動が高まりますが、彼らは厳しい弾圧を受けていました。そして、ピューリタンの中でも最も過激な人々、つまり聖書に書かれていること以外は何も信じない人々は、アメリカに聖書に基づく楽園を建設することを夢見、イギリスからアメリカに渡ります。彼らが植民した場所は、彼らが出発したイギリスの港プリマスに因んで、ニュープリマスと名付けられます。彼らはピルグリム・ファーザーズ=巡礼始祖と呼ばれる人々で、バージニアとは別の意味でアメリカの建国神話となった人々です。
この地域は、前に述べたジョン・スミスが、バージニアを去った後に探検した場所であり、彼はこの地域全体をニューイングランドと名付けていました。バージニアに入植した人々は一獲千金を夢見る人々で、地道に農業を行うことを嫌い、金を捜したり、プランテーションの経営を行いましたが、ニューイングランドに移住した人々は、地上に神の国を再現することを夢見た人々でしたので、禁欲的で勤勉でした。この地域に住んでいたインディアンも友好的で、作物の作り方を教えてくれました。しかし、ここでも白人の人口が増えてくると、インディアンとの対立が激化していきます。
この映画は、19世紀のアメリカの作家ホーソーンの「緋文字」を映画化したものです。場所はボストンに近いセイラムで、時代は17世紀後半です。セイラムは現在のダンバースで、現在でも人口2万5千人程度の町ですから、当時は人口数百人程度の町だったと思われます。この町に、胸に「A」という緋文字(スカーレットレター)をつけた女性がいました。「A」とは姦通(adultery)を意味します。彼女の名はヘスター・プリンで、7年前に姦通により女の子を生んだため、胸にこの文字をつけてさらし者にされているのです。ところが彼女に卑屈さはなく、また父親の名前を決して言おうとしません。
実は父親はこの町の牧師であり、彼女に緋文字をつけた本人でした。彼は良心の呵責に苦しめられ、何度も町の人々に事実を打ち明けて贖罪しようとするのですが、どうしてもできません。プリンは彼に町を出ようと説得し、いよいよ町を出ることになったのですが、当日彼は町の人々の前で自白し、そのまま倒れてしまい、結局彼女は娘と二人で町を去ります。
私は、原作を読んでいないので、この映画が何を言おうとしているのか、よく分かりませんでした。それにアメリカ人原作の本を、まだ分裂時代のドイツとフランコ独裁政権下のスペインが制作するというのも、奇妙な組み合わせに思われます。そのせいか、内容に統一性がないように思われ、映画としては駄作の部類に入るのではないでしょうか。「緋文字」については、1995年アメリカ制作でデミ・ムーア主演の映画があり、こちらの方を見たかったとおもいます。
この映画の舞台となった時代は、最初の移民が来てからまだ4~50年しか経っておらず、移民の第一世代の人々がまだ生きていると思われ、信仰に満ちた理想の世界を作ろうと、ひたすら努力していた時代でした。それは聖書にのみ生きる基準を求めるというもので、当時に人々の心を抑圧するものでした。この映画は、当時のそうしたニューイングランドを描いたものと思われます。
こうした抑圧された社会において、17世紀の末に、このセイラムで重大事件が起きます。それはセイラム魔女裁判事件と呼ばれるものです。町の何人かの娘たちが、突然狂乱状態となり、町に魔女がいることを告発し、これをきっかけに次々と魔女として訴えられた人々が逮捕・拷問されました。その結果、200名近い人々が魔女として告発され、19名が処刑され、1名が拷問中に死亡、5名が獄死するという異常事態となります。しかしまもなく娘たちの証言を疑問視する人々が現れ、事態を知った州知事が裁判の停止を命令し、収監者を釈放して事件は収束しました。1996年のアメリカ映画「グルーシブル(るつぼ)」は、これをテーマとした映画で、私はこれをテレビで放映されたものを観ました。
こうした事件が起きた背景は、ピューリタン社会独特の抑圧による集団ヒステリーがきっかけではないかと思われますが、この映画もこの様な事件が起こりうるような当時の社会を描き出しています。実はホーソーンも、このセイラムの出身で、彼の祖先はこの裁判に関わった人物だったそうです。彼は本書を通じて、聖書の言葉の形式的な実行に対する批判、罪悪とは何か、神の赦しはあるのか、そういったことを問いかけているのだと思います。
南部のバージニアと北部のニューイングランドとでは、あまりに大きな違いがあります。しかしやがて、成り立も性格も経済も全く異なるこれらの地域が、アメリカ合衆国として一つの国を造っていくことになります。
パトリオット
2000年制作のアメリカ映画で、アメリカ独立戦争を背景とするドラマです。アメリカ独立戦争に関する映画は以外にも少なく、日本で公開されているのは、この映画だけではないかと思います。
舞台となったのは、サウスカロライナで、時代は独立戦争が始まった1776年です。サウスカロライナの植民がはじまったのは17世紀後半で、ここにはスペインも進出してきていたため、正式に植民地となったのは18世紀に入ってからです。「カロライナ」というのは、当時の国王チャールズ2世のラテン名「カルロス」からきているそうです。サウスカロライナでは、早くから奴隷を用いた農場経営が行われ、独立戦争勃発時には黒人奴隷の人口が白人人口を上回っていました。したがって独立戦争では、低地で大規模な農場経営を行っている人々は独立に反対で、イギリス軍に加わったのに対し、奥地で小規模の農場経営を行う人々は独立に賛成で、彼らはパトリオット(愛国者)と呼ばれ、この映画の主人公マーティンもこうした人々の一人でした。
アメリカの独立戦争の背景については、このブログのくー「グローバル・ヒストリー 第21章 大西洋三角貿易(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/21.html) 」「グローバル・ヒストリー 第22章 イギリス-覇権国家への道(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/22.html)」を参照して下さい。独立戦争はマサチュセッツ州のボストン近郊で始まり、翌年には独立宣言が発布されます。当時、北米の東海岸には13のイギリス植民地があり、植民地によってそれぞれ対応の仕方が異なります。サウスカロライナでは、低地の富裕層がイギリスに味方し、植民者と争っていたインディアンや解放も求める黒人奴隷もイギリス側に立ちました。それに対して、奥地の農民たちは独立を求めて戦いますが、敗北を重ねていました。そうした中で、マーティンが登場します。
マーティンは、フランスとの戦いで英雄になった人物で、植民地の独立を支持していましたが、同時に二度と戦わないという決意をしていました。しかし長男が父の意志に反して独立軍に入り、さらにイギリス軍が農園にも侵入し、次男が殺され、家も焼かれます。こうした中で、マーティンは戦うことを決意し、民兵を集めてイギリス軍に対してゲリラ戦を展開します。しかし、戦争の過程で長男が死に、長男の妻とその家族も殺されます。これに対してマーティンは、イギリスの正規軍に対して阿修羅のごとく戦って勝利し、アメリカ合衆国が成立することになります。
この映画は、全体に偽善的で、歴史的にはあまり学ぶべきものがありませんでした。そもそもこの映画は、日本人が出資し、ドイツ人が監督を務め、オーストラリア人(メル・ギブソン)が主役という、奇妙な組み合わせで生まれた映画でした。そして、イギリス軍が悪、植民地軍が善という、勧善懲悪がはっきりした映画で、最後にアメリカの独立と自由の獲得という栄光で終わります。しかし、インディアンを殺戮して土地を奪い、黒人を奴隷として働かせておきながら、「独立と自由」などということが言えるのでしょうか。しかも、インディアンの殺戮と黒人奴隷制は、その後も一層盛んに行われます。
また、イギリス人が民間人を殺害し、家を焼き、民間人を教会に閉じ込めて焼き殺すといった場面も描かれ、マーティンは激しい怒りを感じますが、これはかつてアメリカがベトナムで行ったことと同じではないでしょうか。さらに奴隷制度に関しては、戦争中にワシントン司令官が、独立軍で戦った奴隷を解放すると宣言します。そして戦後、若干奴隷解放への動きが見られますが、結局アメリカでは、19世紀に史上最悪の奴隷制度が行われることになります。こうしたことを考えると、この映画は素直に観ることができない映画でした。
ただ、この映画は、アクション映画として観るならば、それなりに面白い映画ではあります。ネル・ギブソンは、これより前にスコットランド独立の英雄を描いた「ブレイブ・ハート」という映画に出演しており、これは見応えのある映画でした。「パトリオット」も、「ブレイブ・ハート」とよく似たタイプの映画でした。それにしても、独立戦争に関する映画が、こんなに少ないのは何故なのでしょうか。
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