2014年1月9日木曜日

第14章 14~15世紀-危機の時代




1.疫病と世界史

2.モンゴル帝国の崩壊と後継国家

3.ヨーロッパの苦難










1.疫病と世界史


 14世紀に入ると、ユーラシア大陸は再び危機に見舞われました。今回も危機の背景には気候の寒冷化と銀の枯渇という、910世紀の危機と共通の現象が見られましたが、直接的には疫病の流行がユーラシア大陸全体を混乱に陥れたからでした。疫病が歴史に重大な影響を与えたのは今回だけではありませいん。疫病による死亡率は戦争や天災などのそれをはるかに上回るため、疫病の流行はしばしば人類の歴史に大きな影響を及ぼしてきました。これらの疫病は、もともと特定の地方の風土病でしたが、その地方が文明と接触するとともに拡大し、交易ネットワークを通じて蔓延していったのです。つまり、疫病は文明の発展とともに、そして交易ネットワークの拡大とともに蔓延()していったのですそしてモンゴル帝国という巨大な交易ネットワークの成立は、疫病に感染したモンゴル軍の移動とともに、またたくまに全ユーラシアに拡大していったので

ペスト菌





















天然痘菌


















北里柴三郎
明治時代の医学者・細菌学者で、ドイツの細菌学者の祖コッホの下で学びます。1894年にペスト菌を発見し、人類をあれ程苦しめてきた病原菌の正体をつきとめました。さらに血清療法を開発し、細菌性の病気に対する予防法に道を開きました。こうした業績により、第一回ノーベル生理学・医学賞の最終候補にまでなりましたが、賞を受賞することはできませんでした。
 
 
 
 
 

 疫病には多くの種類がありますが、感染力の強さと死亡率の高さによって歴史上しばしば大きな影響を及ぼしたのは、ペスト(黒死病)と天然痘です。ペストは、ネズミとネズミノミを媒介して感染する疫病で、伝染力が強いため、古くから世界各地でしばしば大流行し、人類の歴史に深い爪あとを残しました。歴史的に確認できる最初のペストの流行は、6世紀のビザンツ帝国での流行で、首都のコンスタンティノープルでは1500010000人もの人々が死亡したとされ、ビザンツ帝国衰退の一因となりました。そして14世紀に流行した疫病は、このペストでした。


天然痘の発祥地はインドと考えられており、そこからシルクロードを通って中国や朝鮮・日本に、さらに西方にも伝播したと考えられています。ペストも同様にシルクロードを通って東西に伝わったのだから、シルクロードは「疫病の道」でもあったわけです。紀元前5世紀のアテネで、ペロポネソス戦争中に天然痘と思われる疫病がが流行して、アテネ民主政の全盛期を築いたペリクレスが感染して死亡し、このことがアテネ敗北の一因となったとされます。その後世界各地でしばしば天然痘が流行し、日本でも江戸時代に11代将軍徳川家斉の子女53人全員が感染しました。コレラもインドの一地方の風土病だったのですが、19世紀にイギリスによる交通手段の発達で全インドに蔓延し、やがて世界中で活動するイギリス人とともに全世界に蔓延しました。

 しかし疫病は、偶然に蔓延するのではありません。一般に、寒冷化による飢饉や自然災害、あいつぐ戦争などによる社会不安が広がり、民衆の栄養状態が悪化した時期に蔓延するのです。したがって、疫病が歴史を変えるというのは正確な表現ではなく、歴史が変わりつつある激動の時期に疫病が蔓延し、それが歴史の変動を加速させるのです。その後、細菌学の発展や抗生物質などの開発で多くの疫病が根絶されたが、一方で、密林の奥深くに潜んでいた病原菌が、開発により人間と接触し、新たな疫病を生み出しつつあります。そしてこれらの疫病は、まず最も貧しい地域に蔓延し、そこから全世界に拡大していくのです。したがって、今日もなお疫病との闘いは続いており、医学的な治療法の開発だけではなく、疫病が流行する社会的な歪みを解決しなければ、疫病を根絶することは不可能なのです。

2.モンゴル帝国の崩壊と後継国家

 モンゴル帝国は、疫病と自然災害が続発する中で、あっけなく崩壊しました。モンゴル帝国は、政治的・軍事的な支配領域と交易ネットワークがほぼ一致する従来型の「帝国」の最後の試みであり、同時に、これ程巨大な領域の軍事的・政治的な統一を長期間維持することが困難であることを、証明するものでもありました。そしてモンゴル帝国崩壊の後に、モンゴル帝国を継承する形で、よりコンパクトな帝国が並び立つことになります。 

これらの帝国は、もはや交易ネットワークのすべてを支配するのではなく、その一部を支配することによって交易ネットワークの一翼を担うようになるのです。同時に、モンゴル帝国のもとでグローバル化したネットワークを統一的に把握するためには、別の方法が必要であることも明らかでした。この「別の方法」が、やがてヨーロッパが生み出す「近代世界システム」なのでする。
 中国では、激しい農民反乱(紅巾()の乱)の後に、この乱から身を起こした朱元璋()が、1368年に元王朝を倒して明王朝を建国しました。この農民反乱は、ペストや自然災害により壊滅的な打撃を受けた江南で勃発したこともあって、朱元璋は江南の南京に都をおいて統一王朝を樹立したのです。一般に明王朝は、野蛮なモンゴル人の支配に対する漢民族王朝の復活と考えられがちだが、この王朝は明らかにモンゴル帝国の継承国家としての性格をもっていました。明朝が元朝の領土の大部分を継承したこと、元朝の制度の多くを継承したこと、さらに何よりも、15世紀に海外に向けて大発展したことであり、この海外進出はフビライの海上ルート進出を受け継いだものだったのです。    

  
 ティムール                               朱元璋                    

 
 















  中央アジアでは、元が滅亡した2年後の1370年に、チンギス・ハンの子孫を自称するティムールがモンゴル帝国の再建を目指して自立しました。やがて、ティムールは西アジアの全域を制圧し、小アジアに進出してオスマン帝国軍を撃破し、さらに南ロシアやインドにも進出しました。15世紀初頭にティムールは、かつての元朝の領土だった中国を征服すべく遠征を開始しましたが、その途上で死没しました。これが一般にティムール帝国と呼ばれるもので、歴史上最後の本格的な遊牧帝国となりました。その後しばらくは、明帝国とティムール帝国は均衡状態となって平和が維持され、ここにかつてのモンゴル帝国領には、事実上、明帝国とティムール帝国という二つの帝国によって二分されることになります。ティムール帝国は、東西交易路の要衝サマルカンドを支配して繁栄しますが、15世紀後半には衰退に向かい、やがてティムール帝国領から三つのイスラーム帝国が自立し、並び立つことになります。すなわち、サファヴィー朝ペルシア帝国、ムガル帝国、オスマン帝国です。

イスマーイール1世                                     バーフル
サファヴィー朝建国                        ムガル帝国建国
 
 
 
 



 










  
メフメト2世                                      イヴァン3
コンスタンティノープル陥落                  モスクワ大公国建国
 
 
 
   
 












イランでは、16世紀初頭にサファヴィー朝ペルシア帝国が成立し、ティムール帝国の領域の大部分を支配し、東西交易路の要衝を支配して繁栄しました。この王朝は、伝統的なペルシアの君主の称号であるシャーを採用するなど、イラン王朝の復興を掲げるとともに、イスラーム教シーア派を採用することによって、今日のイラン国家の原型を造りあげました。インドでは、16世紀前半にティムールの子孫バーブルがムガル帝国を建設しました。もともとバーブルはティムール帝国の再建を目指していましたが、結局インドに帝国を建設することになりました。「ムガル」とは、「モンゴル」「モゴル」が訛ったものであり、ムガル帝国とは名称の上ではモンゴル帝国の継承国家なのです。そしてこの帝国は、インド洋ネットワークの中継地として繁栄しました。
 
 13世紀末に、モンゴル軍に押されて小アジアに移動したトルコ人がオスマン朝を建設しました。やがてオスマン朝はバルカン半島に進出して勢力を拡大しますが、14世紀にティムール軍に敗北して中断しました。しかしオスマン朝はまもなく復活し、1453年にビザンツ帝国を滅ぼして、16世紀には三大陸にまたがる大帝国を建設しました。そしてこの帝国は、地中海と東方世界を結ぶ中継地を支配して繁栄することになります。

同じ頃、南ロシアでモンゴル帝国の一翼を担っていたキプチャク・ハン国からモスクワ大公国が自立した。ロシアは、10世紀末にギリシア正教に改宗して以来、ギリシアの制度や文化を受け入れていましたが、13世紀はにモンゴル帝国の支配下におかれました。後のロシア人はこれを「タタールの(」と称し、野蛮なモンゴル人の過酷な支配下におかれたと主張しましたが、事実はむしろ逆でした。ロシア人はモンゴル帝国の高度な文化や制度の強い影響を受け、ロシアの貴族たちは競ってモンゴル帝国の支配階級と婚姻関係を結び、自らの権力を高めようとしたので。そうした勢力の一つがモスクワ大公国で、1480年に自立し、30年ほど前に滅亡したビザンツ帝国の正統後継者を名乗ることによって、モンゴル帝国との関係を断ち切ったのです。そしてこのモスクワ大公国が、やがて巨大なロシア帝国に発展していきます。

ここに、後に宿命のライバルとなるロシア帝国とオスマン帝国という二つの帝国が南北に並び立つことになります。しかし当面は、ロシアにとってオスマン帝国などとの南北交易が大きな利益をもたらしたため、両者の間には友好状態が保たれました。いずれにせよ、モンゴル帝国が滅びた後に、ユーラシア大陸全体に多くの勢力が並び立つことになったのですが、モンゴル帝国の支配を直接受けなかったヨーロッパは、異なった道を歩むことになります。

3.ヨーロッパの苦難

ペストの流行
 11世紀から13世紀のヨーロッパでは急速に遠隔地交易が発展しつつありましたが、無数の封建領主が分立していた当時のヨーロッパの政治体制は、交易の発展にとって大きな障害となっており、時代はより強力な中央権力の形成を求めていました。そうした中で、1339年に百年戦争が勃発し、以後ヨーロッパは長期間に及ぶ政治的混乱状態に陥いります。さらに1346年、中国より数十年遅れてヨーロッパにペストが流行し、イギリスやフランスは人口の3分の1が死亡したとさえいわれるほど壊滅的な打撃を受けました。また、中国で紅巾の乱が起きたのとほぼ同じ頃、ヨーロッパでも農民反乱が頻発し、封建社会は急速に崩壊に向かっていきました。

 15世紀に入っても、ヨーロッパの混乱は続き、交易ネットワークは寸断されました。そのため、イタリア商人は内陸交易路を避けて海上からフランドルに物資を運ぶルートを開拓する必要に迫られた。をこうした中で、対外危機も迫っていました。14世紀末にヨーロッパ連合軍がオスマン帝国軍に敗北し、ヨーロッパは危機に陥りましたが、ヨーロッパにはこれに対処するための強力な勢力が存在しませんでした。さいわい、オスマン帝国軍がティムール帝国軍に敗北したため、ヨーロッパは一時的に危機をしのぎましたが、やがて復活したオスマン帝国は、久しくヨーロッパの防波堤の役割を果たしてきたビザンツ帝国を滅ぼしました。それは、政治的・軍事的な危機というだけではなく、東方貿易にとっても大きな障害となる事件でした。



こうした中で、ヨーロッパにも新しい動きが生まれつつありました。イベリア半島では、800年に及ぶイスラーム教徒との戦いが最終段階に向かい、スペインやポルトガルに強力な集権国家が形成されつつありました。そしてこれらの国は、新たな活動の舞台を大西洋に向けつつありました。また、百年戦争も終結に向かい、イギリスやフランスに集権国家が形成されつつありました。こうして15世紀後半にはヨーロッパにも、同じ時期のアジアの専制国家に比べればはるかに小規模で未熟ではありましたが、ようやくまとまりのある複数の勢力が誕生し始めたのです。


   
≪映画≫
 
 

ER 緊急救命室

1994年から15年間放映されたアメリカの人気テレビドラマです。これは2002年シーズンⅧ第22話「閉鎖」。
シカゴのERに、突如天然痘の患者が飛び込んできました。すでに50年も前に絶滅が宣下された病気であるため、誰も治療経験がなく、大騒ぎとなります。アフリカや南米の奥地の風土病が、突如都会に出現することは、今日でもあることです。






朱元璋

2006年、中国、全46話の連続テレビドラマです。
朱元璋は、元を倒し300年近く続いた明王朝を建てた人物です。彼は、元末の時代に極貧の中で生まれ、やがて皇帝になり、独裁者となっていきます。









ジャンヌダルク

1999年 フランス・アメリカ合作
百年戦争末期に一人の羊飼いの少女が神の声を聞き、当時イギリスと戦っていたフランス国王のために戦い、そしてイギリス側に捕らえられて異端者として火刑に処せられた、ということです。彼女については伝説の方多く、実像ははっきりしません。ただ、彼女が注目されるようになったのは19世紀になってからですので、彼女は19世紀の国民国家の意識が生み出した偶像といえるかもしれません。


























1 件のコメント:

  1. 現代もこの時代も同じ様な出来事の繰り返しだったんだなと、思う。人類は同じ様な過ちを繰り返して来たことがよく解ります。経済の発展と疫病の蔓延、気候の変動、人知では計り知れない天の摂理を感じる。

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