2017年8月30日水曜日

日中アヘン戦争

江口圭一著 1988年 岩波新書
 日本が中国で行ったアヘンの製造や販売を、著者は日中アヘン戦争と呼び、これを具体的に描き出しました。一般に、アヘンに関わるようなことについては、資料があまり残されていないのですが、たまたま著者は古本屋でモンゴル自治政府の役人が残した膨大な資料を発見し、これを下に中国での日本のアヘン政策の全体像を描こうとしました。なお、 モンゴル自治政府というのは、日本が内モンゴルの不満分子を集めて樹立した蒙疆政府のことで、この政府は満州国と同様に日本の傀儡政府でした。
 中国では、すでに100年以上に亘ってイギリスがアヘンの販売行い続けていたため、中国におけるアヘン市場は十分に開拓されていました。そして、20世紀になると、アヘン販売に対する国際的批判が高まり、イギリスはアヘン販売から手を引いていきますが、代わって日本がアヘン販売を行うようになります。とは言っても、アヘン販売は国際的に禁止されるようになるめ、日本も禁煙令を発布しますが、すでに中毒となっている患者の苦しみを緩和するため、少しずつアヘンの供給を減らすという政策をとりますが、実際にはアヘンの供給はますます増大していきます。特に、日中戦争勃発後は華北でもアヘンの販売を強化します。

 それ以前には、アヘンの販売は軍の下で行われましたが、この頃から日本政府も関わるようになります。しかも、アヘン販売の目的の一つとして、敵を毒化して弱体化させるという目的も含まれているそうですから、これはもはやアヘン戦争です。本書は、こうしたアヘン戦争の経過を、かなり詳細なデータをあげて描いています。

2017年8月26日土曜日

映画「ミステリーズ 運命のリスボン」を観て

2010年のポルトガル・フランス合作映画です。
この映画は267分もの長編で、前に観た「ルートヴィヒ」(映画「ルートヴィヒ」を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/02/blog-post_27.html)237分より長い映画です、さすがに一度観ただけではこなし切れず、二度観ることになりました。この映画は、ポルトガルの高名な作家の自伝的小説に基づいて制作されたそうです。映画の冒頭で、「これは愛情と希望を込めた物語ではない。フィクションでもなく、苦悩の日記である」と述べられています。
映画の舞台は19前半のポルトガルです。この時代のポルトガルは、ナポレオンの侵略、ブラジルの独立、保守派と自由主義者の戦いなど、ポルトガルが衰退に向かっていくさまざまな事件が起きますが、この映画では歴史は関係ありません。場所も、リスボンから始まって、イタリア・フランスを経て、またリスボンに戻ってきます。
 主人公は、一応ジョアン(のちのペドロ)という14歳の孤児で、ディニス神父が保護者となっています。二人とも謎に包まれた人物ですが、やがてジョアンの母がサンタ・バルバラ伯爵夫人アンジェラであることが分かり、彼女が親に命じられた結婚をする前に産んだ子です。実は、アンジェラの父は生まれたばかりのジョアンを殺そうとするのですが、たまたま当時無頼の生活をしていたディニス神父と、当時殺し屋だったアルベルト・デ・マガリャンエスによって助けられます。二人のうち一人は神父となり、もう一人は大金持ちとなり、二人とも、後にジョアンに深く関わることになります。その後サンタ・バルバラ伯爵が死ぬと、アンジェラは生きることに絶望して修道院に隠遁しますが、理由ははっきりしません。
 ここで第一部が終わり、第二部ではディニス神父の生い立ちが語られます。50年以上前、放蕩三昧の暮らしをしてきた若い貴族が、伯爵夫人に真の恋をし、伯爵夫人は男子を出産した後に死亡し、若い貴族は子供を友人に委ねて修道院に隠遁します。この子が、後のディニス神父でする。ディニスはフランス貴族の養子として育てられ、やがて実子の弟とブランシュという女性をめぐって争い、弟は卑劣な手段を用いてブランシュと結婚し、失意のディニスは各地を放浪し、ポルトガルで神父となります。ブランシュは双子を産んだ後に死亡し、双子の姉エリーゼは美しいけれども傲慢な女性として育ちます。彼女は、かつて彼女を侮辱したことのあるアルベルトへの復讐に執念を燃やしますが、アルベルトは相手にしません。ところが、パリに留学していたジョアンがこの年上の女性エリーゼに熱愛し、彼女の依頼でアルベルトを殺すためポルトガルに戻ります。ここで、ジョアンの誕生の秘密に関わるディニスとアルベルトが繋がります。
 結局アルベルトの殺害に失敗したジョアンは放浪の旅に出、疲れ果てての死の床につきます。そしてその瞬間、彼は14歳のジョアンにもどり、死の床の周りを彼に関わった人々が通り過ぎ、彼は死んでいきます。つまり、今までの物語は、すべて幻想だったのでしょうか。全編を通じて、幾つものミステリーが絡み合い、それぞれの人々が抱える過去、人々との関係、そうしたものを一つ一つ紡いでいき、一枚の布が完成されます。そういう意味では、前に観た映画「サン・ルイ・レイの橋」を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/02/blog-post_25.htmlに似ているように思います。いずれにせよ、この映画では、貴族同士の愛のない結婚が悲劇の原因となり、これに対して生まれた真の愛が、新たな悲劇を生み出していったようです。

 

2017年8月23日水曜日

「満州の誕生」を読んで

久保尚之著、1996年、丸善ライブラリー
現在の中国東北地方にあたる満州は、もともと清朝の発祥地であり、18世紀以降は漢人の移住が禁止されていました。しかし19世紀に入るとロシアが進出し、20世紀初頭にはロシアにより、シベリア鉄道と中国の旅順・大連をつないで満州を縦断する東清鉄道が建設されます。これに脅威を感じた日本は、やがて日露戦争に突入し、その結果南満州鉄道を手に入れます。しかし手に入れたのは鉄道であって、満州という領土ではありませんので、日本は次第に満州という領土に目を向けていきます。そしてこの頃から満州が政治的な単位として意識されるようになります。
本書は、この日露戦争前後の事情を、いろいろな角度から述べています。まず本書は、1928(昭和3)に宮崎県のある商業学校が朝鮮、満州、中国本土への1920日の修学旅行を行ったことを述べます。このことは、当時の日本人がいかに朝鮮や中国に自分たちの将来を託していたかを示しています。そして最後に、夏目漱石が1909(明治42)に旅行記として執筆した「満韓ところどころ」と伊藤博文暗殺で終わります。この旅行記は満州鉄道の依頼で書かれたものですが、さすがに夏目は満州鉄道の提灯持ちをする気はなく、現地の人々の姿をしっかりと捉えています。そして、本書のテーマは、それに先立つ南満州鉄道の獲得を巡るさまざまな問題、とくにハリマン事件の背景をとらえることです。
ハリマンはアメリカの鉄道王と呼ばれた人物で、彼は南満州鉄道の共同経営権を手に入れ、そこからヨーロッパまで大陸を横断する鉄道を建設したいと夢を抱いていたそうです。当時、アメリカのセオドアローズヴェルト大統領の仲介でポーツマス条約が締結されようとしていましたが、日露戦争はどう見ても日本が勝ったとはいえず、ロシアから賠償金をとることなど不可能でした。そのため、日本はロシアから南満州鉄道を手に入れたわけですが、これを経営する資金がなく、これに目をつけたハリマンが多額の資金を提供することを申し出たわけです。日本としては、喉から手が出るほど欲しい資金で、政府はハリソンとの間で覚書まで交わしましたが、多くの犠牲者を出した日露戦争でかろうじて手に入れた南満州鉄道を外国人との共同経営にすることには抵抗がありました。そうした中でセオドアローズヴェルト大統領が裏から手をまわして日本に資金を提供し、日本は一方的にハリマンとの覚書を破棄してしまいます。こうしてハリマンの夢は潰え去ったわけですが、セオドアローズヴェルトがこうした行動をとった背景には、本書によれば、大統領が中国における反米感情を高めることを嫌ったためとされます。
本書の主張が正しいのかどうか、私には分かりませんが、本書はハリマン事件をさまざまな角度から論じており、大変興味深い内容でした。なお、本書のサブタイトルは「日米摩擦のはじまり」で、この頃から微妙に日米摩擦が生まれてくる様子が描かれています。


2017年8月20日日曜日

夏から秋へ

畑は早くも夏から秋に向けて衣替えを始めています。


庭の西側はトマトと里芋とさつま芋が茂っています。トマトはそろそろ終わりに近づいています。今年は本当によくトマトを食べました。さつま芋は後1カ月ほどで収穫できそうですが、さと芋はまだしばらくかかりそうです。奥にはさるすべりの花も咲いています。















東側は、耕した後で、ここに大根、法蓮草、小松菜、ジャガイモを植える予定です。小さな畑ですが、これでも維持していくのは大変です。それでも、家族が食べていくことはできそうです。



















2017年8月19日土曜日

映画「カミーユ・クローデル」を観て

1988年にフランスで製作された映画で、19世紀末期に活躍した女性彫刻家の半生を描いています。

カミーユ・クローデルは、幼いころから自分で粘土を掘り出し、いろいろな造形物を作っており、異常な才能を示していたようです。1885年、彼女は19歳の時ロダンに出会います。ロダンも彼女の才能を認め、当時彼が製作に取り掛かっていた大作「地獄門」を手伝わせるため、彼女を弟子とします。なお、この「地獄門」の一部として、日本でもよく知られている「考える人」が製作されました。いずれにせよ、カミーユは大変ロダンの役に立ち、やがて二人は愛し合います。









彼女は、二十歳代後半に妊娠し中絶するとともに、ロダンに長年連れ添った内妻がいることが判明し、二人の関係は決裂します。この作品は、内妻を連れたロダンに追いすがろうとするカミーユが描かれており、ロダンを忘れきれないカミーユの哀れな気持ちが描き出されています。一方、当時カミーユの作品はロダンの模倣として受け取られていたため、彼女は自分のアトリエで一人で創作に励むようになります。彼女はアトリエに閉じこもり、ロダンへの憎しみを増幅させ、自分の作品を破壊し始め、しだいに精神が破綻していきます。その結果、191348歳の時、家族によって精神病院に入れられ、訪れる人も少なく、1943年に家族に看取られることもなく、78歳で死亡しました。彼女の残された作品は、ロダンの意志で、彼女の死後ロダン美術館に展示されました。なお、彼女の弟は詩人であると同時に外交官で、第一次大戦後駐日大使を務めたとのことです。
 映画は、話が断片的で、ストーリーを十分読み取ることができませんでしたが、一人の天才彫刻家が心のバランスを失っていく過程は、鬼気迫るものがありました。天才として生まれたことは、彼女に不幸をもたらしたといえるかもしれません。また、女性は芸術家にはなれないと考えられていた時代でしたので、彼女の不幸は、そうした時代に先駆者として生きたことにあるのかもしれません。


2017年8月16日水曜日

巨大キューリ

今年はキューリが豊作で、時々陰に隠れているキューリを見逃して、巨大なキューリに成長してしまいます。毎日キューリばかり食べていますが、とても食べきれません。













2017年8月12日土曜日

映画「運命に逆らったシチリアの少女」を観て

2008 のイタリア, フランスの合作映画で、実話をもとにマフィアとの戦いを描いたものです。
 マフィアの起源は、中世シチリアにおける農地管理人だとされます。シチリアでは、次々と支配者が代わるため、これに対して管理人のような地方ボスが自衛組織あるいは互助団体を形成するようになり、農民たちにとってはこうした組織が唯一のよりどころになっていたと思われます。特に1860年代にイタリア王国が成立すると、イタリアにさまざまな勢力が台頭して政治的対立が激化すると、人々はますますマフィアに依存するようになります。さらに20世紀になるとマフィアの統合と組織化が進み、巨大な犯罪組織に成長していきます。中央集権化を目指したムッソリーニは、マフィアに対する弾圧を強め、一時マフィアは絶滅の危機に立たされますが、第二次世界大戦でアメリカがイタリアに上陸する際、アメリカはマフィアの手引きで上陸したため、再びマフィアが復活することになります。
 マフィアの影響力は政財界や検察・警察・裁判官にまで及んでいたため、マフィアの犯罪を暴くことは容易ではありませんでした。そしてここにリタ・アトリアという少女が登場します。彼女が敬愛する父もマフィアで、彼女が10歳の時、マフィアに殺されるのを目撃します。以後、彼女は彼女が日常的に目撃するマフィアの犯罪行為を、日記に記録していきます。そして1991年、17歳の時、彼女が信頼する判事に日記を渡し、裁判で証言することを約束します。
 判事は、彼女に対して証人保護プログラムを適用し、彼女の日記と事実を照合し、マフィアの犯罪を立証し、マフィアの大量検挙を行って裁判を開始しました。しかし判事はマフィアによって暗殺され、希望を失ったリタは、ビルの屋上から飛び降りて自殺します。この事件をきっかけに、マフィアの大量検挙が行われますが、今日でもイタリアでマフィアは大きな力を持ち続けています。
 この映画は、正義のためにマフィア打倒を決行する物語ではなく、父を殺されたことへの復讐に突き進む、山猫のような激しい少女の物語です。この映画が上映されるに当たっては、リタに関係のある人々は、自分たちが危険に晒されるため、上映中止を要請したそうです。
 ところで、マフィアの語源ははっきりしませんが、それがシチリアの特殊な社会現象であることは確かです。後にシチリアからアメリカに渡った人々が独自にアメリカン・マフィアを形成し、巨大な犯罪シンジケートに発展しました。そして現在のシチリアのマフィアは、アメリカン・マフィアのながれを汲むそうです。なお、マフィアと直接関係がなくても、ロシアン・マフィアとか金融マフィアなどように呼ばれることがあり、マフィアという言葉は、それほど広く普及しているわけです。


2017年8月9日水曜日

「皇弟溥傑の昭和史」を読んで

舩木繁著 1989年 新潮社
 本書は、中国清朝の最後の皇帝宣統帝、後の満州国皇帝愛新覚羅溥儀の弟、愛新覚羅溥傑の一生を描いたものです。著者は、溥傑とは陸軍士官学校の同窓生だそうです。
 愛新覚羅家の宿願は、清朝の復活でした。溥儀が満州国皇帝となったのも、川島芳子の活動も、それを目的としていました。そして溥傑は、満州国の軍隊を強化するために、26歳の時学習院中等科に留学し、日本語を学んだ後、陸軍士官学校に入学して軍人としての道を歩みます。この間彼は日本の皇室の女性と結婚して日満友好の象徴となりますが、その後満州国は崩壊し、溥儀も溥傑もソ連に抑留され、その後中国共産党に引き渡され、収容所生活を送ります。この間、日本にいた溥傑の娘が天城山で心中するという悲劇もありました。二人が収容所から解放されたのち、溥儀はまもなく死にますが、溥傑は、日中国交回復後、日中交流に大きな役割を果たします。
 以上のことについての事情は日本でもよく知られており、私もある程度知っていました。ただ、本書の主題とは直接関係ないのですが、李氏朝鮮(大韓帝国)の最後の皇太子とされた英親王についての記述は、大変興味深いものでした。日露戦争後、朝鮮は事実上日本の植民地となっていきますが、そうした中で英宗は、190710歳の時日本に留学させられ、以後人生の大半を日本で暮らします。いわば人質です。学習院を経て、士官学校で学び、この間に皇室の女性と結婚します。これは溥傑の先例となり、天皇を中心とする植民地支配のモデルとなりました。そして彼は日本で終戦を迎えますが、朝鮮が混乱していたこともあって帰国できず、晩年になってようやく韓国に帰国することができました。
 これらの人々は、日本の侵略政策に翻弄された人々であり、おそらく同じような運命にさらされた人々は、数えきれないほどいることでしょう。

2017年8月5日土曜日

映画「山猫」を観て

1963年のイタリア フランスによる合作映画で、160分を超える長編ですが、イタリア語版は200分を超えるそうです。舞台となっているのはイタリアのシチリアで、時代は前に観た「映画「副王家の一族」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post.html)とほぼ同じで、19世紀の後半です。
 当時、シチリアはスペイン-ブルボン家の支配下にあり、シチリアの人々にはブルボン家の圧政に対する不満が高まっていました。一方、この時代は、世界史的に国民国家が形成されていく時代で、ドイツやイタリアの統一運動、アメリカの南北戦争、日本の明治維新などは、そうした脈絡の中で捉えられます。こうした中で1859年、サルデーニャ王国を中心としてイタリア統一戦争が始まり、ガリバルディという人物が千人の義勇兵を率いてシチリアに上陸します。そして映画は、ここから始まります。
 ガリバルディは、それまでにも多くの戦いに参加し、イタリアでも民族的な英雄となっており、シチリアの反乱軍がガリバルディ軍の上陸を助けます。その結果、ブルボン家の軍隊はあっけなく敗北し、映画でも戦いの場面が描かれますが、映画では、ガリバルディは一切登場しません。ただ、シチリアの乾燥した荒涼たる風景が、しばしば映し出されます。
 映画の主人公は、サリーナ公爵という大貴族で、彼は時代の変化をよく認識していましたが、そのような変化を受け入れることに抵抗を感じていました。逆に、彼の甥タンクレディーはガリバルディの軍に参加し、新しい時代の到来に希望を抱き、平民の大金持ちの娘と婚約し、新しい時代に対応して出世することを夢見ていました。サリーナ公爵は、こうした生き方を決して否定はしませんでしたが、自らは古い社会の中で生きていこうと決意します。山猫はサリーナ家の家紋であり、犬や羊は人に従順に従いますが、山猫や獅子は決して人になつかないし、決して自分の場所を離れることはありません。
 映画の最後に盛大なダンス・パーティの場面が映し出され、年老いたサリーナ公爵はタンクレディーの若い許婚者と見事なワルツを踊り、映画は終わります。それは、滅びゆく貴族階級への鎮魂歌というべき映画でした。


2017年8月2日水曜日

満州国皇帝の通化落ち

北野憲一著 1992年 新人物往来社

 1932年に日本軍によって満州国が建国され、清朝最後の皇帝宣統帝(愛新覚羅溥儀)が執政(後に皇帝)となりましたが、194588日にソ連軍が侵攻すると、溥儀は満州国の首都新京(長春)を捨て、813日に通化に逃れます。そして815日に日本が敗戦し、818日に溥儀は退位を宣言し、翌日ソ連軍の捕虜となります。








通化は、当時人口3万人余りの小さな町でしたが、鴨緑江を隔てて朝鮮と国境を接していたため、戦略的に重要な町でした。19454月に、この町の女学校長として、本書の主人公である古荘康光が赴任し、当時この女学校の教師だった著者は、この時期の古荘についての思い出を書き残しました。
 当時古荘は30代初めで未婚であり、女学校の校長が未婚ではまずいため、辞令が出たその日に見合いをして結婚し、直ちに通化に出発しました。通化での生活は初めは穏やかでしたが、やがて敗戦が明白となると、一時溥儀が通化落ちしますが、このこと自体は彼らにとってあまり関係のないことでした。しかしソ連軍が侵攻し、二人のソ連兵が一人の女子学生を連れ出そうとしたため、古荘の妻は自分を身代わりに連れていくことを求め、結局彼女が連れていかれ、翌朝彼女は自殺しました。こうなると女生徒たちを逃がさなければなりません。幸いにも夏休中だったので、学校には18名しか残っておらず、また朝鮮との国境に近かったため、全員を逃がすことに成功します。結局、古荘が通化にいたのは5カ月余りでした。
 当時、こうした苦しみを味わった人々は、数えきれないほどいたと思います。この物語は、そうした苦しみの一コマでした。