2019年8月31日土曜日

映画「天地明察」を観て

2012年に制作された映画で、日本で初めて独自の暦を作った安井算哲(渋川春海)の生涯を描いています。原作は、冲方丁(うぶかた とう 2009)です。
 暦の歴史は苦難の歴史です。農業社会においては正確な暦は必須であり、したがって古来どこでも正確な暦を作るために多くの労力が費やされてきました。そして暦を作ることは統治者の義務であると同時に、暦を作る者は宇宙の声を聞くことができる神のように見なされることもありました。すでに古代オリエントで種々の暦が作られ、これをもとに古代ローマでカエサルがユリウス暦を作ります。この暦は、1280年で10日も誤差がでるため、16世紀にグレゴリオ暦が作られます。この暦の政策にはコペルニクスが関わり、非常に正確で、今日も広く使用されています。
 中国でも独自の天文観測により暦が制作されました。中国の王朝では太史令という役職が天文・暦法や祭祀と国家の文書の起草を行い、皇帝の権威の中枢を担うわけですが、司馬遷はこの役職にあって「史記」を著したわけです。日本は中国の暦を用い、この映画の時代には800年ほど前の唐の暦を用いていましたが、すでに2日の誤差がありました。一方、11世紀のイスラーム世界にウマル・ハイヤームという数学的天才が現れました。彼は酒に酔い、詩を書き、無神論を呟く異色の人物でしたが、「ジャラリー暦」という極めて正確な暦を作りました。そしてこの「ジャラリー暦」は、中国の元代に「授時暦」として実用化されます。
 日本でも江戸幕府が安定すると、正確な暦を作ることが課題となり、幕府の命で安井算哲(渋川春海)がその任に当たることになります。安井算哲は、1639年に囲碁の家元の家に生まれ、1659年に21歳で幕府の御城碁に初出仕して、その才能が世に知られますが、同時に彼は天文学、数学、暦学に通じ、「授時暦」による改暦を進言します。当時4代将軍の徳川家綱はまだ若かったため、水戸光圀や会津の保科正之ら英邁な大名が将軍を支えており、彼らの指示で算哲は若年の身で改暦の大事業は始めることになります。算哲は日夜天体の観測を続け、失敗を繰り返しながら、新しい暦の作成に努めます。
 こうして彼は新しい暦を完成させますが、それを実施するには大きな抵抗がありました。古来時を支配するのは天皇であり、したがって暦を作る権限は天皇と公卿にあり、それは彼らにとって既得権益です。彼らは当然、幕府の、しかも庶民が作った暦など認めるはずはありません。映画では、算哲は従来の暦では予測できなかった日蝕の日時を予想し、それを一般に公表し、自らの暦がいかに正確かを実証します。こうして1685年に、彼の暦は貞享暦として交付されました。日本人が初めて自らの手で作った暦でした。この功績により算哲(渋川春海)は、新たに創設された天文方の初代奉行となり、250石の武士に取り立てられました。

 映画では、算哲の周りに多くの数学や天文学のマニアが集まり、彼らは幾分変人ですので、こういう人々のやり取りが大変面白く描かれています。また、関孝和という数学者が登場します。彼は孤高の数学者といわれ、その後の和算の発展の出発点となったとされ、映画では春海にも大きな影響を与えたことになっています。

2019年8月28日水曜日

大阪暮らし むかし案内

本渡章著 20121年 創元社
本書は井原西鶴の著書やその挿絵を用いて、江戸時代の大阪の民衆の風俗を描いています。著者はまず冒頭で述べます。「井原西鶴は有名人だ。西鶴というだけで、たいていの人に通じる。にもかかわらず、「読みました」という人は案外少ない。」私もその通りです。つまり西鶴ほど有名で、西鶴ほど知られていない人物は珍しい。」
このブログでも、「映画で浮世草子と浄瑠璃を観て 大阪物語」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/05/blog-post_11.html)で西鶴について述べていますが、それは西鶴のほんの一部でしかありません。著者によれば、「西鶴をひもとけば、江戸時代がわかる。西鶴を味わえば、人間が分かる。西鶴を熟読すれば、ものを視る目が養われる。西鶴を鏡にすれば、今という時代、今を生きている人々までもみえてくる。西鶴は今でも広く読まれる価値がある。」ということです。
 本書は、金について、町人の生活、色恋について、西鶴を通じて当時の社会や人々の考え方を述べていますが、特に興味深かったのは、挿絵についての説明です。例えば、人々が裸足で道を歩いている絵、商人が二本の脇差をさしている絵などです。多くの人物が描かれている一枚の絵の中では見逃してしまいそうな小さな絵の中に、色々なこと読み取ることができ、大変興味深く読むことができました。


2019年8月24日土曜日

映画「ポンペイ」を観て

2014年にアメリカで制作された映画で、古代ローマ帝国時代の都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火で滅びたという史実に基づいた映画です。












ポンペイは、今日の南イタリアにあるナポリの近郊の古代都市で、港町として商業で栄えていましたが、79824日にベスビオ火山が噴火し、翌日巨大な火砕流が発生して、ポンペイは飲み込まれてしまいました。当時ポンペイの人口は1万人程度だったと推定され、火砕流が起きた段階でかなりの人々が脱出していましたが、それでも2千人程の人々が火砕流で死にました。噴火による町の消滅は、歴史上しばしばあり、例えば1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島で起きた噴火では、住民約28千人が一瞬にしてほぼ全滅しました。
 その後ポンペイでは町は再建されませんでしたが、その下に町が埋もれていることは知られていました。18世紀に、古典古代や考古学に対する関心が高まると、本格的な発掘が行われるようになりました。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存し、ポンペイが人々の前にその姿を再び現すことになりました。美しい壁画が乾燥した火山灰に覆われてよく保存され、さらに古代ローマの街並みや人々の生活が再現されました。また同時に、母親が子供だけは助けようとして、子供を抱えてうずくまって死んでいる凄惨な場面も発見されました。

 映画では、セットと火砕流には相当お金がかかっているようですが、内容的にはありきたりでした。剣闘士の奴隷とポンペイに住む商人の娘との恋と二人の死が描かれていますが、このストーリーは別にポンペイでなくても成り立つ話です。要するにこの映画は、アメリカ人好みのパニック映画です。


2019年8月21日水曜日

「アルツハイマー」を読んで

コンラート・マウラー/ウルリケ・マウラー著、1998年、新井公人監訳、保健同人社、2004年。
 アルツハイマー病は、進行する認知障害の病名として、今日知らない人はいませんが、アルツハイマーはこの病気を最初に認識したドイツの精神科医の名前です。アルツハイマーは1864年に生まれ1915年に死にますが、この時代にはフロイトが活躍し、また若いユングが登場します。さらにこの時代にコッホが細菌学を確立し、日本にも大きな影響を与えました。
 学者の一生というものは比較的平凡なもので、彼も他の学者同様に、良い条件を求めて幾つかの病院や大学を渡り歩きます。そして19011126日、フランクフルト・アム・マインの市立精神病院に勤務していたアルツハイマーは、当時51歳のアウグステ・Dと呼ばれる女性に面談し、その後多数の診療記録を残します。
 「あなたのお名前は」
 「アウグステ」
 「姓は?
 「アウグステ」
 「あなたのご主人のお名前は?
 「アウグステだと思います」
 これが、今日われわれがアルツハイマー病と呼ぶ病気に関する最初の診療記録です。アルツハイマーは生涯この病気に関する資料を集め、この症例はアルツハイマーの名とともに伝えられますが、第二次世界大戦の影響もあって忘れられていきます。1960年代頃から再びこの病気が注目されるようになり、1995年にフランクフルト大学病院の地下から、膨大な資料が発見され、その中にこの診療記録が含まれていました。

 本書は、このようなアルツハイマー病の発見の過程を述べるととともに、当時のドイツの精神医学の状況を説明しており、幾分難しくもありましたが、大変興味深く読むことができました。

2019年8月17日土曜日

映画「少林寺」を観て

1982年に中国・香港で制作されたカンフー映画で、その後のカンフー映画の流行の出発点となりました。
舞台となる少林寺は洛陽の近くにあり、伝承によれば5世紀の北魏孝文帝時代に建立され、6世紀にはインドからの渡来僧達磨がここで禅の修行をしたそうです。また、7世紀に李世民が唐を建国するに際して、少林寺が兵を出して援助したことから、李世民によってその地位が確立されました。少林拳なるものがいつ頃生まれたかははっきりしませんが、少なくとも明の時代にはその訓練が行われていたようです。
20世紀は少林寺にとって苦難の時代となります。19世紀末に義和拳などの武闘集団が起こした義和団事件以来、少林拳は抑圧され、さらに文化大革命時代には少林拳のような前近代な憲法は禁止されました。1977年に文化大革命の終結宣言が行われると、少林拳も復活し、この映画は5年後の1982年に制作されました。主人公を演じたリー・リンチェイは、1963年に生まれ、中国全国武術大会に5年連続で優勝し、この映画に出演した時、また19歳でした。
映画の制作技術や俳優の演技はあまり洗練されていませんが、かえってその素朴さが新鮮に感じられました。長々と続く武闘シーンにはうんざりしますが、時々映し出される少林拳の型は、相当見ごたえがあります。スタントマンも編集もなしで、出演者が実際に演じていますので、今日流行のワイヤーアクションなど比較にならない程迫力がありました。これによって少林拳の名声は、世界に轟くことになりました。

なお、日本の少林寺拳法は少林拳とは直接関係がありません。少林寺拳法は、日本の武道家である宗道臣(中野理男)が、中国の拳法を学び、それに独自の工夫を加え、戦後日本で青少年の精神鍛錬のために生み出したものです。ウイキペディアは、少林寺拳法と少林拳は無関係であると断じていますが、宗道臣は滅びかかっていた少林寺で古典的な拳法を学び、自らの拳法を少林寺拳法と名乗っているのですから、無関係というのは言い過ぎのような気がします。

2019年8月14日水曜日

「明治・大正に生きた女101人」を読んで

「歴史読本」編集部編 KADOKAWA 新人物文庫 2014
 本書は、タイトルのように明治・大正を生きた女性たち描いています。380ページの文庫本で101人もの女性を扱っているわけですから、一人の女性についての説明は、本当に僅かです。ここで描かれている女性たちは、抑圧に耐え忍ぶ悲劇の女性たちではなく、抑圧の中でも激しく生き抜いた女性たちです。
 封建社会で女性たちは抑圧されていたと言われますし、それは事実ですが、実は19世紀に入ると、女性は一層家庭に縛り付けられることになります。それは資本主義の発展と中央集権体制の強化は、家父長的な家族制度の強化と結びついているようです。しかし、この時代に活躍した女性たちは、こうした抑圧をはねのけ、同じ時代に活躍した男性はるかに超えるような活躍をしています。
 本書で述べられているは101人にのぼり、しかも私はそのほとんどを知りませんでした。したがって、ここで、これらの女性たちに個別的にコメントすることはできませんが、本書を読んで、日本の近代史が従来とは異なって見えてきたように思います。男ばかりが目立つ日本近代史において、女性の果たした役割にもっと注目すべきだと思いました。


2019年8月10日土曜日

映画「ダーウィンの悪夢」を観て

2004年にアメリカで制作された映画で、東アフリカのヴィクトリア湖で行われているナイルパーチという魚の漁が、いかにグローバリゼーションに組み込まれ、社会悪を垂れ流しているかを描いたドキュメンタリー映画です。

 ヴィクトリア湖は、白ナイル川の源流で、その湖水面積は世界第3位、アフリカ1位です。19世紀後半には、ナイル川の源流を求めて、イギリスのリヴィングストンやスタンリーがこの地域を探検し、当然ヴィクトリア湖の名は当時のイギリス女王ヴィクトリアに由来します。今日ヴィクトリア湖は、ケニア、ウガンダ、タンザニアよって分割されており、この映画の舞台となるのはタンザニアです。






 タンザニアは、19世紀末にドイツの植民地となり、第一次世界大戦後にイギリスの植民地となりました。イギリスはこの地域の漁業を振興するため、ナイルパーチと呼ばれる肉食の淡水魚を放流しました。ナイルパーチは、大きなものでは体長2メートル、体重200キロを超える巨大魚で、天敵がいないためたちまち数が増え、湖内の他の生物が激減することになりました。かつてヴィクトリア湖は、多くの生物が共棲し、さまざまな進化の過程が見られたため「ダーウィンの箱」と言われましたが、今やヴィクトリア湖は「ダーウィンの悪夢」と化してしまいました。つまりヴィクトリア湖では、外来種の導入により、固有の生態系が崩壊してしまったのです。
 ただ、この魚の淡白な白身は、ヨーロッパ人や日本人に好まれたため、大量に捕獲され、処理工場が建設され、多くの雇用が生み出され、いまやタンザニアの一大産業に発展しました。その結果、この地域に仕事を求めて多くの人々が集まり、一部の金持ちと仕事のない貧困層や親を失ったストリート・チルドレンに分断され、貧困層の食べ物は、毎日処理工場から大量に排出される魚の残骸です。またエイズが蔓延し、日々多くの人が死んでいきます。このように、ヴィクトリア湖はグローバリゼーションに組み込まれて、貧困が再生産されていくことになります。
 一方、梱包された魚は大型輸送機でヨーロッパに運ばれますが、その飛行機はヨーロッパからやって来ます。その飛行機がアフリカで密売するための武器を運んでくるのではないかと、噂されています。確かに、タンザニアには内紛はありませんが、周辺地域には内紛が多く、武器を必要としており、タンザニアは武器密輸の経由地としては最適です。カメラはこれらの飛行機のパロットたちを執拗に追い、武器の密輸について尋ねますが、パイロットたちは当然口をつぐみます。しかし、戦車でも運べる大型輸送機が、魚を運ぶためだけに、荷物室を空のまま、タンザニアまで来るとは思えません。

 武器輸送について、タンザニア政府は関わっていないかも知れませんが、武器商人を通じて欧米の武器がアフリカに流入しているのは事実であり、武器を輸出するために彼らはどのような手段でもとるでしょう。そして紛争は、繰り返し再生産されていきます。何しろ、国際連合の常任理事国を構成する5大国のすべてが、世界でも屈指の武器輸出国だからです。こうしてヴィクトリア湖は、「進化」ではなく、負のスパイラルに巻き込まれたのです。

 このドキュメンタリーにはナレーションがなく、多くの関係者のインタビューの積み重ねより構成されています。内容についての説明がほとんどない分けですから、このドキュメンタリーについての感想は人によって異なるでしょう。この記事の最初にあげたDVDジャケットの写真は日本語版で、食べることに必死な少年の一瞬の表情を映したもので、それは「貧困」を象徴しているように思います。左にあげた写真は、ヴィクトリア湖のナイルパーチとその骨と銃からなっており、グローバリゼーションそのものを示しているように思います。







2019年8月7日水曜日

「古都トレド 異教徒・異民族の共存の街」を読んで

芝修身著、2016年、昭和堂
 スペインは、8世紀初頭にイスラーム教勢力に征服されて以来、800年近くイスラーム教徒に支配されました。この時代のスペインとは一体何なのか、イスラーム教徒に屈服していた時代なのか、イスラーム教徒との雄々しい戦いの時代なのか、それとも共存の時代なのか、本書はいまだに解決を見ないこの問題を、トレドという都市に焦点を当てて論じています。なお中世のスペインについては、このブログの「炎のアンダルシア」「エル・シド」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/08/blog-post.html)を参照して下さい。
 トレドは、今日のスペインの首都マドリードより70キロほど南にある都市ですが、マドリードが16世紀に建設された都市であるのに対し、トレドははるかに古い都市です。トレドは、すでに西ゴート王国時代の首都がおかれ、8世紀にイスラーム教徒の支配下に置かれ、11世紀末に再びキリスト教徒により奪還され、以後トレドはキリスト教勢力とイスラーム教徒勢力の接点となります。当時のスペインには、イスラーム教徒やキリスト教徒のほか、ユダヤ教徒も多数おり、キリスト教徒もイスラーム教徒風の文化を受け入れ、日常的にアラビア語を話していたとされます。
 特にトレドは三つの宗教が日常的に混在しており、彼らは、少なくとも12世紀から13
世紀にかけての2世紀間は、何の問題もなく共存していたとされます。またトレドには翻訳所があり、多くのユダヤ人がギリシア哲学を含むアラビア語文献をラテン語に翻訳していました。したがってトレドは、キリスト教世界がイスラーム世界の先進文化を受け入れる窓口だったわけです。
 異文化・異宗教の共存は可能かという問いについては、少なくともトレドに関しては可能だったと言えるでしょう。そしてこの共存を破壊したのは、キリスト教徒の方でした。
 日本では、スペイン史、特にスペイン中世史に関する本は非常に少ないように思います。その意味で、本書は貴重な一冊といえると思います。

2019年8月3日土曜日

映画「ゴーギャン タヒチ、楽園への旅」を観て

2017年にフランスで制作された映画で、ポスト印象派の画家ゴーギャンの半生を描いています。ポスト印象派の画家としては、ゴーギャンの他にゴッホ、セザンヌなどがいますが、ゴッホについては、このブログの「映画で三人の画家を観て 炎の人ゴッホ」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2016/04/blog-post_16.html)、「ゴッホとロートレック」を読んで(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2017/04/blog-post_5.html)を参照して下さい。
 ゴーギャンは、若いころ証券取引所に勤めて大金を稼ぎ、結婚して5人の子供をもうけ、また余暇に絵を書いていました。しかし1882年にパリの株式市場が大暴落し、収入が激減しため、これを機会にゴーギャンは画家になることを決意します。当時の絵画界で流行していたのは印象派でしたが、ゴーギャンはアフリカやアジアの美術の中に、神話的な象徴性と活力を感じ、世界各地を旅します。1888年にはゴーギャンは一時ゴッホと共同生活を行いますが決裂し、次の旅先としてタヒチを考えるようになります。
 1891年、ゴーギャンはヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出のためタヒチに向かいます。そして映画はここから始まります。タヒチの奥地に自ら竹で小屋を建て、13歳の現地の少女を妻とし、創作活動に励みます。この映画で描かれたタヒチでのゴーギャンの生活と、ウイキペディアに書かれたゴーギャンの生活とがかなり異なっており、どちらが正しいのかよく分かりません。映画では、夢と現実の違いが描かれます。ゴーギャンは、南海の楽園ではお金などなくても生き行けると考えていましたが、現実にはタヒチはフランスの植民地に組み込まれ、フランス化され、お金なしで生きていくことはできませんでした。そのため、港で肉体労働を行ってお金を稼ぎ、そのため体を壊してフランスに帰ることになります。
 ゴッホと同様、ゴーギャンの絵は生前にはあまり認められませんでした。印象派の芸術家たちが伝統的な絵画に挑戦したような、ゴーギャンも西洋と西洋絵画に深い疑問を投げかけ、20世紀の絵画に強い影響を与えることになります。