2014年10月11日土曜日

映画でカストロを観て

カストロはキューバ革命の指導者で、世界中で最もよく知られている人物の一人です。私たちの若いころには、毛沢東、ホー・チ・ミン、シアヌーク、カストロ、ゲバラなどが、巨人アメリカに抵抗した人々として第三世界の尊敬を集めていましたが、その中でただ一人カストロだけが、2014年現在88歳でまだ生きており、いわば反米闘争の英雄の最後の生き残りといえます。彼については評価が極端に分かれおり、ここでは両極端の二本の映画を紹介したいと思います。
 映画について述べる前に、カストロとキューバ革命について簡単に触れておきたいと思います。
カストロは1926年に富裕な農園主の息子として生まれ、学生時代は野球に熱中し、ハバナ大学では法律を学びました。当時のキューバは、他のラテン・アメリカ諸国と同様、ほんの一握りの人が土地を独占し、サトウキビ栽培に特化されていて、経済はアメリカ資本に支配されていました。そしてアメリカ資本主義と結んで特権階級を保護していたのが、バティスタ独裁政権でした。こうした中で、1953年にカストロは130人の仲間とともに兵営を襲い、80人以上が射殺され、カストロは逮捕されました。無謀としか言いようがありません。
カストロは懲役15年を宣告されますが、2年後に恩赦で釈放され、まもなくメキシコに亡命します。そして、そこでゲバラと出会います。キューバ政府はメキシコにカストロの逮捕を求めますが、元大統領カルデナスのとりなしで逮捕を免れました。1956年にカストロは82名の仲間とともにヨットでキューバに上陸しますが、軍の攻撃を受けて生き残ったのは18人だけでした。これも無謀としか言いようがありません。しかし、その後仲間が増え、ゲリラ戦を展開し、1959年にバティスタが亡命し、キューバ革命は成就されました。
カストロはもともと社会主義者ではなく、プロ野球の大ファンであり、アメリカに好感を抱いていました。そこでカストロはアメリカ大統領と会見するためホワイトハウスに行きますが、大統領はゴルフ中のため面会できないとして、副大統領が応対します。アメリカは、アメリカが今まで中南米でしてきたように、必要とあればカストロを排除すればよいと思っていたようです。こうした中で、キューバは土地の国有化とアメリカなど外国資産の国有化を行い、これに対してアメリカが経済制裁を行ったため、キューバはソ連に接近し、1961年には社会主義宣言を行います。

 その後いろいろありましたが、「アメリカの裏庭」と呼ばれたカリブ海の島国キューバが、革命後50年以上たってまだ生き延びているということは、驚嘆に値します。それが可能だった理由の一つは、米ソの冷戦のためソ連の援助を得られたということがありますが、1989年に冷戦が崩壊すると、キューバは苦境に立たされますが、なんとか立ち直ります。今日キューバの最大の問題は、カストロ引退後、弟のラウル・カストロが後継者になりましたが、その弟も高齢であり、後継者を早急に決めなければならないということでしょう。

コマンダンテ

2002年にオリバー・ストーン監督がスペインの制作会社の依頼で制作したドキュメンタリーです。監督自らが3日間にわたってインタビューし、30時間以上をフィルムに収録して制作されました。「コマンダンテ」というのは司令官を意味し、キューバではカストロの愛称として用いられています。カストロは、すでにこの段階で76歳でしたので、この映画はカストロの自叙伝あるいは遺書ともいえるもので、その資料的な価値は極めて大きいと思います。カストロは個人崇拝を嫌い、自叙伝を書くことも拒否していましたので、彼の長い闘争のさまざまな局面について、彼自らが見解を述べていますので、大変興味深い内容です。
 ところが、この映画はアメリカでは上映禁止となりました。キューバ革命後、土地改革や企業の国有化が進められると、多くの富裕層がアメリカに亡命し、フロリダを中心に反カストロのさまざまな陰謀を繰り返してきました。その際、キューバでカジノなどを経営していたマフィアもカストロに強い恨みを抱いて亡命者に加担し、CIAもキューバ奪回に執念を燃やしました。彼らによって、カストロは638回も暗殺が計画されたといわれ、命を狙われた回数が最も多い人物としてギネスブックに掲載されているそうです。今日、フロリダの亡命キューバ人は政治的にも大きな勢力を形成しており、アメリカ政府は過去に何度かキューバに対する経済制裁の中止を検討したそうですが、彼らの反対で実行できなかったそうです。そしてこの映画も、彼らの強い反対で上映禁止となったそうです。それにしても、「自由」の国アメリカで、そんなことができるのかと思いますが、総じてアメリカ人にはカストロ嫌いが多いので、こうしたことが可能だったのでしょう。
 カストロの功罪は多々あると思いますが、世界史という観点から見た彼の最大の功績は、アメリカに逆らって生き延びたということだと思います。中南米諸国の多くはアメリカに経済的に支配されてきました。こうした中で、アメリカの利害を損なうことなしに、何らかの改革を行うことは不可能だし、アメリカはそのような改革を決して許しません。過去にアメリカは、あらゆる方法を用いてそのような改革を潰してきました。カストロも革命後真っ先にこの問題に直面します。カストロは農地改革や外国資産の接収を決定しますが、まず真っ先に実家の土地を接収しました。その結果母と妹はアメリカに亡命することになります。こうした中で、CIAは亡命キューバ人を訓練してキューバ侵攻(ピッグス湾事件)を行いますが、失敗します。これをきっかけに、カストロはアメリカへの期待を捨て、ソ連に接近していくことになります。中南米の国々の多くの政権はアメリカに依存していますので、カストロを批判しますが、民衆の間ではカストロに賛同する人々が多くいます。かつてアルゼンチンのペロンが、反米を掲げて民衆の支持を得たように(「映画でラテンアメリカの女性を観る エビータ」参照)


オリバー・ストーン監督について、以前に「プラトーン」(「グローバル・ヒストリー はじめに」を参照)という映画を観ましたが、総じて「掘り下げ」が足りないという印象を受けました。彼は2度ベトナム戦争に従軍し負傷した経験をもち、その経験をもとにこの映画を製作し、それなりに問題作ではありましたが、ベトナム人の視点が欠けていました。また「オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史」というドキュメンタリーも、内容的には今一つ表面的な印象を受けました。この「コマンダンテ」も、アメリカでいろいろ議論されているカストロの謎について単発的に質問を重ねるのですが、これに対してカストロは、より幅広い視点で簡潔かつ率直に答えており、カストロの洞察力の深さを見せつけるものでした。
 質問の内容は多岐にわたっているため、ここでは若干の応答にのみ触れます。カストロは、親しみやすく、ユーモアに富み、話し上手で、人を引き付ける力があることは、誰もが認めるところであろうと思います。革命後の多くの困難について、自分たちには経験が不足していたことを率直に認めます。アメリカの侵攻は革命の2年後、キューバ危機は3年後であり、自分たちはアメリカの軍事力についても、同盟や協定がいかに移ろいやすいものかということについても、何も知らなかったことを認めます。独裁についての質問に対しては、「自分は説得することが好きだ」と答え、話せば必ず信じてもらえると語ります。確かに、彼の演説は長いことで有名で、10時間に及ぶ演説をしたこともあります。多分言葉によって国民を説得しようとしてきたのではないかと思います。また後継者問題については、キューバ国民の政治的成熟を信頼しているし、その点で心配していないと語ります。
彼の言葉には、多くの困難を切り抜けて来た者の重みがあり、どこまでが真実かは分かりませんが、心に響くものがありました。


フィデル・カストロ キューバ革命

2005年にアメリカで制作されたテレビ用のドキュメンタリーで、原題は「カストロ、キューバの謎多き象徴」です。これは私の想像ですが、このドキュメンタリーは先の「コマンダンテ」に対抗して亡命キューバ人が作らせたのではないかと思われます。証言の多くが亡命キューバ人やCIAのもので、客観性に欠けています。またこの写真も、葉巻の煙にまみれた不健全な独裁者、というイメージを与えようとしているように思われます。さらに、しばしばカストロは「粗暴で女好き」という言葉が用いられます。
 「コマンダンテ」は、インタビューを中心に次々と話が展開していくため、キューバとカストロについての予備知識がないとついていけませんが、このドキュメンタリーはカストロの足跡を具体的に追っていますので、カストロとキューバ革命の事実関係を整理するのには役立ちます。ただ、全体としてカストロに対する悪意が感じられます。亡命キューバ人は、土地を没収されて私有財産を侵害されたと非難します。しかし、国土の90%を7%の人が所有するという状況を、放置することが許されるのでしょうか。また、アメリカは一貫してキューバはアメリカの安全を脅かすと主張し続けており、国民の多くもそう思っています。しかし、キューバのような島国がアメリカの安全を脅かすとは思えません。それは、アメリカに逆らうキューバの存在は、中南米におけるアメリカの支配を脅かすという意味であろうと思います。
 確かにカストロは、アメリカと対立して国民に長い耐乏生活を強いたし、カストロは否定していますが、反対派に対する弾圧も行ったでしょう。またアンゴラ内戦に介入して軍隊を送り、他の社会主義政権を支援するなど、あたかもソ連の先兵のように思われる時期もありました。ただ彼は、他の独裁者と異なり、私利私欲に左右されることが少なく、血縁者を重用することもありませんでした。弟のラウルはカストロの後継者となりましたが、彼は革命の最初からカストロの右腕として活躍してきた人物です。母と妹はアメリカに亡命し、後に娘も亡命します。4人の男の子はあまり出世していません。
さらに彼は、教育・社会福祉部門に対する投資率を高め、その結果、教育の無料化と非識字率の大幅な低下といった成果を挙げました。また、学校教育においてはスポーツにも力を入れており、特に野球は小学校から大学までの必修科目として取り入れられており、キューバでは最もポピュラーなスポーツとなっています。キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用し、「キューバ・モデル」として知られています。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属するとともに、医学教育にも熱心で、多くの留学生も受け入れています。
 
 結局私はカストロを支持しているようで、彼を客観的に捉えることができませんでした。私には彼を客観的にとらえるだけの知識がありませんし、第一まだ本人が生きていますので、客観的にとらえることなど不可能だと思います。ただ、「コマンダンテ」を見て、一層カストロに共感するようになりましたが、彼を客観的に評価するにはなお長い年月が必要だろうと思います。

 なお、カストロと葉巻のイメージは、この写真にもあるように、広く定着しています。それは、キューバの特産品である高級葉巻を売り込もうというキューバの思惑があるのかもかもしれません。もともとゲリラ戦中に藪で虫除けに葉巻を吸い始めたそうですが、1986年に本人の健康と国民に禁煙の必要性を説くために、禁煙したそうです。喫煙者である私としては、それだけでもカストロは尊敬に値します。
また、カストロは親日家として知られています。日本も、アメリカの同盟国とはいえ、キューバの問題は日本とは関係がないので、キューバとの友好関係は続いています。2003年に来日した際には、彼は外国の要人としては珍しく原爆ドームを視察、慰霊碑に献花・黙祷し、「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」とのコメントを残しているそうです。




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