2014年1月10日金曜日

第10章 遊牧騎馬民族の活動と内陸ユーラシア





1.3世紀-危機の時代

2.遊牧騎馬民族とは何か

3.馬-人類の友

4.遊牧騎馬民族の登場

5.トルコ民族の登場






 







1.3世紀-危機の時代


 3世紀には、西ではローマ帝国で軍人皇帝が乱立する混乱時代に入って、ローマ帝国は急速に衰退に向かい、東では漢帝国が滅亡して魏晋南北朝()の混乱状態に陥っていきました。すなわち東西の古代帝国が衰滅していったのです。また、西アジアでもパルティア王国が滅亡してササン朝ペルシアが起こり、インドでもクシャーナ朝やサータヴァーハナ朝が滅亡しました。この時代のユーラシア大陸では、一体何が起こっていたのでしょうか。

 これら一連の出来事には、内陸アジアの変動、すなわち、遊牧騎馬民族の活動が直接・間接に影響を与えていました。そしてこの時代から、短期的には7世紀頃まで、長期的には15世紀まで、ユーラシア大陸は遊牧騎馬民族の活動によって、ユーラシア大陸の歴史が大きく左右され、それとともにユーラシアの交易ネットワークも著しく発展していくことになります。すなわち、3世紀から15世紀までのユーラシア大陸は、遊牧騎馬民族の時代であった、といっても過言ではありません。

2.遊牧騎馬民族とは何か

 先史時代以来の人類の代表的な生業は農耕と牧畜であり、農耕は今から1万年ほど前の西アジアで始まったと考えられていますが、遊牧がいつどこで始まったのか、はっきりしません。おそらく今から1万年から4千年前くらいの間に、内陸アジアのどこかで始まったと思われます。いずれにしても人類は、遊牧という生活方法を生み出すことによって乾燥した広大な不毛の地を生活圏にしていったのである。







 
 
 
 
 
 
 
 
 
天山山脈での羊の放牧
 遊牧生活には、地域によりさまざまな形態があります。飼育する家畜は羊・山羊・牛・馬・ラクダなど多様ですが、最も多いのは羊です。遊牧民は草を求めて一年間移動して暮らしますが、あてもなく移動しているわけではありません。夏季には、家族ごとに山の斜面や平原に散らばって草を食べさせ、冬季には寒さや積雪をしのいで山の南麓や谷間で、集団生活を営んで越冬します。ここでの集団が、遊牧社会の基礎単位となります。こうした移動を繰り返す中で、家畜たちは春の出産から夏の肥育、秋から冬にかけての雄の屠殺と妊娠など、きわめてシステマティックに管理されています。
 

  一方、遊牧経済は、それ自体では自給できない経済体制で、農産物や日曜の生活必需品は他の経済圏から手に入れなければならなりません。しかも遊牧生活はきわめて不安定で、とくに自然災害の影響を受けやすいため、遊牧民にとってはオアシス都市との共存が不可欠であす。そのため遊牧民は、彼らの経済活動によって生産された乳製品や毛皮などや、さらにその移動性を生かして遠方から運んだ商品などによって、定住民と交易を行い、生活必需品を獲得してきました。交易の場はオアシス都市であり、遊牧民の生活の場が「面」であるとするなら、オアシス都市は「点」であり、物と人との交差点なのです。そして、この意味において、遊牧民とオアシス民は共生関係にありましたが、遊牧民が騎馬の技術を身につけたとき、遊牧民の機動力・行動範囲・戦闘力が一気に拡大し、ユーラシア大陸の主役として躍り出てくるのです。

3.馬-人類の友

「馬」は人類の歴史にとってなくてはならない存在で、19世紀に蒸気機関や内燃機関が普及するまで、交通手段として、また動力として人類の発展に大きな役割を果たしてきました。馬と人間との関係は古く、おそらく更新世(洪積世)の頃には人間は馬を狩猟の対象としていました。その後馬は家畜化され、メソポタミア文明の時代には馬に荷車を引かせており、さらに前2千年紀に西アジアに侵入したインドヨーロッパ語族は、馬に引かせる戦車をもっていました。馬と戦車の登場は、従来の「速度」と「距離」の観念を根底からくつがえし、以後世界史はめまぐるしく動き出しました。馬と戦車の出現は、世界史の速度をも速めることになったのです。


馬車
馬車は力を肩にかけるため、比較的早く実用化されました。












戦車


戦車も力を肩にかけるため、比較的早く実用化され、戦闘技術と馬をコントロール記述が格段に向上しました。馬車用の馬は太い脚と丈夫な体があれぎよいのですが、戦車用の馬は細い脚と早いスピードが必要です。
この写真は、アメリカ映画「ベン・ハー」での、有名な戦車競技場面です。






(はみ)と手綱(たづな)
口に銜()をつけ、それに手綱をつけて馬をコントロールします。これによって人間は馬に直接のることが可能となり、以後馬は人類の友となりました。すでに紀元前2,000年から1,600年ごろの遺物に発見されているそうで、これにより人は馬を巧みに操ることができるようになりました。














(あぶみ)
鐙は、乗り降りに便利なだけでなく、これにより体が安定するため、騎馬したまま弓をいることが容易になりません。その結果騎馬戦が戦闘で大きな役割をはたすようになります。4世紀頃の中国で発見されているものが最古で、ヨーロッパでは7世紀以降とされます。










蹄鉄

平均400キロ以上ある馬体に人間を乗せて走ると、蹄(ひづめ)をいためます。そこで蹄に蹄鉄を打ち込みます。蹄は一種のタンパク質でできており、500ほどに焼けた蹄鉄に耐えられます。ただし、蹄は、月に約8cmほど成長すると同時に、蹄鉄も摩耗するので、月に1回程交換するひつようがあります。
ローマ帝国時代には、まだ革製のブーツをはかせていたようですが、5世紀頃から蹄鉄が普及したようです。
 





騎馬
騎馬の技術は遊牧社会において発達したと考えられます。馬に乗れば、より早くより遠くへ移動できるだけでなく、徒歩で家畜を管理する場合と比較して、一人ではるかに多くの家畜を管理できるからです。しかし、人間が馬に乗るためにはいくつかの技術的な問題を克服せねばならなりません。まず馬を制御するための手綱をつける道具である銜(はみ)が必要です。さらに、馬に乗るための踏み台として鐙(あぶみ)が発明され、最初は片側だけだでしたが、その後鐙があると騎射が容易となるため両側につけられ、そのための鞍と腹帯も必要となりました。また、馬の蹄(ひづめ)は損傷しやすいので、古代ローマ時代には馬に履物を履かせて紐で結びつけていましたが、やがて蹄鉄(ていてつ)が発明されまし。蹄鉄の発明はかなり後になってからで、10世紀くらいではないかとされています。いずれにしても、これで騎乗のための道具はすべてそろったことになります。

馬に乗ることによって遊牧民族の行動範囲は一気に拡大し、以後世界史上に多くの遊牧騎馬民族が登場し、世界史に大きな影響を与えることになります。騎馬の技術はやがて農耕社会にも普及しますが、最初に騎馬戦術を軍事力として組織したのはアッシリア帝国で、その圧倒的な軍事力によって初めてオリエントを統一して世界帝国となりまた。その後騎馬の風習は急速に普及し、戦争だけではなく、情報伝達などあらゆる分野において騎馬は不可欠の存在となります。また、時代ははるかに(くだ)って、13世紀にモンゴル帝国がユーラシア大陸の過半を支配する大帝国を建設しまが、それを可能にしたのは騎馬による機動力であした。

なお、アメリカ大陸では1万年前にはウマ科の動物が多数生息していましが、8千年程前に絶滅したようです。その後、アメリカ大陸に馬を持ち込んだのはスペイン人で、騎馬技術は少数のスペイン人がアメリカ大陸を征服することを可能にした重要な要因の一つでした。一方、その後馬を受容した先住民の一部は、好戦的・侵略的な少人数集団に解体したり、非定住化したりしますが、これらの事実は馬がアメリカ社会に破滅的な影響を与えたことを示しています。

4.遊牧騎馬民族の登場

杯に描かれたスキタイ
この時代には、まだ鞍も鐙も使用していません。



















スキタイ文化の伝播
 世界最初の遊牧騎馬民は前1千年頃に出現しましたが、本格的な騎馬民族国家は、前8世紀頃黒海北岸に出現したスキタイです。スキタイは馬上から弓を射るなど騎馬技術を格段に発展させ、その機動力によって大草原に散らばる人間集団を統合する、遊牧騎馬民族国家の原型を作り上げました。最も繁栄したのは前6世紀から前5世紀で、この時代はアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア文明が繁栄していた時代でもあり、スキタイは両文明の強い影響を受けて発展しました。とくに、スキタイは黒海沿岸に築かれたギリシア人の植民市を通じてギリシアとの交易を積極的に行い、ギリシアの工芸品は遠くモンゴル高原でも発見されています。一方スキタイの騎馬技術は広く東西に普及し、スキタイが滅びた前3世紀頃に、モンゴル高原に匈奴()による遊牧国家の建設を促すことになります

 
 匈奴は前5世紀頃からスキタイ文化の影響を受けて成長し、前3世紀頃にはオアシス地帯を征服して東西交易の要衝をおさえるなど、大帝国を築き上げました。この頃、中国ではようやく漢による統一帝国が成立し、匈奴と激しく対立しました。この時代の東アジア世界は遊牧の匈奴と農耕の漢という二大勢力が激しく対立した時代でした。そして前2世紀に漢がオアシス地帯の征服を達成すると、経済的な基盤を失った匈奴は衰退に向かい、前1世紀には東西に分裂し、後1世紀には東匈奴が南北に分裂していきました。そして、この匈奴の分裂とその後の移動が、ユーラシア大陸全体に激震をもたらし、それとともに15世紀まで続く「遊牧民の時代」が幕を開けることになるります。


 まず東方では、4世紀初頭に南匈奴が内乱で混乱する西晋を滅ぼし、これをきっかけに周辺民族が中国に侵入して()()十六国の混乱時代が始まりました。やがて五胡の一つ鮮卑()族の()()氏が北魏()を建国して華北を統一し、中国は南北朝時代となりますが、やがて拓跋氏の流れを汲む一族が唐を建国し、中国の統一を達成することになります。唐は中国の代表的な王朝の一つでが、実は拓跋国家と呼ばれる鮮卑族の継承国家なのです。一方西方では、西匈奴がさらに西へ移動する過程で消息を断ちますが、まもなく黒海北岸にフン族が出現し、これに押されてゲルマン民族がローマ帝国内になだれ込みました。匈奴とフン族の関係ははっきりしませんが、何らかの関係があったと推測されています。いずれにせよ、ゲルマン民族の移動をきっかけにローマ帝国は混乱状態に陥り、帝国は東西に分裂し、5世紀には西ローマ帝国が滅亡しました。その後、旧西ローマ帝国領内に多数のゲルマン人国家が建設されますが、そのうちのフランク族が後の西欧文明形成の担い手となっていきます。
 中央アジアでは、5世紀にエフタルと呼ばれる遊牧騎馬民が出現しまする。匈奴とエフタルとの関係もはっきりしませんが、これも何らかの関係があったと推測される。エフタルは6世紀にインドに侵入してグプタ朝を滅ぼし、以後インドでは16世紀まで本格的な統一王朝は出現しません。また、エフタルはササン朝ペルシアへの侵入を繰り返し、ササン朝衰退の原因となりました。こうして東西の古代帝国はすべて衰滅に向かいますが、こうした中で、突如としてアラビア半島の遊牧民が北上し、7世紀から8世紀にかけて大帝国を築き上げることになります。すなわち、イスラーム帝国の登場であり、このイスラーム帝国を建設したのも遊牧民だったのです。


5.トルコ民族の登場


 













遊牧騎馬民族と世界の一体化
遊牧騎馬民族の広範囲な活動により、従来別個に存在していた古代帝国=ネットワーク間の交流が一層活発になります。







 この頃内陸アジアでも、新たな変動が始まっていました。6世紀から9世紀にかけて、突厥、次いでウイグルというトルコ系民族が一大遊牧帝国を建設したのです。6世紀に突厥は北アジアを支配していた柔然を滅ぼし、さらに中央アジアのエフタルも滅ぼして、モンゴル高原から中央アジアに至る大遊牧帝国を築き上げました。この突厥帝国の特異性は、中央アジアの商業民族ソグド人と密接な提携関係を結んだことにあります。ソグド人は、5世紀から6世紀にエフタルの支配下に入り、エフタルの保護のもとに商業活動を行っていましが、今度は突厥と提携したのです。もちろん、遊牧民族とオアシス商業民との提携関係は古くから存在しましが、突厥とソグド人との提携関係はユーラシア規模で展開し、その後の交易ネットワークの発展の上で重要な役割を果たすことになります。
 突厥の支配は短期間で終わり、7世紀には唐がオアシス地帯に進出して交易を推進しますが、もちろん唐のもとで直接交易を担ったのはソグド人でした。8世紀半ばに唐が衰退に向かうと、今度はウイグル(回紇)が突厥に匹敵する遊牧帝国を建設し、ソグド人と提携して大規模な交易活動を展開しました。とくに、唐から絹を買い、唐に西方の馬を売る絹馬交易が、よく知られています。9世紀になるとウイグルの帝国は崩壊しますが、その後トルコ人はイスラーム世界で重要な役割を果たすことになります。一方、ソグド人は永久に歴史の舞台から姿を消すことになる。おそらくソグド人は、イスラーム勢力に飲み込まれ、ムスリム商人に姿を変えて、交易活動を続けたものと思われます。
 ≪映画≫


風の谷のナウシカ

1984年製作の宮崎駿の漫画作品です。
ナウシカたちが住む国に、何百年か前に「エフタル」という国が栄えていました。しかし巨大人工生命体「巨神兵=オーマー」により、火の七日間で焼き払われ、そのオーマーが再び復活します。なお、オーマーはエフタル語で「無垢」を意味するそうです。さらにさらにナウシカたちの国を支配しようとする大国の姫クシャンが登場しますが、これはインドのクシャーナ朝を当てはめたものだと思われます。
ここに描かれている物語はすべて架空の話であり、実在したエフタルとはまったく関係がありません。























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