2016年9月28日水曜日

映画「サルトルとボーヴォワール」を観て

 2006年に制作されたフランスのテレビ用映画で、フランスの哲学者サルトルとボーヴァワールとの不思議な男女の関係を描いています。サルトルについては、実存主義の哲学者・作家として、日本でも大変よく知られおり、また映画は哲学問題に触れていないので、ここでは深入りしません。この映画のテーマは、サルトルと「契約結婚」したボーヴォワールの女性としての苦しみです。
 ボーヴォワールは、1908年にパリで生まれ、パリ大学で哲学を学んだ後、1929年に1級教員資格に2位の成績で合格します。21歳での合格は史上最年少であり、女性の合格者としては9番目でした。この時1位で合格したのがサルトルで、当時24歳でした。まもなくサルトルは、彼女に契約結婚を提案します。つまり、それは結婚関係を維持しつつ、お互いの自由恋愛を保障するというもので、契約期間は2年です。まさに前代未聞の提案です。
 ボーヴォワールは、当時悩んでいました。父は大変保守的な人で、「妻は夫の創造物」と考えており、母はただ父に服従するのみでした。また、親友が学問を続けることを両親に反対され、結婚を押し付けられて発狂してしまいます。そうした中で、ボーヴォワールは女性の自立を希求しており、結婚はそれを妨げるものだと考えていました。それに対してサルトルの提案は、お互いをまったく拘束しないというものです。サルトルの容姿はあまり見栄えのするものではありませんでしたが、彼は作家になるという強い野心をもっており、それはボーヴォワール自身の野心でもありました。
 彼女は、このような結婚は、結局男の身勝手ではないかとも思いましたが、それは自立した女性となるための一つの方法と考え、受け入れることにしました。サルトルは、作家としての経験を積むためと称して、次々と色々な女性と関係を持ちます。彼女は、これが契約なのだと自分に言い聞かせても、嫉妬心を抑えることができませんでした。そのため彼女も、同性愛を経験したり、他の男性と関係をもったりしますが、容易に割り切ることができませんでした。ところが、サルトルもまたボーヴォワールの男性関係に嫉妬していました。こうした様々な思いを繰り返しながら、二人の契約結婚は、サルトルが1980年に死亡するまで、50年間続くことになります。そしてボーヴォワールは、1986年に78歳で死亡します。
 この間サルトルは、1938年に「嘔吐」を発表し、作家としての地位を確立しますが、ボーヴォワールはサルトルに励まされますが、なかなか書けませんでした。しかし、1949年に「第二の性」を発表し、大評判となります。そこで彼女は、女性らしさというものは、社会的に作りだされた約束事にすぎないと主張し、第二の性として女性の解放を訴えます。本書に対しては、賞讃が多かったのと同時に、批判も多かったのですが、彼女は女性とは何かをあらゆる角度から分析し、ジェンダー(性差別)の解消に決定的な影響を与えることになりました。

 映画は、ボーヴォワールとサルトルとの関係を、かなり早いテンポで追っていき、彼女の苦悩を描いています。彼女は女性の自立を望んでいましたが、それでも妻になり母になる夢を抱いたこともあったでしょう。しかしサルトルとの奇妙な関係を通じて、彼女は真の女性の解放を勝ち取ることに成功したと言えるでしょう。

2016年9月24日土曜日

映画で日本の近代文学を見る

破戒

1962年に、島崎藤村原作の「破戒」を映画化したものです。この作品は部落問題と言う社会問題を扱っており、島崎がロマン派の詩人から自然主義の小説家に転じた最初の作品(1913年、大正2)で、その構成はドストエフスキーの「罪と罰」に似ているとされます。
日本には、古くから穢多(えた)と呼ばれる最下層の身分の人々がいました。彼らは、部落に集まって住んでいたことから、部落民とも呼ばれます。このような人々が生み出された理由については多くの説があり、ここでは触れません。ただ彼らは、単に身分が低いというだけでなく、彼らの身分が穢(けが)れ・不浄という概念と結びついており、その身分は親から子に引き継がれます。こうした身分はインドの不可触民と呼ばれるアウト・カーストに似ており、江戸時代には士農工商の身分の外に置かれています。非人も士農工商の外に置かれていますが、彼らは「穢れ」とは結びついていません。
明治4年に身分解放令が出され、穢多や非人の身分が廃止されました。これ自体は画期的なことでしたが、逆に問題が発生していました。穢多は家畜の屠殺(とさつ)や革のなめしなど、一般に嫌われる職業を独占して生活は比較的安定していたとされ、また部落内部にいる限り、直接的な迫害を受けることにあまりなかったと思われます。しかし、解放令によって仕事を失い、仕事を部落のそとに求めれば、彼らは直接迫害に晒されることになります。さらに四民平等により、農民たちが穢多と同等とされたため、強い不満を持つようになり、それが差別を一層強めたと思われます。
映画の舞台は明治37(1904)の信州です。主人公の瀬川丑松(うしまつ)は部落民の子でしたが、彼の父は丑松の出自を隠し続け、息子に高い教育を受けさせます。その結果丑松は小学校教員となり、父は丑松に死の直前まで決して自分の出自を言ってはならないと言い続けます。つまり身分を「隠せ」というのが、父が丑松に与えた「戒め」でした。しかし丑松は、猪子蓮太郎という人物が自ら穢多であることを公表し、部落解放のために戦っている姿を見て、出自を隠すことに疑問を感じるようになります。また、どこから出たのか分かりませんが、彼が部落民であるという噂が流れ、校長から辞職を促されるようになります。
そうした中で彼は、小学校の生徒の前で自分が部落民であることを告白し、そしてそれを黙っていたことを、土下座して謝罪します。この土下座の意味が、今一つ分かりません。土下座というのは、あまりに卑屈ではないか、という印象を受けます。父に与えられた「戒め」を破ったことに対してか、生徒に嘘をついていたことに対してか、または愛する女性に自分の出自を隠していたことに対してか。おそらくそのすべてであろうと思われます。それは同時に、程度の差に違いはあるにしても、すべての人が経験する青春時代の苦悩でもあったと思います。また、ドストエフスキーの「罪と罰」は、善行のためなら罪を犯しても許されるとして、罪を犯した主人公が、結局良心の呵責から自首するという話しで、「破戒」も、差別されないために出自を隠す主人公が、結局すべてを話すことになります。それは、人間性に対する根源的な問いかけのように思われます。
 この映画は、大変美しく、よくできていると思います。原作では、主人公はテキサスに亡命しますが、映画では主人公は部落解放運動を行うことを決意します。現在から見れば、映画の方が説得力があるように思います。

 話しはそれますが、「穢れ」とは何かについて、私にはよく分かりません。福島第一原子力発電所事故の後に、福島県などからの避難民や物資に対する感情的差別が問題となりましたが、それは「穢れ」の思想が根底にあるとも言われています。私がかつて神戸で勤務していた時に、新型ウィルスが流行して大騒ぎとなりました。当時、新幹線に乗っていると、神戸に近づくとマスクをし、神戸を離れるとマスクを外す人が何人もいました。それを目撃した私は、差別とはこのようにして生まれるのかと、実感したものです。

 
宮沢賢治 その愛

 1996年に、宮沢賢治の生誕100周年を記念して制作された映画で、37歳で没した宮沢賢治の苦悩の半生を描いています。生前に出版された宮沢賢治の著書は2冊しかなく、生前は無名でしたが、死後多数の原稿が発見されて出版され、一躍有名となりました。
 宮沢賢治は岩手の内陸部花巻で生まれ育ちます。当時東北地方では、地震・津波・冷害・干ばつが相次ぎ、農民は娘を売ったり、土地を手放したりして、悲惨な状態が続いていました。彼の父は質・古着商を営み、かなり豊かでした。そして自分の家と農民の間の経済的な落差が、繊細な賢治を傷つけます。彼は登山や石集めが好きで、青春時代を楽しく過ごしますが、妹の友人が売られていったり、知り合いの百姓が貴重なものを質に入れたりするのを見るにつけ、しだいに心が暗くなっていきます。仏教にのめり込んだり、キリスト教に改宗してみたり、分けの分からない結社に加入したり、家出をしたりします。
 やがて彼は農民を助けたいと思うようになり、農業指導をしたり、自ら畑を耕したりしますが、どれもうまくいきません。どんなに努力しても、自分が農民の助けにならないことを思い詰め、心身ともに消耗していきます。その間に彼は、多くの詩や童話を書き続けます。映画で観る限り、彼の創作活動は、出版が目的というよりは、内部から湧き上がってくるものを書きとめている、という感じでした。ただ、彼は何度も自分の作品に手を入れていますが、それも自分のために作品の完成度を高めるためだったように思われます。
 映画では、苦しみでのた打ち回る賢治の姿が描かれています。彼はひたすら故郷を愛し、彼の周りにある人や木や虫に至るまで愛した人物だったように思います。


蟹工船

1953年に制作された映画で、小林多喜二の原作を映画化したものです。小林多喜二は、1920年代から30年代前半のプロレタリア文学の代表的作家で、1933年に特高の拷問により、29歳の若さで死亡しました。なお、「蟹工船」については、2009年にも映画化されています。
戦前にカムチャッカ半島の沖合で、たらば蟹を漁獲し、それを加工施設を備えた大型船(蟹工船)で缶詰に加工するという漁業が盛んに行われており、ここで製造された缶詰は高級品として輸出されていました。船主は、飢饉に苦しむ東北地方から労働者を集め、低賃金で過酷な労働を強いたとされますが、一方、労働は過酷だったが、賃金はよかったという証言もあるそうです。
 労働者の中には14~15歳の少年も多く含まれていましたが、何度も乗船したことのあるベテランもたくさんいました。また、蟹缶詰は外貨を稼ぐ重要な輸出品だったので、海軍の艦船が近辺で警護しており、蟹漁は国家的な事業でした。さらにソ連の領海にまで入って密漁していました。そして甲板には、次のような貼紙がありました。
組をなして怠けた者は賃金棒引き 
函館に帰ったら警察に引き渡す
反抗する者は銃殺されると思うべし
 映画の舞台は船の中だけなので、密室劇といえるかもしれません。また、主人公がいないので、群集劇といえるでしょう。監督が厳しい人物で、船員が海に落ちても救出しようとせず、病人も働かせ、怠慢や犯行に対しては厳しい懲罰を課しました。ただ、私が原作を読んだのははるか昔なので、あまり覚えていませんが、もっと厳しかったような気がします。それより興味深かったのは、労働者たちの会話で、それを通して彼らの生活の一部が見えてきます。飢饉で妻が自殺した者、鉄鉱山が廃れて船に乗った者、浮気者の女に引きずられて各地を転々としている船医、母親が恋しくて泣く少年、小説家になることを目指している青年などです。ここでは登場しませんが、かつて網走刑務所を3度も脱獄した人物も、この船に乗ったことがあるそうです。狭い船の中は、さまざまな人間模様の縮図で、船よりもむしろ丘での生活の方が悲惨に思えました。
 いずれにしても、労働者たちはあまりの非人間的な扱いに反乱を起こしますが、翌日には海軍が出動して、反乱は鎮圧されてしまいます。アメリカでも、19世紀末にはストライキの鎮圧のために警官隊が投入され、警官隊と労働者が銃撃戦を展開するなどということがしばしば起き、1920年代のイタリアではムッソリーニが率いるファシスタ党が銃をもって工場に突入し、ストライキを鎮圧するということがありました。資本家と労働者が決定的に対立していた時代であり、この対立を逸らすためにも、ファシズムとか侵略政策がとられていくことになります。日本でも、まもなく満州事変が始まります。

放浪記

1962年に林芙美子の同名の自伝を映画化したものです。「放浪記」は何度も映画化され、テレビで放映され、そして何よりも森光子主演の舞台が2000回以上上演されています。彼女が著名になったのは、1928(昭和3年、25)から連載を始めた放浪記で、これにより彼女は一躍人気作家となり、早くも1935年には映画化されています。
 映画で観る林芙美子は、楽天的で、男好きで、貧困に苦しんでいながら、惨めさはほとんど感じられません。この間にも、世の中は、治安維持法、小林多喜二の拷問死、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続きますが、彼女にはあまり関係がなかったようです。彼女は、公演の依頼で日本各地を旅し、さらに中国、パリ、ロンドに旅し、新聞社の特派員として日中戦争を取材し、陸軍報道部報道班員としてシンガポール・ジャワ・ボルネオに滞在しました。
 少し節操がないように思えますが、これについては彼女自身の言葉をあげておきます。「文壇に登場したころは「貧乏を売り物にする素人小説家」、その次は「たった半年間のパリ滞在を売り物にする成り上がり小説家」、そして、日中戦争から太平洋戦争にかけては「軍国主義を太鼓と笛で囃し立てた政府お抱え小説家」など、いつも批判の的になってきました。しかし、戦後の六年間はちがいました。それは、戦さに打ちのめされた、わたしたち普通の日本人の悲しみを、ただひたすらに書きつづけた六年間でした」(ウイキペディア)
 1951年、彼女は心臓麻痺で急逝します。47歳でした。告別式で葬儀委員長の川端康成は、「故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時にはひどいこともしたのでありますが、しかし、後二、三時間もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたいと思います」と弔辞の中で述べたとされます(ウイキペディア)]
「放浪記」は、彼女が売れっ子になる以前の生活を描いており、映画は、最後に晩年の彼女を描いて終わっています。

雪国

1965年に制作された川端康成の同名の小説を映画化したもので、1957年にも映画化され、その他テレビでも何度も取り上げられています。「雪国」といえば、「古都」などともに、ノーベル文学賞の対象作品となった作品などで、多くの評論・研究が存在し、私が新たに付け加えることなど、何もありません。
私が原作を読んだのは、はるか昔で、ぼんやりとしか覚えていません。私は、歴史を本格的に勉強するようになってから、小説というものをまったく読まなくなってしまい、そのため私の文学についての知識は断片的なものとなってしまいました。今回、ウイキペディアの川端康成の項を読んだのですが、相当の分量で、まるで昭和文学史を読んでいるようでした。それ程川端は昭和文学において大きな存在であり、昭和文学をリードした人物だったのでしょう。しかし、昭和の前半は戦争の時代であり、文学者にとって暮らしにくい時代だったでしょう。そうした中で、川端は小さな世界の中に日本の美しさを見出していったのではないでしようか。戦争が終わった時、川端は、「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌うまい」と述べたそうです。
なお、小説の舞台となった湯沢温泉は、1931年に上越線が開通し、翌年温泉が発見されますので、川端が行っていたころの湯沢温泉は、まだ誕生して間もない頃でした。また、本文に汽車とあり、映画でも煙を吐いた蒸気機関車が「長いトンネル」に入り、出て来る場面が描かれていますが、清水トンネルは極めて長く、煙を排出する場所がなかったため、この区間だけ電気機関車が牽引していたそうです。しかし、これはどうでもよいことです。

 炎上

三島由紀夫原作の「金閣寺」を基に、1958年に制作された映画で、1950年に実際に起きた金閣寺放火事件を題材としています。
金閣寺は、14世紀に足利義満が創建した寺院で、北山文化の代表的な建造物とされますが、1950年に放火により焼失します。犯人は京都府舞鶴市出身の21歳の青年で、同寺の見習い僧で大谷大学の学生でした。犯人は、犯行後睡眠薬を飲み切腹しましたが、救助されました。犯行の理由については、はっきりとは分かりませんが、重度の吃音で内向的となり、さまざまな不満が重なって厭世的となり、犯行に及んだとされます。ただ、逮捕後統合失調症の症状が発症したことから、統合失調症による妄想が犯行の原因だったかもしれません。結局、彼は7年の実刑判決を受けますが、1956年に結核のため獄中で死亡します。
三島は、この事件を題材として「金閣寺」を著しますが、内容は三島自身の創作であって、事実とは直接関係がありません。主人公は、金閣寺で修行した父親から金閣寺が最も美しいと教えられ続け、そして自らが金閣寺で修行するようになります。しかし彼は、自らの屈折した心と、絶対的な美である金閣寺との葛藤に苦しみ、結局金閣寺に放火するに及びます。この小説の主人公の葛藤は、「仮面の告白」と同様、三島自身の葛藤でもありました。この小説を通して三島自身も葛藤を克服し、文学に新しい道を切り開き、この小説は近代文学の最高傑作の一つと称賛されるまでになります。そしてこの頃から、病弱だった三島はボディービルディングによる肉体改造に取り組むようになります。
映画は、原作の完成度があまりに高いため、そのままでは映画化が困難で、本人の名前も寺の名前も架空のものとし、タイトルも「炎上」と変更されました。私が原作を読んだのははるか昔でしたが、それでも記憶がかなり鮮明に残っています。それに対して、映画では内容がかなり薄められているような印象を受けました。それでも、時代劇俳優だった市川雷蔵が、「炎上」と、前に述べた「破戒」という大変難しい映画の主人公を、よく演じていたと思います。
なお、金閣寺は1955年に再建されました。幸運にも、明治時代に大改修が行われ、詳細な設計図が残っていたとのことです。ただ、焼失以前の金閣寺は、金箔がほとんど剥げ落ち、それ程美しいものではなかったとのことです。
 
三島は国際的な知名度も高く、ノーベル賞受賞間違いなしと言われていました。1968年に川端が受賞した時、自分が受賞できたのは、三島君が若すぎたからだ、と言ったそうです。そして2年後の1970年に、三島は自衛隊の決起を呼びかけて割腹自殺しました。三島を理解することは、容易ではないようです。

ピカレスク 太宰治伝

2002年に猪瀬直樹著「ピカレスク-太宰治伝」に基づいて制作された映画で、太宰治の半生を描いた映画です。
太宰は、津軽の大地主の家に生まれ、潤沢な仕送りを受けて東京帝国大学に入学しますが、作家を志望するようになり、大学を中退してしまいます。その後彼は、自殺未遂や心中未遂を何度も繰り返していますが、彼の心情については、彼の著作をまったく読んでいないので、よく分かりません。ただし、彼の著作を読んでいないのは、たまたま読む前に、歴史の勉強に向かってしまい、読む機会を失したというだけのことです。
映画は、破滅的で死を追い求める太宰の従来のイメージに対して、親からの仕送りを続けてもらうためや、作家としての名声を求めて、汲々としている太宰が描かれています。私には、どちらの太宰が本物なのか分かりませんが、その苦しみのた打ち回る姿は、タイプが全くことなりますが、宮沢賢治に似ているように思えました。また、三島由紀夫は太宰を嫌っており、これも全くタイプが異なりますが、死によって自分の芸術を完成させようとしたという点で、三島と太宰は似ているような気がします。
 なお、ピカレスクとは、1617世紀にスペインで流行した小説の形態で、悪党であるが同情すべき点がある人物を主人公とし、ユーモアに溢れた内容の小説で、セルバンテスの「ドン・キホーテ」などにも影響を与えたと思われます。つまり、原作者や映画は、太宰を「道化」として描こうとしているように思いますが、「人間失格」で「恥の多い生涯を送って来ました」と語る太宰の心は、もっと深刻なもののように思えます。

2016年9月21日水曜日

映画「城」を観て

1997年にドイツ・オーストリアでテレビ用に制作された映画で、カフカの小説を映画化したものです。
カフカは、1883年にチェコで生まれたユダヤ系ドイツ人です。チェコには、チェック人と同時に、多くのドイツ人移住者がおり、その中にユダヤ系も多く含まれていました。彼は日常的にはチェコ語を話していましたが、学校ではドイツ語を習っていました。彼の人生は、表面的には平凡そのものです。富裕な家庭に生まれ、1901年にプラハ大学に入学して法律を学び、卒業後「労働者傷害保険協会」に勤務し、1917年から結核で長期療養生活に入り、1924年に40歳で死亡します。この間に小説を書いていたのですが、生前はそれ程注目されることはありませんでした。
カフカの作品として、「審判」「変身」「失踪者」などが有名で、高度な滑稽さを伴う不条理で非現実的な世界を描いています。彼の作品については、夢と現実の入り混じった描写から、シュルレアリスムや実存主義の先駆と言われたりしていますが、私にはよく分かりません。彼の作品は、読む人によって、民族性の問題、神学的な寓話、現代の象徴など、さまざまな捉え方がされますが、これも私にはよく分かりません。
この映画「城」は、事実上彼の最期の作品で、未完に終わりました。Kという測量技師が、城から測量の仕事を頼まれて村を訪れますが、どうしても城に近づくことができず、また城の関係者と会うこともできません。時代は、電燈や電話があるので、20世紀であろうと思われますが、村は雪に閉ざされた閉鎖的な空間であり、城は特別な存在として人々を縛り付けているように見えます。Kは城の執事の秘書や村長や酒場の女に関わりますが、どれも捉えどころがありません。われわれは、自分の周りの世界を自分を中心に捉えて、自分の世界を造りだして生きていると思うのですが、現実の世界はここに描かれているような、捉えどころのない世界なのかもしれません。

ストーリーには緊張感がなく、気だるくなるような話が淡々と続き、それでいて目を離せません。そして、ある時突然ドラマは終わります。これは未完だからなのか、それともこれで良いのか。このドラマに結末が必要とは思えません。いずれにしても、私にはあまり向かない映画でした。

2016年9月17日土曜日

映画で日本の第二次大戦を観て


人間の条件

五味川純平の小説を原作として制作され、1959年から61年までの間に6部に分けて上演され、上映時間は9時間31分に及ぶ超大作です。舞台は1943(昭和18)の満州で、主人公の梶は南満州鉄道(以下満鉄)の調査部に所属していました。
満鉄とは、日露戦争によって1906年にロシアから獲得した長春と大連を結ぶ鉄道で、半官半民の企業で、以後日本による満州経営の中核となっていきます。満鉄の初代総督は後藤新平で、彼は若手の優秀な人材を集め、単に鉄道経営だけでなく、都市・炭坑・製鉄所から農地までを経営し、満州の総合的な開発を目指します。その過程で調査部が設置されます。調査部の仕事は、政治、経済、地誌など広範囲に及び、また多数の調査スタッフを必要としたことから、日本国内で活動の場を失っていた自由主義者、マルクス主義者なども採用され、日本最初のシンクタンクとさえ言われています。しかし満州事変以降、関東軍や政府の介入が強まり、194243年にかけて調査部は事実上解体されます。
1部と第2部では、1943年に梶が北満州の鉱山に左遷され、鉱山で妻とともに暮らすことになります。当時戦争は劣勢にあり、鉄鉱石の増産が求められていました。鉱山では、中国人労働者(工人)が低賃金で過酷な労働を強いられていましたが、梶には労働条件を改善すれば、労働効率が高まり、生産力が増大するという理想がありました。しかし鉱山では、労働者の食費や賃金がピンハネされ、食糧など会社の物資が横流しされ、拷問や殺人も行われていました。さらに軍から捕虜も労働力として押し付けられます。捕虜といっても、日本軍が抗日地域と呼んでいる地域の住民を強制連行した人々です。
 梶のやり方は同僚たちから疎まれ、さらに彼が助けようとしている中国人労働者にも憎まれていました。彼には根本的な矛盾がありました。強制的に連行され、強制的に働かされている人々を、待遇改善により労働者として扱うこと自体が偽善的なのです。だから、中国人労働者をどれほどかばっても信用してもらえないのです。そして決定的な決断の時が訪れます。7人の脱走囚が翌日処刑されることになりましたが、囚人たちの長老が彼に言います。「小さな過失や誤謬は訂正すれば許される。しかし決定的な瞬間に犯される誤謬は、決して許されない犯罪になる。あなたは職業と自分自身の矛盾に引き裂かれた。この瞬間が、人道主義の仮面を被った殺人狂の仲間になるか、人間という美しい名に値するかの分かれ道だ。あなたは人間をあまり信用していないようだが、人間には人間の仲間が、いつでも必ずどこかにいるものだ。」この言葉は、梶に決定的な影響を与えました。
 処刑の当日、死刑囚を守ったため、憲兵に殺されそうになりましたが、捕虜たちが梶を守ったのです。しかし梶は憲兵に捕らえられ、激しい拷問の末釈放されますが、同時に招集令状を渡されます。この時から、軍隊での苦しい生活が始まることになります。
 なお、映画に登場する中国人のほとんどは日本人の俳優が演じていましたが、彼らも彼らと話す日本人も中国語を話しており、相当きめ細かく制作された映画でした。
 第3部と第4部では、軍隊生活と敗戦が語られます。梶は関東軍に配属され、極寒の北満州にいました。軍隊では上官や古兵による意味もないしごきと虐めが続き、それは前近代的で非合理的な世界でした。私は、当時の軍隊内のことについては何も知りませんが、この映画が制作された時期は、まだ戦後15年足らずのことですので、多くの人たちが生々しい記憶をもっていたはずですから、ある程度事実に即して描かれていると思います。
 やがてソ連軍が満州に侵入にしてきます。ソ連はドイツとの戦いに勝利し、近代的な兵力を極東に移動させており、これに対して日本軍はなすすべもなく、泣く子も黙ると言われた関東軍は、たちまち崩壊してしまいます。そして、ほとんど全滅に近い戦場で、梶はからくも生き残ります。
 第5部と第6部は、妻のいる南満州への逃避行です。様々な人々との出会いと別れ、そして悲惨な出来事の連続ですが、サバイバル・ゲームのようで、さすがに見ていてうんざりしてきました。もちろん、敗戦後の残留兵士の苦難、満州から引き揚げてくる人々の苦難は、想像を絶するものであったと思いますが、それにしても救いがなさすぎます。梶は、強靭な体力と意志で次々と降りかかる危機を切り抜けていきますが、最後に精神が破綻し、路上で野垂れ死にします。
 要するに、日本による侵略戦争の悲惨な結末だったということです。


戦争と人間
1970年から1973年にかけて公開された3部作の映画で、これも五味川純平の小説を映画化したもので、9時間23分もの長編です。1928年、関東軍による張作霖爆殺事件に始まり、満州事変、日中戦争の勃発を経て、1939年のノモンハン事件に至るまでの歴史を、新興財閥の野心を中心に、多くの人々が関わる壮大な歴史映画です。
 映画では、多くの歴史的事件が再現され、大規模な戦闘場面もあり、当時の日活には、まだこれほどの大作を制作する実力があったわけです。しかし、もともとこの映画は4部作として構想され、第二次世界大戦後の極東軍事裁判(東京裁判)で終わる予定だったのですが、予算が不足して第3部で終わってしまい、全体に中途半端な終わり方をしています。この頃から映画産業は斜陽化し、日活はロマン・ポルノ路線へとシフトしていくことになります。
 第3部の中心となるノモンハン事件は、モンゴル人民共和国と満州国との国境を巡る争いでした。1921年に外モンゴルが中華民国から独立し、やがてソ連の影響を受けてモンゴル人民共和国として社会主義化します。一方、1932年に事実上日本が支配する満州国が建国されると、満州国とモンゴル人民共和国との間に国境紛争が多発するようになります。満州国の軍隊は事実上日本軍であり、モンゴル人民共和国はソ連軍の支援を受けますので、ここに日本軍とソ連軍が直接戦うノモンハン事件が勃発するわけです。
 日本は、1937年にドイツ・イタリアと防共協定を締結しており、ドイツと対立するソ連が極東に軍事力を集中できないと考えていました。ところが、水面下でドイツとソ連の間で交渉が行われていました。ノモンハン事件が勃発したのが19395月であり、8月に独ソ不可侵条約が締結され、ドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発、そして9月に日本はノモンハン事件で敗北することになります。
当時日本には、北進してソ連領に領土を拡大するべきか、南進して東南アジアに進出するべきかで、意見が対立していましたが、この事件をきっかけに南進論が優勢となり、それは必然的にアメリカとの対立を引き起こすことになり、こうして日本は太平洋戦争に向かっていくことになります。

 映画は、個々の事件をかなり詳細に再現しており、大変参考になり、面白いのですが、いかにも長すぎて、うんざりしてきました。

蟻の兵隊
2006年に制作されたドキュメンタリー映画で、中国山西省日本軍残留問題を、奥村和一(わいち)という残留日本兵を通して描いています。1945年に日本が敗戦し、日本兵が次々と帰国していく中で、山西省にいた日本兵の内、2600人が国民党軍に編入され、共産党軍と戦い、やがて共産党軍に敗北し、捕虜となった後に帰国しました。奥村は2600人の兵の一人でしたが、一体なぜ奥村たちは中国に残ったのか、奥村自身がその理由を知りませんでした。映画は、その理由を探し求める奥村の姿を追っています。











 日中戦争において、日本軍は山西省の抗日ゲリラに苦しめられます。一般にゲリラは、突然現れて正規軍の不意を打ち、追われれば村や森に逃れて姿を消します。正規軍はこうたゲリラによる攻撃に消耗し、やがて村ごと、あるいは町ごと掃討する作戦を採るようになります。ヴェトナム戦争において、アメリカが枯葉剤を使用したり、ソンミ村の虐殺を行ったのは、こうしたことを背景としています。そして日本も、山西省において相当残虐な掃討作戦を行ったようです。当時、新兵として山西省に配属されていた奥村も、この虐殺に加わったことを告白しています。彼は長い間このことについて沈黙していましたが、映画で少しずつ語り始めました。多分、同じような経験をした多くの兵士が、彼と同じように一生沈黙し続けたのではないかと思います。
 この時代の山西省では、閻 錫山(えん しゃくざん)という軍閥が支配しており、一応国民党に属してはいましたが、事実上彼が山西省の独裁者でした。彼は、在地の日本軍とは停戦協定を締結し、共産党の討伐を日本軍に委ねていましたが、日中戦争が終わった後日本軍が撤退する際に、山西省における日本軍の司令官だった澄田𧶛四郎(すみた らいしろう)との密約で、2600人の日本兵を自らの軍隊に編入させたのです。閻にとっては、共産軍と戦うために日本軍の援助が必要であり、澄田にとっては戦犯としての追及を逃れるためと、再起のために日本軍を残しておきたかったためだとされます。いずれにしても、残留させられた日本兵たちは、その後、意味も分からずに、国民党が敗北する1949年まで共産軍と戦うことになり、さらにその後共産軍の捕虜として抑留されることになります。
 奥村が帰国したのは、1954年でした。ところが、帰国すると、自分たちが自主的に国民党軍に志願し、現地除隊つまり脱走兵の扱いとなっており、軍人恩給の対象にならないことを知ります。そこで奥村たちは、自分たちは軍つまり国家の命令で残留させられたのだとして、恩給の支給を求めて裁判闘争を行いますが、2005年に最高裁によって彼らの要求は却下されます。この映画は、この裁判闘争の過程で制作されました。当時すでに80歳になっていた奥村は、なぜ自分たちは残留させられたのか、そして60年前の山西省で何が起きたのかを問うため、中国へ旅立ちます。

 中国で彼は、残留の命令書を直接目にし、激しい怒りにおそわれます。それと同時に、虐殺を目撃した人々の話を聞き、虐殺の現場に行き、人を刺し殺した瞬間の感触を思い出します。こうしたことは、大変勇気のいる行為でありますが、人生を締めくくるためにも、彼とっては必要なことだったのかも知れません。それにしても、日本軍とくに関東軍は、張作霖爆殺事件以来、道徳基準が狂ってしまったようです。事実、この残留には、張作霖爆殺の首謀者と目される河本大作が深く関わっていました。何しろ、張作霖爆殺に対して、犯人たちは処罰されるどころか、出世したのですから、道徳基準が狂うのも当然のことです。

ビルマの竪琴
 この映画は、児童向け雑誌「あかとんぼ」に、1947年から48年まで竹山道雄が執筆した小説を、1956年に市川崑監督が映画化したものです。竹山は、当時東京大学の教授で、戦争で死んでいった多くの学生たちを悼み、本書を執筆しました。本書は、竹山が著した唯一の児童書で、市川が映画化して空前のヒットとなり、彼は85年にももう一度映画化しています。市川にとっても、思い入れの深い映画だったのでしょう。
 「ビルマの竪琴」の舞台は、第二次世界大戦末期に日本軍がビルマ(ミャンマー)で行ったインパール作戦です。日中戦争で日本軍は、蔣介石の率いる国民政府と戦ったのですが、国民政府は内陸の重慶に拠点を置いて抵抗したため、日本はなかなか戦局を打開することができませんでした。重慶政府を支えていたのは米英による援助でしたが、その援助は最初は香港から、次いで仏領インドシナから、さらに英領ビルマから雲南を経て、行われました。そこで日本は、この援蒋ルートを断ち切るためにビルマを征服したのですが、今度はインド東部のインパールを拠点にヒマラヤを越えて物資が運ばれるようになったため、今度は日本軍はインパールを攻めようとしました。これがインパール作戦です。

 しかし、インパールに行くには大河と2000メートル級の山脈を越えねばならず、補給路を確保することが困難で、反対が強かったのですが、牟田口司令官が独断で決定してしまいます。それでも日本軍は何とかインパール付近まで到達しますが、砲弾など物資の補給がなく、これ以上戦うことは困難で、撤退を余儀なくされますが、この撤退の過程は悲惨でした。イギリス軍による攻撃、餓死、マラリアなどによる病死で、10万近くいた兵は1万余まで減ってしまいます。日本兵の死体は打ち捨てられ、彼らが通った道は「白骨街道」とさえ言われました。この悪名高いインパール作戦を指揮した牟田口は、日中戦争のきっかけとなった盧溝橋事件にも関わった人物で、前に述べた澄田𧶛四郎と同様、個人的な野心のために、多くの人々に犠牲を強いることになりました。

 映画では、19457月、ビルマからの撤退の過程が描かれます。終戦まで、あと1カ月です。ある小隊の隊長は、音楽学校の出身だったため、いつも部下たちと合唱し、苦しい行軍を耐え抜いてきました。その中に、水島上等兵という天性の音楽的才能をもった青年がおり、隊長の指導によってその才能が目覚め、ビルマの竪琴を使って巧みに編曲するまでになっていました。ある村で彼らが休息していた時、イギリス軍に包囲されてしまいます。そこで部下たちを鼓舞するために、一緒に「埴生の宿」を合唱します。「埴生の宿」とは、「粗末だけれども楽しい我が家」という意味で、日本の小学唱歌になっていました。実はこの歌はイングランドの民謡で、「楽しきわが家」という広く知られた歌でした。兵隊たちが歌を歌い終わると、今度はイギリス兵たちが英語でこの歌を歌い始めました。彼らもまた、戦場にあって望郷の念にかられたのです。そして、日本兵たちはイギリス兵を通して、すでに3日前に戦争が終わっていたことを知ります。
 その後、彼らは捕虜収容所で暮らしますが、ある時、まだ山に立て籠もって玉砕を叫んでいる日本兵たちがいることを知ります。そこで隊長は、彼らに投降するよう説得するために、水島を派遣します。結局、水島は説得に失敗し、彼自身も怪我をしますが、帰りに多くの日本兵の死体が転がっているのを目撃します。死体を葬ろうと奮闘しますが、全然追いつきません。そうした中で、彼は、このままでは自分は日本に帰れないと思い詰めるようになり、ビルマで僧となって、死んだ人々の霊を弔おうと決意します。収容所の仲間たちは、一緒に日本に帰ろうと訴えますが、彼の決意を翻すことはできませんでした。こうして仲間たちは日本に帰り、水島は竪琴をもって一人でビルマの大地を歩いていきます。

 この映画は、戦争に散々痛めつけられ、ひたすら平和を願った当時の日本人の心を捉えたのだと思います。原作者は、戦場で敵と味方が歌で通じ合うような物語がつくりたい、という所から始まって、中国では共通の歌がない、ビルマならイギリス人がおり、「埴生の宿」がある、ということからビルマを舞台にしたのだそうです。原作者自身が、ビルマについて何も知らないと言っており、舞台がビルマであったのは、たまたま創作上の都合でしかなかったようです。しかしこの映画は、ビルマについての日本人のイメージの形成に大きな役割を果たしました。ビルマといえば「ビルマの竪琴」というくらいで、それは、かつて欧米の人が、日本といえば「ゲイシャ」「フジヤマ」を連想するのと同じです。

 話が逸れますが、「王様と私(アンナとシャム王)」というミュージカルがあります。これは、19世紀の後半のタイの王宮で、アンナ・レオノーウェンズというイギリス人女性が王子の家庭教師として招かれ、保守的で頑迷な王様(ラーマ4世・モンクット王)と対立しますが、やがて二人の間に愛が芽生えたという話です。アンナは実在の女性で、やがて彼女は手記を執筆し、後にそれをもとに小説が書かれ、それがミュージカルとなり、映画となったわけです。それは、知的で美しいヨーロッパの女性と、アジアの野蛮な王様との物語で、まさに欧米人好みの物語です。
 しかし、問題があります。彼女の手記には噓と誇張が多いということです。第一、ラーマ4世は決して野蛮な王ではなく、4つの言語を理解する知性豊かで英邁な君主でした。こうした誤解は、19世紀のヨーロッパで形成されたステレオタイプのイメージ、つまり野蛮なアジアと文明の発達したヨーロッパというイメージと結びつき、広く欧米の人々に浸透していきます。「ビルマの竪琴」にも誤解があり、ビルマでは僧侶が楽器を奏でることは禁じられているそうですが、これはあまり悪意のない誤解のように思います。しかし「王様と私」には、幾分悪意を感じます。ラーマ4世は実在した君主であり、彼の王家は今でもタイの王家として続いています。タイでは、この映画の上映は禁止されているそうですが、当然のことだと思います。

 話が逸れましたが、「ビルマの竪琴」は、幾分誤解があるとしても、大変美しく、感動的な映画でした。私は原作を読んでいませんが、この映画は原作を超えているのかもしれません。



2016年9月14日水曜日

「中国文明史」を読んで

ヴォルフラム・エーバーハルト著(1980)、大室幹雄・松平いを子訳、筑摩書房(1991)。本書の原題は「中国の歴史」ですが、本書は中国史を民族学的・社会学的な視点で叙述されているため、「中国文明史」と訳したとのことです。著者はドイツで生まれ、中国史の研究を皮切りに、トルコなど西アジア地域を広範囲に調査・研究し、後にアメリカで教鞭をとります。
 私は、過去に多くの中国通史を読みましたが、そのほとんどが「正史」の強い匂いがして、うんざりしていました。「正史」は中国史の基盤ですので、当然と言えば当然のことです。ただ、私が最後に読んだ通史は、「図説中国文明史」(10巻、2006年、創元社)で、最新の発掘調査などをもとにしており、今までとは異なる中国の通史で、中国史の研究も新しい段階にきていると感じました。
 本書は、「図説中国文明史」より何十年も前に書かれたものであり、しかも5000年におよぶ中国の歴史を、日本語版で350ページ余りで書いているため、内容的にはほとんど知っていることでした。ただ、「正史」の世界では、常に文明と野蛮、漢人と蛮人の境界が設けられ、私たちも無意識のうちに中国を特別なものとして考えがちです。しかし、本書を読んでいると、そのような境界など何もないことを感じます。

 そもそも、ヨーロッパと中国を地続きで繋がっており、筆者はヨーロッパと中国の間にある西アジアについても造詣が深く、何の違和感もなく中国をユーラシア大陸の一部として語ります。本書は、ヨーロッパ史を読んでいるような感覚で中国史を読むことができ、また、従来とは全く異なる中国史を見ることができるように思いました。

2016年9月10日土曜日

映画「スパイ・ゾルゲ」を観て



2003年に制作された映画で、第二次世界大戦時に日本で起きたゾルゲ事件と呼ばれるスパイ事件を扱っており、篠田監督の最後の作品だそうで、3時間を超える長編です。篠田作品については、このブログでも、「はなれ瞽女おりん」(「映画で旅芸人を観て http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_4.html)」、「鑓の権三」(「映画で浮世草子と浄瑠璃を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/05/blog-post_11.html)」、「写楽」「(映画で浮世絵師を観て) http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/03/blog-post_5.html)を取り上げており、興味のある方は参照して下さい。
ゾルゲは、ロシア生まれのドイツ人で、3歳の時ベルリンに移住し、第一次世界大戦が始まると、二十歳の頃に陸軍に志願し、悲惨な戦争を経験します。さらにその後のインフレと政治的混乱の中で、彼は共産主義に希望を見出していきます。こうした中で、彼はソ連の諜報員となり、1930年にドイツの新聞記者を隠れ蓑に上海で諜報活動を始めます。一方、もう一人の主人公である尾崎秀実(ほつみ)は、東京帝国大学在学中に、大杉栄虐殺など思想弾圧に触発されて、社会主義の研究を始めますが、表立った活動は行っていません。1926年に朝日新聞に入社し、翌年上海支局に転属となります。この頃彼はスメドレーに出会い、彼女に協力する形で間接的にコミンテルンの諜報活動を行うようになります。こうした中で、彼はゾルゲに出会い、彼の諜報活動に協力するようになります。なお、スメドレーについては、このブログの「「偉大なる道 上下」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_20.html)を参照して下さい。また、尾崎はスメドレーの著作「女一人大地を行く」を翻訳しています。
1931年に尾崎は帰国し、さらにゾルゲはドイツと日本の動向を探るため日本に渡ります。この間に満州事変が勃発し、さらにドイツではヒトラー政権が成立します。ゾルゲはドイツの駐在武官オットの信頼を得、さらにオットは後に駐日大使となり、尾崎は首相となった近衛文麿の相談役となったため、二人は両国の最高機密を知り得る立場になりました。ところが、ソ連でゾルゲの後ろ盾となっていたブハーリンがスターリンによって粛清されたため、ゾルゲは本国から疑いの目で見られるようになり、活動資金も送られなくなります。1941年にゾルゲは、ドイツが独ソ不可侵条約を無視してソ連に侵入するという信憑性の高い情報をソ連に伝えますが、スターリンはこれを無視し、その結果ソ連はドイツ軍の電撃的な侵入に大敗北を喫することになります。一方、当時日本では、ソ連と戦ってシベリアに領土を広げるか、石油資源を手に入れるため南へ進むかで意見が分かれていましたが、アメリカによる対日禁油政策のため南進が決定されました。この情報をいち早く入手したゾルゲは、ソ連にこれを伝え、その結果ソ連は日本に備えて配備されていた極東軍を西に移動することができ、ドイツに対する反撃を開始することが可能となりました。
一方、特高は早くから不審な電波が発信されていることをつかんでいましたが、発信源まで特定することはできませんでした。しかし次第にゾルゲ周辺の人々への内定が進み、1941年に尾崎とゾルゲが逮捕されました。ドイツ大使オットと近衛首相にとっては、まさに寝耳に水の出来事でした。結局、194411月や7日に、二人は処刑されました。それはロシアの革命記念日であり、そして終戦は間近に迫っていました。
ゾルゲと尾崎は、なぜコミンテルンの諜報員となったのでしょうか。もっとも尾崎の場合、共産党員となったこともないし、ゾルゲを通してコミンテルンに協力していただけでした。しかし、国家総動員で戦っている最中に、国家の最高機密を漏らしたわけです。この時代の良心的な人々の中には、心情的に共産主義に共感する人々がたくさんいました。第一次世界大戦の悲惨さ、その後の社会矛盾の拡大の中で、ロシア革命とソ連の共産化は、彼らにとって希望の星と思われたのではないでしょうか。しかし、結局ソ連は、スターリンのもとで醜悪な怪物と化していき、この映画の最後は、ベルリンの壁の崩壊とレーニン像の倒壊の場面で終わります。
この映画は冒頭で、魯迅の次の言葉をあげています。「思うに希望とは、もともとあるものとはいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる。」そして映画の最後はジョン・レノンの「イマジン」で終わります。「想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと、決して難しいことではない、殺戮も死もなくなり、宗教の争いも消えてしまう、想像してくれよ、平和に過ごしている姿を、君はこんな私を夢想家だと思うだろうが……」
 篠田監督が生まれたのは1931年ですので、彼は戦争中に少年時代を過ごし、その後の冷戦とソ連邦の崩壊を目撃している分けですから、彼は決して単純にゾルゲや尾崎を裏切り者とか英雄として扱っている分けではありません。激しく変化する世界の中で、二人のスパイの生き様を捉え直して見たのではないでしょうか。この映画に対する評価はあまり高くなかったようですが、私は面白く観ることができました。

 なお、篠田監督の映画には決まって妻の岩下志保が出演するのですが、この映画でも岩下は、最後に自殺した近衛の妻として出演していました。


2016年9月7日水曜日

「中国中世の探求 歴史と人間」を読んで

谷川道夫著 1987年 日本エディタースクール出版部
 本書は、戦後展開された中国史の時代区分論争を回顧するもので、過去に発表された論文を集めたものです。
 戦後、歴史を大きく見直す動きが生まれ、特にマルクス主義による歴史の再構築が試みられました。マルクスによる時代区分は、古代奴隷制社会、中世封建制社会、近代資本主義社会へと発展するというもので、この時代区分を日本史や中国史にも当てはめようとしました。西洋史では大塚久雄が、日本史では石母田正、中国史では西嶋定生などが、そうした研究の基盤を形成したのですが、色々と問題が出てきました。例えば、日本に奴隷制はあったのか、中国に封建制はあったのかといった問題です。それを解決するために、アジア的生産様式とか総体的奴隷制などといった概念が用いられ、中国では隋・唐までを古代奴隷制とし、宋以降を中世とするといった議論がなされました。
 こうした議論に対して、ヨーロッパの歴史を中国に当てはめるのは無理ではないかという議論が、常にありました。そうした中で谷川は、内藤湖南の強い影響を受け、中国独自の歴史の基盤を共同体に求め、魏晋南北朝から隋唐に至るまでの時代を、共同体を基盤とする貴族層が力を持つ「中世」とし、宋以降を近世とする、という見解を主張します。それは、ヨーロッパ史的な、あるいはマルクス主義的な意味での中世ではなく、すぐれて中国的な意味での中世です。これに対して激しい議論が展開されましたが、やがてこの議論は決着を見ないまま終わり、研究者の関心は、歴史の一つの小さな局面を詳細に描き出すことに向けられていきます。

 本書では、当時の時代区分論争の渦中にあった筆者により、この議論の概要が述べられおり、その意味で参考になるとともに、私にとっても懐かしい内容でした。なお、筆者自身、あまりにこの問題にコミットしすぎたため、この議論が終わった後も、そこから容易に抜け出せなかったと、自省しています。

2016年9月4日日曜日

映画「226」を観て

1989年に松竹が制作した映画で、1936年のニ・ニ六事件の発生から終結までの四日間を、当時のオールスターキャストで描いていますが、結論から言えばつまらない映画でした。ニ・ニ六事件に関しては、前に観た「戒厳令」(「映画でヒトラーを観て はじめに」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post_24.html)の方が、もっと問題の複雑さを描いていました。
 ニ・ニ六事件の背景を一言で述べることは困難なので、ここでは触れません。ただ、国際的にも国内的にも閉塞状況が強まる中で、事件が起きたということです。さらにこれより4年前の1932年に、海軍の青年将校による犬養首相暗殺事件である五・一五事件が起きており、その犯人たちに対する処分が極めて甘いものであったことが、ニ・ニ六事件を引き起こす一因となりました。五・一五事件とニ・ニ六事件との違いは、前者が将校のみによるもので、武器も他から調達しているのに対し、後者は何も知らない下士官たちを巻き込んだクーデタだったことです。この事件は、まぎれもなく軍の不祥事でしたが、それにもかかわらず、以後政治家たちは軍を恐れて、軍部の独走をゆるすことになります。日露戦争が終わって30年以上が経っており、今や軍は政治をも左右する強大な勢力となっていました。
 映画は、4日間続いた事件の経過を淡々と描いており、その意味にでは参考になりました。彼らが目指したことは、君側の奸を排除し、天皇自らによる昭和維新の断行ですが、改革の具体策については何もなく、反乱計画は周到でしたが内容がいい加減で、総理の秘書を総理と間違えて射殺します。総理の顔さえ識別できないかった分けです。また、ある死体には48発もの弾丸が撃ち込まれており、未熟そのものです。その後、政府軍に追い詰められ、何も知らない兵士の不満も高まったため、結局首謀者の多くは自殺するか、投降して処刑されました。

 まるで赤穂浪士の討ち入りも観ているようで、一人一人の将校たちは純粋な思いで行動したのでしょうが、あまりにも未熟でした。人間は武器を持つとなんでもできると勘違いしてしまうようで、ニ・ニ六事件の愚かしさのみが目立った事件でした。