2019年10月30日水曜日

「サルタヒコの謎を解く」を読んで


藤井耕一郎著 河出書房新社 2015

 このところ私は日本古代史にはまっており、すでに何冊か紹介しましたが、私自身が内容を消化しきれない本が多く、ここで紹介していない本も多数あります。また最近では日本神話に関心をもち、何冊かの本を読んだのですが、私の基礎知識があまりに不足しすぎているため、消化しきれませんでした。でも折角読んだので、一冊だけ紹介しておきたいと思います。









 神話についての我々の第一の資料は「記紀」であり、「記紀」は神話を権力に都合よく捏造したものですから、本来の姿がどのようなものであったかを知らねばなりません。「記紀」では、ニニギ降臨の際にサルタヒコが道案内を行い、最後に伊勢の海で好物の貝を採ろうとして溺死しました。そのためサルタヒコは伊勢の椿大神社に奉られますが、私はこの神社に行ったことがあり、かなり荘厳な神社でした。この間に、サルタヒコについてのエピソードが各地で形成されますが、サルタヒコはその都度相当にことなる風貌や性格をもって登場します。それはあたかもヒンドゥー教の神々のようですが、本来神話の神々とは、こうしたものかも知れません。
 この本に先立って読んだ「大国主対物部氏」(藤井耕一郎)は、琵琶湖の東南にある「へそ」と「まがり」という地名を起点に、神話と現実世界の接点を描き出します。また、「隼人の古代史」(中村明蔵)についても、南九州は天孫降臨の地 高千穂のおひざ元なので、当然神話と深く結びついています。すでにこの地を支配したクマソはヤマトタケルに滅ぼされたし、隼人は海幸彦の子孫として「記紀」組み込まれています。
 ところで筆者によれば、神話に基づく古代史の研究は、非常に厄介な手続きが必要だそうです。「日本の古代史は、戦後に文献資料としての神話をばっさりと切り捨ててしまったこともあり、何か新しい問題提起をしようとすると、厄介な手続きを踏まねばなりません。まず最初に嘘か誠か判然としない「古事記」「日本書紀」に出てくる物語と登場人物をゼロの状態から説明し、それらの通俗的な解釈を示して理解してもらったうえで、今度はそれをひっくり返してしまうような作業が欠かせず、……そういう手順を踏みながら、「~かも知れない」という推論を積み重ね、できる限り簡潔な推論を進めていきたいところですが、むろん数学の照明のような論証は使えず、可能性の高さを主張しながら土台を固めていくしんありません。」そして、ここに歴史研究の醍醐味があるのだと思います。



2019年10月26日土曜日

映画「画家モリゾー マネの描いた美女」を観て

2012年にフランスで制作された映画で、印象派の画家マネの弟子にしてモデルでもあった女性画家モリゾを描いています。

フランスでは17世紀以来、新古典派の影響下にあるアカデミーが美術界を支配し、その公募展であるサロンが画家の登竜門として確立していました。アカデミーでは、古代ローマの美術を手本にして歴史や神話、聖書を描いた「歴史画」が高く評価され、理想美を描く画法がアカデミーの規範となっていました。しかし19世紀になると、その規範に従わない若い画家たちが次々に現れ始めました。歴史的事件に情熱的に感情移入するロマン主義、歴史ではなく現実をあるがままに描こうとする写実主義、自然の美しさに魅せられて戸外で制作するバルビゾン派などです。




それでも、画家として世に出るには、サロンで認められるしかありません。マネはサロンの伝統的な画法に批判的でしたが、サロンに出品し続け、一定の評価を得るようになっていました。それでも時々問題作を出品し、激しい非難を浴びました。例えば、1863年の「草上の昼食」では、着衣の紳士たちと裸婦が会話をしている場面を描いていますが、この女性は明らかに娼婦です。伝統絵画にも裸婦は描かれますが、それはニンフであり、理想の美でしたが、マネの裸婦はまさに生身の女性であり、伝統絵画では受け入れられないものでした。マネは激しく非難され、失望しましたが、この頃からモネ、ルノワール、ドガのような若い画家が彼を支持するようになり、この頃マネはモリゾと出会い、モデルになってくれるよう依頼し、以後二人の関係が続きます。
 モリゾの母は画家を目指していましたが、結局結婚して出産し、画家となることをあきらめました。姉も画家を目指していましたが、やはり結婚して家庭に入る道を選びました。人は男女を問わず、何かを成し遂げようとするとき、多くのものを捨てなければなりません。しかし女性はまず、「女性は家庭人でなければならない」という固定観念と戦わねばならず、結婚すれば出産と育児という大事業が待ち構えており、画家という仕事と両立させることは容易ではありません。モリゾも30歳を過ぎたころ、画家を諦めようかとも思いましたが、結局マネの弟と結婚し、夫の理解を得て家庭生活と画家の仕事を両立させました。

 映画はモリゾと家族やマネとの関係を中心に、モリゾが画家として、また女性として成長していく過程を淡々と描いています。モリゾとマネとの関係は、はっきりしません。映画では、お互いに意識し合ったこともあったようですが、マネには妻がおり、また梅毒を患っていたこともあって、二人の関係は発展しなかったようです。それより私には、サロン派の人々とマネとの関係の方に関心がありました。マネは、サロン派の厳しい批判に苦しみつつも、サロンへの出品を続け、印象派の若手たちからリーダーのように思われていましたが、最後までサロンを去ることはありませんでした。ただ、マネが新しい絵画の風潮に突破口を開いたのは、間違いがありません。

2019年10月23日水曜日

「〈新〉弥生時代」を読んで

藤尾慎一郎著 2011年 吉川弘文館
 弥生時代は、紀元前5世紀に始まるとされてきましたが、21世紀に入って放射性炭素年代測定により、弥生時代の始期が500年早まることになりました。私は、DNAとか放射性炭素年代測定というような「科学的」手法は、私自身があまり理解できていないというコンプレックスもあって、あまり好きではありません。何だか、歴史学という土俵に突然ずかずかと上がり込み、新事実を突きつけ、私たちはそれにひれ伏すしかありません。
 弥生時代の始期が500年早まったため、やっかいな問題がおきてきました。まず、これによって縄文時代と重なる時代が生まれたということです。これについては、私はこの程度の重なりは当然だと思います。王朝や国家の交代とは違い、社会には長い移行期があって当然です。移行過程は地域によって異なるでしょうし、時には縄文人と弥生人が混在していたとしても、それ程不思議には思えません。かつてはネアンデルタール人とクロマニョン人が混在していた時代があったし、現在でもアナログ人間とデジタル人間が混在しているわけですから。

また、弥生時代の始期が早まったことで、従来の弥生=稲作=鉄器という図式が壊れてしまいました。しかしこうした図式そのものを、考え直す必要があるように思います。もちろん考古学には長い論争の過程があり、私のようなド素人がいい加減なことを言うことは慎まねばなりません。それにしても、縄文時代はおっとりとしていましたが、弥生時代になって、急に忙しなくなってきたような気がします。

2019年10月19日土曜日

イラン映画「ダマスカス」を観て

2018年にイランで制作された映画で、イランが深く関わったシリア内戦について扱っています。イランで制作された映画については、このブログで大変叙情的な「映画でイスラーム世界を観る:ハーフェズ/ ペルシャの詩」(http://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/06/blog-post_8.html)や「わが故郷の歌」「亀も空を飛ぶ」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2014/01/blog-post_494.html)を紹介しましたが、今回の映画は戦争アクション映画です。






 映画の舞台の一つダマスカスは、ユーフラテス川からシリア砂漠を超えて地中海に至る交易路の重要な中継地であり、紀元前3千年頃から都市建設が始まり、その後様々な勢力の支配下に入りますが、その間にもダマスカスは生き残り、現存する最古の都市とされています。もう一つの舞台であるパルミラは、シリア砂漠にある交易の中継地で、前1世紀から3世紀にかけて繁栄し、シリア内戦以前には、世界遺産として多くの観光客が訪れています。映画は、イラン軍のパイロットが、シリア内戦の真っただ中で、パルミラのシリア人をダマスカスに飛行機で輸送する過程を描いています。
シリア内戦について、2011年に始まり、今日終わったと言えるのかどうかも分かりません。そもそもこの戦争を「シリア内戦」と呼んでいいかどうかも分かりませんが、ここでは便宜上そう呼ぶことにします。シリアの歴史を「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる時代まで遡るのは止めておきます。20世紀初頭には、この一帯はオスマン帝国領だったのですが、第一次世界大戦後にイギリスとフランスにより分割され、人為的に国家が形成されたため、民族的・宗教・宗派的・政治的に複雑な国家が形成されことになりました。詳細を省きますが、その後さまざまな政治的な混乱の後に、1970年代からアサド親子による独裁政治が続き、民衆の不満が高まっていました。またアサド親子はシーア派に近いアラウィー派であったことから、多数派のスンニ派の反発も強まります。

 きっかけは2010年からアラブ世界各地で起きた「アラブの春」と呼ばれる反政府デモで、このデモは2011年にシリアにでも波及し、これをきっかけに反体制武装組織と政府軍との間に内戦が勃発しました。ところが、反体制武装勢力が分裂すると、スンニ派イスラーム教の過激派が2014年にイスラーム国ISの建設を宣言し、シリアからイラクを席巻して一大勢力に発展します。これに少数民族問題も加わり、さらに外国が介入して、シリア情勢は収拾不能に陥ります。こうした中で、イランが介入してくるわけです。

 イランはイスラーム世界では少数派のシーア派を採用しているため、他のイスラーム世界からは孤立していますが、他のイスラーム世界に散在するシーア派勢力を支援して、イスラーム世界全体に大きな影響を与えています。イランは1980年代にレバノンでヒズボラの設立を支援し、イラク戦争ではシーア民兵をイラクに送り込み、シリア内戦ではアサド政権を援助しました。その結果イランはペルシア湾から地中海東岸に達する「シーア派の三日月地帯(シーア派の弧)」を形成しています。シリアのアサド政権がISとの戦いで優勢になれたのは、主としてロシアとイランによる支援が大きいとされ、イスラーム世界でのイランの存在感はますます大きくなっています。
 この映画の主人公は、アリというイラン軍のパイロットで、シリアでISに包囲されて孤立した地域に物資を運ぶ仕事をしていました。彼の父もパイロットで、今では司令官でしたが、彼はイラン・イラク戦争、ボスニア紛争、イラク戦争、レバノン内戦、シリア内戦に参戦し、イラン革命後のイランのほとんどの戦争に参戦し、家で暮らすことがほとんどありませんでした。アリはそんな父に憧れ、父とともにシリアでの最後の任務に就きます。それはパルミラに残っている住民を、輸送機でダマスカスに移送することです。ところが住民の中にISのメンバーが紛れており、彼らは輸送機をハイジャックし、ダマスカスに墜落させようとしました。その後いろいろあって、結局アリは、父や住民の命を助けた後、飛行機を爆破して死んでいきます。
 この映画は、前に紹介したイラン映画とはまったく趣が異なり、まるでアメリカのアクション映画を観ているようでした。イランもこういう映画を制作するのだと感心するとともに、イラン人とアメリカ人は案外気が合うのかもしれないと、変なことに感心していました。ただ、これがアメリカ映画なら、最後に主人公も助かってハッピー・エンドとなったかもしれませんが、イラン映画では主人公が殉教して終わりました。

 この映画の内容は、戦争アクション映画によくある内容ではありますが、実際にISと戦ったイラン兵士たちの物語であり、おそらく、シリア内戦について扱った最も新しい映画だと思いますので、大変興味深く観ることができました。

2019年10月16日水曜日

「つくられた縄文時代」を読んで

山田康弘著 2015年 新潮選書
 「つくられた縄文時代」というタイトルに引かれて、また「縄文時代」を読んでしまいました。私はこの本のタイトルを見た時、縄文時代という時代概念はでっちあげで、縄文時代という時代は存在しないのだ、と主張しているのだと思い、この本に関心を抱いたのです。
 しかし本書の内容は、私の予想とはまったく異なっていました。本書の主張は、縄文時代という歴史概念は、基本的には戦後生まれたものであり、戦後新しい日本史を生みだしていく過程で、縄文時代の概念が育まれていった、というものです。それなら納得なのですが、ただ私たちが知っている歴史とは、すべてこういうものではないかとおもいます。われわれは様々な証拠をもとに歴史を再構成し、時にはまったく新しい歴史像を生み出すこともあります。その意味で、すべての歴史は「つくられた」ものといえるだろうと思います。例えば今日では、世界的に「近世」という言葉が用いられますが、それはかなり最近のことであり、それ以前には「近世人」なるものは存在しなかったと言えるでしょう。
 とはいえ、本書では縄文時代の研究史、縄文時代が「つくられる」過程が詳しく述べられており、私には大変参考となる内容でした。

2019年10月12日土曜日

映画「スターリンの葬送狂騒曲」を観て

 2017年にイギリスとフランスによって制作された映画で、1953年におけるスターリンの死から葬式までのドタバタを、コメディ・タッチで描いていますが、私には幾分不快な映画でした。なお、原題は「スターリンの死」です。
 スターリンについては、どのような言葉をもってしても適切に表現できないので、ウイキペディアの説明をそのまま引用します。「ウラジーミル・レーニンの死後、スターリンは権力を自身の手に集中させ、ソ連の急速な社会主義化を推し進めた。国際的には、資本主義国であるアメリカやイギリス、ファシズム国家であるナチス・ドイツや大日本帝国などソ連と対立する国々に囲まれており、ソ連は内外に緊張を抱えていた。こうした状況のなかで、スターリンは強権的・独裁的な政治体制を作りあげ、大粛清によって数百万人におよぶ国民・党員・外国人が政治犯として逮捕され、処刑されるかシベリアをはじめ各地の政治犯強制収容所で強制労働に従事させられた[1]。こうした政治は、「社会主義の建設が進めば進むほど、帝国主義に援助された"内部の敵"の反抗も激烈になる」という、いわゆる「階級闘争激化論」によって正当化された。」
 195331日スターリンは、首相マレンコフ、第一副首相ベリヤ、国防省ブルガーニン、党中央委員会筆頭書記フルシチョフとともに徹夜で会食を行い、その後寝室に入って、そこで脳卒中の発作で倒れました。スターリンは朝になっても起きてこず、眠りを妨げて怒りを買うのを恐れた警備責任者は放置し、気づいたのは午後になってからでした。倒れているスターリンが発見され時、彼は昏睡状態にあり、5日に危篤状態に陥り、死亡しました。74歳でした。翌日彼の遺体は、市民に公開され、多くの市民が参拝しました。
 当然のことながら、この間スターリンの後継者を巡って暗闘が繰り広げられ、映画はこれをブラック・ユーモアで描いているのですが、内容が凄まじすぎて全然ユーモアになっていません。ブラック・ユーモアにも何か救いが必要だと思うのですが、ただソ連の権力闘争を揶揄するのみです。この映画がロシアで制作されたなら、自虐ネタとしてそれなりに意味があるかもしれませんが、ソ連の敵だったイギリス人やフランス人が制作しても、ブラック・ユーモアになっていません。この映画の制作者は、まずチャーチルやド・ゴールをブラック・ユーモアで描くべきです。
 なお、ベリヤは195312月に処刑され、1956年にはフルシチョフの実権が確立、57年にマレンコフとブルガーニンがフルシチョフの失脚を図って失敗し、失脚します。












2019年10月9日水曜日

「縄文人の植物利用」を読んで

工藤雄一郎/国立歴史民俗博物館編 新泉社 2014
 また縄文人に関する本を読んでしまいました。どうやら私も縄文人のファンになってしまったようです。ただし、縄文人に関する私の知識は、高校日本史の域を出ず、偏見の塊であり、今回も偏見を修正せざるを得ませんでした。
 一般に狩猟採取の民は食物を求めて移動を繰り返し、穀物栽培つまり農耕の開始によりより定住し、文明の時代に入るとされます。確かに縄文人は穀物栽培をしませんでしたが、定住し、衣料用のアサを栽培し、食用のダイズなどを栽培しました。しかも大豆は保存ができるため、穀物に匹敵する作物のように思います。さらクリやトチノキなどの樹木も栽培され、食用や建築資材として用いられ、またウルシも栽培され、漆の技術も相当発達していました。
 おそらく、ほとんどの人が何らかの偏見をもっており、偏見の多くは無知のため生まれるものですが、このような偏見を克服するには、絶えまない努力が必要です。偏見はごく日常的なことにも存在しますが、ここでの偏見は農耕=穀物=文明という、長く積み重ねられてきた偏見です。縄文人の文明は、もはやこのような偏見が通用しないことを示しています。また鉄器と文明の発展についても、古代アメリカ文明は鉄器なしでもあれ程の文明が発展しうることを示しています。中国は鉄器の普及がかなり遅れますが、その理由は青銅器の製造技術が極限状態にまで発展し、下手な鉄器より青銅器の方が優れていたからだそうです。
 あらゆる問題について、私たちは固定観念にとらわれないよう、不断の努力が必要だと思い知らされます。

2019年10月5日土曜日

映画「チューリップ・フィーバー」を観て

2017年にアメリカ・イギリスの合作で制作された映画で、フェルメールの絵画の着想をもとに、17世紀のオランダで起きたチューリップ狂時代を背景に、二組の恋の物語が描かれています。

 チューリップは中近東に原生する百合科植物で、ラーレと呼ばれ、オスマン帝国の宮廷で愛好されていました。16世紀にオーストリアの大使がオスマン帝国からこの花をヨーロッパにもたらしますが、その際花の名前がチュルバン(ターバン)と誤って伝えせれ、その結果ヨーロッパではこの花はチューリップと呼ばれるようになったそうです。






チューリップは、ヨーロッパのどのタイプの花とも異なり、その美しさが人々を魅了しますが、種から栽培すると712年かかるため、球根が高値で取引されるようになりなりました。17世紀初頭、ちょうどオランダの経済が急成長しつつあったころ、オランダの商品市場でチューリプの球根の取引が急成長しました。特にまだら模様など珍しい花を咲かせる球根には異常な高値がつきましたが、今日ではこのようなチューリプは球根がウィルスに感染してできるものだということが分かっています。このような球根は、実際の商品価値からかけは離れたデリバティブ=派生商品であり、このような経済の活況はバブルです。多くの人が 球根に投資し、大きな利益をあげる人がいると同時に、破産する人もいました。そして1637年、突然バブルは崩壊します。映画は、こうした時代背景のもとで、進行します。
 この映画の背景は、17世紀前半のアムステルダムで、主人公のソフィアは修道院で育ち、富裕な年配の商人の求めに応じて結婚します。彼女は夫を愛していませんでしたが、自分を貧困から救ってくれた夫に恩義を感じ、夫は美しい妻に誇りを感じていました。夫はヤンという若い絵描きに夫婦の肖像画を書かせますが、やがてソフィアとヤンが恋に落ちます。ストーリーはありきたりのものですが、話の過程でチューリップの球根の取引がおこなわれたり、召使の恋が絡んだりします。
この映画は、フェルメール的な映像を再現することを目指しているそうで、ソフィアは「真珠の耳飾りの少女」を連想させるし、ヤンはフェルメール自信を連想させ、大変興味深く観ることができました。なおフェルメールについては「映画でオランダの二人の画家を観て 真珠の耳飾りの少女」(https://sekaisi-syoyou.blogspot.com/2015/10/blog-post_24.html)を参照して下さい。



2019年10月2日水曜日

「列島の考古学 旧石器時代」を読んで

堤隆著、河出書房出版社、2011
 先史時代についての本を読むのは久しぶりで、多分本書は入門書的な本だと思いますが、それでも私にとっては新鮮でした。旧石器時代を扱う考古学は大変地味な仕事で、1万年以上前に堆積した土を掘り、ひたすら石を探します。掘り出した石については、専門家が見ても、道具なのか単なる石なのか、判断できないこともあるようです。「多用されていたであろう木や骨は、1万年という気の遠くなる期間その姿すら消し去っている。私たちは、ほぼ石という手がかりのみから、過去の人間や社会の姿を描かねばならない。時々は絶望感すら覚えることがある。」
 2000年に一アマチュア考古学研究家による旧石器ねつ造事件が発覚し、大騒ぎになりました。日本の旧石器時代は、彼の発見により数十万年前まで遡ることができるとされ、それは教科書にも記載されていました。私はこの事件を知った時、プロの考古学者がこれ程簡単に騙されてしまうものだろうかと、不思議に思いました。しかし本書を読むと、当時の考古学者たちの気持ちが理解できるように思いました。当時、日本の旧石器時代は4万年前までしか遡れず、考古学会は手詰まり状態あったようで、多くの研究者たちは新しい発見に餓えていたようです。この発見で、一気に数十万年まで遡ることができたとしたら、それは画期的なことです。また、多くは発掘者が捏造などするはずがないという性善説にも立っていました。もちろんこれに疑いを持つ人たちもいたようですが、多くの人たちがこの新発見に無批判に飛びついてしまったようです。
 前にもどこかで触れましたが、発掘は宝物探しではなく、何も発掘されなければ、何もなかったという事実が残るわけです。著者を含めて多くの考古学者たちがこの事件をきっかけに猛省し、考古学資料のより厳密の精査を心掛けるようになったそうです。その意味で、この事件は日本の考古学に良い結果をもたらしたと言えるかもしれません。