2018年4月28日土曜日

映画「エリザベス1世」を観て


 2005年にイギリスのテレビ放送用に制作された歴史ドラマで、邦題には「愛と陰謀の王宮」というサブタイトルがついています。エリザベス女王については、このブログの「三人の女性の物語 「エリザベス」 (1998年、イギリス)/「エリザベス:ゴールデン・エイジ」 (2007年、イギリス)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1222.html)を参照して下さい。前者がエリザベスの誕生から女王即位までを、後者がアルマダ海戦での勝利までを扱っています。また、「「エリザベス1世 大英帝国の幕あけ」を読んで」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/10/1.html)も参照して下さい。そしてこの映画は、アルマダ海戦の翌年、1589年から始まり、晩年のエリザベス女王と、彼女が寵愛したエセックス伯ロバート・デヴァルーとの関係を描きます。
エリザベスは、生涯独身で過ごしました。彼女の結婚については色々取りざたされ、特にスペインとの対抗上フランスの王子との結婚が真剣に検討されましたが、これでは小国イギリスが大国フランスに飲み込まれてしまう危険があるため、実現しませんでした。またレスター伯ロバート・ダドリーとの結婚も真剣に検討されました。ロバートは、カトリック女王メアリーの時代にエリザベスとともにロンドン塔に幽閉された人物で、1558年にエリザベスが国王に即位すると、エリザベスはロバートとの結婚を真剣に考えましたが、結局この結婚は、君主が国内の貴族の妻になるという変則的な事態を招くため、実現しませんでした。そしてロバートは、1588年アルマダ海戦の直後に病死します。
映画は1589年から始まります。この頃からエリザベスは、30歳も年下のエセックス伯ロバート・デヴァルーを寵愛するようになります。このエセックス伯はレスター伯の義理の息子で、実は実子であるという説もありますが、真偽については分かりません。いずれにせよ、エセックス伯は女王の寵愛を利用して権力を握ろうとし、いろいろ策動しますが、その度にエリザベスの怒りを買います。そして結局、エセックス伯は反乱を起こし、1601年に処刑され、エリザベスも2年後に死亡します。エリザベス女王は、彼女の死後理想化され、イギリスの理想的君主のように考えられるようになります。前に観た二本の映画は、理想化されたエリザベスを描いているように思いますが、この映画は、男出入りの多かったエリザベスのもう一つの側面を描いています。
 なお、この映画でエリザベスを演じたヘレン・ミレンは、シェイクスピア原作の映画「テンペスト」で主役を演じ(「映画でシェイクスピアを観て テンぺスト」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2015/10/blog-post_17.html)、また「終着駅 トルストイ最後の旅」でトルストイの妻を演じており(「映画でロシア文学を観て 終着駅 トルストイ最後の旅」http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/04/blog-post_30.html)、なかなか芸達者な女優です。

2018年4月25日水曜日

映画でベートーヴェンを観て

 ベートーヴェンに関する映画を二本観ました。ルートヴィヒ・ファン・ベートーヴェン(1770- 1827年)は、ドイツの作曲家で、幼い時から類まれな才能を見せ、4歳の時から父によって虐待に近い音楽の訓練を受けました。その豊かな才能により、彼の将来は順風満帆であるかのように思われましたが、不幸にも彼は耳が聞こえなくなりました。20歳代後半から難聴となり、40歳ころには全聾となったようです。原因については諸説あって不明ですが、音を聞けない音楽家というものを、私は想像することができません。溢れるほどの才能がありながら、何という悲惨な運命なのでしょうか。しかし彼はこれを克服し、運命を歓喜へと変えていきます。
 私は音楽についてはまったく分かりませんので、歴史的な側面だけを述べたいと思います。彼が音楽の道に進んだ頃は、ハイドンやモーツァルトのような様式美を追求する古典派が活躍していましたが、ベートーヴェンはこの古典派音楽を完成させるとともに、これに劇場性を加えて、ロマン派音楽への道を開きます。劇場性を最もよく示しているのは交響曲で、彼は交響曲に新しい道を開きました。

 当時の芸術家は、絵画でも音楽でも、基本的にはスポンサーによって依頼されて作品を造ります。ミケランジェロの作品など、スポンサーなしに制作することは不可能です。音楽でも、交響曲はさまざまな楽器を奏でる多くの演奏者を必要とし、このようなオーケストラを所有し維持できるのは、王侯貴族だけです。そして王侯貴族をスポンサーとする以上、彼らの要求を受け入れなければなりません。そうした時代に、スポンサーなしで作曲し、演奏するには多くの困難が伴います。第一、演奏者が足りません。例えば「第九」では多くの演奏者と合唱者が必要で、実際には素人が多かったようで、演奏は必ずしも満足のいくものではなかったようです。ベートーヴェンの耳が悪かったのは、幸いだったかもしれません。また、あまり高額な入場料はとれないため、演奏の回数を増やして稼がないと、赤字になってしいまいます。いずれにしても、こうした苦労を重ね、耳が聞こえない状態で、生涯に9つの交響曲を創作したわけですから、まさに驚異的です。

2006年にアメリカ・ハンガリーにより制作された映画で、ベートーヴェンによる「第九」の創作過程が描かれています。厳密にいえば、この「第九」の楽譜の写譜を題材としており、原題は「写譜 ベートーヴェン」です。
作曲家が書く楽譜は読みづらいため、これを読みやすく写譜する必要があります。特に交響曲の楽譜は膨大であり、その写しを演奏者たちに渡す必要があります。したがって、写譜師という専門的な職業が存在し、いわば彼らは職人です。もちろん音楽家も職人で、映画でベートーヴェンはマエストロ(イタリア語)で呼ばれていましたが、これは英語でマスター、ドイツ語でマイスター、つまり職人の親方のことです。そして、中世以来こうした親方に女性がなることは、滅多にありませんでした。ところがベートーヴェンの写譜師が病気になったため、代わりの写譜師として送られてきたのが、アンナ・ホルツという23歳の女性でした。結局彼女が、晩年のベートーヴェンの世話をし、彼の最期を看取るという話です。
アンナ・ホルツというのは、架空の人物です。実は、ベートーヴェンの晩年には、アントン・シンドラーという秘書がベートーヴェンの世話をします。彼は、「第九」が作曲される前年の1823年ころから27年の死に至るまで、ベートーヴェンの私生活の面倒を見ました。ただ、この人物は、色々と問題の多い人物でした。彼は1840年に「ベートーヴェンの生涯」を出版し、その後のベートーヴェンの伝記作者に多大の影響を与えました。とこがシンドラーはかなり事実をねつ造しているようで、このねつ造を隠すために、数百冊あったと思われるベートーヴェンの筆談記録のかなりの部分を破棄してしまったそうです。今日では、シンドラーの著書に依拠したベートーヴェンの伝記は信用できないとまで言われています。したがって、ベートーヴェンを苦悩の人として描いたロマン・ロランの「ベートーヴェンの生涯」も信用できないということです。
 話が逸れましたが、要するにこの映画に登場するアンナ・ホルツは実在せず、またこの映画はアントン・シンドラーの存在を抹殺しています。映画はまず、音楽学校の生徒アンナ・ホルツがベートーヴェンの写譜師のもとを訪れます。彼は高齢で、かつ病に犯されており、もはや写譜することは無理でした。しかし4日後に初演が迫っており、曲もまだ完成していません。ベートーヴェンも女性の写譜師には難色を示しましたが、もうそんなことは言っていられません。ベートーヴェンも彼女の能力を認め、仕事は順調に進みます。ここで描かれるベートーヴェンは、アンナ・ホルツという若い女性の眼から見たベートーヴェンです。それは、苦悩の楽聖というより、愉快な変人というべきものでした。
 182457日、いよいよ初演の日で、今や音楽に革命が起きようとしていました。ところが、ベートーヴェンは指揮ができないとメソメソし始めました。そこでアンナ・ホルツが、ベートーヴェンから見える位置に立って拍子をとることになりました。映画では、十数分にわたって演奏場面が再現され、相当迫力がある場面でした。演奏終了後、演奏が失敗だったと思っていたベートーヴェンは客席を振り返りませんでした。ところが客席では観客が総立ちになって拍手しており、ベートーヴェンにはそれが聞こえなかったのです。それを見かねた歌手の一人が、彼の手をとって観客席に向かせるという有名のエピソードがありますが、この映画ではこの役をアンナが行います。つまり架空の人物であるアンナ・ホルツは、アントン・シンドラーとベートーヴェンンの手を取った歌手の二人の役割を担ったようです。なお、初演でベートーヴェンは指揮をしておらず、傍で拍子をとっていたとのことです。

 ベートーヴェンの「第九」を最も愛好するのは、日本人かもしれません。「第九」の演奏には独奏者と多くの合唱者が必要なため、欧米ではそれほど頻繁には演奏されないようです。しかし、日本では大みそかに「第九」が各地で演奏され、素人が合唱者に加わったりしますので、国民的な人気曲となっています。

1994年にアメリカ・イギリスで制作された映画で、ベートーヴェンの遺書にある「不滅の恋人」とは誰かを追跡する、ミテリー・タッチの映画です。不滅の恋人候補の三人の女性の回想を通じて、ベートーヴェンの生涯が語られます。
 この映画の主役は、前に述べたアントン・シンドラーです。彼はベートーヴェンに関する事実をねつ造した人物として知られていますが、ここでは、ベートーヴェンの意志を継ぐ人物として登場します。ベートーヴェンの死後、「すべての財産を我が不滅の恋人に譲る」という遺書が発見されました。問題は「不滅の恋人」とは誰か、ということです。彼は恋多き人で、それが芸術に大きな影響を与えるのですが、この映画で観ていると、彼はまるで女たらしです。
 シンドラーがつきとめた不滅の恋人は、ベートーヴェンの弟の妻ヨハンナでした。ベートーヴェンは結婚前からヨハンナに目をつけており、弟がヨハンナと結婚したことが許せず、二人に嫌がらせを繰り返し、弟の死後はヨハンナから子供のカールを取り上げて、自ら養育します。それは不滅の恋というより、映画で観る限り、偏執病的な愛のように見えました。そして実はカールの実の父は、ベートーヴェンだったというありふれた結論に終わりました。安物のミステリー・ドラマのようです。前の「親愛なるベートーヴェン」では、ベートーヴェンは愉快な変人でしたが、ここでは不愉快な変人でした。ベートーヴェンという天才は、人との普通の関係を持続することが困難で、それと苦闘することによって、彼の芸術が生まれたのかもしれません。
 また映画でのベートーヴェンは、自分の音楽には壮大な理念は必要なく、日常の行為や音が音楽と結びつくと言っています。例えば少年時代に彼は父による厳しいレッスンから逃れるために、家か脱走し、森を駆け、泉で開放感を味わい、その時の記憶が「第九」の歓喜の旋律につながったと言っています。たしかにそういった側面はあるかもしれませんが、ベートーヴェンの音楽はそれ程単純なものではないように思います。

 そもそもこの映画の主人公をシンドラーにしたことが、間違いであるように思います。彼が何故ベートーヴェンに関する事実をねつ造し、何故資料を破棄したのかは知りませんが、貴重な資料を保管する者の義務は、まずそれをあるがままに保存することであり、解釈は後ですればよいのだと思います。もしかするとシンドラーは、ベートーヴェンの醜い側面を隠したかったのかも知れず、映画はシンドラーを通して、ほとんど神格化されたベートーヴェンの実像を描こうとしたのかもしれません。

2018年4月21日土曜日

映画「風の馬」を観て


1998年にアメリカで制作された映画で、チベットでの中国による人権弾圧を描いた映画です。
 チベットは、ヒマラヤ山脈や崑崙山脈に囲まれ、平均標高4500メートルに及ぶ高地です。古くからインドとの関係が深く、インドから仏教を学び、インドで仏教が廃れた後も、独自のチベット仏教=ラマ教が発展します。ラマ教では、16世紀ころから、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマがチベットの聖俗両権を併せ持つようになります。一方、中国とチベットとの関係も古く、チベットは独立国家となったり、中国の支配を受けたりを繰り返しますが、清朝時代には概ね清朝の宗主権下に置かれていました。1911年中国で辛亥革命が起きて清朝が崩壊すると、チベットは独立宣言を行い、これに対して国内が混乱状態にあった中国にはどうすることできませんでした。
 ラマ教では、ダライ・ラマが死ぬとその魂は転生するとされます。1933年にダライ・ラマ13世が死ぬと、1939年に中国の農村で4歳になったダライ・ラマ14世が「発見」されます。1949年に中華人民共和国が成立すると、翌年人民解放軍がチベットに侵入し、1951年にチベットの「解放」を完了します。これに対して各地で抗中運動が起き、中国軍はこれを徹底的に弾圧して、多くの人々が虐殺されたとされます。こうした中で、ダライ・ラマ14世は1959年にインドに亡命し、そこにチベット亡命政府を樹立します。その後も抗中運動は繰り返され、これを中国が厳しく弾圧するという構図が続き、これがこの映画の背景となっています。
 幼いドルジェとドルカという兄妹と従妹のペマが、1979年にある村で遊んでいる場面から、映画は始まります。そこへ中国兵がやって来て、祖父を射殺して去っていきました。祖父が、「中国人帰れ」というビラを壁に貼ったからだそうです。祖父はいつも孫たちに言っていました。「水や大地や空に多くの魂が宿っている、魂は私たちを見守ってくれる、だから多勢の馬の背に願いを乗せて届けるんだ、祈りの旗を掲げ、山の頂上や峠の道から空に向かって紙吹雪まく。」要するに「風の馬」に願いを乗せよ、ということです。
 映画の舞台は、1998年のチベットの首都ラサに移ります。兄のドルジェは抗中運動に挫折して酒に溺れ、妹のドルカは中国人の恋人を通して歌手として売り出すことを期待していました。中国支配という厳しい現実の前に、いつのまにか二人とも、祖父の「風の馬」の話を忘れてしまっていました。ところが、ラマ教の尼僧になっていた従妹のペマが、街中で突然信仰の自由を求めてデモを始め、彼女は逮捕されます。チベットでは、ラマ教の信仰そのものは禁止されていませんが、インドに亡命中のダライ・ラマ14世を崇拝したり、その写真を飾ることは禁止されていました。しかしラマ教の信仰とダライ・ラマの崇拝は一体化しており、ダライ・ラマ崇拝を否定することはラマ教の信仰を否定することでした。
 ペマは激しい拷問を受け、瀕死の状態でドルジェの家に担ぎ込まれます。この時ドルジェとドルカは「風の馬」の話を思い出しました。ドルジェは町で知り合ったアメリカ人旅行者エミーに頼み、ペマが自分の身に起きたことを語る場面をビデオに撮り、それをエミーを通じて国外に持ち出そうとしました。結局、エミーはビデオを没収され、持ち出しには失敗し、そのためドルジェたちの行為が当局に知られてしまいます。その結果、二人はチベットを脱出することになり、これにはドルカの恋人だった中国人青年も協力してくれました。こうして二人は、ヒマラヤを越えて、ネパールからインドへと歩いて脱出します。そして国境地帯で、彼らは多くの馬の風が舞っているのを目撃しました。
 ドルジェやドルカのようにチベットから脱出する人々は、毎年相当いるようです。たまたまこの映画の監督の姪が、ネパールでチベット語とチベット文化を勉強しており、実は彼女はチベットで民衆のデモを撮影して逮捕されたことがあり、この女性がエミーのモデルとなったそうです。もしかしたら彼女は、チベットからの亡命者の手助けをしているのかもしれません。
 また、映画ではチベット人の警官がチベット人を弾圧したり、チベット人がスパイとなって他のチベット人を密告したりる場面が出てきます。しかしこのことで彼らを責めることはできないでしょう。ドルジェやドルカも、彼らと似たような生活をしていたからです。誰もが、生きていくために必死なのです。

2018年4月18日水曜日

映画「天安門、恋人たち」を観て















頤和園

2006年に中国で制作された映画で、1989年に起きた天安門事件が若者たちに与えた影響を描いています。原題は「頤和園」で、頤和園とは北京にある公園で、映画ではこの公園の池で恋する二人が静かにボートを漕ぐ場面があります。ただ、邦題の「天安門、恋人たち」は、幾分直接的すぎますが、こちらの方が分かりやすいように思います。
1949年に中華人民共和国が成立して以降の中国の歴史は、毛沢東時代(1949 - 1978年)と鄧小平時代(1978 - )に分けられます。毛沢東時代は、共産党独裁の確立と文化大革命の混乱、対外的には米ソと対立するなど国際的孤立の時代でした。鄧小平時代は、政治的には共産党独裁体制を維持しつつ、経済的には資本主義原理を導入するなど開放政策を採り、国際的にも米ソとの関係改善が進みました。こうした中で経済が急速に成長していきますが、政治の民主化が進められなかったため、若者たちの間に不満がたまっていました。1989年に改革を提唱していた胡耀邦総書記が死ぬと、学生たちが胡耀邦の死を悼んで天安門広場に集まり、64日人民解放軍が民衆に無差別発砲し、多くの人が死にました。これが六四天安門事件です。 
今日の中国政府は鄧小平時代に属する人々ですから、現在も中国では天安門事件について語ることは禁止されています。もちろん学校でもこの事件については教えられていませんので、この事件以降に教育を受けた人々は事件そのものを知らないし、ネットで検索することもできません。したがって、事件の詳細については、ほとんど分かっていません。天安門事件に触れているこの映画も、中国では当然上映が禁止されました。
辺境の田舎町で育った少女余紅(ユー・ホン)は、1988年に北京の大学に入学します。この時代に大学に入れる人たちはエリートですが、彼女も他の学生たちもはっきりとした目的がなく、なんとなく時間が過ぎていきます。やがて彼女は理想の男性周偉(チョウ・ウェイ)と出会い、デートを重ね、激しく愛し合います。そうした中で天安門事件が起きます。映画では、天安門事件そのものにはほとんど触れられず、これをきっかけに多くの学生が大学を去り、全国各地に、あるいは海外に向かいます。余紅と周偉は強く愛し合っていましたが、悲劇的な別離になることを恐れて別れ、その後10年間余紅は各地を放浪し、何度も異なる男性と関係をもちます。そして彼女は10年後に周偉と再会しますが、ほとんど話し合うこともなく分かれてしまいます。
この映画は、大変分かりにくい映画でした。やたらにセックス・シーンが多く、多分天安門事件と関係がなくても、中国ではこの映画は上映禁止となったでしょう。かつての日活ロマン・ポルノは、10分に1回セックス・シーンを作れば、後は監督の自由という映画でしたので、監督は映画を通じて自由に自らの主張を表現することができました。この映画にも、監督のそうした思惑があったのかもしれません。

中国では、鄧小平時代になって経済は急速に発展しましたが、価値観が時代の変化に対応できていませんでした。映画で映し出される大学での学生生活は相当欧米化されており、文化大革命から10年余りでこれほどまでに変化するものかと、驚かされました。こうした激変の中で、若者たちは目標を見出すことができず、彼らは天安門事件の挫折後、放浪し、新しい価値観を求めていくことになります。それは、実際に天安門事件を経験した監督自身の姿なのかもしれません。

2018年4月14日土曜日

映画「北京の恋」を観て


2004年に中国で制作された映画で、「四郎探母(しろうたんぼ)」という京劇の演目と重ねて、中国の男性と日本の女性との恋を描いています。
「四郎探母」とは、今から千年ほど前、宋と遼が激しく争っていた時代に、軍人の家柄だった8人の息子のうち4人が戦死し、四郎は敵に捕らえられますが、名前を偽って生き延び、鉄鏡公主と結婚します。15年の歳月が流れたのち、四郎は国の母に一目会いたくなり、鉄鏡公主に自分の出自を明かし、必ず帰ると約束して母の下に行きます。その後、色々あって、四郎は妻の下に帰ってくるという話で、要するに国の違いを超えて男女の愛が貫かれたという話です。
映画は、橋本梔子(しこ)という二十歳くらいの日本の女性が、京劇に憧れて北京を訪れたところから始まります。彼女は祖父の紹介で何冀初という京劇の師匠の家に住み込み、京劇の練習に励み、やがて師匠の息子何鳴と愛し合うようになります。そしてこの頃から、なぜ祖父が彼女を何師匠のもとに送ったのかが明らかとなってきます。日中戦争中、祖父は兵士として中国戦線におり、たまたま捕らえた中国兵を処刑しました。この中国兵が死ぬとき、祖父に自分の息子を探してくれと頼みます。そして何師匠がその息子だったのです。
 この時代でも中国の人々には日本人を憎む気持ちがありましたが、それでも日本人のしたことは遠い過去こととなっていました。しかしこれは厳しい現実でした。実の娘のように可愛がって京劇を教えた梔子が、自分の父親を殺した日本兵の孫だったのです。祖父は孫を通して日本人と中国人との和解を期待したのですが、それはあまりにも残酷でした。梔子も師匠も息子も悩み苦しみますが、日中戦争は彼女には何の関係もないことでした。結局、師匠は彼女の願いを受け入れ、梔子と息子に「四郎探母」を演じることを許します。国境を越え、戦争の恩讐を越えて、千年前の「四郎探母」が現在と重なるように演じられる中で、映画は終わります。

 ストーリーの構成には少し無理があるように感じましたが、それでも予想外の結末に感動しました。4年前に制作された「戦場に咲く花」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/11/blog-post_4.html)に比べて、日中の相互理解は一層進んでいるように思われました。なお、主演の前田知恵は、中国映画「さらば、わが愛」などに感銘し、高校卒業後単身中国に渡って中国語と演劇を学んだそうです。私は気づきませんでしたが、「戦場に咲く花」に出演していたそうで、多分主人公の菊地浩太郎の妹ではないかと思います。


2018年4月11日水曜日

「マヤ文明」を読んで

実松克義著 現代書館 2016
 マヤ文明について、一般には紀元前2千年ころに誕生し、16世紀初めにスペイン人によって滅ぼされた文明で、実に35百年続いた稀有な文明として説明されます。この場合、マヤがスペイン人によって滅ぼされたというのは、正しくないでしょう。スペイン人が到来したころ、政治勢力としてのマヤはすでに滅びていました。さらに著者は、マヤ文明の伝統は今日も生きているという前提でマヤ文明の全体を捉えます。つまり今日1千万人以上のマヤ族がおり、彼らがマヤ文明の伝統を維持しているとのことです。
 本書について、著者の文章を引用します。
  著者本書を世に問う理由は大きく言えば二つある。
一つはマヤ文明の研究に関する方法論上の問題である。本書はマヤ文明を過去から現在までの「総体として」描き出し、理解しようとする試みである。マヤ文明はこれまで考古学者、碑銘学者、言語学者、人類学者、歴史学者等によって研究されてきたが、それぞれが専門的な縄張りをもち、ほとんどバラバラに行われてきたと言っていい。さらにまたマヤ文明を過去のものとして封印し、現代マヤ文化と切り離して位置づけようとする傾向がある。その結果マヤ文明についての理解は事実の集合体の域を出ず、そこには多くの誤解と偏見が存在する。本書は、マヤの文化伝統の考察において、過去と現在を意味のある連続体とみなし、この文明の思想的骨格理解することによって、マヤ研究の新しい地平を開こうとするものである。

 本書はかなり膨大で、暦についての説明はかなり難解ですが、マヤ文明について学ぶと、文明とは何かとかについて考えさせられます。なお、マヤ文明については、「メソアメリカを読む マヤ人の精神世界への旅」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/08/blog-post_30.html)も参照して下さい。

2018年4月7日土曜日

映画「ノア 約束の舟」を観て

2014年にアメリカで制作された映画で、「旧約聖書」の「ノアの方舟」の物語を、新しい解釈で描いています。なお、「ノアの方舟」については、このブログの「映画で聖書を観る 天地創造」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html)を参照して下さい。
 アダムとイヴが楽園を追放された後、カイン、アベル、セトという三人の子供が生まれますが、アベルはカインに殺されるため、カインとセトの系統がその後も続きます。そして映画の主人公であるノアは、セトの子孫です。映画では、洪水が起きるにあたって、聖書とは異なる話が二つ出てきます。一つは、カインの子孫のトバルカインが方舟を奪って自分だけ生き延びようとしますが、結局失敗します。その際、人間は神の意志で滅びるのか、それとも自分の意志で生き残るのか、ということが問題となります。もう一つは、ノアが人間として生き残るのはノアと家族だけで、これもやがて死に絶えて地上から人間がいなくなると、考えていたことです。ところがセトの妻に双子が生まれ、ノアは嬰児を殺そうとしますが、結局殺せず人類は生き残ることになりました。
 こうした話は理解できなくはないのですが、もともと旧約聖書は矛盾だらけであり、それを無理に説明するのではなく、あるがままに受け入れた方がよいよいに思います。例えばアダムとイヴの息子カインとセトは多くの子孫を残しますが、彼らはだれと結婚したのでしょうか。また、洪水でノアと家族以外は全部死んだことになってしまうのに、子孫は増えていきます。さらに、ノアを含めて多くの人が900歳くらい生き、この計算ではアブラハムが登場したころには、まだノアは生きていたことになります。こうした問題は、基本的に信仰の問題であり、あまり理屈で説明しない方が良いと思います。
 映像としては、CGを巧みな組み合わせ、中々見ごたえのある映像でした。


2018年4月4日水曜日

「ウィトゲンシュタイン家の人びと 闘う家族」を読んで

アレクザンダー・ウォー著、2008年 塩原道緒訳、中央公論新社、2010
 私が名前だけ知っているウィトゲンシュタインという哲学者の名を冠したタイトルにひかれて読んでみました。ウィトゲンスタインは、ウィーンで生まれ、従来の哲学的方法を根底から否定し、新しい分析哲学に道を開いたとされますが、私にはほとんど分かりません。彼を高く評価していたイギリスの大哲学者バートランド・ラッセルがウィトゲンスタインの唯一の著書「論理哲学論考」に序文を書きますが、この序文を読んだウィトゲンスタインは、ラッセルが自分の哲学についてまったく理解していないことを知り、愕然としたそうです。ウィトゲンスタインの哲学が後世に与えた影響は絶大ですが、一般的には彼自身より、彼に関する突飛なエピソードの数々の方が有名です。例えば、大学の研究者になるより、小学校の教師や庭師になることを望んだ、などです。
ウィトゲンスタイン家はユダヤ人商人を祖先にもち、19世紀末のカールの時代に鉄鋼業で成功して大富豪となりました。そして本書はカールの9人の子供たちの物語で、哲学者ウィトゲンスタインはその末っ子です。この中で最も目立った存在は8人目のパウルで、ピアニストととなり、戦争で片腕を失ってからもピアニストを続けて、称賛されました。末っ子のルートウィヒは、頭がよいことは確かでしたが、当時はこの兄弟たちのなかでは、一番目立たない存在でした。
彼らが生きた時代は、ハプスブルク朝の帝都ウィーンの繁栄時代に始まり、二つの世界大戦を経験し、その間にハプスブルク朝の滅亡とナチスの支配を経験することになります。それはまさに激動の時代であり、特にユダヤ人にとっては困難の時代でした。そもそもウィトゲンスタイン家の人びとは、自分たちをユダヤ人だと考えていませんでした。ウィトゲンスタイン家は祖父の時代にキリスト教に改宗し、ユダヤ人以外の人との結婚も行われていました。ところが、1935年のニュルンベルク法によれば、ユダヤ人とは祖父母に少なくとも三人のユダヤ人がいる場合とされ、さらに祖父母がキリスト教に改宗していても、法律上ユダヤ人とみなされるということです
ウィトゲンスタイン家の人びとにとって、これはまさに青天の霹靂でした。この困難な時代にあって、ウィトゲンスタイン家の人びとは、それぞれの立場でそれぞれの闘いを進めていきます。天才哲学者ルートウィヒもその一人でした。