2014年4月27日日曜日

家庭菜園 繁盛記

 このシーズンは、家庭菜園が最も繁盛する時期です。わが菜園でも、何種類もの野菜が栽培されています。




レタスとパセリです。すでに大分前から食べていますが、今年は少し葉が堅いようです。











トマトです。プランターに何種類ものトマトを植えており、毎年沢山収穫しています。ただし、連作障害を避けるため、毎年土を替える必要があります。














トマトの花

















ジャガイモです。30本ほど植えてあるので、200個以上収穫できるでしょう。ジャガイモは最も作りやすい作物のようで、毎年2回収穫していますが、失敗したことがありません。











カボチャです。今年はすべて種類の違うカボチャを植えてみました。蔓が長く伸びるので、狭い家庭菜園では蔓の処理に困ります。収穫は8月頃でしょう。












胡瓜です。4本しか植えていませんが、最盛期には毎日胡瓜を食べることになります。どんな作物も、本来種を蒔いて栽培するのが経済的なのですが、一時期に大量になるため、食べきれなくなります。また場所をとるので、色々の種類の作物を栽培できなくなります。










黄金瓜です。今回初めて植えてみました。成功するかどうか。















ホウレンソウです。そろそろ食べられるサイズになってきました。去年はとても美味しかったのですが、今年は少し色が悪いようです。












茄子です。去年は失敗したので、今年は、連作障害を緩和するため、接ぎ木の茄子を買ってきました。接ぎ木はかなり高価なのですが、仕方ありません。菜園の目標は、かかった経費の3倍以上の収穫をあげることですが、問題は、我が菜園で収穫できる時期には、スーパーで値崩れしていることです。今のところ経費の2倍程度は収穫しています。
なお、写真を撮っている私の背後から朝日が差し込み、私の影が写っています。



シシトウとピーマンです。どれがシシトウでどれがピーマンかは、なってみるまで分かりません。去年は豊作だったのですが、私はあまり好きではないので、ほとんど妻が食べました。私が好きではないので、畑の隅っこに適当に栽培していますが、こうゆう作物に限ってあまり失敗がないものです。








グリーンピース(ミエンドウ)が鈴なりです。種を蒔いた後、長い冬をこして、ようやくここまで成長しました。あと二週間もすれば食べられるでしょう。その他にもインゲンマメを栽培していますが、まだ芽がでてきた程度です。どちらも連作障害があるので、来年はどこで栽培したらよいのか、悩ましいところです。









今年初めて椎茸を栽培しました。1か月ほど前に、3個収穫しましたが、また10個ほどできています。信じられない程美味しいですよ。


















あと1か月ほどしたら、サトイモとサツマイモを植えます。サトイモは水の管理が大変で、地面に藁を敷いて乾燥を避けます。サツマイモは蔓が盛大に伸びるため、蔓が伸びる場所を確保するのが難題です。
 その他に、生姜を植えていますが、過去2度失敗しており、今回はどうなるか分かりません。多分水の管理に失敗しているのだと思います。


シャクナゲが満開です。つつじのような花が幾つも重なって咲くのが特徴です。
















クリスマスローズ。どこからか種が飛んできて、煉瓦の隙間から強かに成長しています。












アカメモチが最も美しいシーズンです。左隣はキンモクセイです。




名前は知りませんが、毎年岩の隙間で咲いています。とても可憐な花です。












 こうして見ると、とても広い菜園のように思われますが、実際には狭い土地を細かく区切って、色々な作物を栽培しています。



2014年4月26日土曜日

「ハザール 謎の帝国」を読んで

SA・プリュートニェヴァ著 城田俊訳 
1996年発行(原作1986) 新潮社




















(ウイキペディアより)

















カスピ海北方の草原地帯は、古くから様々な民族の通り道でした。その地に、7世紀後半から10世紀中ごろにかけて、約300年間ハザール可汗国という巨大な国家が存続しました。この国の支配層はトルコ系と思われ、住民はさまざまな民族からなっていました。この地域は遊牧民が東から西へ移動する時の通路にあたり、古くはフン族がここを通過してローマ帝国に侵入しました。そして、7世紀半ばに唐軍に追われた西突厥がこの地方に入り込み、さらに9世紀には唐軍に追われたウイグルの一部も流れ込んだと思われます。
この国は、東から唐に圧迫され、西にキリスト教のビザンツ帝国、南にイスラーム教のアラブ帝国があり、どちらからも圧迫を受けていました。その結果、勢力圏を北に拡大し、ブルガリア王国を滅ぼし、キエフ大公国にも勢力を拡大します。しかもこの国は、9世紀初めからユダヤ教を受容していたといいますから、驚きです。キリスト教圏やイスラーム教圏で迫害されたユダヤ人が大量にハザールに入り込み、ハザールの指導層に強い影響を与えるようになっていたということです。多くのユダヤ人が到来した理由としては、その他に、遊牧民が宗教的に寛大であること、この地域が交通の要衝で商業に好都合だったことなどがあげられます。
本書の説明では、ハザールがイスラーム教圏とキリスト教圏とに対抗するためにユダヤ教を受け入れたとのことですが、ユダヤ教はきわめて民族的な宗教なので、かなり不自然です。ユダヤ教はイスラエルの民のみが救済されるという宗教であり、イスラエルと全く関係のないハザール人がユダヤ教徒になりうるのか、という問題がありました。第一、ユダヤ教に改宗したハザール人が、「映画で聖書を観る ローマ帝国に挑んだ男 -パウロ」で述べたようなモーセの律法を守ったのでしょうか。本書はこの点についての説明が十分ではないように思われます。
ユダヤ教の祭司たちは、ハザール人とイスラエルとのつながりを示す系図をでっち上げようとしましたが、無理でした。本書にも、改宗したのは指導層だけであり、結局は成功しなかったと書かれていますが、少なくとも100年以上ユダヤ教の国家として存続したわけですから、一概に成功しなかったとは言えないように思えます。もう少しハザールとユダヤ教の関係を詳しく知りたいと思ったのですが、現段階では詳しいことが分かっていないのかも知れません。
本書の解説で、一つ興味深いことが書かれていました。以前、東欧のユダヤ人(アシュケナジム、「映画でヒトラーを観て 戦火の奇跡」参照)のルーツはハザール人ではないか、ということが話題となりました。もしそうであるなら、今日のイスラエルのユダヤ人の多くは東欧出身ですので、彼らはイスラエル人としての存立基盤を失うことになります。神はイスラエルの民に「約束の土地」を与えたのであり、ハザール人にではありません。しかし、ハザール王国が滅びたのは10世紀であり、ポーランドでユダヤ人が急増したのは16世紀なので、500年以上も間が空いています。さらに今日では、遺伝子調査によって、ハザール人のアシュケナジムへの影響は否定されています。ただ、ハザールとキエフ大公国との関係は、このような仮説を可能にするほど密接なものであったということです。結局ハザール王国を滅ぼしたのはキエフ大公国なので、ハザールのユダヤ人がキエフを通ってポーランドに移住したという仮説も、興味深いものではありました。遺伝子調査は、民族の移動や混交を科学的に実証する上で極めて重要な役割を果たしていますが、どのような想像も遺伝子調査の前には屈服せざるを得ませんので、何となく夢のない話ではあります。

 いずれにせよ、ヨーロッパの歴史をこの角度から見ていくと、従来とは異なったヨーロッパ像が見えてくるように思いました。












2014年4月19日土曜日

「文化の新しい歴史学」を読んで

リン・ハントン編(1989) 、筒井清忠訳 1993年 岩波書店
 本書は、ミシェル・フーコーの文化史、E・P・トムソンやナタリー・デーヴィスによる群集・共同体・儀礼、ローカル・ノレッジ、ローカル・ヒストリー、文学・批評・歴史的想像力など、戦後の新しい文化史のモデルを概説するとともに、幾つかの新しいアプローチを試みています。
 私は、世界史という非常に幅の広い教科を教えていましたので、相当多分野にたる本を読んできましたが、読む際の態度は、まず必要な知識と意味を知ること、閃きを得ること、例えば「チベットの歴史とは、これなのだ」というような閃きが必要で、これがないと授業で情熱をもって教えることができません。また、授業で使えるようなエピソードも必要です。これらの観点で有用と思われる部分に線を引いていきます。逆に、実証的な部分や、理論的な部分は読み飛ばしてしまいます。これが私の職業的な読書の仕方です。この本の第六章「テクスト・印刷物・読書」で述べられていることは、まさに私自身のことです。ギンズバーグの「チーズとうじ虫」は、ピノッキオが十数冊の本をどの様な読み方をしたかを分析しており、大変興味深いものでした。
 とはいえ、私もいつかは本を精読したいと思っており、最近では時間的な余裕があるため、精読に心がけています。以前は、仕事上、今必要な本を読む、という読み方をしていましたが、現在では「手当たり次第」という読み方になっています。しかし、相変わらず、3分の1程度読んで、関心がないと思うと、すぐ読むのを止めてしまいます。関心がなくても、なぜ関心がないかを考えることも必要だとは思いますが、私にはそれだけの根気がありません。しかも、精読するより、途中で止めてしまう本の方が多い、というのが現状です。
 それにしても、この本は難しすぎます。もう少し易しく書けないのか、と思います。ここで理屈っぽく述べられている内容を読むと、私の「グローバル・ヒストリー」や「映画で観る世界史」などは児戯に等しく、それどころか歴史学に害毒をまき散らしているのではないかとさえ思えてきます。私も、はるか昔に歴史哲学にのめり込んだ時があったのですが、指導教官に、「体育のできない体育教師のようなものだ」と言われて、止めてしまいました。以後、あまり進歩のない歴史教育に携わってきました。
 この本の中で、最も引きつけられたのは、やはりフーコーですが、同時にフーコーの歴史は、私にとっては最も理解しがたい歴史でした。逆に理解できないから、引き付けられたのかもしれません。「全体的な記述は一つの中心(原理、意味、世界観、総合的な様相)にあらゆる現象を引き付けるが、一般的な歴史は逆に拡散した空間を描き出す。」「人間において自己認識や他者理解の確実な基礎を与えるものなど何もない。身体さえも基礎にならないのである。」何も前提としないこうした態度は、私を含めて構造主義的な歴史に限界を感じている人には、魅力的だと思います。でも、私自身は、だからどうしたら良いのかが分かりません。
 この論文の論者は、次のように言っています。「フーコーの文化史研究は発端を持つが原因をもたない歴史学である。単一の原因、主要原因のかわりにフーコーは原因なきゲームを我々に提供する。それは断絶と分裂の世界であるが、にもかかわらず一つの世界である。彼はポスト構造主義的アナーキストでは決してない。彼の歴史学はルールと目的をもったゲームである。しかしそれは二人以上の人間が遊ぶことのできるゲームだろうか。すなわちフーコーの方法は模倣できるものなのだろうか。」

 私はフーコーの著作を読んだことはなく、読んでみたいという気持ちはありますが、もはやその気力は失われつつあります。なぜか禁断の実を食べるようで、恐ろしいのです。


2014年4月10日木曜日

映画で聖書を観る

はじめに


「聖書」は、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖典で、一般に「旧約聖書」と「新約聖書」があることはよく知られていますが、この考え方はキリスト教によるものです。「旧約」「新約」というのは、神との古い契約と新しい契約というもので、ユダヤ教徒にとっては「旧約」が唯一の聖書ですから、「旧約」という言い方はしません。イスラーム教にとってはどちらも聖典(啓典)であり、「新約」「旧約」とは区別しておらず、矛盾がある場合には「コーラン」が優先されます。しかし、ここでは便宜上、「新約」「旧約」という表現を使いたいと思います。

 旧約聖書は、バビロン捕囚から解放された前6世紀頃から長期間かけて編纂されたものと思われ、2500年に及ぶオリエントの知恵の集大成ともいえる壮大な文学作品です。これより200年程前に、ギリシアではホメロスの叙事詩が生まれ、旧約聖書の編纂とほぼ同じころ、インドではブッダが仏教を開き、これとほぼ同じころ中国では孔子が儒教を起こします。偶然かもしれませんが、この時代に人間の知性や道徳観に大きな変化が生まれつつあったように思われます。なお、旧約聖書は、宗教・宗派により編纂の仕方に違いがありますが、ここではカトリックの旧約聖書に依拠します。

 新約聖書は、1世紀から2世紀ころにかけて編纂されました。この時代は、ローマ帝国が全盛の時代であるとともに、ユダヤ人の国が滅ぼされ、ユダヤ教徒が全世界に離散していった時代でもあります。インドでは、従来の仏教に対して大乗仏教が普及しつつあった時代であり、中国では儒教が一時的に衰退に向かった時代でした。まもなく世界は、長い混乱の時代を迎えることになり、その中でキリスト教と仏教が世界宗教へと発展していくことになります。


「天地創造」

1966年のアメリカとイタリアの合作映画です。旧約聖書の冒頭は「創世記」で、「創世記」は神による天地創造から、アブラハムとその孫ヤコブの時代までを扱いますので、この映画のタイトルは、本来「創世記」とすべきです。原題はTHE BIBLEで、本来バイブルは単に「本」という意味です。映画は、3時間近い長編で、創世記をかなり正確に再現しています。ここで述べられていることは、シュメール人以来のオリエントの伝承の影響を強く受けているようです。
天地創造 神は七日間で世界を造りました。
1日目 暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。
2日目 神は空(天)をつくった。
3日目 神は大地を作り、海が生まれ、地に植物をはえさせた。
4日目 神は太陽と月と星をつくった。
5日目 神は魚と鳥をつくった。
6日目 神は獣と家畜をつくり、神に似せた人をつくった。
7日目 神は休んだ。


ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井壁画があまりに有名です。縦40メートル、横13メートルの巨大な壁画で、創世記を題材としています。この写真は、神がアダムに命を吹き込む場面です。







この天地創造の時代は何時なのか、長く議論されてきました。紀元前5000年から紀元前4000頃と推定する説が多いようですが、あまり意味のある議論とは思えません。この時代は、メソポタミアで最古の定住農耕が始まった頃ですが、神話と何か関係があるのでしょうか。なお、天地創造の神話は世界にたくさんあり、日本でも、まず神々が生まれ、最後に生まれた神々であるイザナギ・イザナミが日本を造った、という話です。ある程度文明が発展してくると、自分たちの生い立ちを知りたい、という気持ちは、世界のどこでも同じだと思います。

アダムとエバ(イヴ) 
二人はエデンの園で暮らします。そして禁断の実=知恵の実を食べて、楽園から追放され、土地を耕して食べ物を得なくてはならなくなります。また、また、エデンの園とはどこか、禁断の実とは何かという議論が重ねられます。ヨーロッパ人は、禁断の実をリンゴと考える人が多いようですが、根拠がありません。映画では、金色のリンゴのような果物でした。

カインとアベル 
アダムとエバとの間に、カインとアベルが生まれます。カインは農耕者に、アベルは羊飼いになります。いわば職業の始まりです。あるとき、二人は祭壇に貢物をしますが、神はアベルの貢物を喜び、カインの貢物を受け取りませんでした。勝手な神様ですね。嫉妬したカインはアベルを殺します。人類最初の犯罪であり、人間の堕落のはじまりです。「カインとアベル」は、兄弟間の確執を象徴するものであり、韓国のテレビドラマにも、それをテーマにしたものがあるそうです。カインは神の罰を受けて荒野に追放され、そこで多くの子孫が生まれ、さまざまな職業が生み出されますが、皆悪の道に向かっていきます。一方、アダムの三男セトは、信仰熱い生活を送り、やがてその子孫にノアが生まれます。

ノアの方舟 
 人々は悪に染まったため、神は人々を絶滅させることにしました。しかし信仰熱いノアだけは助けることにし、彼に大きな方舟を造ることを命じました。大洪水が起こり、40日続いて生き物はすべて滅びました。方舟が漂着したのは、現在のトルコのアララト山頂だとされていますが、また、また、方舟を探し出そうという人々がいます。アララト山は標高5000メートルを超える山ですから、一体5000メートルを超える水害などあるのでしょうか。あるとすれば、世界的規模での海面の上昇ぐらいしか考えられませんが、そのような災害が起こった痕跡は残っていません。もともと、ティグリス・ユーフラテス川流域では洪水が頻発しており、多くの洪水伝説が生まれました。洪水が起こったのは紀元前2500年前後と推定されており、この頃「ギルガメシュ叙事詩」が生まれており、そこに書かれた物語がノアの方舟の物語と酷似しています。聖書編纂に際しては、この「ギルガメシュ叙事詩」が参考にされたと思われます。いずれにしても、人類は一旦ここで滅亡するわけですから、ノアは人類の祖ということになります。 
 映画では、「ノアの方舟」の部分がコミカルに描かれており、滑稽なまでに神の命令に忠実なノアの姿が描かれています。

バベルの塔
 神は、ノアの息子たちに世界各地を与え、そこに住むように命じました。やがて多くの人々が集まり、天にまで届くような高い搭を建てようとしました。神をこれを人間の不遜であるとし、言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにしています。こうして、今まで一つだった言語が幾つもの言語に分かれていきました。この物語は、技術が発展し、不遜となった人間が、出来もしないことをしようとして無駄な労力を費やすことに対する警告だとされます。前に述べた「未知への飛行」(映画で核兵器・原子力を観る)の問題は、すでにこの時代にもあったのです。
また、この物語は多くの言語が存在することへの説明でもあります。もともとメソポタミアには色々な民族が侵入して、多様な言語が話されていましたが、前2000年前後にインドヨーロッパ語族が侵入してきて、さらに言語が多様となります。この物語には、そうした時代背景があるのかもしれません。また、紀元前6世紀にバビロンで、ジッグラトと呼ばれる巨大な塔が建てられましたが、この物語はこれを念頭に創作されたものと思われます。ちょうどこの頃、バビロン捕囚によりユダヤ人はバビロニアにおり、この頃から聖書が書かれるようになりますので、時代的には符合します。
 今までの話は、人類全体の物語でしたが、ここから先はヘブライ人の物語となっていきます。この後、三人の族長が登場します。アブラハムとその子イサク、孫のヤコブです。

アブラハム 
アブラハムは、歴史と伝説の境に生きた人で、彼がいつ頃の人なのかはっきりしませんが、紀元前2000年から紀元前1500年の間くらいではないかと思います。この頃のメソポタミアは、北からインド・ヨーロッパ語族が侵入して各地に国を建て、戦争が相次いで、穏やかな生活をすることが困難な時代でした。この頃エーゲ海でもアカイア人によってクレタ文明が滅ぼされ、インドでもインダス文明が滅び、アーリア人が侵入して長い混乱の時代が始まります。
アブラハムは、バビロニア地方で遊牧をしていましたが、神がアブラハムにカナン(パレスチナ・ヨルダン川西岸)を「約束の土地」として示したため、彼はそこに移住し繁栄します。しかし、人口が増えたため、甥のロトはヨルダン川の東岸に移住します。一方、神はアブラハムに、カナンで子孫が繁栄すると約束しましたが、妻に子供が生まれませんでした。しかし神は約束を守り、アブラハムが100歳、妻が90歳の時に男子が生まれ、その子はイサクと名付けられました。
この神は嫉妬深い神で、しばしば訳もなく人間の信仰心を試します。神は、やっと生まれたイサクを生贄に差し出せというのです。アブラハムは嘆きましたが、神の命令には逆らえません。アブラハムがイサクを殺そうとした時、神はかれの信仰の強さを知って、止めました。神は、このようにしばしば人間の信仰を試そうとします。「旧約聖書」の後半にある「ヨブ記」はその典型です。信仰熱いヨブは、幸せの絶頂にありましたが、ある時神により重い病と貧困をもたらされます。ここで、信仰とは何かという問題が提起されます。実際、どんなに信仰が厚くても、重病になることはあるでしょうし、戦争で死ぬこともあるでしょう。オリエントのような諸民族の争いが多いところでは、特にそうでしょう。そうした中で、神が人間に求めるのは、絶対的な無償の信仰です。幾分冷酷にも思われますが、この信仰のあり方が、やがてキリスト教やイスラーム教にも引き継がれていきます。
*アブラハムは英語ではエイブラハムといい、エイブラハム・リンカーンが有名です。
 *イサクは英語ではアイザックといい、アイザック・ニュートンが有名です。
映画はここで終わりますが、創世記はもう少し続きがあります。また、アブラハムの時代に「ソドムとゴモラの滅亡」がありますが、これについては次の映画で述べます。

イサクとヤコブ
 旧約聖書の登場人物は非常に長生きで、ノアなどは洪水の時500歳を超えており、アブラハムは175歳、イサクは180歳まで生きています。これは、日本書紀に登場する天皇も同じで、何人もの人物を一人の人物に凝集しているのだと思われます。イサクの子ヤコブは、天使と格闘して勝ったため「イスラエル(勝つ者)」という名を与えられ、これがイスラエルの国名の起源となります。彼には12人の息子がおり、かれらがイスラエル12支族の祖先となったとされますが、真偽の程は不明です。ただ、12という数字は、イスラエル人には特別の数字のようで、イエスの弟子も12人でした。

ヨセフ
 ヤコブの11番目の子ヨセフは、10人の兄たちが父のヤコブの寵愛を妬んで、ヨセフをエジプトに奴隷として売ってしまいます。当時、エジプトではヒクソスが支配していましたが、このヒクソスについてはほとんど分かっておらず、シリア・パレスチナから侵入した人々がエジプトを支配したのではないかと考えられていますが、異説もあります。ヨセフはエジプトのファラオに気に入られ、宰相にまでなります。この頃故郷では飢饉が続いたため、ヨセフは一族をエジプトに招き、しばらくそこで平和な生活をします。これが16世紀半ば頃と推測されます。


「ソドムとゴモラ」

1962年制作のイタリア・アメリカ合作映画で、ソドムとゴモラという二つの町の滅亡を描いた映画、のはずでしたが、中身が全く異なっており、2000年に制作された「アブラハム」という映画でした。多分、DVDの制作会社が間違えたのでしょう。でも、一応ソドムとゴモラの滅亡の話も出てきますので、ここではソドムとゴモラについて話したいと思います。
映画の内容は、基本的に「天地創造」のアブラハムの部分と同じで、多少の違いをあげれば、この映画でのアブラハムは、預言者としての人格がより強く描かれます。もちろん「預言者」とは「予言者」ではなく、神の言葉を「預かる」人であり、彼はノアの洪水後、神による人類救済のための言葉を預かった最初の預言者です。ここでは、タイトル通りソドムとゴモラの滅亡についてのみ述べます。
アブラハムの甥ロトは、アブラハムから分かれてヨルダン川東岸に移ったことは、先に述べました。彼はソドムの町に住んでいましたが、ソドムやゴモラは悪徳の町となっていました。これは、農村的な純朴と都市の悪徳という意味を、二つの都市で象徴的にとらえたものと思います。神はこの二つの町を滅ぼすことを決意し、ロトと妻と二人の娘に町から逃げるように、そして決して振り返ってはならないと言います。やがて町は天から降ってきた火により、一瞬にして滅びてしまいます。写真にあるように、核兵器によって滅ぼされたかのごとくです。ロトの妻は思わず振り返り、そのまま塩の岩となって死んでしまいます。ロトは、その後洞窟に籠って一生を過ごしたと伝えられています。
 ソドムとゴモラという町は実在したのか、またこの二つの町が滅びたのは事実か、どちらも分かりません。二つの町の遺跡は発見されていません。また、研究者の中には、隕石の破片が落下して滅んだのではないか、という人もいますが、分かりません。ただ、二つの町の存在と滅亡を疑う理由もありません。特に、この辺りは地震の多発地帯なので、地震で滅びたのかもしれません。その後、これら二つの町が突然滅びた理由を、神による懲罰であると考えたとしても不思議ではありません。前に述べた「ハーメルンの笛吹男」で、子どもが消えた理由を神による懲罰と考え、教訓話としていったのと同じだと思います。人は、耐え難い不幸に出会ったとき、「なぜ自分だけが」と考え、理由をもとめます。そうしなければ立ち直れないからです。そして古い時代には、原因を神の意志と、神を怒らせた自分たちの過ちに求めていくのは、自然なことだと思います。
 アブラハムの神は、アブラハムを翻弄し続けます。約束の土地カナンへの苦難の旅を強い、妻が90歳になるまで子を与えず、ようやく生まれたイサクを生贄に捧げよと命じてアブラハムの信仰を試し、罪のない人もいるはずの二つの町を滅亡させます。アブラハムは、何度も神に見放されたのではないかと疑い、その度に信仰が揺らぎますが、結局、見放したのは神ではなく、アブラハム自身だったことに気づきます。こうして、「アブラハムの神」を信じる人々が、徐々に「移住民」を意味するヘブライ人を形成していくことになります。


「十戒」

1956年のアメリカの映画で、4時間近い大作です。旧約聖書の「出エジプト記」に基づいた、モーセの生涯を描いています。なお、イスラーム教では、ノア、アブラハム、モーセ、イエス、ムハンマドの5人が預言者として尊敬されています。
話が少し戻りますが、紀元前16世紀にエジプトでヒクソス政権が倒れ、新王国が成立すると、ヘブライ人が奴隷として酷使されるようになり、ヘブライ人の間で「救い主」の出現を望む声が高まってきます。こうした中でモーセが生まれ、詳細は省きますが、彼は王家の女性に拾われて王子として育ちます。しかし、やがて彼は、自分が奴隷の子であることが分かると、エジプトを離れ、アラビアで羊飼いとなります。ある日、神の声が聞こえ、イスラエルの民を「約束の地」カナンへ導くよう、モーセに命じます。
その時、神は自らを「在りて在るものなり」と答えます。何か禅問答のようで、よく分かりませんが、「私は在る」というのは古代ヘブライ語で「エフイェ」と言うそうで、これが「ヤハウェ」の語源だそうです。これを欧文で表記するとYHWHとなりますが、その後ヘブライ人の間でアラム語が普及し、フェニキア文字で表記するようになると、本来の読み方が忘れられてしまいました。一時、ヤーウェとかエホバなどと読まれていましたが、現在ではヤハウェと読むのが一般的です。いずれにしても、旧約聖書には、この名が6859回登場するそうですので、これを神の名と呼んでよいのでしょう。この名は、モーセの時に初めて登場するわけですから、事実上モーセがユダヤ教の創始者といえるのではないかと思います。
話が逸れてしまいましたが、モーセはエジプトに行き、いろいろありましたが、ファラオはヘブライ人の退去を許します。エジプト出発の前夜、人々は家にこもってお祈りをして過ごします。この夜の出来事が、ユダヤ教の「過越祭」の起源となります。その後ファラオが心変わりをしてヘブライ人を追いますが、奇跡によって海の水が割れ、ヘブライ人は脱出に成功します。当時のファラオは、ルクソールのアブシンベル神殿で有名なラムセス2世ではないかとされていますが、確証はありません。いずれにしてもその前後の時代なので、13世紀半ば頃ということになりますから、ヘブライ人はエジプトに300~400年くらいいたことになります。その後、モーセたち一行は、40年間荒野をさまよい、その過程でシナイ山で、モーセは神から十戒を授けられます。

わたしはあなたの主なる神である。
1.わたしのほかに神があってはならない。
2.あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。
3.主の日(安息日)を心にとどめ、これを聖とせよ。
4.あなたの父母を敬え。
5.殺してはならない。
6.姦淫してはならない。
7.盗んではならない。
8.隣人に関して偽証してはならない。
9.隣人の妻を欲してはならない。
10.隣人の財産を欲してはならない。
 
 ただし、十戒は宗派により若干の違いがあるようで、ここでは、カトリック・ルーテル教会のものを記載しています。よく読んでみれば、4以降は今日では当たり前のことで、当たり前のことが当たり前ではなかった時代に、人々に生きる道を示したのものだと思います。
 この40年間にさまざまな苦難がありましたが、ヨルダン川の手前でモーセは人々から離れ、120歳で死んだとのことです。


聖書は「出エジプト記」の後、律法を記した「レビ記」、イスラエル人の人口などを記した「民数記」、モーセの最期を記した「申命記」などがあり、最初の創世記をふくめて、すべてモーセが書いたものとして、モーセ五書と呼ばれています。ただし、本当にモーセが書いたのかどうかについては、異論が多くあります。特に最後の「申命記」は、モーセが自分で自分の最期を描いたことになるので疑わしいのですが、こうした議論は学者に任せておきたいと思います。この後、イスラエルの建国の歴史が記述されます。
「ヨシュア記」では、モーセの後継者となったヨシュアが、カナンを征服する過程が記述されます。その後に続く「士師記(ししき)」では、ヨシュアの死から紀元前11世紀のサムエルの登場までが記述されます。この間、イスラエル人は、他の民族による征服・服従・反抗・自立を繰り返す苦難の道を歩んでいました。この時代は、海の民と称する人々が東地中海沿岸に侵入し、長い混乱の時代であり、イスラエル人もこの混乱に巻き込まれたのです。そうした中で、イスラエルに「士師」と呼ばれる英雄が現れ、その中で最もよく知られているのがサムソンです。
ところで、「士師」の時代はどのくらい続いたのでしょうか。聖書の記述から計算すると、400年前後だそうですが、モーセによる出エジプトが紀元前13世紀だとすれば、サムエルの登場が紀元前11世紀ですから、計算が合いません。しかしこうしたことも学者に任せて、ここでは聖書の物語を述べたいと思います。


「サムソンとデリラ」

 「サムソンとデリラ」という映画は、1996年にも制作されていますが、私が観たのは1949年にアメリカで制作されたもので、著作権切れとなった廉価版です。
紀元前11世紀のイスラエル人は、ペリシテ人の専制的支配に苦しめられていました。ペリシテ人というのは、おそらく紀元前12世紀に滅びたミケーネ文明の流れを汲む人々で、「海の民」と言われた人々の一派だと思われます。
サムソンは、神から特別な怪力を与えられ、その怪力の秘密は髪の毛にありました。彼は成長すると、ペリシテ人の娘との結婚を望みますが、ペリシテ人はその娘親子を殺してしまいます。これに対する復讐として、サムソンは多くのペリシテ人を殺し、士師としてイスラエル人を指導します。その後サムソンは、デリラというペリシテ人の女性と結婚します。映画では、彼女は最初の婚約者の妹ということになっていますが、真偽のほどは不明です。デリラは、ペリシテ人に求められて、サムソンの力の秘密が彼の髪の毛にあることを探り出し、彼が寝ている間に髪の毛を切ってしまいます。神から与えられた力を失ったサムソンは、ペリシテ人に捕らえられ、目を潰されて奴隷として酷使され、最後に神殿でさらし者にされます。しかしこの絶望の時にサムソンに信仰が蘇り、神により与えられた力を取り戻します。彼は渾身の力を込めて、巨大な神殿を支える柱を倒し、多くのペリシテ人を殺して、イスラエル人の誇りを取り戻します。
旧約聖書に記された物語の多くは、神の祝福を受けた者が、ある時信仰を失って神の祝福を失い、絶望的な状況の中で信仰を取り戻すという物語で、サムソンとデリラの物語は、その典型です。

 聖書では、「士師記」の後に「サムエル記」がきます。サムエルは、預言者で士師でもあり、イスラエル人の宗教的・政治的指導者でした。しかし、彼の晩年になると、人々は敵と戦うためにも強力な王を求めるようになります。そこで彼はサウルを王としますが、やがてサウルが神の命に背いたため、ダビデを王とします。こうしてサウル以降王政の時代となり、歴代の王については「列王記」で語られることになりますが、「サムエル記」と「列王記」の間に、「ルツ記」という小編が入ります。この「ルツ記」が、次の映画の物語です。


「砂漠の女王」

1960年にアメリカで制作された映画です。「ルツ記」は、旧約聖書の中で、最も小編で、最も美しい物語と言われています。時代は、サムエルより少し前の時代、場所はヨルダン川東岸のモアブとイスラエルのベツレヘムです。
 かつてソドムとゴモラが滅びた後、ロトが洞窟で暮らし、モアブ人はその子孫であるという伝承がありますが、これはかなり疑わしいと思います。当時、モアブは偶像崇拝の土地で、ユダヤ教徒とは相いれませんでした。この土地へ、イスラエルのベツレヘムから、エリメレクとその妻ナオミ、そして二人の息子が移住してきます。二人の息子は現地の女性と結婚しており、その二人の息子の一人マフロン(マーロン)の妻がルツです。やがて、エリメレクと二人の息子が死んでしまうと、ナオミは故郷のベツレヘムに帰ろうと決心し、息子の妻たちにそれぞれの故郷に帰るように言います。しかしルツは、義母にしたがってベツレヘムに行くことにしました。「ルツ記」の本題はここから始まるのですが、映画の前半ではルツとマフロンの恋の物語が語られ、それ自体は創作です。
 「ルツ記」の特異性は、特別な人ではなく、ごく普通の庶民の日常生活を描いているところにあります。ユダヤ教では、土地の所有者が麦を刈り取る時、貧しい者や寡婦は落ち穂を拾う権利が認められており、刈る時には落ち穂を残すように定められています。これは、生活の手段を失ったものに対する救済策です。ルツも、落ち穂を拾って細々と暮らし、しだいにユダヤ教を受け入れるようになります。彼女は、はじめは偶像崇拝者として迫害されましたが、しだいにベツレヘムの人々に受け入れられていきます。さらに、彼女はエリメレクの遠縁の親戚であるボアズと結婚し、子を産みます。つまり彼女はイスラエル人ではなかったにも関わらず、ユダヤ教を受け入れ、イスラエル人の子孫を残しました。ここに、民族の違いを越えたユダヤ教の普遍性の片鱗が認められ、やがてそれはキリスト教に受け継がれていくことになります。
 ルツは、ナオミに従ってベツレヘムに向かうとき、「私は、あなたの行かれる所に行きます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」と言います。この言葉は、キリスト教式の結婚式でよく使われる言葉だそうです。結果的に、彼女の三代後にダビデが生まれ、彼がユダヤ人の栄光を生み出すことになります。そしてイエスの系譜はダビデにまでさかのぼるこができるそうですが、真偽は不明です。奇しくも、イエスはベツレヘムで生まれますが、それはたまたまマリアがベツレヘムに来た時に臨月となり、そこで出産したのであり、イエス自身はナザレの人です。

それにしても、この映画の日本語のタイトル「砂漠の女王」というのは、ひどすぎます。原題は「ルツ記」であり、どこから「砂漠の女王」というタイトルが生まれるのか、見当もつきません。


「キング・ダビデ」


1985年にアメリカで制作された映画です。ダビデは、はじめてヘブライ人の統一王国を築いた人物ですが、この映画については、なぜかあまり記憶に残っていないので、彼の生涯を簡単に紹介するだけにしておきます。
当時のイスラエル人はペリシテ人などの攻撃にさらされていたため、王政を望む声が高まっていました。そこで預言者サムエルはサウルを王とし、サウルは敵とよく戦ったのですが、神の意志に反したため、サムエルは別の王を探すことになります。ダビデは、ベツレヘムの羊飼いの子で、8番目の末っ子でした。サムエルは彼に目をつけ、密かに彼を王とすることに決めました。ペリシテ人との戦いで、ダビデは石投げ機で3メートル近い巨人を倒して名声を高め、王の側近として仕えるようになりますが、サウルはダビデの名声を妬んで殺害しようとします。その後、ダビデは逃亡生活を続けますが、やがてサウルがペリシテ人との戦いに敗れて自害し、紀元前1000年にダビデが王となります。この時ダビデは30歳でした。
 ダビデは交通の要衝であるイェルサレムに都をおき、南部のユダを基盤にしてイスラエル全土を統一し、ペリシテ人などの異民族を次々と征服して行きます。こうして、アブラハムが神に導かれてカナンに到来して以来、1500年以上たった後に、ヘブライ人の統一国家が樹立されたのです。彼は30年以上イスラエルを統治しますが、常に名君だったというわけではなく、重税を課したり、部下の妻を横取りしたりするなど、色々問題を起こしています。晩年には、かつての竪琴の名手で、美少年だったダビデの面影は残っていませんでした。そして、息子のソロモンに王位を譲り、まもなく死んでいきます。

 彼の人生は、まさに波乱万丈の人生であり、今日に至るまでダビデはユダヤ人の繁栄の象徴として、語り継がれています。


 なお、ユダヤ人の象徴としてダビデの星=六芒星(ろくぼうせい)があげられますが、実は伊勢神宮周辺の灯篭にも六芒星が刻まれていることから、伊勢神宮はイスラエル人の子孫が作ったのではないかという俗説が生まれました。しかしダビデの星は、17世紀のヨーロッパで考案されたもので、ダビデ自身とは直接関係がありません。ただ、ヨーロッパではこのマークがユダヤ人を象徴するように見なされ、ナチスの時代には、前に見た「黄色い星の子どもたち」にもあるように、ユダヤ人に強制的にこのマークを付けさせました。そして、現在のイスラエルの旗には、このダビデの星が描かれています。





「ソロモンとシバの女王」


1959年にアメリカで制作された映画で、ソロモン王とシバの女王とのロマンスを描いたものですが、そのほとんどは伝承と創作に基づくものです。
ソロモンは、ダビデの後継者で、イスラエルの第3代の王です。彼は、神によって知恵を授けられたとされ、行政機構の整備、交易の発展、政略結婚による強大化、イェルサレム神殿の建設など、さまざまな業績をあげました。中でも、彼が名君であることを示す有名なエピソードがあります。二人の女性が、生まれて間もない赤子を自分の子だとして譲らず、ソロモンに裁定を求めました。そこでソロモンが、赤子を二つに切って分けるように言うと、一方の女性が子供を殺すくらいなら他方の女性にあげてくれと言い、これでどちらが本当の母親かが分かりました。このエピソードは、この映画でも描かれています。これと似たような話が、日本の大岡政談に載っており、それは中国の書籍から引用したものだそうです。つまり、このエピソードは、ソロモン王に発して、中国から日本に伝わったと思われます。ただし、このエピソード自体がソロモンのものかどうかは不明で、オリエントに伝えられているさらに古い伝承なのかもしれません。
一方、彼は自分の政策を推進するために重税を課し、王権を強化して諸部族の反発を招き、ユダヤ教以外の宗教にも寛大に振舞って反発を招き、さらに晩年には享楽に耽って財政難を招きます。そのため、彼の死後まもなく、紀元前922年にイスラエル王国とユダ王国に分裂することになります。したがって、後世におけるソロモンの評価は、あまり芳しいものではなく、もし天国と地獄があるなら、彼は地獄に落ちたであろうと言う人もいるくらいです。ただし、この映画では、彼は最後に信仰を取り戻すことになっています。
 聖書によれば、シバの国の女王がソロモンの知恵の評判を聞いて、多くの贈物を携えてソロモンに会いに来ます。基本的に、聖書に書かれているはそれだけで、シバの国がどこなのか、女王の名前は何というのかも、分かりません。シバの国については、「南方」とか「遠方」とあるだけですが、多くの人は現在のイエメンであろうと考えています。イエメンは、紅海の入り口にあって海上貿易の要衝として繁栄した国です。ただ、対岸のエチオピアにアラビア半島のセム系民族が移住し、紀元100年頃にはアクスム王国が生まれました。この国の王は、ソロモンとシバの女王との間に生まれた子の子孫であると称しており、シバの国はエチオピアにあったと主張する人もいます。
 映画では、シバの女王がその美貌によってソロモン王を誘惑し、ソロモンも彼女に魅かれて、彼女のために偶像崇拝の神殿を建てます。彼が神の怒りに触れ、ソロモンは神から与えられた知恵を失ってしまい、イスラエルに侵入してきたエジプト軍に敗北し、ソロモンは絶体絶命の危機に陥ります。しかし危機の中で彼は信仰を取り戻し、奇策をもってエジプト軍を破ります。その頃シバの女王もイスラエルの神を信じるようになり、ソロモンが無事に帰るなら、自分はシバに帰ることを神に約束します。ソロモンが帰ると、女王はソロモンの子を宿していることを告白し、シバの国でユダヤ教を広めることを誓って帰っていきます。
 この話の多くは、伝承と創作だと思われます。ソロモンの晩年は享楽に明け暮れる日々でしたから、彼が信仰を取り戻したとは思われません。ただ、イエメンとエチオピアに多数のユダヤ人がいたことは事実で、このことについては、このブログの「映画でアフリカを観る―約束の旅路」を参照して下さい。
 ところで、エヴァはアダムをそそのかして堕落させ、デリラは色香によってサムソンを破滅させ、シバの女王も色香によってソロモンを堕落させました。聖書にはこうしたパターンが多く、これは聖書に限らず世界中でこうした話が多くあります。これはあたかも女が男を駄目にするかのような話ですが、これは男の論理だと思います。女と男が見る世界は必ずしも同じではなく、その男女の齟齬がしばしば不幸を引き起こすことがありますが、それを女のせいにするのは、男の世界から見た話しでないかと思います。

 次の映画に入る前に、その後のイスラエルについて簡単に見ておきたいと思います。南北に分裂した後のイスラエルでは内部紛争が絶えず、紀元前8世紀に新興のアッシリアに滅ぼされ、民族も四散して歴史から消えていきます。彼らが、日本に渡って伊勢神宮を建てたかどうかは知りません。ユダ王国は、アッシリアに服属することで生き延びますが、結局紀元前6世紀に新バビロニアによって滅ぼされ、住民の多くがバビロンに強制連行されるというバビロン捕囚が行われます。なお、「イスラエル」という名称は、アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)に因み、ユダはヤコブの子の名に因みます。結局イスラエル王国は消滅し、ユダ王国のみが生き残ったため、ヘブライ人=イスラエル人はユダヤ人と呼ばれるようになります。

 バビロン捕囚は、およそ50年続きますが、この前後にイザヤ・エレミア・エゼキセルといった預言者が登場し、人々に悔い改めよと警告を発します。こうした中で、消滅してしまったイスラエルとは異なり、ユダヤ人としての強固なアイデンティティが形成され、それは現在まで続いています。そして聖書が編纂されたのも、この頃です。今やユダヤ人は、故郷を離れていても、神殿がなくても、聖書さえあれば、いつでも、どこでも信仰を維持できるようになったわけです。またこの頃に、もう一つの異色な一編が挿入されます。それが、次に見る「エステル記」です。


「プリンセス・オブ・ペルシア エステル勇戦記」


2010年にアメリカで制作された映画で、「エステル記」に基づいた映画です。「エステル記」は「ルツ記」とともに、女性を主人公とした数少ない物語で、しかも舞台はイスラエルではなくペルシアであり、神について語られることもありません。
 アケメネス朝ペルシアを建設したキュロス2世は、紀元前539年にバビロンを征服し、ユダヤ人が故郷に帰ることを許しました。しかし、すでに捕囚から50年も経っており、現地で地位や財産を築いた人や、バビロンで生まれた人も多くおり、かなりのユダヤ人がバビロンに残りました。エステルは、そうしたユダヤ人の一人です。エステルの叔父モルデカイは、ペルシアの王に仕えていました。当時のペルシア王は、全盛期を築いたダレイオス1世の息子クセルクセス1世だと考えられており、彼は父の悲願だったギリシア遠征を計画していました(結局ギリシア遠征は大敗して終わります)。一方、彼は、新しい妃を選ぶために国中から美女を集め、そしてエステルが妃に選ばれました。
 一方、宰相のハマンは、ユダヤ人に強い恨みを抱いていました。その恨みは、これより500年も前にイスラエル王サウルによって国を滅ぼされたという根深いものでした。彼は、帝国内のすべてのユダヤ人を虐殺し、さらに王を倒して自らが王になろうと企んでいました。まさにユダヤ人は危機に立たされたわけです。こうした中でエステルは、死を覚悟して王に自分がユダヤ人であることを告白し、ハマンの陰謀を暴き、ユダヤ人の虐殺命令を撤回させます。
 この物語が事実であったかどうかは、分かりません。王妃にまでなったエステルの記録がペルシアに残っていませんので、おそらく創作であろうと思われます。この物語では、バビロン捕囚でユダヤ人が各地に四散したという現実を前に、故郷を離れ、どのような境遇にあっても、ユダヤ人としてのアイデンティティを失わず生きていかねばならない、という教訓が語られているのだと思います。ここに、離散の民ユダヤ人のルーツを見ることができます。エステルはペルシア語で星を意味するのだそうです。夜空に浮かぶ小さな星でも、闇を照らすことができるという意味でしょうか、あるいはユダヤ人にとっての小さな希望の星という意味でしょうか。
 映画では、エステルは美しくて賢く、また話の上手な女性で、「アラビアン・ナイト」のシェエラザードを思わせるような女性でした。


 バビロン捕囚後、ユダヤ人が完全に独立することはありませんでした。ペルシアの支配の後アレクサンドロスによる征服、セレウコス朝シリアによる支配と迫害、ローマ帝国の支配へと続きます。イエスが登場する時代は、ヘロデ親子がローマ帝国の庇護のもとに、かろうじて統治していましたが、民衆には評判のよくない君主でした。当時のユダヤでは、ローマ派と反ローマ派の対立、ユダヤ教の宗派間の対立、ユダヤ教の形式化、道徳的な退廃などが激しく、混迷を深めていました。そうした中で、洗礼者ヨハネと呼ばれる人物は、終末が近いこと、そのために悔い改めねばならいことを説き、ヨルダン川で人々に罪を許されるための洗礼を施す活動をします。そしてイエスも、ヨハネによって洗礼を受けた一人でした。


「マリア」

2006年にアメリカで制作された映画で、イエスを生んだマリアを描いています。「イエスとは何者なのか」という問いは繰り返しなされ、数えきれない程の研究があります。イエスに関する研究は、宗教的観点からの研究と、史的イエス、つまり歴史的事実としてのイエスについての研究があります。史的イエスの研究者の中には、イエスは存在しなかったという人もいます。確かにイエスの実在を確証する決定的な証拠はありませんが、だからといって、実在を疑う理由もないように思います。
イエスは、三大宗教の創始者としては、特異な存在です。ブッダは40年以上布教活動を行い、ムハンマドは20以上布教活動を行いましたが、イエスの布教活動は、はっきりしませんが13年だったと言われています。まさにイエスは、疾風のようにイスラエルを駆け抜け、しかも磔という異常な死に方をしたわけです。そして、そのイエスを処女のまま生んだマリアとは何者だったのでしょうか。



ナザレに住んでいたマリアは、大工のヨセフと婚約します。ヨセフはダビデの子孫だということですが、あまり信憑性はありません。やがて、マリアが処女のまま懐妊して大騒ぎになりますが、ヨセフはそれを受け入れます。マリアの処女懐胎については、マルコとルカの福音書にあるのみで、それ以外の記録はないそうです。処女懐胎について様々な意見があれますが、奇跡物語についてとやかく言うのは、この文章の目的ではないので、映画に関わることだけを述べます。マリアは、神の子を宿すという神の声を聴いたとき、当惑します。彼女に限らず、アブラハムも、モーセも、ムハンマドも、初めて神の声を聴いたとき、自分が発狂したのではないかと思いましたが、当然のことです。彼らが、本当に神の声を聴いたのがどうか、私には分かりません。この問題も、ここでは追求しないことにします。
映画では、イエスの出産に関わるエピソードが一通り語られますが、そのほとんどは伝説だろうと思われます。バビロンの3人の博士が救世主の誕生を予言してユダヤに向かったこと、ヘロデ王が救世主の誕生を阻止するため、出世地での戸籍登録を命じ、ヨセフとマリアがベツレヘムに向かい、そこでイエスが誕生したこと、その後ヘロデの追っ手を逃れてエジプトに亡命したことなどですが、どれも確かな証拠はありません。ベツレヘムで生まれたことについては、ダビデとの由来を説明するために、後で創作されたことかもしれません。比較的確かなことは、イエスがナザレで大工の子として育ったこと、30歳ころにヨルダン川で洗礼者ヨハネの洗礼を受けたこと、そしてその後の数年の宣教活動を経て処刑されたことくらいです。
絵画で描かれるマリアは、慈愛に満ちた顔で赤子のイエスを抱く姿、宣教活動を行うイエスに寄り添う姿、イエスの磔柱の下で途方に暮れる姿などが描かれます。しかし、マリア」は息子イエスの活動が、よく理解できなかったとも言われています。さらにイエスが十字架にかけられた時、マリアも弟子たちも連座を恐れて集まってこなかったとも言われ、むしろイエスを崇拝する多くの女性が、処刑に立ち会ったとも言われています。その代表的な女性が、マグダラのマリアですが、彼女については別の所で触れたいと思います。
マリアに対する尊敬は、キリスト教徒の間では一般に広く行われていますが、中世後期の西ヨーロッパでマリア崇拝が異常に高まります。それは、イエスの母であるマリアを代理者として、神に願いを聞き届けてもらおうということで、仏教の弥勒信仰と似ているように思います。さすがにプロテスタントは、こうした極端なマリア崇拝を退けますが、イエズス会を通じてマリア信仰は日本にも伝わり、禁制後には隠れキリシタンによりマリア観音が崇拝されました。まさに、キリスト教版神仏習合といったところです。
その後のマリアについては、よく分かっていませんが、晩年は使徒の一人ヨハネとともに、小アジアのエフェソスで暮らしたとのことです。


多くの芸術作品の題材となった「ピエタ」は、磔柱から降ろされたイエスを抱くマリアの姿を描いたもので、「敬虔」を意味します。ミケランジェロの「ピエタ」は最高傑作ですが、実にミケランジェロが21歳の時に製作されました。ただ、当時から問題だったのは、母マリアが若すぎるということです。イエスが死んだのは30代半ばですので、マリアは50歳前後だったと思われます。そもそもマリアはイエスの死に立ち会っていないともされるので、だとすれば磔から降ろされたイエスをマリアが抱くということは、ありえないということにもなります。一説によれば、この女性は「マグダラのマリア」ではないかともされています。ミケランジェロ自身は、「若すぎる」という疑問に対して、「聖母は永遠に若い」と答えたそうですが、それはミケランジェロの本心なのでしょうか。ちょうど時代は、マリア崇拝に対する疑問が生まれつつあった時代でした。


「ゴルゴダの丘」

1935年制作のフランス映画で、イエス・キリストを扱った最も古い映画の一つではないかと思います。


















 イエスの研究については、宗教的な研究と史的イエスの研究に分かれます。宗教的研究は、イエスの言葉をどのように解釈するかといった研究で、史的イエスの研究は、その実在も含めてイエスを実証的に研究するもので、私自身は史的イエスの方に興味があります。19世紀の後半に、フランスのエルンスト・ルナンが「イエスの生涯」(日本語訳 忽那(くつな)錦吾・上村くにこ、2000年、人文書院)を著し、初めて人間としてのイエスを描き出しました。それ以来、史的イエスの研究は、大いに進展しました。
 この映画は、どちらかといえば宗教的なイエス像が描かれています。映画は、イエスがイェルサレムに到着したところからり始まり、民衆が彼を救世主として熱狂的に迎え入れます。聖書の通り、立法学者たちやヘロデ王の陰謀、ローマ総督の関わり、ユダの裏切り、イエスの処刑と復活が描かれます。私としては、あまり興味のない内容で、飛ばしながら観ました。
 なお、処刑されたゴルゴタの丘については、場所が特定されていません。一応推測された場所に、今日聖墳墓教会が建てられています。


「偉大な生涯の物語」

1965年にアメリカで制作された映画で、266分という長編ですが、日本語版DVD199分に短縮されていました。それでも相当の時間です。
 映画では、イエスの誕生とヨハネによる洗礼の後、荒野での40日間の修行の場面があります。サタンがイエスにさまざまな誘惑を仕掛けてきます。神によって守られているのだから、絶壁から飛び降りてみろと誘惑しますが、イエスは「神を試してはならない」と言います。神は時々人間を試しますが、人間は神を試すことは許されません。ただ、神を信じるのみです。山を下りた後、北部のガリラヤで宣教活動を始め、この間に弟子たちが集まってきます。そこで多くの奇跡を行ったとされます。奇跡が事実かどうかについては、私には分かりません。
 やがて彼は故郷のナザレに行きますが、あまり歓迎されませんでした。預言者は故郷では歓迎されないといいますが、子どもの時から知っている人物が突然預言者として現れても、なかなか信じにくいものでしょう。かれを一番困らせたのは、救世主であることを示すために奇跡を行えと言われることでした。奇跡は手品ではないし、奇跡によって救世主であることを示すことは、神を試すことです。必要なことは、真の信仰であって、奇跡ではないのです。この頃友人のラザロが病死します。その四日後にイエスはラザロの墓へ行き、「ラザロ、出てきなさい」というとラザロが蘇ったといいます。本当かどうかは知りませんが、今日、脳死判定の後で手足が動く反応を、ラザロ兆候というそうです。
その後、イエスはイェルサレムへ行き、そこで最後の晩餐、逮捕、処刑、復活と続く分けですが、この部分はキリスト教教義の核心部分に関わるため、ここでは触れません。これも聖書に忠実に描かれた映画で、少し退屈してきました。
 ところで、もしイエスが「神の子」ではなく普通の人間だったとしたら、彼はどこで教育を受けたのでしょうか。彼は聖書に精通し、その話しぶりからして高い教養をもっていたと思われます。しかし、両親とも貧しい家の出身でしたから、読み書きもできなかったでしょう。話が飛躍しますが、1947年に死海周辺のクムランの洞窟で1000点近い文書が発見されました。それらの文書は、紀元前2世紀から紀元後1世紀頃にかけて書かれたもののようで、「二十世紀最大の考古学的発見」と言われました。しかしこの地域は戦争の多発地帯で、その発見と収集・整理・公表の物語は、それ自体スリリングなもので、すべての資料が公表されたのは、20世紀も終わりに近いころでした。誰がどの様にこの文書をこの洞窟にもたらしたのか、はっきりしません。まるで1900年に発見された敦煌文書のようで、敦煌の四畳半程の洞窟に膨大な文書が隠されていました。
 クムランで発見された資料は聖書に関するものが大半で、その後の聖書研究に計り知れない恩恵をもたらしましたが、ここではイエスに関連することだけを述べたいと思います。当時エッセネ派というユダヤ教の宗派があり、この宗派は俗世間から離れ、共同生活をしつつ宗教的な清浄さを維持しようとしていました。死海文書の作成者と思われるクムラン教団はエッセネ派であると推測されており、その教義の中にはイエスの教えに近いものが含まれているとされます。またイエスを洗礼したヨハネもエッセネ派ではないかという推測もあります。だとすれば、イエスはクムランの洞窟で写本と思索に明け暮れる生活をし、ある時隠遁生活を離れて世俗の中に入り、宣教活動を開始したのではないかとも推測されます。彼は、あくまでも一人の思想家として、彼の信念を人々に伝えたのではないでしょうか。
 ただ、この話はすべて推測の上に成り立っており、研究者からはあまり支持されておらず、結局「イエスとは何者なのか」という問いには答えることはできませんでした。


「キンブ・オブ・キングズ」


1961年にアメリカで制作された映画で、バラバという人物がストーリーの伏線として登場しています。イエスが死刑を宣告されたとき、イエスを含めて4人の死刑囚がいましたが、その内の一人がバラバです。実はバラバはバラバ・イエスといいます。当時、イエスと言う名前はどこにでもある名前で、ローマ総督は二人のイエスの内のどちらか一人を助けると言い、民衆にどちらにするかと問いかけました。祭司に扇動されていた民衆は、バラバを助けよと叫んだため、バラバは命を助けられます。
はっきりしたことは分かりませんが、バラバは反ローマの武装集団である熱心党のメンバーだったようです。映画では、後に使徒となり、かつイエスを裏切ったユダは、彼の仲間ということになっており、バラバは、イエスを反ローマの戦いに利用しようとします。ユダは、イエスがローマによって追い詰められれば、反ユダヤの戦いに参加せざるを得なくなると考え、イエスがバラバと同類であると密告します。その結果イエスは捕らえられ、処刑されることになるわけです。ローマが最も恐れたのは、イエスが王を名乗るということですが、イエスが言う王とは天上の王であり、「諸王の王」ということでした。それは、軍事力で支配するローマとは相容れないものでした。
新約聖書の記者たちは、ローマ帝国のことを悪くいうことを避ける傾向にあります。もちろん、当時ローマ帝国が全盛期にあり、それを否定するようなことは書きにくかったということもあるでしょうが、何よりも、記者たちはイエスと対立した祭司・律法学者やヘロデ王への批判をしたかったのだと思います。ローマの総督ピラトがイエスに死刑を宣告したときも、祭司たちに頼まれてしかたなく宣告したということになっています。しかし、この映画では、まずローマの暴虐ありきという描き方をしており、その結果イエスが処刑されるという筋書きです。
この映画が制作されたのと同じ年に、イタリアで「バラバ」という映画が制作されました。はるか昔にみた映画なので、ほとんど内容を覚えていませんが、最後にバラバがキリスト教に改宗し、キリスト教徒として磔になって死んできました。

なお、映画にはエピソードとしてサロメの話も出てきます。ヘロデ王は、前王を殺してその妻を娶り、その妻の娘がサロメです。サロメは、洗礼者ヨハネの首を求め、ヘロデがヨハネの首を銀の皿にのせて宮廷にもたらすという話で、19世紀末のワイルドの戯曲「サロメ」で有名です。「サロメ」という映画もあるそうですが、私は観ていません。


「最期の誘惑」


1988年にアメリカで制作された映画で、イエスについての相当大胆な解釈を行っており、ついていけないような内容でした。
まず、イエスが大工として囚人処刑用の十字架を造っている場面から始まります。神の声が聞こえ、発狂しそうになり、神に嫌われるために十字架を作り始めたそうです。またこの映画では、最初からユダが熱心党のメンバーとして登場し、イエスに色々と意見をしますが、やがてイエスを神の子として受け入れていきます。ところで、イエスの死は神によって予定されていることで、死刑となるためは逮捕されねばなりません。そこでイエスは、ユダに自分を役人に訴える役目を与えます。つまりユダは裏切り者ではなく、イエスの使命を全うさせるための手助けをしたということです。この点については、1978年にエジプトで「ユダの福音書」が発見され、ユダこそイエスの教えを正しく広めた人であり、正統派教会により裏切り者として貶められたのではないか、という主張が現実味を帯びつつあるようです。
いよいよイエスが磔になり、死を迎える直前に、天使が神の言葉をイエスに伝えます。「おまえは良くやったので、人生を全うさせてやろう」という言葉です。その瞬間に、イエスは夢の世界に飛んで行きます。そして彼はマグダラのマリアと結婚し、子をもうけますが、まもなく彼女は神に召されます。その後イエスは、ラザロのマリアという女性と結婚し、ある村で平和な家庭を築きます。ところがある日、イエスの住む村でパウロという男がイエスの教えと称するものを説教していました。パウロは、イエスの処刑後改宗した人物ですから、お互いに顔を知りません。パウロの説教を聞いたイエスは、自分はそんなことを言った覚えがないというと、パウロは、あなたは生きていたのか、しかしもうあなたは必要ない、と言います。つまり、イエスとは関係のない所でキリスト教なるものが、独り歩きしていたわけです。

やがて年老いたイエスは臨終を迎えますが、その時昔の弟子たちがイエスを訪れます。そしてユダは、生き延びたイエスを裏切り者として非難します。イエスは十字架で死ぬべきだったのです。そして、実はイエスを助けた天使は悪魔だったことが判明し、生きたいというイエスの最後の誘惑に悪魔が乗じたのでした。それを知った直後に、彼は十字架上で目覚め、予定通り死んでいきます。

相当ややこしく、かつ突飛な話ですが、イエスについては不明な点が多いため、こうした解釈も生まれてくるのだと思います。そもそもイエスとは何者なのか。人なのか、神なのか、神の子なのか、救世主なのか、はたまた三位一体なのか。また、イエスはなぜ磔という異常な死に方をしたのか。自分の命を助けることもできない者に、他人を助けることができるのか。こうしたことについて、イエスの死後長い議論が展開されて、正統教義なるものが生まれてくる分けですから、たとえ正統教義を受け入れたとしても、個々の問題については疑問点が残ります。イエスには妻がおり、子どももいたという話も、完全に否定できることではありません。2006年のアメリカの映画「ダ・ヴィンチ・コード」では、イエスの子孫にあたる女性が登場します。

この映画の上映にあたっては、キリスト教団体からイエスを冒涜しているという批判があったそうですが、それほど真剣になって批判するほどの映画ではないように思われました。相当横着な構想ではありますが、史的イエスを幅広く考えるには役に立つ映画でした。

「マリー―もう一人のマリア」

2005年に制作されたイタリア・フランス・アメリカの合作映画で、映画でマグダラのマリアを演じた女優が、マグダラのマリア(英語名メアリー・マリー)に魅了されるという話ですが、何を言おうとしているのかよく分からない映画でした。
イエスを扱った映画には、必ずマグダラのマリアの改心の場面が出てきます。マリアは、娼婦か、あるいは情欲に身を任せた金持の女性か分かりませんが、いずれにせよ不義を働いたという理由で、石打の刑にされようとしていました。そこに通りかかったイエスが、石をなげようとしていた群衆に、「罪を犯したことがないと思う者は、最初に石をなげよ」と言い、結局誰も石を投げずに群衆は立ち去りました。そしてイエスはマリアに、「あなたの罪は許された」と言って去って行きます。それ以来マリアはイエスの熱烈な崇拝者となり、生涯彼に付き従います。最後の晩餐にも付添ったし、イエスの処刑にも立ち会い、イエスの復活を最初に目撃し、その後南フランスに布教に行ったとも伝えられています。
ただ、例によってイエスに関わる話は不確かことが多いのが問題です。そもそもマリアという名前は、非常にありふれた名前で、聖書だけでも56人のマリアが登場するそうです。第一、母の名がマリアです。ヨセフという名も多く、イエスの父がヨセフであり、イエスの遺体を引き取ったのも別のヨセフです。したがって、名前に出身地をつけて区別するわけで、イエスは「ナザレのイエス」と呼ばれます。そして、先に述べたエピソードのマリアが、マグダラのマリアだとされていますが、はっきりしないようです。
イエスには女性の崇拝者が多く、イエスの行く先々に多数の女性が付き従い、イエスの身の回りの世話をしていたようです。当時は、宗教は形骸化し、道徳は退廃していましたので、心を病む女性が多かったようで、イエスはそうした人々に生きる指針を示したようです。イエスが処刑された時、弟子たちは連座を恐れて逃げてしまいましたが、女性たちの多くは処刑に立ち会いました。そうした女性たちの中に何人ものマリアがおり、聖書に記述されているマリアをそれぞれ特定することが難しいようです。
ところで、マリア(どのマリアかが問題ですが)は、イエスから弟子たちが聞いていない話まで聞いていたようで、イエスの死後弟子たちが、イエスが女であるマリアにそこまで話すのか、マリアは噓を言っているのではないかと疑いました。完全に男尊女卑の世界ですが、当時はそういう時代でした。そうした中で、弟子たちはマリアを排除し、彼女を通じて伝えられたイエスの言葉も排除し、その結果彼女は南フランスに渡り、そこでイエスの言葉を伝えたとも言われます。そして新約聖書では、「罪の人」として位置づけられたとも言われます。事実、新約聖書が編纂される過程で、多くの文書や証言が正統教義に反するとして、排除されていきました。この映画が描こうとしているのは、この点なのではないかと思います。「もう一人のマリア」とは、「罪の人」と呼ばれたマリアではなく、実はイエスの最も重要な弟子であった、ということではないかと思います。つまり、イエスの真の教えは、マリアを排除したことによって、隠蔽されてしまったということです。この点については、正統聖書からはずされた聖書外典の研究により、ある程度支持する人がいるようです。1945年にエジプトで発見された「フィリポの福音書」も、マリアをイエスの伴侶で、最も愛する人と述べています。

ちなみに欧米では、聖書に因んだ名前を付けることが多いようです。英語読みすると、マリアはメアリー・マリー、ペトロはピーター、ヨセフはジョセフ、ヨハネはジョン、パウロはポールです。なお、マグダラはフランス語ではマドレーヌといい、フランスではマドレーヌの名の付いた教会・修道院が沢山あります。また、マドレーヌというお菓子は、18世紀にマドレーヌという女性が初めて作ったお菓子だそうで、いかにマドレーヌ=マグダラという女性が人々に親しまれていたかが分かります。聖母マリアがあまりに高くにありすぎるのに対し、「罪の人」といわれたマリアは親しみやすく、また娼婦の守護聖人ともなっています。


新約聖書~ヨハネの福音書」


2003年制作のカナダ・イギリスの合作映画で、新約聖書の「ヨハネの福音書」を忠実に再現した映画です。「福音」とは「エヴァンゲリオン」で、「良い知らせ」つまりグッド・ニュースです。例えば戦争の勝利や出産の知らせなどがよい知らせであり、聖書では「神の国が到来した」ということを弟子たちが世界中に知らせたというのが、福音です。聖書の冒頭に、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書が置かれていますが、それぞれに名前が冠してあるわりには、彼ら自身が作者であるかどうか、はっきり分かっていません。
 四つの福音書のうち、ヨハネの福音書は他の三つの福音書と比べると、特異な存在です。第一にヨハネ福音書は、重複記述が少ないことがあげられます。他の三つの福音書は互いに参照したか、あるいは何か共通の資料に基づいていると推測されますが、ヨハネ福音書は、著者の思想に基づいて独自に書かれたように思われます。第二に、他の福音書がイエスの生涯の記述が多いのに対し、ヨハネ福音書はイエスの言葉を多く書き、さらにイエスをはっきりと神の子と書き、愛を強調しています。この点で、後のキリスト教への影響が極めて大きい福音書です。
 映画は、「初めに言葉ありき」から始まります。創世は神の言葉から始まり、言葉はすなわち神であり、この世界の根源である、というところから始まります。そして至る所でイエスは人々に語り、「私は在りて在る者なり」という言葉を何度も使います。「在りて在る者」とは、ヤハウェがモーセに名乗った名称で、神そのものです。映画では、次々とイエスの言葉が発せられ、私のような部外者には、時々意味が分からない部分がありました。
 ヨハネは、ペトロなどとともに最も初期にイエスの弟子となった人で、イエスが処刑された時にも弟子の中でただ一人付添い、復活を目撃し、その後イエスの母マリアとともにエフェソスで暮らしました。この時期に一度逮捕され、拷問され、島流しにあったこともありますが、最後はエフェソスで死にました。この間、「ヨハネの黙示録」を著し、さらにエフェソスに帰った後に、「ヨハネの福音書」を著したとされます。
 新約聖書の最後に、「ヨハネの黙示録」が配置されていますが、「黙示録」とは何なんでしょうか。「黙示」の反対語は、法律用語で言えば「明示」あり、「黙示」は「黙って示すこと」です。原語(ギリシア語)のアポカリプスは「覆いを剥がして明らかにする」という意味ですから、明らかに「明示」です。したがって「黙示」は誤訳であり、「啓示」とすべきでしたが、もはや日本語として定着してしまいました。黙示文学では、天地創造から終末、死者の復活、最後の審判、天国と地獄などが語られ、これらは旧約聖書にも見られますが、おそらくゾロアスター教の影響と考えられます。そこには、終末の恐るべき光景が具体的に描き出されており、それを読んだ人々は震えおののいたことでしょう。ただ、「ヨハネの黙示録」は、「ヨハネの福音書」と比べて、文体や思想があまりに異なるため、別のヨハネが書いたのではないかという根強い見解があります。
 聖書やその著者についてはさまざまな疑問があり、これらに決着をつけることは容易ではありません。特に戦後、正統聖書=正典から排除された幾つかの福音書が発見されており、ますます議論は混沌としているように思われます。一般に外典と呼ばれるこれらの資料は、一体何故正典からはずされたのでしょうか。私のいい加減な推測によれば、それらの外典がイエスの言葉から各自が真理を認知する(グノーシス)ことを求めているからではないかと思います。教会の体制維持という点から見れば、各自が勝手に認知したのでは、収拾がつかなくなります。ようやく教会が形成されつつあった時代に、正統教会の教義は絶対であることを貫かなければなりません。正統性を頑ななまでに維持することによって、その後の教会の発展が可能だったのだと思います。 
 ヨーロッパの中世において、次のような問題が起きました。教会の腐敗がひどかったため、腐敗した聖職者を罷免しようとしたのですが、それほど腐敗した聖職者によって行われた洗礼は有効か否かという問題です。もし無効だとすれば、その聖職者によって行われた洗礼はすべて無効となり、すべての洗礼をやり直す必要があるばかりか、彼が洗礼をした人の中で聖職者になった人がいたとすれば、それも無効となります。また、すでに過去の人で、明らかに腐敗した聖職者も多数いるでしょう。それも無効ということになります。これでは、教会という体制の崩壊につながります。その結果、洗礼を実行した人の人格には関係なく、教会が定める儀式に従って行われた洗礼は、すべて有効とせざるを得ません。こうして、体制を維持するために、宗教はその本来の意味を失っていきます。どんな宗教でも、それが多くの人々に受け入れられれば、その宗教は体制化し、やがて本来の意味を失っていきます。

話が完全にそれてしまいましたが、この映画自体には私の関心を引き起こすようなものは、あまりありませんでした。ただ、この映画をネタにして、ヨハネと聖書について考えてみたまでです。  

「ローマ帝国に挑んだ男 -パウロ」

2009年のイタリア、チェコ・ドイツの合作で、多分テレビ・ドラマ用ではないかと思います。あるいは、先の「新約聖書~ヨハネの福音書」も含めて信者用の映画かもしれません。
パウロは富裕な家に生まれ、高名なラビの下で学び、律法についての学識が高く、さらにギリシア語をよくしてギリシア哲学にも通じていました。当時、イエスの弟子たちがキリスト教の布教を行っていましたが、ローマや祭司・律法学者たちに弾圧されており、パウロもキリスト教徒弾圧の急先鋒の一人でした。しかし、ある時彼は突然視力を失い、同時に、異邦人に神の言葉を伝えよという神の声を聴きます。まもなく視力を回復したパウロは、キリストの死と復活を明白な事実として信じるようになり、神の言葉の伝道を決意します。これによってキリスト教は、貴重な人材を得ることになりました。つまり、イエスの教えを直接受けた12人の弟子=12使徒たちは、漁師だったり徴税人だったりで、あまり教育レベルが高くなかったのですが、パウロの参加により、キリスト教は優れた知識人を得たわけです。
しかし、異邦人への布教の過程で問題が発生してきました。使徒たちは、基本的にはユダヤ教徒であり、イェルサレムの教会を中心にユダヤ教徒にイエスの教えを伝えていました。したがって彼らの宗教はユダヤ教の枠内での宗教であり、新しい宗教を起こすという自覚はありませんでしたから、彼らは従来通りモーセの律法を遵守していました。しかし、異邦人への布教にあたり、彼らにモーセの律法を強いることは無理でした。律法には、割礼など極めてユダヤ的な伝統に根差したものが多く、異邦人には受け入れがたいものだったのです。そこでパウロは使徒たちに訴え、必ずしも律法を守らなくてもよいという許可を得ました。これにより、キリスト教はユダヤ教という民族宗教から世界宗教への道を歩み始めることになります。
ところで、律法は、例えば食に関して、今日から見ればかなりくだらない規定が細々と書かれています。例えば肉と乳製品を一緒に食べてはならないとか、海や川などに住むヒレや鱗のあるものは食べてもよいが、海老や蟹はだめ、といった具合で、これが書かれた時にはそれなりの意味があったと思いますが、長い年月が経つうちに現実に合わなくなっていました。もし律法が本当にモーセによって書かれたものなら、それはイエスの時代より1200年以上も前のことです。しかしそれでも律法に書かれている以上、守らなければなりません。また、安息日には働いてはならないといった規定についても、例えば安息日に医者が苦しんでいる病人を診察したとすれば、働いたことになるので、律法に違反します。これなどは、明らかに杓子定規にすぎる律法の解釈です。イエスも、律法の重要性を説きますが、本来の意図を離れた無意味な適用を繰り返し批判していました。こうした中で、キリスト教の母体となったユダヤ教の律法をどのように扱うかということが、その後のキリスト教の命運を左右することになります。
 私はキリスト教の教義を云々できる立場にはありませんが、パウロはイエスの教えをさらに一歩進め、キリスト教を理論的に体系化したのではないかと思います。パウロによれば、キリストは人類の罪のために死に、神はキリストを復活させることで神による救いへの道を保証したのです。つまり、人間の不信仰により、神と人間との関係は疎遠になっていましたが、今やキリストの死によって人間の罪は許され、この神の愛を信じることによって、神と人間との正常な関係が回復されるということです。「律法を守る」という形式的な行為ではなく、ただ「神の愛を信じること」が、救いへの唯一の道なのだということです。パウロについての私の理解は間違っているかもしれませんが、律法に対するパウロの批判は事実です。
 当時、キリスト教に改宗したユダヤ人の多くは、使徒たちも含めて律法への強いこだわりをもっていました。これに対してパウロは、律法さえ守れば救われるという形式主義に陥らないために、律法主義を徹底的に批判します。それでもなお、イスラエルのキリスト教徒は、イェルサレムの教会を拠点にユダヤ教的なキリスト教を維持しつづけましたが、紀元70年にローマ軍によりイェルサレムが陥落し、ユダヤ人は全世界に離散し、キリスト教会も破壊されると、もはやユダヤ教的な伝統を維持することが困難となります。こうしてキリスト教は、ユダヤ民族主義を捨て、普遍的な宗教へと変身していったのです。タイトルの「ローマ帝国に挑んだ男」というのは、ユダヤという一地方の枠を超えて、キリスト教をローマという世界帝国の宗教に発展させた、という意味でしょうか。
 もしかすると、パウロの主張はイエスの教えと異なっていたかもしれませんが、パウロはイエスの死と復活という事実を基に、キリスト教を体系化しようとしたのではないでしょうか。もちろんこれは、一つの見方にすぎません。しかし、前にみた「最後の誘惑」という映画で、パウロが説教する「キリスト教」なるものについて、実は生きていたイエスが反論する場面がありましたが、こうした場面が描かれた背景には、パウロについての次のような見方が存在するからです。つまり、キリスト教を生み出したのは、イエスなのかパウロなのか、ということです。
 ヨーロッパの中世においては、「新約聖書~ヨハネの福音書」でもみたように、結局カトリックは形式主義に陥りました。これは体制化した宗教の宿命なのかもしれません。それに対して、16世紀にマルティン・ルターが「人は信仰よってのみ義となる」というパウロの主張を復活させて、カトリック教会に敢然と立ち向かったのです。


 聖書やキリスト教についてまったく無知な私が、映画を媒介として勝手な意見を述べました。なかには許しがたいような誤解もあるかもしれません。それでもあえてこうした文章を書いたのは、私自身の断片的な知識を整理したかったためであり、特定の宗派を批判する意図はまったくありません。私は、ヨーロッパ中世のキリスト教には比較的詳しいのですが、そのため逆に中世キリスト教をこれほど大胆に描くことは、とうていできません。この文章は、無知だからこそ書けたものといえます。また、別の機会に、無知を武器にして、イスラーム教や仏教についても書いてみたいと思っています。