書棚にあったカリブ海世界に関する本をまとめて読みました。その中で印象に残った本を何冊か紹介します。
カリブ海世界
岩塚道子編 1991年 世界思想社
本書は、何人かの若手研究者(当時)の論文を編纂したもののようで、私自身カリブ海についての知識が非常に少なかったため、非常に参考になりました。そしてカリブ海が実に多様であることを学びました。
そもそも「カリブ」とは、16世紀にヨーロッパ人が到来した頃、この地域で優勢な勢力がカリブ人だったわけです。カリブ人は、彼らの先住民であるアラワク人なども含めて、アマゾン川の流域から、小アンティル諸島を渡って移動してきたようです。ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下してきた人々が、アマゾン川流域から北上してカリブ海に至ったわけですから、人間の移動範囲の広さには驚かされます。
カリブ族は、14~15世紀頃先住民のアラワク族の土地を占領しながら、カリブ海に進出していったようです。進出してきたカリブ人は、どうも男だけだったようで、アラワク族の女性を誘拐して妻とし、子供を産ませます。子供は成長するまで母と暮らすのでアラワク語を話しますが、男子は成長すると父のグループに入るのでカリブ語を話すようになります。完全に二重言語状態ですが、両言語はしだいに融合していったようです。ところがそこへ、スペイン人、フランス人、イギリス人、多様な言語を話すアフリカ人が入り込みますので、言語構成が極めて複雑になってしまったようです。
また、ハイチに残る口承文芸は大変興味深いものです。「ブキとマリス、自分たちの母親を売る」という話があります。
飢饉の真っ只中のある日、マリスがブキに母親を市場で売ろうと提案しました。ブキは最初躊躇しましたが、母親を売ることにしました。約束した日に母親を市場に連れて行こうとしましたが、母親が嫌がったため、首に紐を巻いて引っ張って行きました。一方マリスは、母親をだまして市場に連れて行きますが、母親はブキが自分の母親を紐でつないで引っ張っているのを見て、逃げ出してしまいます。ブキは母親を売り、そのお金で食料とロバを手に入れます。しかしマリスはブキの目を盗んで食料やロバを隠してしまいます。すべてを失ったと思ったブキは落胆して家に帰り、マリスは盗んだ物を取りにいったのですが、食糧はアリに持ち去られ、ロバも消えていました。一方、ブキの母親は売られた家から逃げ出し、途中で見つけたロバに乗って根性悪のブキの家に戻ってきました。
この物語の原型は西アフリカの「野兎を主人公とする物語」にあるそうです。そこにはハイエナが登場するそうですが、ハイチの民話における賢く都会的なマリスと獰猛で愚かなブキという二つのキャラクターは、アフリカにおける野兎とハイエナに相当すると考えられます。「ところがアフリカ民話では主役は野兎で、ハイエナはあくまで敵役で、弱い者が知恵を用いて強い者を倒すトリックスター民話の一類型である。これに対してハイチの民話では、……民話の利き手の方向が……ハイエナに相当するブキの方にあるらしい。民話の受容に当たって起こった変容と価値の転換にハイチの人々の……世界像が表現されている……。読み書きもできず、ましてやフランス語もできない、商売の仕方を理解できず社会的経済的に劣等の地位に置かれているためにいつも損ばかりしているが、他人におもねったり利口に立ち回ることができないにもかかわらず、つねに不服従の存在ブキ。このブキとマリスという性格類型は、ハイチの農民の人間理解、すなわち自分たちの農民の仲間に見い出す二つの異なる方向性や態度が投影され、繰り返し伝承されていくうちに豊かな肉付けがなされていった、と考えられる。
故郷から強引に連れ出され、過酷な労働を強いられるハイチの黒人の間に起こったこのような民話の変容は、心を打たれるものがあります。本書には、その他にも興味深いテーマがたくさん書かれており、カリブ海はさながら民族の移動と混交の実権場のように思われました。
カリブ海の海賊たち
著者のクリントン・V・ブラックはジャマイカ生まれのロンドン育ちです。翻訳者はまたしても増田義郎氏です。新潮選書、1990年。
15世紀末のトルデシリャス条約によって、「新大陸」の大半がスペイン領となったため、後発のオランダ・フランス・イギリスなどが不法にスペイン領に入り込むわけです。特に、スペイン本国は植民地に十分な物資を供給する能力がないのに、他国民との貿易を禁じていたため、やがてバッカニアと呼ばれるようになる一群の自由貿易業者が登場し、スペイン支配の手の及ばない所に住みつくようになります。「これにはいろいろな国の人間がいたが、主体はフランス人、イギリス人、オランダ人だった。しかもこの集団はいろいろな種類の人々によって構成されていた―残忍な扱いに耐えかねて逃亡した契約労働者たち、……難破した人たち、脱獄囚、政治上宗教上の難民、そしてあらゆる種類の放浪者たちが、国境を越えて集まったのである。」
17世紀に入ると、バッカニアはスペイン人に抑圧されると、やがて小さな船にのってスペイン船を襲うようになり、その規模はしだいに拡大するようになります。イギリスは彼らに委任状を与え、彼らの軍事力を利用してスペインと対抗するようになります。17世紀の終わり頃、イギリスがジャマイカ島を獲得し、フランスがエスパニョーラ島を獲得し、そこにそれぞれの基地を建設すると、もはやバッカニアは必要なくなります。こうしてバッカニアの時代は終わりますが、海賊は残りました。特に、イギリスが航海法を制定して、イギリス植民地での貿易をイギリス商船に独占させると、海賊たちはイギリスの北米植民地との密貿易を行うようになります。
バッカニアはスペイン人しか襲いませんが、海賊は相手かまわず襲います。こうして、18世紀前半に海賊の全盛時代が訪れることになります。これに対して国家も本格的な海軍をもつようになり、積極的に海賊討伐を行うようになったため、18世紀半ばにはカリブ海の海賊は急速に衰退していきます。それでも蒸気船と通信が登場する19世紀半ばまで海賊は存続しますが、もはやかつて勢いを取り戻すことはできませんでした。
本書は、この時代に活躍した10人の海賊を扱っています。なにしろ海賊については、伝説と不確かな資料が入り混じっていますので、どこまでが真実なのかはっきりしません。また、話が面白すぎるため、本当かどうか疑ってしまいます。
ブラック・ジャコバン
本書には、「トゥサン・ルヴェルチュールとハイチ革命」というサブタイトルがついています。著者はC・L・R・ジェームズで、カリブ海のトリニダード出身で、監訳者は青木芳雄、日本語版は1991年、大村書店出版です。本書の初版は1938年で、その後何度か改定され、私が読んだのは最後の改訂版である1980年版です。
この本について、400ページを越える大著であり、内容は多岐にわたりますので、一口で感想をのべるのは困難です。ただあえて一口でいえば、久々に読んだ名著だった、ということです。「歴史家は優れたストーリー・テラーでなければならない」というのが、私の恩師の口癖でしたが、まさに本書の著者ジェームズは優れたストーリー・テラーだと思います。これ程大分な本を、まったく飽きることなく読み通すことができました。この本を買ったのは随分前で、長い間本箱で眠らせておくには惜しい本でした。
ハイチの歴史については、このブログの「グローバル・ヒストリー:第23章 綿織物とパックス・ブリタニカ 付録ハイチの悲劇」を参照して下さい。その内容は、「カリブ海からの問い ハイチ革命と近代世界」(浜忠雄 2003年岩波書店 世界歴史選書)に依拠しており、本書も「ブラック・ジャコバン」の強い影響を受けていると思われます。
トゥサン・ルヴェルチュールの父は西アフリカのある部族の族長でしたが、捕らえられてフランスの植民地サン・ドマング(現ハイチ)に送られて奴隷とされます。トゥサンはそこで生まれますが、農園の管理人が比較的親切な人物で、トゥサンに読み書きを習わせます。トゥサンは非常に有能で、土地の管理を任され、さらに解放されて自らの土地をもつようになります。つまり彼はかなり恵まれた境遇にある黒人でした。
1789年にフランス革命が勃発し、自由・平等・友愛の「人権宣言」が発布され、翌年にはそれがサン・ドマングにも伝えられました。これにより、サン・ドマングの奴隷は解放されたかに思われましたが、奴隷主は「人権宣言」の受け入れを断固拒否したため、各地で奴隷たちが反乱を起こします。トゥサンもこの反乱に加わり、たちまち頭角を現します。おそらく、フランスで「人権宣言」を起草した人たちは、植民地の奴隷のことまで念頭においていなかったと思いますが、革命が過激化する中で、ジャコバン政府は1794年にフランスの全植民地における奴隷の解放を宣言します。
しかしフランスの政治情勢は刻々と変化し、しだいに保守的となり、ナポレオンが登場すると奴隷解放の撤回が取沙汰されるようになります。また、内部では白人と黒人の対立、黒人とムラート(白人と黒人の混血)の対立があります。さらに、東で国境を接するサント・ドミンゴ(現ドミニカ)を支配するスペインとの対立、フランスと対立するイギリスの動き、サン・ドマングとの通商を求めるアメリカの動向など、複雑な国際関係が展開されます。ハイチは、近代世界システムという欲望の渦の中に放り出されたわけです。著者は、こうした複雑な動向を非常に分かりやすく語っており、著者が並外れたストーリー・テラーであることを証明しています。
著者は、トゥサンを激賞していますが、2つの欠点をあげています。一つは、彼は寡黙だったため、自分が向かおうとしている道をはっきり示さず、民衆を一つの方向に向けることがでなかったことです。もう一つは、彼はフランス革命の精神を信じ、フランスから離れることができなかったことです。彼は、最後までジャコバン精神の信奉者でした。現実には、トゥサンを捕らえたナポレオンは、トゥサンを処刑すれば奴隷の反発が強まるため、トゥサンを牢獄に閉じ込め、寒さと飢えと拷問で死んでいくのを待ちました。トゥサンには、この冷酷さを信じることができなかったのだと思います。
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