2014年1月9日木曜日

第21章 大西洋三角貿易





1.砂糖について―食生活の転換1

2.茶について―食生活の転換2

3.奴隷について―新しい労働力を求めて

4.アフリカ社会の変質と北米植民地の勃興



 
 
 
 
 





1.砂糖について―食生活の転換1

 

交易品の変遷

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
サトウキビ





















サトウキビのルーツ
 砂糖の原料となるサトウキビは、イネ科の熱帯性の植物で、その茎から搾られた液体から砂糖が精製されます。サトウキビの原産は南太平洋の島々で、そこから東南アジアに伝わり、前2000年頃にはインドでサトウキビが栽培されていたとされます。アレクサンドロスがインドに遠征したさい、インドの砂糖の存在を知り、中国でも『後漢書』がインドの砂糖について報告しているそうです。ヨーロッパには、砂糖は7世紀頃アラブ人によってもたらされ、8世紀頃にはキプロスなど地中海地域でサトウキビが栽培されるようになりました。当時砂糖は薬用として用いられていた程度で、需要はそれほど多くありませんでした。しかし16世紀になってヨーロッパ人の食生活が大きく転換すると、砂糖に対する需要が急増します。しかし、ヨーロッパの気候風土ではサトウキビを栽培することができなかったため、まず16世紀にポルトガルによりブラジルでサトウキビプランテーションが開かれ、17世紀から18世紀にかけて、オランダやイギリス・フランスにより西インド諸島でプランテーションが開かれました。


  とくに、18世紀にイギリスを中心として紅茶が普及すると、紅茶のための砂糖消費が増加しました。そこでイギリスはジャマイカを中心に、フランスはハイチを中心に、それぞれ大規模な砂糖のプランテーションを経営するようになりました。ところが、プランテーションでの労働力が問題となりました。現地人は強制労働と疫病のためほとんど死滅しており、ヨーロッパ人は熱帯地帯での肉体労働に不慣れだったからです。そこで、西アフリカから黒人を奴隷として輸入することになり、ここに悪名高い奴隷貿易が始まることになります。そして、黒人奴隷貿易は、強力な経済システムを形成するために必要な収入源となったのである。

ちょうどこの頃から、中国の商人が東南アジアの島々で現地人にサトウキビを栽培させ、製糖業を経営して大きな利益をあげるようになりますが、このことは砂糖が当時の国際商品として中心的な役割を果たしていたことを示しています。そしてヨーロッパにとって、砂糖プランテーションは、近代世界システムを世界的な規模に拡大して行くための出発点ともなったのです。
日本で初めて砂糖が入ってきたのは奈良時代とされ、以後中国から砂糖が輸入されるようになります。16世紀には琉球などでサトウキビが栽培されるようになりますが、江戸幕府が砂糖の輸入を禁止したため、砂糖の国産化が進みました。ただし砂糖は庶民にとってはまだ貴重品で、砂糖が広く普及するのは明治時代になってからです。つまり当時の日本は、砂糖を中心とした国際的な交易の外にあったのです。

テンサイ

一方、18世紀のドイツにおいて飼料用のビートを改良したテンサイが栽培されるようになり、サトウキビに代わる原料として注目され始めました。とくにテンサイはサトウキビと異なり寒冷地でも栽培できたのです。そして、19世紀初頭にナポレオンの大陸封鎖令に対しイギリスが海上封鎖を行ったため、一気にテンサイの栽培が広がり、かくしてサトウキビ・プランテーションと砂糖貿易の時代はおよそ1世紀で終わりました。現在、世界全体の砂糖のうち、6割がサトウキビ、4割がテンサイを原料としています。








2.茶について―食生活の転換2

 コーヒーと茶は、われわれが日常的に飲む嗜好品です。コーヒーはエチオピアかアラビアの原産で、イスラーム教世界で広く飲用されていました。16世紀頃にはヨーロッパにも伝えられ、17世紀にはパリやロンドンなどに多数のカフェが生まれ、市民の情報交換の場としても、重要な役割を果たしました。ヨーロッパでは今日でも、イギリス以外の国では広くコーヒーが飲用されています。そして18世紀には、ヨーロッパ人がアジアやアメリカ大陸でコーヒーの木を栽培し、重要な国際商品となりましたたが、歴史を変えるほどの役割を果たすことはありませんでした。
 一方茶は、ツバキ科の植物で葉または茎を飲料に用います。中国南西部あるいはミャンマーあたりが原産地で、遅くとも紀元前後には中国で茶が飲まれており、10世紀頃には庶民にも飲茶の風習が普及し、12世紀には日本にも伝わりました。茶は製造工程の違いにより分類されます。発酵させないで使用するものが緑茶、発酵させたものが紅茶、その中間がウーロン茶です。そしてイギリスで普及したのが、紅茶、英語ではブラック・ティーです。17世紀にオランダが初めて中国から茶を輸入し、東洋の神秘な飲み物として、一部の上流階級で飲まれましたが、当時はコーヒーの全盛時代だったため、茶はあまり普及しませんでした。ところが、18世紀に入ってイギリスの上流階級で飲茶の風習が広がり、さらに産業革命以降労働者にも飲茶が普及したため、茶の需要が急増することになりました。

イギリス東インド会社は、インドを拠点に業績を伸ばしていましたが、17世紀後半から中国貿易への関与も進み、1713年には清朝から正式に貿易の権利を獲得し、広東(広州)から茶を定期的に積み出すようになりました。イギリスでの紅茶ブームもあり、ヨーロッパへの茶の輸出は増加の一途をたどります。そして、この茶貿易は、その後の歴史にさまざまな影響を及ぼすことになります。

 
クリッパー


 一つの例が帆船の高速化です。茶は変質しやすく、しかも航路は熱帯地帯を通過するため、中国からイギリスまでの時間を少しでも短縮する必要がありました。そのため造船技術や航海技術が改良され、19世紀にはクリッパーと呼ばれる高速帆船が登場します。そしてクリッパーによる航海が全盛期を迎えた19世紀半ばに、風向きに左右されることなく航行できる蒸気船が登場することになります。









ボストン茶会事件
また、茶はアメリカ合衆国の独立にも影響を与えました。イギリスが東インド会社に対して北米植民地での茶の独占販売権を与えたのに対し1773年にボストン市民がボストン港に停泊中の東インド会社の船を襲い、積荷の茶を海に捨てるというボストン茶会事件が起き、これをきっかけに独立への機運が高まって行ったのです。もちろん、これがアメリカ合衆国独立の原因というわけではありませんが、きっかけの一つではあります。たかが茶が、アメリカ合衆国の独立への動きを後押ししたのです。さらに、19世紀に入ってイギリスは、茶貿易の対価としてインド産のアヘンを中国に密輸するようになりますが、やがてこれがアヘン戦争を引き起こし、中国は激動の時代を迎えることになります。そして何よりも、イギリス・インド・中国を結ぶ貿易体制の形成は、近代世界システムにおける覇権国家としてのイギリスの地位を確かなものとしていくのです。まさに、たかが「茶」、されど「茶」です。かくして、砂糖と茶は、ともにイギリス資本主義の命運を左右する商品だったのです。

茶は世界をめぐる
 









3.奴隷について―新しい労働力を求めて

奴隷とは何か。広辞苑では次のように説明されています。「人間としての権利・自由を認められず、他人の支配の下にさまざまな労務に服し、かつ売買・譲渡の目的とされる人。古代ではギリシア・ローマ、近代では南北アメリカの植民地に典型的に現れ、日本の古代の奴婢(ヌヒ)も大体これに当る。」

 奴隷制はすでに先史時代からあったとされ、古代に農耕社会が発展する中で広く普及しました。ただ、奴隷労働が主要な生産労働の基礎となった例は少なく、例えばギリシアの奴隷は家内奴隷が中心で、主人とともに畑を耕す補助的な労働力でした。また、国家が大規模に奴隷を使役して宮殿などを建設することはありましたが、これも日常的に行われていたわけではありません。例外的なのは、古代ローマのラティフンディアと1819世紀アメリカ大陸のプランテーションで、ここでは生産のほとんどを奴隷労働に依存していました。古代ローマが絶え間なく征服戦争を行った理由の一つは、奴隷を補給する必要があったからです。

 奴隷と所有者との関係も一様ではありません。所有者が生殺与奪の権利をもち、奴隷を全面的に支配するという例は少なく、奴隷が家族を持ち日常生活を送っているというのが、一般的です。日本の奴婢)はこうした奴隷でした。またインドのカースト制の最下層に位置づけられるシュードラは、日本では奴隷と翻訳されていますが、どちらかといえば宗教的な身分階層です。イスラーム世界では、マムルークなどの奴隷がいますが、彼らは自分の身分を買い戻すことができたし、通常は普通の生活を送っていました。ヨーロッパによる奴隷貿易は18世紀に全盛期を迎えますが、それ以前からアフリカ内陸部で奴隷売買が行われていました。しかしこれも、今日的な見方をすれば、口減らしのために他の地域に仕事を求めるためのものでした。やはり例外的なのは、古代ローマのラティフンディアと1819世紀アメリカ大陸のプランテーションでの奴隷制です。とくに後者は、近代世界システム形成の上で重要な役割を果たすことになります。

黒人奴隷
 17世紀後半からブラジル北東部やカリブ海で盛んとなったサトウキビ・プランテーションの労働力として、アフリカ西海岸から大量の黒人奴隷が輸出されるようになりました。当時は、プランテーションの所有者はほとんど本国におり、経営を管理人に任せていたため、管理人は奴隷に過酷な労働を課して3年程度で使い捨てており、実際奴隷を大切に使って長生きさせるより、この方が安くついたのです。したがって西アフリカから大量の黒人奴隷がもたらされました。とくに1713年、スペインが中南米植民地への奴隷供給独占権=アシエントをイギリスに与えたため、イギリスの奴隷貿易は空前の繁栄を迎えました。くしくも1713年は、イギリスが中国から茶貿易の権利を獲得した年でもあります。一方イギリスの北米植民地南部でも、奴隷労働力によるタバコ・プランテーションが発展し、イギリスはここにも奴隷を供給しました。こうしてアメリカ大陸は、イギリスを中心とする経済システムに組み込まれ、経済的な従属を強めて行ったのです。そして、奴隷貿易によって蓄積された富が、やがてイギリスで始まった産業革命のための富の蓄積を生み出していったのです。

大西洋三角貿易


 しかしまだ問題が残っていました。アフリカから黒人奴隷を輸入するための対価となる商品が不足していたのです。ヨーロッパは、武器や雑貨などの工業製品を輸出していましたが、アフリカのような熱帯地帯では毛織物に対する需要はまったくありません。そこで、インド産の綿織物を輸入してアフリカに輸出するようになります。そしてこの綿織物が、世界史を動かす重要な商品となっていくのです。
 




4.アフリカ社会の変質と北米植民地の勃興

黒人奴隷の捕獲
 奴隷貿易によって、アフリカ社会は重大な影響をこうむりました。アフリカではもともと奴隷貿易が行われており、ヨーロッパの奴隷商人はアフリカの奴隷商人から黒人奴隷を購入していました。やがて奴隷の需要が高まると、内陸部の有力者がヨーロッパ商人から火器を購入し、それを用いて他の部族を攻撃して大量の住民を奴隷として売買するようになったのです。その結果、部族間の争いが激化し、伝統的な共同体社会は崩壊し、アフリカ社会は大きく変質することになります。

 ヨーロッパ人による黒人奴隷貿易は、18世紀の全盛期を中心に300年以上わたって行われました。この間に、アフリカから連れ出された人々の数は、正確には分かりませんが、1500万人以上といわれています。アフリカ内陸部はもともと人口が少ない地域であり、このような社会から1500万人もの人々が連れ出されれば、その社会に与えるダメージははかり知れません。ヨーロッパがアフリカ内陸部に本格的に進出するようになるのは19世紀後半ですが、その以前にアフリカはヨーロッパの経済システムに組み込まれていたのです。

 一方、奴隷の供給を受けたアメリカ大陸やカリブ海地域は、ヨーロッパ向けの作物を栽培し、ヨーロッパから工業製品を購入したため、ヨーロッパに経済的に従属し、19世紀にはイギリスを中心とする近代世界システムに組み込まれて行くことになります。ところが、アメリカ合衆国だけが、経済的にも政治的にもヨーロッパから自立していくことになります。それを可能とした理由は、三角貿易において北米植民地の北部が置かれた位置にあります。

大西洋三角貿易
 北米植民地の南部には、もともとイギリスの豊かな人々が移住し、彼らは広大な土地を所有し、奴隷労働に基づくタバコなどのプランテーション経営を経営していました。したがって南部は、典型的な経済的従属地域といえます。ところが、北部の人々は比較的貧しい人々が多く、個人で土地を耕して余剰を販売し、さらに商工業に従事する人々も増えていきました。また、木材資源が豊富だったので造船業・貿易業も発達しました。こうした中で、北部の商人たちはイギリスのカリブ海植民地に食料や木材を輸出するようなり、さらに砂糖の密貿易も行うようになりました。その結果北部で農業や商工業がますます発展し北部は徐々にイギリス経済からの自立を果たしていったのです。これが18世紀後半におけるアメリカ合衆国独立の背景であり、やがて19世紀に北部で資本主義が発展すると、イギリスに代わって北部資本主義が南部を経済的に従属させていくことになります。これが、19世紀後半に起こったアメリカ合衆国の南北戦争の背景です。

≪映画≫

スパルタクス

1960年、アメリカ
紀元前1世紀ローマにおける奴隷反乱の物語で、当時の奴隷制の実態を見ることができます。この反乱は実際起こった反乱です。













コブラ・ヴェルデ 緑の蛇

1987年 スペイン・ドイツ
コブラ・ヴェルデは、奴隷商人として成功し、やがてアフリカ総督にまでなりますが、結局奴隷は主人を裏切って自由となります。奴隷貿易の空しさを描いています。














マンディンゴ

1975年 アメリカ
19世紀のルイジアナで、大牧場主が黒人奴隷を飼育・販売しているという物語です。マンディンゴは、黒人奴隷の最憂慮種のことです。












アメイジング・グレイス

2006年 イギリス
18世紀末から19世紀初めのイギリスで、奴隷制廃止に生涯をかけたウィルバーフォースの生涯を描いています。アメイジング・グレイスは讃美歌のタイトルで、かつての奴隷制の船長が牧師となり、懺悔のため作曲した曲で、アメリカでもっとも愛唱されている曲です。













アミスタッド

1997年 アメリカ
19世紀半ば、アフリカで奴隷商人に捕らえられ、奴隷船アミスタッドに乗せられたこ黒人たちが、反乱を起こし、自由を獲得していくという物語で、実話に基づいています。










 パイレーツ・オブ・カリビアン

2003年 アメリカ
16世紀以降ヨーロッパが本格的に海外に進出するようになると、まだ海軍の整備が進んでいなかった国々は、海賊に特許状を与えて敵の商船を襲わせたし、また本格的な海戦の場合には海賊は正規の軍隊として敵と戦ったのです。したがって、この時代の海賊は無法者であると同時に、国家と深く結びついており、国民的な英雄でありました。ところが、18世紀になって国家による海軍が整備されるようになると、海賊という無法者集団は邪魔になり、しだいに弾圧されるようになります。この映画はこうした時代を背景として、英雄的な海賊と国家の海軍との対立が描かれています。まさに海賊の時代は終わりつつあり、この映画では海賊が勝利して終わりますが、現実には、当時海賊は滅びていく運命にあったのです。

ロビンソン・クルーソー  

2003年 フランス・ドイツ
これは、1719年イギリスのデフォーが著した冒険小説「ロビンソン・クルーソー」を映画化したものです。この小説は、ロビンソンクルーソーが、船が座礁したため27年間無人島で生活し、たまたま寄島した船に助けられて帰国する、という話しです。この小説は当時大変評判となったため、続編が出版されます。この小説が評判となった背景には、一つには、当時ヨーロッパ諸国が本格的に海外に進出し、海外に対する関心が非常に高まっていたということがあります。もう一つは、ロビンソンクルーソーの生き方が、当時の人々の共感を呼んだということです。彼は、絶望的な状況の中にあって、あらゆる工夫をしながら生き延び、しかも決して信仰を捨てませんでした。このクルーソーの生き方が、当時の信仰厚い勤勉な庶民に受け入れられたのです。



ガリヴァー旅行記 

1939年 アメリカ
1726年にイギリスのスウィフトが著した風刺小説で、船医ガリヴァーが世界各地の奇想天外な国々を訪れる、という物語です。小説で語られる国々とは、小人の国、巨人の国、空に浮かぶ島ラピュタ、馬が人間を支配する国などですが、この映画はディズニーのアニメですので、小人の国だけが扱われ、子供向けの空想物語として描かれています。映画を観て、人間=巨大なアメリカが哀れな小人=小国を助けてやっている、という印象を受けましたが、アニメですので、あまり深く考える必要はないでしょう。






 宝島 

1950年 アメリカ
19世紀末にイギリスのスティーブンソンが著した子供向けの冒険小説を映画化したものです。偶然、宝島の位置を記した地図を手に入れた少年が、海賊と戦うなど、さまざまな冒険を経て宝を手に入れるという物語です。先に述べた「パイレーツ・オブ・カリビアン」を初めとする海賊映画の多くは、この小説をモデルとした映画だと思われます。









戦艦バウンティ号の叛乱

1962年 アメリカ合衆国
この映画は、実際に起きた事件をもとにした小説が映画化されたものです。
 イギリスの戦艦バウンティ号が、南太平洋のタヒチでパンノキの苗木を手に入れてカリブ海に運ぶ途中、過酷な労働を強いる冷酷な船長に対して乗組員が反乱を起こしました。この事件にはいくつかの背景があります。18世紀を通じてカリブ海地域で黒人奴隷を用いたサトウキビ栽培が盛んに行われていましたが、奴隷の食料としてタヒチに自生するパンノキを西インド諸島で栽培しようとしたのです。さらにこの事件が起きた18世紀の末期は、フランス革命が起きた時代でもあります。当時のヨーロッパでは社会の矛盾がますます拡大し、大衆は特権階級に強い不満をもっていました。バウンティ号の反乱は、こうした時代背景のもとで起きた事件でした。





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