2015年4月29日水曜日

「中国漫画史話」を読んで

畢克官(ひつ こくかん、1982年) 落合茂訳 1984年 筑摩書房
 タイトルの通り、中国の漫画の歴史を扱ったものです。まず、問題は漫画とは何かということが問題となります。ウイキペディアによれば、「漫画は、現時性と線上性とが複合した一連の絵である。現時性とは「その全てを一望して把握できること」、線上性とは「流れの中で部分を辿り、把握していくこと」である」ということですが、今一よく分かりません。著者は、風刺画すなわち漫画とはいえないと述べ、漫画の特徴は構想方法と表現方法の特殊性にあると述べていますが、これも今一分かりません。もともと中国には「漫画」という表現はなかったようで、この表現を明治時代の日本から学んだそうです。では日本の「漫画」は何に由来するのでしょうか。どうも葛飾北斎の「北斎漫画」にあるようです。「北斎漫画」は絵による随筆といわれ、「気の向くままに漫然と描いた画」という意味だそうです。





 中国で漫画が盛んになるのは辛亥革命前後ころからだそうですが、それ以前にも、数は少ないけれども、中国には漫画の古い伝統があるのだそうです。この絵は、明代に描かれた「一団和気図」という絵です。大まかに見ると、目を細めて笑っている人の姿が一個の球体にまとめられています。しかし、仔細に見ると三人の人が抱き合って一団となっており、さらに一つの顔が三つの顔で構成されています。この絵は、中国ではよく知られているある故事を描いているのだそうです。「晋代に慧遠(えおん)という高僧がいて盧山の奥深いところに住まいし、外出を嫌い、訪客を送るときも、すぐ近くの虎渓の手前までしか行かなかった。あるとき陶淵明と道士陸修静が訪ねてきた。三人はたちまち意気投合し、時のたつのも忘れて歓談した。慧遠は客を送りながらもなお話に熱中し、つい虎渓を渡ってしまった。これに気づいた時、三人は思わず顔を見合わせて、大いに笑い止まるところを知らなかったという。」要するに、儒教、道教、仏教という三つの異なった信仰をもつものが、ともに歓談しうるといことに感銘して描かれた絵です。そこにはストーリー性や思想性があり、決してこの絵が単なる戯画ではないことを示しています。
  
 辛亥革命後、反帝国主義闘争の啓蒙を目的とした漫画が多数発表されました。魯迅も、漫画の重要性を繰り返し強調しています。一目でストーリーも情感も思想も理解できるような漫画が、人々にいかに強烈な印象を与えるかということを、この絵が示しています。この絵は、孫文の「革命いまだ成功せず」という悲痛な叫びを描いています。















2015年4月25日土曜日

映画で古代ギリシアを観て(1)

はじめに
 ホメロスの叙事詩に関する三本の映画を紹介したいと思います。ただその前に、ホメロスと彼が吟唱したトロイア戦争についてふれておく必要があります。結論から先に言えば、どちらについても、歴史的に証明されていることは、非常に少ないということです。

 ホメロスは、8世紀末頃ころのギリシアで「イーリアス」「オデュッセイア」を吟遊した盲目の詩人です。しかし、まずホメロスの実在そのものが証明できないし、「盲目」というのは、当時の詩人のステイタス・シンボルのようなものなので、これもはっきりしません。また上記二大叙事詩をホメロスが創作したかどうかも分かりません。多分、長い年月の間に様々な詩人によって造られてきたものを、ホメロスが集大成したのだろうと考えられます。なお、上記二大叙事詩は朗誦されたものであり、これらが文字化されるのは、前7世紀から前6世紀ですので、この文字化の過程でも、変更が加えられたと思われます。こうした問題があるとしても、ここでは一応、二大叙事詩は8世紀末頃にホメロスによって創作されたということにしておきましょう。

次に、トロイア(当時はイリオスと呼ばれていました)という都市は存在したのか、トロイア戦争は実際に行われたのか、行われたとすれば、それは何時かという問題です。トロイアの存在は19世紀末のシュリーマンの発掘によって確認されました。しかし、これが「イーリアス」の舞台となったトロイアかどうかは、確定されていません。そもそもトロイア戦争なるものはあったかのか。ウイキペディアによれば、トロイア戦争は「紀元前1700年から紀元前1200年頃にかけて、小アジア一帯が繰り返し侵略をうけた出来事を核として形成されたであろう神話である」とされています。ただ、紀元前1250年頃に大規模な戦争があったとされており、一般にはこれがトロイア戦争ということになっているようですが、これも基本的には仮説の上に成り立った推測です。
 この戦争が起こったとされる時代は、ミュケナイ時代の末期にあたります。ミュケナイ文明はギリシアのミュケナイを中心に発展した高度な文明ですが、その文明がオリエントの強い影響を受けていたことは間違いありません。ミュケナイから見れば、オリエントは富と文明の象徴であり、ミュケナイが憧れのオリエントに侵略しようとしたことは在り得ることで、トロイア戦争もそうした戦争の一環だったと思われます。
 ところが、トロイア戦争が終わってまもなく、紀元前1200年頃、東地中海一帯が大混乱に陥ります。一般に「紀元前1200年のカタルシス(破局)」と呼ばれているものです。このカタルシスが何故起き、どの様なものだったかについては、意見が多すぎて紹介し切れません。また、これをきっかけに「暗黒時代」と呼ばれる時代が数百年つづきますが、その実態もよく分かりません。この時代が本当に「暗黒時代」だったのかについても異論があり、むしろこの時代について何も知らない我々が「暗黒」なのではないか、とさえ言われています。

 いずれにせよ、紀元前8世紀にギリシアの各地にポリスが形成され、ミュケナイ文明とは異なる「ギリシア文明」が形成されてきます。このギリシア文明の形成の出発点となったのが、ホメロスの二編の叙事詩です。そこで、この叙事詩の内容を、映画を通じてみていきたいと思います。

トロイのヘレン
 2003年に制作されたアメリカのテレビ・ドラマです。ホメロスの「イーリアス」は、10年に及ぶトロイア戦争の最後の年を扱っているだけですが、このドラマは戦争の原因から始まって、経過と結末を時代順に描いているため、内容的に分かりやすいと思います。ドラマでは、スパルタの王女ヘレネー(ヘレン)とトロイアの王子パリスとの運命的な恋、トロイアの姫カッサンドラーの予言、ミュケナイの王アガメムノーンの野心などが描かれます。
 パリスはトロイアの第二王子として生まれますが、彼の姉で予知能力があるとされるカッサンドラーが、この子はやがてトロイアを滅ぼすと予言したため、彼は山に捨てられて山羊飼いとして育てられます。彼は成長すると三人の女神から、三人の内最も美しいのは誰か選ぶよう求められます。一人の女神は自分を選べば富を、もう一人は王座を、そしてもう一人は世界一の美女を与えると約束し、彼は美女をもらうことを選びました。それがヘレネーです。やがてパリスの身分が明らかとなり、王宮に戻り、使節としてスパルタに派遣され、そこでヘレネーと出会います。
 一方、ヘレネーはスパルタの王女として生まれ、絶世の美女だったそうです。彼女への求婚者がギリシア中から集まったため、婚約者を籤で選ぶことになりました。その際、外れた者が怨みを持たないように、誰が選ばれても、その男が困難な状況に陥った場合には、全員がその男を助ける、という約束をします。そしてアガメムノーンの弟メネラーオスが選ばれ、彼がヘレネーと結婚してスパルタ王となります。そこへパリスがやってきて、ヘレネーは彼に一目ぼれし、そのままトロイアへ逃亡します。ヘレネーがトロイアに現れた時、カッサンドラーは再びトロイアの滅亡を予言します。こうしたことから、カッサンドラーという名前は、今日でも「不吉・破局」といった意味で使われるそうです。
 いずれにしても、ここで「全員が助ける」という約束が果たされることになります。ヘレネーを取り戻すため、アガメムノーンを総大将として、総勢10万、1168隻の大艦隊がトロイアに向かうことになります。この遠征には、エーゲ海の覇権を握ろうとするアガメムノーンの野心があったとされ、オデュッセウスやアキレウスは参加したくなかったのですが、結局断りきれず参加することになります。いよいよ出発の準備が整いましたが、逆風が吹き続け、なかなか出帆できません。ところがアガメムノーンの娘を生贄にすれば風向きが変わるというお告げを受け、アガメムノーンは苦悩の末、娘を生贄とします。これに怨みを抱いた妻は、戦後、帰国したアガムノーンを殺害することになります。
この戦いは10年を要し、神々もそれぞれの側について対立します。そして10年目が訪れる分けですが、これは次の映画で述べたいと思います。
 

 この映画で語られていることは、欧米の人ならほとんどが知っている内容だと思います。ただ、誰に焦点を当てるかで、それぞれの性格付けが異なってきます。映画では、ヘレネーは野性的で天真爛漫な少女として描かれますが、やがて運命に翻弄されて悲劇の女性へと変わっていきます。パリスは、自分のせいで戦争が起きた割には、平然としています。アガメムノーンは、傲慢で非情、所有欲の強い男として描かれます。また、アキレウスは、なんとスキンヘッドの凶暴な男として描かれていました。全体に、一貫性も深みもない映画でしたが、内容を整理するには役立つ映画でした。

トロイ

2004年にアメリカで制作された映画です。この映画は、トロイア戦争についての若干の前史が描かれますが、後はホメロスの「イーリアス」と同様、戦争が始まって10年目におけるアガメムノーンとアキレウスとの対立が中心となって描かれます。ただ、この映画は、ホメロスの「イーリアス」とはかなり異なっており、「イーリアス」を題材とした創作ものというべきです。
アキレウスの母は海の女神テティスとされ、彼女は息子を不死の体にするために冥府を流れる川の水に息子を浸しましたが、そのとき、テティスの手はアキレウスのかかとを掴んでいたためにそこだけは水に浸からず、かかとのみは不死身となりませんでした。これが後にアキレス腱と呼ばれるものです。ギリシア神話には、アキレスのように女神から生まれた者、神が人間の女に生ませた者が沢山おり、それは神話と現実の世界との境界が不明朗だった時代であるとともに、私などには不倫の結果生まれた子についての言い訳のように思えます。
 アガメムノーンとアキレウスが対立するようになった事情はかなり複雑ですが、結論だけ言えば、アガメムノーンがアキレウスが戦利品として得た女性ブリセイスを奪い取ろうとしたからです。怒ったアキレウスは戦線から離脱してしまい、戦争はギリシア側が不利となります。そうした中で、パリスとメネラーオスとの一騎打ちも行われますが、決着がつきません。映画では、この時メネラーオスがトロイアの第一王子ヘクトールに殺されますが、「イーリアス」ではメネラーオスは生きてトロイアを去ります。
 戦争はギリシアが劣勢となりますが、ここでアキレウスが再び戦闘に参加します。理由は、彼が可愛がっていた甥が戦闘中にヘクトールに殺されたからです。アキレウスはヘクトールに決戦を挑み、ヘクトールを倒して彼の遺体を戦車で引きずりまわします。しかしアキレウスはヘクトールの父の懇請で遺体をトロイアに帰し、「イーリアス」はヘクトールの盛大な火葬の儀式の中で終わります。それは後継者の死んだトロイアの滅亡を象徴する事件でした。
 その後アキレウスはパリスの放った矢によって踵を射抜かれて死亡し、パリスもまた戦闘中に死にます。こうした中で、ギリシア軍で最も聡明なオデュッセウスが一計を案じます。つまり「トロイアの木馬」の経略です。ギリシア軍を一旦撤退させ、その後に巨大な木馬を残し、中に何人かのギリシア兵が隠れ、夜中に木馬から出て、トロイアを内側から滅ぼすというものです。今日でも、内通者や巧妙に相手を陥れる罠を指して「トロイの木馬」と呼ぶことがあり、インターネットのウィルスにも「トロイの木馬」というのがあります。映画ではこの時の戦闘でアキレウスが死ぬことになっています。作戦は成功し、トロイアは炎上し、男たちは殺され、女たちは奴隷とされました。それはミュケナイ文明の終焉を予告するような光景でした。
 勝利したギリシアの男たちの運命も過酷でした。アガメムノーンは、映画ではヘレネーに殺されますが、「イーリアス」では帰国後妻に暗殺され、オデュッセウスは10年も海を漂流します。ただ、ヘレネーとメネラーオスは寄りを戻し、帰国して静かに暮らしたとのことです。結局この戦争は何だったのでしようか。この戦争後100年もたたないうちにミュケナイは廃墟となります。トロイア戦争は、ミュケナイ文明滅亡過程の一環だったのかもしれません。
この映画は、英雄アキレウスとアガメムノーンに奪われた人質の女性ブリセイスとの愛を描いたもので、結局二人とも死んでしまいます。したがって、この映画はホメロスの「イーリアス」とはかなり内容が異なるため、この映画に対する評価はあまり高くありませんでしたが、「イーリアス」をよく知る欧米人はともかく、ほとんど基礎知識のない私にとっては、些細な相違はどうでもよいことで、映画そのものは面白く観ることができました。


 その後形成されるギリシア文明は、ホメロスの二大叙事詩から流れ出したといっても言い過ぎではありません。事実、紀元前5世紀頃多くの悲劇が創作されますが、その多くがこれら叙事詩から題材を得ています。したがって、ヨーロッパ文明の源流も、この二大叙事詩にあると言えるでしょう。

オデュッセイア/魔の海の大航海

1997年にアメリカで制作されたテレビ映画です。ホメロスの「イーリアス」の続編にあたり、オデュッセウスの苦難の帰国の旅を描いています。「イーリアス」においては、アガメムノーンは冷酷な野心家、アキレウスはずば抜けた戦士として描かれますが、オデュッセウスは言わば智将として描かれます。木馬を考案したのも、オデュッセウスでした。こうして10年の歳月を経ていよいよ帰国するわけですが、その帰国に10年の歳月を要することになります。
 ここでも、事の起こりは神でした。オデュッセウスは、ゼウスに次いで力のある海の神ポセイドンを怒らせてしまったのです。理由は、トロイアの勝利に対して、オデュッセウスがポセイドンに感謝しなかったからだというのです。オデュッセウスは、各地の海を放浪し、多くの困難に遭遇し、それを知恵と勇気で切り抜けます。そこでは、さまざまな神々が登場し、ギリシア神話に関心のある人には興味深いと思いますが、私は少し退屈しました。
 一方、オデュッセウスの故郷でも大変でした。彼の故郷はイタカーという島で、今日ギリシア西方に同名の島がありますが、これが彼の島であったかどうかは、はっきりしていないようです。彼はこの国の王であり、子供が生れた直後にトロイアに出陣して以来、20年間不在だった分けです。オデュッセウスはすでに死んだものと思われ、多くの男たちが彼の王位と財産を狙って彼の妻ペネローペに求婚し、彼女もしだいに断りきれなくなっていました。そうした絶望的な状況の中で、オデュッセウスが帰国し、求婚者たちを倒して、ハッピーエンドとなります。

 「オデュッセイア」という一大叙事詩が、人々に何を伝えようとしているのか、私にはよく分かりません。ただ私に伝わったのは、一つは当時の海上航行の危険性です。地中海は一見静かな内海のように見えますが、冬の疾風が吹く季節には、風向きは激しく変化し、予想もつかない逆波や横波が生じるため、この時期の航海は困難です。また、多くの神々が人間に関わってきますが、オデュッセウスはそれを神の意志だからと諦めることなく、敢然と立ち向かいました。そもそも彼はポセイドンの意志に逆らって船出し、さまざまな苦難に遭遇しますが、彼はそれらを理性と勇気によって克服していきます。紀元前13世紀のオデュッセウスの時代には、まだ人間と神々の境界は不明確でしたが、紀元前8世紀頃のホメロスの時代には、人間は神々を尊敬しつつも、しだいに人間の意志や理性の果たす役割が大きくなっていきます。そしてこの叙事詩の作者と見做されるホメロスは、紀元前8世紀の人ですから、当然叙事詩には彼が生きた時代が繁栄されていたはずです。トロイア戦争からホメロスの時代までの空白の時代に、一体何が起きたのでしょうか。


2015年4月22日水曜日

「図説 漢字の歴史」を読んで


阿辻哲次著 1989年 大修館書店

甲骨文字が生み出されてから今日に至るまでの、3千年以上に及ぶ漢字の歴史が、多くの図版を用いて、非常に分かりやすく述べられています。中国の歴史にはいつも驚かされることばかりですが、最も驚くべきことは、やはり漢字の発明だと思います。象形文字や楔形文字は忘れ去られ、それを基に生まれた文字は別の言語で用いられましたが、漢字は3千年以上前に発明されてから今日至るまで、基本的に同じ言語で用いられてきました。このような例は、他にはないのではないかと思います。甲骨文字が発見されてから、数十年の内に、甲骨文字はほぼ完全に解読されてしまいますが、その理由は、甲骨文字は基本的に現在使用されている文字と同じだからです。





























 また甲骨文字の発明や発見・解読に関して、多くのエピソードが語られており、大変興味深いものでした。太古の帝王の時代に、蒼頡(そうけつ)という記録係が、鳥や獣の足跡をヒントに甲骨文字を発明したという伝説があります。確かに甲骨文字は、鳥や獣の足跡に似ていなくは在りません。言い伝えによれば、彼は観察眼が非常に鋭く、目が4つあったとされます。もちろんこれは伝承にすぎませんが、彼より1500年以上後の漢代に描かれた彼の肖像画には、目が4つ書かれています。こういう人物を「文化英雄」と呼ぶのだそうですが、そういう意味ではギリシアのホメロスなども「文化英雄」と呼べるのではないでしょうか。
 象形文字や楔形文字と同様、甲骨文字についても絵から文字への転換の過程を正確に跡付けることはできませんが、甲骨文字から現代の漢字に至る過程については、本書でも、多くのエピソードとともに詳しく述べられており、大変参考になります。漢代に著された「説文解字」は、漢字の成り立や部首による分類を行っており、この著作こそが漢字文化の発展に大きく貢献することになりました。

 本書では「紙」についても述べられています。後漢の蔡倫以前に紙があったかどうかつにいて、物を包んだりするためのものとして類似した材質のものはあったとしても、文字を書くためのものとしての「紙」は存在しなかったとのことです。また「紙」の発明が、文字文化の在り方に決定的な役割を果たします。「それまでの文字を書くための素材は、(原則的には)すべて文字を書こうとする者が自ら材料を調達し、加工したものであり、他所から買ってくるというような性質のものではなかった。しかし紙は文字を書こうとする者が自分で作ったものではない。紙の製造には大きな設備と労力を必要とするから、……個人では紙の製造はまず不可能である。だから紙を使う記録者は、誰かが作った紙を買うなどして手に入れ、それに文字を書いたのである。逆にいえば、紙は記録者以外の人によって作られ、また販売されるという形態をとった初めての素材であった。このような形態の確立によって、誰でも金さえ出せば文字書写の素材を入手できるという状態が出現したのである。この点でも紙は文字そのものが広範囲に普及することに大きく作用したことと思われる。」


2015年4月18日土曜日

映画でアフリカを観て(4)

アルジェの戦い
   
 1966年にイタリアで制作された映画で、1950年代におけるアルジェリアの独立戦争を描いています。



















アルジェリアは、1830年にフランスの侵略を受けて以来フランスの植民地となりますが、アルジェリアの場合他の植民地とは異なり、特異な位置づけがなされました。一般に植民地では、形式的とはいえ現地人による行政府が置かれるのが普通ですが、アルジェリアの場合本国同様の行政単位=県が置かれ、コロンと呼ばれる入植者は本国政治に関与することができました。つまりアルジェリアは行政上、植民地というより、フランスに編入されたのです。もちろんその際、在来のアラブ人やベルベル人は一切権利が与えられませんでした。
その結果多くのヨーロッパ人が入植し、肥沃な土地はほとんど彼らコロンによって奪われ、ブドウを中心としたプランテーション経営が進められました。第一次世界大戦が終わった頃、アルジェリア人口600万弱のうち70万強がヨーロッパ人となっていました。第二次世界大戦後独立運動が高まったため、フランス政府はアルジェリアに自治を与えようとしますが、特権を維持することを望むコロンが激しく反発したため、アルジェリア人はゲリラ闘争を本格化させます。一方、フランスはヴェトナムでの戦いに敗れ、1954年にヴェトナムの独立を認め、さらにアルジェリアの隣のモロッコとチュニジアの独立を認めます。
しかしアルジェリアには多くのフランス人が住み、財産を築いていますので、容易に独立を認めることができませんでした。こうした中で、1954年からアルジェリア人はテロ闘争を展開するようになります。映画は、この時代の首都アルジェにおけるテロ活動とそれに対するフランスの対応を描いています。テロ組織は極めてよく組織されており、警察は彼らの動きに翻弄されます。これに対してフランスは軍隊を投入し、徹底的に組織の壊滅を図り、結局1957年に組織のリーダーが殺されて、アルジェの戦いは終わります。この映画は、テロ活動とその弾圧の教科書とさえ言われ、広く人々に鑑賞されました。

その後も独立戦争は続き、独立に反対するコロンや現地軍人たちがクーデタを起こし、本土征服さえ企てるようになります。こうした中で、事態の収拾のために、1959年に第二次世界大戦の英雄ド・ゴールが大統領に就任します。コロンたちはド・ゴールに独立運動の弾圧を期待したのですが、コロンたちによるアルジェリアでの残虐行為に対する国際世論の批判が高まっており、またフランス国内でも独立を支持へする世論が高まり、結局ド・ゴールは1961年にアルジェリアの独立を承認します。これに対して、現地軍やコロンは暴動を起こしたり、テロを行ったりして、アルジェリアは大混乱に陥ります。そうした中で、100万人ものヨーロッパ系アルジェリア人がフランスに移住することになります。

その後フランス政府は忘却政策を行い、アルジェリア戦争に関する報道を規制し、そこで行われた非道な行為を覆い隠そうとしました。1990年代になってようやく、アルジェリア戦争に関する事実が報道されるようになりますが、「言論の自由の国」フランスが、聞いて呆れるような話です。また、今日広く言われている「残虐なるテロ」という言葉を、当時のアルジェリア人の活動に当てはめることができるのでしょうか。彼らには、フランスの暴虐に対抗する手段が、それしかなかったのです。


 「ジャッカルの日」(1973年、イギリス・フランス)という映画があります。この映画は同名のスリラー小説を映画化したもので、アルジェリア独立反対の秘密軍事組織によるド・ゴール暗殺計画を描いたもので、非常に緊迫感あふれる映画です。この映画で語られている内容は創作ですが、実際にド・ゴール暗殺計画は何度も試みられたとのことです。















神々と男たち


2010年にフランスで制作された映画で、実際に起きた事件を扱っています。その事件とは、1996年にアルジェリアにあるティビリヌ修道院の7人の修道士が誘拐され、殺害された事件です。
 アルジェリアは独立後社会主義政策を採り、周辺諸国と幾つかの国境紛争はありましたが、比較的安定した政権が維持されていました。しかし、アラブ人と少数派のベルベル人との対立や宗教勢力が増大したため、1889年に複数政党制が認められ、1991年に選挙が行われてイスラーム主義政党が圧勝しました。ところが翌年軍部がクーデタを起こし、選挙結果を無効としたため、イスラーム主義の過激派であるイスラーム救国戦線との間に、10年にわたり内戦が続きました。この間にイスラーム主義勢力はアルカイーダとの関係を深め、テロ活動など過激な行動を行うようになります。そして、事件が起きたのは、こうした時代でした。
 ティビリヌ修道院は、アルジェから90キロほど南に行った小さな修道院で、自給自足の生活をし、地元の農村とも溶け合って暮らしていました。映画の大半は、修道士たちの単調な日常生活を描いています。しかしこの平穏な村にも内戦が波及しつつあり、修道士たちはアルジェリア政府から退去命令を受けていました。修道士たちは、どうするか何度も議論を重ねましたが、結局ここに留まることは神の意志であるとして、留まることになりました。そして1996年にイスラーム主義の軍事集団が修道院を襲い、7人の修道士を誘拐しました。犯人は過激派の釈放を要求し、政府が拒否したため、2か月後に修道士たちは殺害されました。発見されたのは頭部だけです。この事件については、イスラーム主義者たちの評判を落とすために、アルジェリアの政府か軍部が行ったのではないか、という憶測が存在しますが、真偽のほどは不明です。
 いずれにしても、この事件について私はどう考えてよいのか分かりません。第一、アルジェリアの修道院で暮らす修道士たちの気持ちは、私には分かりません。ただ、人間にはさまざまな生き方があり、修道士たちはそれぞれの事情から神への奉仕の道を選んだのでしょう。また、イスラーム武装集団の気持ちも分かりません。ただ、欧米的価値観に踏みにじられてきた人々の激しい怒りを感じるのみです。その後のアルジェリアでは、一応内戦も終わり、2009年には19年間維持されてきた国家非常事態宣言も解除され、最近不安定が続く中東諸国の中では、比較的安定した国の一つとされています。
 ただ、2013年にリビア国境に近いイナメナス付近の天然ガス精製プラントにおいて、アルカイーダ系の武装勢力による人質拘束事件が起きました。この事件で、日本人10人を含む8か国200人近い人が人質となり、武装集団はイスラーム系過激派の釈放を要求しました。まもなくアルジェリア軍が現地を攻撃して武装集団を制圧しましたが、8カ国の合計37名が死亡し、その中に日本人10名が含まれていました。
 こうした事件を、私はどのように捉えたらよいのか分かりません。現在、中近東の混迷とともに、アフリカ内陸部でも、何か重大な変化が起きつつあるように思われます。



ラストキング・オブ・スコットランド


2006年にイギリスで制作された映画で、1970年代にウガンダの独裁者だったアミンという実在の人物を扱っています。



















 ウガンダは、ナイル川の源流であるヴィクトリア湖の北岸にあり、赤道直下に位置しながら、標高が高いため比較的温暖で、肥沃な土地が広がっています。16世紀頃から色々な王国が栄え、ザンジバルとの交易で繁栄しました。19世紀末にイギリスの植民地となり、1962年にイギリス連邦の一員として独立します。1966年にオボテ大統領が社会主義路線を打ち出したため、イギリスはアミンにクーデタを起こさせ、彼に政権を握らせます。そしてこのアミンの時代に、最悪の独裁政治が行われることになります。
 幼少時のアミンについてはほとんど分かっていませんが、1925年頃に生まれ、1946年にイギリス植民地軍の炊事係として雇われます。彼は193センチメートルという長身で、一時ボクシングのヘビー級チャンピオンだったことがあります。ウガンダ独立後、オボテに協力して参謀総長となり、1971年にクーデタで権力を握ります。彼は、西側諸国から左翼政権の排除を期待されて権力を握りましたので、当初西側諸国やイスラエルと友好関係を強めました。しかしアミンによる反対派に対する虐殺行為に対し、西側諸国が経済制裁を課したため、アミンは東側諸国との関係を強めていき、これに対してイギリスはアミン排除を画策するようになります。
 このアミンの時代に、スコットランドの一人の青年ニコラスがウガンダを訪れます。彼は医学校を卒業したばかりでしたが、冒険の旅に出ようと考え、地球儀を回して指があたった場所に行こうとしました。そしてそれがウガンダで、かなり軽薄な理由でした。彼はウガンダについて何も知らないまま、ウガンダに旅立ちます。ウガンダでバスに乗っている時に知り合った現地の女性と関係を持ち、さらに赴任先の村の診療所の医師の妻とも関係を持ちます。彼は好青年ではありましたが、相手の立場を全く考えず行動する、軽薄な人物でした。もちろん彼は架空の人物です。
 ふとしたことからアミンと知り合い、彼はアミンに大変気に入られ、アミンの主治医となります。ウガンダは長い間イギリス(イングランド)の植民地支配を受け、今ではイギリスに様々な妨害工作を行われていたため、アミンは、同様に長い間イングランドの支配を受け、イングランドを嫌っているスコットランドの青年に好感を持ち、自ら「スコットランド最後の王」と名乗ります。アミンはある記者会見で、「スコットランドの友人たちは、ここで私がイギリス人たちをやっつけたので、応援に来てくれと言っている」と、冗談交じりで述べています。もちろんそんなことは不可能ですが、それはイングランドに対する当てつけかもしれません。ニコラスはアミンの厚遇を受けますが、しだいにアミンの残虐性が見えてきます。アミンは反対派を何十万人も虐殺していたのです。この間にも、ニコラスはアミンの夫人と不倫を行い妊娠させてしまいます。そのため、夫人は殺され、ニコラスは拷問され、殺されそうになります。

 丁度この頃、重大事件が発生しました。1976年に起きたエールフランス機ハイジャック事件で、乗客・乗員合わせて256人を乗せたエールフランス機がリビアで給油した後にウガンダのエンテベ空港に向かったのです。犯人はパレスチナ・ゲリラの過激派で、イスラエルで服役中の40人のゲリラの釈放を要求しました。アミンはゲリラを支援していましたが、国際的に人道主義者であることをアピールするために、イスラエル人とユダヤ人以外の人質を解放させます。そのどさくさに紛れて、ニコラスはかろうじてウガンダからの脱出に成功します。
 一方、イスラエルは武力による人質奪回作戦を実行します。幸運だったのは、まだウガンダと友好関係にあった時代に、イスラエルがこの空港を建設したため、建物の配置を熟知していたということです。イスラエルは100名以上の兵士を4機の航空機に乗せ、エンテベ空港に着陸してウガンダ兵と交戦しつつ、100名以上の人実を救出して離陸しました。その間1時間弱で、誤算だったことは、3人の人質を犯人グループと間違えて射殺したこと、人質の一人が病院に入院していたため救出できなかったこと、そして救出作戦のリーダーが死んだことです。そのリーダーの名はネタニヤフで、現在のイスラエル首相の兄です。
 イスラエルは、過去にも同様の奇襲作戦を何度も行っており、目的を達成するためには道徳も国際法も無視し、国際的な非難も無視します。それが、世界中に敵を持つイスラエルが生きていく道なのでしょう。一方アミンは、完全にイスラエルにしてやられ、その権威は失墜し、1979年にイギリスに支援された反体制派の反乱により失脚し、サウジアラビアに亡命して、2003年に死亡しました。
 アフリカの場合、政治対立にはほとんどの場合、部族対立が関係しており、アミンのようにクーデタで権力を握った場合、反対派部族によるの攻撃は執拗となります。そして映画では、アミンがしだいに疑心暗鬼となり、孤立していく姿が描かれています。アミンが最も憎んだのは西欧諸国で、自分たちの都合でアミンに権力を握らせ、今度を追い出そうとしていることです。確かにアミンは多くの人を殺しましたが、当時流布された食人などといった話は、デマです。西欧諸国は不都合になったアミンをおとしめようとしたのです。それを最も象徴しているのが、ニコラスです。ニコラスは気まぐれでウガンダにやってきて、ウガンダのことなど何も知らずに勝手な振る舞いをし、そして去って行きます。ニコラスを捕らえた時アミンはニコラスに、「アフリカにでも行ってみよう。親切な白人を気取って楽しんでみよう」と思っていたのだろう、と問い詰めます。これこそが西欧諸国の態度でした。西欧諸国は、ウガンダのことなど何も理解しようとせず、勝手に政権を代え、利益だけをむさぼって去っていくのです。

 この映画は、非常によくできた映画でした。決してアミンを正当化するわけではありませんが、ニコラスを通じて西欧の傍若無人を描き出しています。アミンを演じたフォレスト・ウィテカーは、この映画でゴールデングラブ賞やアカデミー賞の主演男優賞など数々の賞を受賞しました。


2015年4月17日金曜日

VTS 01 1 ソロモンとシバの女王



ソロモンとシバの女王
 ソロモンはシバの女王との愛に溺れ、信仰を疎かにしたため、神から与えられた「知恵」を失ってしまいます。しかし彼は、イスラエルが滅亡の危機に瀕した時、信仰を取り戻し、「知恵」によって最後の戦いに臨みます。




2015年4月16日木曜日

VTS 01 1 サムソンとデリラ



サムソンとデリラ
 サムソンは神によって強大な「力」を与えられていましたが、異教徒の女性との愛に溺れ、その「力」を失ってしまいます。彼は異教徒により捕らえられ、めょを潰され、辱められ、さらに処刑されそうになります。しかしここでサムソンは信仰を取り戻し、その強大な「力」で異教徒の神殿を破壊します。
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html 参照





2015年4月15日水曜日

VTS 01 1 十戒「神の言葉」




十戒 「神の言葉」
 エジプトを脱出した後、辛くて長い放浪の旅が続きます、そうした中で、人々の信仰は薄らいでいきました。これに対して神は、人々が守るべき十の戒めを授けます。
http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html 参照



VTS 01 1 「十戒 神の奇跡」


十戒「神の奇跡」
 モーセたちがエジプトを脱出し、海辺まで迫ってきたとき、神の力により海が割れ、モーセたちは対岸に渡ることができました。

サクランボの花

サクラカボの花が、植えて3年目で初めて咲きました。今年はサクランボの実がなるでしょうか。リンゴの木も同じころに植えたのですが、まだ花も咲きません。

グリーンピースは、連作障害を克服して、後1か月ほどで収穫できそうです。ホウレン草・ジャガイモ・レタスは順調に成長していますが、インゲンが3分の1程しか芽が出てきていません。今年は日照時間が極端にすくないので、心配しています。






2015年4月11日土曜日

映画でアフリカを観て(3)

カーツーム

1966年にアメリカで制作された映画で、19世紀末期のスーダンで起きたマフディーの乱を背景としています。ハルトゥームとは、白ナイルと青ナイルが合流する交通の要衝で、当時数万人の人が住んでいましたが、これがマフディー教徒に包囲されて、1885年に陥落するという話です。

















 エジプトは19世紀前半にスーダンに進出しますが、その後エジプトが1882年に事実上イギリスの保護国となったため、スーダンもイギリスの勢力下に入ります。まさにヨーロッパ列強によるアフリカ分割が本格化し始めた時代でした。当時スーダンの民衆はエジプト支配の下で苦しんでおり、民衆の間にマフディー(救世主)到来を待望する声が高まっていました。そこにムハンマド・アフマドという人物が登場します。ムハンマド・アフマドはムハンマドの家系に生まれたとされ、クルアーン学校で教育を受け、高い教養をもっていました。彼はすでに、1870年代に信仰の革新と国土の解放を説き、圧政者へのジハードを説いて人々の共感を得ます。
 1881年に彼は、自分がマフディーであることを宣言します。これに対してエジプト軍は4回も攻撃を加えますが、ほとんど棍棒と石しか持たないマフディー軍に敗北を重ね、さらに1883年にはイギリス将校が指揮する近代装備を備えたエジプト軍がマフディー軍に敗北し、1万人近い軍隊が全滅しました。ほとんど給料が支払われていなかったエジプトの兵士たちの中には、むしろマフディーに共感するものが多かったとされます。そしてマフディー軍は、この戦いで大量の最新兵器を手に入れることになります。その結果、スーダン総督府のあるハルトゥームがマフディー軍に包囲されることになります。
 こうした中で、イギリスはハルトゥームから撤退することを決意しますが、その際ハルトゥームの住民とエジプト軍を救出する必要があります。しかしハルトゥームはマフディー軍に包囲されていたため、それは不可能に思われました。そこで白羽の矢が立てられたのがコードン将軍です。彼は1863年から1864年まで、中国で中国の義勇兵を率いて太平天国軍と戦い、反乱の鎮圧に大きな役割を果たした人物です。その後世界各地で任務に就いた後、1873年から79年までスーダンの総督になり、各地の反乱を抑えます。彼はイギリス国民の英雄であり、またスーダンを熟知していたため適任ではありましたが、問題は彼に援軍を与えられなかったことです。要するに、一人で行ってエジプト軍の兵士を救出してこいということでした。
 映画では、ゴードンは二度マフディーに合います。最初は、ハルトゥームに着いた直後に単身でマフディーの本陣に会いに行きます。ゴードンはマフディーにエジプト軍を撤退させてくれるよう要請しますが、マフディーはイスラーム教の理想国を建設するための象徴としてハルトゥームを陥落させる必要があるとして、ゴードンの要請を断ります。そして二度目の会見は、ハルトゥームの包囲を完了したマフディーがゴードンを本陣に呼び、あなたとは戦いたくないのでハルトゥームを去ってくれと要請しますが、ゴードンは断ります。
 このような会見が本当に行われたのかどうかは知りません。たぶん創作だと思われます。ただ、そこで描かれたマフディーは、知的で、戦略に長け、確固たる信念をもった人物として描かれていました。そして結局ハルトゥームは1885年に陥落し、ゴードンは戦死し、その半年後にマフディーも病死します。マフディーの後継者は残忍でしたが有能で、その後も勢力を拡大しますが、アフリカ分割が激化する中で、イギリスはスーダン攻略を決意し、1898年にマフディー軍を破ってスーダンを制圧します。
 この映画は、1960年代に制作された植民地主義の映画の典型ですが、それでもマフディーを単なる狂信者としては扱っていません。西欧人はこうした人々を一方的に狂信者・残虐なテロリストとして喧伝しますが、見方を変えれば、西欧人は自由主義を掲げてそれを押し付ける自由主義の狂信者と言えなくもないと思います。また、こうした映画のパターンは、現地の切迫した状況と政治ゲームに明け暮れる本国政府の決断の遅さを浮き彫りにさせることです。そしてこの映画では、本国政府の思惑で、結局ハルトゥームは見捨てられることになります。しかし、当時のイギリスは世界中に紛争を抱えており、また軍隊を派遣するにはそれなりの道理というものが必要であり、さらにその紛争と長期的な政策ビジョンとの関係も考慮する必要があるでしょう。そしてゴードンの壮絶な最期は、イギリス植民地主義に新たな英雄をつけ加え、イギリスの侵略に新たな大義名分論を与えることになりました。それこそがイギリス政府の狙いだったのかもしれません。

 マフディーの乱に見られるようなイスラーム主義の運動は、長いイスラーム世界の歴史の中でしばしば見られます。こうした運動は、社会矛盾が極限に達した時にしばしば現れ、最近問題となっているイスラーム国やボコ・ハラムの運動もこうした流れを汲んでいるのではないでしょうか。政権の腐敗、貧富の差の拡大、ヨーロッパ的価値観の押し付け、いまだに続く「自由主義」の名の下で行われる欧米による収奪などが、こうした運動の原因になっていると思われます。彼らは国境を越えて活動する傾向がありますが、もともと現在の国境はヨーロッパ人により勢力圏画定のために勝手にひかれたものですので、彼らにはそのような国境は無意味です。もちろん彼らの行動を肯定するものではありませんが、ただ彼らを狂信的なテロリスト集団と決めつけるだけでは、問題は解決しないのではないでしょうか。

風とライオン

1975年にアメリカで制作された映画で、20世紀初頭のモロッコを舞台としています。内容的には、1960年代に流行った植民地主義の英雄物語とは、一味違います。また、主人公のベルベル人を、「007」のショーン・コネリーが演じており、見事な転身を遂げていました。
















この時代のモロッコには、一応王国があり、国王(サルタン)がいましたが実権がなく、太守が実権を持ち、地方ではベルベル人の首長が各地に割拠していました。そして事件が起きた1904年には、日本は日露戦争中であり、アメリカはカリブ海への進出を本格化させ、パナマ運河の建設に着手していました。そして、アフリカ分割は最終段階に入りつつあり、モロッコが焦点となりつつありました。モロッコはアフリカの北西端に位置し、タンジールはジブラルタル海峡に面する戦略上の要衝だったからです。この年に英仏協商が成立して、イギリスはエジプトでの優越権を認めてもらう代わりに、モロッコでのフランスの優先権を認めました。そこへ、植民地進出に出遅れたドイツが介入してきます。太守はフランスと結んで力を維持しようとしたのに対し、サルタンはドイツと結んで太守を牽制しようとします。まさに当時のモロッコは、複雑な情勢にありました。
こうした中で、ベルベル人の族長の一人ライズリがアメリカ人のペデカリス夫人とその二人の子供が誘拐するという事件が起きました。ライズリによる誘拐事件は、実際に起きた事件のようです。彼が誘拐事件を起こしたのは、ヨーロッパの言いなりになるサルタンを苦境に陥れ、国土を回復するように警告を発することだったということです。案の定、太守もサルタンも何もできず、結局、ライズリの思惑通り、アメリカがモロッコに軍艦を派遣し、サルタンはさらに苦境に陥ります。
ここで、アメリカ大統領Th.ローズヴェルトが登場します。彼は型破りの大統領でした。幼少の頃は喘息もちで、病弱で学校に通うこともできませんでしたが、やがて強靭な意志とバイタリティをもった人物に成長していきます。彼は、スペインとの戦争の時に義勇兵を連れて活躍し、有名になって副大統領に選ばれます。ところが、1901年に大統領が暗殺されて、彼は大統領に昇格します。42歳、史上最年少の大統領です。彼は、国内的にはさまざまな矛盾の克服に努め、対外的にアメリカを大国にすることを目指していました。それを果たしたのが、ちょうどこの頃始まったパナマ運河建設の再開と、日露戦争の調停でした。特に1905年にポーツマス条約で日露の講和を締結させ、アメリカの国際的な威信を高めるのと同時に、彼はノーベル平和賞を授与されました。こうした情勢の中で、モロッコでの誘拐事件は起きました。
映画では、ライズリとTh.ローズヴェルトの動向が交互に映し出されます。まずTh.ローズヴェルトは戦艦の覇権を決定します。その背景には選挙が近づいてということがありますが、アメリカの国威を示す必要があったからです。そして合ったこともない二人の間に奇妙な友情のようなものが生まれてきます。一方には砂漠に生きる荒々しいライズリと、他方には未だフロンティア精神を失わないTh.ローズヴェルトが、利権問題ではなく、人質問題という人間的な問題を介して向かい合ったわけです。
一方、誘拐された婦人はアメリカ女性らしく気丈に振舞いますが、彼女も彼女の子供たちも、ライズリに親近感を抱き、かれらの間にも奇妙な友情が生まれます。やがて国王はライズリに身代金を払うことを伝え、ライズリが受け取りにいった所で、国王は彼を逮捕します。明らかに国王による裏切り行為であり、怒った夫人はアメリカの海兵隊の援助を受けてライズリを助け出します。結局ライズリは、この誘拐によって得るものは何もありませんでしたが、「人生には一度は、こういうことがあるものさ」と、笑い飛ばして去って行きます。
結局、この映画が言おうとしていることが何なのか、よく分かりませんでした。特に、ライズリとTh.ローズヴェルトの場面を交互に映し出しているのは、滅びゆくフロンティア精神と、なお健在なモロッコの部族世界の魂を、対称的に描いているのかもしれません。最後に、ライズリはTh.ローズヴェルトに手紙を書きます。「貴殿は 風のごとし、余はライオンのごとし。貴殿は嵐を呼び 余を惑わし 大地を焼けり 余の抵抗の叫びも貴殿には届かず、されど共に相違あり 余はライオンのごとく住みかにとどまり  貴殿は風のごとく とどまることなし」と。そしてTh.ローズヴェルトは自分の娘に、「敵の なかにも友人以上に立派な人物が存在し得るのだ。人は皆、大成への道を歩む時、大きな人々の歩んだ道が暗くて孤独だと知る。導いてくれる先輩は敵かも知れない、だが貴い敵だ」と。

 この映画は不思議な映画ではありますが、あまり深く考えずに楽しむことのできる痛快な映画です。

2015年4月8日水曜日

「バスク大統領亡命記」を読んで

  ホセ・アントニオ・デ・アギーレ著(1943)、 狩野美智子訳(1989) 三省堂出版。なお本書には、「ゲルニカからニューヨークへ」というサブタイトルがついています。スペインのバスクでは、1936年から37年にかけて7か月間だけ自治共和国が成立したことがありますが、バスクがフランコ軍に制圧されたため、バスク共和国の初代にして唯一の大統領アギーレは、亡命を余儀なくされます。本書は、このアギーレ大統領自身が執筆した亡命記です。


































バスクについては、私の本棚に「バスク もう一つのスペイン 現在・過去・未来」(渡辺哲郎著、1987年、彩流社)と「バスク民族の抵抗」(大泉光一著、1993年、新潮選書)があり、大変参考にはなりましたが、独立運動に関する記述が詳しすぎて、私にはついていけませんでした。



















 まずバスクについて一言述べておきたいと思います。広義には、バスクはピレネー山脈を挟んでフランス南部とスペイン北部に存在する地域ですが、ここでは主にスペインのバスクについて扱います。バスク人とは、実に不思議な人々です。何よりも、その人種と言語が周囲とまったく異なります。紀元前1千年前後にヨーロッパにインド・ヨーロッパ語系のケルト人が進出し、ヨーロッパはインド・ヨーロッパ語系となっていきますが、バスク人はケルト人が進出する以前からこの地方に住んでいた人々のようです。こうした少数民族は、他にも多くいたと思われ、そのほとんどがインド・ヨーロッパ系に同化されていったのに対し、何故バスク人だけが自らの民族性と言語を維持できたのでしょうか。
 紀元前1世紀にイベリア半島はローマの支配下に入りましたが、ローマの支配はバスク地方まで及ばず、バスクはラテン化を免れました。8世紀にイベリア半島にイスラーム教徒が侵入すると、バスク人はイスラーム教徒と戦うと同時に、イベリア半島に進出したフランク王国とも戦いました。カール大帝の軍がバスク人の攻撃で敗北しますが、この事件は武勲詩「ローランの歌」で長く語り伝えられました。バスク人がキリスト教を受け入れたのはかなり後で、10世紀頃からだそうですが、一旦キリスト教を受け入れると、今度はバスク人はキリスト教勢力として、イスラーム教徒に対する国土回復運動で大きな役割を果たします。さらに16世紀には、バスク人はスペインの海外進出にも大きな役割を果たしました。われわれが知っているバスク人としては、フランシスコ・ザビエルが有名です。
 この間、バスク人はその時々の政権により、一貫して強固な自治が認められています。また、バスク人自身にもバスクを統一して独立国家を造るという動きはほとんどありませんでした。こうした中で、17世紀にフランスとスペインとの国境が画定され、その結果バスク地方はスペインとフランスに分断されることになります。さらに19世紀にスペインでも中央集権化が進められると、バスクの自治も制限されるようになり、これに対してバスク人は三度に亘って中央政府と戦いますが、敗北し、バスクの自治は抑え込まれることになります。この頃から、バスク語を話す人々の間にバスク人としての自覚が形成されるようになり、バスクの自治を求める運動が高まっていきます。
 1931年にスペインで共和国が成立し、政府は地方の自治を容認するようになります。そうした中で、1936年にようやくバスク自治共和国が成立し、32歳のアギーレが初代大統領となります。彼はバスクのオークの木の下で宣誓を行います。この場所はバスク人にとって特別な意味がありました。代々、バスクの支配者となるものは、このオークの木の下で宣誓を行ってきたからです。しかし、すでにスペイン内戦が始まっており、1937年にゲルニカはドイツにより猛烈な爆撃を受けて廃墟となります。自治政府は事実上支配領域を失い、アギーレはフランスに亡命し、フランスがドイツに占領されると、ベルギーを経て、何とベルリンに潜入し、さらにスウェーデン・ブラジルを経てアメリカに亡命します。
 本書は、世界の人々に、とりわけアメリカ人にバスクを理解してもらうために書かれました。彼は次のように書きます。
  1839年にスペイン政府が、世界と同じくらいに古い自治をバスクから奪って以来、それを取り戻そうとする努力は、一刻たりともゆるめられたことはなかった。1931年、スペインはやっと共和国になり、ブルボン王朝の犯した不正義を取り除く約束をしたが、勝利で盲目になったためか、よい意図を実現することに手間取り、スペイン議会は、1936年の101日にやっと、バスク国の自治に同意した。しかしその時はフランコの蜂起がすでに始まっていて、反乱軍はすでにかなりの領土を手に入れていたのである。われわれに認められた自治は、われわれにふさわしい主権のごく一部にすぎなかったし、また民族の自治を拡大するということは、戦争の最中であるという情況の中で大きな責任を引き受けなければならないことだということはよく分かっていたが、バスク人は、祖国が世界地図の上のふさわしい場所に位置を占めるのだと、大いに誇りを感じていたのである。再び自由であることがわれわれに血を要求し苦しみを要求するのだ。しかし、それが何であろう。バスク人にとって、自由というものは呼吸のために酸素が必要であるのと同じほどに必要なものなのである。

 しかしアギーレの願いはかないませんでした。1939年に反乱軍はスペイン全土を掌握し、しかも第二次大戦後に冷戦が始まると、アメリカを中心とした西側諸国がフランコ政権を承認するようになったからです。これでは亡命政府は存続しえず、そうした中で1960年にアギーレは死去します。しかし、1975年にフランコが死んで民主化が進行するようになると、1978年にバスク自治州が成立し、アギーレの悲願はようやく達成されることになります。もちろん、自治が不十分だという不満はあり、さらに完全独立を求めてテロ活動を行う勢力もありますが、とりあえず、スペイン国内における自治というアギーレの悲願は達成されました。
 なお、ヨーロッパではこうした分離独立の要求は各地にあり、例えばドイツのバイエルン、フランスのブルゴーニュやブルターニュ、最近ではイギリスでスコットランドが分離独立の住民投票を行いました。こうした地域がもし本当に独立した場合、これらの国は直接EUの加盟国となれば、国家として存続できる分けです。EUはヨーロッパを統合するのか、分裂させるのか、なかなか難しい問題です。