2018年5月23日水曜日

お知らせ

 このブログへのアクセス回数175千件に達し、投稿も400件を超えました。アクセス回数20万件、投稿数500件に達したら、ペースを落とそうと思っています。その前に、とりあえず少し休息したいと思います。最近は図書館で本を借りて読んでいるのですが、めっきり読書量が減ってしまいました。また、映画見放題にも挑戦していますが、無料お試し期間中に観るものがなくなってしまいそうです。ビデオも、そろそろ観るものがなくなってきました。

サクランボが初めて実をつけました。ただし3個だけです。















ミカンの花が満開です。ただし相当酸っぱいミカンです。













2018年5月19日土曜日

映画「厳戒武装指令」を観て

2002年にロシアで制作された映画で、チェチェン紛争を題材としています。ロシアの言論統制の下で制作された映画であるため、少し距離をおいて観る必要があるかもしれません。ただ、私自身チェチェン紛争の実態をまったく知りませんので、映画をそのまま紹介することしかできません。








チェチェンは、前回に観た「映画でコーカサスを観て」で述べたコーカサスの北部に位置し、1991年にソヴィエト連邦が崩壊した時、南コーカサスは独立を達成したのに対し、独立を認められませんでした。こうした中でチェチェンでは、独立派と反対派の内部対立が起き、それが2度のチェチェン戦争とテロリズムを生み出すことになります。
 1994年にロシア大統領エリツィンが4万の軍隊をチェチェンに派遣し、ここに第一次チェチェン紛争が勃発します。この紛争は1996年の協定で停戦が合意されますが、1999年にチェチェンの過激派が「大イスラーム国」建設を掲げて隣国に侵入し、さらにモスクワでテロが起きたため、プーチン首相は強力な指導力を発揮してチェチェンを制圧し、ここに第二次チェチェン戦争が勃発します。当時エリツィンの病状が悪化し、2000年にプーチンが大統領に就任しました。プーチンはチェチェン戦争とともに権力を拡大させていった人物だったのです。第二次チェチェン紛争ではテロが過激化し、2009年にロシア政府は一応紛争終結宣言を出しますが、テロは今も続いています。
 映画は、第二次チェチェン紛争を背景としており、制作者の意図ははっきりしませんが、紛争を色々な視点から描いており、観る人によって異なった感想を持つ人がいるでしょう。映画は、新しく軍隊に入隊したサーニャとウラジーミルとの友情から始まります。サーニャは孤児院で育ち、軍隊で人生のチャンスを得たいと考えており、ウラジーミルは大学入学直前に徴集されました。彼らには、「映画「アフガン」を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2016/10/blog-post_29.html)で見られた「国のために戦う」という意識はありませんでした。結局ウラジーミルは戦死し、サーニャはウラジーミルの遺体を家族の下に送り届けます。ウラジーミルの父は、1968年のプラハの春を弾圧するために派遣されました。彼は吐き捨てるように、「帝国主義を阻止するためにと言われたのに、実際には民主主義を抑圧しただけだった」と言います。人々は、もはや国家の戦争をそれ程単純には捉えられなくなっていました。サーニャたちも、結局はプーチンの権力欲のために利用されていたのかもしれません。
 一方、サーニャたちが所属する部隊の司令官は、彼らが戦うチェチェンのゲリラの隊長とソ連兵としてアフガニスタンで戦った戦友でおり、彼らもそれ程単純に憎しみ会うことはできませんでした。チェチェンのゲリラの側も複雑でした。彼らはロシア軍と正面から戦っても勝ち目はありませんでしたので、強盗・誘拐・身代金など、ほとんど盗賊集団のようになっていました。彼らを匿ってきた村人たちもうんざりしており、ゲリラたちに出て行くよう要求します。また国外の過激イスラーム組織が入り込み、チェチェンのゲリラは彼らに振り回されるようになります。チェチェンのゲリラも、決して単純ではありませんでした。
 この映画の最後に、「現在も未来も、祖国を守る者たちに捧ぐ」という字幕が映し出されます。この映画を観て、この字幕をどのように受け取るかは人によるでしょう。この映画の原題は、「前進 突撃」で、とりあえず前に進むしかない、ということでしょうか。

2018年5月16日水曜日

映画でグルジア(ジョージア)を観て

ジョージアを扱った映画を二本観ました。コーカサスの国ジョージアの自治州アブハジアを舞台とした映画です。なお、ジョージアはかつてロシア語でグルジアと呼ばれていましたが、ロシアと対立するグルジアの要請で、英語でジョージアと読むようになりました。このジョージアは、アメリカ合衆国のジョージア州とは語源的にも無関係です。











 コーカサスはコーカサス山脈を中心とする地域で、カスピ海と黒海との間にあって、交通の要衝であるため、古来多くの民族が往来し、混在し、混血し、新しい民族が形成され、さまざまな民族や勢力の支配を受けてきました。19世紀に入るとロシアが進出してロシア領となり、ロシア革命後はソヴィエト連邦内の自治共和国としてソ連邦に編入されました。ロシアの支配に対して各地で独立運動が起きますが弾圧され、特にジョージアは独裁者スターリンの出身地だったこともあって、厳しく弾圧されました。1991年にソヴィエト連邦が崩壊すると、南コーカサスでジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンが独立しますが、どの国も少数民族問題を抱え、さらに独立を認められなかった北コーカサスの諸民族が不満を強めています。その内でわが国でもよく知られているのがチェチェン問題ですが、ここではこの問題には深入りしません。なお2018年の大相撲初場所で優勝した栃ノ心は、このジョージア出身です。

ジョージアが抱える少数民族問題の一つは、南オセチア問題です。1991年にジョージアが独立したとき、オセチアの北部は北オセチア共和国としてロシア連邦に組み込まれ、南部は南オセチア自治州としてグルジアの支配下に置かれました。グルジアによる支配を嫌ったオセチアは、1993年に南オセチア共和国として独立を宣言し、ソ連がこれを支援して2008年に南オセチア共和国を承認すると、グルジア軍が南オセチアに侵入して、ソ連軍と交戦するといった事態に発展します。今日、南オセチア共和国を承認している国は、ロシアなど数か国にすぎませんが、ロシアの支援を受けたオセチアが事実上独立国となっています。





その他にもジョージアの少数民族問題として、アジャリアやアブハジアがありますが、この映画の舞台となったのはアブハジアです。アブハジアはジョージアの最西端に位置し、黒海北岸に面する温暖な土地で、柑橘類などの生産が行われています。アブハジアも、ジョージア独立後の1992年にジョージアからの独立を宣言し、1994年に停戦合意が成立するまで、厳しい戦闘が続きました。この間に多くの難民が国外に脱出し、さらに民族浄化まで行われたとされ、国土は荒廃し、人口は半減しました。2008年にオセチアでジョージア軍とロシア軍が戦闘を開始すると、アブハジア軍もジョージア軍と戦い、この年、ロシアはアブハジアの独立を承認しました。オセチア、アブハジア、アジャリアなどは、国際的には承認されていませんが、今日ジョージアの実行支配は及んでおらず、事実上独立国となっています。
映画は、このアブハジアでの戦乱を背景に描かれています。なお、2014年に冬季オリンピックが開催されたソチは、アブハジアの西端の国境に近く、紛争地域に近い上に、ロシアで最も温暖な土地でもあり、あえてここで冬季オリンピックを開催したのには、何かロシアの意図が働いていたように思われます。

 2013年に制作されたエストニアとの合作映画です。ジョージアのアズハジアに、エストニア人の移民の聚落があり、彼らはミカンの栽培で生計を立てていました。私は、ジョージアにエストニア人の移民が存在したことなど、まったく知りませんでした。最初の字幕に100年前に移民したとあるので、移民したのはロシア革命直前の帝政末期と思われます。当時ジョージアもエストニアもロシア領であり、同じ帝国内で移民があったとしても、不思議ではないかもしれません。多分寒冷なバルト海の国から、温暖な黒海沿岸に移住したのでしょう。
 しかし、戦争が始まってから、エストニア人たちはほとんど故郷に帰り、残っているのは医師と、ミカンを栽培しているマルゴスと、ミカンの箱を作っているイヴォという老人だけでした。医師はまもなく帰国し、マルゴスはミカンを収穫したら帰ろうと思っていました。ところがある日、マルゴスの家の前で戦闘が始まり、4人が死亡し、二人が重傷でした。マルゴスとイヴォは二人を家に連れてきて介抱します。
 負傷者のアフメドはチェチェンから来た傭兵で、チェチェン人がアルハジアの独立戦争を援助しているのも不思議です。チェチェンは、ロシアからの独立を目指してロシアと戦っている国ですが、そのチェチェン人がロシアの援助を受けているアルハジアのために戦っているわけです。その理由は、多分大国ジョージアに対する小国アルハジアへの共感だろうと思いますが、このあたりの複雑さにはついていけません。一方もう一人の負傷者ニカはジョージア人で、今やエストニア人とチェチェン人とジョージア人が、小さな家で共同生活を送るようになります。
当然、アフメドとニカが激しく対立しますが、イヴォは二人に殺しあうのは家を出てからにしろと厳命します。こうして不安定でも穏やかな生活が始まります。しかしやがてチェチェン軍がやって来て、戦闘が始まり、マルゴスとニカが死にます。この戦闘でアフメドは、この家族を守るために同胞であるチェチェン人と戦い、イヴォとともにマルゴスとニカを埋葬して、故郷に帰っていきます。その後イヴォがどうしたかは分かりません。多分そこに残ったのではないかと思います。彼は言います。「この土地を愛し、そして憎む」と。
なんという空しい戦争でしょうか。彼らが抱いていた民族的な憎しみは、お互いに顔を合わせて暮らしていれば、ほとんど根拠のない憎しみであることが分かります。映画は、そのことを淡々と語っているように思います。


 2014年に制作された、ジョージア、ドイツ、フランスなどの合作映画です。
 映画は、まず次の字幕から始まります。「コーカサス山脈から黒海へ注ぐテングリ川は、毎年春の本流で土砂を運び、中洲をつくる。そして農家は水浸しの土地を捨て、土壌が肥沃な新しい中洲へ移る。そこで春から秋にかけてとうもろこしを栽培し、長く厳しい冬を越すための食糧にする。」テングリといのはモンゴルの神で、この地は長くモンゴルの支配下にあったので、その名が残ったと思われますが、具体的にはその川がどこにあるのか知りません。
ストーリーは単純で、ある老人と15~16歳の孫娘が船で小さな中洲へやってきて、小さな小屋を建て、土地を耕し、とうもろこしの種を蒔き、やがて成長し、収穫期が近づいてきます。彼らは小屋に泊まったり、対岸のどこかにある家に帰ったりしています。セリフはほとんどなく、単調で穏やかに時が流れていきます。しかし時々兵士たちが乗った船が通過していき、さらに時々銃声が聞こえます。さらにある時、怪我をした兵士が現れ、二人は彼の手当てをします。この兵士がどちら側の人間なのか分かりませんが、そんなことは彼らには関係ありません。
いよいよとうもろこしの収穫が始まりますが、激しい嵐に見舞われ、かろうじて収穫したとうもろこしを船に乗せて持ち帰ります。そして中洲はいつものように水の中に沈みます。こうした日常的な生活の外で、人々は民族の違いを理由に憎しみをむき出しにして殺しあっているのです。空しいことです。

2018年5月12日土曜日

映画「アラビアの女王」を観て



2015年にアメリカで制作された映画で、無冠の砂漠の女王と呼ばれたイギリス女性ガートルード・ベルの半生を描いています。原題は「砂漠の女王」です。
古来、中東は東西交易の中継地として繁栄し、16世紀にはオスマン帝国がこの地域の大半を支配して繁栄しましたが、大航海時代以降、この地域の重要性はしだいに減少していきました。しかし19世紀にオスマン帝国が衰退すると、ヨーロッパ諸国が介入し、オスマン帝国はヨーロッパから見て東方問題とよばれる諸問題の舞台となります。そうした時代にあって、当時のヨーロッパの人々には中東の内陸部についての知識がありませんでした。そこで当時、外交官や旅行家や考古学者などが諜報員としてさまざまな情報を収拾していました。それは前に観た「「ザ・グレート・ゲーム」を読んで」 (http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2017/10/blog-post_18.html)の世界であり、その過程でシルクロードの存在が明らかとなるとともに、中東では古代オリエント文明の発掘も行われました。
こうした人々の一人に、後に「砂漠の女王」と呼ばれるようになるガートルード・ベルという女性が存在しました。彼女は1868年にイギリスの裕福な家庭に生まれ、オックスフォード大学で学び、弱冠二十歳で最優秀の成績で卒業します。彼女の高学歴が災いしてか結婚相手に恵まれず、1892年にペルシア公使である叔父を頼ってテヘランに向かい、以後彼女は旅と登山に熱中します。世界一周旅行を二度行い、シリアを旅して砂漠の魅力にとりつかれ、その著書「シリア縦断旅行」は、中東地域の情報源としても重視されました。なお、1911年のシリア旅行で彼女の案内役を務めたのが、後に述べる「アラビアのロレンス」です。

 第一次世界大戦が始まると、オスマン帝国はドイツの同盟国だったため、イギリスと交戦状態になります。そこでイギリスは、オスマン帝国支配下のアラブ人に反乱を起こさせることを計画し、1915年にカイロにアラブ局なる諜報機関を設立します。そしてこの機関にガートルードもロレンスも加わっていました。同じころイギリスは、メッカの名門ハーシム家のフサインに、オスマン帝国からの独立とアラブ人統一国家の樹立を約束し、アラブ人への支援を開始します。「アラブ反乱」の始まりです。












 ところが、この頃イギリスは、フランスやロシアとオスマン帝国領の分割を画策し、フランスにシリアを与えることを約束していたのです。シリア・イラク・ヨルダン地域には多数の少数民族や少数派が存在するとはいえ、比較的一体化されたアラブ世界です。この地域からシリアを切り離せば、イラクは多数派のシーア派を少数派のスンニ派が支配する国になってしまいます。ガートルードもロレンスも、この密約の存在を知らされていませんでしたが、ガートルードは結局母国の指示に従い、すでにダマスカスを占領していたフサインの次男ファイサルをイラク国王に、兄のアブドゥッラーをヨルダン国王としました。つまりガートルードはイラクとヨルダンの生みの母となりました。
 しかしイラクとシリアの分離は多くの問題を残し、それがシリアとイラクの統合を目指すイスラミック・ステートの論拠となりました。またロレンスはクルド人地区の分離を主張しましたが、ガートルートはこれを無視しました。とはいえ、多くの問題があるにしても、今日のこの地域の混乱の責任を彼女に追わせることはできません。そもそも問題なのは、帝国主義的な世界分割なのです。その後彼女は考古学に没頭し、1926年バグダードで睡眠薬の過剰摂取により死亡しました。58歳になる2日前でした。彼女の死が事故なのか自殺なのかははっきりしませんが、チェーンスモーカーだった彼女は末期癌だったという人もいます。

 映画では、彼女の政治的な活動より、砂漠の旅とベドウィンとの交流を中心に彼女の半生が淡々と語られています。まさに彼女は砂漠を愛し、アラブを愛し、男たちの中でただ一人の女として、凛として生きた女性でした。

1962年にイギリスで制作された映画で、実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いたアラブ反乱を描いた映画です。
ロレンスの経歴には、ガートルードと似たところがあります。彼は1888年にイギリスで生まれ、1907年にオックスフォード大学に入学し、1910年に最優秀の成績で卒業しますが、この間に長期間フランスを自転車旅行するとともに、レバノンで1600キロも徒歩で旅行しています。そして翌年、ガートルードと知己を得ます。ガートルードは43歳、ロレンスは23歳でした。
 その後彼はガートルードとともにアラブ局に配属され、諜報員としてハーシム家の王子ファイサルのもとに派遣されます。そして、ここから先は独断でろくに武装もされていないアラブ兵を率いて、アカバを攻撃し、さらにゲリラ戦を続けつつダマスカスを攻略します。この間、アメリカのジャーナリストがロレンスに張り付いて、全世界に彼の行動を英雄的に報道しましたので、彼は「アラビアのロレンス」として世界的な有名人となります。しかし、アラブの民族主義がこれ以上高まることはイギリスにとって不都合ですので、彼を大佐に昇進させて本国に帰国させます。中尉から始まり、数年で大佐にまで昇進したわけで、しかもまだ30歳になっていませんでした。
 戦後彼は、名前を偽って二等兵として空軍に入隊しようとしますが、身分がばれて入隊が認められませんでした。しかし彼の粘り勝ちで入隊が許され、インドでの勤務を許されます。除隊後の1935年にオートバイ事故で死亡します。46歳でした。軍隊における彼の評価は、協調性の欠如、博識、語学堪能などでした。またアラブ民族主義の象徴という評価がある一方、イギリス帝国主義の手先という評価もあります。
 200分を超えるこの映画は、事故で死亡したロレンスの葬儀から始まります。彼は大変な有名人でしたから、多くの人が葬儀に参列しましたが、ほとんどの人がロレンスとは何者なのかについて知りませんでした。もしかすると、ロレンス自身にも分かっていなかったのかもしれません。映画でアメリカのジャーナリストがロレンスに、あなたにとって砂漠とは何かと尋ねます。それに対してロレンスは「潔癖」と答えます。もしかするとロレンスは、潔癖症の偏屈な人物で、たまたま砂漠で戦うことになった2年間に、彼の全人生が凝縮してしまったのかもしれません。映画でときどき見せるロレンスの狂気のまなざしは、非常に印象的でした。

 なおイラク戦争については、このブログの「映画でイラク戦争を観て」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2018/01/blog-post_20.html)を参照して下さい。

2018年5月9日水曜日

映画「砂漠のライオン」を観て

1981年に制作されたリビア・アメリカ合作の映画で、ムッソリーニ時代のイタリアによるリビアの侵略に対して戦ったオマール・ムフタールを描いています。












リビアの歴史は古く、古代エジプト文明の形成にも関係しますが、7世紀以降イスラーム教化とアラブ化が進行し、16世紀にはオスマン帝国の支配下に入ります。19世紀にオスマン帝国が弱体化し、ヨーロッパ諸国が進出してくる中で、リビアにサヌーシ教団と呼ばれる神秘主義の教団が生まれ、1911年にイタリアが侵略したとき、激しく抵抗し、民衆の支持を得ます。1920年代にイタリアでムッソリーニが権力を握ると、ローマ帝国の再興を掲げてリビアへの侵略を本格化させます。サヌーシー教団の指導者ムハンマド・イドリースはエジプトに亡命しますが、オマル・ムフタールは内陸部で抵抗を続け、1931年に捕らえられ処刑されました。この映画は、このオマル・ムフタールの物語です。
 ムフタールは1862年に生まれ、大学を卒業後イマーム(指導者)としてコーランを教えていました。1911年イタリアとの戦争が始まると、彼も戦いに参加し、イドリースが亡命した後も戦い続けます。そして1929年に、ムッソリーニはイタリア軍で最も有能とされたグラツィアーニ将軍をリビアに派遣します。彼は、戦車と航空機、さらに毒ガスまで用いてムフタールを追い詰め、1931年に捕らえて絞首刑とします。映画は、ほぼ史実に忠実に描いていると思われます。
 第二次世界大戦後、エジプトに亡命していたイドリースが帰国し、1951年にリビア王国を建国します。リビア王国は豊かな産油国として発展しますが、それに伴う社会の激変と貧富の差の拡大などにより国民の不満が高まり、1969年にカダフィによるクーデターで倒されます。カダフィ政権は、国際社会の中で独自の存在感を示しますが、2011年に起きた反政府デモの混乱の中で射殺されます。カダフィをどのように評価すべきかは、まだ相当時間がかかるように思われますので、ここでは触れません。

 なお、この映画の制作にはカダフィが多額の資金を提供しており、彼の意向がこの映画にどの程度反映されているのか分かりませんが、少なくとも彼自身が倒したイドリースとサヌーシー教団については、あまり好意的には扱っていません。色々問題があるにしても、歴史アクションとして楽しく見ることができました。

2018年5月5日土曜日

映画「クイーン・オブ・エジプト」を観て


1995年にアメリカで制作された映画で、原題は「ソロモンとシバの女王」で、邦題の「エジプトの女王」は直補説関係がありません。「ソロモンとシバの女王」については、「映画で聖書を観る ソロモンとシバの女王(1959)(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/04/blog-post_3082.html)を参照して下さい。
 シバの女王については、旧約聖書に次のような記述があります。「シバの女王はソロモン王の知恵の噂を伝え聞くと、多くの随員を伴って、香料、大量の金、宝石などの贈り物をラクダで運び、難問を以って彼を試そうとエルサレムを訪問した。女王はソロモン王に数々の質問を浴びせるが、王に答えられないことは何も無かった。また、王の宮殿、食卓の料理、居並ぶ臣下、神殿の燔祭などの様子を目の当たりにした女王は感嘆し、ソロモンが仕える神を称え、金200キカル(1キカルは約34.2kgなので6.84t)と非常に多くの香料や宝石を贈った。ソロモン王も女王に対して贈り物をしたほか、彼女の望むものを与えた。こうして女王一行は故国に帰還した。」(ウイキペディア参照)ここで述べられるシバとはどこの国かはっきりしません。今日ではイエメンかエチオピアであろうと推測されています。また、シバの女王の名前も分かりません。いくつかの仮説がありますが、映画ではニカウレーという名前が用いられており、これはエチオピアの女王として仮定されている名前のようです。いずれにせよ、聖書の僅かな記述から、ソロモンとシバの女王の恋を中心に、さまざまな物語が創作されてきました。
 シバの女王がソロモン王を訪問したのは、乳香の貿易について話し合うことだったようです。乳香は非常に高価な香料で、エジプトではミイラの防腐剤として大量に使用され、さらにはるか中国や日本にまでもたらされました。乳香の産地であるエチオピアやイエメン方面は、その貿易によって非常に栄えていました。一方、ソロモン王は征服戦争や神殿の建設などで財政難に陥っていたため、シバの国を服属させて乳香貿易を独占しようと考えていました。小国シバは大国ヘブライ王国の軍事力には太刀打ちできませんので、シバの女王が多くの贈り物を携えてソロモン王を訪問したという分けです。なお、乳香については、このブログの「グローバル・ヒストリー 第7章 第7章 南アジアと海域世界 3.海域の形成」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.jp/2014/01/7.html)を参照して下さい。
 1959年版の「ソロモンとシバの女王」では、シバの女王をはじめとする出演者のほとんどが白人でしたが、この映画でシバの女王を演じた女優は、アフリカ系アメリカ人の混血だそうで、他の出演者もなんとなくセム人のような顔つきでした。アメリカが制作する映画ですので、出演者をすべて現地人にしろとは言いませんが、この映画のように、せめて主役くらいはそれらしい顔つきの俳優にすべきだと思います。まして、金髪の女優はまずいだろうと思います。
 映画はソロモンとシバの女王の恋、国民の不満、ソロモンの子を身ごもったシバの女王の帰国という、お馴染みのストーリーで展開します。1995年版は、1959年版のような派手な奇跡物語は一切なく、あたかも史実であるかのように二人の関係を描いていますが、もともと「ソロモンとシバの女王」の物語は想像上の産物なので、事実であるかのように描くことは意味がないように思います。私としては、1959年版の方が面白いと思いました。


2018年5月2日水曜日

映画「キング・オブ・エジプト」を観て


2016年にアメリカで制作された映画で、古代エジプトの神話を題材としたファンタジー・アクション映画です。原題は「エジプトの神々」です。
古代エジプトの神話は私たちにあまり馴染みがなく、少し調べたのですが、あまりに多様で全体像を把握しきれません。紀元前3千年以上前に、ナイル川流域にギリシア語でノモスと呼ばれる地域共同体が多数形成され、それらがおそらく別々の神話をもっていたはずであり、エジプトが政治的に統合された後も、それらの神々は新たに解釈されて生き残っていきます。したがって、個々の神に関して多数の解釈があり、それは地域や時代によって異なり、それを一言で述べるのは困難ですので、ここではこの映画に関する範囲内で、述べたいと思います。






世界各地の神話と同様に、古代エジプトの神話にも天地創造の神話があります。太陽と関わりのあるラー・アトゥム・アメンといった神々が天地を創造し、その時にその他の神々も生まれます。ラーの子オシリスは生産の神であり、エジプトの王でした。彼は知恵の神トートの力を借りて国を富ませたため、人々から慕われていました。しかし彼が王位を息子のホルスに譲ろうとした時、オシリスの弟セトが謀反を起こしてオシリスを殺害し、その際遺体はバラバラにしてナイル川に捨てられます。しかし、後に妹で妻でもあるイシスが体の各部を集めてミイラとして復活させ、以後オシリスは冥界の王として死者を裁くこととなります。一方、オシリスとイシスの子であるホルスは、父の仇であるセトを倒し、父の後を継いで現世の統治者となりました。後世、ファラオはホルスを模範として国を治め、「生けるホルス」の称号で呼ばれるようになります。
 映画は、ホルスとセトとの戦いを描きます。その際、ベッグという人間がホルスを助けます。ベッグは恋人ザヤをセトに殺されたため、ザヤを生き返らせるためホルスを助けるという設定です。ベッグは勇敢ですが、無謀な青年で、ほとんど運だけで生きているような青年です。彼はその運によって次々と危機を乗り切っていきます。映画によれば、神は人間の身長の1.5倍ほどあり、体に流れているのは血ではなくて黄金でした。その偉大な神がちっぽけな人間であるベッグに励まされ、助けられて、セトを倒して王になるという物語です。
 もちろんベッグやザヤはこの映画の創作であり、ストーリーがどこまで神話に忠実なのかはわかりません。ただ、多くの神々が登場し、古代エジプトの神話についてまったく知識のない私には、イメージをつくる上で、この映画は大変参考になりました。歴史的には妙な点が沢山ありましたが、そもそも題材が神話であり、それをファンタスティックに描いているわけですから、野暮な歴史考証はやめておきます。いずれにしても、荒唐無稽な映画ではありますが、大変楽しく観ることができました。