1.16世紀ヨーロッパ-危機の克服
2.「ヨーロッパ世界経済」の成立
3.集権国家の形成
4.帝国への夢と挫折
5.価格革命
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1.16世紀ヨーロッパ-危機の克服
14世紀から15世紀半ばのヨーロッパは、経済的に収縮した時代であり、これを克服するために必要な新たな経済システムの構築を模索していました。すなわち、従来のように領主が農奴に土地を耕作させて収穫物を得るような単純なシステムでは、危機を克服できないことが明らかとなりつつあり、より効率のよい経済システムが必要でした。その結果成立するのが、資本主義的な経済システムです。従来、ヨーロッパではいくつかの経済単位がそれぞれ独立して存在していましたが、それらがヨーロッパ全体の経済の中に統合され、「ヨーロッパ世界経済」が形成されていくことになります。そして、一旦このシステムが成立すると、その内部に存在するすべての地域や生産が、このシステムの一部を構成し、このシステムに適合しないと生き延びることができないようになるのです。
中世の交易圏
まずこのシステムは、中世以来最も繁栄した二つの経済圏、すなわち北イタリアを中心とする地中海経済圏と、北西・北ヨーロッパのフランドル・ハンザ貿易圏とが統合され、されに東欧地域と「新大陸」が結びついて成立します。このようなシステムが形成されるようになったのは、まず第一に地理的に拡大したこと、第二にそれぞれの地域でそれぞれの地域に適した生産の仕方が生まれてきたこと、第三に比較的強力な国家が形成されてきたこと、などによるものです。
2.「ヨーロッパ世界経済」の成立
第一の条件である「地理的拡大」の先陣をきったのはポルトガルでしたが、それは決して偶然ではありません。すでに12世紀に比較的まとまりのある国家を形成していたポルトガルは、その国土があまりに狭いため、従来の生産のままでは経済が頭打ちなってしまいます。これを打破するためには、生産の仕方を変えるか、外に領土を広げるしかありません。幸いポルトガルは大西洋に面していたため、大西洋に活路を見いだし、それがインド航路の開拓に結びついたのです。ポルトガルより1世紀近く前に中国が海外に大拡大を達成したにもかかわらず、突然拡大を停止してしまった理由の一つは、中国には内部に十分開拓の余地があったからです。しかも、広大な地域を軍事的に支配するには財政的負担が多きすぎました。そして、やがてポルトガルもインド洋を支配する財政的負担に耐えられず、退いていくことになります。つまり、ますます拡大する交易ネットワークの範囲と、政治的・軍事的支配の範囲とを一致させることは、もはや無理なのです。しかし、ポルトガルによる地理的拡大は、ヨーロッパ経済に新たな可能性を切り開くことになりました。
中世の荘園
改善のモデル
第二の条件は「生産の仕方」の変化です。やがて「ヨーロッパ世界経済」の中心となるネーデルラント・フランス・イギリスでは、危機の時代に農民の地位が向上したため、自立的な農民が近郊の都市に販売することを目的に、農業と牧畜を組み合わせた効率的な農業経営を行い、その結果ヨーマン=独立自営農民と呼ばれる豊かな農民が現れまし。一方、農民が自立して土地から解放されると、商業や手工業などに従事する人々が増えるなど、都市や工業が発展するようになりました。これとは対照的に東欧では、都市が発展する西欧に小麦を供給するため、小麦生産という単一作物の生産が行われるようになり、その際少ない人口を効率的に利用するため、農奴制が強化されるようになりました。東欧がこのような「生産の仕方」を導入したのは、小麦に対する需要が高まって、大きな利益が得られるようになったからです。そして小麦の生産に特化すれば、他の商品を西欧から輸入せねばならなりません。ここに、商工業の西欧と農業の東欧という分業体制が成立しますが、この分業体制は東欧が西欧に経済的に従属するという、垂直的な分業体制でした。
世界分業体制の形成
さらに同じ頃、「新大陸」でも、スペイン人が原住民=インディオを農奴として酷使するようになりますが、それは東欧における生産形式と同じものでした。かくして、西欧を中心とする経済的な支配と従属の関係からなる「ヨーロッパ世界経済」が成立することになります。当時はまだ東欧と「新大陸」が従属しているだけでしたが、やがてそれが全世界を覆うようになる「近代世界システム」の原型であり、そのメリットは、政治的・軍事的なコストがかからないという点にありまする。
3.集権国家の形成
第三の条件は強力な国家の成立です。「ヨーロッパ世界経済」が形成される時期は、強力な国家が成立する時期とほぼ一致しています。とくに「ヨーロッパ世界経済」の中核国家では商工業が発展したため、君主は財政的に豊かになり始め、それによって王権を強化できるようになりまし。王権を強化するために必要なことは、官僚と常備軍を持つことであり、そのためには財源が必要でした。当時、土地は封建貴族によって支配されていたため、王権は財政基盤を都市の商人に依存するようになりますが、商人たちも国家権力による保護を必要としていました。
経済規模が非常に大きくなると、従来のように商人たちが勝手に行動しているような状態では、経済秩序を維持することが困難となりつつありました。また、大西洋を越えて海外と貿易する場合、商人たちが個人で行うことは困難となりつつありまた。そうした中で、一定の規模の国家による経済政策を通じて経済秩序をコントロールし、国家権力の保護の基に海外に進出することは、時代が要請するものだったのです。
16世紀の世界
当時、ヨーロッパに限らずアジアにおいても、各地で強力な集権国家が形成されますが、これも同じような時代の要請によるものだと推察されます。16世から17世紀にかけて、アジアではオスマン帝国、サファヴィー朝ペルシア帝国、ムガル帝国、明・清帝国が成立しますが、これらは一定の規模での経済政策をすることを一つの目的としていました。例えば、17世紀に成立した江戸幕府は、比較的強力な権力をもち、そのもとに鎖国政策を実施しますが、それは銀の流出を抑えて国家による通貨の管理を目指すものでした。当時ヨーロッパに成立しつつあった絶対王政と呼ばれる集権国家も、このような時代を背景に形成されたものなのです。
こうして、ヨーロッパで複数の集権国家が形成されるのですが、その前に、「帝国」への試み、すなわち交易ネットワークを政治的・軍事的に支配しようとする最後の試みがなされることになります。
4.帝国への夢と挫折
カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)
現在のセビリア
神聖ローマ帝国にしてスペイン国王カルロス1世 (神聖ローマ皇帝カール5世)は、1500年ハプスブルク家の王子とスペイン王女との間に生まれました。彼は1516年にスペイン王国を継承するとともに、北イタリア・南イタリア・ドイツのハプスブルク領を次々と継承し、1520年には神聖ローマ皇帝に選ばれました。その中でも特に重要だったのは、ヨーロッパ経済の枢軸ともいうべきフランドルと南ドイツ、ヴェネツィアを除く北イタリアを支配したことでした。南ドイツのアウグスブルクには大金融業者フッガー家がおり、カルロス1世の財政を支えました。また、スペインの港湾都市セビリアは新大陸貿易の独占的な基地として繁栄しました。しかし、なによりも重要なのは、フランドルのアントワープです。
現在のアントワープ
アントワープは、地中海とバルト海の貿易圏を南ドイツ経由の大陸横断商業で結びつける国際商業の中心市場であるとともに、ハプスブルク帝国の国際貿易と深く関わり、イギリスやポルトガルをヨーロッパ「世界経済」に結びつける止め金の役割も果たしていました。さらに、アントワープはヨーロッパ最大の金融市場となり、同市全体がカルロスへの最大の金融業者となったのです。こうしてカルロス1世とスペイン・アントワープ・フッガー家は、一つの巨大な有機体を構成したのです。さらに、1530年代以降大西洋貿易が成長し、アントワープは発展の新局面を迎えました。商業発展の主役となった二つの貿易、つまり南ドイツ人が担った大陸縦断貿易とジェノヴァ人を含むスペイン人の大西洋貿易が、金融市場でもあったアントワープ市場で結び付けられたのです。
帝国の経済構造
カルロス1世は中世的なキリスト教帝国=神聖ローマ帝国の再建を夢見ましたが、それは同時にヨーロッパの交易ネットワークを政治的・軍事的に支配するものでもありました。彼はその帝国を維持するために、ヨーロッパ中を絶え間なく移動し続けました。本拠地のウィーン、南ドイツ、フランドル、北イタリア、スペイン、さらにイスラーム教徒との戦いのため地中海を渡って北アフリカにまで遠征しました。しかも彼は数カ国語を話すことができたため、各地の宮廷でその地方の言葉で語ることができました。まさに彼の夢は実現されるかに見え、ヨーロッパのネットワークは一つの政治的支配のもとに置かれるかに見えました。
しかし、フランスがカルロス1世の帝国政策に激しく反発するなど、カルロス1世は絶え間なく戦わねばならならず、その結果帝国の本拠地であるスペインが疲弊しました。帝国は広大すぎたため、財政破綻を避けることは難しかったのです。ここでも、「世界経済」の方が世界帝国より有利であることがわかります。かくして、1556年に帝国は分裂します。カルロス1世は退位し、長子がスペインとネーデルラントを継承しますが、中部ヨーロッパの領地は分離され、1557年フェリペは自ら破産を宣告します。そしてネーデルラントの独立革命が始まり、ネーデルラントは南北に引き裂かれました。結局「ヨーロッパ世界経済」を政治的に支配しようとするカール5世の努力は、帝国と運命共同体をなしていた地域に甚大な被害を与えました。スペインが没落し始め、フフランドルの商工業は崩壊してアントワープは没落した。南ドイツでもフッガー家など金融業者が破産し、南ドイツと商業的に深く結びついていた北イタリア都市も共倒れとなりました。そしてドイツの分裂も決定的となっていきました。
かくして、「帝国への夢」は、カルロス1世の退位とともに最終的に終わりました。これ以降は、近代世界システムの中核国家たることをめざした、主権国家同士のむき出しの闘争の時代へと移っていくのです。
5.価格革命
16世紀の1世紀間に、物価が3倍ほど上昇するという経済現象が起こり、それは一般に価格革命と呼ばれています。この価格革命については、二つの原因が考えられます。一つは人口増加による需要の増加があり、もう一つは「新大陸」からの大量の銀の流入があります。16世紀半ばにペルーやメキシコで大量の銀が生産されるようになり、それがスペインを経由してヨーロッパに流れ込み、それが銀価格を暴落させて物価の上昇を招いたのです。価格革命の影響については、定額地代に依存する封建領主の没落を促したこと、逆に貨幣量の増加により商工業の発展を促したこと、などが指摘されている。
しかし、ヨーロッパ史全体から見ると、銀の大量の流入はヨーロッパ経済を救うことになりました。16世紀にヨーロッパはアジアから大量の物産を輸入していましたが、対価となる商品をもたないヨーロッパは銀でこれらの物産を輸入していました。ポルトガルは「域内貿易」によって銀の不足を補っていましたが、それだけではとうてい必要な商品を購入することができませんでした。この状況を救ったのが、「新大陸」の銀です。これによってヨーロッパはアジア貿易の一角に参加して多くの物産を購入することができ、ヨーロッパの商工業の活性化を促したのです。もし「新大陸」の銀がなければ、ヨーロッパ経済は銀の流出によって収縮し、後の大発展はなかったかもしれません。
ユーラシア大陸の西端のヨーロッパが大量の銀を供給していたころ、ユーラシア大陸の東の端の島国日本もまたアジアに向けて大量の銀を供給し、急速に経済的発展を遂げつつありました。17世紀にはいるとヨーロッパ経済は収縮し、日本は鎖国体制に入っていきますが、やがてこの二つの地域で産業が急速に発展していくことになるのである。
ペルーのポトシ銀山
エリザベス
1998年 イギリスの映画です。
宗教対立で揺れる16世紀イギリスで、ヘンリ8世の二番目の妻アン・ブーリンの子として生まれ、やがて母が処刑されたため庶子となります。一時は処刑寸前まで追い詰められますが、やがて女王となり、多くの困難なに直面しながらも、イギリスは一つの国家にまとめ上げていきます。
エリザベス・ゴールデンエイジ
無敵艦隊
この映画は、1588年にスペンの無敵艦隊アルマダが、イギリスに敗北するまでを描いたもので、基本的には「エリザベス:ゴールデン・エイジ」と同じです。1930年代にこれ程の規模の映画がつくられたことには、驚きを感じます。
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