2014年1月10日金曜日

第8章 中華帝国の成立




1.長江文明と黄河文明

2.中華帝国の成立

3.絹(生糸)-国際商品

4.百越と西南夷

付録.徐福伝説















1.長江文明と黄河文明
 


















黄河
全長5500キロに及び、大量の高度を含んでいるため川底が埋まり、治水には大変苦労してきました。









長江
全長6300キロに及び、途中にたくさんの湖があって貯水池の役割を果たしてきました。










 今日われわれが「中国」というとき、中華人民共和国のことを指しますが、この中国は多様な民族・言語集団からなっており、紀元前3千年前後の中国も多様な文化集団が併存していました。地域的に見ても、黄河流域と長江流域では、気候風土が対照的でした。黄河流域は雨量の乏しい黄土台地で、麦を中心とする畑作が行われ、長江流域は湿潤地帯で、おもに稲作が行われていました。近年、長江流域での発掘が急速に進み、この地域では黄河文明に匹敵する古い文明が形成されていたことが、明らかにされつつあります。黄河流域では父系家族を中心に上下秩序の厳しい掟を維持して、自然を改造しそれに働きかける人間の行為を尊重していましたが、長江流域の生活はそれと対照的に、母系ないしは双系家族で、男女差の少ない生活秩序を保ち、自然環境に順応することが尊重されていました。さらに、
黄河流域の北方や西方には遊牧世界が広がり、長江文明の南の沿岸地域には越文化が存在していました。当時、これらの文化世界の境界は不明確で、相互の交流や衝突が繰り返されていました。


長江文明については不明な点が多いが、この文明を築いた人々は稲作農業を行う人々であるとともに、海の民・川の民でもありました。漢代以降、彼らは蛮族として描かれ、長くそのイメージが定着することになりますが、実際には、黄河文明とほぼ同じ時期に、長江流域にも同じ程度の文明が存在していたことが判明しています。前2千年頃に長江流域は大洪水に見舞われ、洪水を逃れた人々が黄河流域に移動して文化融合が起き、その結果()王朝に先立つとされる()王朝建設されたのではないかと、推測されています殷は「()」という()を中心に他の邑を支配すますが、殷の人々は周に滅ぼされた後、商業に活路を見いだしていきました。「商(あきない)」という漢字は、この殷の都「商」に由来するものとされます。

 
春秋戦国時代に鉄製農具が普及して農業生産が増大すると、長江文明も黄河文明も激動期を迎え、本格的な国家形成が進みまし。そうした中で、王侯・貴族が使用する青銅器の製造とともに、農具などの製造のための製鉄業や、生活に不可欠が製塩業が発展し、都市の市場は各地からの商人であふれました。今や、地域を越えた商業活動が活発になり、国家や豪商により青銅貨幣が鋳造されるなど本格的に貨幣経済が始まりました。とくに、長江流域の人々は、縦横に走る多くの河川の本流や支流の水運を利用して、北は黄河流域や遊牧民と、南は雲南や東南アジアと、西はチベットと、さらに東には海上を通じて東シナ海にも進出するなど、広範囲におよぶ交易を展開しました。その結果、東アジアに交易ネットワークが形成され、そのネットワークはシルクロードなどを通じて、間接的ながら西方のネットワークとも結びついていたのです。
2.中華帝国の成立
 
 
秦の領域
 


















馳道 
  幅70mある軍用道路で、中央に皇帝専用の7mの道があり、 総延長は12000キロに及びます。直道 匈奴に対して迅速に軍隊を送るための道路で、総延長750キロに及びます。
ペルシアやローマと同様、中国も道路建設に励みましたが、中国の場合主として軍用道路でした。






 
 


始皇帝陵想像図
墓は盗掘に備えて地下深く、墓室の天井には宝石を散りばめ、床には水銀を流して、自然界の星空や海、川を表現。数多くの宝物を守るため、自動発射の弓矢も仕掛けられているといいます。37年の歳月をかけ、延70万の囚人を使役して造られたとされます。









兵馬俑
始皇帝陵から1.5キロ先に始皇帝陵を守るために造られたと思われます。総数6000体に及び、平均1.8m、彩色されていました。衣服・姿勢・顔立ちなど、一つとして同じものはなく、きわめてリアルに作られています。


 








前3世紀に秦は黄河流域と長江流域の政治的統一を達成しますが、このことはその後の中国の歴史に重大な影響を及ぼすことになった。すなわち、()黄河流域の農業国家を基盤として全国を統一したのであり、以後中国は農業国家へと傾向を強めていくのです。まず、従来遊牧民と農耕民の境界ははっきりせず、むしろ両者は混在していましが、万里の長城が建設されることにより、遊牧世界と農耕世界が明白に区分された。また、商業の栄える長江流域は、以後農耕を基盤とする国家体制に組み込まれていくことになります。たしかに、秦による政治的統一と、貨幣・度量衡・文字の統一や道路の建設は、商業活動に有利な条件を提供したが、全体に国家統制色が強く、商人による自由な活動は抑制される傾向がありまた。西方のアケメネス朝ペルシアやローマ帝国は商人の自由な活動を促しましたが、東方の中国は重農抑商の傾向を強めていくことになります。

漢の領域
 



 









冊封体制

漢は、農業を重視する儒学思想を国家の基本理念とし、土地所有を前提とした政治的・社会的な序列、すなわち官僚-豪族-自営農民-小作農民といった身分秩序を形成し、商人は蔑視される傾向が生まれました。このような身分秩序は、中国の周辺にも適用されました。すなわち、皇帝を頂点として直轄地には郡県制により官僚を派遣して統治し、周辺の服属民族にはその地方の支配者に中国の官職を与えて間接統治し、さらにその周辺の地域には属国として朝貢を求める、という冊封体制です。それは中国の世界観、つまり中華帝国であると同時に、東アジアにおける国際秩序でもあり、すぐれて文化的・道徳的な秩序でもありまか。すなわち、周辺の朝貢国は中国に政治的・軍事的に支配されるのではなく、中国の皇帝の徳を慕って朝貢するのであり、その中国では儒学的教養をもった官僚たちが中国民衆の末端に至るまで支配を貫徹している、ということです。この論理においては、商人が自由に活動する余地は存在しません。このような中華体制は、その後さまざまな曲折はあるが、原則的には2千年以上存続することになります。
 とはいえ、朝貢は事実上貿易であり、漢王朝自体も、その支配を西域・朝鮮・ヴェトナムに広げ、積極的に貿易活動を行いました。さらに、国内の政治的統一や陸路・水路などの整備は、商業に有利な条件を提供しました。その結果、同じ時代の西方のローマ帝国に匹敵する広域のネットワークが形成されますが、これらの貿易は官営であることが多く、国内においても商業に対する国家の統制がますます強まり、さらに後漢時代になると各地で豪族が割拠してネットワークは寸断されていきます。こうした中で、中国は350年及ぶ分裂時代を迎え、さらにユーラシア大陸全体を巻き込む動乱に、中国もまた巻き込まれることになります。
 
3.絹-国際商品
 
 人類は、肌を覆うものとして、多くの繊維製品をつくってきました。現在では機械で優れた繊維製品を大量につくることができますが、それ以前には一枚の布を織るには大変な労力を必要としました。極論すれば、近代以前にあっては優れた布を大量につくることができる国は、繁栄したのです。布には、麻布・毛織物・綿織物などさまざまな種類があり、それぞれに長所や短所がありますが、中国の絹は高価であることを除けば、品質的には最も優れており、世界中の人々が絹織物を求めました。絹の生産がいつ頃どこで始まったのかはっきりしませんが、おそらく前2000年頃までには四川省で製造が始まっていたと考えられていす。そして、少なくとも前5世紀のアケメネス朝ペルシアの君主たちは立派な絹の衣をまとっていたと伝えられていますから、この時代には絹は国際商品となっていたわけです。

蚕とと眉
 

 

































桑の畑
 一枚の絹織物が生産されるまでには、多くの過程が必要です。まず()を栽培して()を飼い、()を生産することを養蚕()といいます。桑の葉がある5月から9月に蚕に大量の桑の葉を食べさせて成長させるが、この間の桑のの配分や温度調節には細心の注意が必要でがて蚕が糸を出して繭を作り、繭ができてから10日ほどで成虫になる。成虫になって糸を切って繭から出る直前に熱湯につけ、糸をとるのですだが、一粒の繭から1000から1500メートルの糸がとれるといいます。2700頭の蚕が98キログラムの桑の葉を食べ、その繭から900グラムの生糸が得られ、1反の絹織物が得られます。もちろん、その過程で紡績と織布の過程が必要であることはいうまでもありません。生糸は丈夫で肌触りがよく、染色が美しい。とく漢代に発明された錦織()と呼ばれる、いろいろな色を組み合わせて織られた絹織物は、最高級品として珍重され、長い間中国の最も重要な輸出商品となったので

 *「1反」 成人一人分の着物ができる量。


4.百越(ひゃくえつ)と西南夷(せいなんい)

百越=南越国



 











番禺の交易ルート

 現在の広州市
北京・上海に次ぐ中国第3の都市で、人口は1270万人に達します。「食は広州にあり」といわれる広東料理の中心地で、さらに世界各地の料理店が林立しています。ここでは、中午後も通じますが、基本的には広東語が話されています。








 中国南東部の沿岸地帯は古くから「()と呼ばれ、この地域の人々はきわめて多くの種族に分かれていたため百越と総称されました。この地域は秦や漢により征服され、北の先進文化を取り入れて急速に発展しました。秦の滅亡後、南越国として一時独立しますが、漢代に再び征服されました。漢は南方との交易を重視してヴェトナム中部まで進出したため、越は海上貿易で繁栄し、大規模な商業都市が各地に出現しました。とくに、南越国の都だった番禺(ばんぐう)()は南海貿易の門戸として繁栄し、その後も海上貿易で発展し続けます。この都市は、今日広東省の中心都市広州で、今日でも中国屈指の商業都市です。これらの都市には内陸からも多数の商人が集まり、当時上流階級で愛好されていた犀角()・象牙・真珠・香料などの南海物産を購入していました

烏船


















南越で発見されたローマのガラス器
南越では、間接的ですが、ローマとの交易も行われていました。






















天空のシルクロード

あまり知られていませんが、標高3000メートルの道を行く、もう一つのシルクロードです。








 海上貿易の発展は造船業の発展も促し、規格化された船舶の大量生産も可能となっており、造船業はこの地域の重要な産業となりました。その結果造船技術も発展し、さまざまな技術改良も行われました。従来船の進行方向を操るために、竿()()を用いて人力で行っていましたが、この方法では河川の航行は可能でも、海洋の航行は困難でしった。この問題を解決するために、漢代に広州で()が発明され、これにより船舶の機動力が著しく高められました。その他にも、この時代には航行速度や積載量を増やすためのさまざまな工夫がなされ、海上貿易発展のための技術的条件が整えられていきました。

一方、今日の雲南省を中心とした地域は、中国では西南()()と呼ばれました。この地方は、肥沃で物産も豊富でしたが、地理的に隔絶されていたため漢文化の受容は遅く、国家形成も進んでいませんでしたが、漢の支配を受け入れてから急速に発展しました。とくにこの地域は、中国・東南アジア・チベットの接点にあるため、やがて交通の要衝として発展していくことになり、後に「天空のシルクロード」と呼ばれるようになります。

 
 








付録.徐福(じょふく)伝説


和歌山県新宮市の徐福公園にある徐福像。彼が求めた不老不死の薬は天台烏茶ではないかとされ、現在も徐福公園で栽培されています。
 









司馬遷の『史記』によれば、秦の始皇帝時代に、()()という人物が、はるか東の海に仙人が住んでいるため不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。始皇帝はかねがね不老不死の薬を求めていたため許可され、よろこんで3千人の童男童女やさまざまな技術者集団を連れて出発しました。彼は到達した土地の王となり、二度と中国に戻りませんでしたが、この土地が日本ではないかとされている。当時の日本は縄文時代から弥生時代への移り変わりの時期に当たっており、稲作や金属器文化など、転換を可能とする技術をもたらしたのが、徐福ではないかと伝えられています。徐福は、万里の長城の建設などで人民を苦しめる始皇帝の支配を嫌って、はじめから帰国するつもりがなく、別天地に自らの国を造ろうとしたのではないか、とも伝えられています。
 徐福の話は、中国では史実とみなされていますが、日本では伝説とみなされています。そして、日本全国いたる所に徐福伝説が残っており、なかでも和歌山県新宮市の徐福公園が有名です。この話が史実かどうかは判断しかねますが、少なくとも紀元前3世紀の秦の時代には、すでに海域世界がある程度開かれていたことを示唆しています。なお、徐福が実在の人物だとしても、朝鮮にも徐福伝説があるため、彼が到達したのが日本であるとは、断定できません。
 ≪映画≫
 
 中国の歴史映画は最近非常に多く、特に中国版大河ドラマとも言うべき長編テレビドラマがここに挙げたものは、あくまでも私が観たものだけです。

 
封神演義

2006年製作、全38
明代に書かれた怪奇小説を映画化したもので、殷代末期の暴君
紂王(ちゅうおう)とそのに妃妲己(だっき)、そして妖怪や仙人
たちの物語です。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
恕の人

2012年製作、全18
春秋時代末期の孔子の生涯を描いたものです。孔子の思想
は、その後2500年にわたって中国の思想に大きな影響を与え
た儒学の祖です。「恕の人」というのは「すべてを包み込
む」というような意味です。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

孫子大伝

2011年製作、全35
春秋時代の思想家で、彼の兵法は今日まで世界中に大きな
影響を与えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 





復讐の春秋(臥薪嘗胆)

2007年製作、全41
春秋時代末期、越と呉との戦いの物語です。臥薪嘗胆とか呉
越同舟といった諺で名です。















三国争乱

2008年製作、全30
大国「呉」、「越」、「楚」に挟まれた小国の悲哀を描いて
います。「復讐の春秋」と同じ時代です。













 

墨攻

2006年製作、日中合作、

酒見賢一の歴史小説を映画化
戦国時代に、兼愛を説く墨家の思想で、敵の攻撃から国
を守るという物語です。







  





大秦帝国

2006年製作、全51
戦国時代、弱小国だった秦が、君主孝公と宰相商鞅の下で強国
に成長していく過程を描いています。














始皇帝列伝

2007年製作、全33
中国を初めて統一した秦の始皇帝の生涯を描いています。















始皇帝暗殺

1998年製作、日本・中国・フランス・アメリカの合
作。
始皇帝の暗殺事件を背景に、独裁者の孤独を描いています。
















大漢風/項羽と劉邦

2004年製作、全50
秦末期、劉邦による漢の建国と、項羽との友情と敵対を
描いています。















項羽と劉邦/その愛と興亡

1994年製作、張 芸謀(チャン・イーモウ)監督

項羽を中心として、彼の野望と破滅とを描いていま
す。












劉邦の大風歌
 
2009年製作、全44
劉邦による漢の建国物語。















漢武大帝

2003年製作、全58
漢の全盛期を築いた武帝の生涯を描いています。司馬遷や張
騫のエピソードは、大変興味深いものがあります。















王妃王昭君

2007年製作、全30
漢代に、匈奴との和平のため匈奴に嫁いだ女性の秘話。



 
 
 










 

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