2018年10月4日木曜日

小説(12-1) ラビリンスドール(1)(麻実)


 他愛もない宴話だと思っていた。誰かと寄り添うことで、得られる真の安らぎなどということは。戯言でも、浮世話でも、そのどちらでも、違ったんだ。世の中に生きて在るものなのだ。一本勝負で、心ひとつで、誰かを愛することが。
 映し出される蒼い空が、祝福するように、哀しみを、惜しんでいた。

 午前零時過ぎ。全身に蓄積する疲労を叩き潰すように、あきらはヒールで地面を力強く踏みしめながら歩く。一直線に進む先に、あきらのアパートが見える。この瞬間。ドアを開ける時、ほろっと心がほぐされる。
 「おかえりなさい」
 出迎えてくれたのは、恋人の翔だった。
 あきらの破顔を認めたのか、翔は柔らかい笑顔を見せてくれた。
 「今日も遅かったね。体調は大丈夫?」
 翔の何気ない気遣いが嬉しい。
 「大丈夫。ご飯、もう食べちゃった? コンビニで一応、弁当を買ってきたんだけど」
 あきらは見なれたビニール袋をダイニングテーブルに置いた。
 「食べたけど、夜食もいいかな。あ、お茶いれるね」
 「ありがとう」
 レンジで温めすぎた弁当を挟み、暖かいほうじ茶、あきらにとっての夕食は、とても豪華とはいえないものの、それでもお腹を満たせられれば十分たった。それに、翔がいてくれることがなによりの慰めになる。
 会社員と言っても、大手企業に勉めているから、資格取得の勉強会やら飲み会の付き合い、急な出張にサービス残業、有給なんてあってないも同然、要領の悪い上司の尻拭い、後輩の面倒まで、忙しさの種を言い出したらキリがない。
 煩事を洗い流すように、あきらは辛口のビールを喉の奥に流し込んだ。
「聞いてよ。後輩が自分のミスのせいで残業確定になったのに、ああ、ミスはいいのよ、それを報告しないの! その場で言ってよって感じ。そのせいでみんな遅くまで残る「ハメなったのに、本人はあくびしながらフリスク食べてんの! 誰のせいだと思ってるのよ」
 「そっか、それは災難だったね」
 こんな仕事の愚痴も、翔は嫌な顔ひとつせず聴いてくれる。
 あきらも二十八歳、友人が結婚ラッシュ、ご祝儀で痛みかけた財布を見つめながら、そろそろ自分もと思うのだが、今までの辛い社会人経験を無為にする選択を選べるような性格ではなかった。彼氏は適度にいたが、結婚までには至らなかった。男女同権と世論では言うが、実際は違う。男は女よりどこかしら優れていることで、安心していたいのだ。それは単なる見栄とかではなく、生存問題として本能的に、一般には、強い女は嫌がられる。だから、仕事を優先するあきらの失恋エピソードはだいたい同じ理由だ。家庭的な女性がいい、それが男の本音。もちろん、あきらにだって弱い部分はたくさんあるが、見せ方が分からない。損をしていると思う。分かっていても女だからという理由で舐められたくない。その気持ちが先行して、口調はキツめになるし、かっちりとしたスタイルを好みがち。あきらを前に腰が引けてない男はほとんどいないと言っていい。それについてはとっくに腹をくくっている。仕事もロクに出来ない馬鹿女だと思われるより全然マシだ。誰よりも信頼と責任感を重んじているし、自分の事は自分でやってきた。それが相手によっては威圧的に映ることも分かっているし、自分の考えを押し付ける癖も治らない。それでも情の深さなら誰にも負けない自信はある。だけれど結末はいつも同じ。性格が簡単に変えられるのなら苦労はしない。
 あきらのほうも、結婚に対して、後ろ向きだったことも原因だったのかもしれない。それでモメたことだって数えきれないくらい。結婚をする、意味、メリットと言えるものが、今一つ、分からない。この儀式の先に、制度を挟んだ先に、変わっていくものが上手く想像できない。それなら、今のまま、自由に愛したり失ったりしていて、誰が何が困るというのだろう。それでも焦る気持ちはある。
 心のどこかで変わらないでいたい、変化がもたらす何かを迎え入れる用意が出来ていないし、それには恐ろしい程の時問がいるような気がするのだった。つまり結婚は「妥協」という意味にすり替わるのだ。
 そうして、恋愛することに疲れ、ひとりのほうが楽だ、と思い始めていた、その覚悟もしていた、翔に出会うまでは。
 翔との出会いは、話すのも憚れるほど、ありきたり。知人とその友人と、深夜遅くまで飲み歩いていたあきらたちは、酔っぱらいが過ぎたのか、学生のノリで、「今から出てこられるやつ!」と言って、交通機関が眠っているのに、車通りの悪い居酒屋でふざけて片っ端から電話やメールを入れたら、本当に来た人がいた。それが翔だった。
 翔は食べ終えたお弁当を女の子のような仕草で綺麗に片付け、お茶のおかわりも率先して入れてくれてる。
 「お風呂沸かしておくね。今日はラベンダーだから」
 可愛らしいことを言う。正直、アロマに関しては無知だが、翔の言動ひとつひとつが身にしみるように嬉しい。
 家事が得意ではないあきらに文句のひとつもない、むしろ労って支えてくれる。あきらの弱さを分かってくれる事が信じられないくらい嬉しい。翔は本当に優しくて良い子なのだ。
 結婚するなら翔とがいい。それに翔は、本職がカメラマンで契約社員だから、いつまでも保障がきくとは思えない。ひとりにして、大丈夫なのか心配なのもある。だからと言って翔の仕事にまで口を出す気はない。本人がしたいことだから、させてあげたい。
 行くあてのない、野良猫を拾ったようで、可愛くて仕方なかった、翔との暮らしは一年と少し過ぎようとしていた。
 経済的なことは余裕がある私か、支えてあげればいいだけのことだ。
 深夜帯のバラエティ番組を観つつ、ひとしきり団らんも終え、浴室に向かうあきらに、翔は寂しそうに微笑む。
 その笑顔に、あきらは、胸が締め付けられる。翔を守ってあげたい。できることはすべてしてあげているつもりだ。足りないのなら言ってくれればいい。翔のその表情の裏側にある、寂しさに繋がる感情が分からなくて少し不安になる。かまってもらえない子供みたいな翔を愛しく思い、あきらはわざと明るい声で明るい話題を提供した。
 同しベットにしようね、とわざわざダブルを注文した寝室で、一緒に寝る。会えない時間も多いから、一人でいる時は、出来る限り一緒に過ごしたい。翔の寂しさも少しは解消されるといいと思ったからだ。
 夜中、目を覚ますと、隣で寝ているはずの翔がいない。起き上かって、名前を呼ぶ。しんとした静けさが響く。あきらの心を、氷のような気配が撫でる。たまらず、寝室を出て、アパート中をすみずみまで探す。リビング、キッチン、トイレ、翔のための部屋、ベランダ、浴室、どこにもいない。
 またか。
 あきらは浅いためいきをつく。
 今どこで何をしているのか問いただしたい気持ちになった。だけどそれだけはしてはいけない気がする。強い発言も、自分を押し通すこともできるあきらが、こんな時だけ弱気になる。根拠はないけれど、翔との見えない壁とでもいうのか。翔が創っている、殼のようなものを、強引に開け、答えを突きつけるような真似をしたら、翔は私から離れて行ってしまう。そんな気がしてならない。どうにもならない不安を飲みこむ
ようにして我慢する。
 きっと、今の翔に必要なのは、甘えと寛大な心なのだから。

「コンクール、ですか」
 がちゃがちゃと忙しない撮影現場から一転、事務所のゆったりスペースに呼ばれるや否や社長は本題に入ってきた。
 「そう。翔くん、まだ二十三歳でしょ。この事務所小さいし、居心地いいのも分かるけど、なんていうのかな、野望? 勝負してみたい気持ちみたいなものないの? 感性だって悪くないんだし」
 はあ、そうですか、と有り難く社長のお言葉を頂戴しつつも、翔は気が乗らなかった。
 翔の今のところの収入源、あきらの伝手で紹介してもらったこの事務所は、確かに居心地がいい。ファッション雑誌のモデルの写真を撮ることが主な仕事。白分にはとても合っていると感じる。虚構の世界を創り、ひたすら排斥する、ただそれだけの繰り返し。専属モデルたちの機嫌をとるのは、翔にとってはもっとも楽なことだった。本心ではない言葉を吐き、感じてもない優しさを振りまく。ビジネスだと割り切れば、いっそ気分がいい。主導権を握っているのは、いつでもこの俺、という勘違いが楽しめる。コツさえ覚えれば誰でもできるのに。
 反応の薄い翔を見かねて、社長は話題を変えてきた。
 「翔くんってもしかして、ひとりっこ?」
 この手の話は好きじゃなかった。帰ってくる答えの予想がつくからだ。
 翔は静かに機械的に答えた。
 「姉が三人いますね」
 社長は、へえっお姉さんが三人、と驚いた。目元にはだらしなさが隠せないでいる。
 どちらかと言えば平凡、端正な顔立ちでもない翔が女たちにかまわれ続ける理由が分かったみたいだ。
 「じゃあ、それなりに自由に甘やかされて育ったんじゃない? でも長男だから、男としてのプライドが強いほうじゃないかな? そういう面を出し惜しみしないでさ」
 ブライド? そんなものを守る城壁かあるならどんなにマシだろう。
 親切心から言ってくれてるのも、口をかけてくれてるのも、素直に嬉しいことだ。でも、野望だとか、勝負だとか、ピンとこない。翔は小さく気づかれないように唸った。
 「結婚考えてるかどうかは知らないけど、能力もあって、プライベートも安定してて、何がそんなにひっかかるのかな」
 あきらのことは社長にも話してある。というか隠す必要も話す必要もないから、聞かれたままに答えただけだけれど。
 確かに、翔は女に不自由したことがないし、その感覚も分からない。不白由しないことが自由なのか?
 あきらは姉たちに特に似ているから扱いやすい。簡単でこんなに御しやすい人はいない。まあ、ちょっと退屈だけど。でも、どんなに愛し合ってる男女でも、永遠はないらしいから、最初から温度のない恋のほうが適当じゃないかな。何事も望み過ぎなければいいんだ。恋愛も。仕事も。
 俺と言う人間は、何にも本気になれない、愛せない、その方法が分からない、なんて絶望は陳腐すぎて言えない。そんなギャラでもないし、冗談だと笑い飛ばされるのが目に見える。幸せじゃなくても不幸でないならそれでいいよ。実はそうして落胆している自分のほうが好きなんだと頭より先に身体で、自覚してる。別にいいけど。
 帰る途中、右手には紅葉を我先にと楽しむ人々。左手には、クリスマスの彩りに期待を待ち焦がれる人々。そのどちらにも属さず、透明のように歩きぬける。俺はもしかしたら、井リア充に見られてるのかも。それはいいな。どこにもいないってのは気持ちがいい。
 勝手気ままに騷いでおいて、あっさり普通の人になった姉たち。三人三様。でも、下から眺めた姉たちは、本質は同じにしか見えない。くだらないことで喚き、だらだら喋る、演技と本心の煩わしさ、八つ当たり、仲問外れなんて当たり前、お前のものは私のもの、都合のいい時だけ男扱い。冷静にならないとやってられない。女には逆らわない、怒らせない、フォローは忘れない。耐えに耐えた先に、やっとおだちんみたいに廿やかしてくれる。庇ってくれる。お願い事はタイミングが命なんだ。翔の今の唯一の武器、愛される柔らかな雰囲気も、仕草も、笑顔も、言葉も、一つ屋根の下で生きていくため、必死で得た経験値なんだ。演技なんだ。みんなのこと騙してるんだ、どうして誰も気が付いてくれない? どこに行ってもそれなりにやっていけるけど、どこにもはまれない。深海でなんとか呼吸しているみたいだ、酸素の量を常に計算しながら。行き場のない気持ちを吐き出す術だったカメラに、何の情熱も持てなくなってしまっている俺はどうしたらいいんだろう。
 翔は肌を照らす、揺れ落ちる太陽が、従うように夜を受け入れる夕焼けの一瞬を、レンズに押さえてみた。技術や経験を得ただけの、ありきたりな世界のありきたりの俺のありきたりの一瞬。そんなものがなんの役に立つ?



















(この写真は文章の内容とは関係ありません。)



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