1.帝国の崩壊
2.ナショナリズムの時代
3.20世紀-戦争の世紀
付録1.ジェノサイド
付録2.宮崎滔天(とうてん)の夢
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1.帝国の崩壊
歴史上、「帝国」と呼ばれる政治形態がしばしば登場しました。しかし「帝国とは何か」という問いに答えることは容易ではありません。広辞苑は「皇帝が統治する国」と記していますが、では「皇帝とは何か」という新たな疑問が発生します。皇帝について、広辞苑は「帝国を統治する君主」と記しており、これでは答えになっていません。
歴史上、最初に登場した本格的な「帝国」は、アケメネス朝のペルシア帝国とされています。その後ヨーロッパでは、ローマ帝国、神聖ローマ帝国などが登場し、アジアでも中華帝国、イスラーム帝国、ムガル帝国、オスマン帝国などが登場しました。これらの国家に共通する特徴は、絶えず領土を拡張し、その内部に多様な民族集団・言語集団などを含む政治的統一体ということです。歴史上、比較的大きな領域を支配する国家は、おおむね、こうした「帝国」としての性格をもっていました。これに対して、近代のヨーロッパは、「主権国家」というコンパクトで効率性の高い国家形態を生み出し、19世紀後半にはヨーロッパ諸国が主権国家を単位として全世界に進出していきました。ところが、20世紀に入った段階でも、なお「帝国」と呼ばれる国家が、幾つか存在していました。それは、オーストリアのハプスブルク帝国、ロシア帝国、オスマン帝国、中華帝国=清帝国である。そして、これらの帝国は、20世紀の最初の20年間で、すべて消滅していくことになります。
最初に消滅したのは、中華帝国=清帝国です。中国では、アヘン戦争以来、アロー戦争、日清戦争などヨーロッパや日本との戦いに敗北し、太平天国の乱や義和団事件など民衆反乱が相次ぐなかで、清朝内部での改革も試みられましたが、すべて失敗に終わりました。こうした中で、1905年孫文を中心に、西洋思想の影響を受けつつ、清朝打倒を目指して中国同盟会が結成されました。これを背景に、1911年辛亥革命が起こって清朝は消滅し、共和国として中華民国が樹立されました。その後の中国では、国民党政府の成立や、共産党による中華人民共和国の成立など、さまざまな変遷が続きますが、結局清朝以来の領土がほとんどそのまま維持されることになりました。つまり中国では、清朝という皇帝支配の帝国は崩壊しましたが、多様な少数民族を支配するという意味での「帝国」は残りました。そのため、今日でも中国では、チベット人、モンゴル人、ウィグル人など、少数民族の問題が残っています。
19世紀半ばのロシア
ロシア革命後のソ連
ソ連邦の崩壊
次に崩壊したのはロシア帝国です。1917年のロシア革命でロマノフ朝は崩壊し、1922年にソヴィエト社会主義共和国連邦が成立しました。この国は、最初、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースという四つの共和国からなる連邦として発足し、まもなく15の共和国から構成されるようになります。形式上、これらの共和国はすべて対等ということになってはいますが、実際にはすべてモスクワの中央政府によって支配されていました。その意味において、ロシアもまた「帝国」としての枠組みを残したことになります。1991年ソ連邦が崩壊し、ロシアはロシア連邦として発足したが、ロシア連邦内部にも少数民族問題が存在しています。
次に崩壊したのは、オーストリアのハプスブルク帝国でした。オーストリアは、ハンガリーと多数のスラヴ人地域を支配する中欧の帝国でしたが、第一次世界大戦での敗北が決定的となると各地で独立宣言が相次ぎ、ハプスブルク家最後の皇帝が国外に亡命すると、オーストリアとハンガリーが共和国を宣言して、ハプスブルク帝国は崩壊しました。戦後、オーストリアは中欧の一小国に転落し、経済的に困窮するとともに、人々はオーストリア国民としてのアイデンティティをもつことができませんでした。しかし、第二次世界大戦直前にドイツに占領され、戦後独立を回復すると、オーストリアの国民はようやく小国として生きていく道を見出し
たのです。しかし、かつてハプスブルク帝国に支配されていたスラヴ人地域では、今日もなお民族紛争が絶えません。
最後に崩壊したのは、オスマン帝国です。オスマン帝国は、かつて三大陸にまたがる大帝国でしたが、19世紀にはヨーロッパ諸国の侵略を受けて領土が縮小していきました。それでも、第一次世界大戦の直前にはイスタンブル周辺と小アジア、アラブ人地域からなる帝国でした。第一次世界大戦で敗北した時、オスマン帝国は事実上崩壊していましたが、ケマルパシャによる国民革命により、イスタンブルと小アジアのみのトルコ共和国として再出発することになりました。しかし、かつてオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島やアラブ人地域では、今日に至るまで民族紛争が絶えません。
要するに、古くからある「帝国」という国家形態は、新たに生まれた「主権国家」という国家形態に敗北して崩壊し、その跡に多数の主権国家、あるいは自治共和国が形成され、今日に至るまで、多くの問題を残しているのです。
2.ナショナリズムの時代
19世紀の後半に、ヨーロッパのアジア進出が本格化すると同時に、アジアでもこれに対する抵抗運動が起こってきました。その際アジアの人々は、抵抗の武器としてヨーロッパから学んだ主権国家=国民国家の理念を採用しましたが、問題は、国民国家としてのアイデンティティを、どこに見出すかでした。19世紀後半以来、ヨーロッパでは国民国家のアイデンティティとして「民族」が強調されていたため、アジアの人々も、自らのアイデンティティとして「民族」を掲げるようになりますが、問題はそれほど簡単ではありませんでした。とくに、「帝国」が存在していた所では、国家の枠組みと民族とを一致させることが困難だったからです。
オスマン帝国では、19世紀後半に「オスマン人」という概念を生み出され、帝国内のすべての住民を、この概念のもとに統治する試みがなされましたが、それは実現不可能な試みでした。結局、ケマルパシャは、「トルコ人」という最も狭い概念に基づき、トルコ人が住む地域のみからなるトルコ共和国を建国しました。しかしこの場合でも、問題が残っていました。「トルコ人」のみの国家という時、そこには他の民族に対する強烈な排除の論理が生まれるからです。トルコにはアルメニア人やクルド人などの少数民族がおり、彼らに対する激しい迫害が行われ(オスマン帝国末期)、今日でもトルコにはこうした少数民族問題が残っています。
中国の孫文の「民族」に対する考え方の変遷は、民族問題の複雑さをよく示しています。1905年に中国同盟会が結成されたとき、孫文にとっての中国民族とは漢民族であり、満州人が支配する清朝を打倒することを目標に掲げました。それは、超民族的な中華思想に対して、漢民族の国民国家の建設を目指すものでした。とろが、辛亥革命後、中国には漢民族以外に多くの民族が存在するという現実に直面したため、孫文は、五族(漢人・満州人・モンゴル人・チベット人・ウィグル人)共和を掲げ、中華帝国の版図と住民を継承した新中国建設を主張するようになりました。しかし、実際には中国にはもっと多くの民族が存在しています。そうした中で、第一次世界大戦後の孫文は、新たに「中華民族」という概念を生み出しました。彼は、中国のすべての民族を1つの中華民族に融合しなければならないとして、「中華ナショナリズム」の立場をとるようになります。ここに、伝統的な中華思想と近代思想としてのナショナリズムの接合をみることができます。
この中華帝国の枠組みを受け継いだ中華人民共和国では、社会主義の大義を守ることが国家のアイデンティティとされ、チベットなどでの分離運動は軍事力によって弾圧されました。ソ連もまた、社会主義の大義をアイデンティティとしましたが、その社会主義体制が崩壊したとき、ソ連もまた崩壊しました。したがって、中国は、かつての中華帝国の枠組みを維持するためには、社会主義の大義を国家のアイデンティティとして掲げ続けなればならないのであろうと思われます。
これに対して、インドのガンディーの思想は、ナショナリズムを問題にしていないところに特色があります。ガンディーの主張は、真の敵はイギリスの政治支配なのではなく、近代工業文明そのものであるということです。彼は、近代文明のシンボルであり、かつインドにも恩恵をもたらしていると考えられた鉄道、病院、法律にも攻撃の矛先を向けます。彼は、こうした近代文明に吸引されているため、インドはイギリスの支配を受けているのであり、イギリスの支配はインド人が協力するから成り立っていると説きます。だとすれば、この協力を止めさえすれば、イギリスの支配は崩壊します。これが非協力運動を支えた考え方でした。このような視点をもたずに、暴力によってイギリス支配を駆逐して、政治的独立を達成しようとする試みは、「インドをヨーロッパ化する」ことであり、「イギリス人なきイギリス人支配」しか意味しないものです。この主張はある意味で反近代主義であり、当時としては、非現実的なユートピアだったかもしれませんが、国家とかナショナリズムといった狭い枠組みを超越しているがゆえに、彼の思想は時代を超えた意義をもっているように思われます。要するに、すべての人が、必要な分だけ生産して生きていけば貧富の差も紛争もなくなるのだ、ということでです。
しかしながら、20世紀は、ナショナリズムと呼ばれる得体の知れないイデオロギーが花開いた時代であり、今日もなお、ナショナリズムは全世界に重大な影響を及ぼし続けているのです。
3.20世紀-戦争の世紀
第一次世界大戦
第二次世界大戦
20世紀は戦争の世紀でもありました。とくに人類は、20世紀前半に2度も世界戦争を経験し、20世紀後半には冷戦が始まったのです。「冷戦」とは、実際に戦争が行われていないが対立している状態を意味しますが、それはヨーロッパでのことであり、冷戦はアジアでは「熱い戦争」に発展していたのです。一体なぜ二度も世界戦争が起き、またこれらの世界戦争とは一体何だったのでしょうか。その原因は多様であり、これらの戦争は多様な側面をもつため、これらの問いに一言で答えることは困難です。
第二次世界大戦
20世紀は戦争の世紀でもありました。とくに人類は、20世紀前半に2度も世界戦争を経験し、20世紀後半には冷戦が始まったのです。「冷戦」とは、実際に戦争が行われていないが対立している状態を意味しますが、それはヨーロッパでのことであり、冷戦はアジアでは「熱い戦争」に発展していたのです。一体なぜ二度も世界戦争が起き、またこれらの世界戦争とは一体何だったのでしょうか。その原因は多様であり、これらの戦争は多様な側面をもつため、これらの問いに一言で答えることは困難です。
「近代世界システム」という観点から観れば、このシステムにおいて覇権が交替する際に大戦争が起き、世界大戦もその一環だった、とうことになります。17世紀前半の三十年戦争の後に、オランダが最初の覇権国家となり、フランス革命に始まりナポレオン戦争が終わる26年間の動乱と戦争の後にイギリスが第二の覇権国家になりました。さらに、第一次世界大戦が始まってから第二次世界大戦が終わるまでの31年間は事実上戦争の時代でした。第一次世界大戦が5年間、その後20年の間をおいて起きた第二次世界大戦が6年間続きました。その間にもアジア各地で民族独立のための戦いが続いていたのですから、第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの戦争とみなし、これを20世紀の三十年戦争と考えることもできます。そして、戦争が終わったとき、アメリカ合衆国は近代世界システムの覇権国家としての地位を確立していたのです。
幾分こじつけがましい理屈であり、第一、覇権国家が成立するためになぜ戦争を必要とするのかもはっきりしませんし、しかも、幾分ヨーロッパ中心的な考え方でもあります。しかし、結果から見ると、新しい覇権国家が成立するのに先立って30年前後におよぶ大戦争が起こっているのも、事実です。また、第一次世界大戦と第二次世界大戦を一つの連続する戦争、という考え方も我々に新しい視点を提供してくれます。三十年戦争やフランス革命・ナポレオン戦争の時代も、戦争が行われていない時期が相当あったのだから、20年の間をおいて行われた二つの戦争を、まとめて20世紀の三十年戦争として捉えることも可能であろうと思われます。
こうした観点で見るなら、20世紀の三十年戦争は、17世紀以来続いた主権国家体制と、19世紀に発生した国民国家あるいはナショナリズムが生み出した戦いと考えることもできます。17世紀以来、ヨーロッパでは主権国家同士のむき出しの闘争が繰り返されてきましたが、19世紀に主権国家と民族が結びついた国民国家が形成されると、国家に対する国民の帰属意識が高まり、国家と国家との対立が国民と国民の対立にまで発展しました。
とくに第一次世界大戦は総力戦だったので、政府は国民意識を鼓舞するような宣伝を行い、国民にも国家のために戦うという意識が高まりました。また、戦争を遂行するために、国家による国民の統制も強まりました。従来、国民の日常生活にとって国家が直接影響を及ぼすことはほとんどありませんでしたが、今や国家による徴兵制度や軍需産業への労働力の集中、さらに食糧の配給制度など、生活のあらゆる場面で国家が介入するようになりました。そのため、国民の間に国家との一体感が強まるとともに、国家もまた国民の要求に一定の配慮をせねばならなくなったのです。
第一次世界大戦後に全世界でナショナリズムが花開きました。大戦中にアメリカ大統領ウィルソンが提示した「民族自決」の原則は、ウィルソンの意図を離れて、至るところで叫ばれました。しかし、一つのナショナリズムは、必ず他のナショナリズムに対する排除の論理をともないます。やがで、ドイツのヒトラーは、ナショナリズムを人種主義にまで矮小化し、「ドイツ民族の優秀性」を振りかざして侵略政策を推進しました。同様のことが、イタリア・日本などにも発生し、やがて第二次世界大戦に突入して行くのです。
ベルリンの壁の建設
朝鮮休戦協定-板門店
第二次世界大戦が終わったとき、ヨーロッパの衰退は決定的となっていました。かわって、アメリカ合衆国が圧倒的な経済力を背景として登場しましたが、社会主義国家ソ連がその前に立ちはだかったのです。ソ連は、経済的には弱体であり、国内的にも多くの問題を抱えていましたが、第二次世界大戦に勝ち抜いて自信をつけ、国際的にも威信を高めていました。こうして米ソの冷戦が始まりますが、この時代にもナショナリズムは隆盛を極めていました。アジア・アフリカ諸国が独立するたびに、新たな国家が米ソいずれの陣営に入るかで争いが起き、世界中至るところで紛争が発生しました。こうした中で、ドイツ・朝鮮・ヴェトナムのように国家が分断される国もあり、朝鮮では今なお分断状態が続いています。また、新たに独立した国民国家同士の国境線をめぐる争いや、内部の民族問題などが発生し、この紛争も今日に至るまで続いています。
主権国家体制に基づく国民国家が全世界に普及した頃、国民国家を乗り越えようとする動きもありました。すなわち、他でもない主権国家体制の生みの親であるヨーロッパで、統合の動きが生まれたのである。1960年代にヨーロッパ共同体(EC)が結成され、今日ではヨーロッパ連合(EU)として、国家統合が目指されています。こうした動きは、東南アジアやアフリカにもあり、これらの動きが成功するか否かは分かりませんが、国民国家を乗り越えようとする動きが生まれつつあることも事実です。
今まで国民国家の内部に存在した少数派、すなわち彼らが帰属する国家とは異なる歴史的・文化的な伝統をもつ人々(エスニック・グループ)は、かつては国民国家によって抑圧されていたのですが、今日しだいに自己主張を強め、国民国家からの分離の動きを強めつつあります。21世紀の今日においても、ナショナリズムの問題は未解決であり、今後どのようになっていくのか、きわめて不透明な状態にあります。
付録1.ジェノサイド
南京に突入する日本軍
ジェノサイド(Genocide)とは、人種や民族を計画的に抹殺する行為を意味し、第2次世界大戦中にナチスによるユダヤ人などに対する迫害の特異性をしめすため生み出された造語です。大量殺害は古くからあり、見せしめのために、征服した都市の住民をすべて殺害することは、しばしば行われてきました。日中戦争中に日本が南京で行った大虐殺も、そうした事件の一つだとおもわれます。
20世紀になると、民族主義や人種主義が高まり、国民国家内部の少数民族・人種を、まるごと絶滅させるといった事件が、しばしば起きました。20世紀における最初の大規模なジェノサイドとしては、1915~23年に、オスマン帝国によっておこなわれた例があげられます。この期間に、60万人から150万人のアルメニア人が、故郷を追い出されたり、殺されたりしたとされています。20世紀のもっとも有名なジェノサイドの例は、30年代および40年代に、ナチス・ドイツによって組織的におこなわれた、ユダヤ人を全滅させようとした試みで、1945年の第2次世界大戦終結までに、600万人のユダヤ人が、ナチスの強制収容所などで殺害されたとされています。
このようにナショナリズムは、常に他者を排除しようとする論理を内包し、その結果、信じられないような大量虐殺が行われることがあります。民族間・部族間・宗教間・宗派間の殺戮は、今日もなお行われています。
付録2.宮崎滔天(とうてん)の夢
宮崎滔天は、1905年東京で孫文らによる中国同盟会の結成を援助し、辛亥革命を成功させた人物として知られています。彼は1871年熊本県で生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)に入学します。やがて彼は、ヨーロッパの支配に対してアジアの自由と人権を守らねばならないと考えるようになり、そのためには中国での革命が不可欠であると考えるようになりました。そこで彼は、中国の革命諸団体の間を何度も往復して説得を続け、中国同盟会の結成にこぎつけたのです。
この間、滔天自身は、赤貧洗うがごとき生活を続けていましが、孫文など中国からの亡命者への支援を惜しまず、フィリピンの独立運動の援助までしましたが、これは失敗に終わりました。そして、突如、浪曲の師匠に弟子入りし、浪曲師として全国を講演しつつ、政治活動のための資金を稼いだりしました。また、自叙伝『三十三年之夢』を出版しますが、この本で滔天が孫文の名を紹介したことから、孫文の名が広く中国で知られるようになり、革命を志す人々が孫文のもとに集まるようになったといわれています。
宮崎滔天の「アジアの自由と人権」の夢は、後に日本の軍部によって、大アジア主義に基づく侵略主義のイデオロギーに利用されますが、もちろんそれは滔天の責任ではありません。2005年に、「中国同盟会設立100周年記念国際シンポジウム」が開催されたが、そこには宮崎滔天の孫が招待されており、中国を今日に至るまで滔天への恩義を忘れていません。
≪映画≫
インドへの道
1984年 イギリス
1920年代、イギリスの女性が植民地のインドを訪れ、カルチャー・ショックを受けると共に、民族運動にも巻き込まれるという物語です。5000年の歴史をもつインド文明とヨーロッパ文明との壁、支配者であるイギリス人と支配されるインド人との壁、そうしたものを考えさせられる映画です。
ガンジー
1982年 イギリス インド
第一次世界大戦後のインド独立運動を率いたマハトマ・ガンジーの生涯を描いた映画です。彼はイギリスに留学して弁護士となり、イギリスの植民地である南アフリカで植民地支配の現実を思い知らされ、インドで本格的な非暴力・不服従運動を展開します。イギリスの軍隊の暴力に対して、インドの民衆が非暴力で敢然と立ち向かっていく場面は、圧巻です。そしてこの映画は、独立直後にガンジーがヒンドゥー教の過激派に暗殺される場面で終わります。
第一次世界大戦後のインド独立運動を率いたマハトマ・ガンジーの生涯を描いた映画です。彼はイギリスに留学して弁護士となり、イギリスの植民地である南アフリカで植民地支配の現実を思い知らされ、インドで本格的な非暴力・不服従運動を展開します。イギリスの軍隊の暴力に対して、インドの民衆が非暴力で敢然と立ち向かっていく場面は、圧巻です。そしてこの映画は、独立直後にガンジーがヒンドゥー教の過激派に暗殺される場面で終わります。
カーツーム
1966年 アメリカ
この映画は、史実に基づいた映画です。カーツーム(ハルツーム)は、青ナイルと白ナイルの合流点にある要塞都市で、イギリスによるスーダン支配の拠点でした(厳密には、スーダンはエジプトの領土ですが、エジプトはイギリスの保護国なので、事実上スーダンもイギリスの植民地でした。ただ、当時イギリスはスーダンをエジプトから分離して、エジプトの直接の植民地にしようと画策していました)。ところが、こうした外国の侵略に対して、ムハンマド・アフマドという人物がマフディー(救世主)を名乗って反乱を起こしたのです。そしてイギリスは、この反乱を鎮圧するためにゴードン将軍を派遣しました。
ゴードンは、19世紀半ばのクリミア戦争に従軍し、その後まもなく中国の太平天国の乱の鎮圧のため中国に派遣された高名な将軍です。そして、このゴードンがこの映画の主人公で、彼はこの戦いで戦死します。結局この映画は、狂信的なイスラーム教徒の反乱に対してヨーロ
ッパ人の英雄が立ち向かうという内容であり、前に書いた「北京の55日」と同様に駄作です。でも、ハルツームの風景や戦闘場面は、参考になります。
風とライオン
1975年 アメリカ
この映画の舞台は、1904年のモロッコです。当時、フランス、ドイツ、スペイン、アメリカなどが進出を目論んでおり、この地方の支配者サルタンは欧米諸国の言いなりになっていました。これに対して、地元族長ライズリが反発し、誘拐事件を起こしてサルタンを追い落とそうと考えました。そうした中で、アメリカの女性とその二人の子どもが誘拐されます。一方、アメリカの大統領Th.ローズヴェルトは、この事件を次期選挙に利用しようとして、モロッコに艦隊を派遣します。結局親子は救出されますが、後日ライズリから大統領に手紙が届き、そこには次ぎように書かれていました。
「あなたは風のごとく、私はライオンのごとし。あなたは嵐をまきおこし、砂塵は私の眼を刺し、大地はかわききっている。私はライオンのごとくおのれの場所にとどまるしかないが、あなたは風のごとくおのれの場所にとどまることを知らない。」まさに、植民地支配の本質を言い当てた言葉だと思います。この言葉は、現在のイラクやアフガニスタンにも当てはまるのではないでしょうか。
なお、この事件が起きたのは、先に述べた「北京の55日」「カーツーム」とほぼ同じ時期であり、また後で述べる孫文による中国同盟会結成の磁器とも同じです。アルジェの戦い
1966年 イタリア アルジェリア
19世紀半ば以来アルジェリアはフランスの植民地となり、多くのフランス人がここに移住して財産を築いていました。これに対して、アルジェリアはしばしば反乱を起こしますが、フランス軍によって残酷に弾圧されてきました。ところが、1954年にフランスはベトナムで敗北し、ベトナムからの撤退を余儀なくされます。このことがアルジェリア人にも勇気を与え、本格的な解放闘争が展開されるようになります。これがアルジェの戦いです。
この戦いでは、ゲリラ闘争、テロ、拷問、大量殺戮など、あらゆる残虐行為が繰り返されます。こうした中でフランスで政変が起き、結局1962年にフランスはアルジェリアの独立を認め、ほとんどのフランス人入植者が退去することになります。この映画は、イラク戦争に際して、アメリカの国防省が対テロ戦争の教材として用いたとのことですが、これを教材とするなら、アメリカはイラクで勝てないということを学ぶべきだと思います。
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