2015年10月31日土曜日

映画「モリエール 恋こそ喜劇」を観て


2007年にフランスで制作された映画で、17世紀にフランスで活躍した喜劇作家モリエールの青春時代を描いています。モリエールは、1622年にパリの裕福な商人の家に生まれ、1643年、23歳の時に家業を弟に譲り、劇団を創設して演劇の世界に入ります。当時役者は卑しい家業とされていましたので、当然家族は反対しましたが、モリエールにはよほど強い決意があったのでしょう。ところが、1644年には借金のために投獄されてしまいます。そして映画は、この1644年のモリエールを描いていますが、もちろんその内容は、映画における創作です。
投獄されていたモリエールを、ジョルダンという富裕な商人が保釈金を払って出してくれました。ジョルダンは、貴族に憧れ、伯爵夫人に懸想していたため、伯爵夫人の前で芝居をして彼女の気を引こうとしており、その演技指導のためにモリエールを雇ったわけです。ジョルダンには妻がいたため、モリエールは司祭タルチェフと名乗り、娘の家庭教師という名目で邸宅に入り込みます。彼は外見は司祭でしたが、中身は詐欺師でした。ジョルダンは、外見は富裕な商人でしたが、中身は貴族に憧れを持つ成金でした。ジョルダンと親しい貴族は、外見はジョルダンを伯爵夫人にとり持ちをしようとしていましたが、実はジョルダンから金を引き出すことだけを考えていました。伯爵夫人は、外見では愛想よくジョルダンに対応しますが、本音は商人風情と思っていました。ジョルダンは娘を貴族と結婚させようとしていましたが、娘は庶民の青年と密かに恋をしていました。夫人のエルミールは知性豊かな女性でしたが、夫は伯爵夫人に夢中で、エルミールを顧みませんでした。
こうした中で、タルチェフとエルミールは恋をします。エルミールには夫がおり、タルチェフ=モリエールには劇団に恋人がいましたので、この恋が本物かどうか分かりません。この間に色々な事件が起き、伯爵夫人や取持ちの貴族の偽善性が暴かれ、ジョルダンも目が覚め、娘も恋人と結婚できました。そしてタルチェフとエルミールの不倫が夫にばれ、タルチェフは館を去って劇団のもとに帰って行きます。最後の別れの時、エルミールはモリエールに喜劇を書くように勧めます。彼女は喜劇に対するモリエールの才能を見抜いていたのです。そしてこの時から、モリエールとその一座は、13年に及ぶ長い地方巡業の旅にでることになります。
モリエールは、長い間悲劇に拘り続けていました。当時は喜劇より悲劇が上と考えられていたこともありましたが、モリエール自身が悲劇でなければ、人の魂を揺さぶることができないと考えていたからです。しかし田舎の巡業では、悲劇より喜劇の方が受け入れられやすい、というのが現実でしたので、笑劇も盛んに演じていました。そして、彼も自分が悲劇に向いていないことに気づきます。そのため、彼は人の魂を揺さぶることができるような喜劇を書くことを考え始めます。
1658年に、モリエールが36歳の時にパリに帰り、国王ルイ14世の庇護を受けるという幸運に恵まれ、次々と新作を上演してパリ市民の好評を博します。そして1664年に、彼の代表作「タルチェフ」が発表されます。「タルチェフ」は人間心理を巧みに捉えるとともに、当時の聖職者の腐敗・堕落を鋭く風刺する問題作で、教会により激しい非難が繰り返されました。ルイ14世は、宮廷で教会勢力に苦しめられていたこともあって、この作品には共感していましたが、教会の圧力で公での上演を禁止せざるをえませんでした。この映画は、この「タルチェフ」に基づいて制作されています。
彼と同じ時代に、コルネイユやラシーヌといった悲劇作家が活躍しており、モリエールを含む三人は、パリで人気を競っていました。しかしモリエールは、コルネイユやラシーヌとは異なり、まず役者であり、劇団の経営者であり、金策のために駆けずり回り、スポンサーと交渉し、そして自ら台本を書きました。彼は真の演劇人であり、同時に喜劇によって社会を風刺し、人の魂を揺り動かすことに成功しました。信仰の問題、教会の偽善性、社会的な秩序など、当時の社会の根幹を形成している深刻な問題を、喜劇によって厳しく風刺します。これこそ、前に観た映画「薔薇の名前」で長老ホルヘが最も恐れたことでした(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/09/blog-post_19.html)
モリエールは、「タルチェフ」の他にも、「ドンジュアン」や「守銭奴」など日本でもよく知られた作品を多数残しています。そして1673年、病を押して舞台に立った後に倒れ、まもなく死亡しました。51歳でした。皮肉にも、彼が演じた最後の演目は、「病は気から」でした。
 この映画はロマンティック・コメディですので、気軽に楽しむことができます。


2015年10月28日水曜日

「中国近世の百万都市」を読んで

ジャック・ジェルネ著(1959) 栗本一男訳、平凡社 1990

 本書は、フランスの「日常生活叢書」の一冊として出版され、「モンゴル襲来前夜の杭州」の人々の生活をさまざまな側面から描き出しています。一般に、日本で出版される中国史関係の本は、やたらに漢語が多く使用されていて読みづらいのですが、本書は著者がフランス人であること、また翻訳者も中国史の専門家でないこともあって、大変読みやすくなっています。












 杭州は、隋代に建設された運河の南の終着点として繁栄し、12世紀前半に異民族に華北を占領されたため、多くの人々が杭州を中心とする江南に亡命し、杭州は100万を超える大都市に発展しました。それでも、宋皇室の人々は、当初は華北の再征服を目指していましたから、特定の場所に都をおくつもりはなかったようです。北宋が滅亡してから10年以上たって、ようやく杭州を都に定めますが、それはあくまで臨時の都であるということから、臨安と呼ばれました。この地方には他にも都に相応しい場所はあったのですが、著者によれば、ここが選ばれた唯一の理由は、「風光明媚」だったからだそうです。事実、杭州の西方に西湖と呼ばれる湖があり、その北・西・南は山に囲まれて大変美しく、今日では世界遺産に登録されているそうです。
 本書は、サブタイトルにあるように、「モンゴル襲来前夜の杭州」、つまり13世紀半ばの杭州を、さまざまな角度から描いています。自然条件から内面生活に至るまで描くその手法は、アナール学派の影響を受けているように思われます。「いったん都になると、杭州の美しさが役だったのか、この都市の有利な地理的条件が次第に明らかになってきた。揚子江流域と大規模な貿易港が出現しつつあった東南海岸の中間点にあり、杭州は首都であると同時に、当時急速に発展しつつあったこの南中国の経済活動の一大拠点になるように運命づけられていたのである。」
 「13世紀の半ばから、域内は全域が建物で埋まり、道路や小路に沿って何処までも切れ目なしに続く建物の線が中国人にも強い印象を与えたらしい。中国の都市は元来、城壁内でも広々としており、大きな空地、果樹園、庭や畑なども取り込んでいるものであった。……杭州は建物の密度の高さのゆえに、異様な光景を呈していたのである。」
「中華帝国を支配した秩序は道徳秩序であり、独裁国家が徐々にその秩序を広げ、ついに最も小さな社会単位である家族に至るまでこの秩序を押し広げた。個人の生活で私的部分と公的部分の区別がないことから、家族への義務と国家への義務の区分も明確でないことが中国の政治思想の根底にある。道徳と政治は唯一不可分であった。道徳についての見解、両親、年長者、身分の上の者に対する敬意について社会的合意があり、個人がその集団に埋没している時、強制する必要がなくなってしまうのである。その結果、ある種の自治が地方、郷村、家族単位に認められることになる。」
これらの文章は50年以上前に描かれたものであり、今日では受け入れられない内容が含まれているかもしれません。特に最後の部分は、これ程単純だろうかとも思いますが、中国の特色の一つであろうとは思います。いずれにしても、私にとっては興味をもって読めればそれでよいのです。

2015年10月24日土曜日

映画でオランダの二人の画家を観て

はじめに
 オランダは、スペインから独立した後、17世紀には経済・文化の黄金時代を迎えました。オランダはカルヴァン派を採ってはいましたが、宗教の自由を認めており、カトリック、他の国で弾圧された新教徒、ユダヤ教徒などが多数おり、また商売で大もうけした成金が闊歩するなど、雑然としていました。こうした中で、市民階級が大きな力をもつようになり、彼らも絵画を買うようになります。 

 当時の芸術家は、原則的には注文主によって依頼され、その依頼に従って作品を作るのが一般的でした。例えばミケランジェロの彫刻や壁画は、メディチ家やローマ教皇のような有力の注文主がいて初めて制作できる分けです。ところが、当時のオランダで市民階級が注文主になることが多くなり、彼らは大規模な作品よりは、居間に飾る程度の作品を望みます。そうしたこともあって、当時ヨーロッパで流行していた絢爛豪華なバロック様式は、オランダではあまり見られず、むしろルネサンス以来の写実主義が受け継がれていました。また絵画の対象も、肖像画、風景画、静物画、風俗画(日常生活を描いたもの)が多く描かれました。
ここで紹介する二人の画家レンブラントとフェルメールは、ほぼ同じ時代にオランダで活躍した画家で、二人ともライデンの出身です。レンブラントはアムステルダムで活躍しますが、フェルメールは生涯ほとんどライデンを出ることがありませんでした。















レンブラントの夜警

 2007年にカナダ、フランス、ドイツ、ポーランド、オランダ、イギリスによって制作された映画です。1642年に制作された集団肖像画「夜警」が描かれた背景を、推理小説風に描いています。




































(ウイキペディア)


 レンブラントは、1606年にライデンで生まれ、そこで絵画の修行をした後、163024歳の時、活動の場を首都アムステルダムに遷します。しだいに彼の名声は高まり、大きな仕事もはいるようになり、1633年には富裕な一族の女性サスキアと結婚し、彼は創作活動に没頭することができました。1640年に、市民自警団から集団肖像画を依頼され、18人の団員がそれぞれ同じ額の金額を払うことになりました。1642年に完成された絵は、縦3メートル63センチ、横4メートル37センチという相当大きな絵で、斜め上から光がさしており、「光と影の画家」の面目躍如といった絵です。この光の当て方はレンブラント・ライトと呼ばれ、今でも広く使われている方法だそうです。本来この絵は昼間書かれたものですが、夜のように見えるため「夜警(Night Watch)」と呼ばれるようになりました。

 この時代に集団肖像画が流行しており、皆が同じような姿勢で、静止して並んでいる場面を描くのが普通でした。ところがこの絵には、今にも警備に出かけようとしている様子が描かれており、まさに演劇の舞台の一瞬を切り取ったような躍動感があります。しかしこの絵は、注文主たちには不評でした。この絵でまともに描かれている人物は、中央の二人だけで、他はやっと顔だけが描かれているだけだったり、中にはその顔も隣の人物の手で半分隠れてしまっている人もいます。皆同じ金額を払っているのに、不公平ではないか、という分けです。画家は、注文主の依頼を受け、注文主の意志に沿って描く職人です。しかし、すぐれた芸術家は、それだけで満足せず、自分の芸術を追求することがあります。この絵は、まさにレンブラントが自らの信念に従って描いたものと思われます。

(ウイキペディア)


映画は、この絵に描かれた様々な人々の様々な表情から推測して、サスペンス・ドラマとして制作されました。映画では、この絵が発注された頃、隊長が殺害され、副隊長が逃亡するという事件がありました。レンブラントは、この事件の真相を絵に描きこんでいきます。また、新しく任命された隊長はホモ・セクシャルで、その手は、隣の副隊長の股間に伸びています。さらに軍曹は孤児院を経営しており、孤児院の少女たちに売春をさせていました。実は絵に描かれている少女は、孤児院の少女で、見方によっては彼女の顔は醜く歪んでいると、言えなくもありません。まさに栄光ある自警団は悪の巣窟であることを知ったレンブラントは、それを絵の中に書き込んだ分けです。ただし、これはあくまで映画の上での推測であり、推測としても無理があるように思います。
 この絵によって、レンブラントは自警団を敵に回し、仕事の注文が減り、没落していったといわれ、この映画でもそういう視点で制作されています。しかし、レンブラントは、この絵を描き始める少し前に二人の子供をなくし、絵を描き終わった年に妻をなくします。その後、自らの贅沢癖と投機の失敗により、没落していったというのが真相のようです。最後は、ユダヤ人街のうらぶれた一室で、1669年に看取る者もなく死んでいったそうです。63歳でした。

 この映画は、推測に無理があることと、映像が少しグロイので、あまり私の好きな映画ではありません。ただ、この映画を通して、レンブラントの「夜警」をじっくり見る機会を得ました。実はこの絵には、レンブラントの自画像も描かれているのです。

真珠の耳飾りの少女





















                                        (ウイキペディア)

2003年のイギリス・ルクセンブルクの合作映画で、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の制作過程を描いています。この映画は、同名の小説を映画化したもので、その小説の作者トレイシー・シュヴァリエは、この少女の意味ありげな微笑みに魅入られ、19歳の時から寝室にこの絵(模造品)を飾っているのだそうです。この絵は、もともと「青いターバンの少女」とか「ターバンを巻いた少女」と呼ばれていましたが、この映画をきっかけに、「真珠の耳飾りの少女」と呼ばれるようになったそうです。なお、この絵は44.5 cm × 39 cmという小さなものです。
 フェルメールは、1632年にライデンの中流家庭で生まれ、生涯の大半をライデンで過ごしました。1653年に富裕な母親をもつカタリーナと結婚し、さらに富裕なパトロンを得たこともあって、ラピスラズリを原料とした高価な青い顔料も買うことができました。これが、フェルメールの絵を特徴づけるフェルメール・ブルーと呼ばれる色です。しかし1670年代に英蘭戦争に敗北すると、絵画市場は大打撃を受け、1675年に大きな借金を抱えて死去しました。43歳でした。彼には子供が11人もおり、妻は結局破産し、1687年に過酷な生活の中で死亡しました。
 映画では、グリートという17歳の少女が、家政婦としてフェルメール家を訪れたところから始まります。家では子供が走り回り、妻のカタリーナは妊娠中、家を取り仕切っているのは、この家の所有者であるカタリーナの母、そしてもう一人ベテランの家政婦がいました。フェルメールはいつも寡黙で、2階のアトリエには子供たちが入ることを禁止していますが、喧騒に耐え、妻の愚痴に耳を貸していました。そんな中で、グリートはひたすら仕事をしますが、アトリエを掃除している時に、フェルメールの絵を見て感動します。フェルメールもグリートに特別な美的センスがあることに気づき、彼女に絵具を混ぜることを手伝わせたり、さらに彼女をモデルにして絵を描こうと考えるようになりました。
 妻のカタリーナは、いつも夫とアトリエに籠っているグリートに嫉妬します。それには女としての嫉妬もありますが、グリートが自分より夫の絵を理解できることへの嫉妬もありました。カタリーナは、夫に才能があることを理解していましたが、絵そのものについては、ほとんど理解できていませんでした。そうした中で、フェルメールが妻に内緒で、妻の真珠の耳飾りをグリートにつけさせて絵を描きました。フェルメールにとって、グリートの目の輝きとのバランスをとるために、どうしても必要なものでした。それを知ったカタリーナは半狂乱となり、絵を切り裂こうとしますが阻止され、結局グリートを追い出されてしまいます。
 こうして、今日多くの人々に愛されている一枚の絵が完成します。全体は黄色を基調とし、そこにフェルメール・ブルーが映えています。そして何よりも、目と真珠が見事に調和しています。彼女の目や口は何を語りかけているのでしょうか。多くの人々がこの絵に魅せられ、「北方のモナ・リザ」とさえ言われています。レンブラントの「夜警」と同様、この絵をじっと見つめている内に、この映画で語られたエピソードが創造されていったのだと思います。もちろんそれは創作されたものであり、事実ではありませんが、先に見た「レンブラントの夜警」とは異なり、この映画はまったく無理なく受け入れることができる内容でした。また、映し出される映像もフェルメール風で、地方都市デルフトの風景や、人々の日常生活がよく描かれていました。


フェルメールの絵は17世紀には広く認められていましたが、18世紀に忘れ去られ、19世紀に再評価されます。また、フェルメールの絵は個人所有が多いため散逸し、さらに贋作が多く出回っているため、今日彼の絵として特定されているものは37点しか残っていません。どれも、窓から入ってくる光を巧みに利用した「光の芸術」ですが、レンブラントの強烈なコントラストに対して、フェルメールの光は、柔らかくて優しい光だと思います。


2015年10月21日水曜日

映画でセルバンテスを観て

セルバンテスについて

 2016年はセルバンテス没後400年で、しかも今年マドリードの修道院で遺骨が発見されたため、大きな話題となっています。セルバンテスはマドリード近郊の下級貴族の子として生まれますが、家は貧しく、各地を転々として暮らしていました。10代後半にマドリードで人文学者に師事し、21歳頃教皇特使の従者としてローマに行き、ここで多くの古典を学ぶ機会を得ました。その後、彼は軍人となり、1571年にレパントの海戦に参戦して左手を失いますが、さらに4年間軍人として各地を戦い、これがセルバンテスの大きな誇りとなりました。
 28歳の時、セルバンテスは帰国の途につきますが、海賊に襲われて捕虜となり、身代金が払えなかったため、アルジェで5年間奴隷として使役されます。33歳の時にようやく帰国しますが、故郷では6人の家族を養わねばならず、本を書いてみましたが売れず、やむなく無敵艦隊の食糧調達の仕事や、徴税吏の仕事をして全国を歩き回ります。ところが徴収した税金を預けておいた銀行が破産したため、1597年にセルバンテスは投獄されます。この時かれは50歳になっていました。まさに踏んだり蹴ったりの人生でした。そして、この投獄されている時に、「ドン・キホーテ」の着想が生まれたと言われます。
 この頃から、セルバンテスの作品は少しずつ売れるようになり、彼は本格的に作家としての道を歩むようになります。1605年に「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」が出版され、大評判となりますが、セルバンテスは版権を売り渡していたため、どんなに本が売れても、相変わらず彼は貧しいままでした。やがて続編を書くようにとの要望が高まりますが、このような大著を書くには時間がかかるため、短編を書いて日銭を稼ぐ必要があり、続編は遅々として進みませんでした。ところが、1614年に「ドン・キホーテ続編」の偽物が出版されたため、急きょ1615年にセルバンテス自身による後編が出版されました。これも大評判となりましたが、セルバンテスは相変わらず貧しいままであり、1616年に68歳の生涯を閉じました。波乱に満ちた、報われることの少ない一生でしたが、「ドン・キホーテ」は人類の宝として、多くの人々に恵みを与えることになります。


「ドン・キホーテ」について

 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」というのは、「マンチャ村の郷士(ドン)キホーテ」といった意味です。主人公の本名は、マンチャ村の郷士だったアロンソ・キハーノで、彼は騎士道小説を読み過ぎて頭が変になり、自らドン・キホーテと名を改め、悪を倒して正義をおこなうために、遍歴の旅に出ます。お供は純朴な農民であるサンチョ・パンサと痩せ馬のロシナンテです。「ドン・キホーテ」は、この二人の滑稽なやり取りと、二人が遭遇するさまざまな事件を描いたものです。
 「ドン・キホーテ」について、私には到底解説することができません。この小説は、それが読まれた時代によって、また読む人によって、さまざまに受け取られるからです。山川出版の「世界史用語集」では「時代錯誤の騎士ドン・キホーテが従士サンチョ・パンサとくりひろげる滑稽物語で社会風刺に富み、最初の近代小説と呼ばれる」と書かれており、これが間違っているとは思いませんが、このような表現では、とうてい「ドン・キホーテ」を語りつくすことはできません。確かに当初は、「ドン・キホーテ」は滑稽物語として読まれていましたが、18世紀には古い悪習に対する強烈な批判精神が評価されるようになります。そして19世紀にドストエフスキーは、「人間の魂の最も深い、最も不思議な一面が、人の心の洞察者である偉大な詩人によって、ここに見事にえぐり出されている」、「人類の天才によって作られたあらゆる書物の中で、最も偉大で最ももの悲しいこの書物」(ウイキペディア)とまで述べています。
 20世紀には、「ドン・キホーテ」は苦難の生涯を歩んだセルバンテスの分身であるとか、繁栄と没落を経験したスペインそのものである、といった評価も生まれます。さらに「ドン・キホーテ」は、極めて複雑な構造をもっていることが注目されます。この小説は、妄想と現実と小説が複雑に入り混じっています。何しろ、後編では、前篇で書かれた話を、ドン・キホーテとサンチョ・パンサが議論したり、前篇を読んだ公爵夫妻がドン・キホーテのファンとなり、ドン・キホーテを饗応するといった話が出てきます。そして、その間にさまざまなエピソードが語られ、それらが無理なく全体の一部を構成しています。つまり、「ドン・キホーテ」は、現実と妄想と小説の間に、様々な観念が林立する一つの「世界」を形成しているのではないか。
 もはや私には、「ドン・キホーテ」について、これ以上語ることはできません。この小説は、聖書に匹敵するベスト・セラーとも言われ、多くの人々が何度もこの小説を読み返しました。私自身、50年ほど前に「ドン・キホーテ」を読んだのですが、ふとしたことから、数年前にもう一度読んでみました。そうすると、そこには50年前に読んだ「ドン・キホーテ」とはまったく別の世界が広がっていました。その結果、もう一度読んでみたいと思ったのですが、もはやその気力はありません。もう一度読んだら、さらにもう一度読みたいと思うに決まっているからです。
 「ドン・キホーテ」の世界は極めて多様であり、今までに、劇化や映画化の試みが何度か行われましたが、実現しませんでした。次に紹介する映画「ラ・マンチャの男」は、ミュージカルとして制作され、ちょっとした工夫をすることによって、「ドン・キホーテ」の世界の一面をよく描いているように思います。


「ラ・マンチャの男」

 「ラ・マンチャの男」は、もともと1965年にブロードウェイで公開されたミュージカルで、大変な好評を博し、56カ月というロングランを記録しました。日本でも、九代目松本幸四郎が演じ、その公演は1000回を超えています。そして、1972年に、このミュージカルがイタリアで映画化されました。
 このミュージカルで行われた「工夫」とは、舞台を牢獄の中に置いたということです。まずセルバンテスが投獄され、牢獄には社会の底辺に生きる様々な人がいました。これは現実です。かれは牢の中で、彼が書き溜めた「ドン・キホーテ」の物語の原稿を見せ、囚人たちを役者にして演劇をやろうと提案します。まず、セルバンテス自身がラ・マンチャの田舎郷士アロンソ・キハーナを演じることにし、次々と役を決めていきます。これは小説の中の現実です。そして、アロンソ・キハーナがドン・キホーテとして遍歴の旅に出ます。これは妄想です。
 妄想の中の主な舞台は、安宿です。ドン・ホーテには、この安宿が城に見え、宿の主人は領主にみえます。一方、騎士道物語においては憧れの貴婦人が必要です。彼には宿の女中であるアルドンサを理想の貴婦人ドルシネアに見えます。ドン・キホーテは、狂っているとはいえ、騎士としてあくまで純粋であり、滑稽ではありますが、正義を貫き、貴婦人を敬い、騎士道精神を貫きます。そうした中だ、アルドンサも宿の人々もドン・キホーテに共感するようになり、さらにそれを演じた囚人たちも、ドン・キホーテに共感するようになります。そして最後に、この映画のテーマ曲である「見果てぬ夢」を合唱して、ドン・ホーテの芝居は終わります。

 最後に、セルバンテスは裁判のため牢から引き出されます。果たして現実は、牢の外なのか中なのか、ラ・マンチャの郷士なのかドン・キホーテなのか、これが「ドン・キホーテ」という小説の多重構造であり、映画はそれを巧みに描いています。この映画は「ドン・キホーテ」を人情物として描いており、それが「ドン・キホーテ」のすべてではありませんが、それなりに感動して観ることができました。なお、テーマ曲「見果てぬ夢」は大ヒットしました。


2015年10月17日土曜日

映画でシェイクスピアを観て


はじめに

シェイクスピアについては、ミケランジェロ(「映画「華麗なる激情」を観て」参照http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_14.html)ほど多くのことが分かっていません。1564年にイングランド中部の富裕な家庭で生まれ、その後どのように育ち、教育を受けたのかははっきりしません。1582年、18歳の時に彼は26歳の女性アン・ハサウェイと結婚し、3人の子を設けます。1585年頃ロンドンに進出し、その後7年程の空白の後、1592年に新進の劇作家として登場します。当初彼は役者として活躍していたようですが、しだいに劇作に専念するようになり、1612年に引退するまでの20年間に多くの作品を執筆し、1616年に死亡しました。52歳でした。
 シェイクスピアの戯曲は、世界で最も優れた文学作品の一つとして認められ、多くの言語に翻訳されました。人間に対する深い洞察力と表現力は、多くの人々に強い感銘と影響を与えてきました。一般に、彼のような天才的な芸術家は、経済的に恵まれないことが多いのですが、彼の場合は経済的にも成功し、豪邸に住むようになります。その背景には、エリザベス朝における演劇の隆盛と、宮廷の保護がありました。
 エリザベス自身が演劇好きだったこともあって、宮廷に役者を呼んで演じさせたり、ロンドンに公設の劇場を作ったりしたため、演劇は庶民の娯楽としても普及しました。次のステュアート朝時代にも演劇は栄えましたが、清教徒革命が起きると、演劇が禁止されてしまいます。当時、演劇では女性が舞台に出演することは禁じられていました。その理由は風紀を乱すからということで、そのため当時は男性が女装して女性の役を演じていましたが、清教徒は男性が女装することは道徳に反するとして、演劇を禁じたのです。女もだめ、男もだめ、これでは演劇は成り立ちません。
 1660年に王政復古が実現すると、演劇が復活し、女優の出演も認められるようになりますが、その結果、案の定、劇場は娼館のようになり、ポルノまがいの演劇も上演されるようになります。この点については、このブログの「映画で17世紀のイギリスを観て リバティーン」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/17.htmlを参照して下さい。しかし女優の出現は、演劇に新しい道を開くことになります。日本でも、戦国時代に女性が芸を行っていましたが、これも猥褻な出し物が行わるようになったため、女性が舞台に登ることは禁止されました。そのため、江戸時代には「女形」と呼ばれる特異な芸が生まれてくることになります。この点については、このブログの「映画で武士の成立を観て 太平記」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html)参照して下さい。


 シェイクスピアの作品は40本近くあり、そのほとんどが映画化されているのではないかと思います。さらに代表的な作品については、過去に何度も映画化されています。ここで紹介する映画は、たまたま私が観た映画というだけで、重要な作品が多数欠けていますが、一応、シェイクスピアの執筆年代順に並べておきました。

恋におちたシェイクスピア

1998年にアメリカで制作された映画で、シェイクスピアの作品ではなく、シェイクスピア自身を扱っています。シェイクスピアが、「ロミオとジュリエット」を完成させる過程が、コミカルに描かれています。
 映画は、劇作家として売り出し中のシェイクスピアがスランプに陥りますが、資産家の娘ヴァイオラと恋をし、その恋を通じて「ロミオとジュリエット」を生み出していく、という物語です。ヴァイオラは芝居が大好きで、役者になりたいと思っていましたが、女性が舞台に立つことは禁じられています。第一、当時役者は卑しい職業であり、良家の子女が役者になるなど許されません。そこで彼女は男装してロミオ役で稽古に臨みますが、やがて女性であることがばれてしまい、劇場は閉鎖されてしまいます。しかし別の劇場で上演できることになり、シェイクスピアがロミオ役で出演することになりました。ところが上演直前に問題が発生しました。
 ジュリエット役の少年が突然声変わりして、出演できなくなってしまいます。もはや絶体絶命です。そこで急遽演劇を見に来ていたヴァイオラをジュリエット役で出演させることになりました。その結果、愛し合うシェイクスピアとヴァイオラがロミオとジュリエットを演じることになり、二つの恋は舞台と融合することになります。しかし上演が終わった後、女性が出演していることがばれ、大騒動になります。ところが、お忍びで観劇していたエリザベス女王が、事態を円満に解決してくれます。とはいえ、シェイクスピアには妻子がおり、ヴァイオラには親が決めた婚約者がいたため、二人の結婚は初めから無理だったのです。こうして二人は、ロミオとジュリエットと同様に、悲劇的な別れが運命づけられていたのです。
 映画は、一人の芸術家が一つの作品を生み出す過程での苦悩を描いています。この点では、ミケランジェロを描いた映画「華麗なる激情」と同じです。シェイクスピアの名が世に出たのが1592年、「ロミオとジュリエット」が公開されたのが1595頃ですので、この作品がシェイクスピアの名声を不動なものとしたと言えるでしょう。映画の内容はほとんどフィクションだと思われますが、当時ロンドンにあったカーテン座とローズ座という劇場が再現されており、当時の劇場がどのようなものであり、どのように運営されているかを観ることができました。

 全体として出来の良い映画で、とても面白く観ることができました。


じゃじゃ馬ならし

1967年制作のアメリカ・イタリアによる合作映画で、1593年、つまりシェイクスピアの初期の作品である喜劇「じゃじゃ馬ならし」を映画化したものです。この作品も、過去に何度も映画化されており、古くは1908年に最初の映画化が行われています。この作品の原題は「The Taming of the Shrew」で、「Shrew」は、トガリネズミのことで、キィーキィー甲高く耳障りな声で鳴くことから「口やかましい女」の代名詞となっているそうです。












 舞台となったのは、16世紀初めのイタリアのパドヴァです。パドヴァはヴェネツィアに近く、当時商業で栄えた町であると同時に、イタリアで2番目に古い大学のある町です。シェイクスピアの戯曲では、しばしばイタリアが舞台となりますが、当時のヨーロッパの人々にとってルネサンス発祥の地として、イタリアは特別な意味があったのでしょう。ドラマは、ある領主が、面白半分から、たまたま通りかかった酔っ払いに芝居をさせる、というところから始まります。したがって、「じゃじゃ馬なりし」という劇は、劇中劇ということになります。ただしこの映画では、この導入部分は省略されています。
 商人バプティスタには、カタリーナとビアンカという二人の娘がいました。妹のビアンカは美しくて大人しく、多くの人から求婚されていましたが、姉のカタリーナは手の付けられないじゃじゃ馬で、多額の持参金を持たせると約束しても、誰も求婚しませんでした。そうした中で、ヴェローナからやって来た落ちぶれ紳士ペトルーキオが、持参金目当てで彼女に求婚します。彼は、彼女の扱いについて、こう独白します。
 毒づいたら言ってやろう、ウグイスのような美声だと。
渋っ面したら、朝露に濡れたバラのごとくあざやかだと言ってやろう。
口をつぐんでいたら、その多弁を讃え雄弁を褒めよう。
去れと言われたら、泊れと言われたかのごとく熱く礼を述べよう。
結婚を拒んだら、発表の日取りと挙式はいつにするかと聞いてやろう。
ペトルーキオあまりの大胆さに、彼女は結婚を拒否する暇もなく、一方、父親は大喜びで結婚を承諾し、すぐ結婚式を挙げてしまいます。そして彼女はすぐヴェローナに連れて行かれる分けですが、この時からペトルーキオによるカタリーナの調教が始まります。彼は決して暴力を振るう分けではありませんが、彼が行うことはあまりに無茶苦茶で、やがて彼女は疲れてしまい、さらに彼女の既成の価値観そのものがずたずたに打ち砕かれてしまいます。その結果、彼女はしだいに従順になり、「妻が夫に負う義務は、臣下が君主に負う義務と同じ」とまで言うようになり、ハッピーエンドとなります。
 シェイクスピアの作品については、どれも様々な議論がなされますが、この作品についても色々な意見があります。一番多いのは女性蔑視であるという批判であり、これに対してヒステリー的暴力を振るうカタリーナに対して、ペトルーキオの巧みな方法が必要だった、という見解もあります。こうした議論は私にはどうでもよい様に思われます。私が観た限りでは、全体として、それ程女性蔑視のように思えませんでした。むしろ男女の機微を、幾分誇張して、よく描かれているように思いました。また、このドラマは劇中劇であり、最初から絵空事である、ということが前提になっているのだと思います。

ロミオとジュリエット

1968年に制作されたイギリスとイタリアによる合作映画です。「ロミオとジュリエット」は多くの映画化作品がありますが、ここであげる1968年版が最も評価が高い様に思います。その一つは、従来成熟した女性がジュリエットを演じることが普通だったのですが、この映画では、ロミオとジュリエットを演じた役者が実年齢に近かった、ということがあると思います。ロミオは16歳、ジュリエットは14歳ですが、ジュリエットはあと2週間で14歳になると言っていますから、実際には13歳です。彼女を演じたオリビア・ハッセーは、当時17歳でした。ネット上には15歳と書かれているものが多いのですが、彼女が生まれたのは1951年ですから、17歳ということになります。ただそれでも、まだあどけなさの残る少女の顔でした。ちなみにオリビア・ハッセーは、これより35年ほど後にマザー・テレサを演じています。(このブログの「ガンディーとマザー・テレサ」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015_03_01_archive.htmlを参照して下さい)。なお、「ウェストサイド物語」は、「ロミオとジュリエット」のニューヨーク版です。


 この映画の舞台となったのは、前の映画の舞台となったパドヴァの西にあるヴェローナで、時代は14世紀です。ヴェローナは交通の要衝にあるため、しばしばイタリア支配を目指す勢力の争いの場となりました。13世紀に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がイタリアに侵攻した際(このブログの「映画で西欧中世を観て バルバロッサ―帝国の野望」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/07/5.html)を参照して下さい)、イタリアの都市は教皇派と皇帝派に分かれて対立し、ヴェローナは皇帝派に与していました。しかしその後、ヴェローナの内部で皇帝派と教皇派が対立し、血みどろの争いが展開されることになります。そして、これが「ロミオとジュリエット」の物語の背景です。
 物語では、ヴェローナで皇帝派のモンターギュ家と教皇派のキャピュレット家が激しく対立していたという所から始まり、ロミオはモンターギュ家であり、ジュリエットはキャピュレット家であったことから悲劇が始まります。ドラマは、二人が出会ってから心中するまでの5日間を描いています。1日目に二人はパーティーで出会って一目惚れし、2日目にロレンソ神父の立ち合いで二人は密かに結婚します。しかしロミオはふとしたことからキャピュレット家の人物を殺してしまい、3日目にロミオはヴェローナから追放されます。4日目に、嘆き悲しむジュリエットにロレンソ神父は、不思議な薬を与えます。その薬を飲むと42時間仮死状態となり、葬儀をして遺体が教会に運ばれれば、ロミオが助けに来るということです。そして彼女はこれを決行し、ロレンソ神父は事情を記した手紙をロミオに送りました。5日目に、ジュリエットの葬儀が行われ、彼女の遺体は墓地に移されます。ここまでは予定通りだったのですが、手違いでロレンソ神父の手紙はロミオに届かず、ジュリエットの死の知らせのみが届きます。ロミオは墓地に駆けつけ、ジュリエットが死んでいると思い、絶望して自ら毒を飲んで死にます。やがて、ジュリエットが目覚め、ロミオの死体を見て、自ら剣で胸をついて自殺します。
 シェイクスピアの他の悲劇が、主人公の罪故に悲劇に至りますが、「ロミオとジュリエット」では、本人たちには何の罪もなく、周囲の愚かさ故に悲劇が発生します。その結果、両家の人々は今後決して争わないことを誓い、事実15世紀に入るとヴェローナの闘争の時代は終わります。また「ロミオとジュリエット」では、軽妙なジョークが飛び交い、さらに二人の幾分気恥ずかしくなるような美しい愛の言葉が淀みなく語られますので、この物語は悲劇というよりは、幼い男女の純愛の物語というべきかも知れません。

 ただジュリエットの14歳という年齢は気になりますが、この時代には女性は1415歳くらいで結婚するのは珍しいことではありませんでした。フランスのマリー・アントワネットは14歳でブルボン家に嫁ぎ、日本の八百屋お七も放火した時は14歳でした。ただし八百屋お七については、存在そのものが疑われています。

ヴェニスの商人

2004年に制作されたアメリカ・イタリア・ルクセンブルク・イギリスによる合作映画で、1596年に執筆された喜劇「ヴェニスの商人」を映画化したものです。驚いたことに、これ程有名な「ヴェニスの商人」が映画化されたのは、この作品のみです。古代ギリシア以来、同じ作家が喜劇と悲劇を両方書くことはなかったようですが、シェイクスピアはその両方を書きました。この時代に、「詩」とか「演劇」に革新的変化が起こったようですが、私にはよく分かりません。「ヴェニスの商人」は喜劇として扱われていますが、一概に喜劇とは言い切れないものがあります。「ヴェニスの商人」という作品のもつ、こうした複雑さが、映画化を困難にしていたのかもしれません。
映画の舞台となったのは、16世紀末のヴェネツィアで、このブログの「三人の女性の物語 娼婦ベロニカ」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)と同じ時代です。バサーニオは、大富豪の女相続人ポーシャと結婚するため、親友のアントニオから金を借りました。しかしアントニオは全財産を貿易に投資していたため、ユダヤ人の金貸しシャイロックから金を借りて、それをバサーニオに貸しました。シャイロックは、前々から自分を軽蔑し侮辱するアントニオに復讐するため、借用書に返済できない場合自分の体の肉1ポンドを渡す約束をさせます。これでバサーニオはポーシャと結婚しますが、まもなくアントニオの船がすべて沈没したという知らせが届き、シャイロックはアントニオに契約通り肉1ポンドを渡すよう裁判に訴えます。この間、シャイロックは娘がキリスト教徒の男性と駆け落ちしたこともあって、怒りを募らせていました。裁判では法律に従って契約を実行せねばなりません。ここで、ポーシャが男装して法律学者として登場し、1ポンドの肉を取ってもいいが、一滴の血も流してはならないと判定します。この判定に諦めて帰ろうとしたシャイロックに裁判官は、肉を取らないなら全財産の没収とキリスト教への改宗を命じ、シャイロックはそれに従うしかありませんでした。
ドラマは、ユダヤ人を思い切り貶し、笑い飛ばすという話です。強欲で、冷酷な異教徒というのが、この時代のユダヤ人に対するほぼ共通した認識でしたので、人々はシャイロックが苦しむ姿を見て腹を抱えて笑ったことでしょう。しかし、さすがにシェイクスピアは、彼を単なる悪役としては終わらせておらず、シャイロックを徹底的に痛めつけることによって、いかにユダヤ人でもここまで蔑まれたよいのか、という問題を提起しているように思います。シャイロック自身が言います。「ユダヤ人は目なし、手なし、臓腑なし、感覚・感情・情熱、すべて無し。何もかもキリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 毒を飲まされても死なない、だからひどい目にあわされても仕返しはするな、そうおっしゃるんですかい? だが、他の事があんた方(キリスト教徒)と同じなら、その点だって同じだろうぜ。キリスト教徒がユダヤ人にひどい目にあわされたら、(右の頬を打たれたら左の頬を差し出せという)御自慢の温情はなんと言いますかな? 仕返しと来る。それなら、ユダヤ人がキリスト教徒にひどい目にあわされたら、我々はあんた方をお手本に、やはり仕返しだ」(ウイキペディア)
ヴェネツィアなどヨーロッパの港市の東方貿易は、ユダヤ人によって担われていました。ローマ教皇がイスラーム教徒との交易を禁止したため、ヨーロッパの商人たちは東方のユダヤ人を介して交易を行い、当然ヨーロッパの商人の中にもユダヤ人が多数含まれていました。したがってヴェネツィアなどの発展にはユダヤ人が大きな役割を果たし、多額の税を払って都市の繁栄に貢献し、なおかつ彼らはゲットーに住むことを強制されました。ヴェネツィアのゲットーは、世界最古のゲットーだそうです。あまりにもひどい扱いです。
そしてこの映画は、ユダヤ人シャイロックに焦点が当てられています。アントニオは好青年でしたが、大のユダヤ人嫌いで、いつもシャイロックに唾を吐きかけたり、侮辱したりしていました。シャイロックがアントニオに憎しみを抱くのは当然です。しかも法学博士に変装したポーシャは、法律の抜け道を巧みに操ってシャイロックを陥れ、全財産を奪い、キリスト教への改宗を強制し、そして晴れてバサーニオと結ばれてハッピーエンドとなります。このような非道が許されるでしょうか。彼はユダヤ人であるという以外、何の罪もありません。シャイロックの側から見れば、この物語は悲劇そのものです。

ヘンリー5世 アジンコート(アジャンクール)の戦い

 「ヘンリー5世」は、シェイクスピアが1595年頃から1599年にかけて書いた史劇四部作、「リチャード二世」(1595年)、「ヘンリー四世 1部」(1596年)、「ヘンリー四世 2部」(1598年)に続く最終作で、1599年に執筆されました。私が観た映画は1945年版で、他に1989年版があります。1945年といえば、前年のノルマンディー上陸作戦の後、イギリス軍を含む連合軍がフランスに侵攻していた時代であり、この映画もイギリス軍がフランスに侵攻するという話です。
 この映画の背景となった時代は、イギリスの大きな転換点となった時代です。イギリスでは、11世紀以来ノルマン朝やプランタジネット朝というフランスの貴族が国王となっていました。フランスの貴族がイングランド王になっていたのか、それともイングランド王がフランスに領地をもっていたというべきか、よく分かりませんが、少なくともプランタジネット朝のジョン王が大陸の多くの領土を失うまでは、プランタジネット朝の君主はフランスに住んでいることが多かったようです。当時の国家の在り方は、人と人の繋がりによって成り立っており、当時としては、こうしたことは特に奇妙だとは言えなかったようです。
 イングランドでは、13世紀中頃エドワード3世がフランスの王位を要求して百年戦争を始めますが、その50年に及ぶ治世の間に嫡子が次々と死んでしまい、1377年にエドワード3世が死ぬと、まだ10歳の孫であるリチャード2世が即位します。そして彼が、シェイクスピアの四部作の最初の主人公であり、プランタジネット朝の最後の君主ということになります。彼は人望がなく、1399年にランカスター家のヘンリの反乱で捕らえられて王位を剥奪され、やがて暗殺されます。ここにプランタジネット朝は消滅し、ランカスター朝が誕生する分けですが、その創始者ヘンリ4世が、第二部と第三部の主人公です。彼は、正統な君主を倒して王位についたため、常に自らの王権の正統性に苦しみつつ、国内の安定に努め、1413年に死にます。
ヘンリ5世については、「ヘンリー4世 第2部」でハル王子として登場し、若い頃はごろつきたちと居酒屋などで遊び回っていたそうです。ひいき目に見れば、彼は形式的なことが嫌いな豪胆な性格だったと言えるかもしれません。しかし、やがて彼は王の仕事を手伝うようになり、その能力が発揮されるようになります。1413年に王が死ぬと、ヘンリ5世が即位します。これが、シェイクスピア四部作の最終作です。彼は王族ではありましたが、フランス語があまり得意ではなく、宮廷でも英語が話されるようになり、公文書も英語で書かれるようになります。その結果、300年以上続いたフランス文化の影響の時代は終わり、イギリス独自の文化が形成されていくことになります。
 ヘンリ5世は即位すると、直ちに百年戦争を再開します。イギリス自身の政情が不安定だったこともあって、百年戦争は20年ほど中断していたのですが、彼はフランスの内部紛争に乗じて、1414年に軍隊をノルマンディーに上陸させます。この映画が制作されていたころ、連合軍はノルマンディー上陸作戦を開始しますので、この映画の制作には、そうしたことが影響しているのかもしれません。なお、これより2年ほど前にジャンヌ・ダルクが誕生します。いずれにせよ、1415年にはヘンリ5世はアジンコート(アジャンクール)の戦いで、4倍の兵力を持つフランス軍を破り、1420年に和平を締結します。その結果、皇太子シャルル7世は不倫の子として追放され、ヘンリ5世は王女キャサリン(クリスティナ)と結婚し、シャルル6世の死後フランス王位を継承することになります。そして1422年にシャルル6世が死にますが、この年にヘンリ5世も急死します。35歳でした。
 その後のフランスの情勢については、このブログの「映画で西欧中世を観て(7) ジャンヌ・ダルク」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/08/7.html)を参照して下さい。イギリスでは、ヘンリ6世の時代にヨーク家との間に薔薇戦争が勃発(1455年)、1461年にヘンリ6世はヨーク家のエドワード4世に王位を奪われ、幽閉されてしまいます。その結果ヨーク朝が成立するわけですが、やがてランカスター朝の傍系であるヘンリ7世がヨーク朝に勝利して、テューダー朝を興します。この劇が上演されたのは、テューダー朝のエリザベスの晩年でしたので、この四部作はテューダー朝のルーツを語る演劇だった分けです。さらにエリザベス女王には後継者がなく、しっかりした後継者がいないと国が亡びるという警告だったのかもしれません。エリザベスも、さらにエリザベスに謀反を企てたグループもこの劇を観ていますが、それぞれどんな思いで観ていたことでしょう。
 この劇は、1599年に開業されたばかりのグローブ座で公演されました。この劇場は木造で、20角形の円筒型をなしており、中央の中庭部分は、立ち見客用の平土間と、建物から土間に突き出す形で設置された舞台からなっていました。それはエリザベス朝時代を代表する劇場でしたが、1642年の清教徒革命で閉鎖され、取り壊されました。しかし、1997年に復元されました。この映画は、このグローブ座での上演という形で進められ、映画の半分は舞台上での場面でした。もちろんこの時代にグローブ座はまだ復元されていないので、撮影用のセットが作られたわけですが、それでもグローブ座の雰囲気はよく出ていたと思います。

ハムレット

「ハムレット」は1600年に執筆され、シェイクスピアの代表作であるとともに、四大悲劇の最初の作品です。四大悲劇とは、「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベス」です。「ハムレット」は何度も映画化され、さらに「ハムレット」を題材とした映画も沢山あります。このブログて取り上げた「女帝 エンペラー」(2006年)もその一つです(「「王家の紋章」と「女帝(エンペラー)」を観て」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9035.html)。私が観たのは、1948年にイギリスで制作された映画で、前に述べた「ヘンリー5世」と同様、ローレンス・オリヴィエが監督・主役を務めていました。さすがに彼は名優として知られるだけあって、ヘンリ5世とハムレットが同一人物であるとは、わからない程でした。







北海帝国(ウイキペディア)

この戯曲の題材は北欧伝説にあるようで、12世紀末に編纂された「デンマーク人の事績」という歴史書にアムレットを主人公にした話があり、内容も「ハムレット」と似ているそうです。「ハムレット」の舞台となったデンマークは、古くからイギリスとの強い関わりをもっていました。11世紀にはデンマークを中心とした北海帝国が成立し、イギリスもその一部を構成していました。戯曲でもデンマーク王がイギリスを臣下のように扱う場面がありますが、それは、こうした歴史的な背景を前提としているものと思われます。ただ、アムレットの話はかなり古いものと思われますが、「ハムレット」では大砲が登場していますので、15世紀以降となります。
こうした時代考証は、数えきれない程、行われてきたことでしょうが、「ハムレット」に関しては、こうした考証はあまり意味がないように思います。なぜなら「ハムレット」は、時空を超えた人間の内面世界を描いているからです。「ハムレット」は、歴史上初めて人間の内面世界と向き合った作品だそうです。歴史上初めてかどうかは知りませんが、「ハムレット」は人間の内面の迷宮と混沌を見事に描いており、観客を内面世界に引き込み、一つ一つの言葉が、それを聞く人々の心に突き刺さります。そこで語られた多くの言葉が、ほんど独立した格言のようになって、今日に至るまで人間精神の形成に大きな役割を果たしてきたと思います。
物語は、夜な夜な宮殿の屋上に殺された前王(ハムレットの父)の亡霊が現れる、というところから始まります。やがてハムレットは亡霊と語り、父が父の弟に殺されたことを知ります。そして弟が王位を継ぎ、さらに父の妻(ハムレットの母)を自分の妻とします。これを知ったハムレットは父への復讐を誓い、それを隠すために狂人のような振る舞いをし、ふとしたことから、彼を愛していたオフィリアの父を殺してしまいます。そのためオフィリアは発狂し、溺死してしまいます。そして色々って、ハムレットは父の敵を討ち、彼自身も死んでいきます。要するに、関係する人々はほとんど死んでしまうという、壮絶な悲劇です。
ただこの映画は、一つの観点で制作されています。映画の冒頭に、原作にはない次の言葉が語られます。「ただ一つの欠点のために、どれほどの美徳をもっていようと、無となってしまう。……これは一人の男の悲劇である。優柔不断だった男の。」ハムレットには、王を殺すチャンスがありました。王が、自分の犯した罪を恐れて祈っている時、たまたまハムレットがその後ろを通りかかったのです。しかし、もし王が祈っている時に殺せば、王は天国にいくかもしれない。それに対して自分も父も地獄で苦しむことになるかもしれないと考えたのです。この一瞬のためらいが、王を殺すチャンスがあったにも関わらず殺せず、この逡巡が、やがて王も母も、そしてオフィリアとハムレット自身をも死に至らせる悲劇を生み出しました。
「ハムレット」は非常に複雑な内容なので、この映画のように観点を絞って捉えると分かりやすくなります。映像も内容もきわめて重厚で、評判の高い映画でした。

 シェイクスピアの四大悲劇の第2作目は、1604年に執筆された「オセロ」です。ヴェネツィアの将軍だったオセロが妻の不貞を疑って殺害し、やがてそれが誤解であることが分かって自殺する、という話です。この戯曲が異色だったのは、主人公のオセロがムーア人、つまり北アフリカのムスリムであったということです。ヴェネツィアは、15世紀末から1571年までキプロスを領有しており、戯曲では、オセロはキプロスの守備隊長となっています。当時、キプロスはオスマン帝国による猛攻を受けており、そんな中でヴェネツィアは、能力さえあれば誰でも登用していたようです。イスラーム教徒とキリスト教徒との対立という構図は、それ程単純ではないようです。
 「オセロ」の映画も沢山ありますが、私はどれも観ていません。ここに掲載した写真は、1995年にイギリスで制作された映画です。先に述べたローレンス・オリヴィエも、1965年に「オセロ」を制作しています。なお、オセロという名のゲームがありますが、これは、黒人のオセロと白人の妻との関係が目まぐるしく変わる展開であることから、こう名付けられたらしいのですが、何となく人種差別的な感じがします。


リア王

 シェイクスピア四大悲劇のうち三番目の作品で、1605年頃に執筆されました。その内容があまりに悲劇的で複雑だったためか、映画化が進まず、1970年にソ連で制作されたこの映画が最初のもののようです。ロシア人は、イギリス人に次いでシェイクスピア好きだそうで、「ハムレット」も制作しています。日本では黒沢監督が、「リア王」をもとに「乱」という映画を制作したことは、よく知られています。
 リア王については、12世紀に編纂された「ブリタニア列王史」にウェルズの伝説的な王として記載されているそうで、時代については不明です。リア(レイア)王は60年間統治し、嫡子がいなかったため、3人の娘に領土を分割して与えることにしました。その際、娘たちによる自分への愛情の深さを語らせることにしました。上の二人の娘は、口を極めて愛情の深さを語りますが、リア王が最も寵愛した末娘のコーデリアは、「娘が父親を愛するのは当然で、わざわざ口に出して言うものではない」と言ったため、激怒したリア王は彼女に領地を与えませんでした。そのため彼女は持参金なしでフランス王に嫁ぎます。リア王は、娘たちに面倒を見てもらい、余生を悠々自適に暮らすつもりだったのですが、娘たちは父の面倒を見るのを嫌がり、結局リア王は無一物で放浪することになります。
 ここから、「ブリタニア列王史」とシェイクスピアの「リア王」とで、内容が異なります。「ブリタニア列王史」では、リア王はコーデリアとフランス王に援助を求め、彼らの協力で二人の娘と婿たちを倒し、やがてコーデリアが王位を継ぎます。ハッピーエンドです。これに対して、シェイクスピアの「リア王」では、父を助けに来たコーデリアは敵に捕まって殺され、リア王も殺されるという、最悪の結末となります。「ハムレット」の悲劇性には多少なりとも爽やかさがありましたが、「リア王」の悲劇性には救いようがありません。
 この文章を、どのように締めくくったよいのか分かりません。ドラマには、弟の罠で家を追われて放浪する青年や、つねにリア王の側にいる道化などが複雑に絡み合い、これらが一つの演劇空間を創っているようですが、多分、何度観ても私には分からないと思います。


 「マクベス」は、シェイクスピアの四大悲劇の最後の戯曲で、1606年頃執筆されました。マクベスは、11世紀のスコットランドに実在した王で、先王を殺して自ら王になりますが、しだいに疑心暗鬼となって暴政を行い、最後は殺されるという物語です。1603年にスコットランドのステュアート家ジェームズ6世がイギリス王となっており、この事件に触発されて、この戯曲が執筆されてと思われます。ただ、当時スコットランドでは暴力による王位簒奪はよくあることで、実在したマクベスは17年間在位し、名君として知られていました。
ここにあげた写真の映画は、1971年のイギリス・アメリカの合作映画で、かなり血みどろの映画のようです。私はこの映画を観ていませんが、あまり観たいとも思いません。






テンペスト

 1611年頃に執筆された戯曲で、シェイクスピアの事実上最後の作品となり、この映画は、この戯曲執筆の400周年を記念して、2011年にアメリカでファンタジー映画として制作されました。「テンペスト」というのは「嵐」という意味で、このドラマが嵐から始まるため、このタイトルが付けられたのだと思います。以前には、この作品は、日本では「嵐」というタイトルで紹介されることが多かったようです。NHKで「テンペスト」という連続ドラマが放映されていましたが、これは「幕末期の琉球王国を襲った時代の荒波」というような意味で用いられているようです。
 この戯曲の主人公は、ミラノ侯爵プロスペローですが、映画では女公爵プロスペラに変更されています。12年前、プロスペラはナポリ王と結んだ弟のアントーニオによってミラノから追われ、3歳の娘ミランダとともに孤島に漂着しました。島には、キャリバンという怪獣と、エアリエルという空気の精が住んでいましたが、魔術を研究していたプロスペラは彼らを操って島を支配します。そして12年の歳月が流れ、ナポリ王と、その息子と弟、さらにミラノ侯爵を乗せた船がこの島の近くを通りがかりました。そこでプロスペラは魔法で嵐を起こさせて、ナポリ王たちを島に引き入れます。
 ミランダは漂着したナポリの王子を発見しますが、人間の男を初めて見たミランダは、ナポリの王子に一目惚れし、プロスペラは王子に試練を課した上で、二人の結婚を許します。他の者たちに対しては、プロスペラは魔術を使って苦しめ、その間にナポリ王の弟が兄を殺して自ら王となろうと画策しますが、プロスペラがこれを妨害します。やがてプロスペラに追い詰められたナポリ王たちは、初めてプロスペラが生きていることを知り、ナポリ王は彼女に謝罪しますが、他の二人は謝罪しませんでした。しかし、彼女は反省しない二人を含めてすべての者を許し、怪獣も空気の精も解放してやります。そしてナポリでミランダと王子の結婚式をあげさせ、自らはミラノに帰って行きます。
 最後にプロスペラは、一人舞台に立ち、自分も自由の身にして欲しいと、観客に懇願して劇は終わります。これはシェイクスピアの引退表明ではないかと、長く議論されてきました。事実、彼は翌年に引退して故郷に帰ってしまいます。しかし、その後も共著という形で台本を書いているため、引退表明という説は今日ではあまり支持されていません。それよりも、この戯曲の問題点は、罪ある者をすべて許したということにあります。「ヴェニスの商人」で法律学者に扮したポーシャは、シャイロックに慈悲を示すように言いましたが、彼女自身はシャイロックにまったく慈悲を示しませんでした。これは明らかに欺瞞です。そして「テンペスト」では、プロスペラは、罪を反省する者も、反省しない者も、すべてを許し、さらに島を解放し、自らも解放されます。これがシェイクスピアの到達点ではないかと思います。
なお、1609年にヴァージニアへ向う船が嵐に巻き込まれ行方不明になりましたが、翌年、無事ヴァージニアに姿を現し、当時大変評判となりました。シェイクスピアの「テンペスト」も、この事件の影響を受けた可能性があります。

 シェイクスピアの世界に、2週間どっぷりと浸かり、一つ一つの言葉の美しさや鋭さに圧倒されました。シェイクスピアについては、数えきれない程の研究がなされ、これからも研究され続けるでしょう。ここで私が書いたことは、まったく浅はかな内容であり、多くの誤解や間違いがあると思います。ただ、50年ほど前にシェイクスピアの戯曲をかなりまとめて読み、その後ずっとシェイクスピアから離れていましたが、ここでは映画を通じて、自分自身のためにシェイクスピアをまとめてみました。