2016年11月19日土曜日

お知らせ

 このブログを始めてから3年近くが経ち、投稿件数は280件、アクセス回数は85千件を越えました。最終的には、投稿件数300件、アクセス回数10万万件を目指していますが、これは目前となりつつあります。この目標を達成した後には、少しペースを落としたいと思っていますが、その前に、少し休息したいと思います。

休んでいる間に、パソコンをウインドーズ10に替えたいと考えています。このパソコンもすでに5年使っており、そろそろ寿命が近づいているように思います。このウインドーズ7は、ほとんどストレスなく使うことができましたが、ウインドーズ10はマイクロソフトの最後のバージョンになりそうなので、20年に及ぶ私のパソコン人生の最後のものにしたいと思っています。





















 家庭菜園も順調で、今日は里芋を収穫する予定です。その後ジャガイモを収穫し、さらに大根、小松菜、ほうれん草と続きますが、これで今年の家庭菜園は終わり、また3月から再開することになります。作物には、年によって出来不出来がありますが、問題はその理由がはっきり分からない所にあります。とりあえず作って見るだけです。


2016年11月16日水曜日

「19世紀フランス 光と闇の空間」を読んで

小倉孝誠著、1996年、人文書院
本書は、1843年から1944までパリで刊行された「イリュストラシオン」という挿絵入り週刊新聞を題材として、19世紀のパリという空間を、多数の図版を用いて描き出しています。「対象となった空間は、中央市場、庭、温室、公園などのように人々の日常性に関係の深い空間と、犯罪者の世界、警察、監獄のように善良な市民にとっては縁のうすい空間の二つに大別される。前者が光の空間であるとすれば、後者はいわば闇の空間ということになろう。」

 19世紀のフランス社会史に関する本を続けて3冊読みましたが、どれも趣が異なって、大変興味深く読むことができました。私が現役だった頃には、私の読書の目的は知識を得ることと、講義のネタを探すことでしたので、社会史に関する本をじっくり読むことができませんでした。今、こうして社会史に関する本を読んでいると、私が授業で教えてきたことが、すべて虚しく思われます。

2016年11月12日土曜日

映画でボスニアを観て

トゥルース 闇の告発

2010年に制作されたカナダ・ドイツの合作映画で、ボスニアにおける国連平和維持軍による人身売買事件を描いています。この事件は、実際にあった事件で、平和維持軍の一女性警察官による暴露に基づいているそうです。
























ボスニアは、正式にはボスニア・ヘルツェゴヴィナといいますが、この地域の歴史は本当に複雑です。6世頃にスラヴ人がこの地域に侵入しますが、ギリシア正教会とローマ・カトリック教会がこの地域で布教合戦をおこなったため、両教徒が混在することになりました。15世紀にオスマン帝国の支配下に入り、多くの住民がイスラーム教に改宗したため、ボスニアの住民の半数近くがイスラーム教徒となり、これらはムスリム人と呼ばれるようになります。このように多様な民族・宗教が混在していたにも関わらず、オスマン帝国は宗教別の自治を認めていたため、大きな紛争は起きませんでした。
19世紀後半にオーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを獲得し、このことが原因で、1914年にオーストリア皇太子がサライェヴォで暗殺され、それが第一次世界大戦勃発のきっかけとなりました。第一次世界大戦後、セルビア人を中心にスロヴェニア人・クロアティア人などからなるユーゴスラヴィア(南スラヴ人の国)が誕生しますが、第二次世界大戦中ドイツに占領され、ナチスと結んだスロヴェニア人がセルビア人を激しく迫害しました。第二次世界大戦後、パルチザン闘争を行ってきたチトーが社会主義国家を建設しました。チトーは、ある程度言論の自由は許しましたが、民族主義的な言論に対しては厳しく弾圧したため、異なる民族が結婚したりして混在するようになります。しかしこの体制はチトーのカリスマ性に依存していたため、1980年にチトーが死ぬと、民族対立が顕在化してきます。
1990年にスロヴェニア・クロアティア・マケドニアが独立を宣言すると、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでも、カトリックのクロアティア人とムスリム人は独立を望み、ギリシア正教徒のセルビア人は独立に反対でした。一方、ムスリム人は多数派でしたので、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの主導権を握ろうとしますが、これにカトリックのクロアティア人が反発し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは三者が三つ巴となって内戦状態になります。これにクロアティア軍やセルビア軍が加わって、戦争は泥沼化します。こうしたて中で、相手民族を絶滅させようという「民族浄化」が行われ、大量の人々が虐殺されました。また、無差別に相手民族の女性を犯し、生まれた子供を自民族として引き入れる、といったことまで行われました。こうしたことは、一般にセルビア人の暴挙として報道されがちでしたが、クロアティア人も同じことを行っていたのです。
 今まで、隣同士で仲良く暮らし、夫婦として伴に生活していた人々が引き裂かれ、互いに憎悪をむき出しにして殺しあうようになったのです。かつてスペイン内戦でも同じようなことが起き、人々は肉体的にも精神的にもボロボロになってしまいます。1995年に国連の調停で和平協定が成立し、紛争は一応終結しました。そして多国籍部隊(平和安定化部隊)が派遣され、停戦の監視と和平の履行を担当することになります。映画は、1999年にウクライナのキエフで二人の少女が誘拐されるところから始まり、一方同じ頃、アメリカの婦人警官キャシーが、個人的な事情で民間軍事会社に入り、そこから平和維持軍の警察官としてボスニアに派遣されます。
 欧米を中心に、民間軍事会社と呼ばれる企業が多数存在します。これらの企業には、戦闘機から戦車まで保有するものもあり、国家に雇われて軍事行動を行いますが、かつての傭兵とことなるのは、運搬業務・警備・収容所の経営に至るまで、あらゆる業務を代行するところにあります。こうした民間軍事会社が急増した直接のきっかけは、冷戦終結後、各国が軍事力の削減を始め、そのため失業した軍人を雇う会社が生れてきました。彼らは、優れた軍事的能力をもっており、高給が支払われますが、新たに訓練をする必要がありません。特にテロ戦争が始まると、こうした会社が次々と生まれてきます。
 国家の側から言えば、ゼロから新兵を訓練することを考えれば、こうした会社に委託した方が安上がりです。また、国家は兵員の数を際限もなく増やすことは難しく、とくにヴェトナム戦争以降、大量の兵士の死傷については、国民の批判が高まっていました。しかし、民間軍事会社の兵士の死傷は、正規兵の死傷者としてカウントされませんので、国民の批判を逸らすことができます。イラク戦争では、アメリカ軍のおよそ1割が民間軍事会社の兵士だったそうで、当然彼らの死はアメリカ兵の死としてはカウントされていません。さらに、正規兵には行えない違法な行為を、秘密裏に行わせることも可能です。こうしたことから、民間軍事会社が急成長していったわけです。
 キャシーは首都のサライェヴォで、たまたまキエフから誘拐されてきた二人の少女に出会い、彼女たちを通して人身売買組織が存在すること、さらにこの組織には平和維持軍の多数の兵士が関わっていることを知ります。そこで彼女は、事実を詳細に調査して上司に訴えますが、相手にされません。上司は、そんなことは承知の上だったのです。本国にとっても、国連にとっても、このような不祥事を表ざたにすることはできません。何しろ、平和維持という崇高なる目的のために派遣されている人々が人身売買をしていたなどということは、少なくとも表面的には、あってはならないことです。結局、彼女は解雇され、密かに資料をもってイギリスにわたり、マスコミに暴露します。
 その結果、多くの関係者が本国に送還されましたが、処罰された人はいなかったとのことで、彼女はもとの仕事に復帰できず、人身売買は今も続いているとのことです。国連によって派遣された人々には訴追免除という特権があります。つまり何をしても逮捕されないということです。特に治安維持軍の兵士による暴行事件が頻発しており、国連もようやく実態解明に乗り出しましたが、具体的な氏名は公表されませんでした。おそらく該当者を本国に送還し、本国が処罰することになるのでしょうが、結局本国は何もせず、事件はうやむやになっていきます。
 一般に国際機関には司法の手が入りにくく、国連しかり、オリンピック、サッカーなどの国際機関でも、常に不正が取沙汰されています。世界のグローバル化がますます進行する中で、こうした国際機関に所属する人々の不正に対する罰則を明確にする必要があるのではないでしょうか。

サラエボの花
 2007年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで制作された映画で、ボスニア紛争の傷跡の深さを、一人の少女を例として描いています。
 映画では、しばしばチェトニクという言葉が出てきます。チェトニクは、第二次世界大戦中ドイツによる占領に対抗して生まれた軍事組織で、強烈なセルビア民族主義と反共産主義を掲げて、ドイツと戦うより、クロアティア人やムスリム人の大量虐殺を行い、その指導者は戦後処刑されました。そしてボスニア紛争でも、セルビアの民兵の中にチェトニクがかなり混ざっており、暴行や虐殺を扇動したとされます。もともと、ムスリム人、セルビア人、クロアティア人は、宗教と歴史的経緯がことなるだけで、言語も文化もほとんど同じでしたが、セルビアを中心としたユーゴスラヴィアが解体していく中で、異常な民族意識が高まったようです。
 映画の主人公はエスマという女性と、その子で12歳のサラという少女です。サラは、男の子に交じってサッカーをするような活発な少女で、修学旅行に行くことを楽しみにしていました。しかし家庭は貧しく、エスマは政府からの援助金をもらい、昼は裁縫師として働き、夜もキャバレーで働いていました。紛争によってボスニアの経済は崩壊し、ボスニアは未だに経済の再建ができていませんでした。とりあえず、問題は修学旅行の費用を支払わなければなりませんでしたが、エスマにはそのお金がありませんでした。当時、父親が戦争で死んだ殉教者であれば、修学旅行の費用は免除されたのですが、免除されるためには殉教者証明が必要で、それがこの映画の核心でした。
 実は、エスマは紛争中にチェトニクに集団暴行されました。毎日何回も違う男が彼女に乱暴し、その結果妊娠したのです。彼女は、お腹の子が憎く、何度も殺してしまおうと考えたのですが、生まれた子を見た瞬間、「こんなに美しいものを見たことがない」と感じ、育てることにしました。娘には父親は殉教者だと教えてあったため、娘が殉教者証明を求めた時、彼女には渡すことができず、何とかお金を工面して修学旅行の費用を払います。
やがて、サラは友人から銃を借り、父親の事を話すよう母に迫ります。結局、母はすべてを娘に話します。サラは、12歳とはいえ、自分のような境遇の子が沢山いることを知っていました。彼女は髪の毛を切り、丸坊主になって修学旅行に出発します。その時サラは、遠ざかるバスの中から、明るく笑って母に手を振り、映画は終わります。紛争は、多くの人々の肉体や心に傷を負わせ、戦後12年がたっても、まだ癒されていませんでした。おそらく、エスマとサラのようにケースは、決して珍しいことではなかったでしょう。


2016年11月9日水曜日

「路地裏の女性史」を読んで

ジャン・ポール・アロン編(1980)、片岡幸男監訳(1984)、新評論
 本書は、サブタイトルにもあるように、「19世紀フランス女性の栄光と悲惨」を描き出したものです。本書は10人ほどの研究者の論文を集めたもので、編者自身は、かつて誰も扱ったことがない「娼婦の歴史」を著して脚光を集めた人物です。本書が扱っている内容は多岐にわたり、女中、娼婦、女工、モード、主婦、農村の女、女流作家などで、それぞれが大変興味深い内容です。
 女性の地位は、むしろ19世紀になって低くなっていったとされます。実際に低くなったかどうかは別として、少なくとも19世紀以前の女性の方が自由に活動できたとされます。その背景には、ブルジョワ社会や国民国家が成立し、家族を核とする社会が形成されていったからだとされます。すでにルソーは、「女は男に好かれるために作られている……男は強いというだけで好かれる」と述べています。また、このブログの「母親の社会史」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_3769.html)でも触れましたが、ルソーは「母性本能」という言葉を用い、女性を動物と同等に扱っています。そして決定的だったのはナポレオン法典で、「夫は、その妻の保護義務を負い、妻は、その夫に服従義務を負う」と定められました。こうして女性は男性に従属するものという考えが定着していきます。以前、何かの本で読んだのですが、日本でも、江戸時代の女性は明治以降の女性より自由だったそうで、日本でも明治以降、女性は家に閉じ込められるようになったとされます。

 本書は、こうした社会状況における女性たちの生き様を、さまざまな角度から描いています。人類の半分は女性なのですから、女性の歴史、しかも特別な女性ではなく、普通の女性の歴史を知らなければ、本当の歴史を学んだことにはならないのだと思います

2016年11月5日土曜日

映画「国家の密謀」を観て

2009年にフランスで制作されたミステリー映画で、フランスによるコンゴへの武器密輸を背景として起きたさまざまな事件を、一人の女性刑事が追うという話です。
映画で扱われていることは、あくまでもフィクションですが、それでも色々考えさせられる映画でした。まず、アフリカの問題です。中南米がアメリカの勢力圏であるように、アフリカはヨーロッパの勢力圏であり、ヨーロッパの経済はアフリカからの搾取から成り立っています。第二次世界大戦後、アフリカ諸国の独立が不可避となっている中で、ヨーロッパ諸国はアフリカの植民地に宗主国に忠実な人物を育成し、彼らに権力を握らせて宗主国の利権を守ろうとしました。こうして独立を達成した国は、民主主義を守る国として国際社会の一員と認められたのです。しかし、実際にはそうした国は宗主国の利権を守る国であり、現在でも欧米はアフリカや中東の諸国に民主的な政権を求めますが、独裁国家の典型であるサウジアラビア王国に民主主義を求めることはありません。むしろ欧米は、サウジアラビア王国に高価な武器を大量に輸出しています。こうした欧米寄りの政権に対する反発が、アフリカや中東のの混乱の原因の一つとなっています。なお、現代のアフリカについては、「入試にでる現代史 第8章 アフリカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/8.html)を参照して下さい。
ところで、世界中で起きている紛争に際して、当事者たちが使用している武器はどのように調達しているのでしょうか。アフリカなどの紛争地域で武器が製造されているとは、思われません。これらの武器の多くは、欧米や中国で製造されたものと思われます。欧米や中国の政府は、これらの武器を支持する勢力に直接売却することもありますが、同時に、第三国を通じて売却したり、「死の商人」と呼ばれる武器商人を通じて売却されます。欧米は、一方で紛争を仲介するとともに、もう一方で武器を売却しているのです。そして世界での武器輸出国の上位6カ国は、ドイツを除いてすべて国際連合の安全保障理事会常任理事国です。
この映画の武器密輸の舞台となったコンゴについては、このブログの「映画でアフリカを観る ルムンバの叫び」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_7359.html)を参照し下さい。コンゴでは、コンゴ動乱後、1965年から1997年まで32年もの間、モブツ独裁政権が続きました。モブツの失脚後も内乱状態は続き、またエボラ出血熱が発症したりして、数百万人の人々が死亡したとされます。2007年に選挙で大統領が選ばれますが、相変わらず秩序は不安定で、こうした中で事件は起きました。当時コンゴに駐屯していたフランスの治安維持部隊の7人の兵士が、反政府組織に誘拐され、身代金として武器を渡すことを要求してきたのです。当時フランスでは大統領選挙が迫っていたため、大統領としては、何としても人質の解放を実現せねばなりませんでした。そこで、大統領は秘密組織を用いて武器を空輸したのですが、これがコンゴ政府に知られ、貨物機がコンゴに着く前にコンゴ政府によって爆破されてしまいます。こうした秘密工作の過程で、何軒かの殺人事件が発生し、それを女性刑事が追う、というのが、この映画のストーリーです。

 映画で述べられていることはフィクションですが、こうした秘密工作は実際にしばしば行われているのではないかと思います。ヨーロッパ諸国とアフリカとの関係は、切っても切れない関係にあるからです。

2016年11月2日水曜日

「フランス人の昼と夜」を読んで

ピエール・ギラール著(1976) 尾崎和郎訳 誠文堂新光社(1984)
 本書は、1852年から1879年までのフランスの人々の日常生活を描いたものです。この時期は、ナポレオン3世の第二帝政の開始から第三共和政の初期の時代までで、この間にいろいろな政治的事件はあったものの、著者によれば、この期間がフランス資本主義の黄金期だそうです。
 本書が描いているのは、こうした資本主義の発展や政治的事件ではなく、この間に猛烈に発展する資本主義経済の真只中で生きた人々の日常生活です。「歴史的事実は目印以外の何ものでもない。文明とは、日々の多様性を多数な組合せのもとに織り上げていく織機にほかならない。」こうした視点から、恵まれた階級、恵まれない階級、女性、幼児、パリと地方、食物と衣服、快楽と日常生活、など多岐にわたって日常生活が淡々と描写されていきます。それぞれの内容は興味深いのですが、要するに「それが何なのか」ということには触れられませんので、幾分欲求不満となります。

 「このようなすべての矛盾こそ、衣、食、住、教育、愛、友情、憎しみ、羨望などともに、日々の生活の根幹をなすものであった。そして、この矛盾が多ければ多いほど、それだけ文明は可能性に富んでいるのである」ということです。

2016年10月29日土曜日

映画「アフガン」を観て

2005年にロシアで制作された映画で、アフガニスタン紛争で最後の激戦となった「3234高地の戦い」を描いており、原題は「第9中隊」です。邦画タイトルの「アフガン」は「ランボー3 怒りのアフガン」を連想させ、DVDのカバー写真は安っぽい戦争映画を連想させますが、この映画はかなり重い映画です。
 アフガニスタンの歴史については、このブログの「映画でイスラーム世界を観る アフガン零年」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/06/blog-post_8.html)、「映画でアメリカを観る(7)  チャーリー・ウィルソンズ・ウォー」 (http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/02/7.html)を参照して下さい。1978年に社会主義政権が成立したアフガニスタンは、政情不安のためソ連に軍事援助を求めました。ソ連としては、アフガニスタンに社会主義政権が生まれることは好都合でしたが、当時緊張緩和が進んでおり、2年後には社会主義圏で最初のモスクワ・オリンピックを控えていたため、問題を起こしたくなかったのですが、結局、1979年にアフガニスタン侵攻という苦渋の決断をしたわけです。当初は、半年程度の介入で済むと思っていたのですが、結局9年間もアフガニスタンに引きずり込まれ、ヴェトナムにおけるアメリカの二の舞を演じてしまいました。そもそもソ連軍は、ヨーロッパや中国を仮想敵としているため平原での戦いを想定しており、アフガニスタンの山岳戦に向いていません。さらにヴェトナムでのアメリカ軍と同様、近代兵器を備えた正規軍は、ゲリラ攻撃には無力でした。
 映画は、若い志願兵たちが軍隊に入隊するところから始まります。彼らがなぜ志願したのかについては、それぞれに異なる理由がありますが、一旦入隊すれば厳しい訓練が始まります。若者たちは、初めはよく喧嘩もしましたが、厳しい訓練の過程で友情も生まれてきます。5カ月ほど後に彼らはアフガニスタンに送られ、第9中隊に配属されて実戦の任務につきます。そして彼らは、1987年末に輸送路を確保するために、標高1000メートルほどの「3234高地」の守備を命じられます。これに対して敵は、17日に高地を奪還するため総攻撃を開始します。
 敵の圧倒的な攻勢の前に、兵士たちは次々と倒れ、応援要請の無線も通じず、孤立無援で戦います。実は当時ソ連は、アフガニスタンからの撤退交渉を始めており、もはや「3234高地」の存在すら忘れていたのです。翌18日、映画では、もはや味方は7人しか生き残っていませんでしたが、最後の抵抗を試みて、生き残ったのは一人だけでした。実際には、もっと生き残ったようですが、多くの兵士が死傷し、中隊は壊滅状態でした。そしてこの年の4月に、アフガニスタンからの撤退が決定され、そして翌年2月には撤退が完了し、この年のマルタ会談で冷戦終結宣言が行われ、さらに2年後にソ連邦が崩壊します。一体何のための戦いだったのでしょう。
 ソ連は、平均して10万人以上の兵力をアフガニスタンに駐留させ、9年間でソ連軍は15000人の死者と75000人の負傷者をだし、帰還後もトラウマに苦しむ兵士が多数いました。また、この出兵の経済的負担が、ソ連崩壊の原因の一つともなりました。一方、アフガニスタン人の死傷者は、民間人を含めると150万人に達すると推定され、これにより戦後一時的に、人口の半分が14歳以下になったとされます。その後のアフガニスタンは、国内の支配を巡って内戦状態になり、さらにアメリカ軍が介入し、今日もなおアフガニスタンは混迷状態にあります。

 映画は、無邪気だった若い兵士たちが無駄死にしていく過程を、見捨てられた若者たちの眼を通して、淡々と描いています。

2016年10月26日水曜日

「エリザベス1世 大英帝国の幕あけ」を読んで

青木道彦著 2000年 講談社現代新書
 本書は、ずいぶん前に著者から献本された本で、エリザベスに関する本は、すでにそれまでに何冊も読んでいたため、多忙にまぎれて、結局今日まで読んでいませんでした。また、この間にエリザベスに関する映画を何本か観て、それについては、このブログの「三人の女性の物語」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)で紹介しています。
 本書は、エリザベス自身というよりも、エリザベスを当時の国際関係の中で捉えています。この時代の国際関係はとても複雑で、当時は二流国でしかなかったイングランドが、いかに国際関係の操作に腐心したかが、大変分かりやすく記述されています。また、アルマダ海戦については、大変生き生きと描き出されていました。
 全体に、知識としては知っていることが多かったのですが、それでも私が勘違いしていた点を幾つか発見しました。とくにエリザベスが即位のときに、「私は国家と結婚している」と述べたことについて、彼女がイングランドのためにすべてを捧げる決意の表れとして説明され、映画「エリザベス」でも、この言葉を述べる場面がクライマックスとなっていますが、本書によれば、これは戴冠式の決まり文句だそうで、男性の君主も同様の発言をしているそうです。私たちは、いくら知識を身に着けても、常に多くの誤解をしていることに気がつかされます。

 エリザベスについては、過去にあまりに崇拝されすぎたという経緯があり、今日では彼女についての否定的な側面の見解も現れており、本書ではそうした傾向にも配慮されています。

2016年10月22日土曜日

映画「光州5・18」を観て

2007年に韓国で制作された映画で、1980518日に韓国の光州で起きた軍隊による民衆の弾圧事件を描いています。
 1945年、朝鮮は日本から独立し、その後38度線を境に米ソが分割占領した後、1948年に、北に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南に大韓民国(韓国)が成立して、朝鮮は分断に向かっていきます。北朝鮮ではキム・イルソン(金日成)が、韓国ではイ・スイマン(李承晩)が独裁を強め、朝鮮戦争(195053)を経て朝鮮の分断は決定的となり、今日に及んでいます。韓国では、1960年にイ・スイマンの独裁政権は崩壊し、1961年にパク・チョンヒ(朴正煕)がクーデタで実権を握り、独裁者となっていきます。パク・チョンヒは現在の韓国大統領パク・クネ(朴槿恵)の父です。彼は日本軍で軍事訓練を受けた人物で、政治の実権を握ると、日本やアメリカの援助を受けて経済の発展に努めます。

 しかし結末はあっけないもので、1979年にパク・チョンヒは部下によって暗殺され、暗殺者の動機は個人的な恨みだったそうです。突然の独裁者の死により、民衆は民主化への期待に沸きましたが、同年に再び軍のクーデタにより、チョン・ドゥファン(全斗煥)が実権を握り、翌1980年に戒厳令を敷いて民主化運動を弾圧します。そして映画はここから始まりますが、映画ではこうした政治的な背景は一切語られていません。それについては、韓国人なら誰もが知っているからということもありますが、映画のテーマ自体が政治というより、ヒューマン・ドラマだからです。



 映画の舞台は、全羅道の光州市です。全羅道は、三国時代(4世紀~7世紀)には百済が栄えた場所で、その東隣に新羅があり、これが今日の慶尚道です。新羅と百済は激しく争い、7世紀に日本が百済に援軍を送りましたが敗北し、百済は滅亡し、新羅が半島を統一しました。それ以来全羅道と慶尚道との対立は続き、こうした歴史的な背景のもとで、全羅道には反中央の気風が根付いたとされます。1929年には、光州の学生が日本の支配に対して反乱を起こし、それが全国に波及します。今日、この反乱が起きた「113日」は「学生の日」となっています。実は、パク・チョンヒもチョン・ドゥファンも慶尚道の出身であり、これに対して民主化運動の旗手であるキム・デジュン(金大中)は全羅道の光州の出身でした。光州事件の背景には、こうした地域対立もあったとされています。
 映画では、タクシー運転手のミヌ、弟のジヌ、ミヌの恋人で看護師のシネ、シネの父親で退役軍人のフンスが中心となり、彼らを通して混乱の中での兄弟愛、恋愛、親子愛が描かれます。突如戒厳軍が大軍で光州に侵入し、ジヌが殺され、怒ったミヌがフンスらとともに市民軍を創設し、戒厳軍と戦います。韓国では徴兵制が行われているため、かなりの市民が軍事訓練を受けており、武器さえ手に入れれば正規兵と変わりません。しかし、結局527日に市民軍は鎮圧され、この戦闘による市民の被害者は数百人から数千人とされ、今日でもはっきりしないようです。
 この事件は、政府によって北朝鮮の工作員によって扇動されたものとされ、アメリカも朝鮮半島の不安定化を危惧して介入せず、結局光州市民は見捨てられ、キム・デジュンは逮捕されて死刑を宣告されます。当時、岩波書店が刊行していた雑誌「世界」に、韓国在住のTK生なる人物により、1973年から88年までの15年もの間、「韓国からの通信」という記事を連載し、当時私も読んでいました。記事の内容は独裁政権の非道さを、「事実に基づいて」非難するものでしたが、2003年にTK生が名乗り出て、本人は当時日本に亡命中で、記事が韓国での情報収集によるものではないことが判明しました。しかも、雑誌「世界」の編集長が、その事実を知っていたとのことです。こうなると、もはや何が真実なのか分からなくなってしまいます。
 結局、その後どうなったのでしょうか。その後、チョン・ドゥファンによる軍事独裁政権が続きますが、国民の民主化要求が高まったため、1987年に大統領選挙が行われました。選挙の結果は、野党が分裂したこともあって、チョン・ドゥファンの後継者であるノ・テウ(盧泰愚)が大統領に選ばれ、その後も軍事政権による民主化運動の弾圧は続きますが、ノ・テウ政権のもとで少しずつ民主化が進み、1990年には久しぶりの(初めての)文民大統領が当選し、1997年には民主化運動のシンボルでもあったキム・デジュンが大統領となり、韓国の民主化は揺るぎないものとなりました。チョン・ドゥファン自身は、その後不正蓄財で逮捕され、現在では隠遁生活を送っているそうです。こうした過程で、光州事件は民主化運動の先駆けとして評価されていますが、私には今一つこの事件の実像が分かりません。映画は、少し芝居がかりすぎているような気がしますが、これが韓国映画なのでしょう。

 話が逸れますが、韓国の固有名詞の表記について触れておきたいと思います。韓国は漢字文化圏であり、今日ではほとんどハングルが用いられていますが、本来固有名詞は漢字で書かれています。また、日本では漢字で書かれた韓国の固有名詞を日本語で発音していました。例えば李承晩は「りしょうばん」、朴正熙は「ぼくせいき」と発音していました。ただ、韓国から韓国語で発音すべきだという意見があり、ある時期から日本でも韓国語で発音するようになりました。多分、現在でも全斗煥までは日本語で「ぜんとかん」と発音しますが、それ以降は韓国語で発音しているようです。もっとも最近の韓国では漢字がほとんど用いられないので、この映画に出て来るミヌとかジヌを漢字でどう書くのか知りません。逆に、例えば全羅道は「ぜんらどう」と日本語で発音しますが、韓国語でどう発音するのか知りません。
 中国に関して言えば、例えば日本人は「広州」を「こうしゅう」と日本語で発音していますが、「上海」は「しゃんはい」と中国語で発音しています。また人名についても、例えば「習近平」を「しゅうきんぺい」と発音しますが、中国語でどのように発音するのか知りません。逆に中国人は、例えば「小泉」といった名前を中国語で発音しているはずですが、このことが問題になることはありません。韓国が日本に韓国語での発音を求めた背景には、日本が植民地統治時代に、朝鮮に創氏改名や日本語の強制などを行ったからではないでしょうか。こうした言語や氏名に関わる問題は、文化の根幹に関わる問題なので、朝鮮の人々の心を深く傷つけたからだと思います。
 以上に述べたことは、すべて私の推測であり、根拠は何もありません。



2016年10月19日水曜日

ロンドン・フェア 18世紀英国風俗事情」を読んで

小林章夫著、1986年、駸々社
 著者は18世紀の英文学を専攻していまいすが、本書では18世紀のロンドンの風景を、さまざまな角度から描いています。
 ロンドンは、見方にもよると思いますが、歴史的な街並みがよく保存されている都市だと言われますが、一方で、中世の街並みに、無計画に次々と新しいものが付け加わる形で発展をとげた、ともされます。それは、19世紀後半にパリで、都市計画に基づいて、整然とした都市が建設されたことと対比されますが、都市計画に基づいた都市の建設は為政者による権力の誇示を示していますが、そうした都市計画をもたないロンドンは、自由に発展した都市だったと言えるかもしれません。ただ、18世紀のロンドンは、あらゆるものがごった返しており、無秩序の極みでもありました。この時代を描いたものとしては、デフォーの「大ブリテン周遊記」やホガースの絵画など貴重な資料が残っています。デフォーについては、「「ロンドン・ペストの恐怖」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html)、ホガースについては、「「大英帝国の人種・階級・性」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/02/blog-post_10.html)を参照して下さい。
 18世紀のイングランドは、17世紀の危機の時代を抜け出して、急速な発展を遂げ、それとともにロンドンに多くの人が集まり、ロンドンは「不規則で、一貫性を欠く怪物のごとき身体」になっていったとされます。本書はこうした18世紀のロンドンを、「都市の自由 あふれかえる群衆たち」「都市の荒廃 捨て子育児院の設立」「都市の腐敗 監獄と暗黒街」などの側面から描き出しており、大変興味深い内容で、それはまさに「ロンドン・フェア」でした。

 「18世紀前半、とくに20年代から40年代までのロンドンは、……バランスがかなり保たれていた時代と言えるかもしれない。あふれかえる群衆を迎えて、種々の楽しみがロンドン各地で繰り広げられていた。貧困や衛生にまつわる問題はもちろん無視できないものとはなっていたが、その中で各層の人間たちは楽しみを追求し、それが一種のはけ口となって、地下にたまったエネルギーが大爆発することは避けられていた。しかし、世紀半ばを越えるあたりから、そうした小規模な噴火で発散しきれない力が社会問題となっていく。そのとき、どのような対策がとられたか、ロンドンの発展にともなっておこる不可避の問題を、社会のいろいろな場所でどう対処していったのかが、大きなポイントとなるであろう。」

2016年10月15日土曜日

映画でハンガリー動乱を観て

 ブダペスト市街戦 1956

2007年にハンガリーで制作された映画で、1956年に起きたハンガリー動乱を扱っています。ハンガリー動乱については、それぞれの立場により「事件」「革命」「暴動」「蜂起」など、いろいろな呼び方があり、現在のハンガリー政府は「革命」と呼び、この日を記念日として「祝日」としています。日本では一般に「動乱」が多いようです。なお、この映画の原題は「太陽通り」で、この「通り」を守っていた若者たちの物語で、パッケージの写真にも違和感があります。
ハンガリーは、ドナウ川が貫流する草原地帯で、この草原はユーラシア大陸を東西に走る草原地帯とつながっているため、古くから多くの民族がこの地方に入ってきました。そして9世紀から10世紀にかけて侵入したマジャール人が、この地方に国家を築きました。ハンガリーというのは、「十本の矢」(十部族)を意味するのだそうですが、現在ではマジャール人の共和国となっています。彼らの言語のルーツは、前に触れたフィン人と同じだそうですので、彼らもまたインド・ヨーロッパ語族の中で孤島を形成しているわけです。
ハンガリーは一時繁栄した時期もありましたが、15世紀以降さまざまな勢力の支配下に置かれ、第一次世界大戦が勃発した時には、オーストリア・ハプスブルク帝国の一部を構成していました。その結果、第一次世界大戦ではドイツ・オーストリアの側で戦って敗戦国となり、多くの領土を失いました。そのため、第二次世界大戦では領土の拡大を期待して、ドイツの側で戦い、独ソ戦争ではソ連に侵入しました。そして戦後にはソ連軍により占領され、賠償金を課せられ、さらにソ連軍の駐留経費まで負担させられ、ハンガリー人の生活は崩壊します。さらにソ連型経済体制が導入されると、経済は混乱し、各地で暴動にまで発展しました。1953年にスターリンが死に、1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うと、スターリン主義者だった政府の指導層は動揺し、ブダペストでは大規模なデモが発生し、ソ連軍が鎮圧に乗り出しました。
映画は、このデモが発生した1023日に始まります。たまたま空き地でサッカーの練習をしていた青年たちが、デモのニュースを聞いて自分たちも参加しようということになりました。軍隊にいる友人から銃を借り、ブダペストの「太陽通り」にある映画館を拠点に、この通りを通過するソ連軍の戦車を阻止するということです。何とも軽薄な話です。映画館でも友人たちと騒ぎ、映画を観、恋人までやってきます。こうした中でソ連軍が通りに現れ、鉄砲では歯が立たないため、火炎瓶で攻撃します。結局、翌日にはソ連軍は戦闘を停止しますが、政府は事態を収拾できず、114日に再びソ連軍が侵攻します。今度は、政府機関もソ連軍も抵抗する市民を徹底的に弾圧し、その結果、多くの人々が死傷し、多くの人々が逮捕・処刑され、さらに多くの人々が国外に亡命しました。
映画はここで終わりで、主人公のガーボルは、淡々と戦闘に参加しているのみで、劇的な場面は何もありません。ただ「仲間でやれば何でもできると思っていた」だけです。この映画の冒頭に、高名な映画監督の「ただ人々を撮れば映画になる」という言葉があげられていますが、まさにこの映画は、そうした映画でした。

その後ハンガリーは30年以上統制下に置かれますが、1980年代にソ連のゴルバチョフがペレストロイカを提唱し、1989年にハンガリーでも民主化が達成されます。そして最後に映画では、多分この映画が制作された2007年に、太陽通りで壊れたまま残っていた映画館の前で、その後の仲間たちの消息を語って終わります。当時の人々は、あたかも普通に動乱に参加し、その後は統制下であたかも何もなかったかのように普通に暮らし、そして普通に民主化を迎えているかのようでした。しかし快活な青年だったガボールに深く刻まれた皺が、すべてを物語っているかのようでした。

君の涙ドナウに流れ

2006年にハンガリーで制作された映画で、前の「ブダペスト市街戦 1956年」と同様、ハンガリー動乱を舞台としています。タイトルの「君の涙ドナウに流れ」は大変詩的ではありますが、意味がよく分かりません。英語版のタイトルは「Children of Glory」です。 映画の登場人物は架空ですが、この映画は、ハンガリー動乱とメルボルンの流血戦という二つの史実を背景としています。
メルボルン流血戦というのは、1956年にメルボルンで行われたオリンピック競技において、126日のハンガリー代表とソ連の代表の試合で乱闘が行われた事件です。当時、ハンガリー動乱でソ連軍がハンガリーを制圧していた時代でした。こうした事情を選手たちも観客たちもよく知っており、ハンガリーが40で勝っていた時に、ソ連の選手がハンガリーの選手を殴ったため、選手と観客が入り乱れて乱闘となり、審判の判断で試合終了1分前に試合を終了させました。結局ハンガリーが優勝したのですが、オリンピックの後、ハンガリー選手団100人のうち、45人が西側諸国に亡命しました。ハンガリー動乱と流血事件から50年を記念して、この映画が制作されました。
 ハンガリーの水球の代表選手だったカルチは、デモに参加していたヴィキという女性に出会い、恋をします。カルチは、ヴィキに誘われてデモや銃撃戦に参加し、オリンピックへの参加を止めようとも思いましたが、ソ連軍も引上げ、事態が収拾に向かっているように思われたため、オリンピックのため旅立ちます。しかし、その日、114日にソ連軍が再侵攻し、ブダペストを総攻撃します。その過程でヴィキは捕らえられ、処刑されます。もはやこうなったら、オリンピックでソ連を倒し、ハンガリーの名誉を守るしかありません。ハンガリー・チームはソ連チームに圧勝し、腹を立てたソ連選手がハンガリー選手を殴り、乱闘が始まりました。「流血」といっても額を切っただけなので、それほど大した流血ではないのですが、この事件は全世界に報道されました。ハンガリーは金メダルをとりますが、カルチの心は晴れませんでした。
 映画の登場人物は、ほとんど架空の人物ですが、事件は実際に起きました。その後、カルチが亡命したかどうかは、映画では分かりませんでしたが、もはやハンガリーに戻る理由は彼にはなかったでしょう。 
 なお、1964年東京オリンピックで活躍したチェコスロヴァキアの女子体操選手チャスラフスカは、1968年の「プラハの春」を支持し、ソ連軍の侵攻に反対したため、同年のメキシコ・オリンピックへの出場が危ぶまれましたが、直前に出国許可がおり、6種目でメダルを獲得しました。しかしチェコスロヴァキアでは旧体制が復活していましたので、帰国後、彼女は困難な状況におかれることになります。


2016年10月12日水曜日

「万里の興亡」を読んで



西野広祥著 1998年 徳間書店
 本書は、中国の長城について、中国・遊牧騎馬民族、さらにユーラシア全体を視野に入れて、その存在価値を論じています。長城の建設には、莫大な資金と労力を必要とし、これだけ努力して建設したのに、何度も異民族に越えられているため、長城は無用の長物と考えられてきました。しかし、始皇帝が匈奴討伐を強く主張したのに対し、李斯は大軍で匈奴に立ち向かっても、彼らは鳥のように散って行くだけであるとして、長城の建設を建策したとのことです。確かに長城建設には莫大な費用と労力がかかりますが、遊牧騎馬民族の侵入によって民衆が受ける被害と苦しみを考えれば、長城の存在は民衆に一定の平安をもたらしたかもしれません。そして長城は壮大であればある程、遊牧騎馬民族の侵入の意志を挫く役割りを果たすそうです。本書は、こうした観点から、長城が果たした役割を、中国の全時代を通じて論じています。

 なお、著者は馬についてかなり詳しく述べており、大変興味深い内容でした。ヨーロッパが大型のサラブレッドを生み出したのに対して、遊牧騎馬民の馬は今日に至るまで小型なのだそうです。ヨーロッパでは、騎士が重装備で馬に乗るため、大型でないと耐えられないのですが、モンゴル人は軽装で、しかも長距離を移動するため、小型で丈夫な馬を求めるのだそうです。サラブレッドは穀物を食べさせて大型化されましたので、穀物どころか草さえもろくにない砂漠地帯を長距離旅することは困難ですが、遊牧騎馬民の馬は粗食や悪路に耐え、長距離を旅することができます。この馬が、広大な遊牧帝国の建設を可能にしたのであり、後に大型馬を知った後も、遊牧騎馬民は決して彼らの馬を「改良」することはなかったとのことです。

2016年10月8日土曜日

映画でポーランド現代史を観て

カティンの森


2007年にポーランドで制作された映画で、カティンの森事件と呼ばれる大量虐殺事件を描いています。なお、かつてポーランドなどは東欧と呼ばれていましたが、東欧という呼称は、かつてソ連の衛星国だった国々に用いられた表現であるため、今日ではポーランド、ハンガリー、チェコ、スロヴァキアなどは、中欧と呼ばれています。ただし、中欧の範囲は、明確ではありませんし、中東欧という言い方もあるようです。
6世紀頃から、現在のポーランドのあたりの広大な平原地帯に、スラヴ人が住むようになります。ポーランドの国名の「ポルスカ」は、野原を意味する「ポーレ」に由来するとされています。10世紀に彼らは国家を形成するようになり、それ以後、西のドイツ(ドイツ騎士団・プロイセン)とロシアに攻め込まれたり攻め込んだりを繰り返し、その領土は膨張したり縮小したりを繰り返します。そして18世紀の後半に、ポーランドはロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリアにより分割され、地上から消滅してしまいます。19世紀に入って、ナポレオン戦争後ポーランドは復活しますが、事実上ロシアの支配下に置かれていました。
 1918年に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約で民族自決に基づいてポーランドの独立が承認され、1920年には対ソ干渉戦争の名目でポーランド軍はソ連領に侵入し、ソ連領の一部をポーランドに併合します。しかし、1930年代にドイツでナチス政権が成立すると、ドイツはポーランド侵略への野心を強め、これに脅威を感じたポーランドはイギリスやフランスと同盟を結びました。東側のソ連とは、ポーランドは国境問題で対立していましたが、ドイツとソ連が対立していましたので、ポーランドは緩衝地帯となっていました。ところが、19398月に突如独ソ不可侵条約が締結され、その秘密協定でドイツとソ連によるポーランド分割が約束されていました。かくして、91日にドイツ軍がポーランドに侵攻し、17日にはソ連軍がポーランドに侵攻します。
 映画はここから始まります。ドイツ軍に追われた人々が東に向かい、ソ連軍に追われた人々が西に向かい、両者が途中で遭遇して大混乱に陥ります。ソ連軍が占領した地域は、第一次世界大戦後にポーランドが占領した地域であり、スターリンはあの時の屈辱を決して忘れませんでした。そしてソ連軍は、占領地域にいたポーランド人の将校や知識人たちを捕虜としてソ連に連行し、1万数千人を殺害したとされます。殺害は複数の場所で行われ、通称カティンの森と呼ばれる地域は、その一つでした。映画は、殺害される人々や、その家族の苦しみを描いています。
 一体何故、ソ連はこうした捕虜を殺害したのでしょうか。ソ連は、ポーランドのこの地域を恒久的に支配するつもりでしたから、反ロシアの指導者になる可能性のある人々を、予め排除しようとしたとのことです。またこの時期に多くのポーランド人がシベリアに強制移住させられますが、同じ頃、ソ連極東に住む高麗人(朝鮮人)を中央アジアに強制移住させますが、スターリンは民族意識というものに極度に警戒していたようです。そして同じ頃、ポーランドのドイツ占領地域では、ユダヤ人に対する徹底的な虐殺が行われました。当時ポーランドには300万人のユダヤ人が住んでいたとされますが、現在では数千二しか残っていないそうです。その多くが虐殺されたか、アメリカやイスラエルに亡命したようです。
 いわゆるカティンの森事件が起きたのは1940年ですが、翌年にドイツが突然ソ連に侵入して、独ソ戦争が始まります。やがてドイツ軍はカティンの森で大量の死体が埋められているのを発見し、ドイツはこれをソ連の残虐行為として大々的に宣伝し、ソ連はこの虐殺をドイツの行為として反論します。さまざまな証拠から、この虐殺行為がソ連によるものであることは明らかでしたが、連合国の首脳たちは、重要な同盟国であるソ連と対立するわけにはいかず、ソ連の主張を受け入れました。第二次世界大戦後、ポーランドはソ連の衛星国となりますので、ポーランド政府はソ連の主張を受け入れるしかありませんでした。ソ連が事実を公表したのは、冷戦終結後の1990年のことでした。

一方、第二次世界大戦においてソ連は戦勝国でしたので、ソ連が1939年に占領した土地はポーランドに返還されず、代わりに西方でドイツの領土を削ってポーランドに与えられました。つまり、ポーランドの領土は西方へ大きく平行移動した分けです。そしてその後もポーランドでは、ソ連の衛星国としての苦難の時代が続くことになります。

ワレサ 連帯の男

2013年にポーランドで制作された映画で、ポーランドの民主化に大きな役割を果たしたワレサの半生を描いています。監督はワイダで、彼は1980年に「鉄の男」というタイトルでワレサを描いており、前の「カティンの森」の監督でもあります。この映画「ワレサ」が制作された頃には、彼は90歳近くになっていました。
第二次世界大戦後、ポーランドはソ連軍の占領下で社会主義国家となっていきます。ポーランドの多くの人々は、長い間ロシアの支配を受けて来たし、1939年のソ連軍の侵入とカティンの森事件などで、ソ連による支配に強い抵抗があったと思いますが、圧倒的なソ連の軍事力の前にどうすることもできませんでした。また西側諸国も、ソ連のやり方に不満をもっていましたが、現実にポーランドを軍事支配しているのはソ連軍でしたので、どうすることもできませんでした。
ソ連の統制下にあるポーランドの政府は、共産主義の独裁とソ連型の計画経済を導入しますが、やがて経済は破綻し、特に食糧価格が高騰すると、各地で暴動が発生しますが、武力によって鎮圧されます。1970年に政府が食糧価格を大幅に値上げすると、各地で反対運動が激発し、グダニスクの造船所でもストライキが始まります。ここでワレサが登場します。彼はグダニスク造船所の電気工で、当時まだ27歳くらいでしたが、胆の据わった人物で、当時ストライキ委員として人々から信頼されていました。
映画は、1980年にワレサが独立自主管理労働組合「連帯」を創設した後に、イタリアの高名な女性ジャーナリストであるオリアナ・ファラチが、ワレサの自宅を訪問してインタビューをするところから映画は始まります。彼には6人の子供がおり、狭いアパートに住んでいました。今やワレサは世界的な有名人となっていましたが、それは多分にジャーナリズムによって生み出されたものでした。かつて、ソ連に反抗するユーゴスラヴィアのチトーが西側の英雄だったように、ワレサは反社会主義のシンボルのように報道されました。しかし、チトーの実像が独裁者であったのに対し、ワレサは電気工であり、夫であり、6人の子の父でした。
 1981年に政府は戒厳令をしき、反政府勢力は弾圧され、自由は極度に制限され、ワレサも一時軟禁されました。1983年にノーベル平和賞を受賞しますが、本人は受賞式に出席できず、妻が代理で出席します。1985年にソ連でゴルバチョフが書記長となり、東欧の自由化を容認し、その結果1989年に議会選挙で「連帯」が勝利します。そして映画はここで終わります。映画は、ポーランドの政治の動きとワレサの家庭や行動を淡々と描いています。彼は高邁な思想や理念をもった英雄としてではなく、自分の意志を守り通した普通の人間として描かれます。彼の妻も大変でした。時々逮捕され、時々失業する夫を支えるため自ら働き、6人もの子供を育て、狭いアパートに押し寄せる人々にうんざりしていますが、それでも最後までワレサを支えました。
 1990年にワレサは大統領に当選しますが、その後は政治から離れ、電気工に戻ったり、いろいろな組織と関わったりして過ごしているそうです。彼はまだ73歳で、私とあまり年齢が変わりませんが、私と同じように、悠々自適の生活を送ってもらいたいものです。