2018年10月3日水曜日

小説(11) 夏祭り(麻実)


 夏祭りがやってくる。最初の記憶には必ず、ゆい姉ちゃんがいて、お祭りの日、たった一日だけだったけれど、僕の静かで退屈な湖に綺麗な傷だらけの小石を投げ、その波紋は今でもずっと鳴りやまないまま。
 屋台を順繰りにすり抜けながら、お小遣いがたくさんあるわけではない僕らには、選べる遊びだって少なかった。だけれども、少ないと感じた記憶はどこにもない。まずゆい姉ちゃんはわたがしを買ってきて、二人で半分こずつ食べた。通り過ぎる大人、お店の賑わい。それを全部覆い隠すように、受け止めるように緑が連なり、僕らは緑のはしっこで、特等席を作り、わたがしをゆっくり食べた。美味しくて甘くて楽しくて、こんなにたくさん食べられないと思いながらあっという間に半分過ぎて、べちょべちょな手を洗いに僕は公園の水飲み場まで行き、引き返してきたとき、ゆい姉ちゃんは、ちょこんと奉られているお地蔵様にわたがしを手渡していた。僕ははじめそれを見たとき、お地蔵様がツリーになってると思った。「お地蔵さまがツリーになってるよ」と口に出してみると「お地蔵様にクリスマスのお祝いを教えてあげてるの、それにね、お地蔵様は閻魔様と同じだから、もう怖いことはしないでくださいってお願いしてるの」僕は何を言ってってるのか意味が全然分からなかったけれど、お地蔵様ツリーはなんだか楽しくて残りのわたがしを全部、くっつけた。そして手を合わせてお願いをする、もう何か何だか分からない物体と化した神様に。家族と友達とずっと一緒にいられますように。ゆい姉ちゃんを守れるくらい強くかっこよくなれますように。僕の願いは秘密、と言ったけれどたいした秘密なんてなかったし、当たり前のお願いごとが何だか恥ずかしくて大したことがあるように振る舞った。それからゆい姉ちゃんがつっと立ち上がって、弾けるような音がする屋台からポップコーンをもらってきた。少ない数だったけど、ゆい姉ちゃんは楽しそうに筒に顔を突っ込み「犬の真似」と言ってもしゃもしゃ食べた。残りの半分は僕に、と手渡した筒からは、甘い大人の匂いがした。よく見るとポップコーンはてかてかに濡れて、甘い香りを漂わせる乾燥した花のように見えた。僕は「これじゃあリップコーンだねっつて笑うと、しばしきょとんしたあとゆい姉ちゃんも「リップコーンー! リップコーン」と言ってはしゃいだ。楽しくて二人でリップコーンを宇宙へと蒔いた。乾いたこの花が、この星が、いつか輝けますようにと、大人に隠れて二人で、二人だけで、種を蒔いた。天にも屈くお祈りをしながら。
 しばらくして歩くと、僕とゆい姉ちゃんの前にピエロ風のおじさんが現れて、肝試しという遊びがあるよって誘ってくれた。僕は、肝試しと書かれた看板の出入り口で闘志を燃やした。少なくとも僕は、怖がったりせず、つらっとした顔でずっといたら大人が感心するだろうと思ってワクワクした。でもゆい姉ちゃんは嫌がった。幽霊が出るもん、怖い、バチが当たるよ、を繰り返していた。僕は大丈夫だよ、こんなのカラクリ屋敷だよ、とお店の人の前で大げさにかっこつけたけれど、結局入ることはできなかった。そのかわり、僕はゆい姉ちゃんにプレゼントがあるといって、お祭りの最大の奥、お寺さんに誘った。
 鬱蒼とした闇に溶け込みながらいつくもの提灯に照らされて、昼間の百倍くらいの威厳を放った、お寺さん。土足禁止を破り、廊下を線香花火をたくさんもって電灯替わりにしてぐるぐる廻った。僕はずっと怯えるゆい姉ちゃんに、人丈夫だよ、お化けなんているわけないよ、そういうのはただのカラクリ、怖くなるように大人が考えたのと、自分でも分かっているのか分かってないのか判別のつかない理屈を言い続け、本堂にずいっと入り、怖い顔をした神様にお祈りをした。「怖い顔してるね、怒ってるのかな」とゆい姉ちゃん。「ゆい姉ちゃんが怖がるようなことする神様は僕はいらないよ、そう思わない?」ゆい姉ちゃんはぎゅっと鞄を抱きしめた。それからゆっくり本当にゆっくりと僕のお祈りの真似をして、目を閉じた。どれくらい時間がたったか、僕たちは眠っていたみたいだ。静寂の中、目を覚ますと、お祭りはとっく終わっていて、本堂の中で、僕とゆい姉ちゃん二人。お腹がすいたので一旦道に出ると誰かが忘れて行ったお菓子の食べかけや飲み物がたくさんあった。それをどっちがたくさん早く見つけられるか競争しようと二人で、大人に見つからないように二人で、宝探しをした。本堂に戻ると夜の生暖かい空気に混ざって涼しい風が吹いていた。これはお供え物にしようね、と食べ切れなったお菓子やペットボトルを神様の足元に置いた。ふと見上げた神様はなんだか優しそうに笑っているように見えた。「カラクリ屋敷の神様は優しいね」とほっとしたような顔でゆい姉ちゃんが言った。本堂から見える家々や森は僕らの手の平に上にあるようで、何でもできるようで、何故だか僕はスーパーヒーローに少しだけなれた気がしたんだ。
   ☆     ☆     ☆
 今ではもう、うっとおしさしか感じない蝉の鳴き声で目が覚めた。走馬灯のように駆け巡った今の夢は何だったんだろう。ひどく懐かしい気持ちが胸をしめつける。そして理山はすぐに分かった。町内一番の夏祭りが今日から始まる、ただそれだけのことだ。
 あれから十年近く経ち、分かったことがある。ゆい姉ちゃんは親戚の子で、またまお盆休みに遊びに来ていたこと。それから、彼女の母がクリスチャンで、年中ある行事のうち日本のお祭りは彼女の母に言わせれば「汚らわしいこと」だったらしい。僕は本当に子供で何も知らなくて、お祭りなんて当たり前みたいにあって、それはそう疑いようもなく当たり前で、祈る神が八百万であろうが、一神教であろうが、概念としてただの「神様」という意味では同じではないのかと。しかし、それは僕の都合で、彼女の都合ではなかったことが間もなくしれた。ゆい姉ちゃんは親戚から疎遠になり、遊びに来ることもなくなった。両親が離婚し、母親に引き耿られたということは知った。僕は潰れそうになるほどの寂しい気持ちを抱えながら、無力感と葛藤を繰り返して、あるいは自然な流れで忘れて行きながら、二十歳を超えた。彼女を守れるくらい強くなりたいと祈った僕は、誰かを守ることもできない守られるだけの少年をすごし、ごく普通の大人になった。誰かを助けることができるとか、かっこよくなんて、生きられないし。理想をひきずるほど子供でもないし、暇でもない、ただの平凡な大学生だ。
 それでもゆい姉ちゃんとの再会はあっけなく訪れたのだ。

 いつも通り、遅く大学を出て、どこかに寄るあてもなく帰路についた途中、そこに目についた、夏祭りののろし、屋台、大げさなまでに可愛らしい提灯。
 僕は懐かしさにひっぱられ、ふらっと出店に立ち寄ってみることにした。喧噪の中、様々な食べ物の踊り立つような匂いが僕の五感を出入りした。たちまち、心は子供のようにワクワクと浮き足立っていた。お兄ちゃん、美味しいよ、と店に呼び止められる。そうか、僕はお兄ちゃんなのか、と変な居心地を感じたけれど、それはすぐに過ぎ去ってくれた。呼び止めた店主が雑なのか丁寧なのかもはや素人には分からぬ手つきでイカを焼いていた。僕は至ってシンブルだと思われる、イカの丸焼きを頬張った。口に鼻に広がるイカの甘さ、どう考えたって、そのイカはその辺のスーパーで売っているものと差異はないと感じるのに、高級なレストランに出されるような調理領域では絶対ないくせに、その食べ物は、夏祭の夜に誘われたように、ある特定の絶体感をもって、僕の舌を驚嘆させた。
 突然、僕の名前が誰かの声になって呼ばれてる気がした。振り返ってぐるりを見渡してみたが、何もなかった。
 気のせいだろう。疲れているんだ。
 楽しくとも浮かれようとも、祭りは祭り。どんなに目を凝らしてみても、日常なんて落ちているはずがないのだ。帰ってレポートを片付けよう。

 喧噪を抜けようと歩き出した、その時
 「ひさしぶり」
 誰だか知らない人だった。客寄せか? だとしたら死ぬほど同情してあげたくなるような戦略だ。仕方ない。聴こえなかったふりをしてやろう。だが、その人は続けた。
 「覚えてない? ゆい。小っちゃかったころのことだもんね」
 頭の中が真っ自になることを初めて体験した。真っ白というより、謎の光が溢れて思考形態が、はしから真ん中から崩れていくような、一瞬の神業のような。
 「え…? …は? ゆい…? 姉ちゃん? どうして」
 僕はみっともなくも大混乱していた。たとえ、事前に彼女との再開を予期していたとしてもこれ以上の台詞、ボキャブラリーは披露できなかっただろうが、ひどすぎる。
 「近くに来たから、家に寄ってみたの。そしたらまだ大学だって聞いて、時間をつぶそうと思ってぶらぶらしてたら、お祭りでしょ。懐かしくなっちゃって。まさか会えるとは思わなかった。嬉しい。ひとり?」
 まさに興奮を冷めやらぬと言った感じで一気に畳みかけるようにしゃべった。
ゆい姉ちゃんって、こんなお喋りだったけ?
 「う、ん。僕もなんとなく寄ってみただけ。ほんと、ビックリした」
 僕に彼女なんて上等なものがいるわけがない。ついでに聞いただけだろうが、僕は一瞬、本当に、心底落ち込んだ。
 ゆい姉ちゃんはにこにこ笑いながら、ここにくるまでのあれこれを話してくれた。
 ゆい姉ちゃんの隣には、線が細く、でも健康そうな、柔和な男性が執事のように、見守るように、付き添っていた。
 詳しいことは知らないが、ゆい姉ちゃんが数年前に結婚したことは、耳にしていた。たぶん、というか、絶対、両親が普段の話題の提供として、それこそテーブルに料理を並べるような気軽さで話していたのだ。結婚式は僕が知ったときには、終わっていたみたいだ。寂しさは感じなかった。自分でも驚くほど覚めた感想を抱いたのを覚えている。
 ゆい姉ちゃんが、彼を僕に、僕を彼に、朗らかに紹介した。
 いとこ、という簡潔極まれる答えが彼女の口から出た。確かにそのセリフに。一語一句間違いはどこにも見合らないが、その響きの固さに僕はふいに傷ついた。
 ゆいお姉ちゃんは、現実的に考えても、あのころの彼女を構成している物質はほとんど入れ替わっている。違う人間なんだということくらいは分かる。だけど、それ以上に、彼女は、僕の知らない彼女だった。リップコーンもわたがしツリーも、二人だけのカラクリ屋敷も、もう空想の中にしか存在しない、儚くて冷たい成長の機能によって取り残されているだけなのだ。それは、でも、お互い様か。
 四つ年上のゆい姉ちゃんは信じられないくらい、思い出のおもかげもなく、ごく
ごく普通の大人の女性になっていた。
 「き、きれいになったね」
 僕の精一杯のひきつったお世辞が通じらしい、僕の顔を覗き込むようにしてゆい姉ちゃんは意地悪そうに言った。
 「そっちは、不愛想になったね」
……! 人が気にしていることをさらっと言うな。今更治しようもないからどうでもいいけど。
一緒にいる旦那であるらしい男性は、やわやわとした印象で、可もなく不可もなくと言った感じだ。
 それでも僕よりよっぽど、はるかに気か利いて優しく思いやりに満ちているのは歴然としていた。自分はほぼ無関係だと言うのに、僕に親愛の態度で触れてきた。今日は晴れてよかったですね、初めて来ましたけど良いところで、お祭りは賑やかで楽しいですね、という具合に。
 「はあ、そうっすね」
 僕はうっかり普段通りの受け答えをしてしまった。
 我ながら、感じ悪いなぁと思ったけれど、それ以上に彼に特別な関心が持てな
いので、テンションが上がらない。年下ゆえの甘えなのも分かってる。甘えているのだ。この人に、この予期せぬ状況に。
 彼は仏のような気を利かせて、知らない人がいると話しづらいよね、ごめんね、ビールでも飲んでこようかな、と言って場をあとにした。悪いことをした。
 僕は、いきなりゆい姉ちゃんと二人きり。気まずい、というか、整理ができない。これは現実か? さっきの光の続きで僕は意識不明で倒れて、こんな奇想天外な夢を見てるんじゃないだろうか。しかし、どれだけ頭を巡らせても、網膜に張りつく景色は変わらず、ぬるい湿った風の感触は生々しくて、僕は、何かを言わなくてはと思い至った。
 「彼、いい人だね」
 僕の渾身の気を利かせた台詞は、あっさり無視され、ゆい姉ちゃんは屋台と緑と人に混ざるように、歩き出した。
 「せっかくだから見てまわろう。いろいろ思い出話もしたいしね」
 にっこりと笑顔で振りむいたゆい姉ちゃんを追いかけるように、僕も歩き出した。
 ぎゅっと胸の奥が熱くなった。

 しばらくすると僕は平静さを取り戻していた。と言っても、ゆい姉ちゃんの軽やかな話しぶりに、懐かしさに助けられたのだけれど。
 「大学はどう? どんなこと勉強してるの?」
 「うん、まあまあ。専攻は数学」
 「へえ、すごいじゃん、頭いいんだね」
 「別にそんなことないよ、数式なんて組み合わせだし、法則が決まってるからね、面白いよ」
 「じゃあ、将来は研究者になるの?」
 「さすがにそれは無理。そんな才能ないし、活かせても教師になるくらいだと思うよ」
 「教師かぁ、なんか不思議な感じ」
 「そっちこそ結婚おめでとう。呼んでくれればよかったのに」
 「うん、なんか、ね」
 言いよどんだ彼女は、そのまま口をつぐんだ。
 会話が行き詰ってしまった。
 どうしよう。何か、なんでもいいからしゃべったほうがいいか。…話題。えーっと。できれば面白いこと、意義のあることを言ったほうがいいよな。気の利いたこと。うぅ……。
 さんざん頸を振り絞っても僕の脳細胞は少しも閃いてくれない。変わりに必要のない数式の羅列が宙を漂い始めた。
 まあ、仕方ないか。自分だって子供のころとはまるで違うし、先どころか現在のことだってままならないし、中途半端なんだよな。言っといて何だか、教師になるつもりもない。なれるとも思えない。このまま漫然と大人を生きていくし、別にたいしたことのない人生だって不足はないのだし。そういうものだし。
 夜が静かに編まれていく。方角不明の場所から流行りの耳慣れた曲が太鼓の音頭で衣装替えをしていた。心なしか人々の活気の熱が上昇している。子供のはしゃぐ声が耳に残る。
 ゆい姉ちゃんはお祭りの匂いに、色に、溶けていくような透明な声で、でもくっきりとした音で沈黙を破った。
「簡単に会っちゃいけない気がしたんだ、私の中で…だったから」
「?」
 そう言って取り出しだのは、子供のころ、僕が本堂にたくさん集めたペットボトルについていた当時人気の戦隊もののキーホルダーだった。気まずそうに、促すように、僕に手渡した。
 僕はボロボロで決っしてかっこいいなんて言えないヒーローを受け取った。
かつて何かから助けたかったゆい姉ちゃんから。
 「あ、あげるわけじゃないよ」
 「う、うん。ずっと持ってたの?」
 返事は帰ってこなかったけれど、僕の中で、どうしようもないくらいの気持ちが胸を突き上げた。同時に強い安堵が広がった。蓋をしていた思いがこみ上げてきそうで、かわりに汗をぬぐうしぐさをした。
 「今度、就職祝いしよう。あ、その前に卒業祝いか。家においでよ」
 つらつらと無邪気にしゃべるゆい姉ちゃんは、僕の二歩も三歩も、ずっとずっと前を歩いていた。
 言葉が、気持ちから零れ落ちないように、抱きしめるように声にした。
 「ゆい姉ちゃん、ありがとう」
 気が付くと太陽はぜんぶどこかに隠れてしまって夜が呑み込んだ、この夏祭りの舞台で、僕はゆい姉ちゃんと、二人だけで創った神様へのお祈りが、音を立てて花開いた瞬間を確かに闘いた気がした。














(この写真は、文章の内容とは関係ありません。)




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