2016年11月19日土曜日

お知らせ

 このブログを始めてから3年近くが経ち、投稿件数は280件、アクセス回数は85千件を越えました。最終的には、投稿件数300件、アクセス回数10万万件を目指していますが、これは目前となりつつあります。この目標を達成した後には、少しペースを落としたいと思っていますが、その前に、少し休息したいと思います。

休んでいる間に、パソコンをウインドーズ10に替えたいと考えています。このパソコンもすでに5年使っており、そろそろ寿命が近づいているように思います。このウインドーズ7は、ほとんどストレスなく使うことができましたが、ウインドーズ10はマイクロソフトの最後のバージョンになりそうなので、20年に及ぶ私のパソコン人生の最後のものにしたいと思っています。





















 家庭菜園も順調で、今日は里芋を収穫する予定です。その後ジャガイモを収穫し、さらに大根、小松菜、ほうれん草と続きますが、これで今年の家庭菜園は終わり、また3月から再開することになります。作物には、年によって出来不出来がありますが、問題はその理由がはっきり分からない所にあります。とりあえず作って見るだけです。


2016年11月16日水曜日

「19世紀フランス 光と闇の空間」を読んで

小倉孝誠著、1996年、人文書院
本書は、1843年から1944までパリで刊行された「イリュストラシオン」という挿絵入り週刊新聞を題材として、19世紀のパリという空間を、多数の図版を用いて描き出しています。「対象となった空間は、中央市場、庭、温室、公園などのように人々の日常性に関係の深い空間と、犯罪者の世界、警察、監獄のように善良な市民にとっては縁のうすい空間の二つに大別される。前者が光の空間であるとすれば、後者はいわば闇の空間ということになろう。」

 19世紀のフランス社会史に関する本を続けて3冊読みましたが、どれも趣が異なって、大変興味深く読むことができました。私が現役だった頃には、私の読書の目的は知識を得ることと、講義のネタを探すことでしたので、社会史に関する本をじっくり読むことができませんでした。今、こうして社会史に関する本を読んでいると、私が授業で教えてきたことが、すべて虚しく思われます。

2016年11月12日土曜日

映画でボスニアを観て

トゥルース 闇の告発

2010年に制作されたカナダ・ドイツの合作映画で、ボスニアにおける国連平和維持軍による人身売買事件を描いています。この事件は、実際にあった事件で、平和維持軍の一女性警察官による暴露に基づいているそうです。
























ボスニアは、正式にはボスニア・ヘルツェゴヴィナといいますが、この地域の歴史は本当に複雑です。6世頃にスラヴ人がこの地域に侵入しますが、ギリシア正教会とローマ・カトリック教会がこの地域で布教合戦をおこなったため、両教徒が混在することになりました。15世紀にオスマン帝国の支配下に入り、多くの住民がイスラーム教に改宗したため、ボスニアの住民の半数近くがイスラーム教徒となり、これらはムスリム人と呼ばれるようになります。このように多様な民族・宗教が混在していたにも関わらず、オスマン帝国は宗教別の自治を認めていたため、大きな紛争は起きませんでした。
19世紀後半にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを獲得し、このことが原因で、1914年にオーストリア皇太子がサライェヴォで暗殺され、それが第一次世界大戦勃発のきっかけとなりました。第一次世界大戦後、セルビア人を中心にスロヴェニア人・クロアティア人などからなるユーゴスラヴィア(南スラヴ人の国)が誕生しますが、第二次世界大戦中ドイツに占領され、ナチスと結んだスロヴェニア人がセルビア人を激しく迫害しました。第二次世界大戦後、パルチザン闘争を行ってきたチトーが社会主義国家を建設しました。チトーは、ある程度言論の自由は許しましたが、民族主義的な言論に対しては厳しく弾圧したため、異なる民族が結婚したりして混在するようになります。しかしこの体制はチトーのカリスマ性に依存していたため、1980年にチトーが死ぬと、民族対立が顕在化してきます。
1990年にスロヴェニア・クロアティア・マケドニアが独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、カトリックのクロアティア人とムスリム人は独立を望み、ギリシア正教徒のセルビア人は独立に反対でした。一方、ムスリム人は多数派でしたので、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの主導権を握ろうとしますが、これにカトリックのクロアティア人が反発し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは三者が三つ巴となって内戦状態になります。これにクロアティア軍やセルビア軍が加わって、戦争は泥沼化します。こうしたて中で、相手民族を絶滅させようという「民族浄化」が行われ、大量の人々が虐殺されました。また、無差別に相手民族の女性を犯し、生まれた子供を自民族として引き入れる、といったことまで行われました。こうしたことは、一般にセルビア人の暴挙として報道されがちでしたが、クロアティア人も同じことを行っていたのです。
 今まで、隣同士で仲良く暮らし、夫婦として伴に生活していた人々が引き裂かれ、互いに憎悪をむき出しにして殺しあうようになったのです。かつてスペイン内戦でも同じようなことが起き、人々は肉体的にも精神的にもボロボロになってしまいます。1995年に国連の調停で和平協定が成立し、紛争は一応終結しました。そして多国籍部隊(平和安定化部隊)が派遣され、停戦の監視と和平の履行を担当することになります。映画は、1999年にウクライナのキエフで二人の少女が誘拐されるところから始まり、一方同じ頃、アメリカの婦人警官キャシーが、個人的な事情で民間軍事会社に入り、そこから平和維持軍の警察官としてボスニアに派遣されます。
 欧米を中心に、民間軍事会社と呼ばれる企業が多数存在します。これらの企業には、戦闘機から戦車まで保有するものもあり、国家に雇われて軍事行動を行いますが、かつての傭兵とことなるのは、運搬業務・警備・収容所の経営に至るまで、あらゆる業務を代行するところにあります。こうした民間軍事会社が急増した直接のきっかけは、冷戦終結後、各国が軍事力の削減を始め、そのため失業した軍人を雇う会社が生れてきました。彼らは、優れた軍事的能力をもっており、高給が支払われますが、新たに訓練をする必要がありません。特にテロ戦争が始まると、こうした会社が次々と生まれてきます。
 国家の側から言えば、ゼロから新兵を訓練することを考えれば、こうした会社に委託した方が安上がりです。また、国家は兵員の数を際限もなく増やすことは難しく、とくにヴェトナム戦争以降、大量の兵士の死傷については、国民の批判が高まっていました。しかし、民間軍事会社の兵士の死傷は、正規兵の死傷者としてカウントされませんので、国民の批判を逸らすことができます。イラク戦争では、アメリカ軍のおよそ1割が民間軍事会社の兵士だったそうで、当然彼らの死はアメリカ兵の死としてはカウントされていません。さらに、正規兵には行えない違法な行為を、秘密裏に行わせることも可能です。こうしたことから、民間軍事会社が急成長していったわけです。
 キャシーは首都のサライェヴォで、たまたまキエフから誘拐されてきた二人の少女に出会い、彼女たちを通して人身売買組織が存在すること、さらにこの組織には平和維持軍の多数の兵士が関わっていることを知ります。そこで彼女は、事実を詳細に調査して上司に訴えますが、相手にされません。上司は、そんなことは承知の上だったのです。本国にとっても、国連にとっても、このような不祥事を表ざたにすることはできません。何しろ、平和維持という崇高なる目的のために派遣されている人々が人身売買をしていたなどということは、少なくとも表面的には、あってはならないことです。結局、彼女は解雇され、密かに資料をもってイギリスにわたり、マスコミに暴露します。
 その結果、多くの関係者が本国に送還されましたが、処罰された人はいなかったとのことで、彼女はもとの仕事に復帰できず、人身売買は今も続いているとのことです。国連によって派遣された人々には訴追免除という特権があります。つまり何をしても逮捕されないということです。特に治安維持軍の兵士による暴行事件が頻発しており、国連もようやく実態解明に乗り出しましたが、具体的な氏名は公表されませんでした。おそらく該当者を本国に送還し、本国が処罰することになるのでしょうが、結局本国は何もせず、事件はうやむやになっていきます。
 一般に国際機関には司法の手が入りにくく、国連しかり、オリンピック、サッカーなどの国際機関でも、常に不正が取沙汰されています。世界のグローバル化がますます進行する中で、こうした国際機関に所属する人々の不正に対する罰則を明確にする必要があるのではないでしょうか。

サラエボの花
 2007年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで制作された映画で、ボスニア紛争の傷跡の深さを、一人の少女を例として描いています。
 映画では、しばしばチェトニクという言葉が出てきます。チェトニクは、第二次世界大戦中ドイツによる占領に対抗して生まれた軍事組織で、強烈なセルビア民族主義と反共産主義を掲げて、ドイツと戦うより、クロアティア人やムスリム人の大量虐殺を行い、その指導者は戦後処刑されました。そしてボスニア紛争でも、セルビアの民兵の中にチェトニクがかなり混ざっており、暴行や虐殺を扇動したとされます。もともと、ムスリム人、セルビア人、クロアティア人は、宗教と歴史的経緯がことなるだけで、言語も文化もほとんど同じでしたが、セルビアを中心としたユーゴスラヴィアが解体していく中で、異常な民族意識が高まったようです。
 映画の主人公はエスマという女性と、その子で12歳のサラという少女です。サラは、男の子に交じってサッカーをするような活発な少女で、修学旅行に行くことを楽しみにしていました。しかし家庭は貧しく、エスマは政府からの援助金をもらい、昼は裁縫師として働き、夜もキャバレーで働いていました。紛争によってボスニアの経済は崩壊し、ボスニアは未だに経済の再建ができていませんでした。とりあえず、問題は修学旅行の費用を支払わなければなりませんでしたが、エスマにはそのお金がありませんでした。当時、父親が戦争で死んだ殉教者であれば、修学旅行の費用は免除されたのですが、免除されるためには殉教者証明が必要で、それがこの映画の核心でした。
 実は、エスマは紛争中にチェトニクに集団暴行されました。毎日何回も違う男が彼女に乱暴し、その結果妊娠したのです。彼女は、お腹の子が憎く、何度も殺してしまおうと考えたのですが、生まれた子を見た瞬間、「こんなに美しいものを見たことがない」と感じ、育てることにしました。娘には父親は殉教者だと教えてあったため、娘が殉教者証明を求めた時、彼女には渡すことができず、何とかお金を工面して修学旅行の費用を払います。
やがて、サラは友人から銃を借り、父親の事を話すよう母に迫ります。結局、母はすべてを娘に話します。サラは、12歳とはいえ、自分のような境遇の子が沢山いることを知っていました。彼女は髪の毛を切り、丸坊主になって修学旅行に出発します。その時サラは、遠ざかるバスの中から、明るく笑って母に手を振り、映画は終わります。紛争は、多くの人々の肉体や心に傷を負わせ、戦後12年がたっても、まだ癒されていませんでした。おそらく、エスマとサラのようにケースは、決して珍しいことではなかったでしょう。


2016年11月9日水曜日

「路地裏の女性史」を読んで

ジャン・ポール・アロン編(1980)、片岡幸男監訳(1984)、新評論
 本書は、サブタイトルにもあるように、「19世紀フランス女性の栄光と悲惨」を描き出したものです。本書は10人ほどの研究者の論文を集めたもので、編者自身は、かつて誰も扱ったことがない「娼婦の歴史」を著して脚光を集めた人物です。本書が扱っている内容は多岐にわたり、女中、娼婦、女工、モード、主婦、農村の女、女流作家などで、それぞれが大変興味深い内容です。
 女性の地位は、むしろ19世紀になって低くなっていったとされます。実際に低くなったかどうかは別として、少なくとも19世紀以前の女性の方が自由に活動できたとされます。その背景には、ブルジョワ社会や国民国家が成立し、家族を核とする社会が形成されていったからだとされます。すでにルソーは、「女は男に好かれるために作られている……男は強いというだけで好かれる」と述べています。また、このブログの「母親の社会史」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3769.html)でも触れましたが、ルソーは「母性本能」という言葉を用い、女性を動物と同等に扱っています。そして決定的だったのはナポレオン法典で、「夫は、その妻の保護義務を負い、妻は、その夫に服従義務を負う」と定められました。こうして女性は男性に従属するものという考えが定着していきます。以前、何かの本で読んだのですが、日本でも、江戸時代の女性は明治以降の女性より自由だったそうで、日本でも明治以降、女性は家に閉じ込められるようになったとされます。

 本書は、こうした社会状況における女性たちの生き様を、さまざまな角度から描いています。人類の半分は女性なのですから、女性の歴史、しかも特別な女性ではなく、普通の女性の歴史を知らなければ、本当の歴史を学んだことにはならないのだと思います

2016年11月5日土曜日

映画「国家の密謀」を観て

2009年にフランスで制作されたミステリー映画で、フランスによるコンゴへの武器密輸を背景として起きたさまざまな事件を、一人の女性刑事が追うという話です。
映画で扱われていることは、あくまでもフィクションですが、それでも色々考えさせられる映画でした。まず、アフリカの問題です。中南米がアメリカの勢力圏であるように、アフリカはヨーロッパの勢力圏であり、ヨーロッパの経済はアフリカからの搾取から成り立っています。第二次世界大戦後、アフリカ諸国の独立が不可避となっている中で、ヨーロッパ諸国はアフリカの植民地に宗主国に忠実な人物を育成し、彼らに権力を握らせて宗主国の利権を守ろうとしました。こうして独立を達成した国は、民主主義を守る国として国際社会の一員と認められたのです。しかし、実際にはそうした国は宗主国の利権を守る国であり、現在でも欧米はアフリカや中東の諸国に民主的な政権を求めますが、独裁国家の典型であるサウジアラビア王国に民主主義を求めることはありません。むしろ欧米は、サウジアラビア王国に高価な武器を大量に輸出しています。こうした欧米寄りの政権に対する反発が、アフリカや中東のの混乱の原因の一つとなっています。なお、現代のアフリカについては、「入試にでる現代史 第8章 アフリカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/8.html)を参照して下さい。
ところで、世界中で起きている紛争に際して、当事者たちが使用している武器はどのように調達しているのでしょうか。アフリカなどの紛争地域で武器が製造されているとは、思われません。これらの武器の多くは、欧米や中国で製造されたものと思われます。欧米や中国の政府は、これらの武器を支持する勢力に直接売却することもありますが、同時に、第三国を通じて売却したり、「死の商人」と呼ばれる武器商人を通じて売却されます。欧米は、一方で紛争を仲介するとともに、もう一方で武器を売却しているのです。そして世界での武器輸出国の上位6カ国は、ドイツを除いてすべて国際連合の安全保障理事会常任理事国です。
この映画の武器密輸の舞台となったコンゴについては、このブログの「映画でアフリカを観る ルムンバの叫び」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7359.html)を参照し下さい。コンゴでは、コンゴ動乱後、1965年から1997年まで32年もの間、モブツ独裁政権が続きました。モブツの失脚後も内乱状態は続き、またエボラ出血熱が発症したりして、数百万人の人々が死亡したとされます。2007年に選挙で大統領が選ばれますが、相変わらず秩序は不安定で、こうした中で事件は起きました。当時コンゴに駐屯していたフランスの治安維持部隊の7人の兵士が、反政府組織に誘拐され、身代金として武器を渡すことを要求してきたのです。当時フランスでは大統領選挙が迫っていたため、大統領としては、何としても人質の解放を実現せねばなりませんでした。そこで、大統領は秘密組織を用いて武器を空輸したのですが、これがコンゴ政府に知られ、貨物機がコンゴに着く前にコンゴ政府によって爆破されてしまいます。こうした秘密工作の過程で、何軒かの殺人事件が発生し、それを女性刑事が追う、というのが、この映画のストーリーです。

 映画で述べられていることはフィクションですが、こうした秘密工作は実際にしばしば行われているのではないかと思います。ヨーロッパ諸国とアフリカとの関係は、切っても切れない関係にあるからです。

2016年11月2日水曜日

「フランス人の昼と夜」を読んで

ピエール・ギラール著(1976) 尾崎和郎訳 誠文堂新光社(1984)
 本書は、1852年から1879年までのフランスの人々の日常生活を描いたものです。この時期は、ナポレオン3世の第二帝政の開始から第三共和政の初期の時代までで、この間にいろいろな政治的事件はあったものの、著者によれば、この期間がフランス資本主義の黄金期だそうです。
 本書が描いているのは、こうした資本主義の発展や政治的事件ではなく、この間に猛烈に発展する資本主義経済の真只中で生きた人々の日常生活です。「歴史的事実は目印以外の何ものでもない。文明とは、日々の多様性を多数な組合せのもとに織り上げていく織機にほかならない。」こうした視点から、恵まれた階級、恵まれない階級、女性、幼児、パリと地方、食物と衣服、快楽と日常生活、など多岐にわたって日常生活が淡々と描写されていきます。それぞれの内容は興味深いのですが、要するに「それが何なのか」ということには触れられませんので、幾分欲求不満となります。

 「このようなすべての矛盾こそ、衣、食、住、教育、愛、友情、憎しみ、羨望などともに、日々の生活の根幹をなすものであった。そして、この矛盾が多ければ多いほど、それだけ文明は可能性に富んでいるのである」ということです。