2015年4月8日水曜日

「バスク大統領亡命記」を読んで

  ホセ・アントニオ・デ・アギーレ著(1943)、 狩野美智子訳(1989) 三省堂出版。なお本書には、「ゲルニカからニューヨークへ」というサブタイトルがついています。スペインのバスクでは、1936年から37年にかけて7か月間だけ自治共和国が成立したことがありますが、バスクがフランコ軍に制圧されたため、バスク共和国の初代にして唯一の大統領アギーレは、亡命を余儀なくされます。本書は、このアギーレ大統領自身が執筆した亡命記です。


































バスクについては、私の本棚に「バスク もう一つのスペイン 現在・過去・未来」(渡辺哲郎著、1987年、彩流社)と「バスク民族の抵抗」(大泉光一著、1993年、新潮選書)があり、大変参考にはなりましたが、独立運動に関する記述が詳しすぎて、私にはついていけませんでした。



















 まずバスクについて一言述べておきたいと思います。広義には、バスクはピレネー山脈を挟んでフランス南部とスペイン北部に存在する地域ですが、ここでは主にスペインのバスクについて扱います。バスク人とは、実に不思議な人々です。何よりも、その人種と言語が周囲とまったく異なります。紀元前1千年前後にヨーロッパにインド・ヨーロッパ語系のケルト人が進出し、ヨーロッパはインド・ヨーロッパ語系となっていきますが、バスク人はケルト人が進出する以前からこの地方に住んでいた人々のようです。こうした少数民族は、他にも多くいたと思われ、そのほとんどがインド・ヨーロッパ系に同化されていったのに対し、何故バスク人だけが自らの民族性と言語を維持できたのでしょうか。
 紀元前1世紀にイベリア半島はローマの支配下に入りましたが、ローマの支配はバスク地方まで及ばず、バスクはラテン化を免れました。8世紀にイベリア半島にイスラーム教徒が侵入すると、バスク人はイスラーム教徒と戦うと同時に、イベリア半島に進出したフランク王国とも戦いました。カール大帝の軍がバスク人の攻撃で敗北しますが、この事件は武勲詩「ローランの歌」で長く語り伝えられました。バスク人がキリスト教を受け入れたのはかなり後で、10世紀頃からだそうですが、一旦キリスト教を受け入れると、今度はバスク人はキリスト教勢力として、イスラーム教徒に対する国土回復運動で大きな役割を果たします。さらに16世紀には、バスク人はスペインの海外進出にも大きな役割を果たしました。われわれが知っているバスク人としては、フランシスコ・ザビエルが有名です。
 この間、バスク人はその時々の政権により、一貫して強固な自治が認められています。また、バスク人自身にもバスクを統一して独立国家を造るという動きはほとんどありませんでした。こうした中で、17世紀にフランスとスペインとの国境が画定され、その結果バスク地方はスペインとフランスに分断されることになります。さらに19世紀にスペインでも中央集権化が進められると、バスクの自治も制限されるようになり、これに対してバスク人は三度に亘って中央政府と戦いますが、敗北し、バスクの自治は抑え込まれることになります。この頃から、バスク語を話す人々の間にバスク人としての自覚が形成されるようになり、バスクの自治を求める運動が高まっていきます。
 1931年にスペインで共和国が成立し、政府は地方の自治を容認するようになります。そうした中で、1936年にようやくバスク自治共和国が成立し、32歳のアギーレが初代大統領となります。彼はバスクのオークの木の下で宣誓を行います。この場所はバスク人にとって特別な意味がありました。代々、バスクの支配者となるものは、このオークの木の下で宣誓を行ってきたからです。しかし、すでにスペイン内戦が始まっており、1937年にゲルニカはドイツにより猛烈な爆撃を受けて廃墟となります。自治政府は事実上支配領域を失い、アギーレはフランスに亡命し、フランスがドイツに占領されると、ベルギーを経て、何とベルリンに潜入し、さらにスウェーデン・ブラジルを経てアメリカに亡命します。
 本書は、世界の人々に、とりわけアメリカ人にバスクを理解してもらうために書かれました。彼は次のように書きます。
  1839年にスペイン政府が、世界と同じくらいに古い自治をバスクから奪って以来、それを取り戻そうとする努力は、一刻たりともゆるめられたことはなかった。1931年、スペインはやっと共和国になり、ブルボン王朝の犯した不正義を取り除く約束をしたが、勝利で盲目になったためか、よい意図を実現することに手間取り、スペイン議会は、1936年の101日にやっと、バスク国の自治に同意した。しかしその時はフランコの蜂起がすでに始まっていて、反乱軍はすでにかなりの領土を手に入れていたのである。われわれに認められた自治は、われわれにふさわしい主権のごく一部にすぎなかったし、また民族の自治を拡大するということは、戦争の最中であるという情況の中で大きな責任を引き受けなければならないことだということはよく分かっていたが、バスク人は、祖国が世界地図の上のふさわしい場所に位置を占めるのだと、大いに誇りを感じていたのである。再び自由であることがわれわれに血を要求し苦しみを要求するのだ。しかし、それが何であろう。バスク人にとって、自由というものは呼吸のために酸素が必要であるのと同じほどに必要なものなのである。

 しかしアギーレの願いはかないませんでした。1939年に反乱軍はスペイン全土を掌握し、しかも第二次大戦後に冷戦が始まると、アメリカを中心とした西側諸国がフランコ政権を承認するようになったからです。これでは亡命政府は存続しえず、そうした中で1960年にアギーレは死去します。しかし、1975年にフランコが死んで民主化が進行するようになると、1978年にバスク自治州が成立し、アギーレの悲願はようやく達成されることになります。もちろん、自治が不十分だという不満はあり、さらに完全独立を求めてテロ活動を行う勢力もありますが、とりあえず、スペイン国内における自治というアギーレの悲願は達成されました。
 なお、ヨーロッパではこうした分離独立の要求は各地にあり、例えばドイツのバイエルン、フランスのブルゴーニュやブルターニュ、最近ではイギリスでスコットランドが分離独立の住民投票を行いました。こうした地域がもし本当に独立した場合、これらの国は直接EUの加盟国となれば、国家として存続できる分けです。EUはヨーロッパを統合するのか、分裂させるのか、なかなか難しい問題です。


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