2015年8月29日土曜日

映画で上海を観て

はじめに

 二本の映画を通して、上海という都市を観て見たいと思います。「上海」と「ジャスミンの花開く」です。

































今日、上海は人口2500万に近い巨大都市ですが、比較的新しく生まれた都市です。宋代に村があったようですが、北京と杭州を結ぶ大運河が、中国の南北を繋ぐ水運の大動脈で、上海はそこからはずれていました。上海が発展するのは、1840年に始まった阿片戦争以降です。1842年の南京条約で、上海が開港されると、上海は海上輸送の要衝となります。従来、物資は杭州から運河で北京に運ばれていましたが、運河による輸送は非常に手間がかかるのに対し、上海から海上輸送すれば、簡単に天津や北京に物資を運ぶことができます。さらに上海は長江の河口にあるため、内陸部ともつながっているわけです。
 1843年にイギリスが上海で土地を租借し、そこで治外法権が認められたのが租界の始まりで、やがて他の列強も租界を設定し、フランス以外の国は共同租界を設定します。したがって上海には、共同租界とフランス租界が存在することになります。租界では治外法権と行政権が認められ、中国の施政権は事実上及びませんでした。当初、租界は欧米人の町であり、欧米風の街並みが形成されますが、中国内部の治安が悪かったため、多くの中国人が流れ込み、人口も急速に増大します。租界では自由放任主義だったため、さまざまな犯罪組織や裏社会が形成されるとともに、中国では非合法な政治結社が結成されたりしました。1921年に中国共産党が結成されたのは、この上海でした。
 上海に住む中国人の中には、ここを拠点に事業で成功し、大財閥となる者もいました。前に観た「宋家の三姉妹」の宋家は、上海で財閥となった家でした。しかし、低賃金で貧困に喘ぐ多数の労働者もおり、彼らはしばしばストライキを行いました。一方、外国から上海に入るのにパスポートを必要としなかったため、多くの外国人が上海を訪れ、彼らは租界内を自由に移動することができましたので、半日で世界中を歩くことができる、とさえ言われました。こうした多種多様な人々に対応するため、世界中の様々な料理店や茶館、クラブ、カジノ、売春宿など、まさに何でもありの大都会となっていきます。

 1937年に日中戦争が始まると、上海は事実上日本軍の統制下に置かれ、194112月に太平洋戦争が始まると、日本軍は租界に進駐します。映画「シャンハイ」は、その直前の上海を舞台としています。1945年に日本軍が撤収しますが、その後中国の内戦を経て中華人民共和国の支配下に入ると、外国資本は香港に撤収し、資産はすべて没収されます。しかし、上海はその後工業都市として発展し、1978年の改革開放政策により、再び外国資本が導入されて、今日の繁栄を生み出すことになりました。

シャンハイ
2010年のアメリカ・中国合作の映画で、上海を舞台としたサスペンス映画です。時代は1941年で、当時すでにドイツはヨーロッパを制圧し、日本は中国の主要部分を制圧していました。日米対立は深刻となり、日本かアメリカが宣戦布告するかもしれないという情況でした。そんな中で、アメリカの諜報員ポールが、上海にやってきます。彼の目的は、個人的な理由もありましたが、日本の動向を探ることでした。
当時上海にはさまざまな人がいました。当時、上海は事実上日本軍の統制下にあり、タナカ大佐が各国の動向に目を光らせていました。裏社会のドン・アンソニーは、日本軍と協力していましたが、その妻アンナは裏で革命運動を行っていました。彼女の父は、南京事件を批判して、日本軍に殺されたのでした。その他に、ほとんど登場しない謎の日本人女性がおり、彼女はタナカ大佐の愛人であると同時に、二重スパイでもありました。やがてポールは、上海沖に日本の大型空母が停泊していることを知り、まもなくそれが姿を消したことに気づきます。ハワイに向かったのです。もはや手遅れでした。128日日本軍は真珠湾を攻撃し、同時に日本軍が上海に侵攻します。ポールは間一髪で脱出に成功しますが、自由で活気にあふれた上海は、終わりを迎えることになります。

この映画はサスペンス映画なので、歴史的に考えるという程のものではありませんが、それでも当時の上海の風景が再現されており、また太平洋戦争直前の謀略戦は興味深い内容でした。

ジャスミンの花開く

2004年に中国で制作された映画で、上海に住む母娘三代にわたる女性の生き様を描いています。第1章は「茉=モー」、第2章は「莉=リー」、第3章は「花=ホア」が主人公で、この三人の字を合わせると茉莉花となり、これがジャスミンという意味なのだそうです。したがって、原題は「茉莉花開」ということになります。三人とも男運が悪く、三人とも男で失敗し、子供だけが残り、その子がまた同じような失敗を重ねていきます。そして最後のホアに子供が生れたところで、映画は終わります。まるでゾラの小説のようで、男で失敗する遺伝子が組み込まれているかのようです。なお、三人とも同じ女優が演じていました。
本来私は映画で歴史を観ることを目的としているのですが、その意味ではこの映画は失敗でした。「1930年代から1980年代までの母娘三代の物語」というキャッチ・コピーに魅かれてこの映画を観たのですが、歴史はほとんど登場してきませんでした。第1章は1930年代で、日本軍が侵攻する場面が一瞬だけ映し出されましたが、どの事件なのか分かりませんでした。第2章は1950年代で、社会主義の大義が叫ばれていました。第3章は1980年代で、改革開放のもとで出世主義が盛んとなっていました。また、第1章ではモーは女優に憧れ、映画会社の社長の女になって捨てられます。第2章では、リーは共産党員で勤勉な男性と結婚し、挫折します。第3章では、ホアは大学生で日本留学を希望する男性と結婚し、捨てられます。それぞれの男性は、それぞれの時代を象徴する男性だったといえるかもしれません。

これだけなら、舞台は上海でなくてもよかったように思われますが、三人の女性がこれだけ自由奔放に生きられたのは、やはり上海だったからかもしれません。上海には、租界時代の自由な雰囲気が生きており、ここで生まれた文化が、中国全体に大きな影響を与えました。

2015年8月26日水曜日

變臉 この櫂に手をそえて

 1997年に中国で制作された映画で、年老いた大道芸人と少女との心温まる関係を描いています。舞台となっているのは、1920年代の四川省で、四川省といえば10年程前に辛亥革命の発端となる反乱が起こった場所ですが、ここではそんなことは全く関係がありません。
 大道芸人というのは、世界中どんな時代にも存在しますが、中国の大道芸は非常に多彩なようです。以前、中国の大道芸について書いた本を読んだのですが、例えば蟻に芸をさせる(芸をしているように見せる)大道芸人などがいたそうです。こうした芸の多くは消滅し、一部は今日まで伝えられています。この映画の主人公である王(ワン)は、船で生活し、船で長江流域の町々を訪れ、「変面」という芸を行って暮らしていました。
 ところで、タイトルの「臉」という字は大変難しい字で、中国では「顔」という意味だそうです。この字は本来「れん」と読みますが、日本語版では「へんめん=変面」と意訳しており、この方が分かりやすいので、ここでも「変面」と書くことにします。これは瞬時にして顔を変える芸で、いわば百面相のような芸です。彼の技術は相当高度なもので、この地方ではかなり有名でしたが、彼には芸を伝える後継者がいませんでした。中国では、芸人の芸は親から子へ、子から孫へと、男子にのみ伝えられる習わしでした。彼にも男の子がいましたが、幼くして病死してしまい、もはや自分の子に芸を伝えることは不可能でした。
 そこで彼は、人買いから8歳の男の子を買い、これを後継者にすることにしました。もちろん人買いは違法ですが、当時はかなり幅広く行われており、そのための誘拐事件も頻発していました。この子は狗娃(クーワー)といい、大変賢い子で、ワンによくなつき、ワンもクーワーをとても可愛がりました。ところがある時、クーワーが女の子であることが判明し、激怒したワンはクーワーを追い出そうとします。これに対してクーワーは言います。自分は7回買われ、女であるため7回酷い扱いを受けたこと、そして今回初めて優しくされたこと、そして自分をここに置いて欲しいと懇願します。そこでワンは、彼女を召使としておいてやることにしました。
 クーワーは召使として一生懸命働き、ワンに献身的に仕えますが、ワンが留守の時に、ちょっとしたミスから船に火が付き、船が燃えてしまいました。もはやクーワーはワンのもとに帰れず、一人で町を彷徨います。一方、同じころワンは誘拐犯人と間違えられて逮捕され、冤罪で処刑されることになってしまいました。これを知ったクーワーは、自分の命をかけてワンを助けようとします。この間にいろいろあって、結局ワンは釈放されます。そして最後に、ワンとクーワーは二人で櫂を漕いで、新しい旅立ちをします。

 この映画は、大変感動的で、多くの賞を受賞しました。私が観たときには、まだVHS版しかなかったのですが、現在ではDVD版も販売されているようです。

2015年8月22日土曜日

映画で孫文を観て

孫文
1986年に中国で制作された映画で、原題は「孫中山」です。中国では孫中山と呼ばれることが多いのですが、日本では孫文の名の方がよく知られています。中国革命の父と言われた孫文の半生を描いた映画ですが、もともと170分のオリジナル版を日本語版では125分に短縮していますので、話が飛んで分かりにくくなっています。孫文については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第28章帝国の崩壊とナショナリズム ナショナリズムの時代」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/28.html)を参照して下さい。
孫文は、中華民国(台湾)でも中華人民共和国でも、「革命の父」として尊敬されていますが、彼は日本の坂本竜馬と同じで、公式の資料にはあまり登場しません。彼は絶え間なく組織をつくり、絶え間なく反乱を起こし、絶え間なく失敗し続けます。1911年の辛亥革命は一応成功ということになりますが、その後、結局袁世凱の独裁ということになり、その後も結社の結成や反乱を繰り返し、1925年に「革命いまだならず」という言葉を残して死にました。したがって彼が公式の立場に立ったのは、辛亥革命後の臨時大総統だった数か月だけです。また、彼は資金集めのため世界中を旅し、国内より外国にいることの方が多い人でした。しかし、それでも中国革命における彼の業績を否定する人はいません。
孫文は、福建省の貧しい農民の子として生まれましたが、兄がハワイにいたため、ハワイで教育を受け、西洋思想に感化されます。帰国後香港で医学を学び、ポルトガルの植民地マカオで医師として開業します。日清戦争が始まった1894年にハワイで興中会を結成し、翌年武装蜂起しますが、失敗に終わります。そして映画は、この頃から始まります。その後日本に亡命しますが、日本では宮崎滔天や犬養毅など多くの人々の支援を受け、1905年には彼らの援助で、革命諸団体を結集して中国同盟会を結成します。映画では、この結成大会がかなり詳しく描かれています。日本人が、これほど中国の革命を援助したのには、いろいろな理由があろうかと思われますが、一つには、自由民権運動に挫折した人々が、彼らの夢を中国に託したかったのだろうと思われます。
一方、孫文にも日本に対して特別な思いがあったようです。彼は、明治維新と、それをひきおこした幕末の志士たちを、高く評価していました。「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」「わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした」と語りました。しかし、晩年には日本の露骨な侵略に危惧を抱いており、彼の死の前年の1924年に神戸での講演で、日本に対し「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問いかけました。
孫文は、その長い革命の経歴の中で、何度も日和見的とさえ思える方針転換をしてきました。また、見方によっては、無謀な蜂起で多くの有為な人々を死なせてきた、と言えなくもありません。しかし、彼は、2000年を超える中国専制王朝を終わらせ、中国の進むべき道筋を示したことは、間違いないでしょう。映画で観る孫文はまったくめげることなく、苦悩しながらも、何度でも立ち上がる不屈の革命家でした。その精神は、その後の中国に大きな影響を与えました。最後に彼は、1917年のロシア革命と1919年の五・四運動を目撃した後、従来のエリートによる野合政党から近代的な革命政党へと転換し、共産党とも提携します。つまり彼にとっては、方法やイデオロギーが問題なのではなく、どうしたら中国を救えるか、ということが問題だったようです。

映画は、伝記風に逐一事実関係を追っているだけで、しかも内容が短縮されているため、私の知的関心を呼び起こすようなものはありませんでした。しかし孫文は、その功罪はいろいろあるにしても、その生涯だけで十分に感動を引き起こします。孫文はいよいよ革命が全国的な高まりを見せている中で、癌のために死亡しました。58歳でした。28歳の時に興中会を興してから、30年に及ぶ革命の人生でした。しかし中国では、この後日中戦争・国共内戦など、まだ長い苦難の時代が続くことになります。2千年を超える専制王朝の歴史を清算することは、容易なことではありませんでした。

1911

2011年に制作された中国・香港による合作映画です。「1911」とは、辛亥革命が勃発した年であり、なんとなく「9.11同時多発テロ」を連想しますが、この年は中国にとっては重要な年であり、この映画は辛亥革命百周年を記念して制作されました。この映画の主人公は、孫文の片腕だった黄興で、ジャッキー・チェンが演じていますが、この映画は革命で死んでいった多くの人々への鎮魂歌として制作されました。映画の冒頭で、「これは未来を信じて戦った、名もなき男達の魂の物語である」という字幕が出されます。
映画は、まず1907年における秋瑾の処刑の場面から始まります。秋瑾については、このブログの「映画で観る中国の四人の女性 秋瑾」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.html)を参照して下さい。処刑に先立って、彼女は心の中でつぶやきます。「私は革命のため死に赴く。革命のために死ぬ女性は、中国ではこの秋瑾が初めてだろう。革命を知らぬ世の人のため、私は家も子も捨てた。私が死ぬことが、革命とは何かの答えなのだ。革命とは、人々に風雨に耐える家を造ること、子供たちに平穏な世界を与えること、長年奴隷のように扱われてきた人々は、平安とは何かさえ忘れている。私は革命のために死ぬ。死は恐れるにも惜しむにも足りぬ。革命にこの身を捧げる喜びで、私は今この時至福の涙を流す。」この言葉が、革命で死んでいった多くの人々の心を代弁しています。
 1911年に中国同盟会は広州で蜂起しますが、またしても失敗に終わります。孫文にとって、1895年の最初の蜂起から、実に10回目の失敗です。しかし孫文はめげません。彼は再び、資金集めのために世界各地を奔走します。ところが、この年の10月に四川省で軍隊が反乱を起こし、これが辛亥革命に繋がっていきました。こうした反乱が起きた背景には色々ありますが、その一つとして清末の改革があります。1898年に光緒帝は変法自強運動と呼ばれる改革を実施しようとしましたが、西太后によって弾圧されてしまいます。その後義和団事件が起き、清朝の弱体化は決定的となります。そうした中で、西太后もかつて光緒帝が試みた改革の実施を許可します。
 そうした改革の一つとして、科挙の廃止と西欧式の教育による人材の育成があり、そのために多くの留学生が派遣されます。そして当時最も多く派遣されたのは、日本でした。中国は広大で、各地に清朝に対する不満を持つ人々がたくさんいても、お互いに知り合うことはほとんどありません。しかし日本に留学生として来れば、お互いに日本で知り合うようになります。また、日本は孫文がしばしば活動拠点とした場所であり、彼らは、日本で孫文の思想を学び、帰国していきます。
一方、日清戦争後中国では新軍と呼ばれる近代的な軍隊の編成が行われていました。そして、科挙が廃止されたため、多くの留学生が新軍に入隊しますが、その中に相当数の中国同盟会会員が含まれていました。彼らは、孫文の教えに従って、時が来れば蜂起する覚悟をしていました。そしてその時が来ました。失敗を重ねた孫文の革命は、無駄ではなかったのです。11回目の蜂起が、辛亥革命となります。革命派は、各省に決起したことを打電し、それに呼応して、18省の内15の省が清朝からの独立を宣言します。もはや清朝が生き延びる道はありません。
革命が勃発した時、孫文は資金集めのためアメリカに滞在していました。革命の知らせを受けた孫文は、直ちに帰国するのではなく、まずヨーロッパに立ち寄ります。当時清朝は、鉄道を担保にヨーロッパの国々から借金をしようとしていました。またも、清朝は国民の財産を列強に売り渡そうとしていたのです。実は四川省で起きた暴動の直接的な原因は、この鉄道と借款問題でした。孫文は、ここで清朝が列強から多額の資金を得れば、その資金で革命が弾圧されることを危惧し、列強の政財界の人々に、中国への借款を行わないよう説得してまわったのです。彼の説得が功を奏したのかどうかは分かりませんが、結局借款は行われませんでした。つまり列強は清朝を見限ったのです。これによって清朝の命綱が断ち切られることになります。さすが、孫文は国際人でした。
ここで清朝最大の軍事力をもつ袁世凱が登場してきます。彼は、若い時から出世欲が強く、2度科挙を受験しましたが、どちらも第一段階の試験で落第したため、軍人の道を選びました。朝鮮に赴任していた時には、朝鮮の政治の実権を握り、その下で農民反乱が起き、これをきっかけに日清戦争が起きて敗北します。その結果、上司の李鴻章が責任をとって辞職します。また光緒帝の改革に協力する約束をしたにも関わらず、西太后側に密告して改革を挫折させます。西太后の死が迫った時、死後光緒帝が復権するのを恐れ、光緒帝を暗殺させたとも言われています。山東省に赴任した時には、義和団を徹底的に弾圧して山東省から追い出しますが、追い出された義和団が北京に向かって義和団事件が起きます。義和団は列強によって鎮圧され、その際北京周辺の清軍は壊滅し、袁世凱の軍のみが強大となります。
そして、辛亥革命において、清朝の命令で四川暴動の鎮圧に向かいますが、途中で攻撃を止め、清朝と革命派を天秤にかけ始めました。彼は革命派と秘密裏に交渉し、自分を臨時大総統にするなら、皇帝を退位させると約束します。こうして最後の皇帝宣統帝は退位し、やがて袁世凱が中華民国の大総統に就任します。その後彼は革命派を徹底的に弾圧し、1916年には帝政を復活させて自ら皇帝となりますが、各界からの厳しい批判を受けて退位し、翌年死亡します。57歳でした。中国の近代史上でも、彼ほど評判の悪い人物は、他にいないのではないでしょうか。彼は、自分の小さい課題には対処できても、大局を見て行動するには相応しくない人物と評されています。中国の長い歴史の中で、王朝交替期のような混乱時代には、このような人物が多く現れ、それが混乱に拍車をかけたことでしょう。

 この映画の主人公は、一応黄興です。黄興は湖南省の名門出身で、1889年に蜂起して失敗し、日本に亡命します。彼は、1903年に華興会を組織し、さらに1905年に孫文とともに中国同盟会を結成します。その後彼は、遊説、党員指導、蜂起など積極的な活動を推進し、1911年には辛亥革命を指導します。軍務が苦手な孫文に代わって、常に第一線で戦い、袁世凱に従うことを拒否し、反袁世凱運動を推進中、1916年に病死しました。52歳でした。革命のために若くして死んでいった多くの若者たちと同様に、彼の一生も革命に捧げた一生でした。そして孫文は、さらに10年間戦い続けることになります。

宋家の三姉妹

1997年制作の香港・日本による合作映画で、原題は「宋家皇朝」です。宋家という大財閥の三人の娘の運命を描いています。長女靄齢(あいれい)は大財閥孔祥熙(こう しょうき)に嫁ぎ、次女の慶齢は孫文に嫁ぎ、三女の美齢は蔣介石に嫁ぎます。そして、中国革命・日中戦争・国共内戦という動乱の時代を通して別れ別れになっていきます。靄齢はアメリカに、慶齢は本土に、美齢は台湾に住むことになります。
孫文が革命運動で苦闘していた頃、上海の大財閥宋嘉樹は、孫文の支援者でした。宋は、もともとメソジスト教会の宣教師でしたが、方向転換して財閥に成長しました。上の三人の娘は宋嘉樹の娘で、三人とも10代前半にアメリカに留学し、二十歳過ぎまでアメリカで教育を受けます。長女の靄齢は、帰国後、東京で孫文の秘書を務めますが、その時大財閥の孔祥熙と出会い、1914年に結婚します。二大財閥の結合です。1914年から慶齢が孫文の秘書を務めますが、やがて二人は愛し合い、結婚することになりますが、父親が猛反対します。あれ程開明的な父も、娘が自分の親友と結婚するなど想像もしなかったのでしょう。慶齢は反対を押し切って一人で東京へ行き、孫文と結婚します。反対されていたとはいえ、中国の大革命家と大財閥が、血縁で結ばれたことになります。
その後孫文のもとで蔣介石が台頭してきます。彼は日本で軍事訓練を受け、近代的な軍事技術を身に着けていました。彼はかなり実直な性格で、酒も飲まず煙草も吸わず、質素な生活をし、孫文を心底崇拝していました。一時はロシア語を勉強して「共産党宣言」などを読み、「赤い将軍」とまで呼ばれましたが、ソ連に留学し、三民主義を批判されて、共産主義に反発するようになります。
彼は孫文に信頼されて軍の司令官となり、孫文の死後、1926年に孫文の悲願だった北伐を開始します。そして1927年に宋家の三女美齢と結婚し、これによって蔣介石は大財閥の支持を得られるようになります。それとともに、蔣介石は共産党に対する弾圧を強め、その結果孫文の妻だった慶齢との関係が疎遠となって行きます。日中戦争中には、一致抗日が掲げられたため、三姉妹はともに各地の戦場で慰問を行い、抗日戦争の象徴的存在となりました。しかしやがて三人は離れ離れになります。
靄齢の夫孔祥熙は国民政府の財務を担当していましたが、個人的蓄財に目に余るものがあり、批判を受けて辞職し、1947年靄齢とともにアメリカに移住し、靄齢は1973年にニューヨークで死亡しました。84歳でした。一方、日中戦争終結後、国民党と共産党との間で内戦が始まり、敗北した蔣介石は美齢とともに台湾に拠点を移します。慶齢は中国に残り、孫文の妻として多くの要職を与えられますが、ほとんどは名誉職でした。文化大革命の時代に、蔣介石の妻の姉として批判されましたが、毛沢東による「文革保護対象名簿」の第一位として保護され、1981年に死亡しました。88歳でした。台湾に渡った美齢は、政治の表舞台に立って活躍しますが、1975年の蔣介石の死後しだいに影響力を失い、同年にアメリカへ移住しました。その後もしばしば台湾に帰国し、影響力を行使しようとしましたが、台湾で民主化が進むにつれ、ますます影響力を失い、晩年はニューヨークの豪邸で暮らし、2003年に死亡しました。105歳でした。
映画は、日中合作ということもあって、当たり障りのない内容で、激動の時代を生きた三姉妹を中心に、事実関係を追うのみでした。時には、西安事件の顛末など興味を引く内容もありましたが、何しろ3人を主人公にして激動の時代を描くわけですから、歴史的事件の多くは素通りでした。「宋家の三姉妹」というのは、すでに生前からマスコミでも取り上げられ、世界的に有名でした。もし、共産党政権が成立していなかったら、中国には「宋王朝」が成立していたかもしれません。

ところで、中国には客家と呼ばれる人々がいます。中国の長い歴史の過程で、華北で戦乱が続くと、多くの人々が南方に移住し、そこに定住するようになります。こうしたことが、歴史上何度も繰り返されました。彼らは、現地の人々から見ればよそ者=客であって、しばしば迫害されたため、孤立した生活をしていました。こうした人々には、その言葉に「古代漢語」が残っていたりして、民俗学的にも大変興味深いのですが、ここでは、この映画に関わる範囲だけで述べたいと思います。
彼らはよそ者で土地の所有が困難だったため、商業に携わる人が多く、また東南アジアなどへ華僑として移住する人々もいました。彼らは、抑圧されていたため、結束力がつよく、広範囲に及ぶネットワークが形成されていました。19世紀半ばに太平天国の乱を起こした洪秀全は客家の出身であり、孫文も客家の出身でした。孫文が革命のための寄付を華僑に求めますが、おそらく客家のネットワークを利用したものと思われます。そしてこの映画の宋家も客家であり、したがって宋家の三姉妹は客家だったわけです。また、後に中華人民共和国で実権を握る鄧小平も客家であり、シンガポールの近代化を果たしたリー・クアンユー(李光耀)、後に台湾の総統となる李登輝なども客家の出身です。

中国近代史を、こうした視点で見ると、従来とはことなった近代史像が見えてくるのではないかと思います。


2015年8月19日水曜日

「柔らかいファシズム」を読んで

ヴィクトリア・デ・グラツィア著(1981)、豊下楢彦・高橋進・後芳雄・森川貞夫訳 有斐閣選書、1989
原題は「同意の文化―ファシスト・イタリアにおける余暇の大衆組織」
ファシズムとは何かという問いは繰り返し行われ、未だに決着を見ることができません。ファシズムという言葉については、「ムッソリーニらが提称した思想・政治運動」という狭い意味から、多少横柄な人物を「あいつはファシストだ」というような広い意味に至るまで、あまりに幅広く用いられているため、ますます曖昧になっています。ファシズムという言葉は、「全体主義」「抑圧」「独裁」などといったイメージと結びつきますが、本書はファシズムの別の側面を扱っています。
本書が扱うのは、「労働(ラヴォーロ)の後(ドーポ)」つまり、「トーポラヴォーロ」、平たくいえば「余暇」です。イタリアは後発資本主義国で、極めて多様な世界です。こうした多様な人々を一つの方向に向かせるために、余暇事業団を設立し、国民のあらゆる階層に、スポーツ、リクリエーションなどを組織化していきます。実は、「余暇」の問題については、先進資本主義国でも注目されつつありましたが、国家がこれ程組織的に行うことはありませんでした。本書は、「トーポラヴォーロ」の実態を詳細に論じるとともに、グラムシの強い影響を受け、グラムシの思想の中心である「同意の文化」をタイトルとしています。
結局、この事業はどんな影響をあたえたのか。「ファシズムの余暇組織によって生み出されたイデオロギー的同意は表面的で、最終的にはもろいものにならざるをえなかった。結局のところ、市民社会へのかくも明白な国家介入は、きわめて矛盾する結果をもたらしたとさえ言えるであろう。すなわちそれは一方で、国家の社会的・イデオロギー的統制装置へのブルジョワジーの従属を際立たせるとともに、他方において広範な労働者大衆に、国民的な文化形態の外見上は脱階級的で非政治的な性格についての深い―そして健全な―懐疑心を抱かせることになったのである。」これが本書の結論です。
ファシズムについては、さまざまな説明がなされ、それぞれの説明はそれなりに理解できるのですが、それらの説明をすべて集めてもなお納得できません。本書で述べられているように、ファシズムはもっと多様なものであるように思います。同じ時代に、世界の各地で似たような現象が起こっており、もっと大きな歴史の流れの中で、ファシズムを捉える必要があるように思います。

私は、個人的には心理学者のエーリヒ・フロムの説明が、分かりやすいように思います。「ファシズム(ナチズム)を少数者による狂気と恐怖支配とするのは間違いで、近代の人間は自由を得て伝統的な権威や束縛を失った結果、孤独・無力・恐怖となり、「自由からの逃走」として自ら権威を求めるファシズムや、更には多くの民主国家においても強制的同一化が発生した。」(ウイキペディアより)それは、かつて農村から都市に流れ込んだ人々の孤独と同じではないでしょうか。そして20世紀に、人々は突如大衆社会という渦に巻き込まれて孤独と恐怖に襲われ、その結果生まれた混乱状態の中でファシズムが形成されていったのではないでしょうか。

2015年8月15日土曜日

映画で中国清朝の滅亡を観て

阿片戦争

1997年に中国(中華人民共和国)で制作された映画です。1997年というのはイギリスから中国に香港が返還された年であり、それを記念して、この映画が制作されました。阿片戦争は、1840年に始まり、1842年の南京条約で終わるわけですが、この条約で中国は香港島をイギリスに割譲します。さらにアロー戦争後に締結された1860年の北京条約で、九龍半島の一部がイギリスに割譲され、1898年にイギリスは九龍半島の残りの部分を、99年間の期限で租借します。この期限が1997年に切れるため、この年に返還されたわけです。
映画は、かなり国威発揚的な傾向をもち、また内容的にも知っていることがほとんどだったので、あまり得るものがありませんでした。それでも、幾つか興味深い場面がありました。まづ第一は、イギリス人から没収した阿片を焼却する場面です。何しろ没収された阿片は1400トン以上、2万数千箱に及びますので、これを処分するのは大変です。その方法は、海辺に人口池をつくって、その中に阿片を廃棄したうえ、そこに塩を入れ、次に石灰を入れて中和させ、それを海の中へ放出するというものです。映画はこの処分の場面を再現していますので、大変壮観であり、興味深い映像でした。
 また、当時のイギリス議会で、中国との開戦について議論される場面がありました。相当強い、かつ真っ当な反対意見がありましたが、賛成271票、反対262票の僅差で艦隊の派遣が決定されます。中国が禁止している阿片を密輸し、それを没収されたからという理由で戦争を仕掛けたわけですから、イギリスの側に正義はまったくないわけですが、貿易が繁栄の基盤であるイギリスにとって、貿易を拒否されることは破滅につながりますので、結局、正義より利益が優先されたわけです。また、ほんの少しだけヴィクトリア女王が登場しますが、彼女は1837年に18歳で即位し、当時二十歳を少し過ぎたばかりでした(このブログの「映画で三人の女王を観る ヴィクトリア女王」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/03/blog-post_7.html参照)
 話は前後しますが、当時の皇帝道光帝は、当時の高官の中で最も気骨ある人物である林則徐に阿片の取締りを命じます。最初、林則徐は病を理由に辞退にしますが、道光帝は彼の病を分析します。①皇帝は重い任務を与えても権力を授けず制約ばかり多いこと、②任務を遂行しようとしても朝廷の大臣の非難を浴び、志半ばに終えかねないこと、③皇帝の考えが変わりやすく、見通しを立てにくいこと、以上です。まさに炯眼であり、これだけ見ると道光帝は名君のように思えますが、結局道光帝は三つとも約束を守らず、最後には林則徐を罷免してしまいます。 
 林則徐は、広州に赴任して阿片の取締りを開始すると、まもなく自分が国際情勢にまったく無知であったことに気づきます。そのためイギリスが艦隊を派遣してくるとは、夢にも思っていませんでした。彼は失脚した後、古い友人である魏源に、自分が集めた資料を与え、もっと多くの資料を集めてくれるように託します。魏源は、これに基づいて「海国図誌」を著し、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御すべき、と主張しました。しかし彼の主張は、中国ではあまり問題にされませんでした。というのは、中国が外敵に敗れたのは、これが最初ではなかったのです。その長い歴史の中で、何度も異民族との戦いに敗北し、時には中国全土を異民族に支配されることもありました。第一、清朝自体が異民族による王朝です。しかし、結局、異民族は中国の文明に同化し、偉大な中華の文明は維持されてきたのです。そして中国の人々は、今回も同様であると考えたのですが、今回は違っていました。

 魏源の「海国図誌」に注目したのは、日本でした。吉田松陰や佐久間象山らが「海国図誌」を読み、早くから警告を発していたのです。われわれは、林則徐や魏源に感謝すべきだと思います。

北京の55
1963年にアメリカで制作された映画で、1900~1901年に中国=清で起きた義和団の乱を扱っています。時代考証はかなりいいかげんですが、1963年という時代では中国ロケは無理なので、ある程度やむを得ないとは思います。
まず、この反乱の背景について、2点だけ触れておきたいと思います。まづ第一に、1895年に清が日清戦争に敗れた後、中国は列強によって徹底的に分割され、この反乱が起きた時は、分割の真っ最中でした。列強は、あたかも蟻が獲物に群がるがごとく、中国を食い尽くそうとしていました。もちろん、その列強の中には、日本も含まれていました。
もう一つの背景は、キリスト教の問題でした。アロー戦争の後、キリスト教布教の自由が認められ、以後多くの外国人宣教師たちが中国で布教活動を行うようになりました。そして、不平等条約によって彼ら外国人に対しては、中国には裁判権がなかったため、かなり強引な布教活動が行われました。しかも、キリスト教に改宗した中国人にも同様の特権が認められていました。こうしたことが、民衆の間でキリスト教に対する不信感を強めていきます。例えば、土地の境界を巡る争いが起きた場合、宣教師が介入し、その特権的な地位を利用して、役人にキリスト教徒に有利な裁定を下させるといったことが、至る所で起きてきます。こうした状況に接している民衆にとっては、キリスト教徒こそ侵略の手先であると映り、各地でキリスト教徒を襲う事件が起きてきます。
反乱が起きた山東省は、孔子の生誕地曲阜がある場所ですが、19世紀末にこの地にドイツが急速に進出し、キリスト教の宣教活動も活発に行われたため、地元の民衆との対立が頻発するようになります。しかし、役人や政府は宣教師とのもめ事を嫌って、宣教師やキリスト教徒に有利な裁定を下すことが多かったため、民衆は地元の梅花拳という武術集団に助けを求めました。梅花拳は、歴史ある梅花拳全体に累が及ぶのを避けるため義和拳と改名し、宣教師を襲うようになりました。この義和拳を中心に、さまざまな人々や集団が集まり、その集団が義和団と呼ばれるようになります。なお、戦後日本で創設された少林寺拳法は、この義和拳の流れを汲むそうです。
 義和団は、「扶清滅洋」(清を扶〔たす〕け洋を滅ぼすべし)というスローガンを掲げており、また清朝も列強の侵略を不愉快に思っていたため、義和団の弾圧には手心を加えていました。そうした中で、1900621日に西太后は反乱を支持して列強に宣戦布告します。その結果北京における外国人居留地は義和団に包囲されてしまいます。今日から見れば、列強への宣戦布告は愚かな選択だったかもしれませんが、中国における列強の振る舞いはあまりに無礼かつ非道なものでした。そして映画は、ここから始まりますが、映画では列強の非道については触れられておらず、清朝の非道と義和団の野蛮で残虐な行為が語られ、それに対して英雄的に戦う欧米人の姿が描き出されるだけです。
 当時北京の公使館区域には、約1000名の外国人と、ここに逃げ込んだ3000名ほどの中国人キリスト教徒がおり、護衛兵は500名足らずでした。そして映画は、主人公であるアメリカのルイス大佐とその部下が北京に入ったところから始まります。当時、日本を含めて11カ国の公使がおり、彼らは清朝の警告に従って退去するか、援軍の到着まで籠城するかを議論し、結局籠城することに決定しました。数十万人の義和団に包囲され、500人足らずの護衛兵で防戦するなど不可能で、しかも援軍は義和団に阻まれて進むことができない状態にありました。しかし、814日に援軍が到着し、わずか1日で義和団の包囲を突破してしまいます。映画は、この55日間の「文明人」による「野蛮人」に対する「英雄的な」戦いを描いています。
 映画には、柴五郎中佐という日本人の軍人が登場し、伊丹一三(後の伊丹十三)が演じていました。映画ではほんのわずかしか登場しませんが、実は彼はこの籠城戦で主要な役割を果たしました。11か国もの人々がおり、意思疎通が困難で統制がとれない中で、彼は英語・フランス語・中国語に精通し、各国間の意志疎通を図り、事実上彼が籠城戦の指揮をとっていました。北京解放後、彼は欧米各国から賞賛を受け、欧米各国から勲章授与が相次ぎました。そして彼の仲介で、1902年に日英同盟が締結されることになります。彼は1930年に退役し、1945年に日本が敗北した後自決しますが果たせず、まもなくその怪我がもとで病死します。85歳でした。明治以来の多くの対外戦争に関わり、敗戦を目撃し、どのような思いで死んでいったのでしょうか。
 話が逸れましたが、列強は1年間北京を占領し、その間に日本を含めた列強は掠奪の限りをつくし、その上清朝に莫大な賠償金を要求したのですから、列強の強欲さにはあきれ返ります。しかし、さすがの列強も少し反省し、中国分割は一段落し、宣教師たちも少し反省して傲慢さを控えました。そして清朝の滅亡は、もはやだれの目にも明らかでした。清朝滅亡まで、あと10年です。

 映画は、時代考証のいい加減さと、歴史認識のいい加減さから言って、駄作の部類に入るでしょう。前にみた「映画でアフリカを観て(3)  カーツーム」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/04/3.html)では、反乱を起こしたマフディー側の立場も描いていましたが、この映画では義和団の立場は描かれていませんでした。義和団の乱は民衆の激しい怒りであり、この後まだ半世紀も続く動乱の出発点でした。

ラスト・エンペラー

1988年にイタリア・イギリス・中国の合作による映画で、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)の生涯を描いています。溥儀は「わが半生」という自伝を書き残しており、この映画はこの自伝をもとに制作されました。また、溥儀の家庭教師で、スコットランド人のジョンストンが「紫禁城のたそがれ」という本を書き残しており、この本も映画の制作で参考にされているようです。また、この映画では紫禁城で撮影が行われており、前に観た「北京の55日」に比べると、時代考証が格段に向上しています。なお、この映画で使用されている言語は、英語です。
清朝末期には西太后が実権を握っており、光緒帝は事実上幽閉されていました。そして1908年に光緒帝が死去(毒殺)し、西太后が溥儀を後継者に指名、そして溥儀が宣統帝として即位します。当時溥儀は210カ月でした。この間の事情については、「映画で観る中国の四人の女性 蒼穹の昴」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1111.html)を参照して下さい。
1911年、溥儀が5歳の時に辛亥革命が起きて、清朝は滅亡します。しかし袁世凱との取引により、皇帝はそのまま紫禁城で暮らし、紫禁城内では皇帝を名乗ることが認められ、さらに中華民国から毎年相当額の年金が与えられることになりました。したがって、5歳の溥儀は、革命が起き、清朝が滅びたことも知らず、従来通りの生活を続けました。ただし、溥儀が城外にでることは禁止されていました。こうして、紫禁城内では、清朝の慣行が、何事もなかったかのように、そのまま続けられることになりました。紫禁城の内部では、あたかも時が止まったかのようでした。
1919年、中国では五・四運動が起き、本格的な民族運動が高まっていた時代でした。そうした中で、ジョンストンというイギリスの植民地官が紫禁城を訪問します。彼は、溥儀の家庭教師として派遣されたのでした。彼は、東洋学に精通した教養ある人物で、溥儀は彼から外の世界を学びます。やがて溥儀は、ジョンストンの影響を受けて、当時なお1000人もいたとされる宦官や女官を追放するなど、宮廷の改革を断行します。しかし外の世界は激しく動いており、北京が軍閥の支配下に入ると、溥儀は紫禁城から出ることを命じられます。
出ろと言われても行くところがありません。彼は列強の大使館に保護を求めましたが、どの国も面倒に巻き込まれることを嫌って、断ってきました。しかし日本は、即座に溥儀の受け入れを決定し、天津の租界で彼を匿います。ただし、この段階で日本が溥儀を利用しようと思っていた分けではないようです。前年に起きた関東大震災に際して、溥儀は日本に巨額の義援金を送っており、溥儀を受け入れたのは、それに対する純粋な感謝の気持ちだったと思われます。しかし、やがて日本が本格的な侵略を開始し、満州国の建国を考えるようになると、溥儀に白羽の矢が当てられることになります。
彼は、1932年に満州国執政となり、さらに1934年に満州国皇帝となります。これは、満州国を再建したいという溥儀の夢ではありましたが、現実は日本の植民地の傀儡政権以上のものではありませんでした。日本は溥儀に訪日させて、天皇と親密さを演出したり、さらに溥儀の弟溥傑と天皇の遠縁に当たる華族の娘を結婚させて、日本と満州の一体化を進めます。この間日本は満州で、アヘンの製造・販売や細菌兵器の製造と人体実験を行っていたのです。
1945年に満州国が崩壊すると、溥儀はソ連軍の捕虜となり、1949年に中華人民共和国が成立すると、溥儀の身柄は中国に引き渡されます。そして映画は、ここから始まります。ここから過去を回想し、現在と過去を往復しながら、溥儀の半生が描かれます。その後溥儀は戦犯管理所に移され、そこで刑務所暮らしをします。1959年に釈放されますが、彼には行くところも、生活の仕方も分かりません。ところで、周恩来は名門の出であり、溥儀に同情していたようで、この時溥儀に面会し、植物園で働くように手配します。はるか以前に、どこかで中国制作の「わが半生」という映画を観ました。今回この映画の存在を確認できませんでしたが、確かに観ました。そこで周恩来は溥儀に言います。「貴方が皇帝となったのは2歳の時であり、革命が起きたのは5歳の時でしたから、貴方にはなんの責任もない。しかし、満州国皇帝となった時は、大人であった」と。まさにその通りです。
その後溥儀は、文史研究委員会専門委員で働き、また民間の女性と結婚します。この間に彼は「わが半生」を執筆しました。そして文化大革命が吹き荒れる中で、1967年に癌で死亡しました。61歳でした。まさに波乱に富んだ人生であり、見方によれば哀れな一生といえますが、この激動の時代には多くの人々が、動乱・戦争・飢餓で死んで行きましたので、彼一人が哀れだったわけではありません。なお彼が著した「わが半生」は、共産党政権の監視下で書かれたものなので、彼の思いのすべてを書くことはできなかったと思いますが、ジョンストンの「紫禁城のたそがれ」とともに、清朝宮廷の内部を描き出した貴重な資料となっています。

最期に、溥儀の弟溥傑について触れておきたいと思います。彼の一生も、ほぼ溥儀と同じでしたが、日本の華族の娘嵯峨宏(さがひろ)と結婚し、二人の女の子がいました。終戦後、夫はソ連に抑留されたため、宏は二人の娘を連れて、14カ月かけて日本に戻ります。この当時の事情については、宏自身が「流転の王妃」に書き残しています。その後三人は嵯峨家のもとで静かに暮らしますが、長女の慧生(えいせい)は、1957年に学習院大学の同級生だった大久保武道と伊豆半島天城山でピストル心中します。嵯峨家は、直ちに大久保による無理心中だと主張しますが、学習院大学の同級生達は、大久保と慧生の往復書簡を纏めて『われ御身を愛す』として出版し、2人は同意の上での心中であったと主張しています。そこで慧生は、「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書いています。いずれにしても、この事件の動機や顛末については、不明な点が多いようです。
 1960年に溥傑が釈放されると、宏は中国に帰り、文化大革命の困難な時代を乗り越えて中国で暮らし、1987年に北京で死去します。この間溥傑は何度も日本を訪れ、日中の架け橋としての役割を担い、1994年に北京で死去しました。87歳でした。一方、次女の嫮生(こせい)は、ほとんど日本で暮らし、結婚して福永こ生となって5人の子をもうけ、2013年現在存命中だそうです。溥儀には子がいなかったため、清朝最後の皇帝の血筋は、彼女によって引き継がれています。



2015年8月12日水曜日

「グラムシ」を読んで

片桐薫著 1991年 リブロポート
 イタリア共産党創設者の一人グラムシの伝記です。グラムシについてはほとんど何も知りませんでしたが、名前くらいは知っていたので、この本を買ったのでしょう。
 彼は、1891年にサルデーニャ島に生まれ、幼少の頃、背中にコブができ、以後彼は頭痛や発作に悩まされたそうです。苦学して大学へ行きますが、この頃から社会主義運動に傾倒し、1921年にイタリア共産党創設に参加します。しかしまもなくムッソリーニ政権が成立し、1926年に逮捕され、1937年に釈放直後に腦溢血で死亡します。
 したがって、彼は表舞台での活動期間は少ないのですが、10年に及ぶ「獄中記」が残っており、そこで彼の思想がよく語られています。本書は、グラムシの多くの書簡を用いて、家族との関係や彼の思想が語られており、大変興味深い内容です。彼の思想の根底には、教条化しつつある「正統」マルクス主義に対して、実践的行動の主体としての人間の問題を甦らせようとする立場があったように思います。

 第二次世界大戦後、イタリア共産党は大盛況を遂げますが、イタリア国民はその大多数が敬虔なカトリック教徒であるにもかかわらず、多くの国民が共産党に投票するという不思議な国民です。また、1870年代には、党内の多様な意見を認めるという「ユーロコミュニズム」を採用しています。こうしたイタリア共産党の特色は、グラムシを初めとする初期の優れた共産党員の影響によるものではないでしょうか。

2015年8月8日土曜日

映画で西欧中世を観て(7)



エスケープ 暗黒の狩人と逃亡者

2012年にノルウェーで制作された映画で、時代は14世紀後半、「1363年 ペスト流行の10年後」ということになっています。14~15世紀は、ペストの流行など世界的に危機の時代でした。この点については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第14章 1415世紀-危機の時代」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/141415.html)を参照して下さい。ペストは、1347年頃にシチリアに上陸し、48年にはアルプスを越え、50年にはノルウェーに達します。ペストの流行は全世界に及び、全世界でおよそ8,500万人、ヨーロッパでは、当時のヨーロッパ人口の3分の1から3分の2に当たる、約2,000万から3,000万人が死亡したと推定されており、ノルウェーでは人口の半分が死亡したと推定されています。
 国土は荒廃し、人々の心は荒んでいました。ノルウェーはヴァイキングの国であり、もともと王位継承の争いが絶えず、しかもペストで王家が断絶してしまったため、秩序は乱れ切っていました。二十歳くらいの娘シグネは、両親と弟ともに新しい土地を求めて旅をしていましたが、山賊に襲われ、両親も弟も殺されてしまいました。当時しては日常茶飯事の事件です。山賊の頭領ダグマルは女性で、5人の男たちを率いていました。何故かダグマルはシグネを殺さず、隠れ家に連れて帰りました。隠れ家には、ダグマルの娘で10歳くらいのフリッグという少女がおり、何故かいつも怯えていました。
 その夜、フリッグがシグネを逃がしてくれ、二人で逃亡します。やがて山賊たちが彼女たちを追跡し、特にダグマルは半狂乱になってフリッグを取り戻そうとします。こうして逃走と追跡劇が始まるわけですが、その過程で様々な事実が明らかとなっていきます。それはちょうど、ソポクレスの「オイディプス」のようです。
 ダグマルは、かつてペストが蔓延する村で呪いをかけたと疑われ、幼い娘とともに水責めにされて娘は死亡し、さらにお腹の子も死亡します。これは当時よくあったことで、特にユダヤ人が迫害の対象になりましたが、彼女がユダヤ人かどうかは分かりません。その後、彼女は山賊となり、復讐の鬼と化します。たまたまペストで両親を亡くしたフリッグを拾って育てますが、それはかつて殺された娘の身代わりでした。さらにシグネに子供を産ませ、かつて堕胎した子供の身代わりにしようとしていました。彼女の愛は屈折しており、それを感じ取っていたフリッグは、シグネとともに逃げ出そうとしたのでした。その後いろいろあって、結局シグネはダグマルと戦って殺します。ダグマルの死に顔は、とても穏やかでした。それは、阿修羅のごとき生き様から解放された安堵感だと思います。

 この映画は、たまたまノルウェーで制作されましたが、舞台はドイツでも、フランスでも、イギリスでも同じだったでしょう。この時代のヨーロッパは疲弊し、誰もが苦しみから逃れようともがいていました。その様なヨーロッパの一コマを、この映画はよく描いていると思います。


ジャンヌ・ダルク

1999年に制作されたフランス・アメリカの合作映画で、原題は「神の使者 ジャンヌ・ダルクの物語」です。今日では、ジャンヌ・ダルクは商品名や色々な喩にも用いられます。阿部首相は、自民党政調会長の稲田朋美衆議院議員を「自由党のジャンヌ・ダルク」と評したそうですが、意味がよく分かりません。

ジャンヌ・ダルクについては、史実と伝説が入り混じり、その実像を把握することは容易ではありません。18歳の田舎娘が、突然フランスのために戦えという神の言葉を聞いたとして出現し、実際に兵士を率いて戦場で戦い、フランスを勝利に導き、そして19歳で火炙りの刑で死亡します。あまりに突飛な話で、にわかには信じられません。








彼女は、1412年頃ロレーヌ地方のドンレミという村で生まれました。彼女自身の証言によれば、12歳の時初めて「神の声」を聴いたとのことです。それによれば「イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよ」ということです。映画では、「神の声」を聴いた時のジャンヌは、幻想を見る統合失調症の様でした。彼女は1429年4月頃シノンにある王宮を訪ね、「神の言葉」を伝え、なぜか国王シャルル7世は彼女を認めて軍隊を与えます。ここで疑問が生じます。何故シャルル7世はこのような小娘に軍隊を与えたのでしょうか。これは長く議論されてきたことであり、シャルル7世は完全に手詰まり状態にあって、それ以外にとる道がなかったとか、彼女を象徴として利用しようとしたとか、色々言われていますが、よく分かりません。そして彼女は、当時陥落寸前だったオルレアンを解放し、ランスでシャルル7世を国王に戴冠させます。ランスは、498年にフランク王国のクローヴィスが戴冠した場所であり、フランク王国にとって特別な場所でした。
その後シャルルは、敵との外交交渉を重視し、これ以上の戦いには消極的となっていきます。ジャンヌは国王の支援を得られないまま、無謀な戦いを続け、敵に捕らえられ、ルーアンで裁判にかけられて火炙りとなります。普通こうした戦争捕虜は、身代金を支払って解放しますが、なぜかシャルルは身代金を払いませんでした。これについても色々議論がありますが、はっきりしません。一方、裁判については詳細な裁判記録が残っており、無知なジャンヌは、相当理にかなった答弁をしているそうです。映画では、最後に彼女は神に懺悔します。彼女の村はイングランドに焼打ちされて家族を殺され、復讐したいという願望が「神の声」となって表れ、自分を戦争に駆り立てたのだということを。映画では、ジャンヌは何かに取りつかれたように、1年間を走り抜けます。要するに神は関係なかったということです。合理的説明を好む私向きの説明ではありましたが、その思い込みだけで、18歳の田舎娘にあれ程のことができるのか、という疑問は残ります。
話しは前後しますが、ジャンヌ・ダルクが登場する背景となった百年戦争とは、何だったのでしょうか。この戦争は、1337年イングランドのエドワード3世がフランスの王位継承を要求して、挑戦状を突きつけたことから始まりました。もちろん、初めから百年も戦争をするつもりだったわけではなく、結果的にそうなっただけであり、この戦争が百年戦争と呼ばれるようになったのは、19世紀になってからです。今日的な国家の感覚では、イングランド王がフランスの王位を要求するなどということは、奇妙に思われるかもしれませんが、そもそも当時のイングランドの王朝であるプランタジネット朝は、フランスの貴族でもあり、こうしたことは当時としては決して珍しいことではありませんでした。
戦争は泥沼化し、この間にペストの流行もあって、15世紀には戦場となったフランスは惨憺たる有様でした。ジャンヌが生まれた1412年頃、当時のフランス国王シャルル6世は精神障害を患って統治が困難となっていたため、その摂政の地位を巡って血腥い対立が続き、この混乱に乗じてイングランドのヘンリ5世がフランスに侵入してきます。後にフランス王となるシャルル7世は、4人の兄が次々と死んだため、突然後継者となることになます。ところが、1422年にシャルル6世が死去すると、王妃でありシャルル7世の実の母であるイザボーは、シャルル7世がシャルル6世の子ではなく不倫の子であるとして、王位をイングランド王ヘンリ5世に与えると約束したのです。しかし、この年ヘンリ5世は死去し、ヘンリ5世の子ヘンリ6世がイングランド王となり、フランス王にも即位します。ヘンリ6世は、この時1歳にも満たない乳児だったので、フランスの大貴族ブルゴーニュ公が後見にとなり、これに反対する貴族たちがヘンリ7世を担ぎ上げます。まさに無茶苦茶です。ヘンリ7世には何の力もなく、イングランド軍は破竹の勢いでフランス侵攻を進め、南部のオルレアンを包囲します。もしオルレアンが陥落すれば、シャルル7世はすべての権力基盤を失うことになり、そうした時に突如ジャンヌ・ダルクが出現するわけです。
前にも述べたように、シャルル7世は藁にでもすがる思いで、ジャンヌ・ダルクにかけたのかも知れませんが、それでも18歳の田舎娘に軍を預けた理由としては、納得できません。シャルル7世は決して信仰深い人物ではなかったし、また無能な人物でもありませんでした。彼は、ジャンヌダルクの死後20年以上戦って、1453年にイングランド軍を駆逐し、さらにフランス王権の強化に努めます。彼によってブルボン朝による絶対王政への道が開かれたといってよいのではないかと思います。その彼がジャンヌを用いた理由は、結局私には分かりません。
一方、ジャンヌは、何故シャルル7世のために戦ったのか。「神の声」に導かれたのか、それとも復讐心なのか。ただ、彼女の中に後世から見れば、新しい要素、つまり祖国としてのフランスという意識が見られます。当時にあっては、国民などというものは存在せず、一般の民衆にとって国王が誰であるかなどということは、どうでもよいことでした。そもそもフランス国民などというものが登場するのは、フランス革命においてでした。ただジャンヌは、祖国が真の危機にあるとき、祖国のために戦わねばならないこと、そして正統なる君主を伝統の地ランスで戴冠させねばならないとして、そのために戦ったのだと思います。シャルル7世がジャンヌを用い、男たちがジャンヌの下で戦った理由は、その辺にあるのではないかと思います。
ジャンヌによってフランス国民意識が形成されたとするのは、言い過ぎだと思いますが、その片鱗が認められるように思います。そしてジャンヌが人々から高く評価されるようになるのは、19世紀に国民意識が発展してきた時代でした。この時代にジャンヌはフランス国民の象徴とされ、さらに聖人に祭り上げられました。しかしジャンヌについては疑問点が多すぎ、ジャンヌの実像がどのようなものであったのか、未だに私には分かりません。