2015年11月21日土曜日

お知らせ

このブログを始めてからすでに2年が近づき、投稿数は200件に近づき、アクセス回数は4万件に近づいています。また、「映画鑑賞記」も100件に近づき、紹介した映画は500本近いのではないかと思います。ほとんどの映画は、過去に観たものばかりで、このブログを始めてから、新しい映画をあまり観ていません。そろそろ新しい映画を観ようと思いますが、まだ紹介していない映画が数十本残っています。また、「読書鑑賞記」については、一定のペースで本を読んではいるのですが、紹介に値する本にあまり巡りあえません。
家庭菜園では、今年は新しくパプリカを作ってみました。パプリカは30個ほど収穫しましたが、国産の場合1200円以上しますので、完全に元をとることができました。また、今年は、妙に虫が少なく、葉物野菜を食い荒らされずに済んだのですが、カボチャや胡瓜は、花が咲くのに実がなりません。どうやら、蝶々や蜂が少なく、受粉ができなかったのではないかと思います。来年は人工授粉を考える必要がありそうです。現在は、小松菜と青梗菜を栽培中で、すでに食べています。また、ジャガイモと大根はもうすぐ収穫できます。

 ところで、また少し息切れがしてきましたので、しばらく投稿を休みたいと思います。来年の1月には、復活したいと思います。

我が家の庭の片隅で咲いている薔薇の花です。雨が降っていたので、かなり濡れています。












2015年11月18日水曜日

「中国図書の歴史」を読んで


庄威著、吉村善太郎訳 臨川書店(1989)、原作の出版年代、原著者の略歴については、本書に紹介がありませんでした。本書は、100ページ余りの小冊子ですが、中国における5000年に及ぶ図書の歴史を簡潔に記述しています。私は、以前に同様のテーマを扱った本を読んだことがあり、ここに書かれていることは、すでに知っていることが多かったのですが、本書では簡潔に図書の歴史が要約されており、大変読みやすい本でした。
まず、縄結びから文字の発生に至る過程が述べられます。図書の発生はいつかということについては、何を「図書」と呼ぶかによって異なるでしょう。「縄結び」も何本もの縄結びを系統的に繋いで情報を伝えますので図書と言えなくはないし、西周時代の亀甲には小さな穴が開いていて、それに紐を通して系統的に保存したでしょうから、これも図書と言えなくはありません。殷代には青銅や石に文字が書かれますが、多いものでは5600字書かれていたそうですので、これはもはや立派な図書と言えるのではないでしょうか。
漢代には竹木簡が広く用いられていますが、「一本の簡片に、平均して20文字書くとしたなら、2万字で一冊のほんとなるには一千本の竹木簡が必要である。分量の比較的大きな本が何冊かあれば、一台の荷車が一杯になるのである。」こうした中で紙が発明され、紙が普及すれば図書に対する需要はますます増大し、その結果印刷術が発明され、やがてカラー印刷も可能となります。本書は、その経過を、技術的な面を含めて、かなり詳しく述べています。
中国の王朝は、富と権力にものを言わせて、多くの書画や図書を集め、さらに大規模な編纂事業を行います。15世紀に編纂された類書「永楽大典」は2万巻を越え、文字数は4億文字に近いそうです。清代に編纂された「四庫全書」は8万巻近く、10億文字、筆写人員は4000人余りだったそうです。ただ、正史に関してもそうですが、こうした国家的な文化事業には問題もあります。つまり編纂にあたって、王朝にとって不利なものは排斥され、思想統制に利用されるということです。

また、本書ではなく、以前別の本で読んだのですが、権力によって膨大な書画を一箇所に集め、それが王朝交替の戦乱などによって、まとめて焼失するといったこともしばしばありました。そのため、「四庫全書」は、正本7部が浄書され、各地に分散して保管されましたが、アロー戦争・太平天国の乱、義和団事件などによって4部が焼失しました。それでも3部が残っている分けですが、完成されてから100年余の間に4部が失われた分けです。中国の歴史は、こうしたことの繰り返しのようですが、それにしても中国人の図書への情熱には驚くばかりです。

2015年11月14日土曜日

映画でフランス革命を観て

はじめに
 フランス革命勃発からナポレオン戦争終結までの時期を扱った映画を4本観ました。「マリー・アントワネット」「嵐の三色旗(二都物語)」「美女ありき」「会議は踊る」です。

 フランス革命に関しては、革命の原因は何か、その影響は何か、そもそもフランス革命とは何か、という問題について数えきれない程の議論がなされてきました。私も、以前にフランス革命についての本をたくさん読み、まだ読んでいない本が、本箱に何冊もあります。フランス革命を最も広い意味で解釈するなら、既成の政治体制が新しく生まれつつあった社会に対応できなかった、ということだろうと思いますが、このような意味においてなら、中国の王朝交替についても言えるのではないかと思います。ここでは、こうした問題に深入りするのは止め、私がたまたま観た4本の映画の紹介にとどめたいと思います。

マリー・アントワネット

2006年にアメリカで制作された映画で、フランスの王妃マリー・アントワネットの半生を描いています。映画は、オーストリア-ハプスブルク家の皇女マリア・アントーニアがフランス-ブルボン家の王太子ルイに嫁ぐところから始まります。
 ここではまず、マリー・アントワネットが、フランスに嫁ぐに至った経緯を述べておきたいと思います。中世以来の理念的な国家である神聖ローマ帝国は、15世紀以来ハプスブルク家が世襲するようになり、17世紀の三十年戦争以降は、事実上オーストリアとその属領のみとなり、神聖ローマ帝国は名目のみとなっていました。さて、18世紀前半、皇帝カール6世には男子の後継者がいなかったため、娘のマリア・テレジアを後継者とします。この間、マリア・テレジアは、1736年に格下のロートリンゲン公フランツと結婚します。当時としては、珍しい恋愛結婚でした。1740年にカール6世が死ぬと、彼女はハプスブルク家の継承者となりますが、プロイセンを中心とする周辺諸国がこれに異を唱え、オーストリア継承戦争が始まります。マリア・テレジアが23歳の時でした。
 プロイセンのフリードリヒ2世は、マリア・テレジアを小娘として侮っていました。マリア・テレジアは当時妊娠していましたが、8年間戦い抜き、軍隊を整備し、国内の改革を行い、国力の強化に努め、プロイセンへの復讐の準備をします。この間、結婚してから20年の間に16人の子を出産しますので(そのうち6人は成人する前に死亡)20年間ほとんど妊娠していたわけです。まさに女傑です。1756年にプロイセンとの間で七年戦争が始まりますが、この年にマリア・テレジアは、離れ業をやってのけます。200年間に亘って対立してきたフランスのブルボン家と同盟し、プロイセンを孤立させることに成功し、その結果プロイセンは、この戦いで苦戦を強いられることになります。
 マリア・テレジアは、フランスとの友好の証しとして娘をフランスに嫁がせることを約束しますが、その前年の1755年にマリー・アントワネットが、15番目の子として誕生します。当時彼女は、まだ1歳にもなっていませんでした。マリア・テレジアは、子供たちをヨーロッパ各地の王侯貴族と結婚させますので、彼女はヨーロッパの祖母とまで言われました。この間、彼女は離宮としてシェーンブルン宮殿を建設します。この宮殿はフランスのヴェルサイユ宮殿とは異なり、開放的で家族的な雰囲気の宮殿であり、そしてマリー・アントワネットはこの宮殿で育ちます。
 1769年、マリー・アントワネットとフランスの王太子ルイ・オーギュストとの婚約が、正式に成立します。そして映画は、ここから始まります。母からフランスに嫁ぐことを告げられ、シェーブルン宮殿を立ってヴェルサイユ宮殿に到着します。彼女はまだ14歳の少女でした。ただし、マリー・アントワネットを演じた女優は、当時23歳でしたから、とても14歳の少女には見えませんでした。
 ヴェルサイユ宮殿は、シェーブルン宮殿とは異なり、朝から晩まで、くだらない儀式の連続でした。まず朝、居並ぶ貴婦人や女官たちの見守る中で目覚め、着替えをします。この儀式に立ち会うことは貴婦人たちの名誉であり、彼女に下着を渡す係りは最も地位の高い貴婦人の役目でした。200年ほど前にブルボン朝を開いたアンリ4世は気さくな人物で、しばしば町を歩いて庶民と語り合いましたが、ルイ14世時代に絶対王政が確立すると、王を絶対化するために、貴族を宮殿に集め、国王を頂点として貴族を序列化していく過程で、こうした儀式が行われるようになりました。
 1774年にルイ15世が死に、夫がルイ16世として国王に即位するとともに、彼女も王妃となりますが、彼女はまだ二十歳前でした。映画では、マリー・アントワネットの日常生活が淡々と描かれます。貴婦人たちの噂話、夫の性的能力の問題、不倫の問題、パーティーに明け暮れる日々などが描かれます。毎日毎日奇抜な髪型やドレスで装い、まるで全編ファッション・ショウのようでした。それでも彼女は4人の子供を産み(二人は死亡)、母となると幾分落ち着いた暮らしをするようになります。この間、母のマリア・テレジアは娘に何度も手紙を書き、早く子を産むように、浮ついた生活を慎むようにも、さらにフランスで革命が起きる危険性まで指摘しています。
 そして1789年に、ついにフランス革命が勃発し、ルイ16世とマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿に押し掛けたパリ市民により、ヴェルサイユ宮殿からパリへと連行されます。さすがにこの時、マリー・アントワネットも事態がただ事ではないことを悟ります。映画はここで終わりますが、ここからマリー・アントワネットの激動の時代が始まります。そして、翌1780年に母のマリア・テレジアは、娘の身を案じつつ死にました。
 プロイセンと対抗するためにフランスと同盟するというマリア・テレジアの決断は、結局、マリー・アントワネットの処刑という悲劇的な結末を生み出すことになりました。さらにもっと長い目で見れば、フランスとの友好を深めるマリア・テレジアの外交は、ドイツの他の勢力の反発を生み出し、19世紀後半にプロイセンを中心としたドイツの統一が達成され、オーストリアはドイツ統一からはじき出されてしまいます。その意味において、今日のオーストリアの原型を生み出したのは、マリア・テレジアだったと言えるかもしれません。

 結局、マリー・アントワネットには何の罪もありませんでした。巷で噂された諸々のスキャンダルは、ほとんどデマでした。言われるままに政略結婚を行い、ヴェルサイユ宮殿という異常な世界の中で生きた普通の女性だったように思います。彼女は、フランス革命が起きると軟禁され、1793年に夫が処刑された後、唯一の王位継承者である次男がルイ17世となりますが、もはや何の意味もありません。夫の処刑の9か月後に彼女も処刑されます。38年の生涯でした。その後ルイ17世は、病気と酷い虐待のため、1795年に獄中で死亡します。まだ10歳でした。マリー・アントワネットの子供の内、マリー・テレーズのみが天寿を全うしますが、彼女は子供を生まなかったため、マリー・アントワネットの直系の子孫は誰もいません。

嵐の三色旗(二都物語)

1935年にアメリカで制作された映画で、19世紀イギリスの国民作家ディケンズの「二都物語」(1859)を映画化されたものです。フランス革命時代におけるロンドンとパリという二つの都を舞台とした物語で、日本語版タイトルの「嵐の三色旗」は意味不明です。
 まず、フランスにおける貴族の傍若無人な振る舞いが描かれます。そうした中で、一人の医師が大貴族によって、無実の罪でバスティーユ牢獄に投獄されてしまいます。それから18年後に医師は解放され、1775年にロンドンで暮らしていた娘ルーシーが父を引き取るためパリを訪れます。ルーシーは帰りの船上でチャーリーというフランスの亡命貴族と出会い、やがて二人は愛し合い、結婚し、子供も生まれて幸せに暮らしていました。実は、チャーリーは、医師を投獄した大貴族の一族であることが判明しますが、彼が大貴族の横暴に反発して亡命した人物だったため、医師は彼を許します。そして、ここにもう一人の人物が登場します。それはカートンという弁護士で、非常に有能でしたが、人生に失望して酒浸りの毎日を過ごしていました。彼は密かにルーシーを愛していましたが、ルーシーが幸せであることのみを願っていました。
 1789年にフランスで勃発した革命は、しだいに過激化し、貴族に対する憎しみから、貴族や貴族に関わった人々が次々と処刑されるようになり、1793年から94年にかけて恐怖政治(テロリズム)と呼ばれる時代が到来します。こうした中で、チャールズの元召使が逮捕され、チャールズに救助を求めてきたため、チャールズはパリに向かい、ルーシーもカートンもついていきます。亡命貴族だったチャールズはまもなく逮捕され、処刑の判決が下され、ルーシーは嘆き悲しみます。そこで、チャールズと容姿が似ていたカートンは、牢獄にいたチャールズと入れ替わり、身代わりとなって処刑されることになります。彼は、無為に過ごした人生の最後に、初めて愛する人の役に立つことに、心の安らぎを感じながら死んでいきます。
 映画では、民衆の激しい憎しみや、革命裁判所での無茶苦茶な裁判が描かれています。確かに、革命は長期的に見れば民衆のパワーが歴史を動かしたといえるかもしれませんが、革命の真っただ中で目撃すれば、反吐が出る程醜いものです。映画は、その醜さを描いていますが、同時に貴族の暴虐も描いており、著者は基本的には革命を肯定しているように思います。私は50年ほど前に原作を読み、あまり覚えていないのですが、カートンは処刑の前に、この混乱の中から新しい時代が生まれるだろうと、期待しつつ死んでいきます。
 原作者のディケンズは貧しい家に生まれ、学校教育も十分受けられず、幼いころから工場で働いていました。「オリバー・ツイスト」や「クリスマス・キャロル」など、彼の初期の作品は、自らの少年時代の経験から生まれたものです。晩年になると、彼の作品は社会性を強く帯びるようになり、その例の一つが、この「二都物語」です。ただ、総じて彼の小説は、ハッピー・エンドに終わる傾向があり、すこし物足りなさも感じます。

 蛇足ですが、バスティーユ牢獄について少し触れておきたいと思います。当時、パリ市民に広がっていた噂によれば、バスティーユ牢獄では多くの政治犯が監禁され、日夜残酷な拷問が行われていたということで、市民にとってバスティーユ牢獄は悪の象徴でした。しかし、実際にはバスティーユ牢獄には素行の悪い貴族などが監禁されていることが多く、自宅から家具を持ち込めたし、生活環境はそうとう良かったようです。マルキ・ド・サドも、革命勃発の少し前までここに収監されていました。したがって、1789年にパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃した時、政治犯はほとんどいませんでした。

美女ありき

1941年にアメリカで制作された映画で、原題は「ハミルトン夫人」です。エマ・ハミルトン夫人とは、19世紀の初頭に、イギリスの英雄ネルソンとの不倫でスキャンダルを巻き起こした女性で、欧米ではほとんどの人が「ハミルトン夫人」で分かるようですが、日本では彼女を知る人は少ないため、日本語版のタイトルが考えられたのだと思います。
 エマは、1765年にイギリスの貧しい家庭で生まれ、少女時代から家政婦として働いていたのですが、「美貌と開放的な性意識とが災いして」、どの職場でも長つづきしませんでした。17歳の時に彼女は貴族の愛人となりますが、この貴族は富裕な家庭の娘と結婚するため、ナポリ公使を務める叔父ウィルソン・ハミルトンに彼女を押し付けてしまいます。ところが60歳のウィルソンが26歳の彼女に一目惚れし、1791年に二人は正式に結婚します。エマ26歳の時です。今まで娼婦まがいの生活をしてきたエマは、一躍宮廷に出入りできる貴族となったわけです。
 1793年にネルソンは特使としてナポリを訪れてエマに出会い、5年後の1798年にアブキール湾の戦いでエジプト遠征中のナポレオンの艦隊を撃滅して、再びナポリを訪問します。その時のネルソンは、右目の視力と右腕を失っており、病のためまるで亡霊のようでした。まもなく二人は恋におち、1801年にネルソンが帰国すると、エマも彼についていきます。エマの夫は二人の関係に寛大でしたが、ネルソンには妻子があり、二人の関係は一大スキャンダルとして、マスコミで連日のように取り上げられました。1805年、トラファルガーの海戦でネルソンはナポレオンの艦隊を撃破しますが、この戦いで彼は戦死します。この間エマは、ネルソンの居ない空虚さを埋めるかのように、ギャンブルと金の浪費に明け暮れ、彼の死後には莫大な借金を背負い、フランスに逃れて酒に明け暮れるどん底生活の中で、1815年に死亡しました。50歳でした。
 映画は、フランスのカレーで、飲んだくれたエマが酒場女に自分の半生を物語る、というところから始まります。彼女は、貧しい家に生まれ、大使夫人にまでのし上がり、そしてイギリス最大の英雄ネルソンの愛人となったわけですから、まさに波乱に富んだ生涯だったといえるでしょう。映画では、エマとネルソンの純愛の物語として描かれていますが、二人の本当の気持ちは分かりません。
私としては、エマよりネルソンの方に関心がありました。彼は、名声を高めつつあったナポレオンのエジプト遠征を失敗させました。エジプト遠征の目的は、イギリスの生命線とも言うべきインド航路を遮断することにありましたから、まさにネルソンはイギリスを救ったわけです。さらにナポレオンはイギリスへの上陸を目指して艦隊を出撃させようとした時、トラファルガーの海戦の敗北で上陸断念を余儀なくされたわけですから、まさにネルソンはイギリスの恩人です。さらに彼は制海権の重要性をイギリスに理解させ、これが19世紀における大英帝国の繁栄の基となります。映画では、トラファルガーの海戦の場面が描かれており、大変興味深く観ることができました。

 なお、この映画が公開された年に太平洋戦争が勃発しており、この映画は日本との戦争に対する戦意を高めるという意味があったのかもしれません。さらにエマが死んだ1815年は、ナポレオンが最終的に没落し、ウィーン条約が締結された年です。そしてこのウィーン条約が締結されたウィーン会議が、次の映画のテーマです。

会議は踊る

1931年にドイツで制作された映画で、喜劇風のオペレッタ(小オペラ)映画です。この時代はナチス・ヒトラーが台頭した時代で、ヒトラーは映画を退廃的であるとして、この映画を含めて上映を禁止し、この映画の制作に関わった多くの人々も海外に亡命しました。それに対して、この映画は海外では大変好評で、日本でも何度も上演されました。
映画の背景となったのは、ナポレオン戦争終結後のヨーロッパの国際体制を構築するために開催されたウィーン会議です。1812年にナポレオンはモスクワ遠征に敗退すると、1813年にライプチヒの戦いで大敗し、1814年にはパリが陥落し、ナポレオンはエルバ島に配流となります。こうして、181491日にウィーン会議が開催されることになり、多くの王侯がウィーンに集まってくることになりました。
 このウィーン会議を主催したのが、オーストリア外相メッテルニヒでした。会議に出席した人々の間には、利害関係の対立や思惑の違いがあり、とうてい結論に達することは困難でした。そこでメッテルニヒは、王侯たちにダンスパーティーなど多くの催し物を提供し、その間に代表者たちの意見を調整し、会議を自分の意図する方向に誘導しようとします。あまりに頻繁にダンスパーティーが催されたため、ある軍人が「会議は踊る、されど進まず」と言ったとされます。
会議の出席者の中でも、一番注目を集めたのは、ロシア皇帝アレクサンドル1世でした。何しろ彼はナポレオンを倒した立役者であり、その功績から見て彼の主張を無視することは困難です。映画では、メッテルニヒは女性を用いて巧みにアレクサンドル1世を誘導し、彼が会議に出席しないように仕向けます。その一つが、アレクサンドル1世の馬車に花束を投げ込んだ手袋屋の娘を利用することでした。この娘はクリステルといい、彼女はアレクサンドル1世にほれ込み、シンデレラになることを夢見ていました。アレクサンドル1世は、長身でハンサム、知的で優雅な物腰の人物であり、ウィーンの女性を魅了したようです。しかし、結局、18153月にナポレオンがエルバ島を脱出すると、同年6月にウィーン議定書が締結され、ナポレオンと戦うためにウィーンを去って行きます。アレクサンドル1世にとって、クリステルは遊びでしかありませんでした。それにしても、ウィーン会議は1814年の91日に始まった分けですから、各国の代表は9か月間もウィーンにいた分けです。この間何をしていたのでしょうか。まさに「会議は踊る」でした。
ところで、アレクサンドル1世とはどのような人物だったのでしょうか。ウイキペディアでは、「歴代皇帝中、最も複雑怪奇な性格の持ち主」と述べられています。彼は、偉大なる啓蒙専制君主エカチェリーナ2世の孫として生まれ、生まれるとすぐ両親から引き離されて、彼女のもとで育てられます。彼は大変可愛い子で、エカチェリーナと後継者のパーヴェルとが対立していましたが、アレクサンドルは両者の間を「うまく立ち回る」くらいの賢さをは身に着けた少年でした。彼は、祖母のもとで18歳まで啓蒙思想家により教育され、自由主義的な思想をもつようになります。しかし、一方でロシア伝統のツァーリズムの側面を強くもっていました。
1796年にエカチェリーナ2世が死に、そのあとを継いだ父パーヴェル1世が1801年に暗殺されると、同年にアレクサンドル1世が即位します。彼は青年貴族を集めて改革を進めようとしますが、貴族の反対にあって、結局挫折します。対外的にはナポレオンと対抗しますが、1807年にナポレオンと和平を締結し、イギリスに宣戦布告します。1812年にナポレオンのロシア遠征を勝利した後、「ヨーロッパをナポレオンの独裁から解放する」ため進軍し、ナポレオン没落後はヨーロッパの憲兵として、保守反動体制の担い手となります。結局、すべてが中途半端に終わり、しだいに宗教に傾斜していくことになります。
ティルジット和約に際して、一度だけアレクサンドル1世に合ったナポレオンは、彼について次のように評しました。「知性、優雅さ、教育を備えている。彼は魅力的だが、彼を信頼することはできない。彼は真心が無い。帝国衰退の時代のこのビザンツ人は抜け目なく、偽善的で狡猾である。」(ウイキペディア)



2015年11月11日水曜日

「林則徐 清末の官僚と阿片戦争」を読んで


堀川哲男著 1966年人物往来社から刊行、1997年中公文庫で復刻。
 本書はかなり古い本で、私も阿片戦争については色々な本も読んだし、映画も見ました。映画「阿片戦争」については、このブログの「映画で中国清朝の滅亡を観て 阿片戦争」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/blog-post_15.html)を参照して下さい。ただ、林則徐の伝記を読んだのは初めてで、著者自身も、本書以前に林則徐に関する伝記が、中国にも日本にも一冊もなかったことに驚いています。林則徐といえば、阿片撲滅に敢然と立ち向かった中国の英雄であり、もし道光帝が弱気になって林則徐を罷免していなければ、その後の中国の歴史は、かなり変わっていたかもしれません。
 本書によると林則徐は、清廉で有能な、普通の官僚でした。「林則徐は陽性の男だった。平生でも、友人や部下を家に集めて陽気に飲み食いするのが好きであった。また好んで友人や知人を訪問したし、当時の官僚社会の煩瑣な人間関係・交友関係にも、何の抵抗も感じなかったであろう。情熱家であり、少しばかりそそっかしく、また気の短い一面ももっていた。しかし他面において彼の思考過程を支配したものは、当時にあってはめずらしい合理主義であり、そして、出処進退には淡泊であるべきだというのが、彼の生涯を通じての処世哲学であった。」彼は道光帝によって罷免され、はるかかなたのイリ(伊犁)に配流となりますが、ここでも彼は結構楽しくやっていたようです。
 本書を読んでいて、意外な知識の盲点に気づかされました。私は何の根拠もなく、没収した阿片の焼却は1日で行われたものと思い込んでいましたが、実際には23日間もかかったそうです。実は、本書の著者も、本書執筆の前には1日だと思い込んでいたようです。考えて見れば、2万箱もの阿片を1日で処理できるわけがありませんでした。私のこうした思い込みは、多分数えきれない程あるに違いありません。
もう一つ、阿片の没収は無償で行われたと思っていたのですが、実際には、1箱につき5斤の茶葉をイギリス商人に与えていたそうです。林則徐は、無償で没収することによって生じるかもしれない後日の紛争を考慮した分けですが、林則徐も含めて当時の中国の人々には分かっていないことがありました。隆盛しつつある資本主義的経済体制の中で、イギリスが問題としたのは阿片ではなく、自由な貿易だったということです。自由な貿易のために、イギリスはどんなことでもする覚悟を決めていたのです。もっとも、阿片の密貿易が自由な貿易とは思えませんが、そのことはイギリスも承知の上だったようです。


2015年11月7日土曜日

映画「ロビンソン・クルーソー」を観て

2003年にフランスで制作された映画で、デフォーの「ロビンソン・クルーソー漂流記」を映画化したものです。「ロビンソン・クルーソー」については、他にもたくさん映画化されていますが、たまたま私が観たのが、このフランス語版の映画でした。

デフォーは、1660年にロンドンで生まれ、1731年に死亡します。この時期のイギリスは、王政復古、名誉革命、ペストの流行、ロンドン大火、オランダやフランスとの戦争など、激動の時代でした。またこの時代は、イギリスの海外進出が本格化しつつあった時代でもありました。この間にデフォーは、商売をやったり、政治に手を出したりして、浮き沈みの激しい人生を送っていました。そうした中で、彼は小説を書くようになり、1719年、59歳の時「ロビンソン・クルーソー」が出版されて、大成功をおさめます。






実はこの物語は、実際に無人島で生活したセルカークという人物をモデルとしています。セルカークはスコットランドの船乗りで、1704年に船長と争ってチリ沖合の無人島に置き去りにされ、1709年に救出されました。実に、4年以上無人島で一人で暮らした分けです。この島はファン・フェルナンデス諸島の一つで、今日ではロビンソン・クルーソー島と呼ばれています。この話は当時大変評判となり、デフォーはこの話をもとに「ロビンソン・クルーソー」を執筆しました。ただし、「ロビンソン・クルーソー」の舞台となった島は、ベネズエラ沖合のカリブ海の島ということになっています。
ロビンソン・クルーソーは、イングランドのヨークで生まれ、放浪癖があって船乗りになり、世界各地を転々とし後、ブラジルでサトウキビ農園を始めて成功します。農園が人手不足だったため、彼は奴隷を買い付けるため出帆しますが、船が難破し、無人島に一人取り残されます。そしてロビンソンは、1659年、27歳の時から、1687年まで28年間もの間、一人で無人島で暮らすことになります(厳密には、近隣の島の現地人フライデーが途中で参加)。映画では、なぜか1744年から1759年までの15年間ということになっていますが、理由は分かりません。
彼は、沖合に座礁している船から、出来る限り多くの物を持ち出し、家を建て、野生の山羊を飼い、麦を蒔き、さらに毎日聖書を読み、日記をつけます。野蛮の地において、彼はできる限り文明生活を維持しようと努力します。誰もいない無人島でスーツを着、ネクタイをしたりして、その姿はほとんど滑稽です。映画は、こうしたロビンソンの姿をコミカルに描いています。
マックス・ヴェーバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」において、ロビンソン・クルーソーこそ、日々努力し、少しずつ蓄積していく中産市民層、つまり近代合理的精神の典型であるとし、この説は大塚史学にも受け継がれました。もし、このようにロビンソン・クルーソーが近代的市民の模範であるとするなら、その7年後に出版されたスウィフトの「ガリヴァー旅行記」は、その対極にあると思います。一般に「ガリヴァー旅行記」は、子供向けの物語として読まれることが多いのですが、実際には世界最高の風刺文学の一つとされ、そこには当時のイギリスを中心とするヨーロッパの政治・社会・道徳などに対する痛烈な批判が込められています。

 「ガリヴァー旅行記」は何度も映画されていますが、そのほとんどが子供向けの冒険物語です。ただ、1996年にアメリカ・イギリスの合作でテレビ用連続番組として制作された「ガリバー/小人の国・大人の国」「ガリバー2/天空の国・馬の国」は、原作に近い描き方をしているようです。このドラマでは、帰国した後に精神病院に収監されたガリヴァーが、精神病院の中で、今まで経験してきたことを振り返るという形で物語が進められます。このドラマは、以前NHKで放映されたようですが、DVD化されていないため、観ることができませんでした。

2015年11月4日水曜日

「孫子の世界」を読んで

加地伸行編 1984年に新人物往来社から出版された本が、1993年に中央文庫で再出版されました。本書は、13人の研究者がそれぞれの立場で孫子を語っており、内容が重複する部分もありますが、興味深い内容も多々ありました。なお、孫子については、このブログの「映画で中国の思想家を観て 孫子≪兵法≫大伝」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/08/blog-post_23.html)を参照して下さい。
孫子が呉のために戦った多くの戦いについては、広く伝えられていますが、なぜか司馬遷の「史記」には孫子の具体的な事績についての記述がほとんどないそうです。つまり、先の映画「孫子≪兵法≫大伝」では、孫子は多くの戦いを指揮していますが、これも伝承にすぎないかもしれない、と著者は主張しています。孫子は、戦争の実戦家というより、理論家だったようです。彼の子孫である孫臏も、一度だけ戦争に勝ったことがありますが、その後一国の政治を委ねられた時、それは失敗に終わっているそうです。孫子も孫臏も孔子も、実践という点では、あまり成功していないようです。

孫子は、もちろん中国でも広く尊敬されていますが、その読者の比率は日本の方が多いそうです。中国の官僚は、儒学を中心とした科挙に合格した人々が採用され、武官は軽視される傾向があります。それに対して、日本の江戸時代の行政担当者は武士であり、彼らは武士の教養として軍学・兵学を学んでおり、孫子は広く愛読されていました。孫子は、兵学の書というだけでなく、人間学でもありましたので、日本の武士の精神に深い影響を与えたものと思われます。