2014年7月28日月曜日

黄金マクワウリ

 今年は試に黄金マクワウリの苗を2本だけ植えてみました。最初の1個は収穫するのが早すぎて、キューリの様な味でした。そこで次は、収穫してからしばらく間をおいて熟させてから食べようと思ったのですが、マクワウリはメロンと異なり追熟ができないので、落ちるまで熟させる必要があるようです。慌てて食べてみましたが、前回よりはウリらしい味になっていました。まだ4個なっているので、次こそ失敗のないようにしたいと思います。



 今年は4種類のカボチャの苗を植えたので、4種類のカボチャができました。ウリと異なり、カボチャは収穫してから3週間以上おいておく必要があるそうです。先日、待ちかねて食べたら、まだ水っぽかったです。作物はそれぞれ性質が異なり、難しいですね。今年はカボチャは豊作で、まだ次々と実をつけつつあります。現在サツマイモも栽培中ですが、庭中カボチャとサツマイモの蔓で、足の踏み場もありません。




 栗が20個ほどなっています。去年初めて3個なったのですが、中の実が成熟していませんでした。今年は肥料を大量に与えたので、もしかしたら実も成熟するかもしれません。20個あれば栗ご飯ができます。なお、桃は実をつけたのですが、縮葉病にかかり、結局実は梅干しみたいになって終わりました。縮葉病を避けるためには、冬に予防薬を散布しておく必要があるようです。







2014年7月20日日曜日

海賊のこころ

門田修著 筑摩書房 1990
「スールー海賊訪問記」というサブタイトルがついています。著者の門田氏は、「漂海民」に憧れて、インド洋や東南アジアの海で彼らと生活をともにし、また「海賊」なるものにこだわり続けた人物で、私のような「小心」な人間には到底真似できないことです。














スールー諸島(ウイキペディア)

スールー海は、フィリピン南部のミンダナオ島からボルネオにかけての島々で、一応フィリピン領ではありますが、フィリピン政府の統治がほとんど及んでいない地域のようです。15世紀半ばにマラッカ王国からアラブ人がここに王国を築き、この王国は実に19世紀末にアメリカに併合されるまで続きます。この王国の宗教はイスラーム教であり、アラビア語を公用語とし、中継貿易で繁栄し、海賊行為も行っていました。





 陸を移動して暮らす人々がいるように、海を移動して暮らす人々がいます。彼らは船を住居として暮らし、漁業を生業とし、時には商業を行い、時には海賊行為も行います。我々が従来学んできた歴史は、陸の権力者の歴史であり、海に生きる人々は無視されてきました。しかし最近海のネットワークが注目されてきたことから、漂海民についても注目されるようになってきました。今日では、漂海民が生きていける場所はずいぶん減り、海賊もずいぶん減りました。それでも、スールー海、マラッカ海峡、ソマリア沖などは、今日でも海賊が出没しますが、マラッカ海峡では周辺国の協力により、ずいぶん海賊が減ったようです。最近ではソマリア沖の海賊が激増しており、スールー海の海賊事件数はソマリア沖の海賊事件数に一位の座を譲ったようです。
 海賊というと「パイレーツ・オブ・カリビアン」に登場するような海賊を想像しがちですが、本書によると、スールー海の海賊は少し違うようです。筆者は何人かの海賊にインタビューをしていますが、彼らは海賊行為や殺人にほとんど罪悪感をもっておらず、強い者が弱い者を倒して物を奪う行為を、自然の行為と考えているようです。しかも、スールー海の海賊は、主に貧しい地元の漁師を襲います。漁で獲った魚や貝を、またそれを売って得た金を奪い、時には命も奪います。
 なぜ彼らは海賊となったのか。貧困によりやむを得ず海賊を行うという説明があります。しかし著者の聞き取り調査では、親族に海賊がいたから海賊になったというケースがほとんどのようです。彼らは国家などはまったく信用せず、親族の繋がりのみを重視します。したがって親族やそれと関わる人は決して襲いません。著者が海賊に会うことができたのも、親族の繋がりに頼ったからでした。また、海賊行為はヨーロッパの侵略に対する反抗という見方がありますが、海賊行為はヨーロッパの進出以前からあり、それが現在一つの要因となっているとしても、本来の原因とは思われません。
結局著者の結論は次のようです。「弱い者は襲われてもしょうがない」「こんな海賊たちの非人道的な考え方、いや、感じ方は人間を生態系の一部として見做す意識が強いからではないだろうか。海底にころがるナマコや海面を走るアカエイや、ジンベイザメや、動かない珊瑚虫と同じように人間を観察するのだ。それら命あるものは、海で生きる者にとって採集の対象物である。人間もまた例外ではない。生命は護るべき、慈しむべきものでなく、狩り獲り利用すべきものなのだ。そのあとは熱帯の太陽が再生産してくれる。バランスが崩れない程度の採集を行っている。自然を熟知した者の行いだ。」

このような著者の結論が正しいのかどうか分かりません。人間は魚ではないので、ただ弱いから殺され奪われた、ですむのでしょうか。今一つ納得のいかない結論でしたが、人間の営みには、こうした側面もあるのだとは思います。


私が愛した春日野道

  私は、仕事の関係で神戸で4年間を過ごしました。私にとっては名古屋との間を行き来する苦しい日々でしたが、20113月に神戸を去るに当たって、この文章をブログに投稿し、まもなくブログを閉鎖しました。したがってこれが大学のブログでの最後の投稿となります。

私は、神戸に滞在している間ずっと、夕食を春日野道の商店街で食べてきました。神戸製鋼があった時代には、春日野道は映画館や風呂屋が何軒もある繁盛した町だったそうですが、今はすっかり寂れてしまいました。総じて、このあたりの商店に共通しているのは、経営者が高齢化して後継ぎがおらず、そのために商売にあまり欲がなく、商店街の中でお互いに店を訪問し合って成り立っている感があります。ということは、外からの新しい客が非常に少ないということです。私などは、この商店街では数少ない新顔の客ということになります。
 私が一番よく行く店は、この商店街のなかほどにある「大関」という居酒屋です。というのは、この店のママの両親が以前魚屋をやっていたため、魚が新鮮だということ、また注文に応じて何でも作ってくれるからです。一人暮らしをしていると、病気になった時に食べるものがなくて困るのですが、よくここでお粥や雑炊を作ってもらいました。いわばこの店は私のダイニングのようなところです。この店は、基本的にはママが一人で経営しているのですが、時々ご主人やママのお母さんが手伝いに来ます。このお母さんは肺癌で手術し、すでに80歳を越していますが、今も元気そのものです。
 この店の隣に、「足立時計店」があり、80歳を越した老夫婦が経営しています。この老夫婦に腕時計の電池交換をしてもらうのは心痛むものがありますが、本人は40年間時計屋をやっているので、どんな時計でも修理できるというのが自慢です。でも今時、時計を修理する人なんているんでしょうか。その隣に、名前は忘れましたが、タバコ・酒屋があります。こここのお爺さんは大変元気者で、息子さんが後を継いでいます。とは言っても、お爺さんが80歳を過ぎていますので、後継者も決して若いとは言えません。「大関」の向かいに「勉強堂」という古本屋があり、ここのおばあさんがタバコ屋のお爺さんの同級生だそうです。この「勉強堂」は息子さんが経営しており、私はかなり沢山の本を買ってもらいました。古本屋のホームページには、よく本を直接とりにいきます、と書いてあるのですが、実際には100冊や200冊の本では来てくれません。しかしここのご主は、私を車に乗せて気持ち良く学校まで本を取りに来てくれ、大変助かりました。
 「大関」の裏に「まねき寿司」という寿司屋があります。ここの大将は68歳で、あと2年で開業して50年になるので、その時に引退すると言っています。この店は午後6時に開店し午前3時まで営業しています。以前は、バーのホステスなどが仕事の帰りに寿司屋に立ち寄ることがよくあったのですが、最近はそういう客もずいぶん減っていると思います。でも大将は、昔からのやり方なので、このまま続けると言っています。この町の商店主は頑固な人が多く、昔からのやり方を決して変えようとはしません。また、この店は出前をやっているのですが、出前をやる以上一人では経営できないので、バイトを雇っています。ところがこの大将は口が悪く、バイトを口汚く叱り飛ばしますので、すぐバイトが辞めてしまいます。今年の正月には、「今年は怒らないと決めた」と言っていましたが、言っている先から怒っていました。現在バイトが一人、かろうじて続いていますが、はたしてこの店はあと2年続くのでしょうか。
「大関」から少し南へ下がったところに「中川」という洋食屋があります。ハンバーグ、カレー、シチューなどをおいている、昭和の初期の洋食屋を思わせるような店で、老夫婦が経営しています。ここは飲み屋ではないので、本来私がいくような店ではないのですが、一人暮らしをしていると、たまにこうした料理を食べたくなるのです。ボリュームが多く、たまに栄養をとるのに最適の店です。この店のマスターは無口で、あまり客の前に出てきません。なお、この店は日曜日が定休日で、こうした店は日曜日に家族連れが来るのではないかと言ったのですが、「昔からのやり方なので」と言って変更しようとしません。ここのマスターも頑固なおやじでした。
春日野道商店街の阪急駅に近いところに「東雲庵(しののめあん)」という蕎麦屋があります。私は蕎麦が好きなのですが、神戸には蕎麦屋がすくないため、よくここに食べにいっていました。ここの大将は変な人で、いろいろな仕事を転々としたのちに、30歳を過ぎてから蕎麦屋に弟子入りし、私が神戸に来る半年ほど前に春日野道で開店しましたそうです。それまで大将が修業していた店は元町にある「卓」という店で、経営者はここの大将より若い人で、なかなか腕のいい職人でした。どちらの大将も味には拘りがあるのですが、どうも神戸では蕎麦は好まれないようで、客の入りが今一なのが残念です。
「東雲庵」の向かいに「みくみ」というスナック風の飲み屋があります。ここのママは以前三宮でスナックを経営していたようで、客あしらいがうまく、私もストレスがたまった時には、しばしばこの店で飲んでいました。この店は三宮以来のなじみ客が多く、いつ行ってもなじみのお客さんがいます。お互いに名前を知らないのですが、結構お客さん同士で話が盛りあがっています。なお、私は今回引っ越しに当たって、この店のママに紹介してもらった業者にお願いしましたが、大変安い金額で引き受けてくれ、大変助かりました。
春日野道商店街の阪神駅に近いところに、「よろこんで」という寿司屋があります。若い夫婦(春日野道の他の店と比べて)で経営している寿司屋で、中に入ると大将が大きな声で「いらっしゃいませ」というので、まず驚かされます。そして注文すると「よろこんで」と答えます。ここはネタもシャリもやたらに大きく、私などは6貫も食べるとお腹がふくれてしまいます。また赤出汁はほとんど丼ぶりのような器に入っており、とても全部は飲めないので、いつも半分の量にしてもらっています。
 「大関」の近くにジパングという喫茶店があり、私はよくここでモーニングを食べます。この店も若い夫婦が経営しており、年中無休で朝7時から店を開いています。私は、職業柄なのか、若い人が頑張っているのを見ると応援したくなります。それだけではなく、私は新聞をとっていないので、毎朝喫茶店で新聞を読むのですが、ここは色々な新聞を置いているので好都合です。また、焼きたての卵焼きを挟んだサンドウィッチが、私のお気に入りです。
 私のマンションの近くに中央鍼灸院という治療院があります。ここは保険が使用できて、20360円という格安なので、以前よく行っていました。ところが、共済組合から病気でもないのに整体治療に保険を使うことはできないという通達があったため、あまり行かなくなりました。この治療院の先生はよく喋る人で、治療している間中喋り続けています。春日野道の噂話について色々教えてもらいましたが、もしかするとこの先生を通じて私の噂が春日野道中に広がっているのかもしれません。

 

2014年7月9日水曜日

ロシア映画「 アンドレイ・ルブリョフ」を観て

 この映画は「映画でロシア史を観る」の続編で、時代的には「アレクサンドル・ネフスキー~ネヴァ川の戦い」と「イワン雷帝」の間の時代です。この映画の舞台は15世紀初頭のモスクワ大公国であり、モスクワ大公国はまだモンゴル(キプチャク・ハン国=ジュチ・ウルス)の支配下にありましたが、この時代にはジュチ・ウルスは分裂状態に在り、そうした中でモスクワ大公国が自立化への道を歩み始めた頃でした(「映画でロシア史を観る」参照)。そして、主人公のアンドレイ・ルブリョフは、イコン(聖画像)の製作者で、私は彼について名前も知りませんでした。

 ところで、イコンとは何でしょうか。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教においては、誰も神の姿を見た者はいないのですから、神の姿を描いて拝むことは許されません。しかし、直接神の声を聴いた預言者は別として、多くの人間は何か具体的なしるしがないと、容易には信じることができません。そこで、イエス・キリスト、聖人、天使、聖書における出来事などを絵に描いて、それを拝むようになります。これはユダヤ教でもキリスト教でも行われていますが、イスラーム教は厳しくこれを禁じます。ムハンマドは、キリスト教がイエスを神として祭り上げたことを批判し、ムハンマドは崇拝の対象でないことを厳命し、したがってムハンマドの絵を描くことも禁止されました(映画でイスラーム世界を観る)
 これに対して、ローマ・カトリック教会もギリシア正教も聖画像を認めており、普通「イコン」という場合、ギリシア正教とそれを受け継いだロシア正教会のものを指しますので、ここではイコンについてのみ話します。正教会では、崇拝の対象はイコンそのものではなく、イコンの現像あり、「遠距離恋愛者が持つ恋人の写真」「彼女は、写真に恋をしているのではなく、写真に写っている彼を愛している」と説明されます。つまりイコンは崇拝の対象ではなく、崇拝の媒介であり、人はイコンを通じて霊の世界やそこに住む者に触れることが出来るようになる、ということです。こうした議論は、私のような部外者には何と無くこじつけのよう聞こえ、この点に関してはイスラーム教の方がはるかにすっきりしているように思えます。

 イコンがこのようなものであるとするなら、イコンを描く画家は単なる職人であってはなりません。ウイキペディアによれば、「真のイコン画家にとりイコンの制作は習練と祈りの道、修道の道そのものであり、この世と肉体の情念と欲からの解放がなされ、人の意志が神の意志に従えられていなければならない。真のイコン画家は自分のため、もしくは自分の光栄のためにではなく、神の光栄のために働く」ということです。

 ここでようやく本論に入ることができます。イコン画家リブリョフは禁欲的な僧侶であり、イコン画家としての技量は広く認められていましたが、彼自身は自らの描くイコンに納得していませんでした。当時のイコンは、威圧的なイメージで描くことで人々を恐れさせ、信仰を守らせようとする傾向がありましたが、リブリョフはもっと心を癒す慈愛に満ちたイコンを描くべきだと考えており、そうした迷いのためにイコンを書けなくなっていました。この間に、混乱するモスクワ大公国において、多くの悲惨な事件に遭遇し、彼は悩み苦しみます。そして、たまたま戦乱の中で一人の兵士を殺してしまいます。もちろん戦乱中ですから、兵士を殺しも罪に問われることはないのですが、僧侶としては殺人は許されませんし、血で汚れた手でイコンを描くことなどできません。そこで彼は自らへの罰として、絵筆を折ることと無言の行を行うことを誓います。


 この間に彼は一人の佯狂者(ようぎょうしゃ)に出会います。佯狂者とは正教会の聖人のことで、ぼろをまとって徘徊する聖人のことで、これもウイキペディアによれば、「佯」とは見せかけの意であり馬鹿を装いキリストの真理を明らかにする者、だそうです。こうした人々はロシアの歴史にしばしば登場し、このブログの「映画でロシア史を観る バトル・キングダム」で触れた聖ヴァシリ大聖堂は、佯狂者ヴァシリに因む教会です。この映画に登場する佯狂者は少女で、少し知能が低いのではないかと思われますが、純粋無垢な少女でした。彼女が本当に佯狂者であったどうか分かりませんが、少なくともルブリョフは彼女の中に信仰のあるべき姿を見出します。

至聖三者(ウイキペディア)

 その後10年以上の歳月が流れ、ある事件をきっかけに彼は無言の行を止め、絵筆をとることを決意します。この絵は彼の代表作で、「至聖三者」というタイトルがついています。率直に言って、私はこの絵の真価を理解できません。旧約聖書でアブラハムの前に現れる三人人の天子を描いたものだそうで、三人の天子が一つとなって神の姿が暗示されているのだそうです。西欧でのルネサンス以来の写実主義に毒された私には、こうした絵の価値を理解することができません。ミケランジェロは、システィナ礼拝堂の天井壁画「天地創造」で、何と神の姿を描いています。下の絵が、ミケランジェロが描いた神の顔で、私にはこちらの方が分かりやすいのです。








ミケランジェロ「天地創造」(ウイキペディア)





















 この映画が完成されたのは1966年でしたが、ソ連で上映されたのは1971年でした。ソ連当局によれば、残酷な場面が多い、人民に力強さがない、などの理由で上映が許可されなかったそうです。しかし、この映画はルブリョフが生きた時代を通してルブリョフが芸術家として成長する過程を描いたものですので、残酷な場面や哀れな人民の姿は不可欠でした。結局、205分あった本編を185分に短縮して公開されることになりました。ところが、この映画は一般公開の前に試写会で一部の映画専門家などから高い評価を受けており、1699年のカンヌ映画祭で、ソ連の出品要請がないにも関わらず、映画祭の最後の日に招待作品として上映され、高い評価を得ました。

 この映画は私には理解できない部分がかなりありましたが、それでも一人の芸術家が苦悶しつつ成熟していく姿は、私にとっても興味深いものでした。すこしニュアンスが異なりますが、2004年の「真珠の耳飾りの少女」という映画は、フェルメールがこの絵を描く背景を想像して描いた映画で、大変面白い映画でした(グムーバル・ヒストリー 第19章 17世紀 オランダの世紀」を参照) ルブリョフの生涯についてはほとんど知られていませんので、映画は、当然彼の残した作品から彼の苦悶を想像して生まれた創作だと思われます。

モンゴル帝国とモスクワ(山川世界総合図録)

 常に「歴史」という視点で映画を観る私にとっても、この映画は興味深いものでした。モスクワ大公国については、15世紀末のイヴァン3世以前につい以外にはほとんど知りませんでしたので、この映画は参考になりました。特に興味深かったのは、モンゴル人(タタール)との関係です。モスクワ大公の地位をめぐって兄弟が争い、弟がタタール人と結んで兄を倒そうとします。映画では、ロシア人よりモンゴル人の方が洗練されて描かれており、むしろロシア人が野蛮に描かれているように思われます。この点もソ連当局の気に入らない点だったのかもしれませんが、それは当時にあっては事実であったと思います。ロシア人は、「タタールの軛」という言葉で「野蛮なモンゴル人」による支配を表現しようとしますが、それは間違いです。
 モスクワは、広大なモンゴル帝国の西北のはずれ、まさに辺境の地であり、それに対してモンゴル帝国は、イスラーム世界と中国という二つの文明圏を内部に抱えていたのです。やがてロシアは西欧に再度接近を図りますが、常にロシアにはアジアとヨーロッパという二つの顔が存在し続けました。



2014年7月8日火曜日

その後の「動物園」

以前私は、大学のホームページでの自己紹介で、「私の出会い」というタイトルの文章を書きました。

掘立小屋が並んでいるだけの動物園















動物とは自由に触れ合うことができます















かなり汚い動物園です


















犬と猿が共存しています
















 「旅には色々な出会いがあります。私は紀伊半島の旅が好きで、よく42号線を車で走りました。この道路の途中の紀伊長島の近くに、「動物園」という名前の不思議な動物園があります。当時(今から10年以上前)60歳を過ぎた「オジサン」が一人で経営している動物園で、入場料はわずか200円、客も少なく、どうやって経営しているのか不思議に思っていました。でも、私はこの動物園が何となく好きで、42号線を走る際には、必ず立ち寄り、何も語らず立ち去っていました。
ところが、あるときこの「オジサン」が、突然私に身の上話を始めたのです。自分は小学校のときに遠足で伊勢神宮に行き、そこで大きなガマガエルを見た。このガマガエルを自分で飼ってみたいと思ったのだが、伊勢神宮までは遠かったので、まず新聞配達をしてお金をため、自転車を買って伊勢神宮に行き、ガマガエルを捕まえた。これをきっかけに色々な動物を飼い始めるようになった、というのです。
この話を聞いて私は、私がこの動物園に不思議な魅力を感じていた理由を理解しました。この「オジサン」は動物園を経営しているのではなく、単に本人が色々な動物を飼いたくて、それが結果として動物園になっているだけだということ、したがって、この動物園は実は動物園ではなく、「オジサン」と動物が一緒に生活する「場」だったのです。だから私は、この動物園に不思議な魅力を感じていたのです。
この「オジサン」が、突然、私に身の上話を始めた理由は分かりません。さらに10年近くこの動物園には行っていませんので、現在この動物園がどうなっているのかも分かりません。この機会に、この動物園を再建するプロジェクトを立ち上げたいとも思うのですが、この「オジサン」は相当偏屈な人なので、私の言うことなど聞いてくれないでしょう。」

整然とした綺麗な動物園になりましたが、動物の気配がしません
















 実は2年前(2009)3月に、久しぶりにこの動物園を訪問しました。ところがこの「オジサン」は、前の年の12月、つまり4か月前に亡くなっていました。その後、「オジサン」のただ一人の協力者だった奥さんは、一人では動物園を経営できないので、実家のある鳥羽に帰ったそうです。そこで地元の人たちが話し合った結果、ボランティアによって動物園を維持することが決まり、また出資する人がいて、動物園はきれいに改築され、若いボランティアの人たちがせっせと働いていました。
 私はボランティアの女性に、「オジサン」は面白い人でしたね、と言ったら、「無茶苦茶な人でした」という答えが返ってきました。この動物園は、「オジサン」のいい加減な動物管理のため、しばしば動物が逃げ出して、近所の人たちに迷惑をかけていたようです。確かに動物が逃げ出すのは問題ですが、動物園がきれいになり、動物の管理がしっかり行われるようになった結果、この動物園の魅力が失われてしまいました。結局この動物園は、オジサンの、オジサンによる、オジサンのための動物園だったのです。

















2014年7月3日木曜日

新・世界の歴史






















L・Sスタブリアーノス著 猿谷要監訳 斎藤元一訳、1991(原著1989)
本書には、「環境・男女関係・戦争からみた世界史」というサブタイトルがついています。監訳の猿谷要氏は、アメリカ史を多様な側面から、大変分かりやすい言葉で解説してくれる歴史家です。以前ずいぶん同氏の著書を読み、多少大袈裟かなとも思いつつ、それでもいろいろ教えられました。今回、同氏が2011年に逝去されたことを知り、大変残念に思います。
本書の解説で、要氏は「大変な歴史書があらわれたものだ」と絶賛していますが、私が読んだ印象としては、とくに目新しいものは見つかりませんでした。もちろん25年も前に書かれた本ですから、当時としては斬新だったのかもしれませんが、今日読んで感銘を受けるという内容ではありませんでした。
本書の核心部分は、人類の歴史を、親族社会、貢納社会、資本主義社会の三つに区分している点ですが、これはマルクス主義の時代区分とどう違うのか、よく分かりませんでした。また、こうした時代の転換の要因として、いろいろ述べてはいますが、結局は人口増加にあるとしているように思いますが、確かに人口増加は大きな要因ですが、人口増加を自然に抑制している社会もあり、少し単純ずるような気がします。一方本書は、これら三つの段階をそれぞれに四つの「命綱」を当てはめ、人類の営みを解明しようとします。四つの命綱とは、エコロジー(自然と人類の関係)、性関係(人類のなかの男女の関係)、社会関係、戦争です。これも個々の内容に関しては、特に目新しいものはありませんでした。

ただ、一人の人間がこうした内容を体系的に書くことには、歴史を捉える一つの視点を提供するものとして意味があるように思います。とはいえ、幾分書き方が乱暴ではあります。例えば、「ヨーロッパ人と中国人との大きな違いは、その動機だった。利潤か死かという風潮が、ヨーロッパ人を大海原を越えて諸大陸に雄飛させた一方、中国人は、利潤に対する貪欲さを「あらゆる危険のなかで最悪のもの」として警告していた」などという対比の仕方は乱暴すぎます。ヨーロッパは下品で中国は上品、でもヨーロッパは勝ったと言っているようで、幾分うんざりしました。


2014年7月2日水曜日

ある便り

今年(2007)9月に、突然私の下に郵便が届きました。そこには一冊の写真集と手紙が入っていました。この郵便を送ってきたのは、20年以上前に私が教えた女子学生で、この子(現在では多分40歳代と思われる)については、よく覚えていました。何しろ、毎日のように私の所へやってきて、私に哲学的な議論ふっかけてきたため、20年以上前とはいえ、さすがに印象に残っていました。この手紙を受け取った後、何度か彼女とメールのやりとりをしたのですが、この手紙と、やり取りしたメールの内容を、本人に了解の上で、ここに公開したいと思います(当時大学のブログで公開しました)
 なぜ私がこれらのメールを公開する気になったのかといえば、それが「自分とは何者なのか」という問題を扱っており、若い人の心に訴えるものがあると思うからです。


送られてきた本の表紙です。写真の人物はラマナ・マハルシというインドの思想家で、この本は彼と彼の生きた場所の風景を写した写真と、彼が述べた言葉からなっています。


大塚先生、今日は~
お元気でお過ごしでしょうか。
突然のお便りとこの本を見て、いったい何ごとだ?といぶかしく思っていることでしょうね。
お送りした本は、親しい友人が監修したものです。この本ができあがって、私の手元に届いたとき、ずっと忘れていた先生のことを思い出したんですよ。ですので、いかにも唐突かと思いましたが、河合塾でまだ教えてらっしゃることが分かってそちらにお送りすることにしたという次第です。
思い返せば、私が先生のお世話になったのは、もうかれこれ25年以上前のことです。当時の年齢以上の時がすぎてしまったと思うと、本当にびっくりします。時の経つのはなんと早いことでしょうか。そんな大昔のことですので、先生はたぶん私のことはよく覚えてらっしゃらないと思います。
生きることの意味の根本を知るすべは哲学しかないと思い詰めてしまっていた私に、あの時先生はラーマクリシュナ(1)の本を下さって、西洋哲学をやっても自殺するだけだって話をしてくださったんです(2)。当時の私はものすごく深刻で大変な状態で、先生のお話の意味するところはよく分らなかったのですが、あらためて振り返ってみると、あんな状況で、あんなアドバイスをくださるなんて、なんて不思議なことか……じつにありがたい巡り合わせだと思わざるを得ません。
言葉と思考を超えた世界を指し示してくださったこと、今では本当に感謝しています。こうした無数の導きのおかげで、今こうしてありがたく生きていられると感じています。人生というのはじつに不思議なドラマですね~。
おかげさまで、今は毎日笑って、楽しく暮らしています。
本当にありがとうございました。
お送りした本、とってもすばらしい本です。
先生の興味が変わっていなければ、きっと喜んでいただけるのではないかと思います。
先生もどうぞお元気で、お幸せにお過ごしくださいね-。
                         愛と感謝をこめて~

(1) ラーマクリシュナは、19世紀後半のインドの神秘思想家で、ヒンドゥー教の復興に大きな役割を果たすとともに、ヨーロッパの思想にも影響を与えました。ラマナ・マハルシもそうした思想家の一人です。なお、私が彼女に贈った本は、ロマンロランの「ラーマクリシュナの生涯」です。
(2) 私は、「西洋哲学をやっても自殺するだけだ」と言った記憶はありませんし、その様に考えたこともありません。ただ、もし私が言ったとすれば、当時の彼女が西洋哲学の言葉の中に埋もれて抜け出せなかったと、感じたからだと思います。


大塚です。本とお手紙を送って頂き、有り難う御座いました。あまりに突然だったので、大変驚きましたが、貴女のことはよく覚えています。当時私が貴女に話したことについては、あまり覚えていませんし、当時の貴女の悩みの本質をあまり理解していたとは言えませんが、当時貴女が破滅的な方向に向かっているような予感がしたため、ラーマクリシュナの本を差し上げたのだと思います。貴女が大学を中退した後、貴女が編集した本を私に贈ってくれました。その内容はよく理解できませんでしたが、貴女がカルトの世界に傾斜しつつあるような危惧を感じていました。
さて、私は現在でも、インド思想に強い関心を持ち続けていますが(憧れといった方がよいかもしれません)、残念ながらほとんどそれについて勉強することはありませんでした。おそらく、この世界に入り込むことが怖くて、意図的に目をそらせていたのでしょう。先週貴女から贈られた本を読みましたが、残念ながら写真も文章の意味も、十分理解できませんでした。でも、何か気になり続け、何度も繰り返し読むうちに、なぜか心が激しく動揺し始めました。それでも、やはり写真と言葉の意味は理解できません。
私が僅かに知っているインド思想は、おそらく欧米人の解釈を通して得られたものであり、欧米思想のフィルターを通して学んだものだと思います。解説する欧米人が、いかに論理を超えた世界として解説しても、そのことが欧米人の論理で説明されています。しかしラマナ・マハルシの言葉は互いに矛盾しているように思われ、彼の一つ一つの言葉を全体の中で捉えることは、私にはできません。今度は、貴女が私の師となって下さい。
 これからも愉快な毎日が過ごせるように祈っています。


2007年10月
メール、ありがとうございました~。
先生の感想は意外でもあり、また理解できるものでもありました。
当時私の身に起こったことは、誰でも一度は感じたことがあるであろう実存的な疑問、私は誰で、ここでいったい何をしているのか、このすべてはいったい何なのか?
というものでした。そうした問いが突然、雷に打たれたようにやってきたため、私自身の目から見ても、自分が破滅していくような気がしたものでした。
今ではそれは祝福だったと感じられますが、当時はそれどころではありませんでしたね。
ともあれ、教授が慈悲深い人だったせいもあって、大学はめでたく中退せずに卒業することができたんですよ。ありがたいことです。
しかし人生とは不思議なものですね。今になって、先生のなかにある魂の憧れが、私を呼び戻したんでしょうか・・・。 
先生が感じる恐怖というものは、とても分かる気がします。自分の思考、名前や形という、慣れ親しんだアイデンティティを後にするわけですから。海のひとつの波、空のひとつの雲が自分だと思っていたのに、実は海そのもの、空そのものだと気づくことになるわけですから。
以前の私は死んで、今こうしてありがたく存在している、ということからすれば、破滅も悪くないですよ(笑)。とはいえ、こういったすべては全部内面的なことで、外面的には、毎日の生活をごくごく普通にありがたく、しかも楽しく送っていますが。
ご自分の魂の憧れに忠実にしたがっていけば、必要なことは起こっていくと信頼して大丈夫ですよ。
とりあえず、先生が読んでみたかったら、お勧めできる本がいくつかあります。
「不滅の意識」ラマナ・マハリシ ナチュラル・スピリット (お送りした写真集より文が多いので、理解しやすいかも)
「エンライトメント」OSHO 市民出版社 (私の直接の師はOSHOです。直接会う機会はありませんでしたが、計り知れない恩恵を受けました。これはすばらしい本ですよ~)
「悟りを得れば、人生はシンプルで楽になる」エックハルト・トール 徳間書店 (これは原題はthe Power of Nowという本で、もし英語が読めるんでしたらそちらをお勧めしま
す。いわゆるインド哲学ではありませんが、お勧めです)
OSHOは言っています。真理は言葉にはできない、月をさす指に噛みつこうとしないで、月を見るように、と。
また何かありましたら、いつでもメールくださいね。
それでは~。幸運をお祈りしています。愛をこめて



2008年2月

早速ですが、貴女に一つお願いがあります。
現在私は神戸の大学で教師をしています。週45日を神戸で過ごし、週末には名古屋に帰ってきます。河合塾には週1日行っています。この大学のホームページの私のブログで、貴女と交わしたメールを公開したいと思うのですが、いかがでしょうか。もちろん貴女の名前は決して出しません。
 なぜかというと、今の学生たちを見ていると、心に傷を負った子供たちがあまりに多いと感じているからです。貴女とのメールが直接彼らの抱える問題を解決できるとは思いませんが、直接言葉で語るより往復書簡という間接的(あるいは第三者的)な形で示せば、何かを訴えることができるように感じています。もし、承諾頂けるなら、返事を下さい。
ところで、前のメールで、当時の貴女を十分理解できなかったと書きました。誰もが、若い頃に「自分は何者なのか」と問い続けますが、貴女のようにとことん突き詰めて考える人は稀だと思います。私が貴女について理解できなかったのは、その点にあるのだろうと思います。多くの人は、答えが見つからないまま日々を過ごし、そのまま人生を終えて死んで行きます。そして私もそうした人々の一人だろうと思っています。
私は相変わらず悩み多い日々を過ごしていますが、それでも、歳をとったせいか、肩肘を張らずに、自分のあるがままの姿を晒して生きています。ところが、大変不思議なのですが、悩み苦しんでいる自分を面白そうに見つめている、「もう一人の自分」が存在しています。言い換えれば、「もう一人の自分」が「悩み苦しむ自分」を面白がって見つめているのです。どちらが本当の自分なのかは分かりませんが、この「もう一人の自分」のおかげで、私は心の均衡を保てているのではないか、と考えています。したがって私自身の心は比較的平穏です。
 ラマナ・マハルシの本を読んで動揺したのは、どちらの自分だったのかも、よく分かりません。ただ、今は、この本を読んで心が動揺することはありません。むしろこの本を読むと心が落ち着くため、いつも手元に置いています(相変わらず、あまり意味が分かっていませんが)
 結局私は、無理にインド思想の世界に入り込むのを止めました。「在るがままの自分」を維持し、時にはマハルシのような魂の世界にも入り込んでみたいと思います。また、何冊かの本を紹介してくれましたが、今は読むのを止めておきます。これ以上の言葉や文字は、かえって私を混乱させるように思われるからです。ただ、一つの言葉だけが、私の心に張り付いて離れません。「私は私であるものである」です(この言葉自体は知っていたのですが、今まで深く考えたことがありませんでした)。一瞬分かりそうになったことが何度もありましたが、その度に答えが遠のいていきます。おそらく、「言葉」に拘っているために、答えにたどり着かないのでしょう。もう少し、自分で考えてみようと思っています。
追伸
 ふと思い出したのですが、貴女のアドレスのアジータというのは、仏典に出てくる名前ではなかったでしょうか?

こんにちは、お久しぶりです。
メール、ありがとうございました。
本をお送りして、その後、どうしていらっしゃるかなーとときどき思っていました。
もう一人の自分のお話、とても興味深く拝見しました。インド哲学だろうとなんだろうと、実際生きることのなかで、人は真実を知っていくのだと思います。特定の何かが大切なのではなく、おっしゃるとおり、求める気持ち、実際に生きて学ぶことが肝心なんでしょうね。
また、最近は、あの本を見ると落ち着くとのこと、よかったなーと思っています。
さて、交換メールの公開についてですが、若い人の心に何か触れれば、そして何か私の言葉が助けになれば、とってもうれしいことですね。とりあえず、始めてみましょうか?
私はたまたま今インドに来ていまして、2月末には帰国します。
またそのころメールいただければと思います。
それと、アジータという名前ですが、はい、仏典にもでてきますし、インドでもらった名前でもありまして、今は仕事もこの名前でしています。
HPもありますので、興味がありましたら、お暇な折りにでものぞいてください。


こんにちは、先生。
 いただいたメールにインドからお返事をしたまま、半年以上なしのつぶてなので、どうなさっているかなあと思ってメールしてみました。
 お元気でお過ごしですか?
おっしゃるとおり、交換メールを公開したとしても、心に傷を負っている若い人のために、何か役に立てるかどうかはわかりませんが、何かしら社会的な働きかけをすることができるのは、とっても素晴らしいことだと思っていましたが・・・
 ただ、パタリとメールが来なくなったのは、先生が私のプロフィールをごらんになって、OSHOの弟子になったというところに引っかかっているのかもしれないなあー、と漠然と思っています。まあ、これは私の推測にすぎないのですが。
 OSHOは若い頃、バグワンという名で知られていた人で、世代的にも先生の世代は日本人の弟子も現れ始めたころと思いますので、たぶんご存じなのでしょう。
 過激な言動も多く、政治家や宗教指導者などを遠慮なく批判したこともあって、マスコミからはセックス・グル等々、社会的にひどい報道をされ、さらにその弟子たちも実際、無礼な人が多かったりしますので(笑)、伊藤さんも、なんのことはない、悪い新興宗教に捕まってたのか・・・とかなんとか、と思われたのかもしれませんね。
 そういった誤解は、一度ちゃんと彼の講話なりの書物をじっくり読んでくだされば、根も葉もないことだとわかると思いますが。
 まあ、わかる時にはわかってくださることでしょう。
 先生のおっしゃっていた「もう一人の自分」という記述は、とても興味深いものでした。
 その、あらゆることをただ見てる、ただ気づいている意識(それはいつも静かで、変わらず穏やかで、無言です)こそが、私たちの真我にとても近いものです。
 偉大な師(インド哲学であれ、禅の導師であれ、だれであれ)が共通して言っていることは、私たちはみな、悟って生まれてくる、けれども、成長の過程でそれを見失ってしまい、夢を夢と知ることなく夢遊病者のように生きているということです。 それでは確かに苦しい人生にならざるをえないでしょう。
 まあ、私自身は、目覚めたり、夢に戻ったりの繰り返しですが・・・昔の苦しさは、昔のものとなりました。ありがたいことです。
 2月にお返事したまま、その後連絡がないので、残暑お見舞いも兼ねて、一度メールしてみました。
 おひまがあれば、またいつでもメールいただければうれしいです。
 それでは、秋の気配の感じられる中、どうぞお元気でお過ごしくださいね。


2008年9月
大塚です。長い間連絡をせず、余計な心配をさせて申し訳ありません。連絡できなかったのは、貴女の問題ではなく、私自身の問題によるものです。
貴女の手紙は、大学のホームページ内の私のブログ「つぶやき」で公開されています。
このブログを通じて、学生の反応を探っていたのですが、ほとんど反応がなく、それ以上先に進めなくなってしまいました。その後、ブログを通じて色々な形で反応を探っているのですが、なかなか反応がありません。またこの間に、母が死亡し、神戸と名古屋の間を往復する生活を続けていることもあって、精神的にも肉体的にも疲労しきってしまい、ブログを更新することもできない状態でした。ようやく、少し余裕ができましたので、今後どうするかを考えてみたいと思っています。
実は、昨日、最近退学したある学生からメールが届き、退学の理由や現在の心境が述べられており、私は、先ほど返信メールを送りました。内容について触れることは出来ませんが、私はこの学生に適切なアドバイスをすることができませんでした。言葉で何を語っても、すべて空しいように思われたからです。人の心に触れることは、容易ではないことを痛感しています。
ところで、現在私はヒンドゥー教にのめりこんでいます。何冊かの本を読み、ベーダやウパニシャッドの抜粋を読んだのですが、すでにインドでは3千年も前に、「思考」あるいは「知」の極致に到達していたことに驚愕しています。またヒンドゥー教の多様性と豊かさにも驚愕しています。また、最近(といっても半年以上前ですが)、インド映画を何本か観ました。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」「ラジュー」「ザ・テロリスト」「ディル・セ」です。「ムトゥ」「大地のうた」「ボンベイ」については、ブログで感想を書いています。私は最近沢山の映画を観ていますが、それには理由があります。その理由については、また別の機会に話したいと思います。

こんにちは。
 お久しぶりです。
 そうですか・・・ハードな日々を送られていたんですね。
その後、お元気になられましたか?
 インド映画は数は見てませんが、「ムトゥ」に代表される、あの底抜けに明るい感じが大好きです。映画館で見ている人たちが、みんな一緒に踊るんですよ。
この現象界は「リーラ」つまり遊びというか戯れであって、カルマに応じて生まれ変わっていき、結局はみんな救われる(救われている)っていうような感覚がどっかにあるんではないでしょうか。
 私もいろんな師との出会いから、真実は深刻ではないということを知るに至りました。
深刻になりがちのは思考(つまり解釈)であり、過剰な思考は病的に破滅的になりがちですよね。(その辺のことを、私は予備校で先生から教わった気がするんですが・・・)
言葉はむなしいっていうのも、ある意味真実だと思いますが、私の場合は、先生の言葉にものすごく影響を受けたし、とってもありがたいと思っている気持は昔も今も変わりません。
 ブログも、先生が自分の楽しみのためにされれば、その楽しい感じが学生にも伝わるんじゃないでしょうか。
自分が楽しまないで、人のことを何とかしようと思っても、そりゃー無理じゃないかしらと思いますが・・・
 ヒンドゥ教にのめりこんでいるというお話ですが、その情熱や喜びが一番ダイレクトに人のハートに響くと思います。
 ではでは~。
機会がありましたら、またお便りさせていただきますね。
 どうぞお元気で。
秋の美しい景色を楽しみましょう~

2009年10月
大変ご無沙汰しています。貴女のダイレクトメールを見て、久しぶりにホームページを見てみました。相変わらず、いろいろ活躍しているようで、安心しました。とはいっても、私は貴女のことを忘れていたわけではありません。実は、この秋に、私のゼミに貴女に来て頂くことを真剣に考えていました。今回のゼミでは、宗教をテーマに取り上げ、仏教、キリスト教、イスラーム教などを対象として授業をしています。その過程で、貴女にインドでの体験などを話して頂きたいと思っていたのですが、いろいろな事情が重なって、貴女に連絡する前に実施が困難となり、大変残念に思っています。また、この様な機会がありましたら、お願いすることがあるかと思いますので、その際はよろしくお願いします。
ところで、ホームページを拝見していたところ、インド体験旅行の企画が消えていました。私も人生の終わりに近づいてきたため、一度立ち止まって見たいと思い、それにはインド旅行などもいいかなと思ったりもしていました。結局行かないような気がしますが、あまりにも長く走り続けてきたため、一度何も考えない空白の期間をつくって見たいという思いが日々強くなっています。
今後の一層のご活躍をお祈りしています。


メールいただいてから、ずいぶん経ってしまいました。
このところ、大変忙しい日々が続いていまして、お返事もしないままで失礼しました。
ともあれ、メール、大変うれしく拝見しておりました。
 宗教体験というものは個人的なものですので、私の話がお役に立つかわかりませんが、そうした機会がありましたら、喜んでお伺いしたいと思います。
 ところで、私はインド体験旅行の企画をしたことはないので、別の方の案内と混同しているのではないでしょうか。
どちらにしても、インドであれ、どこであれ、空白の時を持つのはとても素晴らしいことですよね。
 私などは自然の中や温泉などで、ぼんやり無心の時を持つのが至上の楽しみです・・・^_^
 それでは、また。
 寒くなってきましたが、どうぞお元気で~。
 with Love
アジータ