2019年3月30日土曜日

映画「ユリシーズの瞳」を観て

1995年制作のギリシア、フランス、イタリアの合作映画で、この1世紀近くにおよぶバルカン半島の混迷を時空を超えて描き出しています。1995年という年は、ボスニア紛争が一応終結した年で、そこから90年遡った1905年との間を主人公が時空を超えて放浪します。なお、バルカン半島やボスニア戦争については、このブログの「映画でユーゴスラヴィアの解体を観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2018/07/blog-post.html)「映画でボスニアを観て」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/11/blog-post_12.html)を参照して下さい。
映画は、ギリシア出身のアメリカの映画監督が、故郷のギリシアを訪ね、幻の未現像のフィルムを求めてバルカンを彷徨するという話です。この幻のフィルムとは、マナキス兄弟という二人の映画監督が、1905年に撮影したとされるドキュメンタリー映画のフィルムだそうで、このフィルムはバルカンで初めて撮影された映画だそうです。この二人の映画監督は、政治やイデオロギーではなく民衆の風俗や生活を映し出すことに長けた人物だったようで、彼らの眼を通して1905年のバルカン半島を見つめなおそうということです。

1905年以降のバルカン半島の歴史は、苦難の歴史でした。二度のバルカン戦争、サラエボ事件に端を発する第一次世界大戦、第二次世界大戦におけるドイツ軍の占領、戦後ソ連軍による占領と社会主義化、そして1989年冷戦の終結を機に起こった民主化運動と、ユーゴスラヴィア内戦などです。そうしたことを背景に、監督Aはマナキス兄弟の眼差しを求めて、90年に及ぶバルカン半島の歴史を、時空を超えて彷徨います。この映画のタイトルのユリシーズとは、ホメロスのオデュッセイアのことで、彼は10年にわたって各地を放浪します。この映画のタイトルとユリシーズとの関連はよく分かりませんが、ユリシーズの瞳とは、マナキス兄弟の瞳か、あるいは監督Aの瞳、あるいはこの映画の監督自身の瞳のことかもしれません。











映画ではいろいろ印象的な場面がつくられていますが、一番印象的な場面は、巨大なレーニン像を乗せた船がドナウ川を遡る場面です。ドナウ川はドイツ南部のシュヴァルツヴァルトに水源をもち、オーストリアを通って、東欧・バルカンの10か国を通って黒海に注ぎます。ドナウ川は途中いくつもの川が合流して大河となり、オーストラリアを通ってハンガリーに入るとスロヴァキアとの国境を形成し、その後ハンガリーを貫流します。ハンガリーを抜けると、ドナウ川はセルビアとクロアティアの国境となり、次いでセルビアとルーマニアの国境、ルーマニアとブルガリアの、ウクライナとルーマニアの国境となってドナウ川は黒海に注ぎ込みます。

東欧・バルカン諸国では、かつて社会主義政権が支配しており、したがってどの国にも巨大なレーニン像が建っていたはずです。そして、そうしたレーニン像は、社会主義政権崩壊後ほとんど撤去され、映画で船に乗せられたレーニン像もそうしたレーニン像の一つだと思われます。映画で、このレーニン像が何故船に乗せられ、ドナウ川を遡っているのかは分かりませんが、何か時代を逆行しているようにも見え、滑稽であり、悲劇的でもあります。この場面が、この映画を象徴しているのかもしれません。

2019年3月27日水曜日

「名古屋を古地図で歩く本」を読んで

ロム・インターナショナル[]KAWADE夢文庫、2016

私は人生の大半を名古屋近郊で暮らし、さらに名古屋で働いてきました。私は、毎日のように車で名古屋市内を走り、また地下鉄を使って移動しており、場所によって多少濃淡の差はあるものの、私は名古屋の地理を相当詳しく知っています。しかし、それらの町の歴史的な背景については、何も知りませんでした。どの町もどの通りも、あまりに当たり前に知っていて、その背景を知ろうという気持ちさえ生まれませんでした。






名古屋の出発点が、伊勢神宮に匹敵する社格をもつ熱田神宮にあることは明らかですが、名古屋が都市として発展するようになったのは、17世紀初頭における名古屋城の建設です。もともと尾張の中心は清洲でしたが、清州は洪水に見舞われやすく、また大軍をおくには手狭だったことから、家康は清洲城から名古屋城に拠点を移しました。それとともに、町が碁盤の目のように整備されました。本来戦国後期時代の町は、敵が進撃しにくいように、道を複雑に入り込ませるのですが、名古屋は初めから整然と整備され、その面影は今も残っています。ただし、当時の名古屋城の城下町は、城を中心に今日の西区と東区、さらに大須観音のある中区くらいで、今日の名古屋駅は城下町の外にありました。





 古地図を見ると、熱田宿は東海道の要衝にあることが分かります。さらに東海道はここから船で桑名に結びつけられており、熱田は東海道唯一の海上ルートの起点で、このルートが七里の渡しと呼ばれていました。名古屋城の建設に際して建築資材を運ぶため、熱田から堀川が開削され、城の完成後も堀川は物資輸送に大きな役割を果たします。この堀川は運河ですので当然源流がありませんので、守山区の庄内川から一部水を引いていました。私はかつて庄内川の岸辺に住んでおり、これでやっと私と名古屋の歴史の接点が見つかりました。

 本書を読みながら、古地図と現在の地図を比較しつつ、私の名古屋での生活と重ねつつ、私は私と名古屋の歴史との接点を見つけました。本書は決して特別なことが書かれた本ではないかも知れませんが、私にとっては私と名古屋との関係を知る上で、大変参考になった本です。

中根千絵・村手元樹編著、2013年 KADOKAWA
本書は、前に述べた「名古屋を古地図で歩く本」と一緒に借りた本で、名古屋に関するいろいろなエピソードを、あまり相互の関連性なく列挙しています。これらの内容については、私が知っていることが多いため、飛ばし読みをしました。ただ、若い人が名古屋について気楽に学びたいなら、役に立つ本ではあるでしょう。
なお、私のブログのタイトル「逍遥」のもととなった坪内逍遥は、現在の名古屋駅あたりで生まれ、現在の錦2丁目にあった日本最大の貸本屋「大惣」に入り浸っていたそうです。








2019年3月23日土曜日

映画「偽りの忠誠」を観て


2016年のイギリス・アメリカによる合作映画で、オランダを舞台にナチス親衛隊の将校とユダヤ人女性との恋が描かれており、本来そのこと自体がありえないことですので、映画の原題は「例外」です。












時は19405月です。この時ドイツ軍がベルギー・ドイツ、さらにフランスに侵攻し、イギリス軍は間一髪ダンケルクから脱出します。これについては「映画「ダンケルク」を観て」を参照して下さい。場所はオランダのユトレヒトにあるドールン館、ここにはドイツ革命で失脚したドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世が住んでいました。ヴィルヘルム2世は退位してすでに20年以上たつものの、ドイツにはなお帝政復活派がおり、ドイツにとって気になる存在でした。一方、イギリスにとっても、なおドイツで一定の人気があるヴィルヘルム2世がナチスによって利用されることは好ましくありませんので、ヴィルヘルム2世にイギリスへの亡命を打診していました。まさにドールン館は、年老いた元皇帝を巡ってスパイが暗躍する場所だったのです。
そこへ、ナチス親衛隊のブラント大尉が、ヴィルヘルム2世を監視するために派遣されてきます。親衛隊とはナチスを支える精鋭部隊で、国内のユダヤ人絶滅にも大きな役割を果たしました。ただ彼は、ポーランドで民間人の虐殺に立ち会っており、親衛隊の行為に疑念を抱いていました。一方、ドールン館ではミーケというユダヤ系オランダ人がメイドとして働いており、彼女は父と夫をドイツ軍に殺され、その復讐心からスパイ活動を行っていたようです。やがてブラントとミーケは愛し合うようになりますが、ミーケにとって憎い敵である親衛隊と関係をもつことは、当初はスパイ活動のためだったでしょう。ところが、ブラントはミーケがユダヤ人でありスパイであることを知った後も、彼女との関係を続けただけでなく、彼女を援助さえします。もはや彼は、親衛隊に対する忠誠心を失っていたのだと思います。結局ブラントはミーケのイギリス亡命を助け、彼自身は生きる意味を見失っていきますが、イギリスに亡命したミーケは彼の子を宿していました。
以上がこの映画の概略ですが、私がこの映画で一番関心をもったのはヴィルヘルム2世でした。第一次世界大戦を通じて、ヨーロッパを代表する王家のいくつかが没落しました。ロシアではロシア革命でロマノフ家は滅亡し、皇帝一家は全員処刑されました。オーストラリアのハプスブルク家は、オーストラリア革命後亡命しますが、最後の皇帝カール1世は貧困のうちに病死します。そしてドイツ帝国最後の皇帝ヴィルヘルム2世は、1888年に29歳でドイツ帝国皇帝に即位しました。彼は一貫して帝国主義政策を推進し、第一次世界大戦末期の1918年に起きたドイツ革命で退位しました。その後オランダが政治活動をしないという条件でヴィルヘルム2世の受け入れを承諾したため、以後彼はオランダで悠々自適の生活を送ることになります。

この間、ヴィルヘルム2世はドイツの帝政復活論者と策動したり、ヒトラーによる帝政復活を期待したり、さらに1940年にドイツ軍がパリを占領すると、ヒトラーに祝電を送ったりしています。映画でのヴィルヘルム2世は好々爺として描かれ、マキ割を日課とし、客には皇帝時代から集めた軍服を見せることを楽しみにしていました。妻は帝政の復活に執着しましたが、結局ヴィルヘルム2世はベルリン行きというヒトラーの誘いを断り、イギリスへの亡命の誘いも断り、1941年に病死します。彼は決して賢明な人物とはいえませんでしたが、ロシアやオーストリアの皇帝とは異なり、静かな晩年を過ごすことができました。

2019年3月20日水曜日

「近世大坂の町と人」を読んで

脇田修著 2015年 吉川弘文館
 近世の江戸については、テレビの時代劇などでしばしば見ることができます。特にテレビで「鬼平犯科帳」などを観ていると、江戸の町や風俗が詳しく描かれており、大変興味深く観ることができます。ところが、近世の大坂については江戸ほど手軽に触れることが難しいように思います。私は、大阪には以前仕事で頻繁に行っており、大変好きな町でしたが、本書は現在の大阪のルーツとなる近世大坂の姿を、いろいろな角度から見せてくれます。もちろん、近世大坂について書いた本は多数あると思いますが本書はたまたま私が図書館で借りた本ということです。
 大坂も江戸も、築城がきっかけで発展しました。巨大な城を建設するために、人と物が集まり、それがやがて巨大な都市へ発展しました。ただ江戸の場合、参勤のための大名屋敷があり、さらに旗本の屋敷などがあり、江戸の人口の半分くらいは武士であり、彼らは何も生産しません。さらに庶民も直接的にしろ間接的にしろ武士との関りで生活している者が多く、庶民の生活は武士の消費の上に成り立っていました。しかも関東は、巨大都市江戸を支える後背地としては未開拓で、江戸は必要な物資を大坂からの輸送に依存せねばなりませんでした。一方大阪の武士の数は人口の1パーセント程度で、しかも大阪には古くから築かれてきた広大な産業の後背地があります。
 ここに、政治都市として発展した江戸と、産業・商業都市として発展した大坂の構造的な違いがありますが、そうした違いを背景として、大坂の特色を多岐にわたって述べており、大変興味深い内容でした。

2019年3月16日土曜日

再び映画でアイヒマンを観て

アイヒマンを追え
2015年制作のドイツ映画で、ユダヤ人の検事フリッツ・バウアーが、アイヒマンの逮捕に執念を燃やすという、実話に基づいた話です。
アイヒマンについては、このブログの「映画でヒトラーを観て ヒトラーの審判 アイヒマン、最期の告白」「イェルサレムのアイヒマン」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/02/blog-post_24.html)を参照して下さい。アイヒマンは、ヨーロッパ中のユダヤ人を強制収容所に送った人物で、ドイツが敗戦すると、彼はいち早く海外に逃亡していました。戦後の一時期にはドイツでは元ナチス党員に対する風当たりが強かったのですが、1950年の後半ともなると、人々の関心は戦犯の逮捕より、経済復興に向けられ、政権内部にも元親衛隊の将校などが多数復帰していました。
フランクフルトの検事長だったフリッツ・バウアーはユダヤ人であり、ナチス政権時代に逮捕され、ナチス政権に従うと宣誓し、やがて国外に亡命します。帰国後フランクフルトの検事長となり、アイヒマンを逮捕することに執念を燃やしますが、政府内にはナチスのシンパが沢山おり、彼の行動を妨害します。バウアーは、ようやくアイヒマンがアルゼンチンにいることを突き止めますが、政府は行動を起こそうとしません。そこでバウアーは、イスラエルの諜報機関モサドに情報を提供し、その結果モサドが1960年にアイヒマンの身柄を拘束します。
バウアーとしては、政府内部にいる元ナチス高官やナチスのシンパに対して、絶対に許さないという警告を発するため、アイヒマンをドイツで裁いて処刑する必要があると考えていました。そのため政府にイスラエル政府に対してアイヒマンの身柄の引き渡しを要求することを求めましたが、政府はこれを拒否し、結局アイヒマンは1961年にイスラエルで裁かれ、翌年に処刑されました。映画はここで終わりますが、バウアーの戦いはまだ終わりません。

1963年から65年にかけてフランクフルトで、通称アウシュヴィッツ裁判と呼ばれる裁判が行われ、ニュルンベルク裁判で裁かれなかった人々が裁かれます。この裁判でバウアーはアウシュヴィッツで残虐行為を行った22名の人物を特定し、彼らを実名で起訴し、多くの証人を呼んでアウシュヴィッツで行われた残虐行為を暴いたのです。こうしてバウアーは、自らの信念を貫いたのです。「現在、歴史家はこの裁判を社会のターニング・ポイントだったと評価している。匿名だった民族虐殺の実行犯に初めて名前と顔がつき、この時から過去の検証が始まった。ドイツ人の歴史認識を変えたのは、勇気ある検事、裁判官、そして証言者たちだった。」(ウイキペディア)
アイヒマンの後継者
 2015年にアメリカで制作された映画で、誰もがアイヒマンになりうることを実証しようとした実在した心理学者ミルグラムの半生を描いています。
 アイヒマンの逮捕と裁判は世界中で大きな話題となり、彼が普通の人間であったことは、世界中の人々を驚愕させました。前にもふれましたが、ハンナ・アーレントは1963年に発表した裁判記録「イェルサレムのアイヒマン」に、「悪の陳腐さについての報告」という副題をつけました。こうした中で、1961年、イェール大学で社会心理学を研究していたユダヤ系アメリカ人であるスタンレー・ミルグラムは、なぜホロコーストが発生したのかを調べるために実験を行いました。
(ウイキペディア)
 この図におけるTは教師という設定で、別室のLは生徒、ELを監督する人という設定です。TLに質問をします。単に暗記したものを思い出させるだけの単調な質問です。Lが間違えると、TLに罰として電流を流します。15Vから始まり、間違えるたびに電流をあげ、Lは苦しみの声をあげます。Tは躊躇し、Eに止めたいと訴えますが、Eは「1.続行してください。2.この実験は、あなたに続行していただかなくてはいけません。3.あなたに続行していただく事が絶対に必要なのです。4.迷うことはありません、あなたは続けるべきです」と答えるのみです。
 Eは絶対的な権威者であり、Tは一般大衆であり、Lは顔も知らぬ犠牲者ということです。そして実験の結果、実に65%もの人が450Vまで電圧をあげました。つまり多くの人がアイヒマンになりうるという結果がでたわけです。なお、この実験における被験者はTのみで、Lは大学関係者であり、電流は流れておらず、苦痛の叫びは予め録音されたものです。この実験結果は、1963年に「服従の行動研究」として発表され、賛否両論が激しく論じられ、今も決着がついていません。そして映画もまた、この実験についての評価を下していません。
 私自身は、このような実験には嫌悪感を抱きます。この実験結果を見るまでもなく、私は自分自身の中にアイヒマンがいることを自覚しています。それよりも、こうした実験は大衆心理の捜査や洗脳につながるのではないかと危惧します。事実、この研究については、軍が大変興味を示したとのことです。

2019年3月13日水曜日

「ある奴隷少女に起こった出来事」を読んで

ハリエット・アン・ジェイコブズ著 堀越ゆき訳 2013年 大和書店
 本書は、19世紀のアメリカ合衆国で、奴隷として生きた一人の黒人女性の回想録です。本書は1861年、つまり南北戦争が始まった年に執筆されましたが、出版直前に出版社が倒産して自費出版となり、しかも彼女がペンネームを使っていたことや、文体があまりに見事だったこともあって、「白人著者によるフィクション」と考えられ、長く人々から忘れられていました。しかしアメリカの歴史学者イエリン教授は、本書の著者がジェイコブズであること、また本書に書かれていることが事実であることを確認し、いわば本書を再発見します。実に本書が出版されてから、126年目のことです。それでも、初め本書は奴隷制度の資料として読まれていたにすぎませんが、次第に本書が人生や人間について語る文学して、広く愛読されようになりました。
 彼女は、1813年に奴隷の子として生まれ、幼くして両親と死別し、12歳で好色な医者の奴隷となり、性的虐待を受けます。そのため彼女は家から逃げ出し、7年間も屋根裏部屋で過ごし、やがて北部に逃亡します。とはいえ逃亡奴隷として捕まれば、法に従って所有主のものとに返されます。それから逃れる方法は、知人に奴隷主から自分を買ってもらう、つまり売買契約書を作って、そのうえで知人に解放してもらう方法です。そしてこれは達成されました。知人から売買契約書が作成されたとの知らせが届いたのです。しかしこの報告は、彼女にとって決してうれしいものではありませんでした。
  「売買契約書!」-この言葉は、思い切り私を打ちのめした。とうとう私は売られたのだ!人間が、自由なニューヨークで売られたのだ。売買契約書は記録として残り、キリストが生まれ19世紀経った終わりにも、女は取引用の商品だったと、後の時代の人びとが学ぶことになるだろう。アメリカ合衆国の文明の進化を測りたいと希望する古物収集家にとっては、以後、有益な文書になるかもしれない。この紙切れが意図する価値は十分に分かっていたが、自由を愛する人間として、これを目にする気にはなれない。この紙を手に入れてくれた寛大な友には深く感謝しているが、正しく自分のものでは決してなかった何かに対し、支払いを要求した悪人のことは、嫌悪している。
 私は今までに、奴隷制に関する本をかなり読み、映画もかなり観ました。したがって、本書に書かれているような奴隷に関する非人道的な扱いについて、知識としてはもっていました。しかし本書は、現実に奴隷であった女性により、自らの惨い体験を、極めて知的で美しい文章で書かれたものであり、圧倒的な迫力でわれわれに迫ってきます。まさに古典的な名作と呼ぶに相応しい本だとおもいます。

 黒人奴隷制度については、今まで何度も取り上げてきましたので、以下の記事も参照して下さい。
「第21章 大西洋三角貿易」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/21.html)
「アメリカ黒人奴隷の歴史を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/07/blog-post_8.html)
「映画でアメリカを観る(2)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/01/2.html)
「映画でアメリカを観る(3)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/01/3.html)

 最後に、大変興味深いのは、本書の訳者が大手外資系企業コンサルティング会社で企業買収の仕事としているそうで、要するに「はげたか」だということです。その彼女があえて本書を翻訳したのは、自分もまた牢獄に閉じ込められている、という強い思いがあったからのようです。


2019年3月9日土曜日

映画「ツタンカーメンの秘宝」を観て

2006年にアメリカ合衆国とスペインで制作されたテレビ映画ですが、私は完全に勘違いしていました。前に観た映画「トロイの秘宝を追え」が発掘者シュリーマンの物語だったので、「ツタンカーメンの秘宝」も当然発掘者カーターの物語だと思っていましたが、これは完全にファンタスティック・アドベンチュア映画でした。
 ツタンカーメンは紀元前14世紀の古代エジプトのファラオで、父が宗教改革を行ったアメンホテプ4世です。ツタンカーメン自身は18歳で死んでいるため、政治的に大きな役割を果たしたとは思えませんが、彼が注目を集めたのは、考古学者カーターによる彼の墓の発掘の故でした。エジプトのファラオの墓は数えきれないほど発掘されていますが、そのほとんどが盗掘のため空同然でしたが、ツタンカーメンの墓はほとんど手つかずのまま残ったので、驚くべき量の副葬品が発見され、それらは今日も世界中で展示され続けています。
 盗掘がどのよう行われたのかについては諸説ありますが、墓を建造した役人が完成直後に盗掘したとか、墓の周辺に盗人村があり、その村の人びとが代々盗掘で生計を立てていたとか、いろいろあります。いずれにしても盗掘された金銀は、熔かされて副葬品となり、別のファラオの墓に埋められるわけです。そうした中でツタンカーメンの墓は、ほとんど手つかずで残ったため、その理由を説明するためにさまざまな推測がなされ、さまざまな物語が生み出されました。

 この物語では、ツタンカーメンは太陽神ラーの命令で悪魔と戦い、悪魔を封じ込めて自らは地中に去っていきますが、最近(20世紀)になって悪魔が復活しそうになったため、美男美女の考古学者がツタンカーメンの墓を発掘してツタンカーメンを復活させ、悪魔をやっつける、という話です。最後に美男美女はカーターという冴えない考古学者にツタンカーメンの墓の発掘の栄誉を与えて去っていくという話です。それが1922年で、この年号だけが史実と一致していますが、全体としてはつまらない映画でした。むしろカーターの発掘物語こそが真に面白いドラマであり、私はこの映画にこれを期待していたのですが、それとはまったく関係のない映画でした。
 映画があまりにつまらなかったので、図書館でツタンカーメンの発掘に関する本を借りてきました。「図説 ツタンカーメン発掘秘史」(レナード・コットレル著、1965年、前田耕作監修、暮田愛訳、原書房、2012)です。ツタンカーメンについては、すでに何十年も前に何冊もの本を読んであり、本書も特に新たに付け加える内容はありませんでしたが、著者がジャーナリストであることもあって、多くの図版を用いて生き生きと描かれているため、大変面白く読むことができました。
 シュリーマンとカーターの違いは、シュリーマンが発見したのはまったく未知のミケーネ文明であり、また彼は考古学的な発掘手法を無視して宝物にたどり着きました。これに対してカーターが発掘したものは、すでにヒエログリフで知られているものばかりでしたが、まだ誰も実物を見たことがありませんでした。また彼は可能な限り科学的手法にしたがいました。例えば布のように外気に弱い遺品は慎重に保存措置をほどこしまた。さらに玄室が目前にありましたが、これを封印し、前室や周辺の部屋を徹底的に調査し終わるまで玄室には入りませんでした。

 今回、本書で私が知った事実が一つあります。それはすでに読んだのに忘れていたのかもしれません。前に、この墓が手つかずで発見されたと言いましたが、厳密には盗人が入った痕跡がありました。おそらく墓が完成してまもなく、盗人が貴金属類を持ち出そうとして、何者かに邪魔をされて、持ち出そうとした貴金属類を放置して逃げ出したようです。以後、3千年以上この墓にはだれも入った形跡はないようです。3千年以上前に、一体誰が盗みに入り、誰がそれを阻止したのか、そうしたことを考えるだけでわくわくします。

2019年3月6日水曜日

「スターリンの娘」を読んで


副題 クレムリンの皇女スヴェトラーナの生涯
ローズマリー・サリヴァン著 2015年、染谷徹訳 白水社 2017
 スヴェトラーナは、1926年に独裁者スターリンの子として生まれ、スターリンに溺愛されて育ちましたが、彼女は父が行った粛清をよく知っていました。叔父・叔母・従弟などが、彼女の身近な人々が、次々と姿を消していったからです。1953年に父スターリンが死にます。すでにこの時までに彼女は結婚と離婚を三度繰り返し、二人の子供をもうけていました。1956年、フルシチョフがスターリン批判を行うに当たって、彼女は前もって原稿を見せられましたが、そこに書かれていることがすべて事実であったため、同意しました。





スターリン批判後も、彼女はスターリンの娘として特別扱いされていましたが、1967年に彼女は突如アメリカに亡命します。この亡命の物語は、スパイ映画もどきでした。当時インドのソ連大使館に滞在していた彼女は、一人で大使館を出てタクシーに乗り、アメリカ大使館に逃げ込んだのです。驚いたのはアメリカ大使館でした。アメリカは、そもそもスターリンに娘がいることさえ知りませんでしたので、ソ連による陰謀ではないかと疑ったり、また当時ソ連との間で緊張緩和の話し合いが進んでいたため、交渉が中断するのではないかといった懸念がありましたが、彼女の亡命は達成されました。彼女には二人の子供がおり、この子たちをソ連に残して単身で亡命しました。彼女は突発的に行動する癖があるようで、どうやら彼女はソ連の「国有財産」であることにうんざりしたようです。
 こうして彼女の後半生が始まります。アメリカで彼女は回顧録を書いて巨額の印税収入を得ますが、詐欺ですべてを失います。その後、著作活動を行いつつ、資本主義社会で生きていくことを学びます。1980年代にイギリスに移住、さらにロシアに帰国、父と母の故郷であるグルジア(ジョージア)に帰国、さらにイギリスに移住、2011年に直腸がんで死亡します。85歳でした。

 彼女は米ソ冷戦の全時代を、ソ連とアメリカで生き、ジプシーのように世界各地を転々とし、何度も結婚を繰り返し、そして最後までスターリンの娘という呪縛から解き放たれることはありませんでした。本書は上下巻合わせて800ページを超え、そうした彼女の生涯を詳細に描いています。

2019年3月2日土曜日

映画「トロイの秘宝を追え」を観て
















2007年にドイツで制作された映画で、ドイツ(プロイセン)の実業家・考古学者であるシュリーマンによるトロイ(トロイア)の発掘物語が描かれています。DVDジャケットの絵だけ見ると、ファンタスティク・アドベンチュア映画のように見えますが、実際にはシュリーマンの自伝「古代への情熱」に基づいたトロイの発掘物語です。
トロイは、3千年以上前にアナトリア半島の北西部にあった都市で、トロイ戦争によってギリシアにより滅ぼされました。トロイとトロイ戦争については、このブログの「映画で古代ギリシアを観て(1)( http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/04/1.html)を参照して下さい。
この映画の主人公シュリーマンについては、彼の自伝によってあまりに有名です。彼は貧しい家に生まれ、幼いころからホメロスの詩を愛し、イリアス=トロイが実在すると信じ、やがて富豪になると私財を投げうってトロイを発掘したということです。映画は、シュリーマンの発掘を妨害しようとするドイツの学会との対立と、発掘に出発する直前に再婚した妻ソフィとの関係を軸に展開されます。ドイツの学会は素人による発掘を夢物語として嘲笑しただけでなく、オスマン帝国の役人を通じてさまざまな妨害工作を行います。また、当時47歳だったシュリーマンは、ギリシアで17歳の女性と再婚しますが、それは金持ちが貧乏人から娘を買ったに等しく、当初二人の関係はぎくしゃくしていましたが、やがてソフィはシュリーマンとともに発掘に情熱を燃やすようになります。
シュリーマンについては、称賛と同時に非難もたくさんあります。まず場所の選定は山勘に近く、発掘の成功はド素人の執念によって生み出された幸運というべきかもしれません。また、発掘という作業はとても地味な作業で、薄紙を剥ぐように土を削り、遺品が発見された場所を記録し、そうして積み上げられた事実に基づいて歴史を再構成していくものです。ところがシュリーマンの発掘は「宝物めがけてまっしぐら」という掘り方で、彼が発見したトロイ最後の王プリマノスの宝なるものがどこで発見されたのかもよく分かりませんでした。今日では、この遺物が発見されたのはトロイ戦争より千年以上前の遺構ではないかとされています。そして、仮にこの遺跡がトロイであったとしても、シュリーマンの乱暴な発掘により、彼が追い求めたトロイ滅亡の遺跡は破壊されてしまったのではないかと考えられています。

 とはいえ、こうしたことをシュリーマン一人のせいにすることはできません。当時、考古学のノウハウはまだ確立されておらず、発掘者たちは、まず宝物を発見して証拠とするしかなかったのです。またプリマノスの秘宝を海外に持ち出した件について、これは大英博物館をはじめ多くの博物館が当時行っていたことです。だから許されるということでは決してありませんが、当時にあっては、シュリーマンの行動は決して異常な行動だったわけではないのです。今日、歴史遺跡を多数もつ国々が、欧米の博物館に遺品の返還を要求していますが、それを受け入れたら欧米の博物館は空になってしまいます。
大村幸弘著、2014年、山川出版社

 たまたまこの映画を観ているのと同じ時期に、この本を読みました。著者は高名な考古学者であり、アナトリアを中心に多数の発掘に関わってきました。そして彼も、多くの他の考古学者と同様に、シュリーマン「古代への情熱」に魅かれて考古学への道を進みました。そして今も発掘に際しては、「古代への情熱」を携え、読み返すそうです。この間に、シュリーマンは色々批判され、一時はほとんどペテン師扱いでした。それらの批判には誤解もあり真実もありますが、それでも筆者はシュリーマンがその後の考古学及ぼした影響は計り知れないと主張します。









 今日、シュリーマンが発掘した遺跡はトロイ遺跡として世界遺産に登録され、その入り口には有名なトロイの木馬のレプリカが置かれています。ただ、この場所がトロイかどうかについては、まだ最終的に確認されていません。それでも、良い意味でも悪い意味でも考古学発展の出発点になった場所として、広く人々に知られる価値がある場所だと思います。いい意味では考古学へのシュリーマンの情熱であり、悪い意味とは発掘の方法や遺品を持ち出したことなどで、それは考古学者としてやってはならないという、教訓です。考古学は、決して宝物探しではないということです。
 映画で語られている内容については、概ね私が知っていることでしたので、あまり感銘をうけることはありませんでしたが、それでも発掘についての啓蒙的な映画として観れば、価値があるのではないでしょうか。