1.自由貿易帝国主義
2.世界の一体化
3.人の移動
4.近代世界システムからの逸脱
付録1.ヴィクトリア女王と『オリヴァートゥイスト』
付録2.ロスチャイルドとロイター
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1.自由貿易帝国主義
19世紀のヨーロッパで国民国家が形成された理由の一つは、近代世界システムにおいて、イギリスのように中核国家になれなかったとしても、従属国家にならないために、強力な国家のもとで工業を発展させ、自ら従属国家をもつことでした。このような国家を「半周縁」と呼び、フランス・ドイツ・イタリア・アメリカ合衆国・日本などが、「半周縁」に位置づけられます。これらの国は、イギリスの工業製品に対して高い保護関税をかけたため、イギリスはますます海外との貿易に依存せねばならなくなりました。
イギリスの海外貿易の中核はインドであり、鉄道建設などによってインド内陸部の開発を行うとともに、インドを基点に中国や東南アジアとの交易を行いました。しかし1870年代頃までは、イギリスが直接的な領土的な支配を行ったのはインドだけで、それ以外の地域では、自由貿易を定める友好通商条約を締結して、イギリスの経済圏に組み込んで行きました。まず、中南米のほとんどの国と自由貿易協定を結び、さらにオスマン帝国・ペルシア帝国・タイ・中国・日本などとの間で、友好通商条約が締結されました。日本は、ペリー来航後の1854年に日米和親条約を締結し、さらに58年に日米修好通商条約を締結した後、イギリスなどとも同様の条約を締結しました。日本の開国は、まさにイギリスを中核とする近代世界システムが完成される過程で行われたのです。さらに1860年にイギリスは英仏通商条約を締結し、これをきっかけに他のヨーロッパ諸国も自由貿易を受け入れるようになり、ヨーロッパもまた自由貿易体制に組み込まれていったのです。
シムラのインド総督官邸
総督館は、夏には、熱いコルカタから涼しくて閑静なシラムに移りました。ヒマラヤ山脈麓の標高2000メートルのこの地からせ、総督は全インドを統治しました。
カルカッタ(コルカタ)
ガンジス川の支流の河口に近い場所にあって、
イギリスによるインド統治の拠点でした。現
在では、人口1500万人に及ぶ大都市です。
ニューデリー
オールドデリーの南に位置し、20世紀に入って
から、ここにイギリスの行政機能が移されまし
た。現在では、オールドデリーと合わせてデリ
ーと呼ばれ、人口は1000万人を超します。
ボンベイ(ムンバイ)
インド西海岸にある天然の良港で、西方との貿
易で拠点です。現在、都市圏を含めて、人口は
2000万人を超します。
自由貿易は、基本的には強い国に有利な体制です。まず、工業国は格下の国から安い関税で大規模に農業製品を買い付けます。その国の土地支配者は、農作物の効率的な生産を行うため、その地域に最も適合した形式、すなわち奴隷制・農奴制あるいは賃金労働制を効率的に運用して大規模な生産を行うようになり、その結果その社会は固定化されていくことになります。生産活動が農業などに特化されると、工業国から工業製品を輸入せねばならならず、そのためにはますます農業輸出を盛んに行われねばなりません。こうして格下の国は、より上位の工業国に従属し、その結果中核国と周縁国の経済的な支配・従属関係と、国際的な分業体制が成立する。これが近代世界システムです。
ガンジス川の支流の河口に近い場所にあって、
イギリスによるインド統治の拠点でした。現
在では、人口1500万人に及ぶ大都市です。
ニューデリー
オールドデリーの南に位置し、20世紀に入って
から、ここにイギリスの行政機能が移されまし
た。現在では、オールドデリーと合わせてデリ
ーと呼ばれ、人口は1000万人を超します。
ボンベイ(ムンバイ)
インド西海岸にある天然の良港で、西方との貿
易で拠点です。現在、都市圏を含めて、人口は
2000万人を超します。
自由貿易は、基本的には強い国に有利な体制です。まず、工業国は格下の国から安い関税で大規模に農業製品を買い付けます。その国の土地支配者は、農作物の効率的な生産を行うため、その地域に最も適合した形式、すなわち奴隷制・農奴制あるいは賃金労働制を効率的に運用して大規模な生産を行うようになり、その結果その社会は固定化されていくことになります。生産活動が農業などに特化されると、工業国から工業製品を輸入せねばならならず、そのためにはますます農業輸出を盛んに行われねばなりません。こうして格下の国は、より上位の工業国に従属し、その結果中核国と周縁国の経済的な支配・従属関係と、国際的な分業体制が成立する。これが近代世界システムです。
その際、従来の「帝国」と決定的に異なっているのは、必ずしも政治的支配を必要とせず、したがってコストも安くついたということです。1870年頃までは、イギリスが直接支配した植民地は、イギリス経済の生命線ともいうべきインドだけでした。カナダ・オーストラリアなどはイギリス人移民による植民地であり、事実上イギリスの出先機関でした。したがってイギリス外交の関心事は、一つは、各国と自由貿易協定を締結して、イギリスの言い方に従えば「国際社会の一員」とすることであり、もう一つは、インドの防衛とインドに至る航路、すなわちエンパイア・ルートを確保することでした。ただし、自由貿易協定の締結とはいっても、実際には砲艦による脅迫によって締結されたものなので、決して「自由」な協定ではなかったし、インドを守るためにも強力な軍事力が必要でした。
かくしてイギリスは、その圧倒的な軍事力と経済力によって、近代世界システムの頂点に君臨したのです。このようなイギリスの対外政策は、最近では「自由貿易帝国主義」と呼ばれている。
2.世界の一体化
アメリカ大陸横断鉄道の建設
囚人によるシベリア鉄道建設
オリエント急行の豪華な室内(現在)
日本最初の鉄道 新橋・横浜間 1872年
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、世界の一体化が急速に進みました。まず鉄道の整備が進み、地方と首都が鉄道で結び付けられると、地方経済圏が首都を中心に結び付けられて国民経済と一体化していきました。特に領土の広いアメリカ合衆国では鉄道が発達し、1869年には大陸横断鉄道が建設され、その後も次々と横断鉄道が建設されて行きました。鉄道建設には戦略的な意図も強く働き、モスクワと極東を結ぶシベリア鉄道や、パリとイスタンブルを結ぶオリエント急行、ベルリンとバグダードを結ぶバグダード鉄道などは、そうした意図のもとに建設されたものです。アジアや中南米では、ほとんどの鉄道がヨーロッパ資本によって建設され、インドでは1853年にイギリスによってアジア最初の鉄道が建設されました。こうして、19世紀末頃までには、世界各地に多くの鉄道が建設されて、陸上輸送は革命的に発展していきました。
快速帆船クリッパー
造船・海運技術も大きく進歩しました。18世紀には、インドとイギリスを往復するだけでも、季節風待ちなどがあって2年近くかかっていました。イギリスからインドに至る経路としては、喜望峰経由と、地中海を経由して紅海あるいはペルシア湾に至る経路がありました。地中海経路の場合は荷物の積み替えが必要であり、さらにイスラーム教徒が支配する陸路を通過せねばなりませんでした。喜望峰経由の場合は、安全ではありましたが、きわめて時間がかかりました。しかし快速帆船クリッパーが登場すると、時間が大幅に短縮されるようになります。19世紀前半はクリッパーの時代で、1866年にはイギリスのクリッパーが、中国の福州から喜望峰経由でイギリスまでノンストップで99日間で達するという記録を樹立しました。
スエズ運河の掘削工事
ところが同じ年に、蒸気船が上海を出発し、途中4箇所に寄航しつつ、80日間でロンドンに到達したのです。まさに1866年はクリッパー時代に終わりを告げる年であるとともに、蒸気船時代の幕開けの時代でもあったのです。さらに、その3年後の1869年にスエズ運河が開通しました。スエズ運河のような無風地帯では帆船での航行は困難であり、さらにもともと紅海は帆船での航行が厄介な海だったので、一気に帆船から蒸気船の時代へと転換していったのです。
大西洋横断ケーブルを敷設する船
さらに、海底ケーブルの設置で、情報通信の速度も格段に速くなりました。1851年、ドーバー海峡を横断してイギリス・フランス両国を結ぶ海底ケーブルが敷設され、商用の電信が開始されました。これによって、ロンドンとパリの株式取引所は、世界で初めて同日内に株価の引合いができるようになりました。この成功が刺激となり、世界各地の海に次々と電信用の海底ケーブルが敷設されるようになりました。57年には、最初の大西洋横断電信ケーブルが敷設されましたが、技術上の問題から何度か通信が途絶、そのたびに敷設しなおして、66年にようやく成功しました。その後、無線通信も実用化されるようになり(1901年にマルコーニがイギリス―カナダ間の通信実験を成功させ無線電信が、1910年代に商用利用)、世界中のあらゆる場所に瞬時にして情報を伝達することが可能となったのです。
こうして世界の距離は急速に短くなり、ヒト・モノ・カネ・情報の移動が急激に増大し、世界は文字通り一体化していったのです。
3.人の移動
19世紀半ばから、大規模な人の移動が始まりました。まず農村から都市への移動が始まりました。農村では、大規模で効率的な農業経営が進んだため、仕事を失った農民が都市に流れ込んだのです。次に、国から国への移動が起きました。貧しい農業国から、先進工業国へと仕事を求めて多くの人々が移動したのです。さらに、交通機関が発達して、海を越える移動が容易になると、海外への大規模な移民が始まりました。海外への移民には、移民を送り出す側の要因(プッシュ要因)と、移民を受け入れる側の要因(プル要因)とがあります。
この時代に最も多くの移民を受け入れたのはアメリカ合衆国で、この国が多くの移民を受け入れたプル要因は、労働力不足でした。とくに19世紀半ばころから、東部海岸地帯を中心に急速に工業が発達すると、アメリカ合衆国は労働力を補うために多くの移民を受け入れたのです。では、どのような人々がアメリカ合衆国へ移民したのでしょうか。もともとアメリカ合衆国はアングロサクソン人、つまりイギリス人の移民によって生まれた国であり、さらにアフリカから強制的に連れてこられた黒人がいます。そして19世紀半ばころに、新たに3つの種類の移民が加わりました。
第一はドイツ系移民で、彼らは本国で革命を起こして弾圧され、アメリカ合衆国に亡命した人々です。ドイツ系移民には知識人が多かったため、アメリカ合衆国の教育制度などに大きな影響を与えました。第二はアイルランド系移民で、当時アイルランドで発生した「じゃがいも飢饉」のため、100万人にも及ぶ人々がアメリカ合衆国に移住しました。彼らは都市に住んで低賃金労働者となったり、さらに当時建設中の大陸横断鉄道建設の労働者となりました。第三は中国系移民で、アヘン戦争などの混乱を逃れた人々が、イギリスの植民地となった香港に流れ込み、そこから太平洋を越えてアメリカ合衆国に送り込まれ、大陸横断鉄道の建設を東側か支える労働力となりました。19世紀末には、東欧系・南欧系、さらに日本人などの移民が、流通経済の発展により貧困化した農民が出稼ぎために流入しました。こうして、アメリカ合衆国はさまざまな民族や宗教の坩堝(るつぼ)となっていくのである。
移民の動機
一方、東南アジアにも多くの移民が流れ込みましだ。もともと東南アジアは人口密度が希薄な地域であり、古くからインド人(印僑)や中国人(華僑)が商業目的で到来し、そのまま東南アジアに定着する人々も多数いましたが、東南アジア社会が変質するほどの数ではありませんでした。ところが、19世紀後半にヨーロッパ諸国が東南アジアの各地を植民地化し、プランテーションや鉱山の経営を行うようになると、その労働力として多数の中国人やインド人が投入されました。同じ頃中国人はアメリカへも移民しており、インド人は全世界にまたがるイギリスの植民地、すなわちアフリカから中南米に至るあらゆる場所に移民した。そして、中国人もインド人も長い歴史的・文化的・宗教的な伝統をもった人々であり、現地社会と激しい対立を引き起こすようになります。
人の移動
ヨーロッパの進出により引き起こされた社会的な変動と交通手段の発達により、世界中でヒト・モノ・カネ・情報が短時間で飛び回り、さまざまな文明の融合と衝突が引き起こされ、収拾のつかない混乱状態に陥ろうとしていました。こうした中で、人類は20世紀という激動の時代を迎えつつありました。20世紀とは、戦争の時代であり、社会主義の実験の時代であり、ナショナリズムの時代でもありました。
4.近代世界システムからの逸脱
「近代世界システム」の特色は、領土支配をともなわないことを特色としていました。ところが、1870年代頃から、イギリスを中心とするヨーロッパ諸国は、積極的に海外で植民地支配を行うようになります。その背景には、「世界の工場」としてのイギリスの地位の動揺し始めたことがありました。1870年代には欧米各国で強固な国民国家の形成と工業化が進展し、特に新興のドイツやアメリカは重工業部門でイギリスを追い越し始めたのです。そして欧米諸国は競って海外に進出したため、自由貿易協定という緩やかな結びつきでは、他の国に侵食されてしまいます。さらに、長期におよぶイギリス経済の進出により、各地の社会構造が大きく変化して不満が増大し、しばしば反乱が起きるようになっていました。こうした中で、イギリスは政治的・軍事的な植民地支配を行うようになり、他の欧米諸国とともに世界分割競争を展開することになります。
その際、欧米諸国は「黄色人種」の人口爆発を恐れる「黄禍論」や、優れた白人が劣った有色人種に文明を伝えるという「白人の使命」論など、奇妙な人種主義的な論理を展開したりしました。しかし、こうした政治的・軍事的な領土支配は、当然莫大なコストを必要とし、そのコストを回収するために強圧的な支配を強化し、その結果現地の反発を強める、という悪循環が生まれます。これは明らかに「近代世界システム」の論理からの逸脱でか。近代以前の「帝国」に対して、「近代世界システム」の利点は、統治コストがかからないところにあったからです。しかし、1870年代から20世紀初頭にかけて、欧米諸国(やがて日本も参加)は、植民地獲得競争に狂奔し、至る所に欧米人はその足跡を残し、その結果、世界の一体化は一層促進されていきました。
一方、イギリスは、19世紀末には「世界の工場」としての地位を失い、貿易収支は常に赤字となっていたが、金融・保険・海運などサービス部門での利益が膨大で、十分に貿易赤字を補うことができた。その意味においてイギリスは、世界経済の、そして一体化された世界の頂点にたっていたのである。
付録1.ヴィクトリア女王と『オリヴァー・トゥイスト』
晩年のヴィクトリア女王
イギリスのヴィクトリア女王の64年間におよぶ在位期間(1937~1901)は、イギリスが最も繁栄した時代です。1897年ロンドンで、ヴィクトリア女王の即位60周年記念が盛大に行われ、世界中からお祝いの人々が訪れ、また祝電が打たれました。まさにそれはイギリスの繁栄の絶頂を象徴する記念日でした。
19世紀のイギリスは、世界中の国々の政治に介入し、世界中に鉄道と海底ケーブルを張り巡らし、より大きくより早い船を建造し、世界中に資本を投資し、イギリス人を送り込み、未知の土地を探検しました。そのため、世界中の地名や建物にヴィクトリアの名がつけられました。ヴィクトリア湖、ヴィクトリア州、ヴィクトリア記念堂、ヴィクトリア港など、枚挙に暇がありません。まさに、イギリスの繁栄はヴィクトリア女王の名とともにあったのです。
一方、ヴィクトリア女王が即位した1837年にイギリスの作家ディケンズが『オリヴァートゥイスト』を発表しました。この小説は、孤児オリバー・トゥイストが、いじめられたり、盗賊の手先につかわれるなど、世間の荒波にもまれますが、純真で善良な性質をうしなわず、人々の愛情によって最後は幸運にめぐまれる、という物語です。ディケンズは、この孤児の苦闘をとおして、19世紀の初め、産業革命期の悲惨な下層階級の子供たちの姿をえがきだしている。
まさに、ヴィクトリア女王の黄金時代が始まろうとしていた時、イギリス内部には繁栄と貧困という深刻な矛盾が存在していたのであり、この矛盾はイギリス本国と植民地との間にも存在したのです。
付録2.ロスチャイルドとロイター
五本の矢 ロスチャイルド家の紋章
五本の矢 ロスチャイルド家の紋章
政界の「ポンプ役」
19世紀に活躍した二つのユダヤ系企業が存在しました。ロスチャイルド銀行とロイター通信社であり、この二つの企業は19世紀のヨーロッパ、とくにイギリスの繁栄を支える支柱となったのです。
ロスチャイルド銀行の創設者は、18世紀末にドイツで金融業で成功し、5人の息子とともに、ヨーロッパ各地の都市に支店を設け、ロスチャイルド銀行をヨーロッパ全体にネットワークをもつ大銀行に成長させました。それぞれの支店がそれぞれの国で成功をおさめ、各国の政財界を動かすほどの力をもつようになりました。とくに成功したのはロンドンの支店で、イギリス経済の生命線ともいうべきインド航路(エンパイア・ルート)の喉もとにあたるスエズ運河の株式の買収に資金を提供するなど、イギリスの発展に大きな役割を果たしました。20世紀に入るとロスチャイルド銀行は衰退に向かいますが、ロンドンのロスチャイルド銀行は、今日も大銀行として存続しています。
ロイター(キリスト教に改宗)は、ドイツで伝書鳩を使った通信事業を行っていましたが、19世紀半ばに世界金融の中心地であるロンドンに通信社を設立しました。やがてロイターは、ニュースのスピードと正確さによって金融業やジャーナリズムの信用を獲得し、イギリスとヨーロッパ、イギリスとアメリカ合衆国を結ぶ海底ケーブルを敷設して、世界的通信社に発展しました。当時は、イギリスが全世界に進出していた時代であり、ロイターはイギリス植民地支配のための「目となり耳となって」イギリスの繁栄を支えました。ロイター通信社は、今日も、世界130カ国197支局に2400人の記者、カメラマンを配置、26カ国語で配信を続けています。
ユダヤ人は国籍・国境をもたないインターナショナルな性格をもっていたが故に、グローバル化が進行しつつあった時代に大きな成功をおさめることができました。しかし、19世紀末以降ナショナリズムが高まり、「民族」に基づく国民国家が形成されるようになると、ユダヤ人は試練の時代を迎えることになります。
≪映画≫
遥かなる大地へ
1992年 アメリカ
19世紀末、アイルランドでの貧しい生活に耐えかねた若い二人の男女が、希望に胸を膨らませてアメリカへ移民します。この映画は、この若い男女の苦労の物語です。彼らは、都市での苦しい生活を続けますが、政府がオクラホマの土地を解放したため、ここに土地を得てようやく安住の地を見出します。この映画には、アイルランド問題、移民問題、当時のアメリカ社会、オクラホマ問題など、この時代のさまざまな問題が凝集されており、大変興味深い内容でした。
80日間世界一周
1956年 アメリカ合衆国
これは、1872年にフランスで出版された冒険小説を映画化したもので、170分近い大作です。まず、イギリスの貴族フォッグが80日間で世界を一周できるかどうかという賭けをし、召使を一人連れて世界一周の旅を始めます。当時の交通手段を用いた場合、どのくらいの日数で世界一周が可能なのか、はっきりしたことは分かりません。ただ、6年前の1866年にイギリスの蒸気船が、中国からイギリスまで80日間で到達するという「驚異的」な記録を打ち立てました。これと比較して考えれば、80日間で世界を一周するなどということは夢物語です。いわばこの小説は、当時のSF小説だったと言えるかもしれません。ただ、この6年の間に交通史上の重大な変化が起きます。つまり1869年にスエズ運河が開通するとともに、アメリカ大陸横断鉄道が完成したのです。このことが、80日間世界一周を可能にしたのです。
オリエント急行殺人事件
オリエント急行は1872年(「80日間世界一周」が出版されたのと同じ年)に開通した国際寝台列車で、やがてパリからトルコのイスタンブルを6日間で結ぶようになります。まさに、西ヨーロッパとオスマン帝国の心臓部分を直結した列車です。この列車には豪華な食堂車があり、一等車の運賃は労働者の一年分の報酬に匹敵するといわれ、庶民が乗ることは不可能でした。しかし、オリエント急行は、超豪華列車であることや、そのエキゾチックな名称ゆえに、多くの人々から愛され、小説や映画などの舞台となりました。「007 ロシアより愛をこめて」という映画も、オリエント急行でのシーンがあります。第二次大戦後にオリエント急行は廃止されますが、現在では観光用に一部が復活しています。
ヴィクトリア女王は、18歳で即位し63年間も在位しのす。彼女の生涯を、アルバート公との愛を中心に描きます。アルバートは、格下のドイツの貴族で周囲の反対もありましたが、あえて結婚します。彼は女王をよく補佐しますが、1861年に死去します。彼女の家庭生活のあり方は、家庭生活の模範として語り継がれます。
1956年 アメリカ合衆国
これは、1872年にフランスで出版された冒険小説を映画化したもので、170分近い大作です。まず、イギリスの貴族フォッグが80日間で世界を一周できるかどうかという賭けをし、召使を一人連れて世界一周の旅を始めます。当時の交通手段を用いた場合、どのくらいの日数で世界一周が可能なのか、はっきりしたことは分かりません。ただ、6年前の1866年にイギリスの蒸気船が、中国からイギリスまで80日間で到達するという「驚異的」な記録を打ち立てました。これと比較して考えれば、80日間で世界を一周するなどということは夢物語です。いわばこの小説は、当時のSF小説だったと言えるかもしれません。ただ、この6年の間に交通史上の重大な変化が起きます。つまり1869年にスエズ運河が開通するとともに、アメリカ大陸横断鉄道が完成したのです。このことが、80日間世界一周を可能にしたのです。
さて、フォッグと召使は当時用いられていたあらゆる交通手段を用いて旅を続けます。熱気球、蒸気機関車、像、帆船、蒸気船などです。途中でさまざまな困難に遭遇するとともに、行く先々でさまざまな事件に巻き込まれます。こうした困難を2人は、幸運に恵まれたり、奇想天外な方法で克服したりしながら旅を続けます。こうして予定の日のぎりぎりにロンドンに到着するのですが、約束した時間よりもわずかに遅れてしまい、フォッグは賭けに負けて全財産を失うと思ってがっかりします。ところが、旅で日付変更線を超えたため暦の上では1日前だったのです。つまり1日得をしたわけです。その結果彼は賭けに勝つことができました。こうして物語は終わります。物語は全体にコミカルに展開し、退屈しない大変面白い映画でした。
当時のイギリスは繁栄の頂点にあり、イギリス人は世界をまたにかけて活躍していました。この物語は、そうした歴史的な背景のもと書かれたものです。同時に、この映画が製作された1950年代は、アメリカ合衆国が世界の頂点に上り詰めた時代でした。この映画を制作した人々は、19世紀のイギリスと20世紀のアメリカの繁栄をダブらせて見ていたに違いありません。 オリエント急行殺人事件
1975年 イギリス
これは、イギリスの推理作家アガサ・クリスティの小説を映画化したものです。オリエント急行の中で起こった殺人事件を、たまたま乗り合わせた名探偵エルキュール・ポアロが解決するという物語です。オリエント急行は1872年(「80日間世界一周」が出版されたのと同じ年)に開通した国際寝台列車で、やがてパリからトルコのイスタンブルを6日間で結ぶようになります。まさに、西ヨーロッパとオスマン帝国の心臓部分を直結した列車です。この列車には豪華な食堂車があり、一等車の運賃は労働者の一年分の報酬に匹敵するといわれ、庶民が乗ることは不可能でした。しかし、オリエント急行は、超豪華列車であることや、そのエキゾチックな名称ゆえに、多くの人々から愛され、小説や映画などの舞台となりました。「007 ロシアより愛をこめて」という映画も、オリエント急行でのシーンがあります。第二次大戦後にオリエント急行は廃止されますが、現在では観光用に一部が復活しています。
ヴィクトリア女王 世紀の愛
2009年 アメリカ・イギリスヴィクトリア女王は、18歳で即位し63年間も在位しのす。彼女の生涯を、アルバート公との愛を中心に描きます。アルバートは、格下のドイツの貴族で周囲の反対もありましたが、あえて結婚します。彼は女王をよく補佐しますが、1861年に死去します。彼女の家庭生活のあり方は、家庭生活の模範として語り継がれます。
ムーラン・ルージュ
2001年 アメリカ合衆国
ムーラン・ルージュは、19世紀末のパリで誕生したキャバレーで、連日ショーが上演されていました。この映画は、このムーラン・ルージュを舞台とした恋の物語で、悲運の天才画家ロートレックが登場するとともに、世紀末の退廃的な雰囲気がよく描かれています。
なお、ロートレックは、富裕な家に生まれましたが、子どものときに足を怪我し、以後両足の成長が止まってしまいます。彼は、画家としての優れた天性をもっていましたが、両親からは認められず、ムーラン・ルージュに入り浸り、酒に溺れ、37歳の若さで死んでしまいます。
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