2018年10月31日水曜日

「動的平衡」を読んで


福岡伸一著、2009年、2011年、木楽舎
本書は、生命とは何か、人間とは何かという問題を生物学的観点から論じたもので、大変評価の高い本で、娘の蔵書のなかにありました。
基本的には、私は人間を生物学的に分析することには、あまり好感を持っていませんでした。もちろん生物学的側面は、人間にとって重要な要素ですが、それがすべてではありません。とくに、人間という生き物を細胞レベルまで分解して分析することは、人間の本来の姿を否定することになります。人間は、生物学的だけではなく、哲学的、文学的、社会的、歴史的な側面をもっています。そして、著者自身がそのことをよく理解しており、生物学的な分析は人間の一つの側面にすぎないこと、さらに細胞レベルまで分解して人間を論じることが不適切であることを主張します。
細胞は絶えず消滅し生成し続け、同じ細胞が静止しているわけではありません。そしてさまざまな細胞が相互に作用しあいながら、激しく動き、その動きの中で一定の均衡を保っています。それが生命であり、それが動的平衡ということです。著者は、次のように言います。「水の流れには不思議な秩序がある。ねじれのようでもあり、らせんのようでもある。少しずつ形をかえつつ、ある種の平衡を保っている。しかも二度と同じ水ではない。しかし流れは常にそこにある。」
まるで仏陀をモデルとしたヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」を読んでいるようです。(「映画で仏教を観る」https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/01/blog-post.html)つまり、人間とは何か、生命とは何か、ということについては、すでに古代に答えが出ていたのです。科学は、ようやく古代の賢人たちのレベルに近づいてきたと言うべきかもしれません。

2018年10月27日土曜日

映画「オスマン帝国外伝」を観て

2011年から2014年までトルコで放映されたテレビドラマ・シリーズで、第1シーズンから第4シーズンまであり、私が観たのは第1シーズン(48話)のみです。このドラマは大変に評判が高く、80か国以上で翻訳・放映されたそうです。何しろ、オスマン帝国の全盛期を築いたスレイマン大帝についてのドラマをトルコが制作したわけですから、私も大変注目してこのドラマを見ました。何しろ、スレイマン1世は「壮麗王」と呼ばれ、この映画の原題は「壮麗なる世紀」です。
ところが、観ているうちに、このドラマはハレムでの女の戦いであることが判明し、邦題を見ると「外伝」となっており、サブタイトルが「愛と欲望のハレム」となっていました。今回は、邦題の方が内容を正しく伝えていました。私は、目を皿のようにして観ていたのですが、第7話あたりから飛ばして見るようになり、その内1を話10分で通過、最後の方では1話5分で見てしまいました。それでも話の内容はちゃんと繋がっていましたので、いかにだらだらしたドラマだったか、想像がつくかと思います。
なお、このドラマは映画見放題のhuluで見ましたが、結局この映画だけを見て、無料お試し期間中に終わってしまいました。
 ドラマでは政治上の問題はあまり出てきませんが、それでも一応オスマン帝国とスレイマン1世についての概略を述べておきたいと思います。北アジアや内陸アジアで活動していた遊牧騎馬民族であるトルコ人は、長い時間をかけてイスラーム世界に進出し、13世紀の末にアナトリア半島で台頭した勢力が、やがてオスマン帝国を樹立します。オスマン帝国は15世紀に、一千年以上にわたって繁栄してきたコンスタンティノープルを占領し、これをイスタンブルと改名して帝国の都とします。オスマン帝国は、16世紀のスレイマン1世の時代に全盛期を迎え、その後ゆっくりと衰退の道をたどって、1922年に消滅します。このトルコ人の歴史については、「テュルクを知るための61章」も参照して下さい。私が観たドラマの第一シリーズが扱っている時代は、スレイマンの46年間の治世の内、彼が即位した1520年から1525年までで、この間に彼はハンガリーに侵攻してヨーロッパを恐怖に陥れ、さらにロードス島を占領して地中海に進出しました。
 舞台は、イスタンブルのボスフォラス海峡に面する位置に建てられたトプカプ宮殿です。トプカプ宮殿はオスマン帝国によるコンスタンティノープル占領後建設され、スレイマン1世がいたころには、完成されてから半世紀ほどしかたっていませんでした。この宮殿は三方を海に囲まれた岬の先端に建てられ、壮大な建築物はありませんが、広大な土地に多くの庭園が造営され、多くの建築物が建設されました。この宮殿は、もともと「新しい宮殿」と呼ばれていましたが、19世紀の半ばに皇帝が宮殿を去ってから、「トプカプ宮殿」と呼ばれるようになりました。この名称は、この岬にあった「大砲の門(トプカプ)」に由来するそうです。なお、今日この宮殿は一般に開放され、600年間に集められた至宝が展示されています。そしてハレムも、この宮殿内にあります。

ハレムとは、「性的倫理の逸脱を未然に保護するためには男女は節理ある隔離を行わなければならない」という性倫理に基づくそうで、こうした倫理は他の世界でもしばしば見られます。儒学なども、そうした傾向をもっています。ただアッバース朝やオスマン帝国のように規模の大きな帝国の宮廷では、規模の大きなハレムが置かれますが、それは日本の江戸時代の大奥や中国の後宮と同じようなものです。決してハレムを擁護するわけではありませんが、上の写真にあるような淫靡な世界としてのハレムは、19世紀のヨーロッパ人の妄想が生み出したものです。今日では、東洋についての事実と異なったこのような空想は「オリエンタリズム」と呼ばれ、厳しく批判されています。しかし、ハレムについてのこうしたイメージは、今日でも広く浸透していることも事実です。
ハレムを含めて宮廷には、帝国の内外から多くの人が集まっています。しかし、そこでは民族や宗教や言語の違いは問題にはなりません。映画ではスルタンの眼はブルーに見えましたが、ハレムにはヨーロッパ出身の女性も多数おり、金髪のスルタンがいたとしても、何の不思議もないでしょう。またハレムにはキリスト教やユダヤ教など「異教徒」の女性もたくさんいましたが、改宗は強制されませんでした。また、帝国内には多様な言語を話す人々がいますが、統治機構内では、本来のトルコ語に多くのペルシア語やアラビア語の語彙が入り込んだオスマン語ともいうべき言語が共通語として存在しており、これが広大な帝国と多様な人々が入り混じる宮廷の統一に大きな役割を果たしていました。中国の広大な帝国には多くの民族や言語が存在しましたが、漢字という共通の文字が中華帝国の維持に大きな役割を果たしたのと同じだと思います。
スレイマン1世は、1520年に26歳でスルタンに即位します。オスマン帝国では珍しく、後継者を巡る血みどろの争いなしに、彼は平和的にオスマン帝国の独裁者となり、その帝国は、すでに彼の祖先たちにより三大陸にまたがる大帝国に発展していました。そして彼が即位する前年の1519年に、ハプスブルク家のカールが、神聖ローマ皇帝カール5世として即位し、オスマン帝国の拡大に抵抗します。カール5世は、内部で宗教改革に苦しめられていたこともあって、スレイマン1世には押され気味でしたが、それでも何とか耐えることができたのは、彼がスペイン国王として新大陸の富を手に入れたからです。新しい時代が始まりつつありました。新大陸からの富はスペインをインフレに陥れましたが、同じくオスマン帝国もインフレに陥れ、それが帝国の財政難を引き起こしたのです。

スレイマン1世は、早くも1521年に、彼の祖先たちが果たせなかったハンガリーの征服に乗り出します。ハンガリーはハプスブルク家の保護下にあるため、スレイマン1世による侵攻はカール5世への挑戦でした。1522年にはロドス島を征服して東地中海の制海権を確保し、1525年にはエジプトで起きていた反乱を制圧して、帝国の支配を固めます。そして、この第1シリーズの48回分が扱っているのはここまでで、後はハレムでの女の闘争が描かれています。さしずめ大奥物語です。なお、スレイマンというのは旧約聖書のソロモンのトルコ語であり、彼の側近イブラヒムというのはアブラハムのことです。旧約聖書はユダヤ教の聖典であるだけでなく、キリスト教・イスラーム教の聖典でもあることが、よく分かります。
 さて、ドラマはウクライナのある村が奴隷狩りの集団に襲われたところから始まります。この時、ギリシア正教の司祭の娘だったアレクサンドラは捕らえられ、奴隷としてオスマン帝国の宮廷に売られ、ハレムに入れられます。はじめ彼女は反抗的でしたが、やがてここから出ることは不可能であること、スルタンの寵愛を受け、子を産めば宮殿を支配できることを知ります。まず、自らイスラーム教に改宗し、名前をトルコ風にヒュッレムと改め、ライバルを次々と蹴落とし、スルタンの子を産み、壮絶な女の戦いを開始します。そのため彼女は「ロシアの魔女(ロクセラーナ)」とも呼ばれました。彼女については、当時からヨーロッパでも有名で、彼女の行動についてはゴシップネタとして噂されました。
 結局彼女は六人の子供を産みました。オスマン帝国では、ハレムの女性は一人子供を産むと身を引く慣例があったようですが、彼女は異例でした。さらに美人の女性をハレムから追放して事実上一夫一婦制にし、さらに奴隷身分から解放されてスルタンの生活区域で生活しましたので、事実上正夫人でした。彼女について、あるイタリア人は次のようにかたったそうです。「スレイマンのロクゼラナに寄せる愛情と信頼の深さは、すべての臣民があきれかえるほどで、スレイマンは魔法にかかったとさえ言われている」(ウイキペディア)。結局、1558年に彼女が死にますが、後継者を巡る血みどろの戦いと宮廷で母后が実権をにぎるという悪しき慣習が残ることになりました。
 この間スレイマン1世は、ウィーンを包囲し、プレヴェザの海戦に勝利して地中海の制海権を掌握し、さらに東方での支配も確立し、国内体制も整備しました。宿敵カール5世は、1556年に引退し、もはやスレイマン1世に対抗できる勢力はありませんでした。しかし、時代は地中海から大西洋の時代に移りつつあり、それがオスマン帝国を空洞化させていくことになります。そしてスレイマン1世は1566年、死去します。

2018年10月24日水曜日

池田晶子を読んで


 麻実は大量の本を読んでいました。いつも図書館から大量の本を借り、さらに自分でも買っていました。麻実がもっていた本の種類は多岐にわたり、哲学・文学・ミステリーなど、さまざまです。私は麻実が残したこれらの本を読んでみて、彼女がどのようなことを考えていたかを掘り起こしてみたいと思います。
 私と麻実には大きな違いがあります。まず私は、文学青年だったころには文学や哲学書を多く読みましたが、方角を歴史に変えてから、歴史書以外はほとんど読まなくなりました。哲学は絶対的なものを求めますが、歴史学はあらゆる事象を歴史の俎上に乗せ、相対化してしまいます。また麻実は本を一字一句熟読するタイプでしたが、私は乱読するタイプでしたので、私は決して真に麻実を理解することはできないと思われますが、それでも少しでも彼女に近づきたいと思い、こうした作業を開始しました。
 麻実は自分の内面を語ることはほとんどありませんでしたが、かなり前から哲学に関心を抱いていたようです。中学1年の頃、麻実は私に「哲学って何?」と尋ねました。この問いに私がどのように答えたのか記憶していませんが、この問いについて私は今でも答えられないので、大した回答はしていないと思います。その後麻実は、時々哲学書を読んだり、忘れた頃に私に哲学的な議論を吹っかけてきましたが、彼女と哲学との関係について私が知っているのは、その程度です。

 麻実の死後、彼女の本の中から、池田晶子の本を4冊発見しました。麻実の本はあちこちに雑然と置かれており、それらの中でたまたまこれらの4冊を発見したというだけで、他にもあるかも知れませんが、とりあえずこの4冊を読んでみました。
池田晶子
 「人生のほんとう」 トランスビュー 2007
 「暮らしの哲学」 毎日新聞社 2007
 「魂とは何か さて死んだのは誰なのか」 トランスビュー 2009
 「君自身に還れ 知と信を巡る対話」大峯 顕との対話 本願寺出版社 2007
 後に「ロゴスに訊け」(2002年、角川書店)、「私とは何か」(2009年、講談社)を発見しましたが、もう読みませんでした。
 著者は、哲学を難しい言葉を使わず語ることを得意とし、それによって多くの人々の支持を得ました。彼女は存在というものを問い続けたように思われ、麻実も時々私に「存在」について問いかけたことがありましたが、それは著者の影響によるものかもしれません。著者は晩年には仏教に傾倒していったようで、その点を含めて、私は著者の考え方に大枠では共感しています。ただ三冊目を読み始めたあたりから少し飽きてきて、飛ばし読みになってしまいました。最近は、読書においても根気がなくなりました。
 どの本だったか忘れましたが、著者は14歳のころから哲学的な問題を考え始め、かなり成長してから、ある時ふとしたかとから、自分の周りの人たちの多くが、自分と同じように哲学的な問題を考えているわけではない、ということに気づいて衝撃を受けたそうです。そして以前に麻実も同じような疑問を私に投げかけたことがありますが、今から思うと、それは彼女の著書の影響だったかもしれません。
 実は私も過去に同じ様な経験をしたことがあります。ある時、自分のような考え方をする人は、むしろ例外的などということに気づきました。著者は、こうしたことを考えない人々を、幾分軽蔑的に見ているように思われますが、私は違います。体育を得意とする人々がいれば、思索を得意とする人々もおり、どちらが優れているわけでもない、と私は思います。第一、私の思索など、人に語れる程のものではありません。ただ、この点において私は、娘との数少ない接点をもつことができました。

 ここで取り上げた四冊の本は、いずれも2007年から2009年にかけて出版され、この間の2007年に著者池田晶子は肝臓癌で、46歳の若さで死亡します。したがってこれらの本を執筆している時、彼女は自分の死が近いことを知っていたと思われますが、彼女は死ということに特別の意味を感じていなかったようです。そして娘の麻実も、この本を読んで、自分の死について考えたに違いありません。彼女は、2018年に36歳で死亡ました。
その後、麻実の本箱を整理していたら、さらにたくさんの池田晶子の著書が発見されました。
「メタフィジカル・パンチ 形而上より愛をこめて」「2001年哲学の旅」
14歳からの哲学 考えるための教科書」「死とは」「リマーク 19972007
「帰ってきたソクラテス」「さよならソクラテス」「人生は愉快だ」「考える日々」
「人間自身 考えることに終わりなく」「魂を考える」「事象そのものへ!
「睥睨するヘーゲル」など
 もはやこれらの本をすべて読む気力は、私にはありません。麻実は、よほど池田晶子に心酔していたようですが、麻実の初期の小説に見られる哲学的思弁は、池田晶子とはかなり異なっているように思えます。














(この絵は本文とは関係ありません。麻実が描いた不思議な絵です。)

2018年10月20日土曜日

映画「ドン・ジュアン」を観て


1998年にスペイン/フランス/ドイツによって制作された映画で、1665年に上演されたモリエールの喜劇「ドン・ジュアン」を映画化したものです。モリエールについては、このブログの「映画「モリエール 恋こそ喜劇」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_31.html)を参照して下さい。
 ドン・ジュアンとはスペイン語でドン・ファンであり、彼は17世紀スペインの伝説上の放蕩児として知られ、プレイボーイの代名詞として使用される人物です。モリエールは、この放蕩児を題材として、当時の教会を痛烈に批判します。ドン・ジュアンは女性を口説き落とすことに生甲斐を感じ、多くの女性と交わり、その結果多くの人を傷つけ苦しめても、何の罪悪感も抱きませんでした。彼は神も悪魔も信じず、教会の偽善を批判します。彼にとって、悪党として非難されて生きるか、それとも偽善者として称賛されて生きるかという問題であり、彼によれば偽善者こそが正真正銘の悪党ですが、その彼がやがて偽善者として生きることを決意します。しかし、死の直前に、彼は自分の行くべき道を見いだせないまま死んでいきます。「ドン・ジュアン」の物語は、喜劇というより悲劇というべきでしょう。
 「ドン・ジョアン」の内容はあまりに過激であり、民衆には大人気でしたが教会によって上演が禁止され、本作が完全な形で上演されるのは、これより200年後のことになります。「ドン・ジョアン」が上演されてから20年ほど後の1682年、江戸時代初期の日本で井原西鶴が「好色一代男」を発表し、一人の男性(世之介)の好色で自由気ままな人生を描き出しました。「好色一代男」は、庶民社会の幕開けを示すものでしたが、「ドン・ジョアン」は信仰が動揺する中で、自我を求める近代人の苦悩を示しているように思います。

2018年10月17日水曜日

おわりに(麻実)


 この一か月近く、毎日ブログを更新して麻実の原稿を公開してきましたが、それは私にとっては大変つらい作業でした。私の望みはただ一つです。かつて大塚麻実という女性が存在したことの証を、残したいということでした。このブログで公表した内容がすべてではありませんが、これによって一定の目的は達成されたと思いますので、麻実に関するブログは一旦ここで終了し、従来のブログに復帰したいと思います。












2018年10月15日月曜日

詩(7)(麻実)


光は何時も脇役だ。
 「何か」を照らす為に在る。
僕は光になって、
君を照らしたい。

逃げるのは疲れる。
嫌いな物から逃げ切る為に
全力を注ぐだなんて馬鹿ら
しい。
嫌いな物を好きになりさえ
すれば、
逃げる必要は無くなる。
逃げ切る努力をするか、
受け入れる努力をするか。
得る物が在るのは、
後者だけ。
鬼ごっこは、終わりだよ。

君の嫌いな君にだけ、
僕は心奪われる。

ああ、喉が渇いた。
水が欲しい。
無いなら、君の涙でも良い。

僕は君に飲み込まれたし

良い日でも特別な日でもな
かったけれど、
ありがとうを言いたい気分
でした。

君の言葉に傷付かない為の
鎧よりも、
傷付いた事を君に悟られな
い為の
笑顔の仮面を手に入れたい。

待たなくても、
探さなくても、
未来は勝手にやって来る。
来なくて良いよ。

もしも僕が、
大気の重さに堪え切れずに
砕け散ってしまったら、
破片を集めて繋ぎ合わせて。
僕は、まだ生きたい。

僕は弱過ぎて泣けない。

「私は弱くて構わない。
誰にも勝てなくたって良

い」。
強がりではなく、諦めでも
なく、
言い切る君の強さが好きだ。

魂と魂が直接触れ合ってし
まうと
余りにも痛過ぎるから、
此の肉体が存在してる。

君を傷付ける事が出来るく
らい、
君にとっての大きな存在に
なりたい。
君を傷付けてみたい。

君と僕にだけ通じる言葉で
話そう。
君を好きだと叫ぶ為に、
周りの目を気にする必要な
んて無い。
僕の言葉は君にだけ届く。
君にだけ届け。

全てが大吉だけのおみくじ
のような、
そんな優しさだけの神様は
要らない。
叶わない夢を、
叶うかもしれない、
なんて言わなくていい。
叶わない夢は、
叶わない、
と言えばいい。
そして、
それでも諦め切れずに歌い
続ける僕を、
馬鹿な奴だ、
と笑いながら見守って。
欲しいのは、
そういう神様。

生き急ぐ君の歩みを止める
野に咲く一輪の花に、
僕はなりたい。

信じて欲しい
信じてみたい

此処で追えない夢ならば、
何処へ行こうと叶わない。



2018年10月14日日曜日

詩(6)(麻実)


ともだち
ともだちなんていないんだ
それはたぶん嘘

ねむり不足
寝られなくて足らなくなった
朝 起き出せた奇跡
昼間 頭はぼんやり
午後 落ちそうになる
歩く道 おふとんが恋しい

まよい
生活する日々は此凡て
取捨の為の選択
あれやこれやの長所短所
並びに好みと時々の気分
なあにどれを掴んだとて
大して違いはない
目を瞑ってぱっと取ったものと
熟考熟慮の上で取ったものとが
同じであるやもしれじ
即断即決が優れているとも思わねど
優柔不断に結論を先延ばしするも
よろしきとは思わず
是と決めたならせめて
あっちがよかったなどと
思うことのなきように
自分自身を鍛えておきたいものだなあと
心中密かに誓う次第

雨だれ
ビルの大きな窓に台風が絵を描く
別向きの窓はまだ白いキャンパス
狂気のように叩き付ける雨粒が
永劫と刹那を結びつける


背中丸めて煙草に火を
点けてポッケに手を突っ込む
ホームの端で雪を見上げて
吐息と一緒に煙を吐く
白い息白い煙白い雪
頬もたぶん白いのだろう
行くべき未来も白いのだろう
ただ足元の靴だけが
染まることなく黒いまま
踏みしめる一一歩一歩は黒いのだろう

個人
僕の見ている世界は
かなしくて無機質
掴んだと思うそばから
こぼれ落ちてしまう
刃の上を渡る独楽は回る
何もかもが消え失せてしまう
塵に還るのが習いなら
このかなしみはなんだろう
このむなしさはなんだろう

漆黒
月は空に穿った白い点
星は天鵞絨に蒔いた硝子
空気は透明な棘
私はありふれた生き物

(この写真と本文は関係ありません)

2018年10月13日土曜日

詩(5)(麻実)

Twelve
残す物
残る物
残ってしまう物
残らない物

忘れないで
忘れてしまう
忘れたくない
忘れたい

あきあお
黒い土に泣き伏す
別離を惜しみ恵みに感謝して
乾いてからっぽの空見上げて
声を嗄らして唄う
辿り着けない境地

ある日、海に
海へ行こう
潮を嗅ぎに
波を聞きに
電車に揺られて
浜辺を歩こう
いろいろ見よう
生きているもの
死んでいるもの
海へ行こう
ただ行くだけ
ただ歩くだけ
そういうことが時々必要

あるき、つづける
歩き続ける
歩き続ける

エキストラ
誰かの人生の私は一人のエキストラ
使われるばかりで弁当すら出ないけど
それでもちょっと映れたら
それでいいかなと思ってる



ガイドブック
目安にはなるけれど
すべて載っているわけじゃない
あればあったでなければないで
そんな程度のもの
君の人生には必要かい?

クレシェンド
ますます君が好きになる
それは逃れられないものらしい
私の中に自然が用意してくれた仕組みらしい
ますます君が大切になる
すべてことが君を軸に進んでいく
私の中身は君でいっぱいになる
優美な曲線が認識を支配する
それはおそらく一つの円環
調和と万能とやすらぎ
ますます私は私になる
曖昧になりつつ明瞭になる輪郭
切なく紡ぐ小さな言葉

スリッパ
スリッパ履いて
ぱたぱた歩く
なんてしあわせ
ぱたぱた歩く
ぱたぱた歩く
遠くから打ち寄せる
懐かしいような
切ないような
スリッパ履いて
ぱたぱた歩く
思い出せそうで
思い出せないもどかしさ
ぱたぱたぱたぱた
なんてしあわせ

(この写真と本文は関係ありません)

2018年10月12日金曜日

詩(4)(麻実)


+++腕枕[短詩]卜++
眠るあなたの顔を見つめていたら
何時の間にか眠っていたの
抱き締められた感触さえも
気がつかないまま
そのまま眠っていたの

月明りに少しだけ光る
頬の産毛を見ていたと思ったのに
気がついたら朝日を身体全体に浴びて
あなたに抱かれていたの

幸せのカタチは人それぞれ
胸がキュンとする恋はもう終ったけれど
柔らかなじゅうたんみたいな優しさが
あなたの中から私に
真っ直ぐに届いているようで
頭の下のあなたの腕が
私を愛していると伝えてくれているようで。

ゆるゆると
ゆるゆると
流れる雲に身を任せ
キミを想えば目頭から雨

ゆるゆると
記憶の底を辿り付き
見つけたキミに答えはありき

ゆるゆると
言葉の糸を見つけ逝く
キミヨタレゾ?と笑うコホトギ

君のココロ
わざと遠くにあるものを
掴めないと笑う
小憎らしい口を訊いて
敵が増えたと笑う
諦めたと言うのなら
どうして物欲しそうにするの

タイムリミット
時計を見たくない
君の門限が過ぎてしまうから
一緒にいる時間を少しだけでも
伸ばしたいから

ローズカラー
何も残らない毎日
君の残す残り匂よりも薄い現実

冷たきもの
君と僕の間に
吹いた一陣の冷たきものは
君の気持ちと同じ温度だったのか
サヨナラと言い出せなくて
君が俯く
それがまた辛くて
僕は黙る

アナログ
君に逢いたくて
お小遣いの残りを数える
行き帰りの電車代、確保
一緒に飲むジュース代、確保

呼んで
泣きたくなるほど
あなたが好きだと
本当に気がついたのは
あなたが口ずさんだ
柔らかい私の名前。


(この写真と本文は関係ありません)