2014年10月31日金曜日

映画でオーストラリアを観て

 オーストラリアに関する映画を3本観ました。もっとも、オーストラリアに関する映画を見たのは、後にも先にもこの3本だけです。

























http://ace-int.org/oss-australia.com/aboutaustralia.html


 ところで、オーストラリアとは、ラテン語で「南の地」という意味で、憲法上は立憲君主国です。オーストラリアはイギリス連邦に加盟しており、形式上その君主はイギリス国王(女王)ということになり、この点ではニュージーランドもカナダも同様です。これは日本人には分かりにくいことですが、19世紀に繁栄した大英帝国の名残だと考えればよいと思います。形式とはいえ、それぞれの国にはイギリス国王の代理である総督が存在しています。2000年に開催されたシドニー・オリンピックの開会式で、イギリスの総督が挨拶したことに気づいた人は、あまりいないのではないでしょうか。
 もっとも、私もオーストラリアについてほとんど知りません。ずっと以前にオーストラリアに関する本を十数冊まとめ読みしたことがありますが、あまり印象に残っていません。そこでまず、予備知識としてオーストラリアの歴史を概観しておきたいと思います。
 今から5万年前には、オーストラリアとニューギニアは一つの陸地を形成していましたが、15千年ほど前に海面が上昇し、オーストラリア大陸は孤立してしまいます。人種的には、マダガスカルから太平洋に散らばる島々に居住するモンゴロイドに属すると考えられています。彼らは、ヨーロッパ人からアボリジニあるいはアボリジニナルと呼ばれますが、これは「原住民」という意味でしかありません。ヨーロッパ人到来以前のアボリジニについては、ほとんど分かっていないようです。17世紀にオランダのタスマンがオーストラリアに到来しますが、植民地化しませんでした。ただ、オーストラリア南部のタスマニア島に、彼の名前が残っています。そしてイギリスのクックが、1770年にシドニー湾に上陸して領有宣言を行い、以後オーストラリアはイギリスの植民地となっていきます。
 とはいえ、当時のイギリスはこの広大な大陸をどのように扱うのか、何の考えもありませんでした。一方、当時のイギリスでは土地囲い込みが進行して農民が土地を失い、彼らが都市に流入して犯罪が激増していました。政府はこうした犯罪者を流刑囚としてアメリカ植民地に送り込んでいたのですが、1776年にアメリカが独立宣言を行い、もはや囚人を送ることができなくなりました。その結果、国内では囚人がたまる一方でした。こうした中で思いついたのが、囚人をオーストラリアに送るということです。こうして1788年に最初の囚人が送り込まれ、以後次々と囚人が送られていきます。オーストラリアは、まさに流刑植民地として始まったのです。
 19世紀になると内陸の開拓が進められ、牧羊業が発展します。当時イギリスで毛織物工業が発展していたため、羊毛の大半はイギリスに輸出されました。こうした中で、流刑徒以外の入植者も増え、しだいに流刑植民地としての性格が薄まって行きます。19世紀後半になると各地で金鉱が発見され、ゴールド・ラッシュが始まりました。その結果中国を中心に大量のアジア系の人々が労働者として流れ込みました。当時中国ではアヘン戦争、アロー戦争、太平天国の乱などが起きて混乱していたことが背景にあります。こうした中で、中国人に対する反発が強まり、そこからやがて白人至上主義的な白豪主義が形成され、さらにそれは人種差別を国是とする法制化にまで至りました。こうした問題は労働問題と深く関わっています。人口の絶対数が少ないため、労使関係は労働者に有利に働きますが、アジア系の低賃金労働者の流入は、白人労働者の脅威となります。似たようなことは、同じ時代のアメリカでも起こっており、中国人や日本人の移民が排斥されます。
 オーストラリア人のほとんどはイギリス人の入植者でしたから、オーストラリアはあらゆる点でイギリスに依存していました。第一次世界大戦では、人口500万に満たないオーストラリアは40万の兵を戦線に送り、6万人近い死者を出しています。戦後自治領の発言権が強まると、1931年にイギリスはウェストミンスター憲章によって白人自治領に本国と対等の地位を与えますが、イギリスへの依存意識の強いオーストラリアはこれを批准しませんでした。1939年に第二次世界大戦が始まると、今回もオーストラリアは軍隊を派遣し、1941年に日本が真珠湾攻撃を行うと、日本にも戦線布告します。
ところで、第一次世界大戦後南太平洋の旧ドイツの植民地は、赤道を境に北が日本の、南がオーストラリアの国際連盟委任統治領となります。そして1942年に日本軍がイギリスの植民地であるシンガポールを陥落させると、オーストラリアは大きな衝撃を受けます。もはやイギリスにはオーストラリアを守る力がないことは明らかだからです。そしてこの年オーストラリアはウェストミンスター憲章を批准してイギリスから事実上独立し、アメリカに接近していきます。その後日本軍は南太平洋の島々を占領し、さらにオーストラリアを直接爆撃するようになります。そして映画「オーストラリア」の舞台となったのは、この時代のオーストラリア北部の町ダーウィンです。

 次に、オーストラリアの先住民であるアボリジニについて、すこし述べておきたいと思います。「裸足の1500マイル」のテーマとなったのは、このアボリジニの問題です。アボリジニとは、ab-origin(源から)つまり「先住民」を意味します。イギリス人が移住した頃のアボリジニ人口は50万から100万人とされていますが、はっきりしません。入植したイギリス人の多くは流刑囚だったので気が荒く、彼らは多くのアボリジニをスポーツ・ハンティングの対象として殺害しました。さらに19世紀前半に、開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行されたため、アボリジニの人口は10分の1にまで減少したとされます。そのため、アボリジニは「死にゆく民族」と呼ばれました。
 19世紀後半にオーストラリア政府は、アボリジニの保護を名目に、アボリジニとの混血の児童を親から引き離し、隔離施設に入れる法律を作りました。この法律は、名目上アボリジニの文明化のためということになっていますが、実態はアボリジニとしてのアイデンティティを失わせるものでした。この時代は「盗まれた世代」と呼ばれます。その後1967年にアボリジニに市民権が与えられ、69年には隔離政策が廃止され、2008年には政府はアボリジニに公式に謝罪しましたが、今となっては手遅れです。なお、アボリジニは飲酒文化を持たず、また遺伝的にもアルコール分解酵素が極端に少ないため、体質的に少量の酒で泥酔しやすいそうです。そのためアボリジニにはアルコール依存症が多く、深刻な社会問題となっています。


 第二次世界大戦後、ヨーロッパでは戦争で多くの人が死んだため、白人移民は減り続けました。その結果、国力の基礎となる人口増加が鈍化したため、1980年代からは白豪主義を撤廃し、世界中から移民を受け入れる「多文化主義」へと移行しました。対外的にはアメリカ依存を強めるとともに、アジア・太平洋地域の一員となることに努めています。


裸足の1500マイル


2002年に、オーストラリアで実話に基づいて制作された映画で、原題は「うさぎよけフェンス」ですが、その意味については後で述べたいと思います。時代は1931年、場所は西オーストラリア州で、映画はオーストラリア政府による非道なアボリジニ政策により翻弄されたアボリジニの少女たちの姿を描いています。なお、西オーストラリア州は、オーストラリア全体の3分の1を占めますが、その90パーセントが砂漠か半砂漠で、人口の多くが州都パースに集中しています。




































 前にアボリジニ保護政策について述べましたが、20世紀に入ると、特に優生学の観点から、アボリジニの混血女性を白人男性と結婚させ、アボリジニを白人化させるとともに、アボリジニの文明化を図るという政策が推進されます。そのため、各地にアボリジニ保護官と収容施設が建設され、各地から組織的にアボリジニの混血児を強制的に親から引き離し、施設に入れるようになりました。この論理から言えば、混血の男子を白人女性と結婚させてもよい分けですが、そのような発想はありません。明らかに欺瞞です。移民社会は一般に男性が多く、女性が少ない傾向があります。こうした事情から考えても、この政策はアボリジニを白人男性の性の道具としようとする思惑も垣間見えます。
映画は、西オーストラリア・ギブソン砂漠の端に位置するジガロングという村に住む3人の混血児が、保護官により獣のように檻に入れられて、パース近郊の施設まで連れて行かれます。14歳のモリーと妹の8歳のデイジー、モリーの従妹である10歳のグレイシーです。話は逸れますが、移住者たちは食用あるいは狩猟用にウサギを持ち込みますが、オーストラリアでは天敵となる大型肉食獣がいないため、ウサギが大繁殖します。これが牧畜業に被害をもたらしたため、政府は西オーストラリア州の南北に5000マイル(8000キロ)に及ぶ「うさぎよけフェンス」を建設しますが、このフェンスの建設過程で作業員の男たちが現地の女性を犯し、多数の混血児が生まれることになりました。この3人の少女たちも、そうして生まれた子供たちでした。
施設では現地語を話すことが禁じられ、厳しい日課が課せられます。大自然の中で自由に生きてきた子供たちには耐えられません。時々脱走者が出ますが、アボリジニの追跡人が必ず捕まえます。アボリジニが混血児の追跡人というのは皮肉な話ですが、実は彼の娘も施設に入れられており、いわば人質をとられている分けです。モリーもデイジーとグレイシーを連れて脱走します。巧みに足跡を消し、追っ手を逃れます。そして「うさぎよけフェンス」に沿っていけばジガロングにたどり着けることを知ります。これが、タイトルの「うさぎよけフェンス」の意味です。保護官は、ナチスのアイヒマンのように命令に忠実で、徹底的に逃亡者を追い詰めます。彼は言います。「混血児を文明化する……。人種交配も三代で肌の黒さは消滅します。白人文化のあらゆる知識を授けてやるのです。野蛮で無知な原住民を救うのです」
途中でグレイシーが捕らえられますが、モリーとデイジーはひたすら歩き、故郷にたどりつきます。9週間かけて1500マイル(2400キロ)を歩きます。それは北海道の稚内から沖縄の那覇までの距離に相当するそうです。映画はここで終わりますが、後日談があります。その後モリーは砂漠の奥地に入って結婚し、2人の女の子を生みますが、1940年に娘達と共に再び収容所へ移送されました。そして翌年、モリーは上の娘ドリスを残し、当時一歳半のアナベルだけを連れて再び脱走し、九年前と同じ道を辿って故郷へ戻ります。ところがその三年後、娘のアナベルが再び施設へ送られてしまいます。
一方、4歳のドリスは収容所で一人残され、白人の思惑通り、白人に同化されていきます。ある時、彼女は父親の写真を見て、自分が白人ではないことに気づき、自らのアイデンティティを探し求めるようになります。そして叔母のデイジーから聞いた話をもとに、彼女は「うさぎよけフェンス」を著し、それが映画化されたわけです。そして、この映画が制作された段階で、モリーもデイジーもまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。


 この映画で語られたことは、まったく非道な行為ですが、ただ、オーストラリアだけを責めることはできないと思います。この時代は、世界的に見てこうしたことが当然のように行われた時代でした。一つの民族による一つの国家という国民国家の概念や、白人種が他の人種より優れているという優生学的な理論が普及し、劣った種族を絶滅しようとするジェノサイドが行われるようになりました。ナチスによるユダヤ人虐殺はその典型的な例ですが、日本でも明治時代に北海道旧土人保護法が制定され、アイヌの土地収奪や文化の抹殺を行いました。この法が廃止されたのは、実に1997年のことです。映画におけるアボリジニに対する白人の態度には怒りを禁じえませんが、それは決して他人事ではないのだと思います。

オレンジと太陽


2011年にイギリスで制作された映画で、児童強制移民について扱っており、これも実話です。児童強制移民について、私はまったく知りませんでしたが、何しろ公表されたのが21世紀になってからなので、ほとんどの人が知らなかったと思います。
児童強制移民とは、19世紀頃から本格化した制度で、孤児院の子どもたちを、親がいようがいまいが、白人植民地に強制移住させるという政策です。子供が孤児院に入れられるのには色々事情があり、両親が死んでしまった場合、親が子を育てられなくて一時孤児院に預けた場合、あるいはよい家庭で養子として育ててもらいたい場合などがあります。ところが、孤児院は、孤児たちに両親が死んだと伝え、「太陽が光り輝き、毎日オレンジが食べられる国へいくのだ」とだまして、植民地へ送り込んでいました。そして親が子供を引き取りにきたときには、すでに立派な家庭に養子に出したので、ここにはいないと説明します。
イギリスという国は、政治的・宗教的な不満分子はアメリカに亡命し、囚人はオーストラリアに流し、孤児はオーストラリアなど植民地に放り出し、そうすることで国内の均衡を保ってきた国のように思われます。孤児については、オーストラリアだけではなく、カナダ、ニュージーランド、ローデシア(現ジンバブエ)などにも送り込みましたが、20世紀半ば頃からはオーストラリアが主要な受け入れ先となります。
では、一体なぜ孤児を植民地に送り込んだのでしょうか。はっきりした理由は分かりませんが、一つには厄介者を排除するというイギリスの思惑があったでしょう。しかしそれ以上に、植民地とイギリス本国に共通する思惑があったように思います。イギリスの白人植民地は、当然のことながら移住者から成り立っているため、白人の人口が少なく、そのまま放置すれば、やがて現地人に飲み込まれてしまいます。そこで孤児を送って白人人口を増やそうとするわけですが、これはアボリジニの混血女性を白人と結婚させて、アボリジニを白人化するという発想と同じです。映画ではオーストラリアのケースしか扱っていませんので、他の国に送られた孤児が、その後どうなったのか分かりません。ただ、1950年代にオーストラリアへの孤児の移民がピークに達し、この映画の舞台となった1980年代には、彼らの多くはまだ生きていたということです。
映画では、イギリスのほぼ中央部にあるノッティンガムで児童福祉士として働くマーガレット・ハンフリーズという女性のもとに、1986年に一人の女性が訪ねてきました。彼女は、自分は4歳の時に両親が死んで孤児院に入れられ、分けもわからずにオーストラリアに送られたこと、記憶にあるのはノッティンガムという地名だけだということ、そしてもし母が生きているなら探して欲しいと言って、オーストラリアに帰って行きました。マーガレットは、いろいろ調べていくうちに、オーストラリアに送られた孤児が相当たくさんいること、しかもこの移民には政府・教会・慈善団体が関わっていることが分かってきました。
オーストラリアに送られた孤児たちは、汚い建物に閉じ込められ、奴隷のように働かされ、そして孤児院を出るときは、今までの養育費を借金として支払わされます。かつて孤児だった人々の話を聞き取りしている内に、彼女は彼らの心の痛みを自ら感じ、外傷性ストレス障害になってしまいます。さらに政府や教会や慈善団体からさまざまな嫌がらせを受けます。しかし夫の援助もあって、多くの孤児たちの家族を探し出し、マスコミでも取り上げられるようになり、彼女の仕事は人々から認知されるようになります。そしてこの映画の制作が始まると、オーストラリア政府は2009年に、イギリス政府は2010年に事実を認め、正式に謝罪しました。彼女が調査を開始してから25年もたってからです。


 こうした非道な行いは、世界の長い歴史の過程で数えきれない程行われてきたでしょう。そしてその多くは、闇に葬り去られてきたでしょう。しかしたまたま知ることができたことについては、事実を解明し公開する責務が人間にはあると思います。そして、小さな町の一介の児童福祉士だったマーガレットは、それをやり遂げたのです。


オーストラリア


2008年にオーストラリアで制作された映画で、オーストラリアとはどのような国かを描いており、オーストラリア的なさまざまな側面が描かれています。 
 オーストラリアの都市として日本によく知られているのは、シドニーとかメルボルンであろうと思います。実際、シドニーの人口は500万弱、メルボルンの人口は450万弱、オーストラリアの人口が2000万強ですから、あの広大なオーストラリアで人口の半分近くが、この2つの都市に住んでいるわけです。そして、この映画の舞台となったダーウィンは、ノーザンテリトリー準州(北部領域)の州都ですが、ノーザンテリトリーは9割が砂漠で、人口20万人のうち6割がダーウィンに住んでいます。ダーウィンへの本格的な入植は19世紀の後半に金鉱が発見されてからで、アボリジニが比較的多く残っており、またアジア系の移民も多く、非常に多文化的な都市となっています。
 映画は、イギリスの貴族サラ・アシュレイ夫人が、オーストラリアに牧場経営のため行ったきり帰ってこない夫を連れ戻すために、ダーウィンへやって来ることから始まります。イギリスの貴族や金持ちが植民地に投資するということはよくあることですが、それにしても荒くれ者の集まるダーウィンで、アシュレイ夫人はいかにも場違いです。しかし、イギリスへの依存心やコンプレックスをもつオーストラリア人は、この貴婦人を眩いものでも見るかのように見つめます。
港まで彼女を迎えに来たのはドローヴァーという「牛追い」でした。「牛追い」とはカウボーイで、牛を内陸から港や駅に運ぶのを仕事とする人々です。オーストラリア人には、荒々しい植民地人という気風があります。アメリカでは、東部はイギリスへの帰属意識が長く続きますが、真のアメリカ人は西部で生まれたとされます。同じように、真のオーストラリア人は内陸部で生まれたとされます。そしてドローヴァーは、荒々しいオーストラリア人の典型として描かれているのだそうです。
 アシュレイ夫人はドローヴァーの案内で夫の牧場へ行きますが、夫はすでに殺されていました。犯人は、夫の牧場を手に入れようとした近隣の大牧場主でしたが、証拠がないので、どうすることもできません。このままでは、牧場の経営が危ういため、ドローヴァーの力を借りて、残された1500頭の牛をダーウィン港まで連れて行き、軍に食料用牛肉として売ることにしました。当時第二次世界大戦が始まっており、オーストラリアもイギリスに援軍を送っており、さらに日本が南太平洋に進出していましたので、軍も食料用の大量の牛肉を必要としていました。こうして、1500頭の牛を引き連れて、はるか彼方のダーウィンに向けた壮大な旅が始まります。その過程で、オーストラリアの荒々しくも美しい自然がたっぷりと映し出されます。
 ところで、牧場にはナラという名前の混血児がいました。混血児は、見つかると強制的に収容所に入れられるので、白人が来ると隠れていました。そしてそこへアシュレイ夫人が訪れることになります。ナラの母はアボリジニで、白人男性に犯されてナラを生みます。ナラは非常に聡明な少年で、実はこの物語全体がナラによるナレーションで展開され、白人でもアボリジニでもない混血児の目を通して、オーストラリアが語られます。映画の冒頭で、ナラは「この土地を僕の祖先は色んな名前で呼んでいる。でも白人をこの土地をオーストラリアと名付けた」と語ります。
 ナラの母の父、つまり祖父はキング・ジョージと呼ばれるアボリジニのシャーマン(祈祷師・霊媒師)で、不思議な力をもっており、折に触れてナラにもその力を教えていました。私にはよく分かりませんが、アボリジニの宗教は歌と深く関わっているようです。アボリジニの神話は、彼らの祖先が歌を歌いながら自然のすべてを創造したというもので、歌を歌うことで、自然と共鳴するのだそうです。ナラやキング・ジョージは、時々自然に語りかけるように歌を歌いますが、その歌には人の心を引きつける穏やかさがあります。私には、キング・ジョージがヒンドゥー教の聖人のように思われました。
 白人はアボリジニに虐待しつつも、同時にアボリジニが不思議な力をもつものとして畏怖の念も抱いていました。実際にアボリジニが不思議な力をもっているのかどうか分かりませんが、少なくとも彼らは自然の中で生きていく達人でした。白人が内陸部に入ろうとするなら、彼らの助けなしには不可能でした。映画では、このような白人とアボリジニとの微妙な関係が描き出されると同時に、アボリジニの混血を白人化するという非道も行われている、というのが当時のオーストラリアの現実でした。
 結局、アシュレイ夫人はオーストラリアに残ることを決意します。ドローヴァーを愛するようになったということもありますが、オーストラリアの壮大な自然、荒々しいカウボーイやアボリジニとの交流、様々な未知なる経験を通して、彼女は新たな自分を見出していったからです。そして彼女はナラを自分の子どもとして育てようと決意します。しかしナラは、キング・ジョージの勧めでウォーキング・アバウトに出たいと言います。ウォーキング・アバウトとは、大人になる前に一人で内陸を旅することで、アボリジニの大人になるための通過儀礼でした。アシュレイ夫人は、幼い子が一人で危険な旅をすることには断固反対しました。そんなことはイギリスではあり得ないことです。しかし彼女は分かっていませんでした。彼女の保護のもとでナラを育てるということは、混血児を収容所に閉じ込めるのと同じことだったのです。
 収容所で育ち、通過儀礼を行わなかった人には、しばしばアイデンティティ・クライシス=自己喪失が起き、心理的な危機状況が生じることがあるそうです。アボリジニにとってウォーキング・アバウトは、アイデンティティを獲得するための重要な通過儀礼でした。キング・ジョージは、繰り返しナラに「大事なことは自分の物語もつことだ」と言います。それは、自らのアイデンティティを形成せよという意味ではないかと思います。この間いろいろな事件があり、それを通じてアシュレイ夫人は自分の過ちに気づき、最後に彼女はナラをキング・ジョージに託して旅立たせます。


 私はオーストラリアについての知識がほとんどありませんので、この映画については、この程度のことしか書けません。ただ、この映画自体は娯楽映画などで、あまり難しく考えて見る必要はないと思います。ちょうどアメリカの西部劇を観ているような感覚で楽しむことができる映画でした。



2014年10月27日月曜日

生姜と里芋




















生姜を収穫しました。2年続けて失敗したのですが、ことしは沢山獲れました。しかし、こんなに沢山の生姜をどうやって食べたらいいのでしょうか。当面、酢漬け、塩漬け、蜂蜜漬けなどで保存するしかないですね。





















里芋が豊作でした。里芋は、根元に悪性腫瘍のように張り付いており、そこからリンパ腺のように四方八方に根が伸びていて、かなり不気味です。こんな風に想像するのは、私だけでしょうか。
 なお、今年はホウレン草と小松菜が虫に食われて、食べる前になくなってしまいました。




















2014年10月24日金曜日

カリブ海を読む

 書棚にあったカリブ海世界に関する本をまとめて読みました。その中で印象に残った本を何冊か紹介します。

カリブ海世界

岩塚道子編 1991年 世界思想社
 本書は、何人かの若手研究者(当時)の論文を編纂したもののようで、私自身カリブ海についての知識が非常に少なかったため、非常に参考になりました。そしてカリブ海が実に多様であることを学びました。




























 そもそも「カリブ」とは、16世紀にヨーロッパ人が到来した頃、この地域で優勢な勢力がカリブ人だったわけです。カリブ人は、彼らの先住民であるアラワク人なども含めて、アマゾン川の流域から、小アンティル諸島を渡って移動してきたようです。ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下してきた人々が、アマゾン川流域から北上してカリブ海に至ったわけですから、人間の移動範囲の広さには驚かされます。
 カリブ族は、1415世紀頃先住民のアラワク族の土地を占領しながら、カリブ海に進出していったようです。進出してきたカリブ人は、どうも男だけだったようで、アラワク族の女性を誘拐して妻とし、子供を産ませます。子供は成長するまで母と暮らすのでアラワク語を話しますが、男子は成長すると父のグループに入るのでカリブ語を話すようになります。完全に二重言語状態ですが、両言語はしだいに融合していったようです。ところがそこへ、スペイン人、フランス人、イギリス人、多様な言語を話すアフリカ人が入り込みますので、言語構成が極めて複雑になってしまったようです。
 
 また、ハイチに残る口承文芸は大変興味深いものです。「ブキとマリス、自分たちの母親を売る」という話があります。
  飢饉の真っ只中のある日、マリスがブキに母親を市場で売ろうと提案しました。ブキは最初躊躇しましたが、母親を売ることにしました。約束した日に母親を市場に連れて行こうとしましたが、母親が嫌がったため、首に紐を巻いて引っ張って行きました。一方マリスは、母親をだまして市場に連れて行きますが、母親はブキが自分の母親を紐でつないで引っ張っているのを見て、逃げ出してしまいます。ブキは母親を売り、そのお金で食料とロバを手に入れます。しかしマリスはブキの目を盗んで食料やロバを隠してしまいます。すべてを失ったと思ったブキは落胆して家に帰り、マリスは盗んだ物を取りにいったのですが、食糧はアリに持ち去られ、ロバも消えていました。一方、ブキの母親は売られた家から逃げ出し、途中で見つけたロバに乗って根性悪のブキの家に戻ってきました。
 この物語の原型は西アフリカの「野兎を主人公とする物語」にあるそうです。そこにはハイエナが登場するそうですが、ハイチの民話における賢く都会的なマリスと獰猛で愚かなブキという二つのキャラクターは、アフリカにおける野兎とハイエナに相当すると考えられます。「ところがアフリカ民話では主役は野兎で、ハイエナはあくまで敵役で、弱い者が知恵を用いて強い者を倒すトリックスター民話の一類型である。これに対してハイチの民話では、……民話の利き手の方向が……ハイエナに相当するブキの方にあるらしい。民話の受容に当たって起こった変容と価値の転換にハイチの人々の……世界像が表現されている……。読み書きもできず、ましてやフランス語もできない、商売の仕方を理解できず社会的経済的に劣等の地位に置かれているためにいつも損ばかりしているが、他人におもねったり利口に立ち回ることができないにもかかわらず、つねに不服従の存在ブキ。このブキとマリスという性格類型は、ハイチの農民の人間理解、すなわち自分たちの農民の仲間に見い出す二つの異なる方向性や態度が投影され、繰り返し伝承されていくうちに豊かな肉付けがなされていった、と考えられる。
 故郷から強引に連れ出され、過酷な労働を強いられるハイチの黒人の間に起こったこのような民話の変容は、心を打たれるものがあります。本書には、その他にも興味深いテーマがたくさん書かれており、カリブ海はさながら民族の移動と混交の実権場のように思われました。

カリブ海の海賊たち

 著者のクリントン・V・ブラックはジャマイカ生まれのロンドン育ちです。翻訳者はまたしても増田義郎氏です。新潮選書、1990年。
 15世紀末のトルデシリャス条約によって、「新大陸」の大半がスペイン領となったため、後発のオランダ・フランス・イギリスなどが不法にスペイン領に入り込むわけです。特に、スペイン本国は植民地に十分な物資を供給する能力がないのに、他国民との貿易を禁じていたため、やがてバッカニアと呼ばれるようになる一群の自由貿易業者が登場し、スペイン支配の手の及ばない所に住みつくようになります。「これにはいろいろな国の人間がいたが、主体はフランス人、イギリス人、オランダ人だった。しかもこの集団はいろいろな種類の人々によって構成されていた―残忍な扱いに耐えかねて逃亡した契約労働者たち、……難破した人たち、脱獄囚、政治上宗教上の難民、そしてあらゆる種類の放浪者たちが、国境を越えて集まったのである。」
 17世紀に入ると、バッカニアはスペイン人に抑圧されると、やがて小さな船にのってスペイン船を襲うようになり、その規模はしだいに拡大するようになります。イギリスは彼らに委任状を与え、彼らの軍事力を利用してスペインと対抗するようになります。17世紀の終わり頃、イギリスがジャマイカ島を獲得し、フランスがエスパニョーラ島を獲得し、そこにそれぞれの基地を建設すると、もはやバッカニアは必要なくなります。こうしてバッカニアの時代は終わりますが、海賊は残りました。特に、イギリスが航海法を制定して、イギリス植民地での貿易をイギリス商船に独占させると、海賊たちはイギリスの北米植民地との密貿易を行うようになります。
 バッカニアはスペイン人しか襲いませんが、海賊は相手かまわず襲います。こうして、18世紀前半に海賊の全盛時代が訪れることになります。これに対して国家も本格的な海軍をもつようになり、積極的に海賊討伐を行うようになったため、18世紀半ばにはカリブ海の海賊は急速に衰退していきます。それでも蒸気船と通信が登場する19世紀半ばまで海賊は存続しますが、もはやかつて勢いを取り戻すことはできませんでした。
 
 本書は、この時代に活躍した10人の海賊を扱っています。なにしろ海賊については、伝説と不確かな資料が入り混じっていますので、どこまでが真実なのかはっきりしません。また、話が面白すぎるため、本当かどうか疑ってしまいます。


ブラック・ジャコバン

本書には、「トゥサン・ルヴェルチュールとハイチ革命」というサブタイトルがついています。著者はCLR・ジェームズで、カリブ海のトリニダード出身で、監訳者は青木芳雄、日本語版は1991年、大村書店出版です。本書の初版は1938年で、その後何度か改定され、私が読んだのは最後の改訂版である1980年版です。
 この本について、400ページを越える大著であり、内容は多岐にわたりますので、一口で感想をのべるのは困難です。ただあえて一口でいえば、久々に読んだ名著だった、ということです。「歴史家は優れたストーリー・テラーでなければならない」というのが、私の恩師の口癖でしたが、まさに本書の著者ジェームズは優れたストーリー・テラーだと思います。これ程大分な本を、まったく飽きることなく読み通すことができました。この本を買ったのは随分前で、長い間本箱で眠らせておくには惜しい本でした。





 ハイチの歴史については、このブログの「グローバル・ヒストリー:第23章 綿織物とパックス・ブリタニカ 付録ハイチの悲劇を参照して下さい。その内容は、「カリブ海からの問い ハイチ革命と近代世界」(浜忠雄 2003年岩波書店 世界歴史選書)に依拠しており、本書も「ブラック・ジャコバン」の強い影響を受けていると思われます。














 トゥサン・ルヴェルチュールの父は西アフリカのある部族の族長でしたが、捕らえられてフランスの植民地サン・ドマング(現ハイチ)に送られて奴隷とされます。トゥサンはそこで生まれますが、農園の管理人が比較的親切な人物で、トゥサンに読み書きを習わせます。トゥサンは非常に有能で、土地の管理を任され、さらに解放されて自らの土地をもつようになります。つまり彼はかなり恵まれた境遇にある黒人でした。
 1789年にフランス革命が勃発し、自由・平等・友愛の「人権宣言」が発布され、翌年にはそれがサン・ドマングにも伝えられました。これにより、サン・ドマングの奴隷は解放されたかに思われましたが、奴隷主は「人権宣言」の受け入れを断固拒否したため、各地で奴隷たちが反乱を起こします。トゥサンもこの反乱に加わり、たちまち頭角を現します。おそらく、フランスで「人権宣言」を起草した人たちは、植民地の奴隷のことまで念頭においていなかったと思いますが、革命が過激化する中で、ジャコバン政府は1794年にフランスの全植民地における奴隷の解放を宣言します。
しかしフランスの政治情勢は刻々と変化し、しだいに保守的となり、ナポレオンが登場すると奴隷解放の撤回が取沙汰されるようになります。また、内部では白人と黒人の対立、黒人とムラート(白人と黒人の混血)の対立があります。さらに、東で国境を接するサント・ドミンゴ(現ドミニカ)を支配するスペインとの対立、フランスと対立するイギリスの動き、サン・ドマングとの通商を求めるアメリカの動向など、複雑な国際関係が展開されます。ハイチは、近代世界システムという欲望の渦の中に放り出されたわけです。著者は、こうした複雑な動向を非常に分かりやすく語っており、著者が並外れたストーリー・テラーであることを証明しています。
 著者は、トゥサンを激賞していますが、2つの欠点をあげています。一つは、彼は寡黙だったため、自分が向かおうとしている道をはっきり示さず、民衆を一つの方向に向けることがでなかったことです。もう一つは、彼はフランス革命の精神を信じ、フランスから離れることができなかったことです。彼は、最後までジャコバン精神の信奉者でした。現実には、トゥサンを捕らえたナポレオンは、トゥサンを処刑すれば奴隷の反発が強まるため、トゥサンを牢獄に閉じ込め、寒さと飢えと拷問で死んでいくのを待ちました。トゥサンには、この冷酷さを信じることができなかったのだと思います。



2014年10月17日金曜日

映画でゲバラを観て

 ゲバラに関する映画を4本観ました。ゲバラは、カストロとともにキューバ革命を指導した人物で、人生を革命にささげ、今でも世界中に彼の崇拝者がたくさんいます。まず、映画について述べる前に、彼の生涯を簡単に述べておきたいと思います。
 ゲバラは、1928年にアルゼンチンの富裕な家庭に生まれました。カストロより2歳年下です。彼の本名は「エルンスト・ゲバラ」ですが、「チェ・ゲバラ」と呼ばれることが多いようです。「チェ」とは、親しみをこめて「おい」とか「お前」という意味で、ゲバラがこれをよく使っていたため、これがゲバラの愛称となり、今では「チェ」といえばゲバラのことを指します。彼は幼少の時から喘息を患っていましたが、ラグビーとかサッカーのような激しいスポーツを好み、当時は「フーセル(激しい男)」というあだ名がついていました。
 1948年にブエノスアイレス大学の医学部に入学し、本来6年の過程を3年で卒業して医師免許を得ました。この間に、半年に及ぶ南米縦断旅行をしているわけですから、彼がいかに秀才だったかが分かります。この頃のアルゼンチンはペロンの独裁体制下にあり、またエヴァ(映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)が死亡します。大学卒業後、ゲバラは、1953年に再び放浪の旅にでます。ボリビアでは1952年に革命が起き、大胆な改革が開始されたばかりで、これにゲバラは非常に感銘を受けます。グァテマラでは、1950年以来大胆な改革が行われており、ゲバラはここで医師としての生活を始めます。この間にペルーから亡命してきた女性活動家に出会い、彼女の影響で社会改革に目覚め、やがて彼女と結婚します。しかし1954年にグァテマラにCIAが介入し政府が転覆されると、失意のうちにメキシコへ亡命し、この頃から本気で武力革命の必要性を考えるようになります。
 1955年にゲバラは、キューバから亡命してきていたカストロに出会い、翌年彼とともにキューバに上陸、喘息に苦しみながらゲリラ戦を展開、59年にキューバ革命を達成します。あの病弱で、繊細で、心優しい青年が、いつの間にか筋金入りの革命家に成長していました。この年ゲバラは、通商使節団とともに日本を訪問し、各地の工場を視察するとともに、広島を訪問して原爆死没者慰霊碑に献花しました。これ以来、キューバでは現在でも初等教育で広島と長崎への原爆投下がとりあげられているとのことです。
 革命後600人に及ぶ旧バティスタ派の人々の処刑を指揮し、これがゲバラの冷酷さの証拠として喧伝されていますが、彼がこうした行動をとった背景には、グァテマラでの苦い経験があったからでしょう。CIAは、反対勢力を武装させて政府を転覆させる、というのが常套手段でしたから、それを未然に防ぐ必要がありました。その後社会主義的な政策を推し進めていきますが、アメリカによる経済封鎖のため経済は好転せず、キューバ危機後は、ゲバラはソ連を「帝国主義的搾取の共犯者」と非難したためソ連と対立し、政府内でも孤立していきます。

 1965年、ゲバラはカストロ、父母、子供達に手紙を残してキューバを離れ、動乱の続くコンゴで革命の指導を試みますが失敗し、一旦帰国した後、翌年ボリビアに向かいます。ボリビアを選んだ理由は、かつて彼が滞在していた時に行われた改革は潰され、軍事独裁に移行していたこと、またボリビアは地理的に南アメリカの中央にあって多くの国と国境を接しており、革命の拡散に適していたこと、などがあげられます。しかし、ボリビア軍はCIAなどからゲリラ対策の特殊訓練を受けており、さらに、「リヨンの虐殺者」として知られたナチスのバルビーが、ボリビアの軍事顧問となっていました(映画でヒトラーを観て 敵こそ我が友」参照)。こうした中で、ゲバラはしだいに追い詰められ、1967年に捕らえられて射殺されました。

ゲバラは、一方で世界中に紛争をまき散らすと批判されますが、彼の直接行動主義と理想主義は多くの人々の心を捉えました。とくに中南米では彼は絶大な人気があり、さらに第三世界や反米的な若者たちには今も多くの崇拝者がいます。彼の顔をプリントしたTシャツは、現在でも見かけます。












ゲバラの語録から3つだけあげておきます。(ウイキペディアより)
バカらしいと思うかもしれないが、真の革命家は偉大なる愛によって導かれる。人間への愛、正義への愛、真実への愛。愛の無い真の革命家を想像することは不可能だ。
  世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむ事の出来る人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。
  もし私達が空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、出来もしない事を考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「そのとおりだ」。
そしてカストロはゲバラを、「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」と評しました。

モーターサイクル・ダイアリーズ

2004年のイギリス・アメリカによる合作映画ですが、使用される言語はすべてスペイン語です。この映画は、23歳の医学生だったエルンストが、1952年に南米を友人と二人で縦断するという話で、エルンストの日記に基づいて制作された映画です。映画の冒頭で、「これは偉業の物語ではない。同じ大志と夢をもった二つの人生が、しばし並走した物語である。」と述べられます。
友人とはアルベルト・グラナードで、自称放浪化学者、29歳で、夢は30歳までに旅を終えることです。「目的 本でしか知らない南米大陸の探検。旅行計画 4か月で8000キロ走る。方法 行き当たりばったり」ということです。ブエノスアイレスから出発し、まず南部のパタゴニアに入り、チリに入って標高6000メートルのアンデス山脈を越え、そこからマチュピチュを訪問し、さらにペルーのハンセン病療養所に滞在した後、ベネズエラに至ります。実際には12000キロを走破し、7か月以上かかりました。
古いオートバイに大の男が二人乗り、たくさんの荷物を積んで走ります。僅かなお金と食糧しかありません。オートバイは何度も故障し、また転び、よれよれで走って行きます。それは痩馬ロシナンテをともなったドン・キホーテとサンチョ・パンサの旅のようでした。3000キロ程走ったところでバイクは修理不能なまでに故障し、そこから先はモーターサイクルではなくヒッチハイクとなりました。もしかすると、エルンストの一生はドン・キホーテの物語と同じだったのかもしれません。
 二人はペルーのハンセン病療養所に滞在しますが、ここは女子修道院が運営しており、そこでは患者以外は手袋をはめる規則がありました。しかしハンセン病は接触では感染しません。これは明らかにハンセン病患者に対する差別です。エルンストは、手袋をはめるのを拒否してハンセン病患者と握手し、修道院長を怒らせてしまいます。二人はそこでしばらく働いていましたが、いよいよそこを去る前日、それはエルンストの誕生日でもありましたが、職員たちが盛大に祝ってくれました。ところが、そこには患者たちの姿は見当たりません。病棟は川を隔てた向こう側にあり、ボートも隠されていました。患者たちは隔離されていたのです。エルンストは患者たちと一緒にパーティーをしたいと主張し、危険をおかして対岸まで泳いで渡っていきます。ここに、どんな時にも正義を貫こうとする、後のチェ・ゲバラの面影をみることができます。

 話がそれますが、日本では明治時代にらい()予防法が制定され、その後何度か改定され、ハンセン病患者は隔離され続けました。しかしハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治療法が確立された病気でした。しかし日本はらい予防法を廃止せず、この間に患者に対して強制的に断種手術や堕胎手術が行われるなど、きわめて非人道的な政策が行われていました。1958年に国際ハンセン病学会がらい予防法の廃止を勧告しましたが、そのまま維持され、1996年にようやく廃止されました。

 この映画は、さわやかな青春物語です。青春時代には、誰もが荒野を手探りで歩いています。そしてさまざまな障害にぶつかり、さまざまな人に出会い、それらの影響を受けてさまざまな選択を行いつつ自分の道を歩いて行きます。この旅の物語は、まさに青春時代そのものです。そしてエルンストは、この旅を通じて革命への道を突き進んでいくことになります。
 なお、アルベルトは1960年にエルンストによってキューバに招かれ、キューバの医療教育に大きな役割を果たします。そしてこの映画が制作されたとき、彼はまだ生きており、映画の最後に少しだけ顔を出します。


革命戦士ゲバラ

1969年にアメリカで制作された映画です。1969年といえば、ゲバラが殺されてから、まだ2年しか経っていません。
映画は、ゲバラが射殺されたところから始まり、次に1956年にカストロらとともにキューバに上陸する場面に戻ります。初めゲバラは軍医として参加したのですが、しだいに軍事的能力を認められ、やがてカストロは何事につけてもゲバラに相談するようになります。映画では、事実上ゲバラが指揮しているかのようで、ゲバラの側にいるとカストロが間抜けに見えます。アメリカ人は、どうしてもカストロを悪く描きたいようです。
革命成功後、皆が陽気に浮かれている時も、ゲバラは陰気な顔をして元政府派の人々の処刑を認可する書類にサインをし続けます。ここでは冷酷なゲバラが描き出されています。要するに過激な政策はほとんどゲバラの指示によるもので、ソ連のミサイル基地建設を望んだのもゲバラということになっています。やがて彼はキューバに飽きたらず、世界革命を目指して外国で戦うことを決意します。カストロは懸命にゲバラを引き留めますが、結局ゲバラはキューバを去ります。
ボリビアでは苦戦を強いられます。すでに50年代の革命で土地を手に入れていた農民は革命に関心がなく、ボリビア共産党は協力を拒み、さらにCIAによって対ゲリラ戦を訓練された軍隊は手ごわく、結局1967年に捕らえられ殺害されました。「ゲバラは生きている」という伝説が残ると厄介なので、軍は遺体を見世物にし、証拠として両手首を切り落として埋葬します。そして映画は最後に、ゲバラ殺害についてCIAは一切関わっていないと主張しますが、実は最初から最後まで関わっていました。
結局、ゲバラは無謀で冷酷な理想主義であるというのが、この映画の主張のようです。なおゲバラの遺体は、1997年にキューバとボリビアの合同捜索隊により発見され、遺族らが居るキューバへ送られて埋葬されました。

チェ 28歳の革命

2008年のアメリカ・フランス・スペインの合作映画です。本来、次に述べる「チェ 39 別れの手紙」を含めて一本の映画だったのですが、上映時間が4時間30分に及ぶため、二本に分割しました。映画は、1955年のメキシコから始まります。メキシコからヨットでキューバに渡り、政府軍の激しい攻撃を受けながら、革命への第一歩を踏み出します。チェ、28歳の時でした。
映画はドキュメンタリー風で、淡々とチェの姿を追います。この映画に冒険物語はありません。初めの2年は軍医として、喘息に苦しみながらも、けが人の治療や村人の治療を行います。兵士は皆ひげをはやし、同じような服を着ているため、はじめはどれがチェなのかよく分かりませんでした。それ程彼は人々に溶け込んで生活をしていたということです。また、彼は兵士たちに読み書きを教えます。革命以前のキューバでは、50%以上が初等教育を受けておらず、60%以上が准文盲でしたので、チェはゲリラの行く先々で教室を開きます。そこには、献身的で心優しいチェの姿を見ることができます。それは「モーターサイクル・ダイアリーズ」でのエルンストであり、ハンセン病患者たちに会うために激流を泳ぎ渡った、ひた向きなエルンストそのものでした。
 革命後、チェは通商を求めて世界各地を訪問し、さらに*国連総会で2度演説をします。このアメリカ訪問時のチェの姿が、何度も途中で挿入されます。今やチェは、キューバのナンバー・ツーであり、世界的に有名人でもありますので、記者会見やインタビューや要人との会見が行われ、それらが映画で再現されています。映画自体は、淡々とチェの行動をおっていますが、挿入されたアメリカでの映像によって彼の思想が語られています。そこでのチェの態度は、気負うことなく、兵士や農民と接するときの態度とまったく同じでした。この挿入部分だけを、あとでまとめてもう一度観てみたいと思います。
 *19641211日、国連総会の演説の一部
  我らの人民は声を上げた、“もう十分だ”と。
この偉大な人民の行進は、真の独立を勝ち取るまで続く。
あまりにも多くの血が流されたからだ。
代表の皆さん、これは、アメリカ大陸における新たな姿勢だ。
   我らの人民が日々上げている、叫び声に凝縮されている。
また全世界の民衆に支持を呼びかける叫びだ。
特にソ連が率いる社会主義陣営の支持を。
その叫びとは、こうだ――“祖国か、死か!”
 映画は、とくにチェの英雄的な行為を華々しく取り上げている分けではなく、事実を淡々と描いているだけです。それでも、映画を観終わった後、深い感銘を受けました。それはここで描き出されたチェという人物の人間的な魅力によるものでないでしょうか。主演のデル・トロは、カンヌ映画祭で男優賞を受賞しました。
 なお、アメリカ政府はキューバで撮影することを禁じたため、撮影はスペインやボリビアで行われたそうです。アメリカは、どうしてもキューバを許すことができないようです。

チェ 39 別れの手紙

「チェ 28歳の革命」の続編で、ボリビアでのチェのゲリラ闘争と彼の死を描いています。チェは、ボリビア到着から死の2日前まで、後に「ゲバラ日記」として知られる日記を書いており、この映画はこの日記をもとに制作され、日記風に描かれます。日記は1966年の11月から始まり、処刑される2日前で終わっていますが、映画ではチェがボリビアに着いた19661023日を第1日目とし、チェが捕らえられた109日を341日目、そして翌日処刑されます。チェ、39歳のときでした。ただし、ボリビアには死刑制度がないため、戦闘で死んだということにされます。
 19653月に、チェはカストロ、父母、子供達の三者に宛てた手紙を残して、密かにキューバを去ります。これがチェの「別れの手紙」です。初めはアフリカのコンゴでゲリラ闘争を指導しますが失敗し、一旦帰国した後1966年にボリビアに向かいます。キューバからチェに従った同志が12人おり、この他にドイツ国籍のタニアという女性諜報員がいます。
チェがキューバを去った理由について、謎ということになっています。カストロと対立してキューバから追い出されたとか、逆にカストロの指示で世界革命のためにキューバを去ったとか、いろいろ取りざたされましたが、彼がカストロに送った「別れの手紙」があり、その内容を疑う理由はありません。もともと彼はキューバ人ではなく、キューバにおける自分の役割は終わったと考えていたようです。「世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。」「すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。」この言葉は、ハンセン病患者に合うために激流を泳ぎ切ったエルンストの言葉そのものです。
映画は、チェたちの行動を淡々と追っています。そしてしだいに追い詰められていくチェの姿が描き出されています。その過程でもチェは常に冷静であり、仲間をいたわり、村人と優しく接します。そこにあるものは、南米大陸を縦断した時のエルンストの姿でした。多分彼は、何よりも人と人との繋がりを大切にしたのだろうと思います。もしかしたら、チェはこの戦いに勝てないと思っていたのかもしれません。しかし彼が勝つかどうかは重要なことではなく、ここでの戦いが必ず後に引き継がれ、それが全世界に広がっていくと信じていたのだと思います。
 チェの最後の言葉は、自分を殺すために銃撃を躊躇する兵士に向けて、「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」というものだったそうですが、真偽のほどは不明です。後にこの兵士は、目の治療のために第三世界で最も高度な医療を無料で受けられるキューバを訪れましたが、キューバ政府は特に問題にせず、彼は無事に治療を受けることができたとのことです。
 以下に、チェがカストロと子供たちに送った手紙を掲載します。これはネット上で見つけたものを、そのまま転載したもので、出典としてそれぞれのアドレスを掲載しました。

チェからカストロへ

フィデルへ
 僕の中には今、さまざまな思い出が去来している。マリーア・アントニアの家で君と初めて出会ったときのこと、一緒にやろうと僕を誘ってくれたときのこと、革命に向けて準備をしていた緊張に満ちた日々のこと。
  あの日、誰からともなく、死んだときには誰にそれを知らせるべきかという話題になって、僕たちは、死が現実にありうるのだという事実に動揺した。だが、それは本当だった。革命においては(それが本物の革命であればだが)、勝利か死か、そのいずれかしかあり得ない。そうして多くの同志が、勝利への道半ばで、死んでいった。
  今、すべてのことが以前ほど劇的に感じられないが、それは僕たちが成熟したからなのだろう。しかし、同じことが今なお繰り返されている。僕は、このキューバの地で革命を行うということに僕が負っていた責任は、これを果たしたと思っている。僕は君に別れを告げる、すべての同志に、そして今や僕のものでもある君の人民に別れを告げる。
  僕は正式に、党指導部としての職務、大臣の地位、司令官の階級、キューバ市民としての資格を放棄する。僕とキューバは法的には何の関わりもなくなる。しかし、僕とキューバとの間には、何かの辞令でつながっているのとは違う次元の絆は残る。
  過去を振り返ると、僕はキューバ革命の勝利を確実なものとするために誠実に、献身的に働いてきたと思う。僕が何か重大な誤りを犯したとすれば、それは唯一、シエラ・マエストラでの最初の頃にはまだそれほど君のことを信頼していなかったこと、つまり、君に指導者としての、また革命家としての資質が備わっているということをすぐには見抜くことができなかったということぐらいだ。なんと素晴らしい日々だったことか。ミサイル危機のときの、輝かしくも、しかし過酷な日々には、君のかたわらで僕は人民の一員であることに誇りを感じていた。あの頃の君ほどに優れた指導者などまずいまい。僕自身、ためらわずに君に従い、ものの考え方、危険や原則といったものをどう捉えてどう評価するのかというその方法についても、君のものを僕のものにできたことを誇らしく思っている。
  世界の中には、僕のささやかなこの力を必要としているところがまだ他にある。キューバに対する責任がある君にはできないことが、この僕にはできる。僕たちに、別れの時が来た。
  別れていく僕の心の中は喜びと辛さが入り混じっているということを、どうか分かってほしい。僕はここに、建設者としてのもっとも純粋な希望と、僕の愛するもののうち、もっとも愛しいものを残していく。・・・そして、僕のことを息子のように受け入れてくれた人民に別れを告げる。それを思うと、心の一部が切り裂かれるようだ。僕は、新たな戦いの場に、君が僕にたたき込んでくれた信念、我が人民が持つ革命の精神、すべての義務の中でもっとも神聖なるもの、すなわち、帝国主義があるところならばどこででも戦うという義務を果たすものだという昂(たか)ぶる思いを携えていくだろう。その思いは、引き裂かれたこの胸の痛みがどれほど深くても、僕に勇気を与え、心をとっぷりと癒してくれる。
  もう一度言う。キューバはもはや、僕の行動に対して何の責任を負うものではない。ただ一つ、僕の革命家としての行動は、これまでも、これからも、キューバにその規範があるという点を除いては。僕がどこか別の地で最後を迎えるとしたら、そのとき、僕の頭に浮かぶのは我が人民、とりわけ君のことだろうと思う。君が僕にさまざまなことを教えてくれたこと、手本を示してくれたことに感謝する。そして、僕の行動の最後まで、そうしたものに忠実であろうと努力するつもりだ。僕は常に、この革命の対外政策と自分を一体化してきた。それはこれからも変わらない。どこの地にいようとも僕は、キューバの革命家としての責任を自覚し、そのように行動するだろう。僕は子どもたちと妻には物質的なものは何も残せないが、それを恥だとは思わない。むしろ、そうであることを喜んでいる。この者たちのために何かを頼むようなことはしない。なぜなら国家が、生きていくのに、そして教育を受けるのに必要なものは与えてくれるはずだからだ。
  僕はまだ、君にも、我が人民にも言い足りないことがたくさんあるのかもしれない。だが、それはもう言うまい。言葉では僕の思いを伝えることができない。だから、これ以上書く必要もないと思う。
勝利に向かって、常に。祖国か、死か。
 革命家としての情熱をもって、君を抱擁する。
http://blog.goo.ne.jp/hydebrave/e/bb44ed89ebf85cf8a8f1fa657decd422

チェから子供たちへ

わが子たちへ
愛するイルディータ、アレイディータ、カミーロ、セーリアそしてエルネスト、もしいつかお前たちがこの手紙を読まなくてはならなくなった時、それはパパがもうお前たちの間にはいないからだ。――お前たちはもう私を思い出さないかもしれない、とくに小さい子供達は何も覚えていないかもしれない。――お前たちの父はいつも考えた通りに行動してきた人間であり、みずからの信念に忠実であった。――すぐれた革命家として成長しなさい。それによって自然を支配することのできる技術を習得するためにたくさん勉強しなさい。また次のことを覚えておきなさい。革命は最も重要なものであり、またわれわれの一人一人は(ばらばらであるかぎり)何の価値もないのだということを。
 とりわけ、世界のどこかである不正が誰かに対して犯されたならば、それがどんなものであれ、それを心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それが一人の革命家のもっとも美しい資質なのだ。――さようなら、わが子たち、まだ私はお前たちに会いたいと思う。しかし今はただパパの最大のキスと抱擁を送る。
http://ameblo.jp/gebara-city/entry-10417744236.html